夏の夜、8時ごろに東の空を見上げると、3つの明るい星が見られる。それらの星を線で結ぶと大きな三角形ができます。これを「夏の大三角形」といいます。ベガは織り姫、アルタイルは彦星にあたります。これらの星は7月7日ごろに一番よく見えることから、七夕の言い伝えが始まりました。
七夕伝説とはどんな話か
「七夕」というのは、織り姫と彦星が、1年に一度、7月7日に天の川を渡って逢瀬を交わすという星を祀る行事です。この話の由来は、中国最古の詩集「詩経」にあります。日本でいう織り姫の「織女」と彦星の「牽牛」が初めて登場します。その後中国の六朝時代の詩集「文選」の「古詩十九首」になって、悲恋の要素が加わりましたが、まだ7月7日との関わりは明らかではありません。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説がはっきりと関連づけられています。また六朝・梁代の殷芸殷芸が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となりました。7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭りは、唐の玄宗のときは特に盛んだったと伝わっています。
中国での織女は、天帝という神の娘で天の川の西岸に住み、神 々の着物を折るのが仕事でした。恋人も作らず懸命に働く姿を見た天帝は、天の川の東岸に暮らす真面目な「牽牛」を引き合わせました。二人はやがて結婚するのですが、その後二人は楽しさのあまり働かず、遊んでばかりになりました。そのせいで、神々の着物はぼろぼろになり、牛は病気になってしまいました。怒った天帝は、二人を天の川の対岸に引き離しました。すると今度は、悲しさのあまりすっかり元気をなくして、さらに働かなくなってしまいました。そんな2人を見かね、天帝は働くことを条件に7月7日を年に1度だけ会える日として許したのでした。カササギの翼に乗って天の川を渡るとされています。
七夕祭の歴史
この話が日本に伝わったのは、奈良時代のことでした。乞巧奠乞巧奠という行事が宮中で行われ、貴族の間で「芸事の上達」を願って星を眺めたり、詩歌を楽しみながら。供え物をしたり、里芋の葉にたまった夜露を集めて墨を摺摺って、「梶の葉」に歌を書いていたそうです。清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれ ぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針の穴を貫きました 。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が会うことを祈りました。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。二星会合(織女と牽牛が会うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。これが現在の笹飾りの元になったといわれています。梶の葉は、1枚が手のひらほどの大きさで、紙が貴重品だった時代には、大きくて字の書きやすい梶の葉が重宝がられたようでした。ちなみに、里芋の葉の露を使うのは、それが天の川の滴滴だと考えられていたためでした。
江戸時代には「七夕七夕の節句」として、五節句の一つに数えられ、幕府の公式行事となり、祝日とされたこともあって、庶民の間にも広まっていきました。その当時には、天の神が降り立つ目印として、家の屋根の上に笹竹を立てていました。「神を迎える」「災厄を水に流す」などの意味があったのです。
その笹竹には、詩歌や文芸の上達を願った短冊や切り紙細工など、色とりどりのものが飾られました。ちなみに短冊は、基本的に五色でした。かつては五色の「糸」が飾られていましたが、江戸時代に短冊に変わりました。その五色というのは、この世のすべてのものを作り出すと古代の中国で考えられた陰陽五行説による「木・火・土・金・水」に対応する「青・赤・着・白・黒(紫)」で、魔除けの意味を持っていたということです。
庶民の間で、笹飾りとして飾られたものは、短冊を含めて七種類でした。これを「七飾り」といいます。これは、
(1) 短冊・・・詩歌や願い事を書き、学問や初、文芸の上 達を願う。
(2) 折り鶴・・・健康長寿や家内安全を願う。
(3) 吹き流し・・・織り姫の織り糸を表し、裁縫の上達を 願う。
(4) 投網・・・魚を捕る網を表し、大漁を願う。
(5) 神衣神衣・・・紙を着物の形に折ったもので、「神御衣神御衣」に通じ、裁縫の上達を願う。
(6) 巾着巾着・・・紙を巾着の形に折ったもので、蓄財を願うと共に、口をしっかりと閉めて、無駄遣いを戒
めている。
(7) 屑籠屑籠・・・七飾りを作った際の紙くずを入れる、紙で作った篭篭。倹約の心を育てる。
最初は貴族が和歌を綴って吊るしていたものが庶民にも広がり、勉学や習い事の上達を祈願するなど現在の願い事を書く風習につながっていったのです。
「たなばた」の語源
なぜ中国での「シチセキ」が日本では「タナバタ」と呼ばれたのでしょうか。実は、日本にも現在の七夕行事に結びつく、「棚機女棚機女」という伝承がありました。これは「棚機女」と呼ばれる乙女が、水辺の「織屋織屋」で神のための着物を織って供え、豊作を祈るというものでした。中国伝来の七夕伝説が、この機織女の伝説と融合し、「七夕七夕」の漢字に、和語の「たなばた」が当てられたということでした。
願い事を短冊に書いて吊吊すことも、中国の「乞巧奠」で、織女にあやかり機織りや裁縫の上達を願う行事であったことを引き継いだものでした。7月7日に、庭先に祭壇を設け、針や五色の糸を供え、星に祈りを捧げるものでした。後世には書道なども加わり、「芸事」全体の上達を願う行事に変わっていったのでした。
なお、「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折折に詠詠まれた歌にある「淤登多那婆多淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原葦原中国平定平定の1書第1にある「乙登多奈乙登多奈婆多婆多」また、お盆の精霊棚精霊棚とその幡幡から棚幡棚幡といわれたことにあるといいます。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏纏わる歌が存在します。
さらに、江戸時代の文献には牽牛牽牛織女織女の二星が、それぞれ耕作耕作及び蚕織蚕織を司司るため、それらに因因んだ種物種物・機物機物という語が「たなばた」の由来となったとする節も記されています。
七夕を祝う食べ物
こうした七夕の日につきものの食べ物として、素麺素麺があります。これは、昔から中国では、病を避けるまじないとして、七夕に「索餅索餅」と呼ばれる、小麦粉などを練って紐状紐状にしたものが食べられていました。これが変化して素麺が作られたと言われています。七夕に素麺を食べることは、江戸時代には広く庶民の間に広まっていたと言われています。公式の節句とした徳川幕府では、将軍の七夕の祝い膳にも素麺が出されましたので、庶民の間でも贈答品として出回り、浸透していったようです。
庶民に広まったもう一つの理由
七夕には水が深く関係しています。また、お盆前のお清めにも関係しています。
旧暦のお盆は7月15日頃なので、その一週間前である7月7日頃はちょうどお盆の準備をする頃になります。そのため、お盆に併せて身を清めたり、梅雨どきにたまった井戸の底の泥を取り除いたりなどして、不浄を清める風習がありました。これは、現在もお墓掃を掃除したり、仏具を洗ったりする「七日盆」という習わしが残っています。
さらに、地域にもよりますが、昔は盆踊りの際に手に笹を持って踊る風習がありました。笹は先祖の魂の依依り代代とされ、踊り手たちが笹を振れば先祖が帰ってくると言いわれていました。七夕に使う道具はお盆と深い関係があったわけです。竹に飾るのは、どこまでも真っ直ぐに伸び、丈夫で不思議な力を持つとされるからだったのです。
執筆日 2023年6月19日(月) (June19th・皐月2日)