「山びこ学校」に学ぶ

はじめに

 敗戦直後から、戦前とは180度違った価値が、次々と提示され、未消化な部分も含めて民主主義国家の様相が調い始めた。とはいえ、理念で飯は食えず、すべての国民が敗戦による価値の崩壊と瓦礫だらけの貧困という、まさに夢も希望もない現実に直面していた。山形県の片田舎に、師範学校を卒業したばかりの無着成恭が赴任したのはそんな時代だったのである。特別に何か教育理念を学んできた訳ではない。かといって教科書に書かれていることは、理想的ではあるがあまりにも現実離れしていて、教える側自身がからしらけてしまう。現代の教育にも問題は数限りなくあるが、当時の状況はその比ではない。なにしろ、無著が受け持った「中学生」44人のうち、満足に自分の名前が書けない者が6人もいたという学力状態である。校舎は茅葺きで、教室は暗く、破れた障子から吹雪が吹き込んでくるような環境で、地図一枚、理科の実験道具のひとかけらもないといった設備状態だったという。貧困家庭ばかりの村では、中学生にまで育った子供は労働力の担い手や子守、炊事炊飯などの一人前の労働力として期待され、学校へ通うこと自体が親の目を気にしながらであったという。それなのに教科書には「村には普通小学校と中学校がある。この九年間は義務教育であるから、村で学校を建てて、村に住む子供達を立派に教育する設備が整えられている」と書かれていたという。実際の姿とはかけ離れているのだ。それをそのまま読んで教えたとしたら、相当に面の皮の厚い恥知らずか、悪意に満ちた偽善者でしかないだろう。常人の神経ではとても出来ないことである。教科書を朗読するだけで、教師とは「平気で嘘を教える人」と思われてしまう。アメリカからのコアカリキュラムとして導入された商店などのごっこ遊びは、店などほとんどない片田舎の村の生活とはかけ離れたもので、とても教材にはならなかったのである。

 そんな中で生み出されたのが、無着成恭による「山びこ学校」である。それは寒川通夫が刊行した教え子の詩集「山芋」と並んで、戦後民主主義の典型として進むべき道を指し示しすものであった。無着成恭という、師範学校を出たてで、綴り方の指導などに全く無知な若者が、なぜ一世を風靡する教育実践を成し遂げることが出来たのか。しかもそれが一時的な高揚をもたらし、今なお伝説として語り継がれているにも拘わらず、その後急速に萎んでしまい、当事者の無着成恭自身も復活を目ざすどころか、語ることを控えてしまったかのはなぜなのだろうか。

 「山びこ学校」は実に不思議で謎に包まれた様相を呈している。それらについてもどうなっているのか考えてみる必要がある。しかし、これほどの謎が、現役の若い先生方には、どのように認知されているのだろうか。ほとんど知られていないどころか、もしかすると名前を聞いたことさえないという方も少なくないかもしれない。歴史に埋没した遺産は、ほかにも数々あるが、そうした失われた遺産の中でも、途方もなく残念なものの一つである。

 そこで、「山びこ学校」がどのようなものであったのかを是非見きたい。というのも、「山びこ学校」というのは名前は聞いたことがあるという先生にしても、せいぜいその評判を聞いただけで、その内容は全くといっていい程知らない、という人の方が多いように思われるからである。良きにつけ悪しきにつけ「伝説」は「実体」とはかけ離れた「化け物」と云う印象で記憶されてしまいがちだからである。「いやそんなことはない」といわれることを期待しているが、そもそも「北方系の生活綴り方」の代表的な指導者の一人であり、「やまびこ学校」という生徒の作文集を刊行した無着が、「国語の教師」ではなく「社会科の教師」だと云うことにさえ「意外」に感じす人も少なくないのではなからおうか。「やまびこ学校」は国語の作文指導の成果などではなく、社会科で自分たちの生活現実を凝視した成果だというのが基本中の基本であるにもかかわらず、である。

「山びこ学校」の内容

 そこで次には、「山びこ学校」の内容を概観したいと思う。そのためには、実物を全部読んでもらうのが一番いい(現在でも、岩波文庫版は手に入りやすい)に決まっているし、この実践記録をどう思うかは自分自身で読んだ後に、考え、判断するのがいいに決まっている。しかし、原典がなかなか手に入らなかったり、教育に携わる以上是非触れて欲しい作品は「山びこ学校」だけではないため、そのすべてについて全編読破するには時間がかかりすぎるので、要約をして紹介することにした。もちろん「要約」したものは要約した者の考えが色濃く反映してしまうことには注意が必要である。「おや?」と思ったら原典に当たることを忘れないで欲しい。その次には、「山びこ学校」がどのようにして成立したのかを辿ることとする。さらに次には、そうして成立した「山びこ学校」に対する評価がどのように変わっていったのかを辿ってみることとする。なお、最後には「やまびこ学校」に関連する作品も紹介しておくこととした。

 「山びこ学校」の場合は、これに触発されて生み出された実践記録として、相川日出男『新しい地歴教育』(1954年)、土田茂範『村の一年生』(1955年)、小西健二郎『学級革命』(1955年)佐々木賢太郎『体育の子』(1956年)、野名竜二『かえるの学級』(1956年)、大関松太郎詩集『山芋』(講談社文庫)などが挙げられる。また「山びこ学校」の著者自身の作品として、「無着成恭の昭和教育論」(太郎次郎エディタス)、「無着成恭-ぼくの青春時代」(日本図書センター)、「無着成恭の詩の授業」(太郎次郎エディタス)、「おっぱい教育論」(どう出版)、「ヘソの詩」(毎日新聞出版)、「『狂い』の説法」(ぶんか社)「時代の流れ、子供の眼」(まりか新書)「続山びこ学校」(むぎ書房)が挙げられる。

 さらに「山びこ学校」の教え子に当たる人々の作品として、「遠い『山びこ』・無著先生との40年」(新潮文庫)「山びこ学校物語」(清流出版)、「ずぶん(自分)のあだま(頭)で考えろ」(本の和泉社)、「無著先生との12年戦争・ドキュメント明星学園」(21世紀ブックス)、「底流からの証言」(筑摩書房)、「まぼろしの村〈1〉~〈5〉」(晩声社)、「村にいる;新しい文化を創る」(ダイヤモンド社)、「私が農業をやめない理由」(ダイヤモンド社)、「農家のくらし」(ポプラ社)、「村からの視角」(ダイヤモンド社)、「25歳になりました」(百合出版)、「どろんこの青春」(ポプラ社)、「根に挑む」、「村の腹立ち日記」(ダイヤモンド社)が挙げられる。

 さて、「山びこ学校」自体は、版を重ね、改訂されるなどして、概ね次の通り出版されている。

①1951年 青土社発行

②1956年 百合出版発行

③1966年 ②の増補版

④1969年 角川書店発行

⑤1970年 ①の増補版

⑥1995年 岩波文庫版

この「山びこ学校」の原点は、学級通信「きかんしゃ」である。それを単行本にするに当たって、作品の選択を行って編集したものだ。当初無着は「雪の子の記録」という名を考えていたらしい。これに対して、出版に尽力した編集者の野口肇が、無着の地声の大きさから「山びこ」を連想し、「山びこ教室」という案を出したらしい。そこにさらに編集者の沢恵太郎が、「山びこ教室」ではやや印象が弱いと感じて、当時朝日新聞に連載されて人気を博していた獅子文楽の「自由学校」を参考にして「山びこ学校」の名を提案し、それに決定したといういきさつがあったそうだ。

 「山びこ学校」は、一冊の書籍として刊行されるために生徒の作文のほんの一部を取り上げたものであり、もともとは文集「きかんしゃ」という名で、無著先生が発行した学級文集である。1号から16号まで発行されており、14号までの中から作品が取り上げられている。一般にクラスで発行する文集というと、B4のわら半紙1枚か2枚の発行物を思い浮かべる人があるかもしれないが、「きかんしゃ」は、各号30~60ページという、まさに「文集」の名にふさわしい分量がある。文集「きかんしゃ」は、山形の図書館をはじめ何カ所かに実物やコピーが保管されているが、そこ以外には見当たらないため、いつでも誰でも簡単に目にすることは難しい。そこで、14冊の中から創刊号と第2号の目次を取り上げる。おおよその内容を想像する際の一助としたい。

創刊号〔1948年7月刊〕目次

・きかんしゃ・・・・・・・・・・・・・・・・・・無着成恭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

・ぼくらのやくそく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

・言葉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

   毛虫      高野 武    なわしろ    小笠原弘子

   木のもえ    川合 和男   きょうしつ   木川 進

   野火      長橋アヤ子   麦からみ    上野キクエ

   朝       小笠原 誠   畑うない    長橋アサミ

   たきもりはこび 川合 実    雨       佐藤代里子

   くぼ      川合宣憲    学校が休みの日 佐藤籐三郎

・教室から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・無着成恭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

・作文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

  杉皮背負い  江口 サメ   兄と私      阿部ミハル

  朝      佐藤籐三郎   勉強が苦手な僕  江口江一

  日記     門開 きり子  かるめやき    川合宣憲

・あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28

第2号目次

・きかんしゃの言葉(巻頭言)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

1.日記の勉強・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

 (無着成恭の「まえがき」)

 (生徒10名の「日記」)長橋アサミ・門開きり子・長橋アヤ子

            江口サメ・阿部ミハル・川合宣憲

            上野キクエ・江口俊一・佐藤籐三郎

            江口久子・小笠原 誠・川合貞義

2.葉書の勉強・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

 (無着成恭の「まえがき」)

 (江口俊一ほか19名の生徒の葉書文)

 (無着成恭の「あとがき」)

3.原稿用紙の使い方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28

4.接続詞の勉強・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29

 (無着成恭の「まえがき」)

 (川合貞義ほか40名の生徒の短文)

 (無着成恭の「あとがき」)

5.家の中の私の勉強・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34

 (無着成恭の「まえがき」)

 江口江一・石井敏雄・上野キクエ

 川合ハマ子・小笠原勉・川合カエノ

 川合宣憲・佐藤籐三郎・小笠原誠

    (以上6名の生徒の文章)

 (無着成恭の「総評」)

6.教室から:お父さん・お母さんに(無着成恭)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59

7.編集後記(無着成恭)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60

8.製本者のことば(江口弘一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

  私は手工がへたなので、上手にできなかったがごめんしてもらう。この中の字が読めないものも あるかもしれませんが、そこをかんべんしてもらう。中味は私たちの先生のことばにもあるように ほんとうに私たちの生活そのままですから気をつけてよんでください。

  もしも、手紙を下さるなら全部すみからすみまでよんでそれからよこしてください。この文集は どこに行くかわかりませんが、私たちの心のこもった文集ですからかわいがってください。

                            おわり

 次に文集「きかんしゃ」の内容を想像するために、可能な限り第2号の内容を再現してみることとした。すべて見たいところであるが、実物やコピーは山形の図書館など、無着氏縁の地に保存されているだけであり、少なくとも現地に行かなくては全体を見ることは難しい。そこでここでは、第2号を中心に、その内容を再現することとした。第2号を選んだ理由は、文集「きかんしゃ」から抽出された「山びこ学校」のエッセンスを最もよく表しているの号だと思われるからである。

 文集「きかんしゃ」は、ほかの文集でも大抵はそうであるように、全号に渡ってほぼ同じ形式が取られている。「きかんしゃのことば」と「編集後記」があり、それは、無着成恭から生徒への言葉である。「教室から:お父さん・お母さんに」は、無着成恭から保護者に向けた文章である。「製本者のことば」は、書き手の代表生徒の一人から、保護者や先生達に向けた文章である。

 「葉書」「原稿用紙の使い方」「接続詞を自分のものにしよう」は、生徒の作品でありながら、それを利用して文章表現の仕方や文章の描写の工夫等について指導する、「作文指導」の部分となっている。そして、もう一種類の生徒の作品である「日記」と「私たちの家」が、優れた文章を選び出して「社会科としての綴り方指導」のための部分である。つまり、生活を見直し、問題点を抽出するための眼を養うという、いわば「本物の社会科」の学習をするための「綴り方学習」となっているのである。毎号無着成恭が、生徒たちやその保護者、あるいは同僚や読者に向けて、どのようなことを訴えていたかは貴重であり、見る価値があるが、それでなくても長文となってしまうから、というより正直なところ全部を集めるのは大変な作業となるから、やめることにした。本来は、大変な作業であることがやめる理由などにはならないのだが、その後の記述によってほぼ理解されるのではないかとも思われた。蛇足ではあるが、作業の手抜きだけではなく、読み手の大変さにも配慮したことを、逃げ出す理由に付け加えておく。

 「やまびこ学校」には取り上げられていない作品の一部を「きかんしゃ」の第2号の中から取り上げた。第2号は、「山びこ学校」の代表的な存在であり、典型的であると思われる。その理由は、

(1) 優れた内容、書き方、工夫などの取り上げ方がわかりやすく提示され、具体的な生徒と教師のや りとりや生徒同士の討論を形成する方法がわかりやすく示されている号であること。

  実際、文章表現の工夫を勧め、国語的な文章指導のための「日記」の描写については、生徒の文 章の下に「脚注」の形でコメントがなされ、よりよい表現と内容を深めるためのアドバイスが書か れている。また、優れた文章として取り上げ、社会科としての綴り方学習の材料とすべき作品には 「総評」の形で評価され、視点が絞られるように工夫されている。

(2) 「原稿用紙の使い方」や「接続詞の使い方」のように文章表現の決まりやよりわかりやすく通じ やすい表現方法を学ぶ場(国語科)と、「日記」や「私たちの家」を通して村での自分たちの生活を 見直し、そこにある現実やその原因を考える目を持ち、その解決策をも考えさせようとする場(社会 科)との両面を見ることがわかりやすい号であること。

(3) 後に「山びこ学校」を代表する生徒作品の一つとされた、江口江一の「母の死と其の後」が掲載されている号であること。

 まず(1)の例を挙げる。「葉書の書き方」「原稿用紙の使い方」「接続詞の使い方」は、それぞれ記述された通りといっていいだろう。本来は生活を見直す作品を取り上げ、その問題の根深さや視線の鋭さを評価するのが主たるの目的でる「日記」でも、この号の「日記(10)」江口久子の文章には、誉めながら基本的な書き方を教えようとする無着先生の誘導が見られる。

 生徒の日記作品は、内容も、記述の仕方も、優れたものもあれば、必ずしも優れた内容・記述の仕方共にまだまだ拙いものも、敢えてまぜこぜに掲げられているように見える。ここでは、江口俊一の作品、佐藤籐三郎の作品と、江口久子の作品の三作品を取り上げる。

日記(八)  江口俊一

 6月9日 木  ○

 家では今日、ほらしょかきだった。家の中でかいた。中はまだ1ぺんもかいた時がなかった。でも晝まで四枚書いた。晝からはずこねてかけなかった。前に行かないで後にばかり来るのです。それでしかたなしにやめて家に帰った。しかし、この仕事は家にとってぜひともひつような仕事なのです。牛がいうことをきかないからと云っても、ほったらかしにしておけないのです。もしも田植えする場所がなかったらびりびりかしがせらんなねのだったけれども、田植えの出来る場所が少しあったので晝からは田植えをした。田植えは早いほうだ。田植えがさかんになるのは今からで、どこの家もますますいそがしくなってくる。①百姓は一年中いそがしいのだ。そこえやすみになったのだから家ではうんとつかってやるべと思っているにちがいない。もちろん俺も精一杯働くつもりだ。百姓は働くことが第一なのだ。働きもしないでうまいことを云っても百姓には通じないのだ。百姓は雨の日も風の日も働くということを忘れたらそれでおしまいだ。②働く、働く、働く、それだけが百姓の生活だ。

 (評)

 6月10日の日記がぬけていたので9日のをのせた。木曜日の下の○は曇りのしるし。俊一の日記は「考える日記」と云ってもよい程私たちに沢山の問題をあたえてくれる。この考え方は正しいかどうか、とうぜん学級の問題にならなければいけないが、俊一が何かを一生懸命に考えていることは、みんなみならっていいことだ。

①何故百姓は一年中忙しいのだろう。とくに山元村はそうだと云われているが、ここに私たちが解決 しなければならぬ問題がありそうだ。

②働くことだけが百姓の生活であろうか。生活ということ、働くということ、飯を食うということ、これらはいったいなになんだろう。

    ※ 文中の①②③・・・の番号は、作品提出後に、無着が書き入れたものである。江口の日記も     同様。

日記(九)  佐藤籐三郎

   6月10日(金) 雨のち曇

 夕べから雨が降り始まって、今日の晝近くまでざあざあと降っていた。

 午前中は、今までにたまった日記を書いたり、本を読んだりしているうちに終わってしまった。昨日のつかれもあったからだが、百姓は日記などのものをかくことや、本をよむなどというような、「考えなければできない」ことをすることはなかなか大へんだ。ひまがあってもなかなか出来ない。本を讀むなどということよりも縄ないや、わらじつくりの方がじょうさないように思われる。

 晝すぎ、なす苗をいしょくして、それが終わってからちりとり作りにはだった。しかし、何をするにも道具だ。のこも、かんなも、さっぱりきれなくて、仕事にはだったのはよいけれども

途中で投げ出してしまいたいぐらいだった。それに板があり合わせの板でぶちあついので、さいしょ中のちりとりを作るつもりだったのだが途中でへんこうして外のちりとりにしてしまった。

 仕事はやはり道具だ。うでは二の次だ。

 (評)

 籐三郎の日記を読んでいると、日記というものは人からおしえられて「日記というものはどういうものか」ということがわかるものでなく、自分で自分の日記を書いているうち発見して行くものだという気がする。

 籐三郎!! お前は「ひゃくしょうは本をよむよりも、なわをなったり、わらじをつくったりする方がじょうさない」と思うというが、本当にそうなのか、父や母の生活の中から具体的につかみ出すこと、何故そうならなければならなかったかという原因と、そして、それをなくすにはどうしたらよいか、という方向にむかって勉強を進める必要があるであろう。

 それから、これをよんでみんな自分の日記のかきかたを反省して見よう。

 もう一つ、俊一の考え方と相当ちがうところがあるのだがそれをくらべて見て見よう。

 江口俊一と佐藤籐三郎の二人を取り上げただけで、はっきりと断定するのは説得力に欠けるかもしれないが、無着は自分の思想の高見から、一方的に考え方を押しつけてはいない。一人一人の現在の考えや問題に徹底して寄り添うことから始めていることが見て取れるだろう。それは、三つ目に取り上げた江口久子に対する(評)を加えてみればよりはっきりする。これは何度か繰り返したように、一方的に指導者自らの考えを押しつけるのではなく、対象生徒の現状と発達段階、それにその子の性格をも加味して、必要な指導を選んでいることを示している。例えば、孔子が、教えを説く相手によって、まるで正反対のことを述べているのと同質の指導方法が採られているものと思われる。その意味で決して「偏向教育」という批判は的外れで、全く当てはまらないと言える。それでいながら、籐三郎の日記に対する(評)にあるように、「これは」と思う内容について、クラスの大多数に投げかけ、現在の考えを揺すぶることを通して、成長を促すことも忘れてはいないと見るべきだろう。

日記(10)   江口久子

 6月10日 金曜日 (雨)

 夕方になって雨がやみました。それでも霧雨が降っていたが、それでもいいといって私と姉がわらび取りに出かけました。①さかのさまでいくと姉に②「田植えをしたのかは」といった。姉は「まだ田植えまだすねんだ」といった。少しいったらタマノさんとミヨノさんが田にうまのけをしょっていくところでした。タマノさんが姉に③「のんきだなあ」といいました。

 姉が私に「わらびえっぱえとったら、おれ④ンからな」と云ったので、私は「おれンがんたてよいごんたらあんまりいい」などと話しながらやぶからにはいったらさっぱりでていなかった。少しすかとらないうちにびしょぬれになってしまい、⑤頭から流れてきたしずくが口にはいってしょっぱかった。姉と合ったとき、「でているか」ときいたら「でてえねくて、ふきとりしったんだは」と云った

 私も、ふきでもうるいでも、なんでもとんべは、と思いながらいきおいよくやぶをわけて行ったら⑦木の葉にたまっていた雨がぼたぼた落ちてきて、からだが思わずぶるぶるっといった。

 ⑥家に帰ってから着物をぬいだら、⑧ぬれていないところは、はけごがあたっているところだけでした。

  (評)

 無着先生は書いている。「久子がこんなすばらしい日記を書いているとは思わなかった。久子!ぐんぐん伸びろ!」とした上で、脚注には次のように記していた。

①.さかのさって一体どこだね。

②.誰が云ったんだい。

③.なぜ「のんきだなあ」と云ったのだろう。

④.どこに行くの?

⑤.このへんからあとはわらびがでていない様子がほんとうにわかって面白い。

⑥.どのくらいとってきて帰ったのかかくとよかったと思わないかい。

⑦.首をちぢめた久子のようすが目に見えるようだ。うまい!

⑧.ほんとうだねえ。どうだ。みんな!

 丁寧に助言が為されているが、そもそもこの日記の文章は、お世辞にも「うまい」などとは言えない。むしろ必要なことが充分には書かれていないと言った方がよい。それなのに無著は、上記の「5.7.8」にあるように誉めながら、不十分な点を「1.2.3.4.6」で指摘し、必要な事柄を漏らさずに、うまく書けるように仕向けると同時に、どんなことをどれくらい書きたかったのか、何を思っていたのかを考え、自分たちの生活を振り返るきっかけを作ろうとしているようである。

 これに対して、江口江一の「母の死と其の後」は、1950(昭和25)年11月、日教組主催の作文コンクールにおいて文部大臣賞を受賞し、「山びこ学校」が刊行されるきっかけとなった作文である。

 江口江一の「母の死と其の後」は、「僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんくらい貧乏です」で始まるこの作文で、自分の家のくらし、仕事、母親の死さえ冷静に的確にとらえ、その原因を分析し、その悲しさを描写していた。

 子どもたちの日常とその背後にある貧困を、子どもたち自身がつかまえ、表現することができるようにするのが、教育という仕事のすごさだが、無着は、それを見事にやってのけたのだ。

ただし、いかにその作文が鋭い観察力と思考力に溢れた作品となっていたとしても、そこまでならば、どこの中学校にもいる多少優秀な中学生なら、それをやり遂げたとしても、それほど珍しいことではないかもしれない。しかし、そこに留まらず、現実に貧困や不幸を変革してしまう力の萌芽を生み出してしまうのが、無着と「山びこ学校」のすごさなのだ。すぐれた作文を取り上げるだけではなく、また不十分な作文の添削をするだけでもなく、自分たちの生活の現実を見詰め、それを他人に漏れなく伝える方法を身につけさせようとしており、時間を掛けてそれを養うことに成功している。ここに「国語」ではなく「社会科」である理由の醍醐味が見て取れる。

 貧困な村では中学生ともなれば一人前の労働力として期待される。母子家庭だった江一は一家を支える役割を負わざるを得ない。仕事に追われて、時間的にも体力的にも、気力の面でも学校に出てこられなくなってしまう。そんなある日、無着先生は級長の佐藤藤三郎に「江一が学校に少しでも出られるようなんとかならんか」と相談する。それに対して、「なんとかなる」と答えた藤三郎は江一と話し、クラスに投げかけ、誰がいつどのように江一の仕事を分担できるか、作業分担を見事に作り上げてしまうのだ。助け合い、協同して、合理的に事態を解決する、そこまでやり遂げてしまうのが「山びこ学校」だったのだ。今の中学生にこんな事はとてもできそうに乃至、する必要もないだろう。

 こうした貧困を初めとした現実社会の矛盾や不正を解決する力を身につけるための教育が、実際に日本に生まれ、絶賛された時期が続いた。

 「山びこ学校」に対する教育学者達の評価は極めて高かった。国分一太郎氏は、戦前の教育綴り方を踏襲し、生活を書かせることを通して見つめ直し、そこから世の中を具体的につかみ取らせて改革の道を切りひらくという姿勢を高く評価していた。臼井吉見氏は、敗戦直後の経済的にも精神的にも出口のない貧困と厳しさの中にいた日本人に、山村の中学生が根源的とも言える問題に真正面から取り組み、解決していく姿勢が、大きな感動と励ましを与えたと評している。さらに宮原誠一氏は、「山びこ学校」が戦前の成果である綴り方を踏襲し、いっそう前進させていると評価している。諸手を挙げての大絶賛である。それどころか、こんな事が本当に出来るのかと思えるほどである。「山びこ学校」では、自分自身の生活の現実を描き出し、問題を見つけ出して解決に向かっていく。その際他教科との関わりで「調べる綴り方」を実現し発展させたのである。まさに夢の中の出来事ででもあるかのようだ。

「山びこ学校」が生まれた場所と時代

 まず「山びこ学校」の舞台となった山元村と、当時の時代背景を先に見ておくことにする。

 先ず、「山びこ学校」が実践されたのは、どんな地方の、どんな時代のことだったのかを、見ておきたい。

 1934(昭和9)年に東北地方を大冷害が襲っている。この年こそ、「山びこ学校」の生徒たちが生まれる前年なのである。この年の冷害凶作は、東北の農村一帯を襲い、宝暦、天明、天保の飢饉にも劣らぬと言われた。この年の山形地方の平均気温は、7月21.6度、8月22.4度、9月18.8度と平年より2度あまりも低く、しかも大雨に見舞われ、日照時間は決定的に不足した。山元村でも大雪と融雪の遅れで、苗代も田植えも遅れた。ただでさえ発育不良の稲に、さらに長雨とイモチ病が追い打ちをかけた。この年の山元村の米の一反あたりの収量は0.461石、すなわち一俵強にすぎなかった。

 それまでも山元村の平均反収は3俵あまりしかなく、山形県の平均反収約5表にはるかにおよばない状態が毎年つづいていたが、この年は山形県の反収平均約3俵の3分の1という有様だった。300坪の田んぼから、わずか60キロの米しかとれないという大凶作だった。

 「山びこ学校」はこうした地方の、こうした時代を背景に持って生まれてきたのである。そのことを念頭に置いて、石井敏雄の詩と作文を読んでみる。

     雪

           石井 敏雄

  雪がコンコン降る。

  人間は

  その下で暮しているのです。

というたった3行の詩である。

 雪が積もることなど滅多にない地方に住んでいる我々とは、雪に対する印象は大きく違っている。東京ではほんの少し積もっただけでも交通機関が麻痺したり、事故が多発してしまう。それでも犬と子どもは無邪気に喜ぶだろうし、雪景色に見とれる大人も、わずかとはいえいるかもしれない。しかし、東京でさえ、雪に対して顔をしかめる大人が多いことは否めない。ましてや豪雪地帯で、雪に閉じ込められた生活を余儀なくされ、それどころか結果として毎年のように、生きていくことさえ危険にさらされかねない土地に住み続けることを想像するのは、容易なことではない。

 改めて「雪がコンコン降る」様子を、作者がどんな思いで見ていたのか、想像してみる。

「雪がコンコン降る」というのは、大量の雪が降り続け、積もり、放っておけば道路は通行できなくなり、まさに閉じ込められ、孤立した生活を余儀なくされるということだ。遊びに出られないどころか生活必需品さえ手に入らなくなりかねないのということだ。生計を立てるための田畑にも、甚大な被害を及ぼすことは言うまでもない。閉じ込められた家さえ重みで潰されかねない状態になるということである。もちろん雪が降り続いている間は雪下ろしなど出来ず、ひたすら心配していることしかできない。そんな心配をよそに、雪は無情に降り続くのである。「早く止んでくれ」という願いも空しく、粛々と降り続くのである。それが「コンコン」にこめられている。憎んでも恨んでも叫んでも暴れまくっても、何をしようと、雪は降り止まず、降り続くのである。大自然の前の人間の弱さ、はかなさ、ちっぽけさが、思い知らされるのである。

 二行目の「人間は」のところは、「わたしは」ではなく、「わたしたちは」でもなく、「人間は」となっている。「人間は」という語には、自然と対比的な語感がイメージさせる。自然に対峙する人間という意味が、改めて込められているイメージだ。「わたし」などといった個人的な問題などではなく、なすすべのない生き物が「人間」なのである。冬眠する訳にはいかず、死んでしまうわけでもない。じっと耐え続けることで、誰もが辛うじて生の営みを続けているのである。それは決して積極的に生きているのではなく、微かに生を刻んでいるといった様相である。生き生きと生活している訳でもなく、元気に生きているのでもなく、かろうじて最低限の飲み食いを続けながら、運命と諦めているといったところであろうか。普段は必至に「生」にしがみついており、そのしがみつき方が必至であるほど、「自殺」など思いも寄らないのであろう。それでもふと、改めて生きていることの意味を考えさせられることもあるかもしれない。それが3行目の「その下で」という表現と「暮らしている」に込められているのはないだろうか。

 雪があまり積もらない地方の人間には、「雪の下で暮らす」という生活がなかなかイメージできない。仕事も出来ずに、家族が皆家の中に閉じ込められ続ける生活とはどんなものなのだろうか。一日中顔をつきあわせて暮らすというのはどんな気持ちになるものだろうか。現代の思春期を迎えたの少年少女は、親が「うざい」と家を飛び出し、深夜まで徘徊したり、家出する者さえ見られるという。しかし雪が降り積もり、人間を閉じ込める地方では、そんなことはできない。それがやむを得ないことだとわかっていたとしても、我慢できるものなのだろうか。長期間にわたってそこから抜け出せないとなったら、どんな気持ちになり、どんな行動に出るのだろうか。

  詩人の小野十三郎は、「わずか三行の短い詩にもかかわらず、大きな重量感を持っている。『人間はその下で暮しているのです』ということばに非常に重味があるのだ。これは、人間がその下に『住んでいるのです』でもなければ、『人間はその下に生きているのです』でもない。どうしても『暮しているのです』でなければならないところだ。——大きく人間が暮しているのですと言うところに、この詩を読んだ者の心を動かす一つのプロテストがある。」と評している。ここに言う「プロテスト」という言葉には、労働者階級や農民など社会の下層階級の人々が直面する苦難、搾取、不公平に対する抗議や反発を感じさせる。東日本大震災のときには、東北人の辛抱強さ、粘り強さが称賛されたが、ある意味では結果的に称賛の対象となり得ても、それほどまでの強さを身につけざるを得ない日常があったということに他ならないだろう。そして、大震災の被害は絶望的に大きなものだとしてもいずれ抜け出せる被害であるのに対して、この地方の気候は、多少程度に差はあれ、永遠に続くものであり、決して抜け出せない現実なのである。

 では、こんな詩の作者である石井敏雄は、どんな「暮らし」をしていたのかだろうか。

 石井の生活の様子は、「すみ山」という題名の綴方(作文)に記されている。こんな文章である。

     すみ山

 「私はまいにち学校にもゆかず、すみ山にゆきました。私は『みんなのように学校にゆけたらな』とおもっているときがたびたびあるのです。

 毎日山にいって、すみがまのてんかしつ(点火室)に木をわってくべます。上の方をあけて、下の方をふさいて木をくべて、木をでっちり(どっさり)くべてから上のほうをふたいで(ふたをして)下の方をあけるのです。

 それから山のてっぺんからすみがままで木をしぱって(ひっぱって)くるのです。六回ぐらいしぱるとおひるになります。ごはんをたべるとすぐしぱりはじめます。

 夏は夕方五時まで山にいます。かえりはすみをせおってきます。大しひ(地名)のあたりまでくるとあせが(を)だらだらかきます。そこまででまだ半分ぐらいしか来ません。家にかえると六時半ぐらいになっています。支度をほごして(ほどいて)、ごはんをたべて、わらをぶちはじめます。

 おっつぁん(父)が、

 『今日学校さいっていい。』

といったので、私はよろこんで学校にきました。そのかわり帰りに塩とさとうをかってこいといいました。学校からかえると、どいがまに、しばせおいにゆかなければいけません。」

(1949年12月21日)

 石井敏雄の生活は、「まいにち学校にもゆかず」、家業の働き手なっているものだった。だからこそ、おっつぁんに「学校さいっていい。」と言われると、喜んで学校に行くのだ。「山びこ学校」の冒頭には生徒一同によるの読者へのメッセージが掲載されているが、そこにも「毎日二割ぐらいが休みますが、ほとんど家の仕事でやすむのです。だから、学校に行ってよいという日は、ものすごく元気です。」と記されている。石井敏雄だけが特別に変わっていたというのではなく、誰もが多かれ少なかれ同じような状態に置かれ、むしろ石井に近い境遇の者が決して少なくはなかったいうことだ。

 戦後、日本国憲法に「教育を受けさせる義務」が明記されたが、このような家の仕事によって学校に行くことができなかったり、親の許可を得て学校に行くというのが現実だったのである。親に遠慮しながら学校に行ってよいかどうか聞いてみるといったことが、山元村の子どもたちの日常だったのである。もちろんそこには、毎日学校に来ることのできる生徒と、そうでない生徒の「格差」もあったであろう。やがて卒業して上級学校に進学できる者と、そうはいかない者との格差もあったのである。そういった学校に来れる子とそうでない子を、無着先生ははじめから担任し、同じクラスで関わらせていたのである。

 これだけでも十分すぎるほどに不幸であり、同情を禁じ得ないに違いない。しかし山元村での現実はこんなものでは済まないのである。それはノンフィクション作家である佐野眞一氏が取材し、『遠い「山びこ」—無着成恭と教え子たちの四十年—』という著作にまとめている。

 先に見たように、「山びこ学校」の時代の山元村の悲惨さは、壮絶な状態だったと言える。その「山びこ学校」の卒業生の一人である石井敏雄は、当然この時期の山元村で暮らしていたのだが、実は彼の生活は、学校にあまり通うことができない生徒達の中の村の中にあって、程度の差があるというのではなかったというのである。群を抜いて悲惨な状態だったのである。石井敏雄は、山元村の出身ではなく、東京の荒川の生まれで、作文の中の「おっつぁん」は実の父親ではなく、母親の弟にあたる叔父だったのである。もちろん実の父親で亡くなり、育ての親と幸せな人生を送る者もいる。しかし石井敏雄の人生は、それとは正反対だったと言うべきだろう。

  敏雄が二歳の頃、山元村の隣村の二位田出身の父親が死に、寡婦となった母は敏雄を連れて、東京から出身地の山形にもどった。母は、父の姉の嫁ぎ先にひとまず身を寄せ、野菜の行商をして生活を支えた。

 敏雄が六歳の頃、母は縁あって後妻に行くことになったた。その際敏雄は祖父母と叔父夫婦が住む山元村菅(すげ)の母親の実家に預けられた。はじめの約束では、少し落ち着いてから、母が再婚先に敏雄を引きとることになっていた。叔父夫婦にはその後6人の子供が生まれたが、その家で敏雄は最も年長の子供だった。約束通り、母親は敏雄が小学校六年生のとき、叔父の家に敏雄を引きとりに現れた。しかし、既に貴重な労働力に育っていた敏雄を、叔父夫婦は手放さなかった。さんざん争った挙げ句に、敏雄は母親との縁を切られて、叔父一家に残されてしまう。それが敏雄が「山びこ学校」の卒業生となった事情なのである。

  敏雄が中学にあがった頃、叔父は敏雄に炭焼きの釜ひとつを完全に任せていたため、中学三年間で登校できた日数は、規定の半分にも満たなかったという。ある時、敏雄が手間とりの仕事で働いているのを教室の窓からみつけた無着が、クラス全員に号令をかけて手伝わせ、敏雄を教室にとりもどしたこともあったそうだ。さらに、敏雄の欠席があまりに多いのを心配した村の教育委員会が叔父あてに通知を出し、ひさびさに登校したということもあったという。その日に書いたのが、「雪」という詩だったのだそうだ。

 しばらく授業を受けていなかった敏雄は、無着から「作文を書け」と言われても、何を書いていいのか、さっぱりわからなかった。窓際に座ってぼんやりと外を眺めていると、突然雪が降り出した。敏雄はその景色を、ありのままに書いて、無着に提出したのだ。

 そうして読まれた詩には、敏雄の境遇が意図しないまま現れてしまっていた。というのも、山元村に生まれ育ったものであれば、雪は「ぞくぞく」降るものだという。決して「コンコン」と降るなどとは言わないのだ。人を閉じ込め、覆い被さる雪は、よそ者で薄幸で少年の上にも、容赦なく降り積もり続けたのである。家族の絆を断たれた、孤独な少年の上に、大人でも耐えられない重圧を加え続けたのである。家族の絆で結ばれている者達でさえ耐えられないような重圧が、容赦なく積もり続けたのである。敏雄は、まだ家族の絆がある、東京で両親と過ごした遠い記憶がかすかに残っていて、思い出されたに違いない。そんな思いに駆られて詠まれた詩なのだろう。たとえ恵まれなくても、肉親の間で争うことがあってさえも、家族の絆が結ばれて閉じ込められることと、他人に労働力と見做されて閉じ込められることには、大きな違いがあっても不思議ではないだろう。

 中学を卒業後、敏雄は本格的な労働力として叔父のもとで働きづめに働いた。夏は畑仕事、冬は木こりや炭焼きという生活は十三年間続いた。その合間をぬって出稼ぎにも出た。仙台では砂防工事、青森では吊り橋かけのダム工事、千葉では団地の造成工事の現場で働いたという。日当は四百円だったとそうだ。

 敏雄は二十八歳で遠い親戚筋にあたる南陽市の農家に入り婿した。伊藤から「大場」に姓は変わったが、敏雄は使いべらしされるだけの労働力でしかなかったことは変わらなかった。それどころか敏雄が世帯をもった南陽市小滝字水林番外地は、バスを降りてから山道を4キロ以上も歩かなければならず、山元村よりずっと辺鄙な場所だったのだ。しかも、入り婿先には年老いた両親だけが残り、男兄弟はみんな村を出ていた。暮らしが成り立たなかったのだ。かといって年老いた両親が、別の土地で新たな暮らしを始めることもできるはずはなかった。年寄りは生まれ故郷を離れたがらない。

 敏雄が同じ集落出身の知り合いを頼って神奈川県座間市に出てきたのは、35歳のときだった。田舎では、働いても働いても少しも楽にならない生活を続けるしかなかった。「都会で仕事を選ばなければなんとか食っていける」というのが、村を出奔した理由だった。敏雄は出稼ぎ先の熱海の道路工事現場から、離婚まで覚悟してそのまま座間に出た。

 その後、婚家に戻った敏雄は家族と二日二晩話しあい、結局、一家全員が村を出捨て、敏雄に従うことが決まった。村の貧困を乗り越え、村に止まり、この村を再生することを目指した「山びこ学校」は、現実の前で、無残にもここで粉々になり、はっきりと敗北したのであった。食わんがために村を捨てはしたものの、それでも敏雄は入り婿先にも忘れずに持ってきた「きかんしゃ」だけは、この時にも捨てなかったそうだ。その「きかんしゃ」をバラバラとめくりながら、敏雄は訥々とした口調で佐野眞一氏を前に、当時をふり返ったという。

 「あのとき決意しておいて本当によかった。あの村にはもう誰も住んでいない。あそこで暮らすのがそもそも無理だったんだ」。捨てられない「きかんしゃ」と村の貧困を乗り越えようとした「山びこ学校」とに板挟みになっている敏男が下した苦渋の結論なのだろう。

 座間での生活は借家暮らしから始まった。家を借り、白黒テレビに茶碗と箸、それに一万円で布団を2組買うと、7年間の出稼ぎ労働でためた貯金は一銭も残らなかったという。現在の職場は同郷の知人の紹介によるもので、敏雄は就職に際し、中学以来握ったことのなかった鉛筆で履歴書を書いたのだった。

 村から出て7年目の昭和52年に中古住宅を1100万で購入し、一時は親類の家をたらい回しにされかかったこともある義理の両親も、座間市郊外のこの家で息を引きとった。

 敏雄は続ける。「今になってみると勉強をしておけばよかったと思います。したくともできなかったんだけど、勉強をしておけば自分の好きな職業につけたかもしれない。もっとも、仕事を選ぶ余裕なんてものはなかった。その反動なのか、子供には大学に行け、大学に行けって、うるさいほどいった」そうだ。

 その男女二人の子供も高校を卒業後結婚し、それぞれ独立した世帯をもっている。「山びこ学校」卒業生のうち、今でも無着と行き来しているのは、二、三人しかいない。敏雄はその数少ない卒業生の一人だという。

 「無着先生は、人間は話をしないと進歩しない、とよく言ってました。おまえたちには間違ったことを教えていない、というのも口癖だったなあ。私たちを踏み台にして東京にとびだしていったと思う反面、先生がいなけりゃ、私の詩がこうやって文集に載ることもなかった。私も村じゃ生活できなくて、都会にとびだしてきた。今なら先生の気持ちがわかる。そんな気もするんです」

 「村を育てる」と言い続けた無着先生は、結局は村を出て、東京に向かった。「山びこ学校」を通じて全国に山元村の恥部をさらけ出したために、村人からの迫害も激しかった。必ずしも簡単に無着先生を非難することはできない。それでも、村に残って山元村を立て直そうと踏ん張った卒業生の目から見たら「裏切り者」と見えてしまう部分があることも、やむを得ないことだろう。しかし同時にそこには、「お前自身は、無着を非難するだけの何をしたんだ」という自問が離れることはないのだが・・・。

 「山びこ学校」を代表する作品群

 「代表的な作品」という名の優良作品だけが「山びこ学校」の本当の姿ではないなどということは今更言う迄もない。しかし、ここでは敢えて「山びこ学校」の到達点を探ってみようと思う。それが「山びこ学校」の最高峰であり、到達点であると同時に、破綻に導く理由ともなったと思われるからだ。

では、実際に生徒作品がどのようなものであったかを、代表作を通してみてみよう。

 「山びこ学校」にある優秀作品は、今初めて読めば、びっくり仰天するであろうし、かつて読んだことがあったとしても、読み返せば今なお胸が苦しくなり、感動させられることは疑いない。そうした「偉大」な作品を読み味わうことにこそ「山びこ学校」の醍醐味があるといえるだろう。

 取り上げるのは、川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」と共に、それ以外に

         江口江一「母の死と其の後」、

         佐藤籐三郎「ぼくはこう考える」

を合わせた全部で三つ作品を取り上げる。江口江一のこの作品は、「やまびこ学校」刊行のきっかけとなったとされている、いわば「やまびこ学校」の象徴的な作品であるから、取り上げるのが当然というべきかもしれない。

川合末男は、無着の綴り方を通じての生徒指導が最もよく現れている作品の一つだと思われる。ただ放任して勝手に作文を書かせ続けたのではなく、自分たちの生活を見直し、この村の課題に的確に目を向ける最も効果的な指導のタイミングを見計らっていたのである。そのことが能く現れている代表的な作品として、最初に取り上げることとした。

佐藤籐三郎は、無着学級の級長(学級委員)であり、生涯農民として村に残った人で、極めて優秀な教え子の一人である。卒業時には答辞も担当している。若くしてマスコミはじめさまざまな困難に直面してしまった無着先生に同情的であると同時に、東京に行ってしまい、科学的教科指導法などに「転向」してしまった無着先生の批判者でもある。その意味では「やまびこ学校」の生徒の象徴的存在だともいえる。その彼の作文を取り上げた。

 ちなみに、「山びこ学校」が出版されたのは、1951年3月のことである。

 山形県南村山郡山元村という当時非常に貧しかった山村で中学生の指導にあたったのは、その村出身の新任教師、無着成恭で、1927年生まれの24歳であった。この山元中学校は生徒減少のため2009年春に、既に廃校となっている。それどころか山元村自体が高齢化で、今やあちこちに空き家が目立つ状態となっている。

 「山びこ学校」に収められている作品を書いたのは1935年度生まれの生徒だ。無着と8つしか歳は違わない。彼らは1948年4月に中学校に入学し、1951年3月に卒業している。無着はその学年の生徒を入学から卒業まで3年間担任した。その学年の全ての生徒の文章が「山びこ学校」には収められている。当時の山元村の中学校には、1年から3年まで126名の生徒がいたのだが、教員は校長を含めて7名だったために、無着は担任クラスの国語、社会、数学、理科、体育、英語、さらに3年生の国語まで担当したという。

 

(1) 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」

 「山びこ学校」から抜粋した最初の優良作文は、川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」である。川合末男は農家の生まれで、9人兄弟の末っ子(5男)だ。この文章は1950年の10月に書かれた文章で、川合が中学3年の時期にあたる。また川合の父親が亡くなったのが同年の9月であり、その死からたった1ヶ月後に書かれた文章でもある。

   (1)父は何を心配して死んで行ったか        川合末男

         一 父の死

 1950年9月14日、私の父は死んだ。

 16日は、西部班子供協議会の運動会であった。私はそのときの応援団の副団長に選ばれていたので毎日放課後は練習でおそくなった。

 父が死んだ日も「今日と明日きりだなあ。」などと考えて家を出たのだった。まさか、今日父が死ぬなどということは夢にも考えられなかったのである。

 それでも、放課後になっていよいよ応援団の練習を始めようとしたとき、急にいやになり家に帰りたくてしようがなくなったのだった。何故そうなったのかわからないが家に帰りたくなったことはほんとうだ。しかし、週番の当番でもあったのでがまんしていた。が、ついにがまんしきれなくなって副週番長の阿部ミハルにたのんで帰ることにした。丁度そのとき赤湯山形間の定期トラックが来たので「のせろ!」と云ったら、助手が「のれ」と云ったので飛び乗ったのだった。

 境分団の人からはなれて一人で帰ったなどということは始めてであった。

 トラックからおりてから、家に行くまで、「若者よ身体をきたえておけ」という応援歌が、ひとりでに口に出てくるのだった。

  若者よ

  身体をきたえておけ

  美しい心が

  たくましい身体に

  らくもささえられる日が

  何時かは来る

  その日のために

  身体をきたえておけ

  若者よ

 私はありったけの声をはりあげて歌って行った。そして、そのまま家の中に一歩はいったら、親類の人がみんな集まっているのだ。私はどきっとして歌をやめた。

 いろりを囲み、和雄君のお父さんが主になって、「電報を誰が打ちに行く。」とか、「ござは。」とか云って何かきめていた。私は、かばんをおろして、お父さんの方へ行ったら、白いてぬぐいをかぶり北枕で寝ていた。そのときはじめて「ああ、死んだんだなはあ。」と思ったのだった。

         二 父の病気

 しかし、手ぬぐいを取ってみると、寝ていたときと同じなので、どうしても、これが死んだ人の顔だなどと思われなかった。

 お父さんは、昭和22年の10月から中風でずうっとねていたのだ。(2)自分の用も足すことが出来なくて、お父さんの用を足してくれるのは私の仕事だった。

 ある時、顔をあつい手ぬぐいでふいてやったとき、「おお」と云ってただ笑ったことがある。それが、いちばんよろこんだお父さんの表情だった。(3)まるっきり口がきけなくて、なにをいうにも、長い細い手を出して、もぐもぐ云いながら動かすだけだった。

 (4)遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣くのだった

 そういう父を見るたびに、私は、(5)中風という病気はいやな病気だなあと思うのだった。そして、(6)私だけは、こんな病気になりたくないと思うのだった。しかし、(7)私の家は中風まきという血統で、必ずなるんだそうだ。そういうことをお母さんが云っていたことがある。だが、今では、(8)はたしてまきというものがほんとうなものかどうか。また、(9)兄さんや姉さんが来たとき泣くのは、中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったかなどとも思っている。

         三 父の心配

 (10)何故、そう思うようになったかと云えば、先生が、「文男君のおかちゃんから聞いたんだが。」と云って、「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」と話してくれたからだ。ここからが、学級のみんなから考えてもらい討論してもらわなければならない問題が出てくるのだが、はっきり云えば、(11)私の父は、私の将来のことを心配して死んで行ったということなのだ。

 子供のことを心配しない親などないと云えばそれまでだが、口もきけない、手足の自由さえもきかない私の父の場合は特別であろう。たとえば、先生から「お前のお父さんは……。」と云われたときはっと気がついたのであったが、父をあつかっている(看病している)とき、(12)急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった。

 そのことを、(13)今考えて見ると、色々な心配ごとがたまってきたときそういうことがおこったのではなかったかと考えられるのだ。そして、その心配のうち、私のことに関係した心配、つまり、(14)私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ。

         四 兄弟たちと家

 (15)そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない。

 まず(16)私の家が生活を立てていくための財産としては、水田はもち米を作る位と、畑は五段歩だけなのだ。(17)それにへばりついて生活してきたのは、父と母と、多慶夫兄さんに秋子ねえさんに鶴代ねえさんに私とで六人であった。こんどお父さんが死んでしまったから五人になってしまったけれども。それで、そのうち家に残ることが出来るのは多慶夫兄さんと、お母さんの二人だけになるわけである。(18)そうなれば、お父さんは、何を一番心配であったかと云えば、私の就職のことであったにちがいないと、はっきり思いあたるのである。(19)二人の、まだかたづかない姉のことをどう思っていたかと云えば、「女は嫁に行くのだから心配はない。女はお嫁にさえ行けばよいのだ。」と考えていたにちがいない。どうしてかと云えば、今でも、お母さんや親類の人たちがみんなそう考えているからである。

 もちろん、こういう考え方が正しいかどうかということは、私たちの組で問題になり、農村の二男三男が職業に就けなくて困ってくると、嫁ももらうことが出来なくなって、それだけ「嫁に行きさえすればよい。」と考えていた女の中に嫁に行けない人が出て来るから、ほんとうは、女の問題であるんだ。だからこういう考え方は間違いだ、というふうになったのであるが、お父さんやお母さんたち、大人の人たちは、どうもこういう考えにならないらしい。

 それで、私のお父さんもそういう考えにちがいなかったと思うのだ。そうだとすれば、(20)やっぱりお父さんとしては、九人兄弟のうち末子の私のことがいちばん心配であったにちがいない。どういう風に心配し、どんなことを考えていたのかは、誰も知らないけれども、(21)中学三年で、学校も卒業しなくて、もちろんどんな職業に就くかということもわからなくて死んで行かなければならないのだったから、心配なことであったにちがいない。とくに今は、(22)職業に就くのが、なかなかなんぎだということを知っていたお父さんの心配は、つまりは、(23)私のことだけが心配だったと思われてくるのだ

 (24)何故兄さんや姉さんのことをそんなに心配しなくともよかったと云えば、みんな一丁前になって働いていたからだ。

 (25)一番大きい兄さんは、もう四十才にもなり宮内宮内(みやうち)に家を持って暮らしているし、二番目の兄さんは、上の山にむこに行ったし、三番目の兄さんは川崎で家を持っている。また姉たちは姉たちで、一番大きい姉さんは、一度お嫁に行ったんだがなんのわけかもどってきて、今は、仙台にお嫁に行ってしあわせに暮している。二番目の姉も、一度須刈田におよめに行ったのだが、これももどってきて今仙台の駅前で働いている。ここでまた考えるんだが、私の家の女衆は二人とも一度お嫁に行ってもどってきたのだ。何故だろうと不思議に思っている。

 だが、(26)とにかく、男三人に女二人はこのようにしてかたづいていることだけはほんとうだ。

 では、家に残った兄弟はどうかというと、男二人に女二人のうち、二人の女は、お嫁に行くか心配ないとして、多慶夫兄さんと私が問題だ。

ところが、多慶夫兄さんは、どうしても、家のあととりにならなければいけないのだ。どうしてかと云えば、小学校一年生のとき、蝉とりをして高い木に登ったとき、高いところからほろきおちて、頭が二十七糎(せんち)ぐらい割れたんだそうだ。そのため、すこしぼうっとしているところがあるから、職業に就かせるなどということは無理なのである。その上、百姓仕事が大好きで、黙々としてうんと働くので、親類の人がみんな集ったときも多慶夫兄さんに家のあとをつがせることにきまったのである。

 これは、あとで先生から聞いた話だけれど、多慶夫兄さんにあととりさせるという問題も、そう簡単にきまったのでなかったんだそうだ。つまり、大きい兄さんたちが家の財産をいくらかずつでも分けるように話を出したため、問題がこんがらかってきて困ったのだったそうだ。そのとき、和男君のお父さんや、庄兵衛さんが、「こんなちっぽけな百姓の財産を兄弟九人がわけて、どうしろというのだ。まだ一丁前にもならない末男や、またさきのみじかい、おっかあたちのことを考えてみろ。」と云って頑張ったので、財産をこまかにわけないで、多慶夫兄さんがあととりになることにきまったんだそうだ。

 そういうことがあったということは私も知らなかったのであるが、若しも、そういうことが私の家に出てくるということがわかっておれば、お父さんの心配は、私のことよりもその方が心配だったにちがいない。

 しかし、やっぱり、(27)まだ一丁前にならない私のことは、心配して死んで行ったと思うのだ。どうしてかと云えば、(28)みんな一丁前になっているので、財産を分けてもらっても生活出来るのだ。私だけが出来ないのだ。そう考えて来ると、(29)お父さんは、最後のところ、やっぱり私の将来のことを心配して死んで行ったのだ。

 

            五 私の考え

 口もきけない、手足の自由もろくにきかない父が、私のことを心配して死んで行ったと考えるのは実際いやだ。その上、どういうことを、どういうふうに心配して死んで行ったのかということが、はっきりわからないからなおさら苦しくなってくる。

 男は、独立して家をおこさなければならないということは、よくいわれているから私はそのつもりでいるけれども、ほんとうは、私が実際兄さんたちのようになって、家をおこしてからお父さんを死なせたかったと考えられてきてならない。私が家から出て、働きだしたのを見せれば、お父さんは今よりももっと安心して死んで行けただろうと思う。

 しかし、もう死んでしまったのだからしかたがない。(30)今生きているお母さんだけでも、安心させなければならないのだ。お母さんを安心させることは、死んだお父さんを安心させることと同じだと考える。

 ところで、安心させるためにはどうするかということだ。(31)それはよい職業に就くことだと思う。(32)お父さんが心配したのも、将来なにさせるかということだったと思う。

 そう考えてくると私は心配になってくるのだ。私としては、自動車の運転手になりたいと思うのだが、今なかなかなれないそうだ。戦争で、自動車の運転を覚えてきた人でさえ、なかなか運転手になることが出来ないという話など学級であるくらいだから。戦争から帰ってきた太郎さんの善助さんなのも、二十三才にもなるのに、なにになったらよいかわからなくて、この間予備隊に受けたというくらいだ。しかし、(33)予備隊というのはよい職業だろうか。私は社会科でならったことが不思議になってくるのだ。たとえば、(34)社会科の2の「家庭と社会生活」で習ったことは今でも覚えている。教科書の二十五頁に、

 「あなたがたも、学校を卒業すれば職業に就くにちがいない。」と書いてある。それはきまっている。どうしてかというと、「あなたがたはじめ、家庭の人々は今はお父さんやにいさんの職業の収入によって生活している。そこで、職業は人の生活を支えるもとであるということができる。」というように、(35)自分の生活をして行くためである。その次は、「どの職業も、その仕事が社会生活に必要なものだからこの世の中で営まれている。」というように、世の中の一人として生きて行く限り(36)「個人や家族の生活を支えるだけのために職業に就くことが必要なのではない。それは世の中の要求するものを作るために必要なのである」からである。

 そしてまた、(37)三年生でならった文化遺産という本の四十八頁には、

 「あなたがたは今は職業を選ぶ自由を持っている。そして(38)自分の才能と欲求にしたがって、

(39)いちばん世の中と自分のためになる職業につくことがよいとされている。」と書かれている。

 それなのに、どうだろうか。(40)予備隊というのは、私たちがほんとうに必要とする仕事をする職業なのだろうか。また、(41)行く人も、ほんとうに好きで行くのであろうか。うそである。みんな職業がないからしかたなしに行くのである。

 私はそう考えてくると、なにがなんだかわからなくなってくるのだ。

 社会科では、私たちは職業を選ぶ権利を持っていると教えられた。ところが実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ。若しも社会科の本が正しくて、私たちは実際に、安心して職業を選び、職業に就くことができる世の中であれば文句はないのだ。そうすれば、何も今々死にそうな親父にまでも心配かける必要はなかったのではないか。

 私は、今まで考えてきて、ひとりでにそうなってしまった。つまり、私たちは、世の中のお父さんやお母さんから安心してもらうためには、どうしても、社会科の本にあるように職業を自由にえらべるような世の中、職業に就くことが出来ない人が一人もないような世の中、そんな世の中にすることだというふうに考えてきた。日本国中の学校を今々卒業して職業に就かなければならない人はみんな立ち上って、団結して、一人も職業に就くことが出来ない人がいないような世の中に、一日でも早くすることが一番正しいのではないだろうか。

 そして、そのような世の中にするためにはどうしたらよいかということを、学級のみんなで、いや日本国中の子供たちがみんな手をとり合って考えなければならないときなのでないだろうか。

 私の父のように、子供のことで心配しているお父さんがあったら、お母さんがあったら、一人一人で考えないで、みんな一緒に考えるようになればよいのでないか。

 私は、そういう世の中が来るように頑張って、そうして一日も早くそういう世の中にすることが、死んだ父をいちばん安心させることではないか。また、生きている日本国中のお父さん、お母さんを安心させることではないか、というふうに考えてきている。

                      (一九五〇・一〇・二三 職業科の勉強として)

 以上が「父は何を心配して死んで行ったか」の全文である。この作品の内容について考えていく。

 川合の問いははっきりしている。それはタイトルでもある(1)の部分ある通り、「父は何を心配して死んで行ったか」ということだ。これに対する川合の答えは、(11)、(14)、(18)、(20)、(21)、(23)(27)、(29)で繰り返し繰り返し書いているように、「末っ子である川合末男自身の将来の仕事を一番心配していた」ということである。

 親が子、特に末っ子の将来を心配するのは、世間全般でありがちなことだ。しかし、この問いを正面に据え、繰り返し答えを書かずにはいられないほど川合がこの問いを強く意識したのはなぜだろうか。

 川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを明確に意識するようになったのは、父親は「お前をとても心配して死んでいった」そうだという教師の一言がきっかけとしてあったようだ(10)。担任教師である無着のたった一言の働きかけによって、「父親の心配」が、自分にとってかけがえなく大切なこととなったのだ。

 では、教師のたった一言で、自分の問題意識が明確になるのは一体どういうことだろうか。まず、もともと川合の中に「父親の心配」が心のどこかに残っていたことがあるはずである。父の死に直面した川合にとって、父の死がもたらした様々な事実や感情は、大きな喪失感であると同時に介護から解放されたという安堵をも含んでいたかもしれない。なにしろ病気で寝たきりだった父親の介護をするのは川合末男の仕事、役割であった(2)。来る日も来る日も寝たきりの父の世話をすること、特に下の世話をするなどというのは、とてつもなく大変なことである。病気で寝たきりの父の存在は、川合の一日の中では「面倒な存在」であることの方が長かったかもしれない。川合にとって父親の死は、そういう役割がなくなることもでもあったのだ。「自分の用も足すことが出来なくて、お父さんの用を足してくれるのは私の仕事だった」(2)のであり、「まるっきり口がきけなくて、なにをいうにも、長い細い手を出して、もぐもぐ云いながら動かすだけだった」(3)という父親を、毎日毎日相手にしていたのだから。

 病床の父を目の前にした時、本当なら感じなければならないはずの「父の命のかけがえのなさ」よりも「煩わしさ」の方が先に立つことが少なくなかったかもしれない。もちろんそうした思いを感じてしまう自分自身に対する複雑な思いも拭いきれなかったはずだ。だから、父の死から日が浅いうちは、様々な思いが交錯する中で、「父の心配」がまだ最大の問題と意識されていたわけではなかったはずである。それどころか、そんな状況では、「父の心配」は、気持ちの底ではわかったとしても、「余計なお世話」「うざい繰り言」となってしまうことが多かったのかもしれない。つまり、父が生きているうちは、「父の心配は何か」などと考える余裕はなかったといっても良いだろう。

 それが、落ち着きを取り戻すにつれて、徐々に一番考えなくてはならない問題に辿り着いたのだ。まず最初に父の死がもたらしたものは、面倒な世話をしなくてもよい状態だった。そこに時間のゆとりが生まれた。それと共に心の余裕も生まれ、父に対する思いやりが想起されるようになったのだ。最初は、父は「かわいそうだった」といったものに過ぎなかっただろう。あまりにも惨めな姿に、同情したかもしれない。それでも父がこの世から消え去るという、実際には起こるはずがないと思っていた事態が現実のものとなったことをひしひしと感じるようになったのである。「ぽっかりと穴が空いたような気持ち」になったのだろう。現実に父の姿は過去の思い出となっていく。そこで思い出す父の姿は、訳の分からない言動にまみれていた。しかしやがてそれは徐々に、なぜか繰り返し自分を心配する姿となって、焦点が合い始めてくるのだ。父が、末っ子である自分の将来を心配していたこと、実際にはどうしようもないからこそ深刻な心配であったことを引き出して、はっきりと意識させたのだ。

 そんなとき、無着先生のひと言が最後の仕上げをするかのように、見事に一番大切なことに、ぴたりと焦点を合わせてくれたのだ。余分なものを取り去り、肝心な物事の本質を、はっきりと見せてくれたと言うべきだろう。その「心配」もそれが決して解決できないものであることも、無着先生には既に分かっていたのであろう。しかしその内容をはっきりと捉え直し、問題点を純化し、解決する道を課題として取り上げるのは本人でなければならない。そのスタートラインに立たせ、進むべき道筋を示したのが、無着先生だったのである。

 残念ながら、こうした思いが訪れたのは、父の死の後であった。たとえ無着先生のアドバイスを受けたとしても、父の生前には受けとめきれなかった可能性が強い。父が生きているうちは「面倒」「迷惑」が先に立ちがちだったからだ。父の思いを本気で考える契機は、父の死がもたらしたということであり、不幸なことだが、それなくしては本気で考える契機は持てなかったということであろう。生きている父を十分に大切にしたとは言えないままに死なせてしまったからこそ、父の心配を本気で考え抜き、それを解決する道を必死で探り、それを阻むものがあるならそれと本気で戦おうという意思を持つことが出来たのである。父の面倒を迷惑がり、時には嫌な顔さえしたであろう自分が思い返される。そんな自分に対して、父は何を心配してくれていたのだろうか。不自由な体で、命を縮めることさえ厭わないかのような姿をさらしてまで、自分を心配してくれた父に対する子の一ヶ月間の思いは、並大抵のものではなかったはずである。その結晶がこの作文なのである。

 生きているうちは極めて奇妙で理解しがたい行動であるに過ぎなかった父の行動が、次々と意味あるものとして思い起こされてくるのである。

 例えば、「急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で『ヤロ』『ヤロ』と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめる」(12)という行動だったり「遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣く」(4)というのだった。たぶんその時々に、「大人しくしてくれ」「もうやめてくれ」と思わずにはいられなかったであろう父の行動は、奇妙で理解しにくい行動だったからこそ、川合はずっと覚えていたのだろう。しかし、いかに奇妙で突拍子もない行動にみえても、それは心配・不安が深刻であるからこそ野奇妙さに他ならず、そういう気持ちを抱かせるだけの事実があるということである。「心配」がそれほど深刻だということである。ただそれが中風という病気のせいで、他人には伝わりにくくなっていたのではないか、と気づくのにそう時間はかからなかっただろう。そうなるとまもなく「中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったか」(9)と捉え直すことができるようになり、さらに「今考えて見ると、色々な心配ごとがたまってきたときそういうことがおこったのではなかったかと考えられる」(13)ようになってくる。その結果、病気のせいで奇妙で理解不能をするとしか思えなかった父の行動が、実は川合の将来を一番心配した結果だということに辿り着くのである。

 まず、病床にあって、家族の看護が受けられなくては父は生きていけないのである。つまり自分の死に対する心配である。家族に頼り切っている父親にとっては自分を介護してくれる家族が生きていけなくては、自分の介護どころではなくなる。つまり、自分の心配はすぐさま家族の命の心配となるのである。そして、生きていくという意味では、生計を立てていく手段が唯一決まっていない私、つまり末っ子の将来が一番心配だということになる。つまり、「)私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ。」(14)という結論に辿り着く。これは無着先生の「お前のことをずいぶん心配して死んで行った」(10)というひと言とぴたりと結びつくのだ。つまり、父親の奇妙な行動は、病気のせいではなく、「末っ子の将来」という現実的で具体的な心配の結果だったのである。

 中風という病気に対する考えも変わってくる。中風になって自分では何もできない迷惑な存在である父を通して、「中風という病気はいやな病気だなあ」(5)、「私だけは、こんな病気になりたくない」(6)というように中風に対する拒否感、嫌悪感しかもてなかった。これはその病気にかかった父自身に対する嫌悪を通して、中風という病気を嫌悪するだけだった。しかも、「私の家は中風まきという血統で、必ずなるんだそうだ。」(7)と自分もやがては父のように家族の負担にならざるを得ないと諦めてしまっていたのである。それが「はたして、まきというものがほんとうなものかどうか」(8)というように、冷静に中風という病気を捉えられるようになり、中風に向き合い、知ろうとする態度が感じられるように変わっていく。それは中風にかかっている父親に対する理解が深まり、病気と父親とを切り放してみられるようになりつつあるということだ。つまり、やがて家族に面倒を見てもらう以外ない、「迷惑なお荷物」ではない自分を見出すきっかけが作られているということである。

 その結果、「私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ。」(14)という結論が導き出されるのである。

 一般に、末っ子程かわいいものである。「かわいい」というのは、より保護を手厚くしたいということであり、心配につながっていく。ただでさえ末っ子はかわいいもので心配であるが、川合が「心配」されているのは末っ子だからということだけではない。

 それは、「四 兄弟たちと家」に記されている。川合自身が「そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない」(15)と述べているところに現れているように、「家の貧しさの問題」ということが元兇だということが示される。つまり、自分以外の家族が生活費を稼ぐ手段が既に決まっているのに、自分だけが何も決まっていないことにあったのだ。それが(17)(19)(24)(25)(26)(28)に挙げられている。繰り返し強調されるほど強固な根拠なのである。

 特に(25)においては、「一番大きい兄さんは」「二番目の兄さんは」「三番目の兄さんは」「一番大きい姉さんは」「二番目の姉も」とほかの兄弟姉妹に比べて、自分だけが仕事が決まらず、それは川合が生きていけるかどうかさえ分からないことを意味しているという。父が心配しないわけはないのである。そのうえ、川合の家の財産は決して多くなかったようだが(16)、その少ない財産を継ぐのはまだ生活費を稼ぐ手段が決まっていない末っ子の川合ではなく、兄の多慶夫なのである。つまり、川合は差し当たり生きていけるものさえ手に入らないのである。

 農村の貧困だけではなく、財産の受け継ぎは、農家の次男以下の問題として、川合だけではなく農村の一般的な問題でもあった。だから無着はそれを学級で学習を組織し、最終的には男だけの問題ではないという意見に至っている。無着は、生徒たちの現実問題を1つずつ取りあげ、それに対する考え方を組み立てさせているのである。「やまびこ学校」の作品は、放任された生徒が勝手に生みだしたのではなく、無着により意図的に計画された学習を通して獲得されたものであるということを決して見逃すことはできない。

 川合が中学3年であることも重大な問題の一つである。この作文が書かれたのは、川合が中学3年の10月のことで、卒業までに残された時間が少ないのだ。当時の山元村では中学卒業後はほとんどが労働者になるからである(というより、卒業する前から、すでに労働者でもあったのだが)。実際、1951年に山元中学校を卒業した「山びこ学校」の卒業生42名のうち、高校へ進学したのは4名(内2名が全日制、残り2名は定時制)のみだった。川合も多くの生徒と同じように高校への進学はしなかった。本人の希望ではなく、経済的にそんな余裕はないのだ。働かないと生きていけないのだ。「中学三年で、学校も卒業しなくて、もちろんどんな職業に就くかということもわからなくて死んで行かなければならないのだったから、心配なことであったにちがいない」(21)というわけである。それに加えて特にその当時は就職難の時代で、「職業に就くのが、なかなかなんぎだということを知っていたお父さんの心配」(22)は、並大抵ではなかったことになる。まさに、農家を継いでも不作から免れられないが、末っ子は、卒業した途端に生きていけるかどうかさえ怪しい状態になるのだから、父の心配が並大抵でないことは、十分に納得出来るだろう。

 さて、「父が何を心配して死んで行ったのか」という問いを追求することになったきっかけは、無着先生の「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」(10)というひと言であったというが、実は既にその問いの中に答えが内包されていたというべきではないだろうか。

 先ほど「その内容をはっきりと捉え直し、問題点を純化し、解決する道を課題として取り上げるのは本人でなければならない。そのスタートラインに立たせ、進むべき道筋を示したのが、無着先生だった」と書いた。しかし、スタートラインに立った川合を自分なりに自由に考えさせた、あるいはその先を考えるも考えないも本人の自由としたという訳ではなかったことははっきりしているだろう。決して無着先生は答えを「これが正解」として押しつけた訳ではなく、考えの深さや浅さやどんな結論に至るかはあくまでも本人に任されていた。ただし、もし物足りない答えに終始してしまったならばさらに熟慮を促すことは準備されていたのではないだろうか。つまり、川合は「父は何を心配心配して行ったか」という問いを持ち、「私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ」(14)という答えは既に無着に導かれる道が敷かれていたと見るべきだろう。もともと川合の中に、漠然とした問いがあり、それが無着からの「アドバイス」の提示によって、川合の問いが明確なものとなった。それは取りも直さず、考える材料や考える方法を提示したのであり、より深く考え抜くことによって、今たどり着ける最高峰に着地させようという意図が、はっきりとあったということではないだろうか。

 訳のわからない言動しかできない中風という病気を患い、遺伝的に自分も同じ運命を辿るしかないと信じ込んでいた川合に、父親の本当の姿や思いを見極めさせ、いったい「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを設定した時に既に、答えもまたはっきりと見通せるものになったと言えそうである。何が問題なのかが、漠然としたものではなくはっきりとした「問い」にまとめられた時に、答えは半分でかかっているとも言えるのである。それが、「山びこ学校」による「学び」であったといってもいいのではないだろうか。

 父は末っ子が果たして生きていけるのかどうかということを、病に冒され、不自由になった体全体で、真剣に心配して悶え苦しんでいたという「答え」を発見した川合は、そこに留まるのではなく、さらに進んで川合が自ら次の課題を明らかにするところに進んでいくほかなかったのである。実際に、作文は「五 私の考え」に進んでいくのである。そこでは「今生きているお母さんだけでも、安心させなければならない」(30)こと、そのためには「よい職業に就くこと」(31)だとという結論に至っている。そして、「将来なにさせるか」(32)を心配していた父が亡くなってしまった今、今も生きているお母さんを安心させることは、死んだお父さんを安心させることと同じだと考えるのである。

 その揚げ句に辿り着いた川合の考えは、「よい職業」に就くことに辿り着く。では、「よい職業」を川合はどのように考えたであろうか。

 もともとは自動車の運転手になることを望んでいた川合であったが、「よい職業」とは何かということを警察予備隊を1つの例として考えている(33)。当時の背景にふれると、この作文が書かれたのは1950年10月だが、同年の8月に警察予備隊が発足していたのだった。6月には朝鮮戦争が勃発していた。定員7万5000人の警察予備隊は安定した収入のある職業だった。その警察予備隊について考える際に、川合は教科書や本を参考にした(34)(37)。本のどこに書かれていたかを「今でも覚えている」と言うのだ。問題意識の高い人間が深く学習することが現れている。

 その職業について、金銭的な収入源という面(35)、世の中への貢献いう面(36)(39)、自分の才能と欲求という面(38)に注目して考え、予備隊は収入は安定していても、世の中への貢献という面、それに才能や欲求という面からそれぞれ批判をしている(40)(41)。職業を選ぶための重要な意味と、警察予備隊への批判がそれぞれしっかりと対応している。そのうえで、「職業を選ぶ権利」について「実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ」として、現実離れした建前は、厳しく吟味される。

 川合は、ひどく貧しい中で生き、すぐにでも生きていけない状態に陥りかねない立場にあるのに、職業を金銭面(35)でのみ考えず、世の中のためになるかどうかということ(40)まで考えている。ここにも無着の指導が大きく影響していると思われる。この作文のタイトルは「父は何を心配して死んで行ったか」ということだが、作文の最後には「職業科の勉強として」とある。無着によって計画された職業について考えさせる学習の一環だったのである。

 山元中学校の生徒はすでに労働をしていたし、卒業すればそのほとんどは純粋に労働者となる。また、川合のような農村の次男以下にとっては何を職業に選ぶかということが問題だった。警察予備隊については、無着の意見に強く影響され、単に無着の口真似に過ぎない可能性もあるが、山元中学校の生徒としては労働は大きなテーマの1つであり、金銭面、世の中への貢献、自分の才能と欲求という面から考えさせたことは、無着は職業観を深めさせたと言ってよいだろう。

 この辺りが「偏向教育」と非難される根拠の一つとなっているようであるが、川合の職業についての学習が深まったのは、指導している無着の働き方の中に川合に響くものがあったからに他ならないであろう。教科書の記載に必ずしも盲従していない川合が無着の指導に耳を貸したとしたら、無着自身の働き方に共鳴するものがあったからに違いない。無着は学校教員として、金銭のためだけに働いていたのではないだろう。確かに学校教員には安定した収入はあったが、無着はそれにとどまらず、教師として生徒の成長を促す役割を果たしている。それは、川合の問いを言葉にできるまでに明確にさせ、作文も書かせ、職業についての学習も組織しているところに表れている。

 もちろん、職業に就けるかどうか自体が死活問題である川合にとって、金銭面ももちろん重要である。無着は教師として世の中への貢献を十分果たしていたと思うが、それには逆に安定した収入があったからこそできたというべきだろう。安定した収入が約束されていない川合が、警察予備隊という仕事を金銭以外の観点から批判するに至ったのは、無着の影響が大きいと同時に、微かな違和感を持つことはなかっただろうか。

(2) 江口江一「母の死と其の後」

 二作品目に取り上げるのは、江口江一の書いた「母の死と其の後」である。江口の家は主に葉煙草を生産する農家だった。しかし、江口の家の一番大きな収入は実は村からの扶助料(生活保護)だった。作文で書かれている通り、貧しい山元村の中でも江口の家は最も貧しい家の1つだった。江口江一は男2人女1人の3人兄弟の長男だった。この文章は1949(昭和24)年12月16日に書かれている。同年11月には母親が亡くなっていて、母親の死の1ヶ月後に書いた文章ということになる。このとき江口は中学2年生だった。ちなみに、この作文が、当時の全国作文コンクールで文部大臣賞を受賞した作品であり、「山びこ学校」がベストセラーとなるきっかけとなった作文だ。以下で、実際の文章を引用する。

       母の死と其の後  江口江一

1 僕の家

 (1)僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんぐらい貧乏です。そして明日はお母さんの三十五日ですから、(2)いろいろお母さんのことや家のことなど考えられてきてなりません。それで僕は僕の家のことについていろいろかいてみたいと思います。

 明日は、いよいよいちばんちいさい二男(ふたお)と別れなければなりません。二男も、小学校の三年生だが、お母さんが死んでから僕のいうことをよく聞いて、あんなにちっちゃいのに、よく「やんだ(いやだ)」ともいわないで、バイタ(たきぎ)背負いの手伝いなどしてくれました。だから村木沢のお母さんの実家に行っても一丁前一丁前(一人前)になるまで歯をくいしばってがんばるだろうと思っています。

 ツエ子も、明日三十五日に山形の叔父さんがつれて行くように、親族会議で決まっていたのですが、お母さんが死んでからずうっと今もまだにわとりぜき(百日咳)でねているので、なおってからつれて行くことになりました。

 それも間もなくつれて行かれることでしょう。そうすれば僕の家は今年七十四になる、飯たきぐらいしかできなくなったおばんちゃん(おばあさん)と、中学二年の僕と二人きりになってしまうことになるのです。

2 母の死

 なぜこのように兄弟がばらばらにならなければならないかといえば、お母さんが死んだことと、家が貧乏だということの二つの原因からです。

 僕の家には三段の畑と家屋敷があるだけで、その三段の畑にへばりついてお母さんが僕たちをなんとか一人前の人間にしようと心配していたのです。

 お母さんは、身体があまり丈夫ではなかったので「自分が死んだら家はどうなることか。」ということを考えていたかもしれないけれども、自分の身体を非常に大事にする人でした。それでも貧乏なために、ほかの人にしょっちゅうめいわくをかけなければならなかったことと、役場から扶助料をもらっていることを悔いにして(苦にして)、しらないうちに(知らず知らず)無理がはいっていたのかも知れません。(3)僕も、中学一年のときから無着先生にことわって、たびたび学校を休ませてもらい、力仕事なんかほとんど僕がやったのですが、やはり一家の責任者でないから気らくなものでした。だから、(4)お母さんは力仕事でまいったというよりも「どういうふうにして生活をたててゆくか。」「どういうふうにして税金をはらうか。」「どういうふうにして米の配給をもらうか。」そういう苦労がかさなったのだと思います。

 (5)診療所に入院して今に死にそうになってからも「たきものはこんだか。」「だいこんつけたか。」「なっぱあらったか。」などとモゾ(うわごと)までいっていました」。そういわれると、面会に行った僕が「これでお母さんもおしまいだ。」と思いながらも、なにもなぐさめることができないで、家の仕事のことが頭に考えられてきて、ろくろく話もしないで帰って来るのでした。

 それでも、(6)お母さんが死ぬ前の日、十一月十二日、「境分団がゆうべ自治会をひらいてきまったんだ。」といってみんな手伝いに来てくれたときは、仕事の見とおしがつかなくて、「もう、いくらやってもだめなんだ。」と思ってがっかりしていたときでしたので、僕をほんとに元気づけてくれました。ほんとに僕が一人で何日かかっても終りそうでなかった柴背負いが、たった半日の間に、またたくうちに終ってしまったんです。

 その次の日、(7)忘れもしない十一月十三日の夜があけないうちです。母が入院している村の診療所から六角六角(地名)の叔父さんに、叔父さんのうちから僕のうちに「あぶない。」というしらせが来て、みんな枕もとに集ったとき、そのことを報告したら、もうなんにもいえなくなっているお母さんが、ただ、「にこにこっ」と笑っただけでした。そのときの笑い顔は僕が一生忘れられないだろうと思っています。

 今考えてみると、お母さんは心の底から笑ったときというのは一回もなかったのでないかと思います。お母さんは、ほかの人と話をしていても、なかなか笑わなかったのですが、笑ったとしても、それは「泣くかわりに笑ったのだ。」というような気が今になってします。それが、この死ぬまぎわの笑い顔は、今までの笑い顔と違うような気がして頭にこびりついているのです。

 ほんとうに心の底から笑ったことのない人、心の底から笑うことを知らなかった人、それは僕のお母さんです。

 僕のお母さんは、お父さんが生きているときも、お父さんが死んでからも、一日として「今日よりは明日、今年よりは来年は、」とのぞみをかけて「すこしでもよくなろう、」と努力して来たのでしょう。その上「他人様からやっかいになる」ことを嫌いだったお母さんは、最初村で扶助してくれるというのもきかないで働いたんだそうです。それでも借金がだんだんたまってゆくばかりでした。

 それで、ついて、ばんちゃんとお母さんが役場に行って扶助してもらうようにたのんだのが(8)昭和二十三年の三月です。それから、お母さんや、ばんちゃんが、僕やツエ子に「おらえの(わたしの)うちはほかのうちとちがうんだからな。」と口ぐせのようにいうようになりました。

 それから(9)まる一年と六カ月たった今年の九月、お母さんは「たいしたことはない。すぐなおるんだ。」といって床につきました。ところが、十月になってもおきることができなくて、病気はだんだんわるくなるばかりのようでした。だからばんちゃんは、口ぐせに「医者に行って見てもらってくるか、それとも医者をあげて(さしむけて)よこすか。」といっているのでした。するとお母さんは「ゼニがない。」というのでした。それでばんちゃんは、「ゼニなど、ないといえばない、あるといえばある。医者にかからんなね(かからねばならぬ)ときは畑なんかたたき売ってもかからんなねったな(かからなければならないよ)。」というのでした。しかしそれだけでした。畑を売る話もなかったし、ただ「いつか医者からから()見てもらわんなねべなあ(もらわなければならないなあ)。」という話だけですぎていきました。そしてある日、やはりばんちゃんが「医者から見てもらわんなねベなあ。」と話しかけていたところに、太郎さんが来て「なんだ。医者さ()(に)も見せぬのが(か)。扶助料もらっている人あ、医者はただだから、あしたおれが言って医者をあげてよこす。」といって帰って行きました。

 次の日、医者が来て、お母さんを見てくれました。医者は、「うらの叔父さんをよべ。」といったのでよんできたら、叔父さんに「病気は心臓ベンマク症だ。入院しなくちゃならない。」といいました。

 それで、僕とばんちゃんと、医者と叔父さんの四人で、まずあつかい(看護)に行く人の相談をしました。で、ばんちゃんは「江一をはなすと仕事をする人がいなくなるからツエ子よりほかにない。」といったので、ツエ子が行くことにきまりました。ツエ子は小学校五年生です。ちっちゃい(小さい)のです。しかし、しかたありませんでした。それで、医者は飯を食って帰ってしまったし、午後から僕とばんちゃんは入院の用意にとりかかりました。

 次の日、叔父さんがリヤカーをかりてきてくれました。雨が降っていたので小降りになるまでお茶をのんで、それから出かけました。ふとんをつけて、お母さんをのせて、なべだの(とか)野菜だのといったものをうしろにつけて、お母さんにはあんかをだかせて、油紙をかぶせて、からかさをささせて出かけました。

 (10)入院させてしまうと、僕は急にせかせかしだしました。入院は(11)十一月二日でしたが、それまでは、いくら病気をしていてもなにもできなくとも、お母さんがいるということであんたい(のんびり)していたのです。(12)それが急に僕一人になってしまったものだから、あわてだしたのです。それで、ツエ子はどんなあつかいをしているか心配でしたけれども、僕が行くと、それでなくともおくれている仕事がまだまだおくれてしまうので、(13)行かずに毎日仕事をしていました。

 (14)それでもやっぱり、自分が責任をもってやるとなると心配で、なにもわからないからなおさら心配でした。それで(15)十一月八日、そのことを書いて先生にやったら、先生がすぐ返事をよこしてくれました。それで元気づけられているところへ境分団から応えんに来てくれたのです。

 それでもとうとう(16)十一月十三日お母さんは死んでしまったのです。葬式は(17)十五日でした。そのときは無着先生と上野先生が来てくれました。同級生を代表して哲男君も来てくれました。境分団の人がみんな来てくれました。伝次郎さんが境分団の「お悔やみ(香典)」を持ってきてくれました。僕はなんにもいえませんでした。だから黙ってみんなの方をむいて頭をさげました。あとで先生に聞いたことですが、同級生のみんなが「お悔み」を出し合ったほかに、義憲さんや貞義さん、末男さん、藤三郎さんたちが「江一君のお母さんへお悔みを……」といって全校から共同募金を集めてくれたということですね。僕はこのときぐらい同級生というものはありがたいものだと思ったことがありません。

 それで、葬式をすまして、金を全部整理してみたら、「正味七千円のこった。おまえのおやじが死んだときよりも残った。」とばんちゃんがいったので、僕も、「ほんとにのこったのかなあ。」と思ったほどでした。しかし借金を返したら、やはりあとには四千五百円の借金がのこっただけでした。だからやはり父が死んだときの方がよかったのです。

3 父の死

 父の死については、ばんちゃんや、お母さんから耳にタコができるくらいきかせられていますから、よくわかります。

 父は僕が六歳のとき、二男が生れて五日目、昭和十五年、今からきばっと(ちょうど)十年前、やはり貧乏のどんぞこの中で胃かいようで苦しみながら死んでいったのです。そして、その葬式のあとには五円のこったということでした。ところがその五円も、出しぞく(現金)で、なくなってしまったということです。

 それで、ばんちゃんとお母さんは明日食う米にも困り、毎日毎日、ぞうりを作り、それを米に変えねばならなかったということです。よくお母さんがいっていたことなのですが、「あの頃は、どういうわけだが、ぞうりがあんがい高くてな。ばんちゃんと二人で一日かせげば米の二升は買えたもんでな。お前が六ツか七ツで年頭(年がしら)なので、五人家族でもそんなに食わないから一日一升あれば十分だったので、おっつあ(お父さん)が死んで一、二年は、すこしずつたまっていったけな。この調子ならお前が一丁前になるまで持ちこたえればいいなと思っていたら、昭和十七、八年頃からだんだん借金しなければならなくなってきたものなあ。」といいいいしたお母さんの言葉が、いまでも僕の耳にこびりついています。

 (18)ほんとに、「江一さえ大きくなったら……」と、そればっかりのぞみにして、できることなら、江一が大きくなるまではなんとか借金だけはなくしておきたいといいながら、だんだん借金をふやしてゆかねばならなかった僕のお母さん。生活をらくにしようと思って、もがけばもがくほど苦しくなっていった僕のお母さん。そしてついに、その貧乏に負けて死んでいった僕のお母さん。そのお母さんのことを考えると「(19)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう。」と(20)不思議でならないのです。

4 考えていること

 それから、ここまで書いてきてもう一つ不思議に思うことは、(21)自分がそんなに死にものぐるいで働いて、その上村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働きだせば生活はらくになると考えていたのだろうかということです。

 そのことになると僕は全くわからなくなって、(22)心配で心配で夜もねむれないことがあるのです。それは「(23)あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか。」という考えです。

 今日の昼間、先生に次のようなことを書いて出したのです。

(1) 来年は中学三年で、学校にはぜひ行きたいと思うから、よくよくのことでなければ日やといには行かず、世の中に出て困らないように勉強したいと思う。

(2) さらい年は学校を卒業するから、仕事をぐんぐん進めて、手間とりでもして 来年の分をとりかえす。

(3) 金が足りなくなく(足りないことなく)、暮せるようになったら、すこし借金しても田を買わねばならぬと思う。なぜなら、田があれば食うには(だけは)らくにくえるから、もしも田がなくて、その上、だれも金も米も貸さなくなったら死んでしまわねばならなくなるから。

(4) それから、金をためて、不自由なものはなんでも買える家にしたい。不自由なしの家にしたい。

(5) それには頭をよくし、どんな世の中になっても、うまくのりきることができる人間にならなければならない。

(6) とにかく、羊みたいに他人様から食わせてもらう人間でなく、みんなと同じように生活できる人間になりたい。

 先生に書いて出したのはこの六つですが、これは考えれば考えるほどまちがっているような気がしてならなくなるのです。

 (24)第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです。(25)第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです。

 (26)第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます。(27)こんなとき、僕のお母さんがもし会計簿をつけていたらなあと思います。そうすれば、それを見て、僕はどう考えればよいのかわかってくるにちがいなかったと思うのです。なぜなら私の家では三段歩の畑(うち、葉煙草は三畝歩で、残りは自家用菜園―編者)に植える葉煙草の収入しかないのだから、どんなに働いても収入は同じなのです。たとえば今年の生活を見てみると、去年の煙草を今年の一月に出して、二月にその金が一万二千円入って、そのときの七千円の借金をしているのです。

 この七千円の借金というのは、昭和二十三年度に出した借金で、三月から一カ月平均千三百円ずつ十ヶ月一万三千円の扶助料をもらったほかに出しているものです。

 それは二十三年度の生活を考えてみるとすぐわかるのです。五人家族で食ってゆくだけ、それも配給米をもらうだけで、一斗五百円(今年は六百二十円)としても、五人で一ヶ月三斗七升五合ですから、金に見積もれば、千八百七十五円です。この金が一ヶ月にぜひ必要な金だったのです。それが十二カ月では二万二千五百円になるわけです。それから去年(二十三年度)扶助料一万三千円を引いてみたところで、米代だけで九千五百円の借金です。それは、二十二年度の葉煙草の収入から出たとしても、二十二年度の借金を引いたのこりであろうし、わずかなものでしたでしょう。【だから去年の借金が、米代だけでも九千五百円にもなるのに、それを七千円でくいとめたというところにお母さんの努力がわかるのです(28)。

 ところが今年は葉煙草一万二千円のうちから、去年の七千円の借金をかえしたのこり五千円と、一カ月平均千六百円もらっている扶助料とも計算して、今のところの全収入は二万二千六百円になるわけです。ところが配給米一斗が六百二十円で、それを毎月三斗七升五合受けねばならなかったのです。だから金にしてみると、二千三百二十五円、それが十一カ月で二万五千五百七十五円です。だからもう米代だけで二千九百七十五円の借金になってるわけなのです。

 だからお母さんの葬式が終わってから、ばんちゃんが「七千円のこった。」というのを信用しなかったのです。考えてみると、のこるはずがないのです。

 しかし、母は、冬のうちは、ハタオリなどしてかせぎ、ほんとに困ると村木沢や山形の叔父さんのところからゆうずうしてもらって(四千円ばかりゆうずうしてもらっていた)現在の借金は三千五百円になりました。

 ところで、これから僕は一人で家族全部に食わせることができないので、親族会議でツエ子と二男は、母の兄さんたちに育ててもらうことにきまりました。そうなれば、僕のうちは、いよいよばんちゃんと二人で立ててゆかねばならなくなるのです。

 それで考えてみると、二人して食う米の量は、一ヶ月一斗五升としても九百三十円必要です。税金が二百五十円、そのほか醤油代とか、塩代とか、電気料といったような、毎日必要なきまった金高だけを計算してみると、一ヶ月ざっと二千円はかかるようです。このほか、着物が切れたといっては着物を買わなければならないし、冬になって炭やまきを買うとなればまたたいしたものだし、やっぱり二人して生きてゆくためには、一カ月平均、いくら少く見積っても二千と五、六百円は必要なようです。

 それで、役場から扶助料を千七百円くらいもらうのをかんじょうに入れて計算してみても、三段歩の畑から出てくるものは葉煙草二十貫にきまっているし、今年は去年より悪かったから一万円にならないにちがいないのです。一万円としても一ヶ月八百円。扶助料と合わすと、二千五百円、(29)これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです。

 (30)だから「金をためて不自由なしの家にする」などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです。

 このことを考えてくると、(31)貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないかと思えてくるのです。三段歩ばかりの畑では、五人家族が生きてゆくにはどうにもならなかったのでないでしょうか。

 だから(32)今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです。

5 その後のこと

 それで、この間、十一月二十九日、校長先生と無著先生がたずねてきてくれたとき、そのことをきこうと思ったのでしたが、無著先生から-「今、バイタ背負いしているのか。」

「今、何日かかるんだ。」「それが終わったらなんだ。」

「煙草のし。」(葉たばこの皺を一枚一枚のばすしごと)

「そりゃ何日ぐらいかかるんだ。」

「わからない。」

「ワカラナケレバ去年の日記を出してみろ。」

「去年の日記さ()そんなこと書いてない。」

「だめだ。日記さ、ちゃんと今日から葉煙草のしを始めた、何日間かかるか、毎日書いて、次の年、計画が立てられるようにつけるんだ。今日からさっそくつけろ。」

「煙草のしが終わったら何だ。」

「雪がこい。」(積雪に備えて家のまわりをかやであんだすのこでかこうこと。)

「それが終わったら何だ。」

「それが終わると学校に行けるかもしれない?」

「何だ、それじゃ二学期はほとんど来れないじゃないか。明日水曜日で米配給だろう。」

「そしたら午前中、学校さ来い。そしてもう一ヶ月半も学校に来ないんだから、みんなに顔を合わせて、お母さんが死んだとき義憲だ(たちが)(達が)心配してくれたんだからお礼の一つもいいなさい。」

「それから、明日まで仕事の計画表をつくってもってこい。」

等々、ポンポンいわれたので、なんだか気持がすうっと明るくなったような気がして、その夜は十二時までかかって、「ほんとにどのくらいすればいいのかなあ。」などと考えながら仕事の予定表を作ってみました。作ってみると先生からいわれたとおり、十二月は一回か、よくいって二回しか学校に行かれないことがわかりました。

 次の日、三十日、学校に行ってその計画表をみせたら、先生はじっとみていたが、「宿直室に行っておれ。」といって、それから籐三郎さん、惣重さん、俊一さん、勉さんも宿直室に行くようにいいました。それからすぐ先生がやってきて、僕の計画表を出して、「みてみろ。」といって籐三郎さんに渡しました。

 籐三郎さんはだまって見ていました。見終わって顔を上げたとき、先生が、「なんとかならんのか。」といいました。籐三郎さんはちょっと考えるようにしてだまっていましたが、「できる。おらた(自分たち)の組はできる。江一もみんなと同じ学校に来ていて仕事がおくれないようになんかなんぼも(たやすく)できる。なあ、みんな。」

 と俊一さんたちの方を見ました。みんなうなずきました。僕はうれしくなってなみだが落ちるようになったのでしたが、やっとがまんしました。それでも、「ただバタつかない(慌てない)ようにな。ここには何人、これが終わったらこれ、といった工合に計画だけは立てておけなあ。」といわれたときは、思わず涙がぽろっとひざのところへ落ちてしまいました。」 そして、一人では何日かかっても終わりそうになかったバイタ運びと葉煙草のしは、十二月三日の土曜日に、境分団ばかりでなく遠く前丸森からも俊一さんはじめミハルさん、幸重君、春子さん、チイ子さんたちが手伝いに来てくれて終わってしまい、末男さんたちのおかげで雪がこいも終わらしてしまうことができました。

 聞くところによれば、先生もこの日、籐三郎さんと貞義さんから手伝ってもらって、「みんながいる村へ行くんだ。」といって、須刈田に家うつり(引っ越し)したんだそうです。

 僕は、こんな級友と、こんな先生にめぐまれて、今安心して学校にかよい、今日などは、みんなとわんわんさわぎながら、社会科「私たちの学校」のまとめをやることができたのです。

 明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。(33)お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。(34)私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。

 僕たちの学級には、僕よりもっと不幸な敏雄君がいます。僕たちが力を合わせれば、敏雄君をもっとしあわせにすることができるのではないだろうか。みんな力を合わせてもっとやろうじゃありませんか。

(一九四九年十二月一六日)

             

 以上が「母の死と其の後」の全文である。

 江口の問いは2つある。この作文の冒頭で「お母さんのことや家のことなど考えられてなりません」(2)のように述べられていて、江口はが母親のことと、「家のこと」のことを2つ同時に悩んでいたことがはっきり記されている。一つは、「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」(19)、母親の暮らしがなぜ楽にならなかったのが「不思議でならない」(20)という母親についての問いである。もう一つは「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」(23)どうか「心配で心配で」(22)ならないのであり、つまるところそれは「ほんとに金がたまるのかというギモンです」(24)と端的にまとめられた、江口自身のこれからの生活についての問いである。「そんなに死にものぐるいで働いて、その上村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働きだせば生活はらくになると考えていたのだろうか」(21)という問いは、(23)の問いと同じ内容である。したがって、この文章には、亡くなった母親についての問いと(19)、自分の将来に関する問い(21)(23)(24)の二問がある。

 ちなみに、「第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです」(25)ということも問いとして加えられているが、「第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます」(26)というように、他人に対する心配は、この作文では考えられていない。江口の貧しさは他人の心配をする余裕などなくても、むしろ当然だと言える。江口ほどの貧しさで、兄弟さえもバラバラになってしまうのに、他人に配慮しかけているだけでも驚かされるほでといえるのではないだろうか。

 この問いは提示されただけだから、どこから出てきて、どう考えたものか、作文では示されていない。当時の山元村では田を買うことによって他の村人が困るようなことが実際に起きていたのか、親や祖母あるいは村の大人たちの影響だったのか、はたまた無着の指導の影響か。学級でそういう問題についても討論しあっていたのだろうか。いずれにせよ、この作文を書いた時の江口にとっては、最重要の疑問ではなかったようだが、心のどこかで気になり、配慮すべき問題とされていたのだろう。これは、たとえほかに重要な問題があったにしても、母親のこと、そしてこれからの自分の生活のことという2つの問題こそが、今の自分に降りかかる重要名問題であることを際立たせている。

 当然、答えも2つになる。1つ目の母親についての問いに対する答えは、「貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないか」(31)という答えが導かれる。また、自分の将来については「これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまう」(29)のである。「だから『金をためて不自由なしの家にする』などということは、はっきりまちがっていることがわかる」(30)のであり、「今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです」(32)という悲しい結論に至る。

 こうした答えの根拠は、「4 考えていること」において、母がいた頃の家計の収支の計算と、これから自分が家の責任者となり、祖母と2人になった場合の収支の計算から導かれている。それぞれが相当詳しく具体的に計算されている。それはあとで詳しく読んでみることにする。

 その前に、掲げられた2つの問いの関係を、改めて考えてみる。実はこの2つの問いは同じ問いだったのである。

  江口にとって、母の生前から家の貧しさは目の前にある問題ではあったはずだ。もともと江口の家は貧しい山元村の中でも最も貧しい家の1つだったのだ(1)。家計の計算を見ればわかるが、村からは扶助料(生活保護費)をもらわないと全く生活は成り立たないくらいだった。その結果江口は中学生でありながら労働力として必要だったために学校を休まなければいけなかった(3)。それでも母親が元気だった頃は、一家の責任者でなかったから気楽だったのだ(3)。多少嫌でも、言われたことをやり遂げれば、とりあえずそれ以上の責任はなかった。家の責任者でないうちは、本当の意味で貧困に立ち向かうという意識は、他人事ではないにしても、まだまだ甘く問題の核心には触れないでいられた。まだまだ子供に過ぎなかったのだ。

 ところが、母親が入院してからは、母に代わって毎日仕事をするしかなくて、全く学校にも行けなくなる(13)。それ以上に母親が入院してからというもの、頼る人がいなくなってしまい、慌てだしたようだ(10)(12)。江口が、中学生にもかかわらず家の責任者になってしまったことは、不安に溢れることで、「心配で」「なおさら心配でした」と繰り返している(14)ように、心配でたまらなかったのだ。

 病床であれ、母親はそれでも生きていた。そころが今度は母が亡くなってしまう。中学生の江口江一にとって、親の死以上に大きな喪失があるだろうか。表現においても、「僕のお母さん」「僕のお母さん」「僕のお母さん」(18)と繰り返しており、母への強い思いが感じられる。しかも、江口の父親はすでにずっと前に亡くなっている。母の死は、江口にとっては両親を共に失うことに他ならなかったのである。長男である江口江一は、両親が亡くなれば家の責任者にならざるを得ない。親が生きているうちでさえも生活が成り立たない程の貧困に見舞われていたいえを中学生の江口が引き継がなくてはならないのだ。母の死は誰にとっても重いものだが、江口にとってはこうした事情で人並み以上の重い意味があり、それらがまとめて一度に襲い掛かって来るかのように感じられたことは想像に難くない。

 江口の母親は直接的には病気で亡くなった。しかしそれだけでは割り切れないものが残る。そもそも病気になったのは原因は、1人で家計を支えなければならない苦労があったためだ。そうした貧困による過労に加えて、病気になった時に「ゼニが無い」と言って医者にかからなかったことも病をこじらせ、死につながったといえる。

 江口の家の貧困は、怠けていたせいでは決してなかった。江口に「あんなに働いても」と言わせるほど母親は一生懸命に働いていたのだ。その母親が死ななければならなかったのはなぜか。家計の数字の上からも江口の母親が何とか借金を食い止めようと一生懸命だったことが分かる(28)。それどころか、江口の母親は入院中にもうわ言で家の仕事を心配するような人だった(5)。

 その母に代わって家計を支える立場に立たざるを得なくなった江口の前に最初に立ちふさがったのは、弟や妹と別れであった。親戚が決めたことだが、そうせざるを得ない程に貧しかったのだ。悲しいかな、江口は幼い弟妹の行く末を心配する余裕さえない。きっと頑張ってくれるに違いないと、自分に言い聞かせている。その結果祖母と二人だけで、多少身軽になったのである。しかし、それでも家の生計をどうやって立てて行くか、何も分からないことによる不安が強かったのだ(14)。江口はまだ中学2年生だったのである。自分が田を買うことによって起こりかねない他人の心配に置きを掛けながらも考えが及ばなかったように、自分の妹や弟たちについても、十分に思いやることができずにいたのだ。目の前の生活を何とかしなくてはならない江口は、自分のことばかり考えている(あるいは自分のことしか考えていない)自分に後ろめたさを感じながらも、責任ある立場から逃げ出すこともできずに必死で考えた挙げ句に、母の死後たったの1ヶ月しか経たないにもかかわらず、この作文を書いた。ここには、母の死の悲しみに浸るだけではなく、他人はもちろん、実の妹や弟に対する心配の棚上げして、これからの自分と祖母の生活をどうするのかを考えざる終えない程、強い不安に見舞われていたのだ。作文を書いている頃は、夜も眠れないほど心配だったのだ(22)という。

 なぜ母は、あれほど必死に、身を粉にして働きながら、幸せになるどころか、病に冒されて非業の死を遂げなくてはならなかったのかという疑問は、絶対に捨て置けない疑問だった。しかしそれは、たちまちのうちに、母に代わって家計を支えなくてはならない自分自身の問題となった。必死で働いたところで、自分も母と同じように病に倒れるしかないのではないか。そもそも「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」(23)とか「ほんとに金がたまるのか」(24)。母にできなかったことをぼくがやり遂げ、さらに豊かになろうとしている。そんなことなどできるはずがないのは火を見るより明らかだ。もし、母が怠け者であったなら、まだ希望が持てるかもしれない。しかし、そうではなかった。男の自分が母に負けずに力仕事をこなすことは可能かもしれない。しかし、「お母さんは力仕事でまいったというよりも「どういうふうにして生活をたててゆくか。」「どういうふうにして税金をはらうか。」「どういうふうにして米の配給をもらうか。」そういう苦労がかさなったのだと思います。」(4)とあるように、母程に対応できない問題が、中学2年生の自分の目の前に横たわっているのだ。どうしたら良いのか分からない問題が、自分で解決しなくてはならない問題として目の前に迫っている。頼る人もいない。これほど不安で仕方がないことがあるだろうか。

 ところで、江口が抱く不安はすべて自分自身の問題として自然に考えるようになったのだろうか。きっかけを作ったのは、教師無着の働きかけが大きかったのではないだろうか。強い不安のある江口に対して、無着はこれからの計画・目標を提出させた。江口は自分で計画を考え提出することによって、漠然としていただけの不安がはっきりとした形を持つようになったのではないだろうか。根拠のない希望は、たちまちのうちにたたきつぶされた。問題がはっきりとした姿形を持って自分の前に現れてきた。それが作文を書かせる原動力になったのではないだろうか。

「今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただの夢で、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです(32)。」というところに、この作文を書く原動力が生まれたのではないだろうか。

江口の目の前にあるのは、夢も希望の欠片もない残酷な現実である。普通の中学生なら、絶望的な現実に対して「がむしゃらな努力」や「無計画な夢」などを並べ上げて済ませてしまうことが多いかもしれない。実際それで済んでしまうことも少なくないのだ。しかし江口は、この作文を書くことによって、今自分の目の前にある問題が、そんなものでは全く歯が立たない、解決できない問題であることを思い知らされたのである。この作文を書くことによって導き出される最終的な答えは、それこそ「社会の変革」を必要としているということに目を開かせるものだったのである。

 普段から影響を受けていた「教師無着の口まね」のようなところも多少はあることだろう。その辺から、「やまびこ学校」は「イデオロギー教育だ」などという批判も生まれてくるのだろう。しかしそもそも全くイデオロギーを含まない教育などというものがありうるのだろうか。もしあったとしたらすべてを他人事に見なすだけの評論家育成を「教育」と称しているに過ぎないのではなかろうか。あるいは巧妙にイデオロギーをひた隠しにしているのではなかろうか。そもそも「やまびこ学校」の「イデオロギー的な教育に見える部分」は、許容範囲を超えているだろうか。真に問題を突き詰めた時に、ほかの答えが導かれ、ほかの道が示されるというなら、「偏向」と呼べるかもしれない。果たしてそんなほかの答えや道があっただろうか。

 そして、江口に襲いかかる問題が、簡単に乗り越えられ、解決出来る問題ではないという残酷な教師の働きかけを、江口がしっかり受けとめることが可能となったのは、江口の中に既に問いの萌芽があったからというほかない。それは明確な言葉にはなっていない感情のレベルの疑問や不満であったかもしれないが、そこから破れかぶれの根拠のない夢に走らずに、現実を見つめる道に導いたのである。このままでは母と全く同じ状態のままである現実に巻き込まれていくしかない自分の運命が見えてきたのである。教師無着に導かれながらではあるが、今後やるべきことがうっすらと見え始めたのではないだろうか。

 はっきり言えることは無着が示したこと言い換えると江口が得たことは、お仕着せのプロパガンダでも、机上の空論でもなかった。江口は現実生活の中で母親と同じ立場に立ったことによって、母親と同じ課題を持つに至ったということに他ならない。母は、その運命に翻弄され、必死であらがいながらも力尽きていった。江口は、そうならざるを得なかった母について考え、母と同じ運命を辿る道を逃れようとあがき、別の道を求めているのだ。

 では、江口が見出した答えというのはどんなものなのだろうか。今のところ何ら解決しないどころか、目ざすべき答えもすべてがわかった訳ではないのである。つまり、明確な答えばかりではなく、曖昧な答えも未得てこないのである。

 ここで、江口の出した問いと答えを整理してみる。まず、「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という母親についての問いに対して、「貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないか」(31) という答えを見出している。ここでは貧しさの責任を母の働きぶりではなく、働く条件の方に原因があると、これははっきりと断言している。

 母と同じ条件の下に働く自分の将来の生活は楽になるのかという問い(21)(23)(24)に対しては、「これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまう」(29)と述べている。その結果、「『金をためて不自由なしの家にする』などということは、はっきりまちがっていることがわかる」(30)と、これも断言している。そして、「今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです」(32)とこれも言い切っている。

 まず、(30)の「金持ちになることが無理だ」ということは明確に分かったと結論づけている。逆に扶助料を勘定に入れない生活が成り立つかどうかは「さっぱりわからなくなってしまう」(29)と最後まで疑問としている。ただし、(29)は3つの内容に分かれていて、(30)と合わせると4つの生活が並べられている。

第一に「精一杯の生活をする」ということ。

第二に「借金をなくす」ということ。

第三は「扶助料なしに生活していく」こと。

第四は「金をためて不自由なしの家にする」ということの4つである。

これは、生活水準の程度で順序づけられていて、1つ目は生きていくギリギリのレベルで、4つ目は経済的に余裕のあるレベルである。

 家計を計算することで、1つ目のレベルは達成できるかもしれないことが分かり、4つ目のようなことは「ハッキリまちがっている」と、実現の可能性がないことをはっきりと認めている。それに対して、2つ目、3つ目の水準に達成できるのかどうかは、分からないとしているのである。

この結果、何もかもが不安で仕方がなかった状態から、少なくとも分かることと、分からないことの区別がハッキリしたとは言える。こうした整理を促すことが無着の意図だったのであろう。

では、わかることと曖昧でわかったとは言えないものがあったにしろ、江口はどうやって分かることと分からないこととを明確に区別出来るようになったのであろうか。それは、「4 考えていること」で、家計の計算をした結果導き出されたのである。

 その計算内容は大きく2つにわけることができる。1つには、母が五人家族を支えていた頃の家計である。もう1つは、これから江口江一と祖母が2人になった場合の家計の予測計算だ。こちらはあくまでも概算で計算している。それはデータがなかったからだ。会計簿があれば、将来をどう考えればいいか分かるはず、と江口はデータを欲しがっている(27)。しかし、残念ながらデータはなかったのである。にもかかわらず、かなり詳しい計算を試みている。実際、たくさんの具体的な数字が並び読んでいる方からすると少ししつこく感じるくらいだ。

 母親の生前である昭和23年の収支では、米代だけで支出は22500円かかっている。また既に借金もいくらかあったようだ。それに対して、主な収入としては村からの扶助料が13000円、それに10000円前後の葉煙草の収入が加わるだけだ。米代でほぼ収入はなくなる。実際には米代以外にも出費はかさむはずだが、母は借金を何とか7000円で食いとめたのだ。

 家の責任者としてどうしたらよいのか何も分からない不安があった江口(14)にとって、とりあえず収入がいくらどれだけあるのか、支出がどのくらいかかるのかといったことが、まず必要な情報だったのだろう。そこで母親の時代の家計の計算をしたのは、今後の自分の生活を考えるために不可欠なものであった。江口にとって、母親は自分がこからどうしたら良いのかのことを考えるための材料であったのだが、実際には同時に母の偉大さを再確認して(28)いて、改めて母自体への理解も進んでいる。

 これからの生活の家計も江口は計算した。江口は兄弟と離れ離れになり、祖母と2人で生活していくわけだが、支出としては、米代だけで1ヶ月に930円、税金が230円、その他のものを加えて2500円か2600円は必要になると予測をした。米代と税金しか支出がハッキリわからないのは、江口にデータがないからである。支出に対して、収入は扶助料が月に1700円、葉煙草の収入が800円となる。収支はちょうどギリギリのラインだ。実際には抜けている物もあるだろうから、余裕はなく蓄えなど不可能だ。となれば、江口が教師の無着に出した6つの計画は否定されることになる(32)。6つの計画のうち、特に4項目目の「それから、金をためて、不自由なものはなんでも買える家にしたい。不自由なしの家にしたい」という計画は、完全に否定されたのだった(30)。

 厳しい貧しさの中にあった江口でさえ、今後どうするかを意図的な介入なしに考えさせれば、現実離れした夢を、根拠もなく描いて終わってしまうに違いないということである。人は、自分自身と自分が置かれた状態の真実を把握することがいかに難しいか、そのためには現実を見直すための介入が不可欠であることを示していると言っていいだろう。無着成恭が江口にとりあえず今後の計画を自由に立てさせたのは、そうした意図を持ってのことであったに違いない。全く現実離れしたものであっても、とりあえず自分で計画を立てさせることが始まりであった。現実離れした計画を足がかりとして、最終的には江口は自身に現実離れしていることを感じさせ、その反省に立って実際の家計を計算し直すようにし向けたのだ。完璧ではなくとも、確実に自分の現状理解を多少なりとも進めることができたのだ。

 家計のやりくりを見直すことを通じて、ますます偉大さを感じ取った母に対する江口の印象的なの表現が、死ぬ間際の笑顔についての記述である。母は死ぬ間際に今までとは違う笑顔を残したと「あたまにこびりついている」というくらい強く印象に残ったと言っている。今までの笑顔は「泣くかわりに笑ったのだ」ようなものだったという。それが、この時の笑いは違っていた。境分団がみんなで手伝いに来てくれて、江口の仕事が進んだことを報告したときのものであり、母は、自分には乗り越えられなかった貧困を、みんなの協力を得て、江口が乗り越えられると感じて安心した結果生まれたものだったからではないだろう。江口の成長にかけていた母の心からの安堵が見て取れたのだろう。

 貧困の克服の困難さは、漠然とした希望を越えて、事実に基づいて導き出された確実性を持つものであった。それは家計の計算をできる限り事実に即して勘案した結果であった。他方母の死に際の笑顔は、果たして本当に安堵感を表していたのだろうか。今となっては確かめようもないことだが、できることは事実に即して母の死を辿ってみることで、本当だと信じ切れる道が開けるのではないだろうか。「2 母の死」で、母親が入院してから、その死に至るまでの説明をしている。その部分で「日付」が連続して書かれている。「お母さんが死ぬ前の日、十一月十一日」(6)「忘れもしない十一月十三日」(7)「昭和二十三年の三月」(8)「まる一年と六カ月たった今年の九月」(9)「十月」(9)の後、「十一月二日」(11)「十一月八日」(15)「十一月十三日」(16)「十五日」(17)と、江口は逐一、日付を刻んでいる。母親の死に至るまでを、徹底的に日付を追って記している。まさに事実だけを追いかけているのだ。事実の果てに見えてきた心に残る母の笑顔の意味は、間違いなく事実に裏打ちされていたと信じられたのではないだろうか。そのためにこそ江口は事実にどこまでも食らいついたに違いないという気がする。

 考えてみれば、この作品のすべてが事実を執拗に追いかけていた。「1 僕の家」においては、自分の置かれている状況を端的に説明している。状況とは、自分の家が貧乏であること、母親が亡くなったこと、兄弟と離れ離れになること、祖母と二人暮らしになることだ。そういった事実を、江口は1つずつ押さえていた。これは、徹底して事実を追求する姿勢であり、安易な希望的観測を排除しようという姿勢である。事実に必死で食らいつこうとする姿勢に「本当の姿」を暴き出し、「あるべき姿」を探り、両者の隔たりを少しでも埋めようとしている姿が見え来るのではないだろうか。

 江口は、この作文を書くことを通じて、分かることと分からないことを区別し、課題をより明確にすることができた。答えを出すことが、同時に次の問いを明確にすることだったのである。では、江口のこの作品はどういう課題・解決で終わっているだろうか。

 1つには、「お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。」というものである。貧しさは家計を計算するだけですべて納得出来るように解決することはできなかった。そこで「勉強」するということになる。ここで言う勉強とは、貧困を生む社会の改革方法を学ぶという、後に佐藤籐三郎の作品に登場する「学問」と同じものだろう。

 もう1つ、江口は「私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。」とも書いている。わからないことであり、正直のところ他人の心配どころであるにも拘わらず、やはりこの問題も江口はずっと気にしているようである。これを解決に導くものもまた社会構造を学ぶ学問に行き着くに違いない。ここからは、妹や弟を見捨てた訳ではなかったという、やさしさの希望の火が見え隠れするようにも感じられる。

 このようにして、江口は、自分の貧困と共に他人の貧困をも解決できるような村になってくれることを願い、そのために働くだけではなく、必死で学ぶことを課題として掲げた。この課題は作文を書いたことで解決できるようなものではない。これからも取り組む続けなくてはならない問題として江口の前に立ちふさがっているのである。しかし、作文を書かなければ、気づき、整理することのできない問題であったことも事実である。

 江口江一にとって、働く目的は第一に経済的な理由だった。生きるために収入が必要だったのだ。それは一生懸命働けば、ようやく生きていけるギリギリの生活ができるそうなことが家計を計算した上で分かってきた。かろうじて生きて行くだけであれば、何とかなりそうではあった。しかし、江口には村からの扶助料なしで生活していきたいという希望があった。そのことが課題として残されていた。

 江口は無着に提出した目標の中で、「羊みたいに他人様から食わせてもらう人間でなく、みんなと同じように生活できる人間になりたい」と書いている。江口の母親も村から扶助料をもらって生活していることを恥じていた。そもそも、収入が足りないにもかかわらず初めは扶助料をもらおうとしなかったのだ。ようやく扶助料をもらうようになっても、子どもには「おらえのおらえの(わたしの)うちはほかのうちとちがうんだからな。」と教えた。病気にかかった時に扶助料をもらっている人の医療費が無料だと知らずに治療が遅れてしまったのも、江口の母の中には周囲に経済的に依存するという発想がなかったのだ。江口からすれば、扶助料をもらって生活している自分は「人間」ではなく「羊」なのだ。したがって江口は、経済的自立を何が何でも果たしたかったのだ。

 扶助料をもらうことが果たして「人間ではなく、羊だ」と言えるかどうかに始まり、江口の個性を含むことで賛否を内包しながらも、自分の生活の現実から社会制度に目を向けさせるという指導が行われていたのが、北方系の綴り方であり「山びこ学校」なのだと言えるのではないだろうか。

(3) 佐藤藤三郎 「ぼくはこう考える」

 最後に、佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」という作品を読む。佐藤藤三郎は農家の生まれで、女7人男2人の9人兄弟の7番目の生まれだ。作文に書かれているが、彼の家は山元村の中では特別貧しい方ではなく「中より上」だったという。佐藤藤三郎は次男だったのだが、跡取りとして育てられた。長男が小さい頃に亡くなっていたのだ。この作文が書かれたのは、1949年の8月で、佐藤は中学2年生だった。

 佐藤藤三郎は無着学級の代表的な人物だった。まず、当時彼は学級の級長を務めていた。また、『山びこ学校』の中には佐藤の文章が多く収められている。この論文で扱う「ぼくはこう考える」以外にも、「すみやき日記」や彼が班長として書いた「学校はどのくらい金がかかるものか」など文量としても生徒の中では相当多い方だ。中学校の卒業式の「答辞」も佐藤は務めていて、それも『山びこ学校』に文章として収められている。また、佐藤は卒業生の中では珍しく高校に進学している。上山農業高校(

定時制)に進んだ。山元中学校卒業生42名のうち、高校に進学したのは4人だけだ。

      ぼくはこう考える            佐藤籐三郎

 午前中は屋根ふきに使う縄ない終して本を読もうと思って一生懸命になった。ようやくぶったわらを全部ない終して、「よしこれで終わったぞ。」と思い、本を持って尻をついただけで「縄はなんぼうあってもうかくないからな(多すぎることはないよ)・・・」といわれてしまった。これでは本を読むわけにはゆかない。私はのそのそ小屋へ行ってみたら、やはり、打った藁がなかった。そこで仕方なしに藁うちをはじめた。つつ(槌)棒で打つのがめんどうだからキキ(餅をつく杵)で、でんでんと打った。縄をなうのだからじき(すぐ)うてた。

 ところが、はじめたとたんにサイレンが鳴った。「ああ、昼になってしまったのか。やっぱり本なんか読む気すんのが(読もうとするのが)まちがっているんだ。」と思って、こんどはゆっくりなうことにした。でも「どうせなうなら頑張ってなう方がよい。」という気がおきてきて、自然に頑張っているのだった。「ままだ(ご飯だ)!」と呼ばれたときは三分の二ぐらいになっていた。「終してから食うかな。」という気もおきたが「ままだは?」といって立って行った。

 昼食後、いろりばたにどっかりあぐらをかいて、屋根ふきさんのいつも語る農民組合の話を聞いていた。それは「農民組合のことで山形に行き、共産党の本部へついでに寄ったら、長岡から『入党したらどうだ。相談ばかり来て、はいらねっずぁあんまえなずぁあんまえな(ということはあるまいな)(ということはあるまいな)』とすすめられた。」ということである。そして、「入りたいには入りたいのだが、帰ってから村の人からきらわれるといけないから『まず、いますこし考えてみてからだ』といって帰ってきた」ということ。そして最後に「やっぱり共産党でなければならない。」というのだった。

 しかし、私は本当にそうなのかわからなかった。(1)本当に共産党がよいのなら、屋根ふきさんが「村の人あどう思うか」などと考えずに、はいるべきなのではないだろうか。私は子供だからだまって聞いていたが、次には疑問がおこってきた。

 たとえば小白府の方で横戸了(さとる)氏の未墾地を開墾させてもらうようにお願いしたところが、横戸氏は許さなかった。だから県の農地課へ行って願った。そして全部かなった(叶った)。そのとき意地で、いらない土地でも書類を作って願ったというのである。(2)いったい共産党は意地で党を持っているのであろうか。しかし、私は、まだ「意地だ」ということだけならたいして問題でもないのだが、(3)横戸氏の場合は「意地」だけでなく「自分だけよければ他人はどうなってもよい」というような気持があるが、この屋根ふきさんにはないのか?

 とにかく私は「今のうち本を読んで、みっしり勉強しておかないと、今にこの屋根ふきさんみたいに、気持ちの小さい人間になってしまうぞ。」と思い、「午後こそ山に行かないで目的の本を読んでやろう。」と考えて、そっとうつえん(内縁側)に行ってねむったふりをしていた。

 五分もたったろうか、「ヤロ、ヤロ。」と三、四回ほどよんで「アマガリアマガリ(地名)さだ。」といって、父はむしろをばさりと背負って、母に「よこせよ」と言い捨てて出て行った。「ヤロ」と呼ばれたとき、(4)私は「もうダメだ」と思うと身体がじいんと痛んできた。

 私たち四十三人の学級で、私の家のくらしはそう悪い方ではない、中よりもよい方だ。

 考えてみると、これで昔からくらべてみればよくなっているんだ。第一、父が私の家にむこに来たとき、なんにもないのでたまげた(驚いた)というではないか。もちろんないことは承知で、ただ一人娘にだから、やっかいがなくてよい、といって向うでもくれたのだそうだが、こんなにないとはまさか思わなかったのかも知れない。

 だから一番大きい姉ちゃんは小学校を卒業すると和歌山の紡績工場へ、募集人からよいことを語られて、どうせこんなびんぼうの中にくるしんでいるよりは、工場へでも行った方がよっぽど幸福だと考えて、親はあんまり遠いのでゆるさなかったがびりびりびりびり(むりやり)(無理矢理)行ったのだ。いやそればかりではない。もう一つの理由は、祖父の妹が子供を持たないので、それにもらわれるのがいやだということだ。いつも母は私たちにかたってきかせることだが「ンぐどぎあンぐどぎあ(いくときは)ンぐンぐンぐンぐ(いくいく)(行くときは行く行く)いって、あとからやんだぐなたみた(嫌になったような)ことばかり手紙よこすっけまなは(よこしたものだ)」と。そして行ってから半年もたつだろうか。水があわなくてはらをわるくしたという手紙がきて、まもなく病気になって家へ帰ったのだ。その時は蚕が四つ(四齢)におきて、いそがしい最中だった。だから病人もおちついてねていられず、かいこのあとたて(除糞)したり、くわかせ(桑食わせ)したりしたもので身体はがおる(弱る)ばかり、強くなるものは病気だけだった。

 そこで金井の横山医院に入院した。もうその時は、あつかうのは、ばんちゃんが一人ではまにあわなくなり、おばちゃんのばんちゃをもたのんで二人であつかった。

 だが、いくらたっても病気はわるくなるばかりで、「医者がえしてみろは(かえてみてはよう)」というので、今度は山形の至誠堂病院にうつったのだった。だが、よくなるどころが、かえってわるくなるばかりだった。

 そしてその年の秋もすぎるころ、とうとう腸結核で死んでしまった。その時は十九歳であった。この時は私は四歳の時であったそうだ。母と病院に行って姉ちゃんがせがめっつら(しかめつら)をしてねていた顔、それが私の姉ちゃんの記憶だ。

 こうして女工にうられたのも私の姉ちゃんだけではない。すこしくらしのわるいような家へ行って募集人がすすめたもので、この年頃の娘は大体みんなかわれたのだった。母は「いっぱえ(たくさん)行ったんだけんども(のだけれど)、みな病気したわけでないから、身体よわかったんだべな(だろうな)。」とあきらめている。

 以上が私が四歳のころのことだが、このことは家の人がいつもかたるのでよくおぼえている。ときどき私たちがちょっと仕事をいいつけられてきかなかったりすると、じき「がきぴらいっぱええっどかしぐもんでない(子供らがたくさんいると稼ごうとしない)。トヨノばなのめちゃ(などは小さい)こえときから子守なの(など)させて、おこさま(お蚕様)のときなど赤んぼおぶって『いいがは(もういいでしょう)、いいがは』てえっけあ(と言っていたよ)、もつこえったら(かわいそうだったことよ)、もつこえったら」といわれると、なんだかほんとにもつこえ(かわいそうな)ような、(5)ごしゃげる(腹が立つ)ような気がする。

 ほんとに今三十代四十代の人が子供のときとはくらべることができないほど、農村のくらしがよくなっているのだ。だからこそ、いまのうち本をよんで勉強しておこうと思うのだ。だが(6)そんなよくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていないのだ。(7)これでは私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人からから(によつて)(によって)政治をとられるだろう。

(8)そうすれば、そういう人は金持に都合のよい政治をとるだろう。(9)そうすれば、どう考えてみたところで私たちがよくなりっこないだろう。

  あらゆる少年雑誌を見よ!

  あらゆる少年新聞を見よ!

  あらゆる本を見よ!

  それがどうであるというのだ!

 そこにはまったく一日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等々、遊びと勉強があるだけで、(10)私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか!

 (11)私が今までよんだ小説だってほとんどそうだ。ただ国分一太郎の『少し昔のはなし』と、徳永直の『はたらく一家』だけが、勉強しようと思っても家が貧乏でできないことが書いてあっただけだ。そこにあらわれた子供たちは、私たちよりもっともっとひどい生活をしていたような気がする。しかし、(12)先生にいわせると「働くことが勉強だ。」という。おれには、それがどうしてものみこめないのだ。それがほんとうになるためには「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか。たとえば(13炭を上手にやくことを研究しなければならないことはわかっている。その研究はやいてみなければわからないこともわかる。それは炭をやいてみて、炭やきはむずかしいことがわかったのだ)。(14ところがそんなになんぎしてやいた炭を、なぜ父や母がヤミで売ろうとするのだろうか)、ここに問題がおこってくる。

 ただ馬鹿かせぎしてもだめだという問題だ。なぜかというと、炭をヤミで売らず公定で供出したりすると、まにあわないということがおこってくるからだ。

 この間、(14先生と計算したら(14)一俵(四貫)の炭をつくるのになんとしても百八十八円十銭かかるのだ。それを公定で組合に出せば、楢の上等で百五十円、並であれは百二十円である。だから百八十八円十銭よりは並が六十八円も安いのだ。それに、木も全部楢だけであればよいのだが、そうばかりでもない。山代も雑木だからといって安いわけでもないのだ。それに雑炭といえば百二円という安さだ。これではいくら「ヤミをするな」といわれたって、しないでは生活が出来ないのだ。では、ヤミはどのぐらいしたかといえば、二百円くらいで、これがようやく手間になるようだ。いや、それよりも高いものがないから、それぐらいでがまんせねばならないのだ。しかし全部ヤミで売るわけにもいかない。大体全部が供出でヤミはわずかなものなのだ。ヤミ炭を買う人だって金持だけで、びんぼうな人はヤミでは買えず、困っているのだ。

 (16)なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう。こんなことを、(17)そしてその土台を作る一番最初の仕事は、私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ。(18)学校がたのしくないとすれば原因を考えねばならない。もしもそれが私たち生徒同志のきまずい感情が原因だったり、先生がビンタを張るなどという問題だとすれば、自治会で簡単にかたづくし、私たちの学級にはそんなことは全然ないのだ。とすれば何だろう。それは教科書代金などを早くもってこい、早くもってこい、などとあまり催促されて、つぎの日から金が工面つくまで学校を休んで、材木ひっぱりなんかするなどということ、家で「学校なの休んで手伝え」といってびりびり学校を休ませること、などだ。

 政府では、義務教育を三年のばすとそれだけ実力がつくと思っているのだろうか。(19)三年のばしただけで私たちは、親からブツブツ云われ、かせがせられて、そのあい間をみつけて学校にはしって行かなければならない、ということは、いったいどういうことなんだろう。

 (20)ほんとに、学校教育がすばらしくなるというのは、どんな貧乏人の子供でもその親たちにさっぱり気がねしないでくることができるようになったときでないだろうか。(21)こういう問題はいったいだれが解決するんだろう。

 こんなことを考えながらみのを着ようとして背中にやったら、三年の昇君が得意の流行歌を歌って、鎌をふりふり山へ行くところだ。それを見て「昇君だ(なんかは)(なんかは)いいものだ。何も考えずにただ『おらえのおらえの(うちの)(うちの)昇あ、かしぐまあかしぐまあ(はたらくよ)(働くよ)』とほめられるのをたのしんでいることが出来て……」と思った。が「(22)そういう考えは、生活について考えるのに正しい方法だろうか」と疑問がすぐおこってきた。

 みののひもを結ぼうとしていると、ばんちゃが私の所へ来て、私がおかしな顔をしているのを見て、姉たちが山形や上ノ山に行ったからえぶくれてえぶくれて(ふくれて)(ふくれて)いるのだと思ったのだろう、「にさなばんまえさ(お前順番に)来たら、ばんちゃ(おばあさんが)、銭けでやっさげなれ(くれてやるからな)。ンがねどンがねど(いかないと)(行かないと)親父ぁ本当の子供でないさげさげ(ので)(ので)てわれがらわれがら(わるいから)(悪いから)」といった。私はただ「ほう」と思った。「ばんちゃは(おばあさんは)長い年月をこんな立場で生活してきたのか。さっぱり不平を言わずになあ」と思った。それに「ずんつぁはずんつぁは(おじいさんは)(おじいさんは)、大坂四国方面から樺太までいっているのに。それも見物だけ。ばんちゃは何時か『海を一度見て死にたい』といっていたっけな」ということを思い出したら涙がちょっと出てきたみたいだった。

 そのばんちゃんが「にさのばんまえさきたどきゃ(お前の番に来たら)銭けでやる(くれてやる)」というのだ。ばんちゃからもらう銭はそれはすくない。ばんちゃには今の金の相場がわからないからだけれども、ばんちゃがくれる金には、ばんちゃの思いがこめられているのだ。私たち姉弟は何時もそれをもらうのだ。そのばんちゃがなぜ自分の娘にもらったムコ(私の父)に気がねしているのだろう。とにかく、ばんちゃを安心させ元気づけるため「今ンぐんだンぐんだ(いくよ)(行くよ)。おれえぶくってなのえねぜ(ふくれてなんかいないよ)。がんばってかせいでくるから」といって、むしろといっしょに、ふくざつな気持ちを背負って、葉煙草をかくためにアマガリへでかけた。

(一九四九年八月二八日)

         

以上が、佐藤籐三郎の作品である。

 さて、先に読んだ川合末男の「父は何を心配して死んで行ったか」や江口江一の「母の死と其の後」では、問いかけとそれに対する答えは、河合や江口自身の個別の問題が提出され、答えを導き出していた。それに対して佐藤藤三郎の「僕はこう考える」にはいろいろな問題提起が次々と出されている。そのうえ、それらの問題は、佐藤個人や自分の家だけの問題ではなく、「自分たち」の問題として取り上げられている。それは、「私たちが・・・」(7)「私たちが・・・」(17)と述べられているだけでなく、より正確に「私たちの学級には・・・」(18)と、直接的には「山びこ学校」の級友達全体の問題であることをはっきりさせている。学級の生徒全員、つまり無着学級のみんなの共通の問題として提起されているのである。そしてそれは、そこに止まらずに貧困に悩む村のあらゆる青少年達全体の問題としての広がりを予感させるものとなっている。

 佐藤によって取り上げられている「いろいろな問題提起」というのは、共産党やそれを語る「屋根ふきさん」についての批判(1)(2)(3)や、働かされて一冊の本を読む時間すらないという現実の問題(7)(8)(9)、雑誌や新聞や本の対象とする読者や小説の主人公についての批判(10)(11)、「働くことが勉強だ」という教師の発言に対する意見(12)、ヤミ炭についての問い(14)(16)、学校教育についての疑問点(17)(18)(19)(20)(21)(22)、といった具合で、一見ばらばらにさえ見える。

 では、こうしたまざまな問題提起が、どのような構成を築いて、一つの文章にまとめられているかを確かめてみよう。

 先ず、この作品で佐藤が中心の課題としているのは何であろうか。それは佐藤をはじめとした「無着学級のみんな」が、「たった一冊の本を読む時間すら持っていない」(6)ことにあるとされている。「本を読む時間」が確保されない限り、自分たちは、「上の学校」(7)にもいけず、「金持ちに都合の良い政治」(8)が行われ、「私たちがよくなりっこない」(9)状態が続くことになると訴えているのだ。佐藤の「ぼくはこう考える」という作文が、佐藤自身のある日の出来事を綴るところから始まっていたのは、こうした「時間のなさ」の現実を証明するためであったのである。

 さらに問題は「時間のなさ」以外にもあるという指摘がなされる。それは、たとえ本を読んだとしても、あらゆる雑誌、新聞、本、小説にいたるまで、ほとんど「私たち」のような「山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たち」(10)のことと関わりのない内容ばかりであることを批判している。「私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか」と批判している。これは自分達が「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」(10)という問いを佐藤が持ち、書かれていることとは別物なのだという答えをもっていたということを示している。山の子どもには、休日の「土曜日」の過ごし方や「日曜日」の遊びと勉強とは違って、年中労働に駆り立てられている子ども達がするべき勉強は別のものだというのである。

 それに対して、先生は「働く事が勉強だ」(12)と言っている。確かに働かなくてはわからないこともあるし、働くことでわかることもあるのは確かだ。(13)しかし、ただひたすら一生懸命に働いただけではわからないこともある。例えば、「ヤミで炭を売らなければならないという現実」(14)についての理解だ。ただ「働く」だけではわからないこともある以上、先生の言うことも理解できないと言う批判につながるのだ。(12)逆に、こうした批判が起こるところには、常日頃教師無着の指導が行われ、大いに影響されていたことをも示している。

 佐藤は、ただ働く事が重要なのでもければ、働く事で大切な勉強が十分に出来るというわけでもないと主張しているのである。その必要なものを「『働く』ということについて考えられるだけの土台」(12)だと表現している。

 では、働くということについての考えられる土台とはどういうものなのか。それは働くことを通して、その裏に隠されているものを見抜け力を育てることが出来る、「土台」と呼ぶべきものだとしている。それは世間に流布している「本」などに記されているような、休日のあるべき過ごし方の解説などでは決して身につかないものだという。ではどんな物なのかということを、佐藤はヤミ炭の問題を例として説明している。「炭を上手に焼くこと」(13)炭焼きがうまくなる「方法」「炭焼きの難しさ」(13)などは、炭焼きという「働き」で、「わかっている」「わかる」「わかったのだ」(13)と繰り返している。炭焼きのむずかしいこと」は、実際に働くことでしか身につかず、実際に働くことのの重要性を強調しているとも言える。

 しかし、苦労して身につけ、実際に炭焼きの度に苦労して「なんぎしてやいた炭を、なぜ父や母がヤミで売ろうとするの」(14)かは、全然わからないのである。なぜヤミ炭をやらざるをえないのかということに対する答えがわかるのは、炭焼きの技術を学ぶのとは別に、中学校で「先生と計算」(15)して、現実の問題として実際に考えた結果である。ここで「計算」と言っているのは、炭焼きが原価割れしてしまう構造を明らかにする計算のことだ(16)。こうした現実を明らかにし、その原因や今後のあり方を学ばなければならないとしているのである。そうした力を「土台」と呼んだのである。つまり、農村の青少年が本などを読み、身につけなければならないのは、「働くための土台」を作ることだと主張しているのである。その意味で無着の教えである「働くことが勉強だ」を批判しているのである。

 では、そうした「土台」を身につけるにはどうしたら良いのであろうか。それを担うのは、学校以外には考えられないとしている。目の前の現実をただ見つめるだけでは分からないことを解決する道を切り開くのは学問である。そこで佐藤藤三郎は学問の必要性を強く自覚するのである。「働くための土台」とはただ実際に働くだけでは見えてこない社会の現実の仕組みであり、それを見抜く力を備えることができるのは学問だというのである。そしてその学問を身につける場所が学校である以上、卒業後は進学が必要になる。ところがこの村では高校への進学者はほんの僅かしかいない。

 そこで佐藤は、学校で十分に学ぶために必要なことを挙げている。まず、「がっこうがたのしく」(18)ならなければならず、日常的に起こる生徒間の気まずい感情の行き違い解消や体罰の排除の実現などを挙げている。その次に、学校に納める費用の問題についても解決を求めている。その具体的な金額を、後日計算している。さらに政府が「義務教育を三年伸ばす」(19)と言うが、親に「気兼ね」(21)しながら学校に通うことで、本当に十分な勉強が身につくのかと批判している。こうしたさまざまな問題を解決しなければ、貧しい村で学問を身につけることは出来ないのである。こうした山積する問題を「いったいだれが解決するんだろう」(21)という疑問に繋がっている。

 個人や我が家に関する問題を訴えた江口や川合と違って、佐藤がみんなに共通する問題を取り上げることが出来たのはなぜであろうか。それは、特に江口の家は生きていけるかどうかギリギリの水準で、自分が生きて行くことで精一杯で周りを考える余裕はほとんどなかったのに対して佐藤はまだ農村全体を考える余裕があったのだ。自ら書いているように、佐藤の家が無着学級の中では経済的には「中より上」の家だったと言うことが影響している。貧しいながらも、江口や川合に比べて金銭的に余裕がある文だけ、農村全体を見渡す余裕と言えるものが持てる可能性があったのである。そのうえで、佐藤が農家の跡取り息子として育てられ、農家が生計を立てていくための方策を真剣に考える立場にあったということが挙げられる。そのうえさらに、佐藤の個人的な優秀さがあることは間違いない。無着の「働くことが学ぶことだ」という説明には批判的であったにしても、無着が佐藤を極めて高く評価していることははっきりしている。佐藤は級長であり、最終的には卒業時の答辞の朗読者となっている。また炭焼きの原価と売値の計算をする際の班長とし、「学校がどのくらい金がかかるものか」という調査報告書の作成でも中心的な役割を果たさせており、「山びこ学校」のもととなった「学級文集きかんしゃ」の編集長も何度を任せている。こうしたところから佐藤のリーダー性が培われ、「私」個人を越えた「私たち」の視点を持つ能力を育てたこともあるに違いない。同時に、佐藤もまた無着に尊敬の念を持っていたはずである。それは、尊敬していなければ、佐藤は無着の教育に応え数々の文章を書かなかっただろうことにも見て取れる。さらに、答辞に「私たちは、はっきりいいます。私たちは、この三年間、本物の勉強をさせてもらったのです。」と述べているところに最もよく表れていると言っていいだろう。教師無着と生徒佐藤の間には頻繁に相当深い関わりがあったとみるべきだろう。反対に、尊敬している無着だからこそ本気で文章を書いたのであろう。

 結局、無着学級の卒業生42名(入学時は43名だったが)のうち高校に進学したのは佐藤藤三郎、川合貞義、川合義憲、横戸惣重の4名だった。ただしそのうち2人は山元村の一般的な農家ではなかった。祖父が村長だった横戸惣重は財産家の出身で、川合貞義は父親が教員をしていて裕福な家だったのだ。川合義憲と佐藤藤三郎の二人だけがいわゆる農家の出身者であり、貧しい山元村では一般的だったヤミ炭のような貧しさの問題に直面していたのであった。その中で何とか高校に行けるだけの経済的な余裕があったのは、この二人だけだったのである。佐藤が農村の貧しさを学級の生徒と共有しながら、そのリーダー的な立場に立ったのには、こういう背景があったからと見るべきだろう。

 無着は、意識的に佐藤をリーダーに育てようとしたとのであろう。もちろんそれは、無着の盲目的な信奉者を育てることなどではないことはいうまでもない。その佐藤が、無着に批判的な意見を持ちながら、学問の必要性を強く自覚するまでに至ったことは、無着の意図が見事に成功していたのではないだろうか。

 そうした無着の指導には、どの生徒にも一律の課題を同じように与えていた訳ではないことも垣間見えてくる。実際佐藤には、リーダー的な立場と様々な課題を与え、成長を促している。リーダーや特別に優れている人間は、そういう中で生まれてくるに違いない。つまり、教師は生徒の能力や意欲に応じた要求をしていくべきだということが言外に現れているように見える。「弘法は筆を選ばず」と「弘法も筆の誤り」などを挙げるまでもなく、日本の古くからのことわざには相反する意味を示すものがあり、どちらも時に応じて真理を突いているものである。孔子も「論語」によれば、相手によって説明の仕方が大きく違ったり、説諭の内容がまるで正反対だったりしている。「平等」をはき違えてはいけないという教訓も見て取れるような気がする。佐藤は、よく無着の期待に応え、山びこ学校の最高到達点との一つもいうべき地点に到達したというべきではないだろうか。もちろん佐藤一人が最高到達点なのではなく、江口も川合も、その他の生徒も、それぞれの最高到達点に至ったとみるべきであろう。

 こうして取り上げた3つの作品には、共通していることがある。それは、課題を明確にし、その答えを得た上で、さらに次の課題をはっきりさせているということである。

 川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」に対する答えは、「私の将来の仕事を心配して死んでいった」というものだった。そこから次の自分の課題を「良い職業につくこと」とした。そして具体的には警察予備隊を挙げ、はたして「予備隊は良い職業か」という問題を考えているのだった。

 江口江一の「母の死と其の後」については、「母があんなに働いてもなぜ生活がらくにならなかったのか」という問いと、「自分がこれから一生懸命働けば生活は楽になるのか」という2つが示されていたが、実は亡くなった母と江口が、二人とも家の責任者になったことを考えると、同じ問題と言えた。それに対する江口江一の答えは、第一に「精一杯の生活をするということ」第二に「借金をなくすということ」第三は「扶助料なしに生活していくこと」第四は「金をためて不自由なしの家にするという」という、四段階を設定して、第四の「金をためて不自由なしにする」ということは「到底無理であること」ことが分かり、第一の「精一杯の生活をするということ」は達成できるかもしれないが、第二、第三の課題となると、そうしたいが実際に可能かどうかは全くわからないというものだった。これでは答えが明確になったとは言いがたいが、現実を見つめ、教師無着に導かれて現実生活の計画を具体的に立て、「借金をなくすにはどうするか」「扶助料なしで生活するにはどうするか」といったことに対する答えが出る道筋が示され始めるところまでは到達したと言えよう。

 佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」は問いや意見が矢継ぎ早に立てられていて、その内容も一見すると多岐にわたっているのだが、実は「どうすれば農村の人々は貧しさから抜け出せるか」という問いが根本にはあるのだった。その答えとして、「働くだけでは駄目だ」ということ、「学問の土台が必要だ」ということ、「学問の土台は学校で身につけるのだ」ということが明らかにされていく。この課題は、現に山元村中学校を欠席しなくてはならない級友達を通わせるために必要な「学校がどのくらい金がかかるものか」の調査に繋がっていく。

 共通して貧しさという問題に直面していながら、その貧しさと貧しさに対する関わり方(立場)はそれぞれ異なっていた。そしてその貧しさを解決する道は労働しかなかったのだが、その労働もまた三人三様であった。最も貧しかった江口は山元村でも最も貧しく、扶助料をもらわないと生活できないほどだった。親の死によって、家の責任者となった江口はまず、なんとか生きていけるかどうかがテーマだった。そのうえで、江口は村から扶助料をもらうことを恥じていて、経済的自立を求め琉のが労働だった。

 川合は農村の次男以下として、職業をどうするかという選択に迫られていた。農家に生まれながら農業以外の仕事に追い出される状況にあり、その意味では山元村の貧しさに直接関わることすらできなくなるのだった。しかし、選択に迫られたことによって、労働の目的について考えるようになった。その結果金銭のみを労働の目的とすることに疑問を持ち、世の中への貢献、自分の才能や欲求という面も考えるに至った。

 農家の跡取りとして育てられてきた佐藤は、江口同様山元村の貧しさに真正面から関わる立場にあった。しかし、江口ほどに貧しい家ではなかった結果、佐藤は貧しさを自分の問題だけでなく、農村全体の問題として考えられる余裕があった。また、ただ働くだけでは限界があることを感じ、学問の必要性を強く意識していたのだった。江口はがむしゃらに労働するほかなく、かろうじて労働する人とその労働条件という区別を考えることはできたが、佐藤のように労働全体を学問など他のこととと関係付けて考えることはできなかった。佐藤には、そこに江口との違いがあった。

 このように同じ村に住んでいても、また例え級友であったとしても、人はその置かれている状況、立場によって、課題が異なるものなのだ。それは、各自で自分なりに考えていくしかないのである。川合、江口、佐藤はそれぞれの状況、立場に応じた問いを持ち、作文においてそれを各自一生懸命進めている。もともとそれぞれの家庭の事情や立場が異なれば、容易に解決策を共有できるはしないのであるから、「やまびこ学校」の実践は、別の地域で、簡単に模倣したり、追随できるようなものではなかったのである。たぶん、同じような貧困を抱えた村々では、数多くの実践が試みられたに違いない。そしてその多くが、大きな成果をもたらすことはできなかっただろう。ましてや都市部で「やまびこ学校」を模倣したところで、うまくいくはずもなかった。似た境遇にあろうが、親戚だろうが、個人はかけがえのない別個体である。ある営みは、一度限りの、固有の営みであり、だからこそかけがえのないものなのだ。教師無着にとっても「やまびこ学校」の再現など不可能だといってもいいだろう。この「一回性」ということも「やまびこ学校」の中では、意識されたかどうかに関わりなく、尊重されていたに違いない。

 それは、一つには教師無着が、生徒の一人一人を、その能力に見合った対応をし、課題を選んで与えていたということに表れている。文集「きかんしゃ」の第2号で挙げた江口久子の日記の表記に対する指導のように、多少表記の仕方と表現内容を深めることとに限定した指導が行われていたことも見てきた。もちろんここで取り上げた三人の作品にも、それぞれに応じたアドバイスを選び、課題解決の契機を与え、進めている様子がはっきりと認められたといった具合である。

 もう一つは、教師無着が、自分はあくまでもよそ者であることを自覚し、厳しく自分の言動を抑えていたことである。心情的には、生徒たちの直面する農村の貧しさを何とかしたいという思いは無着の中に強かったに違いない。理不尽な因習や悲惨すぎる出来事に強い怒りも持ったに違いない。しかし、その貧しさ、厳しさを知っても、無着はあくまでも教師として、自分がしゃしゃり出るのではなく、生徒の成長を促す道を模索したのだ。祖母と二人暮らしになり、生活自体が不安な江口には家計の計画を立てさせている。佐藤を級長として教育し、農村の貧しさを共有しながらも、問題にあたるリーダーとして育てようとしている。なぜなら、無着はあくまでも学校教員なのだ。寺の生まれなのだ。その無着は突き詰めれば、「よそ者」であって、もっと言えば、農村の貧しさが本当に分かる人間ではないのではないか。無着にできることは、農村の子どもたちが、農村の貧しさを自分で考えられる人間になれるように教育することだけなのではないだろうか。

 このように、無着は、山元村の貧困の中で生活するクラスの子供達を、ある意味では冷静に見詰め、突き放して、あくまでも教師としての役割に徹したということである。個々の生徒の能力や才能を見極め、最適な課題を提示しつつ、あくまでも生徒達自身が自分の課題、村の課題を見出し、解決策を考えるためのアドバイスをするのに徹したということであろう。子供の現実の不十分さに対する嘆きや課題解決のための思い入れといったような、感情に流された思い込みが先行してしまったら、決して結実することはなかったのが、「やまびこ学校」なのではないだろうか。

「山びこ学校」の無着学級で行われてきたこと

 「山びこ学校」はいわゆる北方綴り方を代表する作品である。山形県は戦前から生活綴方運動の指導者村山俊太郎や国分一太郎を排出し、北方性教育の本拠地と目されていた。しかし、同県の禅寺に生まれた無着は、教師になった時点では、これらの教育方法とは無縁だった。彼は同じ山形でも自分が継ぐべき寺がある本沢村に戻り、そこで教師兼住職をしながら、青年たちの文化運動のリーダーを務めることが夢であった。案に相違して山元村に赴任してから、この寒村の子どもたちをどう教育したらいいのか悩み、旧知の山形新聞編集員の須藤克三から国分一太郎を紹介され、そこで初めて綴方=作文教育という方法に目覚めることになった。

 しかし、指導者の経歴や資質以上に重要なのは、終戦直後にそれまでの修身・公民・地理・歴史を廃して始められた「社会科」の存在ではなかったかと思う。この科目の創設は、昭和21年4月に提出されたアメリカ教育使節団の報告書に基づき、日本の教育の「民主化」を目指した方策のうち、いわば目玉になるものだった。それだけに、これを具体的にどう教えるかについては、たいへんな苦労を経なければならなかった。昭和22年5月には小学校用の「学習指導要領社会科編(Ⅰ)」が、6月には中学高校用の「学習指導要領社会科編(Ⅱ)」が出ており、実施はこの年の9月、つまり学年の途中から、というのもたいへん異例だった。

 無着自身は、この新しい教科である社会科を専門とする教師だった。「山びこ学校」初版の「あとがき―子どもと共に生活して―」で、次のように書いている。

 社会科の教科書の一つ『日本のなかの生活』中の「日本のいなか」(注、たぶん、『日本のいなかの生活』として昭和24年に刊行されたものの前身だと思われる)のまえがきには「この教科書は、わが国のいなかの生活がどのように営まれてきたか、その生活に改善を要する方面としてはどんなことがあるかを、学習するに役立つように書かれたものである」のだから、「いなかに住む生徒は、改めて自分たちの村の生活をふりかえって見てその欠点を除き、新しいいなかの社会をつくりあげるように努力することがたいせつである」云々と書かれていた。そこで無着が「文部省の考えの深さに驚いた」などと述べているのは皮肉であろう、と百合出版版(昭和30年刊行)の「解説」で国分一太郎は述べている。

 それはそうと、では、どうやったら教科書に書かれているような努力を生徒にさせたらいいのか、そのやり方として発見されたのが綴方だったのだ、と無着は言う。例えば、

(a)ある生徒が、隣人の話として、「息子を教育したんで、百姓がいやになり、その家はつぶれてしまった」と綴方に書いてくる。

(b)では、「教育を受けるとなぜ百姓がいやになるのだろう」と生徒たちに問いかける。

(c)生徒たちからは、「百姓はつらい仕事だから」「百姓は馬鹿でもできるから」「百姓はあまり物を 知らないほうがよい」などなどの答えが返ってくる。議論が煮詰まると、概ね、「百姓は働く割に は儲からないからだ」というところに落ち着く。

(d)それは本当にそうなのか、ということになって、米や繭や葉煙草の価格から肥料や農具の値段など を、班が作られて分担して調べられ、計算されて、実際に「百姓は割損」であることが実証される

(e)すると、「やはり百姓はあまり考えると馬鹿らしくてできなくなり、といって他に仕事も見つから ないのだから、あまり考えないほうがいい」という悲観的な考えが出てくる一方で、「損をしても 働かねばならないなんて、そんな馬鹿な話があるものではない。百姓は損をしなくてもすむように 頑張るべきだ」という意見も現れる。これに無着は思わず「そうだ、そうだ」と怒鳴る。

(f)しかし、では、どうすれば百姓の仕事が割損にならないようにすむのか、という点になると、当然 ながらそう簡単にはいかない。すべての前提として、いったいなぜこんな社会状況になっているの かが検討されなくてはならない。社会科の教科書だけではなく、さまざまな本を読んで一応、第一 かつての身分制度があった時代の社会習慣や考え方がまだ残っている(このことは、他の綴方から も確認される)。第二、諸外国に比べて日本の耕地面積は狭いので、生産高も低い。この二つは、 農村を豊かにするために大きな障害になっていることはつきとめられる。

(g)第二の点の解決策としては、耕地面積あたりの生産性を高めることが改善策として考えられるが、 それには機械化が必要であろう。しかし、一軒で機械を所有すれば、その費用だけでも割高なので、何軒かで共同で使うようにすればいいのだが、その場合、「共同責任は無責任」ということで、み んなの機械がぞんざいに扱われるようなことがあってはなんにもならない(これまた、ある子の綴 方に出てくる)。

(h)以上から、次の二つが今後の農村にとって大事であることが確認される。

1 農民をもっと金持ちにすること。

2 農民はもっと共同のものを大事にして、自分だけよければよいという考えを捨てること。

 作文とクラス討議を通じて、ここまで生徒を導いた無着の教育実践には、改めて目を見張る思いがさせられる。もちろんここでの作文=綴方とは、一つの作品として仕上げられることが重要なのではなく、文章にするために客観的・分析的にものごとを見る目を養い、文章にすることによって考えをまとめ、出来上がった文章を他人に読んでもらうことで、自分の考えをさまざまな角度から検討する、その材料になることが一番重要なのだった。少なくとも「山びこ学校」の作品群に表れた「学習成果」は、決して偶然の産物でもなければ、放任して自然発生的にできあがったものでもなかった。それどころか、かなり強烈に指導の手が加わったものだったのである。その具体的な指導経過は、必ずしも正確な記録が残っておらず、詳細に辿ることはできない。しかし、終戦直後、主にアメリカから求められた民主主義的な教育は、この日本で、具体的にはどのように展開されるべきか、一つの明確な回答を出したものでもあった。

「山びこ学校」の栄光(1)

 「山びこ学校」は出版直後から高い評価を受けた。それは学者を中心に、極めて高い評価と絶賛に見舞われた。また、日本中の教師達がその実践をまねたに違いない。しかし、実際には容易に「山びこ学校」の真似はできず、その結果として、冷静で自重的な判断が広まっていくのだった。それは、実に正当な反応と言えるだろう。もちろん、教師たちがそこに新しい教育実践への希望を見出したことは言うまでもない。しかしそれ以上に、教育学者はその理論化こそ、これからの仕事だと考えた。さらに哲学者も社会科学者も、日本の民衆の内側から生れる思想と理論の可能性を、そこに読みとることができると考えたのである。

 まず、学者達の熱狂ぶり、その驚きと感動をみてみる。

 鶴見俊輔は「山びこ学校」の子どもたちは、日本民衆の最良の姿であると評した。「めぐまれない日本の農村、漁村には、……『山びこ学校』の43人のように立派な思索と生活とをなし得る民衆がある。こうした精神を育てるに十分な『よい条件』だけが欠けているのだ。」「日本から望むことのできる最も善いものが『山芋』『山びこ学校』において確固とした姿をとっている。」と述べている。

 次に、月刊総合誌『展望』の編集長であった臼井吉見は、5月号の「展望」欄にとりあげ、その後「山びこ学校」と無着を訪問して、6月号に「『山びこ学校』訪問記」をみずから書き、さらに座談会「『少年期』と『山びこ学校』」を企画し掲載した。

 その「訪問記」において、臼井はこう書いた。無着教育実践においては、生活綴方はただ作品つくりのために書かれるのではない。社会科教育の手段として綴り、そして共同討議によって添削推敲される。綴方による生活の添削推敲が目的であり、結果として綴方作品に文学的高まりを生んでいる、と。

 「『山びこ学校』の綴方は、はっきりとした目標と見とおしに立って指導されたものだ。即興的に綴らせたものでもないし、うまい綴方を書かせようとしてできたものでもない。あれらの綴方は、どこまでも教育の手段であり、出発でもあったということだ。

 これが文学作品としての綴方指導と根本的にちがう点だ。つまりは、社会科の要求している教育的効果を最高度に収めるための手段として綴方がとりあげられているということだ。たとえば、社会科の教科書には、職業は大事なものである、とたった一行でかかれていることを、からだとたましいの奥そこから納得させるために、自分の家のくらしや仕事についての生活記録を綴らせる。それを材料にして、共同討議させ、正しい疑問を育て、まちがった思考や歪んだ観察をただし、かれら自身の生活のなかで、ほんものの生きかたを発見させる手がかりにする、こういう共同討議の作業を通して、おのずから添削推敲が行われる。……議論の正否を実証するためには、ある場合には理科が、ある場合には算数の作業が加わらねばならず、適当な参考書にも助力を仰がねばならぬ。つまり、生活の添削推敲が目標であって、綴方の添削推敲は手段だということだ。……結果として綴り方そのものが上達し、文学的にも高まってきたということなのだ。」と、流石というほかない目を持っている。

 教育学者の反響が大きかったことは言うまでもない。宮原誠一は戦後の子ども・青年の自己喪失状況に対置して、「山びこ」の子どもたちが自己をもち、現実に主体的に立ち向っていく意欲と希望をもっていることに驚き、賞賛した。

 「山びこ学校」の「子どもたちの精神状況がちかごろの青少年のこまった傾向、とくにその戦後的な特徴である自己喪失的な傾向とするどく対立している点においておどろくべきものである。」それは「子どもたちなりに生活の現実をみつめ、その現実を自分たちの力でつくりかえてゆこうという意欲をもち、そういうことは可能なのだという希望に生きていることからきているのである。」と、安易に若者を評価して済ませてしま受け行こうに釘を刺している。そのうえで、「山びこ」実践は、戦前の生活綴方運動(とりわけ北方性教育運動)の伝統を継承するものであり、しかも「見事な前進」をしめしている、と宮原は驚きをもって評価した。

 第一に、「生活の現実のなかから問題をつかみだしている。……暗い現実の分析をやってのけ、暗い現実ととりくむ主体的な立場をもちはじめている。それを……子どものみにみられる柔軟さと新鮮さでやっているのだ。おとなが押しつけてこんな文がかけるものではない。これはどうみても子どもの内部からでてきたものだ。自分の目とこころで村の課題をずばりと対決する、こういう力をもった中学生の出現はおどろくべきことといわねばならぬ。」

 第二に、「他教科と綴方との統合という点で、『山びこ学校』の子どもたちは前進をしめしている。この文集では、社会科でしらべたことがいたるところに躍動し、あるいはまた、どうしたって理科の学習にむすびついてゆかずにはいないだろうと思われるくだりがいたるところにでてくる。数量的な理解が、文のなかにこなされている……。日本の農民は計数的な観念をほとんどまったく欠いている……。その日本の農村のなかからこんな中学生群が出現したのだ」。それは生活綴方教育実践の前進であるというだけではない。新しい教育実践と理論の地平を開いたと着目された。

 当時新進の教育学者だった大田堯は、「山びこ学校」実践についての教育的分析は「教育学を研究するものの任務だとおもう。……問題はそういうすぐれた彼のやったことを分析して、他人にも通ずるように科学的に普辺化してとらえることなのである」と述べた。「科学」が、いつでも誰にでも検証可能な者であるならそれに越したことはないが、後にみるように教師達の実践が「教育」は科学の中ではかなり特殊なものであることを痛感させられることになる。

 その後しばらく経ってからだが、城丸章夫は当時を素描して、「進歩を愛する教師たちも、無着の教育にかくされている秘密をあきらかにすることが、現状を打開する道であることを確信するにいたったのである。かくして、『山びこ学校』は、民間教育運動の新しい発展へののろしとなった」と位置づけた。現職の教師たちにとっても、『山びこ学校』は新しい力の源になった。たとえば、綴方師として後に有名になる江口季好は、51年 9月に東京の大田区で小学校教師になった新人だったが、「『山びこ学校』っていうのは何十冊の教育書を読んだ以上の特別の感動を受けた」、「『山びこ学校』あたりから、生活綴方は、教師の行き方というふうなものにはっきりと目を開かせてくれた」と50年代末の座談会で回顧し評価したのである。

 「山びこ学校」の衝撃は、教育界の範囲をこえて、日本の社会科学の認識のあり方への批判的反省にまで及んだ。社会科学的認識が抽象的概念的であるのに対して、生活綴方における子どもの認識は、個別具体的に、「個々の人の生活とのつながりをもって」、生活問題解決をめざした認識だ、と歴史学者上原専禄は指摘し、そこに、従来の社会科学的認識の限界を越える可能性をみた。

 「私はかつて『山びこ学校』を読んだとき、社会科学にたずさわるものとして、虚をつかれたという感じの強いショックを受けた。」

 「社会科学は概念的に認識することを目あてとしており、従ってそこに問題の捉え方、認識の仕方に限界があるが、生活綴方では、生活の上での具体的な問題が、どう解決せられるべきかを常に目ざして捉えられ、認識されている。」

 「国分さんや無着さんの、生活綴方による教育は、自分の問題を社会の場面において認識し、それを自己の責任で解決しようとする新しい型の人間をその教え子から創り出した。」と述べている。

 鶴見和子ももっとも大きな影響を受けた一人であった。彼女は「山びこ学校」出版の翌年の8月、岐阜県の恵那で開催された「第1回作文教育全国協議会」(1952年8月)に参加した。その直接のきっかけは、この大会の組織者の一人である国分一太郎らから直接依頼されて、シンポジウムでの提案者の一人となることを引き受けたことによるが、そこに行けば「山びこ学校」の無着先生に会えるという期待をもって、出席したと書いている。その会場で、鶴見は無着にも会えたが、三重の四日市の紡績工場で生活を綴る会をやっている人たちにも会った。その縁で、四日市の工場の「生活を綴る会」に直接関係するようになったのである。

 生活記録運動は工場の若い工員のサークルにおいてだけではなく、長い文を書く機会などほとんどない母親やその他の女性たちのあいだにも、広がっていった。鶴見はそれら生活記録運動の推進と組織の中心として、精力的に活動するようになった。生活綴方・生活記録運動は、人びと(とくに抑圧されている女性)の自己形成・変革およびその生活と社会の改革とへつながる下からの運動であり、同時に、日本の知識人(もちろん鶴見自身を含んで)の弱点を覆す契機をなすと鶴見が見ていたからでもあった。

 明治以来の日本官僚の方式は「ヘテロロジカル」であり、知識階層はそれを自己の思考方式としてきた、との鶴見俊輔の指摘を、和子は戦後生活綴方文集を読みながら、自己の問題として、納得していったのである。「ヘテロロジカル」とは、社会・集団を論じるとき、自分をその外において、外の基準を尺度として論じる方法を指している。それに対して生活綴方は、問題を「自己をふくむ集団のもんだい」として扱っていた。そこに和子は日本人が社会問題に対処するときの、新しい思考と対応の形が生まれつつあることを見たのである。

 「〔俊輔は〕日本人の考え方の特徴が『へテロロジカル』であることを、指摘した。……日本の学者が『日本』および『日本人』を論じるとき、それはあたかも、自己をふくまざる集団として論じていたのだ。……このような指摘を、わたし自身にはねかえるものとしてうけいれるようになったのは、実は『山びこ学校』その他の生活綴方の作品をよみ、『魂あいふれて』(二十四人の教師の記録)および『新しい綴方教室』(国分一太郎氏著)等の生活綴方の実践記録をよむことにより、俊輔の指摘したようなイミでの官僚方式とはちがった考え方が、草の根の間から、しかも、組織的にめばえているという感動をもったからだ。そこでは、一つの村、一つの都市の、共通の生活実感をばいかいとして、そこに起こる共通のもんだいをつきつめて話しあい、調べあうことによって、先生と生徒が、互いに自己改造を行うような仕方の教育が生長していることを感じたからだ。そこには日本および日本人の困ったところ、わるいところをよくしようということに、先生にとっても生徒にとっても、自己をふくむ集団のもんだいとしてより以外には、考えらないような、切実なかたちで、取扱われている。」と絶賛している。

 1952年の第1回作文教育全国協議会への参加を契機にして、その後、鶴見和子は生活記録運動を精力的に推進していった。「山びこ学校」は、鶴見和子の研究と実践に強烈な影響を与え、そして戦後日本のサークル運動や社会教育運動に一つの画期をもたらしたといって言っていい。60年代の米国研究滞在の後、70年代を経て、「内発的発展論」という歴史発展観を展開した。その歴史観と生活記録・綴方運動との関係について、直接には彼女はどこにもふれていないが、『山びこ学校』などの生活綴方・生活記録運動が、その論の基礎にあったに違いない。絶賛を越えて文字通り自らの研究に取り入れたのである。

 教育科学研究会の機関誌 「教育」の創刊第1号(1951(昭和 26)年11月)は、二つの 「特集」によって構成されている。 一つは 「日本教育の良心」。もう一つが 「山びこ学校の総合検討」である。 「教育」誌の創刊第1号の二つの特集の一つに 『山びこ学校』があげられているところか ら,その刊行の母胎であった教育科学研究会においても,「山びこ学校」が中心的な大 きな話題の一つになっていたことが分かる。

この 「特集 ・山びこ学校の総合検討」は、次のような三つの柱によって構成されている。

(報告)綴方は,すべての教師が書かせねばならないものなのではないか-無着成恭

(解説)ぼくもそうだと思う,無着君-国分一太郎

(座談会)山びこ学校の問題点-無着成恭,滑川道夫,宗像誠也,他

 冒頭の 「(報告)綴方は、すべての教師が書かせねばならないものなのではないか」において,無着成恭は、生徒に作文・綴り方を書かせる意義 ・目的を、教師の側からは 「教室の中の子どもを知るために、家の中の子どもを知るために、村の中の子どもを知るために、そして、日本という国の中の子どもの本当の姿を知るため」であり、生徒の側からは「自分が今どんな生活の中で生きているのか。 自分が生きている生活は、どんな仕組みの中でかたちづくられているものなのか。そして自分はなにをすればよいのか。」 を考えさせ知らせるためであるとする。 無着成恭は「山びこ学校」巻末の「あとがき」において、自らの作文・綴り方教育を、国語科 としてではなく 「ほんものの社会科をするため」であると述べていた。しかし、ここに見る限り,生徒に作文・綴り方を書かせる目的を、教師の生徒理解と生徒の自己認識の深化 ・拡充に置いており,戟前からの作文・綴り方と軌を一にする立場にあったと理解することが出来る。

 このような無着成恭の考え方に対して、国分一太郎は、後に続く 「(解説)ぼくもそうだと思う、無着君」において,次のように述べている。

 つまり君は、君の生活を書かせる綴方から、生きた世の中を具体的につかみとることのできるよろこびを、よりいっそう味わおうとしているのだ。それが 「教育者的な社会勉強方法」の一つだと思っているのだ。 これは,むかしの生活綴方による教育を大切にした青年教師たちのよろこびでもあった。

 無着成恭は、「『山びこ学校」の実践において,生徒の有様を現実の姿の中から学び、それを具体的なものとして育て指導しようとする。 国分一太郎は、そのような無着成恭の姿勢に、戦前から続く作文・綴り方との共通点を見出し,その姿勢を高く評価したのである。

 須藤克三編 「山びこ学校から何を学ぶか-その人間教育の一般化のために-」(1951(昭和 26)午11月20日 青銅社)は,「山びこ学校」の出版 (1951(昭和 26)年3月5日)の約8か月後に、同書に対する様々な批判、評論、書評等を集め、若干の書き下ろし論考を加えて刊行されたものである。

 この「山びこ学校から何を学ぶか」の「第2・山びこ学校から何を学ぶか」 と 「第3・山びこ学校の反響」には、新聞や雑誌等に掲載された長短あわせて37編の文章が収められている。 それらのほとんどは 「山びこ学校」に対して好意的なものであった。

 誰も彼もが大絶賛といったところである。

 もちろん、批判がない訳ではなかった。船山謙次が整理するところによると、

(1) イデオロギー的だ。 (2) 暗い。(3) 専ら経済主義だ。(4) 個性に乏しく皆同じように見える。

(5) 作文教育の邪道だ。 (6) 方言ではなく標準語を使うべき。 (7) 指導の計画性に乏しい。

(8) 社会科ばかりで自然科学の学習がなっていない。

という8種類になると云うことである。当初はほとんど問題にされなかったが、後年多少は注目されるものも出てきたようだ。

 後年、「朝日ジャーナル」が無着・佐藤の師弟対談を組んだ。その司会を担当した教育社会学者・馬場四郎は、師弟対談をふり返る論評の中で、「山びこ学校」は、当時においては、新しい教育の指標であり、無着は理想の教師像であった、としたうえで、「山びこ学校」は「アメリカからの借りものの新教育から脱却して、戦後日本の教育の真の立ち直りの転機をつくりだした」のであり、「新しい教育の指標となり」無着は「戦後教師の理想像にさえなった」と回顧した。学者達はそのように賞賛したのだが、それにもかかわらず、無着「山びこ」実践が切り開いた原理的に新しい教育実践の地平とはなにかを明らかにすることはできなかったのである。それができなかった理由は、一般の教師や教育研究団体の教師達によって明らかにされているといっても良さそうである。

「山びこ学校」の栄光(2)

 これに比べて当時の現役教師達の反応は、最終的には様相がかなり異なっていた。

 もちろん戦後民間教育運動は生活綴方教育によって支えられ復興した。そして「山びこ学校」が戦後綴方教師に勇気と見通しを与えたのは確かである。岩手県の教育実践と研究の指導者であった吉田六太郎は地域の教育実践と研究を回顧して、「山びこ」実践が教師たちに与えた影響の大きさを述べた。「無着成恭さんの『山びこ学校』が発刊されたとき、なかまたちのよろこびはたいへんなものでした。……『山びこ学校』はたしかにわたしたちを勇気づけてくれました」と振り返っている。そうした感動にうそはないだろう。しかし、「山びこ学校」の実践は、最終的には確かな形で継承されていくことは出来なかったのである。

 日本作文の会の機関誌 「作文と教育」で『山びこ学校』が初めて取り上げられたのは,その刊行の1か月後に発行された同誌第3号 (1951(昭和 26)年4月)所収の「良書すいせん」である。そこでは「山びこ学校」はわが綴方運動三十年に大きな画期をもたらした」と述べた後,そのように評価する理由を、特定の 「綴り方選手」によるものではなく学級の生徒全員の手になる文章を集めた作文集であること,「『文学主義』から全く自由な立場」 に立つからこそ「却ってこれほど文学的にも香り高いものが生まれた」 ことの二点としている。

 次に「作文と教育」誌に『山びこ学校』が取り上げられたのは、同誌第6号 (1952(昭和 27)年2月)所収の後藤彦十郎の手になる 「映画 『山びこ学校』ができた」である。 ここでは、この映画によって 「『山びこ学校』の教育を、精神的にも方法的にも、繰り返し味ってみる必要があるだろう」 と肯定的に、また積極的に評価をした上で,次のような見解が加えられている。

 「ここで、われわれ『日本作文の会』同人のお互いが、とくに身にしみて考えたいことがある。それは各人の学級、学校の文集を、『山びこ学校』のように出版にならず映画にならないからといって絶対に軽視 してはならない。 と同時に『山びこ学校』だけを特別扱いにしないことである。「山びこ学校」が映画化されることは, 日本作文の会にとって、またその会員である教師たちにとって、作文・綴り方が教育界のみならず、広く社会にその存在を認められ評価 (認知)される大きな機会であったはずである。 しかし後藤彦十郎は、「映画『山びこ学校』ができた」 ことに諸手をあげて喜ぶことよりも,それによって作文・綴り方教育が結果主義・作品主義に陥ること,実践記録としての「山びこ学校」を特殊化 ・典型化すること等の危険性 を指摘するのである。

 「山びこ学校」の刊行によって、社会全体の目は教育、わけても作文・綴り方教育に向けられた。当時、この「山びこ学校」によって作文・綴り方の目を開かれた小 ・中学校の教師もたくさんいたに違いない。また各地の教育現場で”第二の「山びこ学校」”とでも言える実践が、多数行なわれたことも想像に難くない。 しかし、作文・綴り方に取り組む教師たちの多くが依る 「作文と教育」誌には,そのような実践記録は見られない。「作文と教育」誌上で「山びこ学校」に言及した論考は、ここで取り上げた 「良書すいせん」「映画 『山びこ学校』ができた」の他には、次に取り上げる第7号 (1952(昭和 27)年3月)所収の綿引まさの実践記録 「町の子供は『山びこ』学校から何を学んだか」があるのみである。 この3編の他には,「山びこ学校」を直接 ・間接に取り上げ言及した論考や実践記録は見られない。また,「作文と教育」誌 に,「山びこ学校」を中心とした「特集」等も見られない。「山びこ学校」は,広く社会に知られ話題になることによって、いわゆる作文・綴り方の知名度や認知度を飛躍的にあげる上で大きな働きをした。しかし“第二の 『山びこ学校』”とでも言えるような、新たな作文・綴り方教育の理論や実践 を生み出したり、そのための指針を示したりするところまでには至らなかった。

 では、「作文と教育」誌に取り上げられた三つ目の論考である第7号 (1952(昭和 27)年3月)所収の綿引まさの実践記録 「町の子供は『山びこ』学校から何を学んだか」の内容はどんなものであっただろうか。 ここで綿引まきは「『山びこ学校』が日本中の山々に、村々に大きなこだまを呼び起こし、それと前後して生活綴方の火の手はりょう原の火のように燃えひろがっていった。」 と述べた後「山びこ学校」を、貧しさや生活環境の悪さを克服するための実践ととらえたのでは、「東京の山の手では進学々々でアチープに明け暮れ、下町の方では美空ひばりと野球に興じる子供達」との接点はなくなってしまう。 そうではなく「子供はいろいろな生活の事実をありのままに出してくる。 私はこれを積み重ねて行きながら、そこから正しい物の見方,生き方を学ばせたい」 と考え、「生活を探究」して書いた児童の文章を学級の全員で読み合い話し合う活動を重ねて行く。それによって「享楽的な環境を批判し、のりこえていく眼、人の意見を批判的に聞く耳」を育てること、それこそが東京の「子供達が山びこ学校から学んだもの」だとするのである。 綿引まさのこのような考え方は、作文・綴り方、わけても生活綴り方が持つ「訴苦綴り方」「貧乏綴り方」になりがちな傾向を乗り越えるものであること、後に展開される小西健二郎の「学級革命」や戸田唯巳の「学級というなかま」等の実践記録に見られる、学級集団作りを目指した 「書く⇔ 話し合う」指導につながるものであること等、高く評価することの出来る視点と言える。

 「山びこ学校」のフェードアウト

 一方で教育学者のみに留まらずに、極めて高い評価を受け、絶賛された「山びこ学校」には、他方で「物まねに走りたくなる欲求を抑制しようとする」現場教師達の自制心が働いていた。それは事実であっても、「山びこ学校」のもてはやされぶりは見事というしかなかった。しかし、見事であればあるだけ、危うさもあった。

 一つには、「山びこ学校」は有名になり過ぎた。書籍等の売り上げは発行二年間で12万部に達し、26年の一年間だけでもこれを取り上げた新聞・雑誌は100を超し、知識人であれば誰もがこれについてひと言以上あるべきだ、という雰囲気にさえあったという。中学生の文集がここまで話題になるのは世界的に見て稀であろう。それというのも、戦争に敗れた後の新生日本のあるべき姿を底辺から希求する、貴重な声がここにあると考えられたからだろう。

 ただし、それもこれも、外部から見た話である。作品の舞台となった山元村の住民からすれば、惨めな貧窮状態が全国に曝されるようなのは、面白くないと感じられる場合もあったろう。

 それ以上に、今から見ても「こんなことをバラして大丈夫だったのか?」と思える内容の文章もある。たぶん無着の手になる「作者紹介」で「愛される理論家」と評されている川合義憲の一連の作文など、彼が実際に見聞したいわゆるヤミによる商品売買が、赤裸々に描かれている。駐在だって、炭などをヤミで買ったことがある。それでも、時には農家を摘発する。川合の家は大丈夫だったらしいが、こんなことを書いて、と父母からは叱責された。それが活字になった。おかげで我々は貴重な記録を目にすることができるのだが、直接の当事者である川合家の人々や関係者に、これを「教育」の一環として理解しろと言っても、ほとんど無理な話ではある。

 それから、当然予想されることだが、無着の教育によって、子どもたちは社会に対する批判的な目を身に付ける。作文ではそれは、村の大人たちへの直接の批判として現れる。批判されれば、その内容の適否以前に、「中学生のガキが、何を生意気な」と今の大人でも(大半がこのときの山元中学校の生徒より年下になるわけだが)反感を持つだろう。それはただちに、彼らの指導者である無着に対する反感となる。昭和26年と言えばサンフランシスコ講和条約が署名された年だが、朝鮮戦争後に方向転換したGHQによるレッド・パージの記憶はまだ生々しいものとしてあった。そこで無着は「アカではないか」と言われることもあったという。

 昭和28年、ウイーンで世界教育会議が開催されると、無着はその出席者の一人に選ばれた。帰途、羽仁五郎のすすめで、日本の当局には無断で東欧に入り、さらにはモスクワに迎えられて、モスクワ放送に出演した。当然大騒ぎとなり、この事件がきっかけで無着は村を逐われることになったようである。こうして無着成恭の公立学校教員生活は5年で終わったのである。

 たぶん今でも、「山びこ学校」を読めば、その教育のすばらしさを否定する人は稀であろう。しかし、では、自分の子どもにこのような教育を施してもらいたいか、となると話は別になるということも少なくはないのではないだろうか。

 山元中学校の生徒たちの手になる作文の迫力は、何と言っても彼らが中学生でありながら生産の担い手であったために他ならない。彼らの家のほとんどが農家であって、小さいときから野良仕事の手伝いをすることは、この頃までは当たり前であった。つまり、農業社会の現状への疑問も、彼らにとっては少しも抽象的な話ではなく、生活の中でぶつからねばならない切実なものとしてあったのである。労働人口の八割以上が勤め人となり、家庭と生産現場がほぼ完全に分離された現在では、この教育実践の土台は完全に消えているのである。

 江口江一を初め、日本全国の農村の子どもたちが苦しんでいたのは、結局貧乏だからだ。「貧乏綴方」という悪口は、「山びこ学校」以前から、綴方運動に対しては言われていた。彼らが貧乏だからこそ興味深いのだというわけである。貧乏自慢によってすぐれた作文が生まれたとしても、経済状態が改善され、誰も江口のような苦しみを嘗めないほうが、優れた文章が出るよりもっといいと、普通には考えられることも忘れられない。

 戦後の日本の「劣島総貧乏」時代、それも山形県の山中の寒村での教育実践、さらにそれが師範学校を出たばかりの若い教師によって達成されたという物珍しさも、たくさんの関心を集めた原因の一つであったことは事実である。戦前のすべての価値が失墜し、九年間の義務教育が実現した新制中学校とは言え、何をどうしたらいいのかさっぱりわからなかった「未知の現場」で、破天荒ともいえる教室運営を行い、これまでに見ることのできなかった「新しい教育」がそこに花開いたあるから、もろ手を挙げて受け入れる風潮があったとしても、少しもおかしなことではない。一青年教師は、大げさではなく「時代の寵児」となったのだ。

 さらに言えば、教育・実践というのは、ある特定の一人の教師とかけがえのない子どもたちの、ある特定の時間と場所における交わりの中で生じる、両者の共同作業であり、それは取りも直さず「たった一回きりの出来事」に他ならない。それが「山びこ学校」である。その文集の中には、確かに貧しい家の事情が赤裸々に描かれていた。それに対する強い批判があったのは当然である。しかし、それを超えて、この無着の仕事が評価されたのは「民主主義と教育」という積年の課題に対する一つの、疑いようのない解答であったからに他ならない。

 「山びこ学校」が発刊され、映画にもなった後、「地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った」と言われている。そういう扱いがあったことは間違いないのだろうが、同時に無着という青年教師は、「山村の学校は自分の活動の場ではない」あるいは「世界が狭すぎる」と考えて、内心思い切り羽ばたきたいという思いも募っていたのではないだろうか。何しろ若さ溢れる時代の寵児なのであるから。おそらくそうした思いを心に秘めたまま、駒沢大学で僧侶としての修業を積むとして上京する。そして招かれた明星学園に教頭として勤務することになる。

 そこでの奇跡を簡単にまとめることはできないが、新たな「山びこ学校」を模索したことは間違いない。その結果として「詩の授業」や「にっぽんご」のと言った編著作集が編まれ、「続・山びこ学校」も出版されている。どちらかといえば、生活綴り方よりも、科学的教科指導に偏っているように見える。さらに明星学園では、父母との「十五年戦争」があり、盟友遠藤豊氏らの「自由の森学園」には携わることなく、教育界を離れている。「教育界」からの脱出は、どこか「山元村をあとにした」ことを彷彿とされるような気がするのは僕だけだろうか。

 山元村を離れ、上京した無着に対して、1960年、「山びこ学校」を卒業生した生徒たちの何人かが、異口同音に「先生は、俺たちを捨てた」というような発言を残している。またその中の一人であり、「山びこ学級の級長」でもあった佐藤藤三郎が「25歳になりました」という評論集を出版した。そこには「山びこ」実践への複雑な反応が書かれていて、大いに注目された。佐藤藤三郎は「先生はあの三年間さわがれた自分に耐えきれなくて、本質的に生きるため東京へ飛びだしたんじゃないかという気がするんです。ぼくは、先生がそう正直にいった方がいいと思うな。おれは自分を『耐えられなかった』とはっきりいえる」と述べている。無着だけではなく、「山びこ学校」の生徒達一人一人も、マスコミに追い回され日本中から注目され、そのうえ周囲の人々からも注目されるなど、その生活は、想像を絶するほど大変だったのだ。さらに、「教師をやめて新たな学問に専念する、といって村を出たはずだが『有名』になったその看板を外すことがなかった。もちろんそうした個人の『自由』に立ち入る権利は誰にもないが、言われたこととなすこととに一貫性がなくなっていることを知るとき、信頼があつかっただけにその戸惑いは大きかった」とも述べている。

 「山びこ学校」の指導者であった無着は、村を離れて東京に出た。では教え子達はどうだったのだろうか。山元村中学校の無着学級の卒業生42名(入学時は43名だったが)のうち高校に進学したのは佐藤藤三郎、川合貞義、川合義憲、横戸惣重の4名だったという。なお、村に残ったのは長男であった5人と、村内に嫁に行った女性2人の7人(六分の一)だけだったという。ほとんどが東京方面に就職したのである。村に残ったにせよ出たにせよ、個人個人についてはわからないことが多いが、佐藤籐三郎は、上京組とじっくり話し合う機会をつくっており、彼等のほとんどがみんな苦労していて、「村に残った者だけが貧乏くじを引いたという訳ではなかった」と語っている。さらに村に残った江口については「子供の時に両親を失い、生活の苦労を誰よりも深く知っていた君は、なんとかして、村から貧しさを追放しなければならない、という遠大な夢を持っていた。農業立地に恵まれないわが村をおこすのは、林業以外みちはない、君はひたすらにその信念に生き、すべての行動が、そこにあった」と述べている。そんな江口は、中学を出て地元の森林組合に就職したが、31歳でくも膜下出血で急死してしまった。佐藤籐三郎自身は、地元の定時制高校を卒業した後、山元村狸森狸森(むじなもり)を生涯離れることなく、農業と著述業を生業として過ごした。

 「山びこ学校」の教師も大部分の生徒も母校のある地を離れた。過疎化が進み、「山びこ学校」を生んだ山元中学校は、2009年3月、3人の卒業生を送り出して閉校したという。急傾斜の曲がりくねった道に沿って点在する狸森集落はいま、残ったのは年寄りだけ、空き家が目立っている。そして閉校式に名を連ねた卒業生、村人約300人の中に、無着成恭の名も、佐藤籐三郎の名もなかったということであった。

 「教師が緻密な研修の結果をもって生徒に働きかければ、生徒の学力が伸び、正当な道徳心が育つ」、「教育」とはそんな機械的で単純なものとは全く別物である。かけがえのない個人同士の、ある特定の場所と時の中でのみ可能となる営みに他ならない。別の教師が真似をしてみたところで同じ結果にはならない。それどころか、同じ教師が繰り返しても、別の場所、別の生徒に対して同じ結果を得ることなど到底できない。その意味で、「骨身を削るような仕事、同じことは二度と不可能」なのである。

 「やまびこ学校」という教育、子どもと教師の共同作業は、たった一回限りの、あの時期の、あの村での、あの学校でしか生まれるものではないというしごく当たり前のことを、無着は知っていた。だから「逃げた」にしろ、「追い出された」にしろ、この村のこの学校で、「山びこ学校」が繰り返し誕生することは決してなかったのだ。ところが世間は「山びこ学校」の再現を毎年のように期待する。そんなことは不可能なのだ。それでも「山びこ学校の無着先生」の看板は、いつでもどこへでもついて回る。

 無着成恭は、ある意味では「逃げた」のであり、それだけではなく「村におられなくなった」ともいえるのだが、村にいて不可能だとわかりきっている「山びこ学校」の再現を強く期待されることから「身を交わした」のは確かである。その意味で佐藤籐三郎の言っていることがあたっているように思われる。師範学校を出て数年しか経たず、世間的な経験など未熟きわまりないない20代の若者が、世界に冠たる「山びこ学校」の看板を背負わされ、マスコミばかりではなく隣近所からも絶えず一挙手一投足を注目されている場所から逃げ出したとして、誰が責められるだろうか。できれば誰にも知られずに、一からまた新しい取り組みができることを欲したとして、不思議でも何でもないのではないだろう。もちろん「山びこ学校」も「無着成恭の名」も、津々浦々まで知れ渡っている以上、そんな望みは叶わない。そこで、せめて人間関係の濃密な村を出て、もっと広い世界、つまりは「新天地」を求めたのは、むしろ自然なことではないだろうか。その地としてんだのが偶然だったかどうかはわからないが、実際には東京を目ざしたのだ。繰り返すが、たとえ「山びこ学校」を生み出した無着本人であっても、二度と再び「第二の山びこ学校」を生み出すことは不可能なのだ。そのことを無着は十分に知り尽くしていたはずである。それでも、もしかすると、東京に出れば、山元村とは全く違った「新たな山びこ学校」が出来るかもしれない、あるいは山元村の「山びこ学校」を越えるものがうみだせるという微かな炎が、無着の中に燃え続けてしまっていて、消し去ることが出来なかったのではないだろうか。

おわりに

 無着成恭や永六輔、塚原雄太といった人々が、子供の質問に答えるラジオ番組「子供電話相談室」というのがあり、時々面白いやりとりがかわされていた。ここにあげた名物回答者はすべて亡くなってしまっているし、質問する子供も成長して当然変わっている。年寄り特有の懐旧趣味なのかもしれないが、久しぶりに偶然かかったこの番組が、聞くに堪えない程つまらないものになっているように感じられた。その理由を細かく検討した訳ではない。そう感じられたような気がしただけだ。ただ、それに理由らしきものを探ると、子供達の質問が大きく変わってきているらしい。「問題意識を持たない子ども」が増えたというのだ。例えば、家にいてもスイッチを押せばすぐに電気がつくが、なぜそうなるのか大事なところは全部壁の中に隠されている。内部構造を知らなくても、スイッチ一つで自分が望む状況にできる。そうした環境が「疑問を持たない子ども」を生み出している。

 本来子供は「なぜ」「どうして」が専売特許の存在だったはずだ。それに対して、生活綴方こそがは「内部構造」を見えるようにする教育だ。今の日本の教育は、子どもを機械の部品のように育てるシステムになっている。実際に綴方に取り組む教師が減っている。教師が忙しくなりすぎていて、一人一人に自分の考えを書かせ、深く再考させ、評価するといった面倒な綴り方につきあっている閑などないだろう。また個人情報にうるさくなり、子どもに家庭のことさえを書かせづらくなってきている。「山びこ学校」には、家庭のしんどい部分が全部暴露されているが、それができたのもあの時代だったからだろう。先にも述べたように、ここまで書いていいのかと思われるような作品も少なくないのだ。

 しかし、作文を書かせることで、子どもがどんな気持ちで生活し、授業を受けているのか見えてくることは間違いない。「そんなこと考えてたのか。ごめん、ごめん」と謝りながら作文を読む。子どもの気持ちが見えないと自分の側からしか言葉を発することができない教師になってしまう。まさに「独りよがり」「自己中」に他ならない。実はそうなってしまっているということを振り返って見直したとき、それで良しとする教師がいるだろうか。

 親でさえも今は、わが子であっても関係を築けないことが少なくない。先生からの伝言や注意を、親が子に直接話すのではなく、メールで伝えるということも実際にある。

 ヒトは犬や猫と違い、人格を持つ「人間」にもなれるが、餓鬼にもなってしまう。犬や猫は欲望が満たされればそれでおしまいだが、「餓鬼」は、他人の迷惑などものともせず、死んでからも財産を奪ったり、残したりしようとするなど徹底的に欲望を満たそうとする。「自分は自分、他人は他人」と勝手にしたうえ、個人情報は明かさないものとして閉じこもる。日本の教育は今や「餓鬼を大量生産する」システムになってしまっているかのように見えなくもない。「餓鬼にならないためには何をすべきか」「人間になるにはどうしたらいいのか」を考える力をつけるのが綴方のはずである。

 綴り方を継承発展させる、そのためには何ができ何ができないのか、考える機会を持つ必要があるのではないだろうか。物まねとは無縁の「山びこ学校」の成立は可能なのだろうか。

 日本は戦後一貫して規模拡大農業政策を進めてきた。より大きく作り、よりたくさん売って、富裕になる。しかし、戦後農地解放で生まれた自作農の時代精神は、みんなが等しく生きていく、ということだった。今、この日本でその自作農が急速に滅びつつある。「戦後」とは一体何だったのか。夢かうつつかまぼろしか、次第におぼろになってしまう戦後。「山びこ学校」のリアリズムに触れることで、はっと我に返るのではないだろうか。戦後の日本人が生きてきた時代が確かにここにあったのである。

 いうまでもなく、完璧な人間などいるはずがない。当然生涯に亘って非の打ち所がない人間など、古今東西探し回ってもいる訳がない。現実に生み出された作品もまた、永遠に不十分さのかけらもないものなどということはあり得ないだろう。とすれば、一時期とはいえ、すさまじい実践をなし遂げた無着成恭も「山びこ学校」も、十分に注目すべき存在である。彼が生み出した「山びこ学校」がもつ「綴り方」の埋蔵量は、いまだに新しい発見が可能な程、汲めども尽きぬ埋蔵量を誇っている。ただ残念なことに、まるで大規模古墳のように、鬱蒼と茂った緑に囲まれた巨大な山のような存在となって、中に何が詰まっているのかも分からないまま、ほとんど無視されて、迂回されて通過されてしまっているかのようである。大きな邪魔物として、迷惑がられているかもしれない。

 所謂「知育」に偏った現在の教育に、「山びこ学校」的な教育はかなわないのだろうか。別にまとめることとなる「新しい学力」が、四則計算が出来れば日常生活には困らないなどと言うのは真っ赤な嘘だとして、三角関数や積分ぐらいさえも絶対に日常生活に欠かせないとして、数学教育を底辺の高校生に教える教師がいる。そこでは数学の知識を身につけることで社会を撃つことが実践されており、その辺に行き詰まった教育の打開策があるのではないかという気がする。「山びこ学校」は見直され、生まれ変わるのではないかという予感がする。