「あたしい憲法のはなし」を読む

「あたしい憲法のはなし」を読む 文部省 初版 1947年刊
1947(昭和22)年8月2日に当時の文部省は、同年5月3日に施行された日本国憲法の解説のための新制中学校1年生用社会科教科書として「あたらしい憲法のはなし」を発行した。以下に全文を掲げたが、全十五章からなる、日本国憲法の精神や内容を易しく解説したものであった。
 新憲法によって主権者から象徴へと位置づけが変わった天皇については、「日本国民全体の中心」とし、「私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、国を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」と述べている。また新憲法に掲げられた平和主義、戦争(戦力)放棄条項について解説する前に(6.「戦争の放棄冒頭」)読者である中学生に家族や知人の不幸に見舞われた人があることを呼びかけ、戦争を二度と起こさない決意を呼びかけている。
 この「あたらしい憲法のはなし」は、1950(昭和25)年には、教科書から副読本に格下げされ、1951年からは使われなくなってしまった。ジョン・ダワーによると、これは軍備廃止を讃美する「あたらしい憲法のはなし」の論調が、朝鮮戦争を機に日本の再軍備が始められた現実と米国当局のあたらしい方針とそぐわなくなったからだと指摘されている。ただ、「戦争の放棄」における「戦争放棄と書いた大きな釜の中で軍艦や軍用機を燃やし、その中から電車や船や消防自動車が走り出し、その脇で鉄塔や高層建物が光り輝いて出てくる絵」は、「あたらしい憲法のはなし」に使われていた挿絵だが、1952年以降の小中学校で使われた社会科の教科書や副読本にも使われ続けた。以下に示すのが、その全文である。

一 憲法
 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかかわりのないことのようにおもっている 人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
 国の仕事は、一日も休むことはできません。また、国を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
 国をどういうふうに治め、国の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま国を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、国の中におおぜいの人がいても、どうして国を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの国でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。国でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを国の「最高法規」というのです。
 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、国の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは国民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、ここではただ、なぜそれが、 国の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。
 みなさんは日本国民のうちのひとりです。国民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、国民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。国の力のもとは、ひとりひとりの国民にあります。そこで国は、この国民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、国民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この国民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。
 そこでもういちど、憲法はどういうものであるかということを申もうしておきます。憲法とは、国でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、国の治めかた、国の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、国民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。
 これまであった憲法は、明治二十二年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、国民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本国民がじぶんでつくったもので、日本国民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この国民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行なわれ、あたらしい国民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、国民ぜんたいでつくったということになるのです。
 みなさんも日本国民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた国民ぜんたいのつくったものであり、国でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、国民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。
 みなさんが、何かゲームのために規則きそくのようなものをきめるときに、みんないっしょに書かいてしまっては、わかりにくいでしょう。 国の規則もそれと同じで、一つ一つ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何条、第何条というように順々に記します。こんどの憲法は、第一条から第百三条まであります。そうしてそのほかに、前書きが、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方かたと、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知しらなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。

二 民主主義とは
 こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。みなさんはこのことばを、ほうぼうできいたでしょう。これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんは、はっきりとこれを知っておかなければなりません。しかも正しく知っておかなければなりません。
 みなさんがおおぜいあつまって、いっしょに 何かするときのことを考えてごらんなさい。だれの意見で物事ものごとをきめますか。もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。もし意見が分かれたときは、どうしますか。ひとりの意見できめますか。二人の意見できめますか。それともおおぜいの 意見できめますか。どれがよいでしょう。ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おおぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おおぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおおぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおおぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。
 国を治めてゆくのもこれと同じです。わずかの人の意見で国を治めてゆくのは、よくないのです。国民ぜんたいの意見で、国を治めてゆくのがいちばんよいのです。つまり国民ぜんたいが、国を治めてゆく――これが民主主義の治めかたです。
 しかし国は、みなさんの学級とはちがいます。国民ぜんたいが、ひとところにあつまって、そうだんすることはできません。ひとりひとりの意見をきいてまわることもできません。そこで、みんなの代わりになって、国の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。それが国会です。国民が、国会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、国を治めてゆく者をえらぶのです。だから国会では、なんでも、国民の代わりである議員のおおぜいの意見で物事をきめます。そうしてほかの議員は、これにしたがいます。これが国民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。これが民主主義です。ですから、民主主義とは、国民ぜんたいで、国を治おさめてゆくことです。みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で国を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また国もさかえてゆくでしょう。
 国は大きいので、このように国の仕事を国会の議員にまかせてきめてゆきますから、国会は国民の代わりになるものです。この「代わりになる」ということを「代表」といいます。まえに申しましたように、民主主義は、国民ぜんたいで国を治おさめてゆくことですが、国会が国民ぜんたいを代表して、国のことをきめてゆきますから、これを「代表制民主主義」のやりかたといいます。
 しかしいちばん大事なことは、国会にまかせておかないで、国民が、じぶんで意見をきめることがあります。こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、国会だけできめないで、国民ひとりひとりが、賛成か反対かを投票してきめることになっています。このときは、国民が直接に国のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。あたらしい憲法は、代表制民主主義と直接民主主義と、二つのやりかたで国を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事だいじなことにかぎられているのです。だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。
 みなさんは日本国民のひとりです。しかしまだこどもです。国のことは、みなさんが二十歳になって、はじめてきめてゆくことができるのです。国会の議員をえらぶのも、国のことについて投票するのも、みなさんが二十歳になってはじめてできることです。みなさんのおにいさんや、おねえさんには、二十歳以上の方かたもおいででしょう。そのおにいさんやおねえさんが、選挙の投票にゆかれるのをみて、みなさんはどんな気がしましたか。いまのうちに、よく勉強して、国を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、国のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。みなさんの考えとはたらきで国が治まってゆくのです。みんながなかよく、じぶんで、じぶんの国のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。これが民主主義というものです。

三 国際平和主義
 国の中で、国民ぜんたいで、物事ごとをきめてゆくことを、民主主義といいましたが、国民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おおぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおおぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく国の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。
 これは、一つの国について申しましたが、国と国との間のことも同じことです。じぶんの国のことばかりを考え、じぶんの国のためばかりを考えて、ほかの国の立場を考えないでは、世界中の国が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の国が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、国際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この国際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの国にたいしても国際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。この国際平和主義をわすれて、じぶんの国のことばかり考えていたので、とうとう戦争をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この国際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戦争の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。

四 主権在民主義
 みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろいろきめかたがあってむずかしいことです。
 国では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし国の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおおぜいの考えできまるなら、そのおおぜいが、みないちばんえらいことになります。もし国民ぜんたいの考えできまるならば、国民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、国民の考えで国を治めてゆきます。そうすると、国民がいちばん、えらいといわなければなりません。
 国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本こんぽんの考かんがえとしていますから、主権は、とうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一条にも、「主権が国民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。
 みなさんは、日本国民のひとりです。主権をもっている日本国民のひとりです。しかし、主権は日本国民にあるのです。ひとりひとりが、べつべつにもっているのではありません。ひとりひとりが、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本国民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい国民でなければなりません。

五 天皇陛下
 こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして国の仕事をした人々は、国民がえらんだものでなかったので、国民の考えとはなれて、とうとう戦争になったからです。そこで、これからさき国を治おさめてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。
 憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の国旗を見れば、日本の国をおもいだすでしょう。国旗が国の代わりになって、国をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまここに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一条は、天皇陛下を「日本国」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の国をあらわされるお方ということであります。
 また憲法第一条は、天皇陛下を「日本国民統合の象徴であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本国民の象徴でいらっしゃいます。これは、私わたしたち日本国民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本国民ぜんたいをあらわされるのです。
 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本国民の考えにあるのです。これからさき、国を治めてゆく仕事は、みな国民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして神様ではありません。国民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小ちいさな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、国を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

六 戦争の放棄
 みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送おくりだされた人も多おおいでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国くにはどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

七 基本的人権
 くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き生きとしげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、ただ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。
 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、国の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。
 またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。
 国の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に与えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。
 しかし基本的人権は、ここにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の国の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい国民にならなければなりません。国はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権りを憲法で与えられているのです。この場合はみなさんのほうから、国にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的人権ですが、これを「請求権」というのです。争いごとのおこったとき、国の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。
 それからまた、国民が、国を治めることにいろいろ関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。国会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、国や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です
 みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を与えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。
 こんなりっぱな権利を与えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。国ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。

八 国会
 民主主義は、国民が、みんなでみんなのために国を治めてゆくことです。しかし、国民の数はたいへん多いのですから、だれかが、国民ぜんたいに代わって国の仕事をするよりほかはありません。この国民に代わるものが「国会」です。まえにも申しましたように、国民は国を治めてゆく力、すなわち主権をもっているのです。この主権をもっている国民に代わるものが国会ですから、国会は国でいちばん高い位にあるもので、これを「最高機関」といいます。「機関」というのは、ちょうど人間に手足があるように、国の仕事をいろいろ分けてする役目のあるものという意味です。国には、いろいろなはたらきをする機関があります。あとでのべる内閣も、裁判所も、みな国の機関です。しかし国会は、その中でいちばん高い位にあるのです。それは国民ぜんたいを代表しているからです。
 国の仕事はたいへん多いのですが、これを分けてみると、だいたい三つに分かれるのです。その第一は、国のいろいろの規則をこしらえる仕事で、これを「立法」というのです。第二は、争いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめる仕事で、これを「司法」というのです。ふつうに裁判といっているのはこれです。第三は、この「立法」と「司法」とをのぞいたいろいろの仕事で、これをひとまとめにして「行政」といいます。国会は、この三つのうち、どれをするかといえば、立法をうけもっている機関であります。司法は、裁判所がうけもっています。行政は、内閣と、その下にある、たくさんの役所がうけもっています。
 国会は、立法という仕事をうけもっていますから、国の規則はみな国会がこしらえるのです。国会のこしらえる国の規則を「法律」といいます。みなさんは、法律ということばをよくきくことがあるでしょう。しかし、国会で法律をこしらえるのには、いろいろ手つづきがいりますから、あまりこまごました規則までこしらえることはできません。そこで憲法は、ある場合には、国会でないほかの機関、たとえば内閣が、国の規則きそくをこしらえることをゆるしています。これを「命令」といいます。
 しかし、国の規則は、なるべく国会でこしらえるのがよいのです。なぜならば、国会は、国民がえらんだ議員のあつまりで、国民の意見がいちばんよくわかっているからです。そこで、あたらしい憲法は、国の規則は、ただ国会だけがこしらえるということにしました。これを、国会は「唯一の立法機関である」というのです。「唯一」とは、ただ一つで、ほかにはないということです。立法機関とは、国の規則をこしらえる役目のある機関ということです。そうして、国会以外のほかの機関が、国の規則をこしらえてもよい場合は、憲法で、一つ一つきめているのです。また、国会のこしらえた国の規則、すなわち法律の中で、これこれのことは命令できめてもよろしいとゆるすこともあります。国民のえらんだ代表者が、国会で国民を治める規則をこしらえる、これが民主主義のたてまえであります。
 しかし国会には、国の規則をこしらえることのほかに、もう一つ大事な役目があります。それは、内閣や、その下にある、国のいろいろな役所の仕事のやりかたを、監督することです。これらの役所の仕事は、まえに申しました「行政」というはたらきですから、国会は、行政を監督して、まちがいのないようにする役目をしているのです。これで、国民の代表者が国の仕事を見はっていることになるのです。これも民主主義の国の治めかたであります。
 日本の国会は「衆議院」と「参議院」との二つからできています。その一つ一つを「議院」といいます。このように、国会が二つの議院からできているものを「二院制度」というのです。国によっては、一つの議院しかないものもあり、これを「一院制度」というのです。しかし、多くの国の国会は、二つの議院からできています。国の仕事はこの二つの議院がいっしょにきめるのです。
 なぜ二つの議院がいるのでしょう。みなさんは、野球や、そのほかのスポーツでいう「バック・アップ」ということをごぞんじですか。一人の選手が球を取りあつかっているとき、もう一人の選手が、うしろにまわって、まちがいのないように守ることを「バック・アップ」といいます。国会は、国の大事な仕事をするのですから、衆議院だけでは、まちがいが起こるといけないから、参議院が「バック・アップ」するはたらきをするのです。ただし、スポーツのほうでは、選手がおたがいに「バック・アップ」しますけれども、国会では、おもなはたらきをするのは衆議院であって、参議院は、ただ衆議院を「バック・アップ」するだけのはたらきをするのです。したがって、衆議院のほうが、参議院よりも、強い力を与えられているのです。この強い力ちからをもった衆議院を「第一院」といい、参議院を「第二院」といいます。なぜ衆議院のほうに強い力があるのでしょう。そのわけは次のとおりです。
 衆議院の選挙は、四年ごとに行おこなわれます。衆議院の議員は、四年間つとめるわけです。しかし、衆議院の考えが国民の考えを正しくあらわしていないと内閣が考えたときなどには、内閣は、国民の意見を知るために、いつでも天皇陛下に申しあげて、衆議院の選挙のやりなおしをしていただくことができます。これを衆議院の「解散」というのです。そうして、この解散のあとの選挙で、国民がどういう人をじぶんの代表にえらぶかということによって、国民のあたらしい意見が、あたらしい衆議院にあらわれてくるのです。
 参議院のほうは、議員が六年間つとめることになっており、三年ごとに半分ずつ選挙をして交代しますけれども、衆議院のように解散ということがありません。そうしてみると、衆議院のほうが、参議院よりも、その時、その時の国民の意見を、よくうつしているといわなければなりません。そこで衆議院のほうに、参議院よりも強い力が与えられているのです。どういうふうに衆議院の方が強い力をもっているかということは、憲法できめられていますが、ひと口でいうと、衆議院と参議院との意見いけんがちがったときには、衆議院のほうの意見がとおるようになっているということです。
 しかし衆議院も参議院も、ともに国民ぜんたいの代表者ですから、その議員は、みな国民が国民の中なかからえらぶのです。衆議院のほうは、議員が四百六十六人、参議院のほうは二百五十人あります。この議員をえらぶために、国を「選挙区」というものに分けて、この選挙区に人口にしたがって議員の数をわりあてます。したがって選挙は、この選挙区ごとに、わりあてられた数だけの議員をえらんで出すことになります。
 議員を選挙するには、選挙の日に投票所へ行き、投票用紙を受け取り、じぶんのよいと思う人の名前を書きます。それから、その紙を折り、かぎのかかった投票箱へ入いれるのです。この投票は、ひじょうに大事な権利です。選挙する人は、みなじぶんの考えでだれに投票するかをきめなければなりません。けっして、品物や利益になる約束で説き伏せられてはなりません。この投票は、秘密投票といって、だれをえらんだかをいう義務もなく、ある人をえらんだ理由を問われても答える必要はありません。
 さて日本国民は、二十歳以上の人ひとは、だれでも国会議員や知事市長などを選挙することができます。これを「選挙権」というのです。わが国では、ながいあいだ、男だけがこの選挙権をもっていました。また、財産をもっていて税金をおさめる人ひとだけが、選挙権をもっていたこともありました。いまは、民主主義のやりかたで国を治めてゆくのですから、二十歳以上の人は、男も女もみんな選挙権をもっています。このように、国民がみな選挙権をもつことを、「普通選挙」といいます。こんどの憲法は、この普通選挙を、国民の大事な基本的人権としてみとめているのです。しかし、いくら普通選挙といっても、こどもまで選挙権をもつというわけではありませんが、とにかく男女人種の区別もなく、宗教や財産の上の区別もなく、みんながひとしく選挙権をもっているのです。
 また日本国民は、だれでも国会の議員などになることができます。男も女もみな議員になれるのです。これを「被選挙権」といいます。しかし、年齢が、選挙権のときと少しちがいます。衆議院議員になるには、二十五歳以上、参議院議員になるには、三十歳以上でなければなりません。この被選挙権の場合ばあいも、選挙権と同じように、だれが考えてもいけないと思われる者ものには、被選挙権がありません。国会議員になろうとする人は、じぶんでとどけでて、「候補者」というものになるのです。また、じぶんがよいと思おもうほかの人を、「候補者 」としてとどけでることもあります。これを 候補者を「推薦」といいます。
 この候補者をとどけでるのは、 選挙の日のまえにしめきってしまいます。投票をする人は、この候補者の中から、じぶんのよいと思う人ひとをえらばなければなりません。ほかの人の名前なまえを書いてはいけません。そうして、投票の数の多い候補者から、議員になれるのです。それを「当選する」といいます。
 みなさん、民主主義は、国民ぜんたいで国を治めてゆくことです。そうして国会は、国民ぜんたいの代表者です。それで、国会議員を選挙することは、国民の大事な権利で、また大事なつとめです。国民はぜひ選挙にでてゆかなければなりません。選挙にゆかないのは、この大事な権利をすててしまうことであり、また大事なつとめをおこたることです。選挙にゆかないことを、ふつう「棄権」といいます。これは、権利をすてるという意味いみです。国民は棄権してはなりません。みなさんも、いまにこの権利をもつことになりますから、選挙のことは、とくにくわしく書いておいたのです。
 国会は、このようにして、国民がえらんだ議員があつまって、国のことをきめるところですが、ほかの役所とちがって、国会で、議員が、国の仕事をしているありさまを、国民が知ることができるのです。国民はいつでも、国会へ行って、これを見たりきいたりすることができるのです。また、新聞やラジオにも国会のことがでます。
 つまり、国会での仕事は、国民の目の前で行われるのです。憲法は、国会はいつでも、国民に知れるようにして、仕事をしなければならないときめているのです。これはたいへん大事なことです。もし、まれな場合ですが秘密に会議を開こうとするときは、むずかしい手つづきがいります。
 これで、どういうふうに国が治められてゆくのか、どんなことが国でおこっているのか、国民のえらんだ議員が、どんな意見を国会でのべているかというようなことが、みんな国民にわかるのです。
 国の仕事の正しい明るいやりかたは、ここからうまれてくるのです。国会がなくなれば、国の中がくらくなるのです。民主主義は明るいやりかたです。国会は、民主主義にはなくてはならないものです。
 日本の国会は、年中開かれているものではありません。しかし、毎年一回はかならず開くことになっています。これを「常会」といいます。常会は百五十日間ときまっています。これを国会の「会期」といいます。このほかに、必要のあるときは、臨時に国会を開ひらきます。これを「臨時会」といいます。また、衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、選挙を行ない、その選挙の日から三十日以内に、あたらしい国会が開かれます。これを「特別会」といいます。臨時会と特別会の会期は、国会がじぶんできめます。また国会の会期は、必要のあるときは、延ばすことができます。それも国会がじぶんできめるのです。国会を開くには、国会議員をよび集めなければなりません。これを、国会を「召集する」といって、天皇陛下がなさるのです。召集された国会は、じぶんで開いて仕事をはじめ、会期がおわれば、じぶんで国会を閉じて、国会は一時休むことになります。
 みなさん、国会の議事堂をごぞんじですか。あの白いうつくしい建物に、日の光がさしているのをごらんなさい。あれは日本国民の力をあらわすところです。主権をもっている日本国民が国を治めてゆくところです。

九 政党
「政党」というのは、国を治めてゆくことについて、同じ意見をもっている人があつまってこしらえた団体のことです。みなさんは、社会党、民主党、自由党、国民協同党、共産党などという名前を、きいているでしょう。これらはみな政党です。政党は、国会の議員だけでこしらえているものではありません。政党からでている議員は、政党をこしらえている人の一部だけです。ですから、一つの政党があるということは、国の中に、それと同じ意見をもった人が、そうとうおおぜいいるということになるのです。
 政党には、国を治めてゆくについてのきまった意見があって、これを国民に知らせています。国民の意見は、人によってずいぶんちがいますが、大きく分けてみると、この政党の意見のどれかになるのです。つまり政党は、国民ぜんたいが、国を治めてゆくについてもっている意見を、大きく色分にしたものといってもよいのです。民主主義で国を治めてゆくには、国民ぜんたいが、みんな意見をはなしあって、きめてゆかなければなりません。政党がおたがいに国のことを議論しあうのはこのためです。
 日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、国の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです。民主主義のやりかたは、国の仕事について、国民が、おおいに意見をはなしあってきめなければならないのですから、政党が争うのは、けっしてけんかではありません。民主主義でやれば、かならず政党というものができるのです。また、政党がいるのです。政党はいくつあってもよいのです。政党の数だけ、国民の意見が、大きく分かれていると思えばよいのです。ドイツやイタリアでは政党をむりに一ひとつにまとめてしまい、また日本でも、政党をやめてしまったことがありました。その結果はどうなりましたか。国民の意見が自由にきかれなくなって、個人の権利がふみにじられ、とうとうおそろしい戦争をはじめるようになったではありませんか。
 国会の選挙のあるごとに、政党は、じぶんの団体から議員の候補者を出し、またじぶんの意見を国民に知らせて、国会でなるべくたくさんの議員をえようとします。衆議院は、参議院よりも大きな力をもっていますから、衆議院でいちばん多く議員を、じぶんの政党からだすことが必要です。それで衆議院の選挙は、政党にとっていちばん大事なことです。国民は、この政党の意見をよくしらべて、じぶんのよいと思う政党の候補者に投票すれば、じぶんの意見が、政党をとおして国会にとどくことになります。 どの政党にもはいっていない人が、候補者になっていることもあります。国民は、このような候補者に投票することも、もちろん自由です。しかし政党には、きまった意見があり、それは国民に知らせてありますから、政党の候補者に投票をしておけば、その人が国会に出たときに、どういう意見をのべ、どういうふうにはたらくかということが、はっきりきまっています。もし政党の候補者でない人に投票したときは、その人が国会に出たとき、どういうようにはたらいてくれるかが、はっきりわからないふべんがあるのです。このようにして、選挙ごとに、衆議院に多くの議員をとった政党の意見で、国の仕事をやってゆくことになります。これは、いいかえれば、国民ぜんたいの中で、多いほうの意見で、国を治めてゆくことでもあります。
 みなさん、国民は、政党のことをよく知らなければなりません。じぶんのすきな政党にはいり、またじぶんたちですきな政党をつくるのは、国民の自由で、憲法は、これを「基本的人権」としてみとめています。だれもこれをさまたげることはできません。

十 内閣
「内閣」は、国の行政をうけもっている機関であります。行政ということは、まえに申しましたように、「立法」すなわち国の規則をこしらえることと、「司法」すなわち裁判をすることをのぞいたあとの、国の仕事をまとめていうのです。国会は、国民の代表になって、国を治めてゆく機関ですが、たくさんの議員でできているし、また一年中開いているわけにもゆきませんから、日常の仕事やこまごました仕事は、別に役所をこしらえて、ここでとりあつかってゆきます。その役所のいちばん上うえにあるのが内閣です。
 内閣は、内閣総理大臣と国務大臣とからできています。「内閣総理大臣」は内閣の長で、内閣ぜんたいをまとめてゆく、大事な役目をするのです。それで、内閣総理大臣にだれがなるかということは、たいへん大事なことですが、こんどの憲法は、内閣総理大臣は、国会の議員の中から、国会がきめて、天皇陛下に申しあげ、天皇陛下がこれをお命じになることになっています。国会できめるとき、衆議院と参議院の意見が分かれたときは、けっきょく衆議院の意見どおりにきめることになります。内閣総理大臣を国会できめるということは、衆議院でたくさんの議員をもっている政党の意見で、きまることになりますから、内閣総理大臣は、政党からでることになります。
 また、ほかの国務大臣は、内閣総理大臣が、自分でえらんで国務大臣にします。しかし、国務大臣の数の半分以上は、国会の議員からえらばなければなりません。国務大臣は国の行政をうけもつ役目がありますが、この国務大臣の中から、大蔵省、文部省、厚生省、商工省などの国の役所の長になって、その役所の仕事を分けてうけもつ人がきまります。これを「各省大臣」といいます。つまり国務大臣の中には、この各省大臣になる人と、ただ国の仕事ぜんたいをみてゆく国務大臣とがあるわけです。内閣総理大臣が政党からでる以上、国務大臣もじぶんと同じ政党の人からとることが、国の仕事をやってゆく上にべんりでありますから、国務大臣の大部分が、同じ政党からでることになります。
 また、一つの政党だけでは、国会に自分の意見をとおすことができないと思ったときは、意見のちがうほかの政党と組んで内閣をつくります。このときは、それらの政党から、みな国務大臣がでて、いっしょに、国の仕事をすることになります。また政党の人でなくとも、国の仕事に明るい人を、国務大臣に入れることもあります。しかし、民主主義のやりかたでは、けっきょく政党が内閣をつくることになり、政党から内閣総理大臣と国務大臣のおおぜいがでることになるので、これを「政党内閣」というのです。
 内閣は、国の行政をうけもち、また、天皇陛下が国の仕事をなさるときには、これに意見を申しあげ、また、御同意を申します。そうしてじぶんのやったことについて、国民を代表する国会にたいして、責任を負うのです。これは、内閣総理大臣も、ほかの国務大臣も、みないっしょになって、責任を負うのです。ひとりひとりべつべつに責任を負うのではありません。これを「連帯責任を負う」といいます。
 また国会のほうでも、内閣がわるいと思えば、いつでも「もう内閣を信用しない」ときめることができます。ただこれは、衆議院ができることで、参議院ではできません。なぜならば、国民のその時々の意見がうつっているのは、衆議院であり、また、選挙のやり直なおしをして、内閣が、国民に、どっちがよいかをきめてもらうことができるのは、衆議院だけだからです。衆議院が内閣にたいして、「もう内閣を信用しない」ときめることを、「不信任決議」といいます。この不信任決議がきまったときは、内閣は天皇陛下に申しあげ、十日以内に衆議院を解散していただき、選挙のやり直しをして、国民にうったえてきめてもらうか、または辞職するかどちらかになります。また「内閣を信用する」ということ(これを「信任決議」といいます)が、衆議院で反対されて、だめになったときも同おなじことです。
 このようにこんどの憲法では、内閣は国会とむすびついて、国会の直接の力で動かされることになっており、国会の政党の勢力の変化で、かわってゆくのです。つまり内閣は、国会の支配の下にあることになりますから、これを「議院内閣制度」とよんでいます。民主主義と、政党内閣と、議院内閣とは、ふかい関係があるのです。

十一 司法
 「司法」とは、争いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめることです。「裁判」というのも同じはたらきをさすのです。だれでも、じぶんの生命、自由、財産などを守るために、公平な裁判をしてもらうことができます。この司法という国の仕事は、国民にとってはたいへん大事なことで、何よりもまず、公平にさばいたり、きめたりすることがたいせつであります。そこで国には、「裁判所」というものがあって、この司法という仕事をうけもっているのです。
 裁判所は、その仕事をやってゆくについて、ただ憲法と国会のつくった法律とにしたがって、公平に裁判をしてゆくものであることを、憲法できめております。ほかからは、いっさい口出をすることはできないのです。また、裁判をする役目をもっている人ひと、すなわち「裁判官」は、みだりに役目を取りあげられないことになっているのです。これを「司法権の独立」といいます。また、裁判を公平にさせるために、裁判は、だれでも見たりきいたりすることができるのです。これは、国会と同じように、裁判所の仕事が国民の目の前で行なわれるということです。これも憲法ではっきりときめてあります。
 こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを、一つ申しておきます。それは、裁判所は、国会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。
 みなさん、私たち国民は、国会を、じぶんの代わりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、そんけいしなければなりません。
十二 財政
 みなさんの家に、それぞれくらしの立てかたがあるように、国にもくらしの立てかたがあります。これが国の「財政」です。国を治めてゆくのに、どれほど費用がかかるか、その費用をどうしてととのえるか、ととのえた費用をどういうふうにつかってゆくかというようなことは、みな国の財政です。国の費用は、国民が出さなければなりませんし、また、国の財政がうまくゆくかゆかないかは、たいへん大事なことですから、国民は、はっきりこれを知り、またよく監督してゆかなければなりません。
 そこで憲法では、国会が、国民に代わって、この監督の役目をすることにしています。この監督の方法はいろいろありますが、そのおもなものをいいますと、内閣は、毎年いくらお金がはいって、それをどういうふうにつかうかという見つもりを、国会に出して、きめてもらわなければなりません。それを「予算」といいます。また、つかった費用は、あとで計算して、また国会に出して、しらべてもらわなければなりません。これを「決算」といいます。国民から税金をとるには、国会に出して、きめてもらわなければなりません。内閣は、国会と国民にたいして、少くとも毎年一回、国の財政が、どうなっているかを、知らさなければなりません。このような方法で、国の財政が、国民と国会とで監督されてゆくのです。
 また「会計検査院」という役所があって、国の決算を検査しています。

十三 地方自治
 戦争中は、なんでも「国のため」といって、国民のひとりひとりのことが、かるく考えられていました。しかし、国は国民のあつまりで、国民のひとりひとりがよくならなければ、国はよくなりません。それと同じように、日本の国は、たくさんの地方に分かれていますが、その地方が、それぞれさかえてゆかなければ、国はさかえてゆきません。そのためには、地方が、それぞれじぶんでじぶんのことを治めてゆくのが、いちばんよいのです。なぜならば、地方には、その地方のいろいろな事情があり、その地方に住んでいる人が、いちばんよくこれを知っているからです。じぶんでじぶんのことを自由にやってゆくことを「自治」といいます。それで国の地方ごとに、自治でやらせてゆくことを、「地方自治」というのです。
 こんどの憲法では、この地方自治ということをおもくみて、これをはっきりきめています。地方ごとに一つの団体になって、じぶんでじぶんの仕事をやってゆくのです。東京都と、北海道、府県、市町村など、みなこの団体です。これを「地方公共団体」といいます。
 もし国の仕事のやりかたが、民主主義なら、地方公共団体の仕事のやりかたも、民主主義でなければなりません。地方公共団体は、国のひながたといってもよいでしょう。国に国会があるように、地方公共団体にも、その地方に住む人を代表する「議会」がなければなりません。また、地方公共団体の仕事をする知事や、その他のおもな役目の人も、地方公共団体の議会の議員も、みなその地方に住む人が、じぶんで選挙することになりました。
 このように地方自治が、はっきり憲法でみとめられましたので、ある一つの地方公共団体だけのことをきめた法律を、国の国会でつくるには、その地方に住む人の意見をきくために、投票をして、その投票の半分以上の賛成がなければできないことになりました。
 みなさん、国を愛し国につくすように、じぶんの住んでいる地方を愛し、じぶんの地方のためにつくしましょう。地方のさかえは、国のさかえと思おもってください。

十四 改正
「改正」とは、憲法をかえることです。憲法は、まえにも申しましたように、国の規則の中でいちばん大事なものですから、これをかえる手つづきは、げんじゅうにしておかなければなりません。
 そこでこんどの憲法では、憲法を改正するときは、国会だけできめずに、国民が、賛成か反対かを投票してきめることにしました。
 まず、国会の一つの議院で、ぜんたいの議員の三分の二に以上の賛成で、憲法をかえることにきめます。これを、憲法改正の「発議」というのです。それからこれを国民に示して、賛成か反対かを投票してもらいます。そうしてぜんぶの投票の半分以上が賛成したとき、はじめて憲法の改正を、国民が承知したことになります。これを国民の「承認」といいます。国民の承認した改正は、天皇陛下が国民の名で、これを国に発表されます。これを改正の「公布」といいます。あたらしい憲法は、国民がつくったもので、国民のものですから、これをかえたときも、国民の名義で発表するのです。

十五 最高法規
 このおはなしのいちばんはじめに申しましたように、「最高法規」とは、国でいちばん高い位にある規則で、つまり憲法のことです。この最高法規としての憲法には、国の仕事のやりかたをきめた規則と、国民の基本的人権をきめた規則と、二つあることもおはなししました。この中で、国民の基本的人権は、これまでかるく考えられていましたので、憲法第九十七条は、おごそかなことばで、この基本的人権は、人間がながいあいだ力をつくしてえたものであり、これまでいろいろのことにであってきたえあげられたものであるから、これからもけっして侵すことのできない永久の権利であると記しております。
 憲法は、国の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています。
 このように大事な憲法は、天皇陛下もこれをお守りになりますし、国務大臣も、国会の議員も、裁判官も、みなこれを守ってゆく義務があるのです。また、日本の国がほかの国ととりきめた約束(これを「条約」といいます)も、国と国とが交際してゆくについてできた規則(これを「国際法規」といいます)も、日本の国は、まごころから守ってゆくということを、憲法できめました。
 みなさん、あたらしい憲法は、日本国民がつくった、日本国民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の国がさかえるようにしてゆこうではありませんか。
                                         おわり

1 憲法「前文」の意味
 『あたらしい憲法のはなし』は、「前文」が置かれている意味について、「この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。」(p.6)
 このようにして、『あたらしい憲法のはなし』は、「日本国憲法を定めた意味と、憲法改正の限界も定めていること」を明らかにしている(このように前文を理解するのは、今日でも憲法学の通説である)。

2 憲法の「前文」の基本的な考え方
 つづけて「それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、『民主主義』と『国際平和主義』と『主権在民主義』です」と、憲法の前文の基本的な考え方について明確に指摘している(p.6)。
なお、ここでいう君たちが使っている教科書では、「国際平和主義」は「平和主義」、「主権在民主義」は「国民主権」と説明されている。

3 『あたらしい憲法のはなし』が説明する「民主主義」
 「こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。みなさんはこのことばを、ほうぼうできいたでしょう。これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんは、はっきりとこれを知っておかなければなりません。しかも正しく知っておかなければなりません。
 みなさんがおおぜいあつまって、いっしょに何かするときのことを考えてごらんなさい。だれの意見で物事をきめますか。もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。もし意見が分かれたときは、どうしますか。ひとりの意見できめますか。二人の意見できめますか。それともおおぜいの意見できめますか。どれがよいでしょう。ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おおぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おおぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおおぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおおぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。
 国を治めてゆくのもこれと同じです。わずかの人の意見で国を治めてゆくのは、よくないのです。国民ぜんたいの意見で、国を治めてゆくのがいちばんよいのです。つまり国民ぜんたいが、国を治めてゆく - これが民主主義の治めかたです。」(p.7-p.8)
 ここの説明は、今日的には疑問を感じる部分もある。『あたらしい憲法のはなし』が、民主主義と多数決原理を区別せずに説明しているせいである。民主主義と多数決の意味を同じように理解すると、「少数意見の尊重」という考え方が無視される。けれども、それは十分に承知した上で、それ以上に『あたらしい憲法のはなし』が恐れたのは、天皇主権の影に隠れた少数者の専制的な政治であり、軍国主義の復活だったのである。
 また、別の視点から見れば、憲法が公布された当時の中学生にとっては、民主政治という考え方が「革命的」とも思えるほど、新しい考え方であったのである。儒教思想の影響が強く、世間ではむしろ年長者に盲従することや地位が高いとされる人に従うことが善とされる傾向が強かったのである。こうした説明になったと思われる。

4 『あたらしい憲法のはなし』が説明する「民主主義」と政治
 そして、『あたらしい憲法のはなし』は、民主主義に基づく政治について説明する。「国は、みなさんの学級とはちがいます。国民ぜんたいが、ひとところにあつまって、そうだんすることはできません。ひとりひとりの意見をきいてまわることもできません。そこで、みんなの代わりになって、国の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。それが国会です。国民が、国会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、国を治めてゆく者をえらぶのです。だから国会では、なんでも、国民の代わりである議員のおおぜいの意見で物事をきめます。そうしてほかの議員は、これにしたがいます。これが国民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。これが民主主義です。ですから、民主主義とは、国民ぜんたいで、国を治めてゆくことです。
 みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で国を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また国もさかえてゆくでしょう。
 国は大きいので、このように国の仕事を国会の議員にまかせてきめてゆきますから、国会は国民の代わりになるものです。この「代わりになる」ということを「代表」といいます。まえに申しましたように、民主主義は、国民ぜんたいで国を治めてゆくことですが、国会が国民ぜんたいを代表して、国のことをきめてゆきますから、これを「代 表 制民主主義」のやりかたといいます。
 しかしいちばん大事なことは、国会にまかせておかないで、国民が、じぶんで意見をきめることがあります。こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、国会だけできめないで、国民ひとりひとりが、賛成か反対かを投票してきめることになっています。このときは、国民が直接に国のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。あたらしい憲法は、代表制民主主義と 直接民主主義と、二つのやりかたで国を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事なことにかぎられているのです。だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。」(p.8-p.9)
 これらは当然のことであると同時に、今日から見ると形骸化し、色褪せたものとなってしまっている。しかし、当時としては、国民一人ひとりが自分の意見を前面に出して代表者を選出するということ自体が、革命的に貴重なこととされたのである。

5 『あたらしい憲法のはなし』が説明する「国際平和主義」
 『あたらしい憲法のはなし』は、平和を求める考え方の基本に、国と国の関係を民主主義の理想にもとめた。大東亜共栄圏の建設という「理想」を一方的に掲げ、アジアに侵攻した日本の歴史をふまえて読むと、その思いが伝わってくる。
 「国の中で、国民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、国民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おおぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおおぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく国の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。
 これは、一つの国について申しましたが、国と国との間のことも同じことです。じぶんの国のことばかりを考え、じぶんの国のためばかりを考えて、ほかの国の立場を考えないでは、世界中の国が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の国が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、国際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この国際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの国にたいしても国際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。
 この国際平和主義をわすれて、じぶんの国のことばかり考えていたので、とうとう戦争をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この国際平和主義でやってゆくということを、 力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戦争の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。」(p.10-p.11)
 孤立を深めてついには国際連盟を脱退して帝国主義の道に走ったことに対する反省が、生々しく残り、色濃く滲み出ている時代だったのである。

6 『あたらしい憲法のはなし』が説明する「主権在民主義」
 天皇主権の考え方で育った大人たちと、その大人たちの考え方や行動の仕方を学んできた中学生にとっては、「国民主権」を理解することは、とてつもなく難しいことだった。そのために『あたらしい憲法のはなし』は、「主権」を国民が持つことをていねいに説明している。
 「みなさんがあっまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろいろきめかたがあってむずかしいことです。
 国では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし国の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおおぜいの考えできまるなら、そのおおぜいが、みないちばんえらいことになります。もし国民ぜんたいの考えできまるならば、国民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、国民ぜんたいの考えで国を治めてゆきます。そうすると、国民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
 国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の 考えとしていますから、主権は、とうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一条にも、「主権が国民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。
 みなさんは、日本国民のひとりです。主権をもっている日本国民のひとりです。しかし、主権は日本国民ぜんたいにあるのです。ひとりひとりが、べつべつにもっているのではありません。ひとりひとりが、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本国民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい国民でなければなりません。」(p.11-p.14)
 実態は充分には当てはまらなかったとは言え、独裁者の出現を許さないための意気込みが、本当に強く感じられ、新しい国造りに、健康で明るい日差しが差し込んでいる様が見て取れる。如何にも無邪気で、隙だらけであったとしても、である。

文部省発行『あたらしい憲法のはなし』に こめられた思い
 第二次世界大戦の悲惨な経験をした日本は、1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法を国民に向けて公布した。
 日本国憲法は、それまでの大日本帝国憲法とは、考え方が根本的に異なっているために、国民が正しく理解することが困難だと考えられた。そのために、国民が日本国憲法を正しく理解できるよう様々な工夫をした。その一つが、文部省 (現在の文部科学省 )が、中学生が憲法を学ぶための教材として、どうしても必要と考えたものこそ「あたらしい憲法のはなし」だったのである。1947年(昭和22年)8月に発行された。
 そこには、今日の教科書には詳しく説明されていない民主主義をはじめとした日本国憲法の内容が、この「あたらしい憲法のはなし」には、非常に詳しい説明されている。それはどうしてなのであろうか。改めて「あたらしい憲法のはなし」を読無だけでも、十分に読み取れるのではないだろうか。
 以下に、当時実際に「あたらしい憲法のはなし」が教材として使われた時期を過ごした人々の体験談を集めた。
 いつの時代でも、どんな出来事であれ、どれほどの人物であっても、完全無欠なものなどあり得ない。それぞれの特徴やいびつな偏りや物足りなさも誤解も含んでいるに違いない。今は、そのどこを取り上げるのか、かつてより返って後退してしまっているところがあるのではないかといった検証をするだけでも、大いに有意義なことがある。周囲からの批判に萎縮して、当たり障りのない範囲で、事実を曖昧にして、正面切った言動を避けることから、肝心なものは生まれない。自らの限界に気づき、それを乗り越えようとすることは、身を切るような痛みを伴うことが多いだろう。それを怖れずに対象化して見つめ直す勇気は、程度の差こそあれ、大切な機会だと思う。そうした材料を提供してくれる貴重な資料として、再録させて頂いた。

小園優子(神奈川・戦争への道を許さない女たちの会)
(その一)
 「『あたらしい憲法のはなし』という教科書で授業を受けた人を知らないかしら?」
「私がそれよ、多分、最初に学校で教えられた世代じゃなかったかな」
「ぜひ、その経験を書いてみて」
というやり取りを、むらき数子さんと交したのは、1989(昭和64・平成元)年、天皇の代替わりという事態にあって、憲法をあらためて開いてみた頃だった。
 民主主義とセットになったものとして受け取ったはずの新憲法は、第一章は天皇、第一条から第八条までが天皇条項でうめられ、しかも、この天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」とある。
 かつて、私達が初めて『あたらしい憲法のはなし』を手にした時、どんな感慨でどのように受け止めたのだったか、この機会に友達にも尋ねながら調べてみた。
 まず、教科書『あたらしい憲法のはなし』について述べよう。復刻版で知っている人も多いかも知れないが、私の手元にあるのは1947(昭和22)年8月発行の物だ。
 1947年、私が、新制中学の第一回生として入学した当時、戦後復興はおろか、あらゆる物資が底をついていた。国定だった教科書さえまともなものではなく、大きな紙に裏表八ページずつ印刷されたものがそのまま手渡され、これを各自が折畳んで、切って綴るとペラペラのパンフレットのような教科書ができあがった。こんなお粗末きわまる教科書を買わされた(教科書の無償は1962(昭和37)年からだ)のは、紙不足と内容の書き換えを迫られて間に合わなかった事情が重なっていたからか。国語などは、教師が好きな教材を選んでガリ版刷りにしたものを使用した。夏目漱石の短編など印象深く思い出される。
 すべてが万事この調子の中で、『あたらしい憲法のはなし』は、まがりなりにも薄っぺらな表紙が付いてホチキスで止められ、さらに背表紙が付いている。大きさは単行本より少し小さめで、それまで手にしていたどの教科書よりも小さく、現在子供たちが手にしている教科書よりもずっと小型のものだ。
 薄黄色の表紙には国会議事堂が描かれ、空に光が伸びている。この絵は戦時中の教科書しか知らなかった者には、かなり斬新さを感じさせた。中の挿絵もイラスト風で、これまでの教科書とは趣を異にしている。
 裏表紙にはペン書きで他人の名前が書かれているのを見ると、憲法の普及に政府がかなり力を入れた筈のこの教科書でさえ、充分に数がなかったらしく、一つ上級の学年からのお下がりであることが歴然としている。してみると、最初に配布になった47年の8月には一つ上の学年が使用して、翌年に私が使ったことになる。
 奥付には「昭和22年8月2日 文部省発行 ¥2.50」とあり、特にカッコ付きで(この本は浅井清その他の人々の尽力でできました)と、ことわり書きが付いている。
 この本の編集メンバーだった浅井という人は、慶応大学法学部の教授で、戦後、GHQの公務員課に採用され、臨時人事委員長を務め、48年には人事院の初代総裁に選ばれ、民主主義研究会理事などを歴任している。主著には『憲法精義』『新憲法と内閣』などがあるそうだから、民主主義や新憲法について委しい人だったらしい。
 本文は「新かなづかい」だが、漢字は旧漢字で表記されている。ザラ紙使用のせいか、印刷もすっきりとはしていないが、50ページほどの教科書は「憲法」「民主主義とは」などなどの項目に分かれていて、そもそも憲法とはどういうものかの説明から入って、以下、新しく作られた憲法の大事な要点が14項目にわたって、列記されている。しかも中学生にも分かるように大変平易な言葉で述べられている。
 ちなみに、この教科書は、47年8月から51年までの中学生が使用したもので、翌48年に高校生用に出版された『民主主義 上』は48年から53年まで、『民主主義 下』は49年から53年まで使われている。もっとも後者の教科書は、すでにアメリカがソ連と冷戦状態に入り、反共を前面に押し出してきた頃に作成されたもので、現在では多分に反共的な匂いのする教科書として位置づけられている。
 そういえば、48年頃からGHQのCIE提供のナトコ映画(十六ミリの映写機の名前がナトコ映写機というので、この名前が生れたという)が、全国津々浦々に貸与され、農村では引っ張りだこの大流行を見せた時期があった。この映画の狙いは「日本人の啓蒙と民主化」にあり、内容の多くは「快適なアメリカの生活様式を伝えるものであり、同時に共産主義の脅威を直接、間接に教えるもの」であったことも、今回初めて知ったことだった。このナトコ映画と教科書『民主主義 上』が軌を一にしていたことは、なるほどと肯けることだった。
 それはさておき、『あたらしい憲法のはなし』が、51年までの5年間しか使われなかったのも、アメリカの世界戦略による反共軍事同盟に結びつく日本の在り方と連動していることが分かる。日本も朝鮮戦争を契機に右旋回が顕著となり、『あたらしい憲法のはなし』に盛られたような新鮮でういういしい雰囲気は遠ざかってしまったような気がする。

(その二)
 1947(昭和22)年4月、六・三・三制が導入され、私は新制中学の第一回生として中学生活を迎えることになった。とはいっても、戦後の荒廃中、焼け跡だらけの都会では、小学校の校舎さえろくに無く、二部授業が当り前の状態だったから、新制中学校とは名前だけで、校舎も先生も揃っていないような始末だった。
 私の一家は、東京とは言っても、江戸川を目の前にした東京のはずれ、柴又に戦時中に疎開のつもりで都心から移り住んでいた。その辺りは、畑や田んぼがそこここにあるような土地だったから、焼け野原にこそならなかったが、そちこちに落ちた爆弾の穴が、まだそのまま残っていた。
 私が入学することになった中学校も、校舎は隣町の小学校の間借で、当然のように青空教室が予想された。
 「もし経済的に余裕があるのなら、設備の整っている私立学校に入ったほうが、勉強ができるのでは」という、卒業時の担任の勧めもあって、私は、元女学校だった私立校に入学した。小学校の同級から4、5人は都内の私立校に進学した。
 その年は新制度の発足で、元府立・市立・県立の旧制中学・女学校などの公立校はすべて入学を取り止めたので、いきおい私立を希望する生徒が増えて、急に私立が狭き門となった。
 授業料が払えるだけでなく、物資の無い当時、ちゃんと制服を着せて、裁縫の教材まで用意できるのはごく恵まれた家庭だったのだと、今にして思う。私の家庭は決して裕福ではなかったが、戦災には遭っていなかった。焼け出された家庭の人は、成績優秀でもその学校には入学許可されなかった。
 入学した年の5月3日に新憲法がいよいよ施行されることになり、私たちの学校でも式を挙げている。
「五月三日、土、雨ノチヤム。今日は新憲法実施記念日で、学校はお式だけでした。記念日にあたり、校長先生、上級生のお話があり、十分休憩してから、前広島文理大学長・文学博士・近藤寿治先生の『新憲法と女性』といふお話があった」
 これは、小学校からずっと一緒に同じ学校に入学した、ごく親しい友人の日記の一部である。彼女は、集団疎開中も欠かさず丹念に日記を書いていた人で、私は彼女の日記を通じて戦時中の疎開先での出来事や、今回はまた憲法施行前後のことなど、いろいろと知ることができた。日記ばかりか、当時使われた『あたらしい憲法のはなし』や『民主主義 上下』などの黄色くなった教科書の実物・学校での班日誌、隣組に配布されたらしい『国民必携 日本国憲法』なるものまで「何かの役に立つかしら」と届けてくれた。
 それらをたよりに当時をあれこれと思い出してみるのだが、残念ながら、そのとき校長や上級生がどんな話をしたのか、「新憲法と女性」とはどんな中味だったのか、皆目思い出せない。ちなみにこのとき来校した近藤という人は、戦時中は文部省の役人で、教育関係の著書などもある人である。戦後、文部省から広島文理大学(現広島大学)の学長に送り込まれた人のようだ。戦時から戦後にかけての転換をうまく果たした人なのか、とにかくそういう経歴の人が、いったいどんな話をしたのだろうか。演題に「女性」とついているのは、いかにも元女学校だったことを証明している。
 それはともかく、施行を記念して東京中を花電車が走ったのか、5月6日の日記には、
「夕食後、七時に押上を花電車が通るといふので、花電車を見に行った。花電車が登って来る時、空が赤くなって、人が線路を防波堤のようにさへぎって居た.・・・(中略)・・・目がくらみさうな電気の明るさです。さういふ花電車が五台通りました」とある。
 戦時中は灯火管制、敗戦後も電力不足で、47・8年頃までは夜も停電してしまうことが多かったから、街全体がまだまだ薄暗かった。そんな東京の夜を通って行く花電車の電灯(イルミネーション)は、文字通り目がくらみそうだったのだろう。それを大変な人だかりで迎える。政府側の気ばった宣伝に、迎えるほうも新憲法万歳の拍手喝采で迎えたのかもしれない。
 5月3日は、皇居前でも天皇・皇后を迎えて記念式典が大々的に挙行された。皇后もまだこの頃は、戦後制定されたモンペスタイルのような皇后服とやらに身を包んで、人々のよろこびの声に、もみくちゃにされながら親しくほほえみかけている写真は、たいていの写真集に載っている。5月3日から一週間ほどは、各地でこんな華々しい行事が続いたものらしい。
 国会・裁判所・総理官邸などいわゆる立法・司法・行政の三主要機関と皇居の建物の屋上に、日の丸を掲げることをマッカーサー元帥が戦後初めて許可したのもこの時だった。花電車が出たのも、戦後この時が初めてではなかっただろうか。

(その三)
 1947(昭和22)年5月3日の施行の日を中心に、GHQからの指導もあって、政府も新憲法、とくに「主権在民」という新しい憲法の性格を普及するために、かなり力を入れたらしい。
 この年の3月頃から政府は、芦田均を委員長に憲法普及委員会を作り、各府県で普及のための講習会を開いたり、ポスター・写真を作ったり、条文を解説したパンフレットを三月中に全国の家庭に配布できるように手配したりした。
 また、若い人々を対象にするのが一番手っ取り早いし効果もあると考えて、学校の先生を集めて短期間の講習会を開催し、その先生たちが、一日20分でもよいから生徒に新憲法の内容を熟知させるよう指導した。
 私の学校でも、その頃、受持ちの教師が毎朝の朝礼の時間を割いて、条文を説明している。
 6月6日の日記には、憲法を読んでの感想文を提出していることが書かれている。そこに私達はどんなことを書いたんだったろうかと思っていたら、
 「その感想文というのが出てきたのよ。誤字だらけで恥ずかしいんだけどお目にかけましょうか」
という友達からの電話に二度びっくり。送られてきた黄ばんだワラ半紙半切の裏表に正直な思いが記されている。中学に入ったばかりの一年生としては一生懸命考えて書いたあとがわかり、当時の子供たちの受け取り方の一端として、紹介したい。

新憲法を読んでの感想       飯塚裕子
 天皇は「生き神」と言はれ私達はよりつけぬ高い所においでになるように考へていましたが、新憲法で天皇は国民のあこがれの的と言はれるようになった。
 共産党は「天皇などいられなくてもよい。」と言う主義でありますが天皇は日本の國におられないと國がまとまりません。
 國民が生れながらに持っている権利を國で守って下さるのですからその権利を悪い方で使用せずよい方で使ひたいと思ひます。
 今までのように「ほうけん政度(ママ)」ですと上の方から下の方へ言って来た事は火の中でも通らなければいけないのです。
 上の人は下の人にいくらよい考へがあっても其言はれた事はその通りしなければばっせられたのです。
 そう言う時代を考えると今の時代は個人が尊重されておりますから責任を持って何事でもしましょうと思ひました。
 國会は衆議院参議院からなっていますので、いかに、選挙が大切かがはっきりわかりました。それとともに地方自治の大切な事は、小さく個人に考へると一人一人が、りっぱな人になることが大切です。
 戦争放棄と新憲法に書かれてあり「もし、他の國から、戦争を仕向て来た時どうするのかしら。その時の用意に少しぐらいの兵をのこしておけばよいのに。」と不安な気持もしましたが、世界に國際?合と言うのがあり、國を守る兵はそこで送って下さると聞き安心しました。 ですから日本の兵隊はいらないわけです。
 國際?合の兵をかりなくてもよいように平和な國にするのが本當です。そして憲法と反対の事をしないよう気を付け新聞も毎日読み國の変り方ぐらい知っているよう心がけます。
 今、男女同権・言論の自由が叫ばれておりますが女としての昔ながらの美風は高め悪かった所は改めるようにして、言論自由と言はれているのですが今程、言論不自由な時は無いそうです。
それは、言った事を實行に移さないからです。
私は、此級を小さい社會と考へ自分かってのこうどうをとらない、他の級に負けない級になるよう心がけ、憲法のねうちを行ひであらはすようにしようと思ひました。

(その四)
 あの頃、天皇について教師たちは、どのように説明したのだろうか。私の興味の第一点はそこにあった。
 私の記憶では、教科書『あたらしい憲法のはなし』の中で印象に残っているのは、「戦争の放棄」と「基本的人権」という言葉で、「今の日本は焼野原で大変みじめな状況にあるけれども、唯一つ世界に誇れるものを持っています。それは戦争放棄を世界に宣言した憲法を持っていることです。これからの日本は文化国家として立って行くのです」という教師の話だとか、その本の中の挿絵―1ページ大の挿絵は、飛行機や戦車や弾丸などが戦争放棄と書かれた大きなるつぼ坩堝に投げ込まれて燃やされていく。そのるつぼ坩堝の下から汽車や自動車や船やビルなどが生れ出てくるというものである・・・を見て、なるほど日本はこんなふうに生まれ変わるのかと思ったこと、一人一人に人権があるというのも、よくわからないながら、今迄とは違った世界がひらけてくるような気がしたものだった。
 私の頭の中には、そんなことばかりが印象深くて、天皇についてどんな説明を受けたのか、さっぱり記憶にないので、今から考えれば、当時教師たちにも象徴天皇というのは、自分でも説明のしようがなくて、それについては省いてしまって、戦争の放棄と基本的人権だけをやたらに声を大にして説明したのではなかったかと思っていた。
 しかし、この感想文を読むと、一応は天皇についても説明があったらしく、やはり天皇がいないと国がまとまらないから必要だと受け取っている。そうした思いはその頃の大人も子供も含めての一般的な風潮であったものとみえる。日本支配のために天皇制の温存を強く進言したマッカーサーの認識は的確だったと思える。
 当時、教壇で私達に憲法について語った女教師は、現在(1989年)80歳を越えてお元気なので、その頃のことを手紙で問い合わせると、
 「私は皇室中心主義の教育の下に(下田歌子の実践女学校専門部の卒業生)、天皇は現人神として教育された時代の者ですから、新憲法に対しては共鳴する所はあっても、時に違和感も多かったと思います・・・」
とのお返事をいただいた。
 教師一人一人の受け取り方の相違もあって多少主観の入った説明がなされるのは避けられないと思うが、大方の意見としては、先にも述べたように、やはり天皇は国の中心的存在としてあるべきだというのが、妥当な解釈だったのだろう。
 軍隊の解散についても、一抹の不安を幼い心に抱いている。これについては国際連合が解決してくれるという理想を抱かせられたのも、まだ朝鮮戦争以前だったから、幻想としてあったのだろう。
 男女同権も取りあげられているが、女としての昔ながらの美風は高めた方が良いというのは、「敬虔・勤労・高雅」という校訓をもっていた女学校だったこともあるし、その学校には旧制女学校時代に入学した上級生が五年生までいて、「婦道」などという戦時中の残りかすのような機関紙も時々発行していたから、そんな気風がまだあちこちに影をとどめていたからだろう。
 それでも、あの頃、そんな学校でもかなり自由な雰囲気に改められつつあったようで、週に二時間ほど自由研究という時間が設けられて、その時間は各自好きなことを思い思い勝手にやっていいことになっていた。「婦道」などという良妻賢母を謳う印刷物がだんだん小さくなっていく一方で、新憲法の発足を機会に、そんな自由な時間が特設される雰囲気が作られつつあったのかと、今ふり返る。

(その五)
 『あたらしい憲法のはなし』を通じて、私は「民主主義」を掲げる新憲法を、これからの日本の未来を指し示す輝かしい導きの光のようなものとして素直に受け取った。新鮮でういういしく感じられたのは、当然といえば当然だった。
 私達の世代は、もの心ついた時代にはすでに戦時体制だったから、常に圧迫感や抑圧感みたいなものにつきまとわれていたし、殊に戦争末期の爆撃による恐怖感、加えて集団疎開中の陰惨な思いなどに、ずっととらわれてきたから、紙の上とはいえ、憲法に約束されたあのキラキラとした開放感は何ものにも代えられない珠玉のような感じがあった。
 なにごとも任命で、教師の言うことは絶対と思わされていたのが、なにごとも選挙で定め、選ばれた人々が寄り合っていろいろなことを定めていく生徒会なども、新鮮で楽しく頼もしいものだった。
 これからは自分達が主役で事を成してゆく、つまり主権在民の意識を日常的に自覚しはじめ、個人は尊重され、男女は同権であるべきなど、憲法で宣言されたすべてをいいことずくめに受け取った。
 これからは、「責任をもって何事でもしましょう。・・・一人一人が立派な人になることが大切です」と友達の感想文にあるように私もまた憲法バンバンザイ組だったのだろうと思う。
 そのことは大人といわれていた人々にとっても同じ思いではなかったろうか。それまで憲法などというものは、一般の人には全く縁がなく、せいぜい大学に入学できたエリートだけが、やっと講義を受けるくらいだったろう。明治憲法作成の中心人物・井上毅が、学校での憲法教育にきわめて消極的だったことは、原口清『明治憲法体制の成立』(岩波講座「日本の歴史」一五、1975)を読んで最近知ったことである。
 友達が貸してくれた『国民必携 日本国憲法』という小冊子(添付ファイル「資料2」)は、多分、47年の憲法普及の一環として隣組を通して配られてきたものだろう。縦14センチ、横80センチくらいの細長いザラ紙の裏表に二段組でビッシリ百三条の全文が刷り込まれている。それは、ポケットに入るような小ささにびょうぶだたみに折り畳まれていた。
 あの紙のない時代に、政府はそのパンフレット普及のために、とくに用紙の手当をしたというから、相当な気の入れようだったことがわかる。
 そうした政府の意気込みに応えるかのように、友達は「父がよくその憲法の条文を読んでいる姿を目にしたわ」という。
 見せず、触れさせず、お上のものだった憲法が、初めて声高に語られ、しかも戦争放棄の理念を世界に先駆けて高々と掲げている新憲法を教えられれば、戦火に苦しめられてきた人々にとって手ばなしの喜びであった、と、私には感じられるエピソードだ。
 けれども、ある友人は、職業上、神国日本を説いてきたはずの父親が縄文土器から始まる子供向けの『新しい日本歴史』を読んでいた姿を重ねあわせて、右に左にと時代の波を生き抜いてきた大人にとっては、これからの泳ぎ方を探る手段だったのではないか、と醒めた見方をする。
 当時の憲法の授業について、何人かの同世代の人たちに尋ねたところ、
 「食べることのほうが大変で、憲法にまで目が向かなかった」
 「疎開先にいたままで、そこで受けた心の傷が癒されないまま悶々とする日々で、そんな授業があったことさえ脳裏にない」と語る人がいる。一方で、広島原爆の際、集団疎開していて助かった友は、
 「新憲法ほど平和の有難さを感じさせるものはなかった」
 「軍都広島では、軍人が第一で、軍人以外は人ではないような扱いを受けた中で、人として生きる権利を日本中の人が得たことはこの憲法のお蔭」と、新しい憲法を学んだ時の感動がとても大きかったことを伝えてきた。
 「一年間、情熱的に説き聞かせてくれたその教師は、多分共産党員だったろうと今にして思う」という彼女が憲法を学んだのは福岡だったそうだが、同じ授業を受けても、爆撃も疎開もなかった子供たちと、自身の受けとり方の違いに目をみはったという感想も添えてきた。
 語る教師の姿勢と受ける生徒の環境・体験の違いによって、その受け取り方は様々だったのだろうが、概して「あまり覚えていない」と答える人が多いのは、やっぱり理念(花)よりも物質(団子)で、食べることで精一杯だった現実の方が、あの頃重く肩にのしかかっていて、そちらの印象の方が強かったということなのかもしれない。

(その六)
 二、三年前、Xデーが話題にのぼりはじめた頃、「憲法の第一条には、天皇の象徴としての地位は日本国民の総意に基く、とあるが、かつて国民の総意を問うたことがあっただろうか」という意見を聞いて、新鮮な驚きをおぼえた。憲法を、民主主義を指し示す輝かしいものとして受け取ってきた私は、その憲法に疑いをはさむなどということは、これまでしてこなかった。そんな条項があることさえ意に介さなかった。
 同世代の友人たちには、施行当時「現人神が象徴になったという変化にショックを受けた」という感想もあったが、ショックもそこどまりで、それ以上の考えが及ばなかったのは、私たち子供ばかりではなく、大人も同じだったのだろう。何よりも空襲や疎開で打ちのめされてきた私たちにとって、戦争放棄という謳い文句がどれほど価値あるものに思えたか。その言葉の新鮮さにすっかり頭をとられて、天皇のイメージは関心の外にあったのか。
 今思えば、象徴という言葉は誰が思いついたのか、言い得て妙、天皇の存在が常に変幻自在に妖怪変化するという本質を衝いた最高の言葉を選んだものだと、感心している。
 当時も、そして現在も、私たちは、象徴という言葉にだまされ続けているような気がしてきた。
 戦後手に入れた素晴らしいものの一つとイメージを抱き続けてきた憲法、黄色い表紙の『あたらしい憲法のはなし』に新鮮なういういしさをおぼえた感動がずっと続いていたせいか、十年ほど前にこの本の復刻版を見つけて、懐かしさが先に立って思わず買い求めてしまった。
 日本平和委員会発行の復刻版の「あとがき」には、この「まぼろしの名著」と呼ばれた教科書は、
 「当時の中学生だけではなく、『教え子をわが子をふたたび戦場に送るな』と誓いあい、新しい平和と民主主義の教育への熱意に燃えていた教師、父母に深い感動とあかるい希望をよびおこしました。
 永かった戦争のもとで、生命と財産、青春と自由のはかりしれない犠牲のうえに、ファシズムをうちたおし、平和・民主・自由を要求する国際世論にささえられてようやくかちとった新しい憲法を、みんなで学び守っていこうとする真剣な願いが、この教科書のすみずみににじみ出ています。それは、いまでも読む人に新鮮な感動をよびおこすでしょう。
 しかし、この教科書は二、三年使われただけでした。日本は、1950(昭和25)年にはじまった朝鮮戦争の基地にされ、日米安保条約が結ばれ、「警察予備隊」が「自衛隊」にかわってゆくという時代の流れのなかで、教室から姿を消してしまったのです。」と書かれていた。
 日本が強大化し、それと共に天皇制も一まわりも二まわりも大きくなりつつある今、戦後憲法を今一度見直す作業をやりはじめなければと思いはじめている。