ぼくの終活

はじめに
 「終活」というのが流行っているらしい。「就活」ではなく、「終活」だ。同音異義語があると案外普及も容易になりがちだ。
 終活というのは、「よりよい最期を迎えるための準備を行う大切な活動のこと」で、「残された家族の負担を減らし」「自分の残りの人生を充実させる」手段だという。そのうえ「残された人や身のまわりの者に対する準備」も出来るようになっているという。そのために「エンディングノート」などというものも作られているようだ。この結果、厚生労働省も「人生会議」という語で、医療面での自分自身が望むケアを考えることを推奨していると、お上のお墨付きを得たかのように、何の問題もなく導入されるように推進普及が図られている。
具体的に整理すると、
1.目的
 (1) 自分自身の残りの人生を充実させること。
 (2) 残された家族をはじめ周囲の人々の負担を軽減すること。
2.4段階のライフステージ
 (1) 心身共に健康な段階では、自分単独で日常生活を送り、預貯金や不動産等の財産管理も、自分  自身で行う。
 (2) 年齢や病のせいで判断力が徐々に衰え、自分自身単独では意思表示が適切には行えなくなる段  階では、周囲のサポートを受けながらできる限り自分で日常生活を送り、財産管理なども行う。
 (3) いよいよ自分一人では意思表示することが難しくなる段階で、医療面や財産管理を中心に、本  人に代わって実施する人が必要となる。
 (4) 本人が亡くなり、相続が発生する段階で、葬儀や納骨など必要な手続きを行うと友に、遺産相  続を行う。
 こうした「終活」を行うことによるメリット
1.自分自身の半生を振り返り、楽しかったこと、苦労したこと、現在の悩みなどを整理し、そのう えに現在の自分自身を見つめ直し、腰を据えて残された人生に向き合うことが出来るようになる。
2.最期の時を迎えるまでに、具体的にどんなことをするか、資金繰りをどうするかといったことを 考えることを通して、漠然とした不安を解消することが出来るようになる。
3.遺族が果たさなければならないことを的確に、簡便化できるように、連絡先、葬儀のやり方、相 続に関してといった必要と思われることを、「引き継ぎノート」としての「エンディングノート」に記 して残すことで、遺族の負担を軽減することが出来る。
4.遺産相続にまつわるトラブルも防げる。
 「エンディングノート」の具体例
1.亡くなるまでにやりたいことのリスト
2.財産の一覧表
3.友人関係のリスト
4.老後の資金の検討
5.断捨離
6.医療と介護の方針に関する意思表明
7.遺言書の作成
8.相続税対策
9.死後事務委任契約者の選定
10.任意後見契約や家族信託契約の締結の検討
といった具合である。
 率直な感想として、自分の人生を振り返るだの、残された人生の充実だのと言っているが、所詮はそれらは付け足しで、肝心なことを煎じ詰めれば「どこまで生命維持装置を稼働させるか」と「財産分与の決定」に絞られるということではないだろうか。それらの必須項目をそのまま提示したのでは露骨すぎるので、真綿でくるむように覆い隠し、ソフトな、まるで価値あるものででもあるかのように取り繕っていると感じられるのはひがみだろうか。少なくともそういう面が強いと言えるとすれば、派手な葬儀が減ってきた時代の、葬儀関係者の新たな収入源を模索した結果と言えないだろうか。「葬儀」は、よっぽどの人物でもない限り、たとえささやかでも必須なものと思い込まれている。確かに盛大で多額な費用を掛けるものは少なくなったのだろうが、たいていの人が必ず行うと言ってもいいだろう。その「人生に必須なもの」の今日版として、削られた「豪華さ」の代わりに、新たな「必須事項」を目論んだものなのではないだろうか。
 ひろちさや氏は「終活なんかおやめなさい」と言っている。
 そうできればそれに越したことはないが、それでも人生の終末が近づいたことが感じられると、あがきたい思いに駆られてしまう。
 歳を取ると、月日の経つのがやたらに早く感じられる。「無為に過ごしてしまった」「もっといろいろ出来たはずだ」「時間を無駄にしてしまった」と言ったような思いがあるからだろう。若い頃にも、そのときそのとき、必要に迫られたり、価値があると信じて、それなりに努力し、そのときは充実感を得たものが少なくなかったはずだ。ところが、歳を取って振り返ってみると、どうも時間を無駄にし続けてきたような思いに駆られてしまう。既に達成出来てしまったことは勿論、残念で諦めきれなかったようなことさえ、過ぎてしまえばほとんどどうでも良いことになってしまっている。残った印象は、「早く明日にならないか」「早くこの時が過ぎてしまわないか」といった、「現在」を無駄にしようとしていた記憶ばかりだ。若い頃は、「時間はただで無限にやって来るものと信じていたのだろう」という取り返しの付かない後悔に駆られてしまうのだ。そうなると、若い頃にやり残したことをやり遂げたくなる。しかし、時間的にも、体力知力的にも、というよりすべての面で老化している現在の自分には不可能なことばかりだ。エンディングノートなど書いて、忘れ去っていた若気の至りなど思い起こして、無謀な取り組みなど始めたら、それこそ目も当てられない結果しか残さないに違いない。何がしたいかだけではなく、何が出来るか、そして未完成に終わったとしても後悔もなければ無意味にもならないかということをよく考えて最後の一仕事に取り組みたいと思う。

 では最後の、完成しなくても良いようなこととはどんなことなのか。それは戦後の教育界を中心に実現され、儚くも忘れ去られていった取り組みを、できる限り数多く掘り起こし、出来るだけたくさんの人の目に触れさせようという取り組みだ。勿論、「多く」掘り起こすといってもたいした量になるはずもない。「たくさんの人の目に触れさせる」といっても対した人数にもならないだろう。あくまでも「出来るだけ」と言える程度には努力をしようということだ。
 本来なら、戦後に起こった取り組みや発行物を、時代順に整理し、それに自分なりの意見を添えて発行したいところだが、膨大な量に登る作品群を前に、そんなことが出来るはずもない。そこで、割合短い発行物についてはその全編をコピーし、長大な作品についてはそのエッセンスを感じ取れそうな部分を抽出して、まとめてみることにした。例えば、戦後文部省が発行した「新しい憲法の話し」は全文紹介するだけとした。評価も感想も付け足さない。「山びこ学校」(無着成恭)や「村を育てる学力」(東井義雄)は、ほんの一部分を抜き出し、その他の部分はその精神が出来るだけ伝わるように要約しようとした。勿論、要約には恣意的な面が入り込むし、本来は全編を読んでもらうのが一番だ。特に最も触れて欲しいのは、現役の新人教師達だが、必読書とも言えべきこれらの書物にさえじっくり読み込む時間的余裕はないものらしいので、次善の策ということだ。勿論、原作に触れるきっかけになってくれればそれに越したことはない。
 
 さて、現代日本の状況を見渡すと、極めておとなしいと言わざるを得ない。「三無主義」などと言われ、やる気のない抜け殻の集まりのような社会現象が著しく非難された時期があったのがうそのように、今日では珍しくも何ともなくなった。目に余る不正が露見しても、怒りの声などほとんどなく、抗議の声も聞こえてこない。デモも紛争もこの世から消えてしまったかのようである。大人が作る社会がそういう状態であるから、子ども社会の推して知るべしである。荒廃した学校など日本中探してもどこにもなく、少なくとも表面的には、大人しく素直で従順な生徒がひしめいている。そんな中で平穏でほとんど活気らしいものも見かけない授業が延々と続いている。たまに発言が多い授業があったり、生徒の言動に見るべきものがあると、こぞって褒めちぎられる。ちょうどそれは、サッカー観戦の後のサポーターによるゴミ拾いとよく似ている。反抗心は元より、本心からの激情の発露など微塵もないにもかかわらず、誉められてしまう行動である。
 例えば無着成恭を初めとする北方綴り方の教育が生み出した者は、そんな程度の物わかりの良い、誉められたものとはほど遠い者だった。貧困にうちひしがれた東北の生活者の姿が強い抗議を秘めて噴出した。貧困の果てに農作業の合間に土木工事も兼業した兄が、事故で亡くなった。その補償金が入ると、両親は、兄が死んでくれて助かったと夜中にひそひそと喜んでいるというのだ。そんな家族の姿が描き出される。また違反を取り締まる村の駐在が、蔭でヤミ商品の購入を日常的に行っている現実が綴られてしまうのである。嘘はかけらもなく、すべて真実である。しかしこうしたことが日本全国に、生徒の作文として広まってしまうのである。村人達にとってはとんでもない「教育」に他ならない。そうした告発が重なっても、ついに村が貧困から脱出することはなかった。やがて無着は村を出ていく。村人にしてみれば恥さらしの裏切り者を追い出したのだろうし、教え子から見れば裏切って村を捨てたように見えたであろう。さまざまな思いが絡まり合い、評価も屈折したものとならざるを得ない。
 ただあれ程日本中を湧かせた実践でも、村も日本の現実もびくともしなかったのである。考えてみれば当然かもしれない。確かに優れた実践には違いなくとも、たかが教室の中で起こったことに過ぎない。それこそ造船疑獄でも、下山事件でも、東大紛争でも、狭山事件でも、帝銀事件でも、成田空港反対闘争でも、さらには戦後すぐのゼネストでも、日本を揺るがし、根こそぎひっくり返っても不思議のない事件にみえても、結果的には日本の体制はびくともせずに存続し続けたのだから。
 教育が学校を飛び出しても、その影響力は限界がある。というよりたかがしれているというべきかもしれない。しかし本気になって、村の貧困を克服しようとし、将来ある子供達に変革の実現を託そうとした営みには感動を禁じ得ない。価値の大小よりも自分たちがゴミ拾いまがいの常識を携えていたことに満足するに留まらない爆発的なエネルギーを、教育が持った事実をせめて知って欲しいと思う。それがこの冊子の作成意図だ。目から鱗が落ちた、知らぬ間に自己規制していた、井の中の蛙であったといった思いになってくれる人がいたら本望だと思う。
 なお、別に述べた石川啄木の小説群が、未熟な失敗作とされて評価されなかったのが、戦いの場が教室や学校内に限られ、社会や政府や文部省に及ぶことがないものでしかないことに起因しているとされる点にある。どこまでも学校周辺での争いでしかなく、生徒や保護者と教師同士の間での進歩派と守旧派との戦いで、大変革を可能にするかのように思い込まれているのは、まさに昭和に大流行した学園ドラマの先取りだったのではないかと思われる。

 尊敬する人物の一人に、浄土真宗の開祖親鸞上人がいる。我が家も浄土真宗の門徒であったことは、以前からうすうすは知っていたのだが、祖母の葬儀にあたって、改めて確信したといった程度であり、普段は全く信仰心が薄い。親鸞上人と言えば、京都にある超巨大寺院東・西本願寺の開祖だ。秀吉や家康の陰謀により、本願寺は東西に別れてしまったが、東西それぞれが日本最大の信者数を誇るらしい。立派であるから巨大化したとも言えるだろうが、もともと親鸞上人は、こうした巨大教団を目ざした人とはかけ離れていたように見える。
 平安京で、鎌倉時代(1173年5月21日)に生まれ、90才で平安京でなくなっている。9才で出家し、比叡山に登るが、教えに満足できずに29才で山を下り、法然の弟子となって浄土宗を学ぶ。浄土宗は、すべての人が平等に救われるという教えで、むしろ悪人こそが「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば先に救われるという浄土真宗の教えの本となる思想を学んだ。法然の影響もあって、破戒僧であり、危険思想の持ち主として島流しなどの迫害を繰り返し受けたという。当時禁じられていた肉食を公然とし、男名禁じられていた女犯の禁も破り、妻帯して子どもも作っている。
 ありとあらゆるタブーを破ったように見える親鸞上人は、その教えが最も特徴的である。その最たるものが「悪人正機説」である。それは、「善人でさえも極楽往生できるのだから、悪人が極楽往生できない訳はない」という驚きの教えである。普通に考えれば正反対である。
 しかし、真実は意外なところにある。日本では僧侶は殺生を嫌って、精進料理しか食べないことになっているが、もともとインドの修行僧は、施しを受けたら何でも食べたという。肉食をしないなど食べ物を区別するなどとと言うのは後世のまやかしの教えに過ぎない。動物だけに命があるのではなく、植物にも命があるのは明らかで、「殺生」堂々とは行われている。すべての「命」を奪わないことは出来ないとするならば、そこで説かれるのはご都合主義の解釈でしかないだろう。
 では、「悪人こそが優先して極楽浄土に往生できるのが当たり前だ」というのはどういうことなのだろうか。そもそも、万能の力を持つ仏様にかかれば、すべての人類が何不自由なく幸せに過ごせる世の中を作ることなど朝飯前のはずである。しかし、そうなっていないのは、仏様の意思だというのである。この世で犯罪者となったり、不幸な病や障害を持たされるのは、仏様が強いたことであり、そうした者がどう生き、周囲の人がどう生きるかという試練を与えたもので、それこそがこの世での修業なのである。この世での仏様に与えられたハンデを抱えて、不本意な生涯を送る者、そしてその被害の不幸に巻き込まれる者が、優先して極楽浄土に行けるのは当然のことだというのだ。
 しかも、誰もが死後は、直ちに極楽浄土に往生することができるのだから、戒名も位牌も作らないのが浄土真宗の本来の姿だ。戒名は仏教徒になって仏の弟子として修行をすることだが、死後に慌てて仏教徒となって救われるなどという必要は全くないし、地獄に落ちる心配など無用だというのである。親鸞上人自身、死後はどのように弔うのが良いかと尋ねる弟子に、「鴨川に流して魚の餌にしろ」と伝えていたという。実際お弟子さんたちはそうはしなかったようだが、死に対する考え方は、よく表れている。お盆の行事についても、浄土真宗では行ってはいなかった。お盆は、釈迦の高弟のひとりが、亡くなった自分の母親が死後の世界で安穏と暮らしているのではなく、責め苦にあっていることを知り、周囲の人々に施しをすることで母を救ったという言い伝えに始まると言うが、浄土真宗では、死後に地獄があることなど認めていないので、お盆などあり得ない話しなのである。また、一般に死者の思い出を末永く大切にするのが肝心とされるが、親鸞上人にすると、基本的には死者を出来るだけ早く忘れ、この世に未練を残させないことが肝心だとされる。死者は、死後生前の役割から解放され、極楽浄土で何不自由なく安穏に過ごすために、生前のしがらみなど一刻も早く断ち切って貰うのが一番いいとされるのである。さらに浄土真宗そのものではないが、本来の釈迦の教えを尊重し、古くからの仏教に従うとすると、本来は墓石についても必要としないのではないかと思われる。というのも、奈良に残る南都六宗には、一切墓地はない。仏教は本来葬式とも墓地とも関わらないのである。墓石は、原始時代に、死者の復活を恐れ、土葬に際して屈葬が行われ、そのうえにさらに重しを重ねて死者の復活を防いだことに始まると言われており、そんな起源を持つ墓石を親鸞上人が重要視するとは思えない。
 親鸞は、「和讃」と呼ばれる、仏の徳を称える七五調の歌を、500以上も残しているとされる。これを朗々と歌い上げる親鸞の声は、美声で聞きに来る女性を中心にあらゆる者を夢中にさせたという。現代で言えば、アイドルであり、古くは失神者が後を絶たなかったグループサウンズのコンサートのようなものだったのではないかと想像される。作詩作曲を行うシンガーソングライターでもあったのである。そんな親鸞上人が開いた草庵は、当局から危険思想の持ち主として目を付けられ、周囲の宗派からも異端扱いされ、粗末なものであったとされている。最初に開いた場所には、清水庵(夷川西洞院付近)とされ、後に寺となったが、現在は石碑が建つだけとか。実際、何度も島流しに遭っているのである。
 むしろ極貧の生活をしていたと思われる親鸞上人が、日本最大の本願寺の宗祖と崇められているギャップはどういう歴史の顛末なのだろうか。清廉潔白な親鸞上人の面影は、実は作られたもので、実際には金の亡者として巨大組織を作り上げ、堂宇を整備し続けた人物の隠れ蓑なのではないかと思えてしまう。 
 しかし、今日の巨大教団浄土真宗が成立したのは、親鸞上人が妻帯し、肉食した結果である。親鸞上人自身は、生涯一人の妻と添い遂げ、二人の実子を残しただけだったそうだ。しかし、その後も妻帯するのを当然とした子孫の間にはたくさんの実子が誕生した。中でも、中興の祖と呼ばれる本願時代8世法主の蓮如に至っては、5度の妻帯により、13男14女という実子をもうけている。
 妻を持たない僧侶は、実子ではなく、弟子を取って後を継がせるのだが、弟子は養子にしたとしてもあくまで元は他人である。弟子入りする以前は別の家庭で、実の両親に育てられている。現在流に言えば、DNAが違うということとなる。したがって、後を継いでもその教えはかなり間接的なものである。これに対して、実子が後を継げば、DNAを引き継ぎ、生まれたそのときから丸ごと「教祖」に育てられたこととなり、いわば直接的な継承者と言える。蓮如のように何人もの実子がそれぞれ直属の教祖として各地方で布教活動に励めば、その効果や信憑性は格段に高くなり、大いに広まることは間違いない。こうして本願寺は、全国津々浦々に「教祖」を派遣した結果、巨大化したのである。なるべくして巨大教団となったのである。ただ、親鸞上人がこうしたことを望んだかどうかは疑わしいような気がするのだが・・・。