天国と地獄の話

天国と地獄の話
はじめに
 「天国と地獄」は、誰も経験したことのない死後の世界の話として、怖れられ、語り継がれてきた。誰も本当のことは分からないからこそ、さまざまに語り継がれてきた。全く正反対にすら見えるほどの、極端な違いがある場合が少なくない。本当のところはどうなのであろうか。探ってみても、本当のところは分からない。これが真実だという保障はできない。
 それでも探らずにはいられないのが「天国」と「地獄」の話である。
 結論から言ってしまえば、「天国」も「地獄」も、どこかにある場所ではないと思われる。では全く存在しないのかといえば、そんなことはないと思われる。「火のないところに煙は立たぬ」ではないが、全く何もないところに、ずっと昔から、それこそ見てきたことであるかのように、まことしやかに語られるはずはないだろう。では、「天国と地獄」とは何であったのか。自分なりの答え緒を記してみようと思う。

1.人は、死後どうなるのか
 人は死ぬとどうなるのだろうか。経験者がいれば、体験を聞けば良いのだが、誰も死んだことがないから、聞くことはできない。調べようもないので、分かるはずがない問題とされている。
 それでも時々、臨死体験をしたという人と、前世の記憶を持っている人がいるという話を聞く。
 臨死体験とは、死に瀕した人が、死後の世界を垣間見るような体験をしたということである。回復して元気になった後に語られる経験談だが、瀕死状態を経験した人のすべてが体験した訳では内容である。臨死体験には、共通していることが多い。
 (1) 静かで平和な感覚に満ちていること。お花畑の中にあるというのが典型的な背景となる。
 (2) 自分自身が体験したことなのだが、自分の体の外側に抜け出たような感覚を持っていることが多い。
 (3) 暗いトンネルに入り、向こう側の光りに近づいたり、光の中に入ると楽園が広がっていて、以前に  亡くなった親類や友人など懐かしい人々に出会ったり、神様のような人物像に出会ったりすることが多い。
 (4) 自分の人生を走馬燈のように、短い時間で一気に振り返ることが多い。
 (5) 三途の川などの境界線が見られることが多い。川の向こう岸に親しい人物がいて、手招きしている  とか、お前は帰れと言われたといった光景が多い。
 (6) 死者の霊や神と思われる人物像のようなものとで逢うことが多い。
 (7) なぜか相手に追い返されたり、自ら同行するのを思い止まったけっかよみが選ったとされることが  多い。
 このように臨死体験は「死後の世界」の手前で引き返してくるというものである。そのため「死後の世界」を垣間見た体験と言えるのか、それとも瀕死の状態のまま見た夢なのかは、誰にも断定出来ないものである。
 ただし、きわどいところで死を免れたという体験ばかりでなく、一度完全に死亡と判断された後に生還することもある。宗教的な解釈では、「肉体」から「霊魂」が抜け出した結果、意識の中心が体の外側にあるような体験(体脱体験)が起こると考えるのが主流である。ただし、それを立証するには体から抜け出した「何物か」を検証できる形で示さなくてはならず、それはほとんど不可能なこととなってしまう。他邦生理化学的な推論では、脳内の酸素が希薄になった結果や、二酸化炭素が過剰になった状態では、光の感覚が見えやすくなり、臨死体験のような結果が現れやすくなるとする研究もなされている。また高揚感や幸福感をもたらすエンドルフィンが、ストレスによって過剰に分泌されても、幻覚や過去の連続想起を起こす、臨死体験に近い現象が可能となるという主張もある。これらの仮説は検証は可能なのだが、実験はされていない。仮説としてはパーマーによる催眠状態がもたらすとする説や、ユング学派のグロッソが臨死体験時に光りなどが象徴的に現れるのは、「死と啓発」の原型だと主張しているのが代表的なものであった。
 以上を大雑把にまとめると、かつては宗教的な解釈にやると、あの世がこの世とは別のところにあると認めるのに対して、科学的な研究においては、あの世の存在は認められないというものであった。しかし臨死体験の研究の広まりによって、徐々に「死後の世界」の実在があり得るという可能性が見出されつつあるようだ。
 ここまでで、死後の世界については、あったしてもそれは心地よい安楽なものとされてきた。ところが更に進むと、臨死体験者が一様に、死後の世界が安楽なものとしていることから、死後の世界が安楽で美しい世界とされていることに疑いを挟む者が出てきている。つまり、甦り、実際には死に至らなかった者だけを研究対象にして得られた結果が例外なく「死後の世界は美しく安楽だった」としていたとしても、実際に死に至らず「蘇生した者の体験は誤報と考えることができる」のである。死に至らず甦ったからこそ「安楽な世界」しか見なかったということも考えられるということである。
 臨死体験によって死後の世界は、「ないかもしれない」か「あったとしても天国のような場所」であった者が、そうではないかもしれないということになってきたのである。死後の世界は天国とは限らないとなってきたとすれば、今度は地獄のことを確かめてみる必要が出てくる。

2.天国とは
 地獄とはどんな世界であるのか。その前に「天国」についてもう一度まとめておくことにする。それと共に「極楽」と天国の違いについても見ておこう。
 「天国」は、おもにキリスト教の死後の世界を示す言葉であった。英語「heaven」の訳語で、神の世界を意味するものである。つまり「天国」とは、神や天使などがいる場所で、清浄な場所とされている。
 しかし、もともとは信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所というより、至福の状態を表す言葉で、特定の場所を示す言葉ではなかった。とはいえその地で暮らす者にとっては、理想的な世界となる。何者にも煩わされることのない、快適で理想的な環境であるが、概してその定義は曖昧なものとなっている。
 ついでに多くの信者を持つ西洋の他の宗教の代表的なものにも触れておくと、ほぼ似通ったものとなっている。ユダヤ教では、もともとの天国は神々の住まう領域を指していた。人間は死後、天国ではなく陰府(シェオール)に行くことが決まっているとされた。それが後年ゾロアスター教の教義が取り込まれ、死者の復活や天国に召し上げられたエノク、エリヤの逸話が拡大解釈されて、天国での来世を創造し、未来永劫仲間の霊魂や神谷天使と共に過ごす場所とされるように変わった。またイスラム教では、人の死は、アッラーによって決められるもので、いつか復活するまでの一時的なお別れとされる。この復活の日を「五体満足」で迎えるために、火葬ではなく土葬にされるのを基本としている。その中で、信教を貫いた者だけが死後に天国で、永遠の生を得るとされている。聖典「クルアーン」にはその天国の様子が具体的に語られている。「楽園」と呼ばれ、死後に辿り着く理想的な場所とされる。永遠の幸福と安らぎが約束され、美しい庭園に囲まれ、豊富な果実に満たされ、泉や住居が用意されているとされている。
 このように見てくると、「天国」は安樂で平和な理想郷とされているようだが、意外に曖昧なものでしかないようだ。つまり遙か上方にあって、地獄と対になって上下の位置関係を持つと想定されていたようである。

3.「天国」と「極楽」との違い
 それに対して、「極楽」とは、「極楽浄土」の略であり、「スカーヴァティー」のことを指している。これは、阿弥陀如来の浄土であり、「幸福のあるところ」という意味である。
 親鸞は、「唯信砂文意」に「極楽無為涅槃界」を次のように釈している。
「『極楽』と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、『ほめたてまつりて安養と申す』とこそのたまひけり。また『論』(浄土論)には『蓮華蔵世界』ともいへり、『無為』ともいへり。『涅槃界』といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。『界』はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。」
 つまり極楽とは、苦しみの交じらない心身共に楽な世界ということであり、悟りを開く境界だというのである。このため平安時代以来、貴族が自分の死後に、確実に極楽往生ができるように、寺院に膨大な寄進したり、巨額を投じての社会事業を遂行したりした。
 仏教の浄土教が理想の仏の知として「浄土」の世界を描いているのに対して、キリスト教を中心にした西洋の宗教が、神の国として「天国」を描いている。そこに描き出された国の様子は、理想郷であり、酷似していると言えよう。基本的には善人は「天国」や「浄土」に行くことができるのに対して、罪を犯した者は「地獄」に落ちるとされている点でも似ている。ただしキリスト教でも、一時期は罪を犯すことで「地獄」に落ちることが強調され、恐怖を伴わせることで善行を奨励する傾向の強い時期があったが、現在はそれほど強調されることはなくなっている。仏教においても、親鸞上人による「悪人正機説」以来、悪人が地獄に落とされるという考えはなくなっている。
 そこで両者の違いを挙げるとすれば、天国が上方にあるいわゆる「点」の遙か上にあるとされるのに対して、「浄土」は西方十万億土の彼方にあるとされているという、位置的な違いくらいではないかというのが、今日の一般的な見方である。「天国」が遙か上方に位置するのに対して、「浄土」は西の彼方、水平方向の果てにあるとされるのだ。遙か上方も、気高さの象徴と見なされる。一見水平方向はそれに比べて価値が低いようにも思われるかもしれない。しかし日没のある時期には、黄金に輝く感動的な光景が見られることがある。その筆舌に尽くしがたい光景を見せる西の果てに、理想郷があると信じたものと思われる。
 実は「天国」と「浄土」の違いは、位置関係という「場所」の違いだけではなく、重要な違いが二つあると思われる。
 一つは、「浄土」には誰でも行けるのに対して、「天国」には限られた人しか行けないということである。キリスト教では、「天国」の入り口に門があり、その門を通り抜けられる人は、生きているうちにキリスト教を信仰した人に限られるとされる点である。ここで「天国」には入れなかった死者の行く先として「地獄」が想定されない訳にはいかなくなってくるのである。仏教では、「浄土」には誰でも行けるチャンスがあるとされている。もっとも、浄土真宗以外では、死後に仏教徒になるために戒名を付け、俄作りの仏教徒にならなくてはならないことになっている。これだけでも大きな違いではあるが、これが浄土真宗になると、死後は誰であれ(仏教徒であってもなくても、罪を犯した人であってもなくても、まさに言葉の真の意味において、誰でも)阿弥陀様が無条件に「浄土」に導いてくれるというのである。こうなるとものすごく大きな違いと言える。
 二つ目には、「天国」が究極の所信者のみが死後に行くことがゆるされている「場所」を示すだけの言葉であるのに対して、「浄土」は「場所」を表すだけではなく、「働き」をも表しているといわれる。そしてこれこそが最も大きな違いだとされている。「働き」というのは、既に死んだ人たちと、まだ生きている人たちとの間に「縁」をと入り結ぶという意味だ。自分にもたらされる幸福も、苛まれる不運も、好ましいものから避けたくなるようなものまで、自分と関わりを持つすべてが「自分自身の死となり、自分を鍛え上げてくれるものとして「浄土」から派遣されていると考えるのである。すべてを我が師として仰ぐ謙虚さをもってこの世を生き抜くことが、この世での修行となり、無条件に死後に「浄土」に導かれる理由になるというのである。だから浄土真宗では、善人も悪人も、生前に仏道修行などしてもしなくても、直ちに極楽往生することが出来るとされているのである。
 なお「天国」という言葉自体は、仏教の世界でも用いられてきた。ただしそれは、西洋流の「天国」とも、仏教流の「浄土」とも全く別物である。仏教で言う「天国」は、文字通り「神」が住まう国という意味である。「帝釈天」「毘沙門天」「弁才天」など、「天」とは仏教の発展過程において組み込まれたヒンドウ教の神々のことであり、その神々が住むところのことである。この「天国」は安楽で平和な理想郷ではなく、神々が争い、苦しみがある煩悩の世界だとされている。

4.西洋における地獄とは
 西洋では、「地獄」は「天国」との対の概念となっている。つまり生前信者でなかった者は、死後例外なく「地獄」に堕ちるとされているのである。
 つまり、生きているうちにキリスト教徒とならなかった、祝福されない者達の行く先が「地獄」である。天国に入り口に破門があり、信者でなかったものは、そこで天国に入ることを阻止されてしまうのである。まさに「信じる者は救われる」のであり、そうでないものはすべからく地獄に堕ちるのである。死者のうち、信者以外の者が「天国」にいけないのであれば、ほかに行く場所が想定される必要がある。それが「地獄」と呼ばれるというわけである。ちなみにイスラム教では、地獄は「ジャハンナム」と呼ばれ、不信仰者や悪行を行った者が永遠の苦しみを受ける場所とされている。具体的には、アッラーを唯一神として信仰せず、礼拝を怠ったり、喜捨をしなかったり、断食を守らない者、巡礼を行わない者が、地獄に落とされることになる。燃えさかる焰と熱湯、拷問器具が存在するといわれている。
 キリスト教を信仰しない者がすべて地獄に堕ちるとすれば、私たちは皆地獄に堕ちざるを得ないことになる。それどころかキリスト教徒ではないイスラム教徒も、ユダヤ教徒も、みんな地獄に堕ちることになってしまうはずだし、他宗派からすれば、キリスト教徒も全員地獄に行かざるを得ないことになってしまう。
 どうも納得しがたいものが残るが、それでも死後は地獄に行かざるを得ないとなれば、「地獄」がどんなところであるのかは気にならないはずがない。「地獄」とはどんなところであるのかが、「天国」以上に気になるのは、むしろ当たり前のことといえる。
 「獄」とは、罪人を閉じ込めておく牢屋のことで、だから「地獄」とは、地下にある牢屋という意味になる。そう記されている聖書を文字通り解釈すると、地下深くにあることになり、現に地球の真ん中にあると信じているキリスト教の派閥もあるという。
 そのほかにもキリスト教の地獄にはいくつか種類がある。それを整理すると、
 まず「ハデス」もしくは「シェオール」と呼ばれる「地獄」がある。これは日本語では「よみ」と訳され、「キリストを信じていない者が行く地獄」である。ここは、死んでから最終的な裁きが行われるまでの一時的な待機場所であり、ちょうど留置場のような場所とされる。苦しみの場所とされてはいるが、肉体的な拷問が待っているというよりは、神に見放されたという精神的な苦しみに苛まれることが中心のようである。
 「ハデス」で審判を待つ間、あくまでもキリスト教を信じない者は、「ゲヘナ」に投げ込まれることになる。キリストを信じない者が最終的に行く場所が「ゲヘナ」である。ここは「火の池」のイメージと結びついている。この火は永遠に消えることはなく、したがってその苦しみは永遠に続くとされる。
 キリスト教での「地獄」がどんな場所であるかについては、3つの特徴で表されるという。
「黄泉」(シオール)は、この世で生きているうちに罪を犯した者が、死後に苦しみを受ける場所が「地獄」である。
 (1) 神から完全に切り放された場所
 これが最も恐ろしいことと認識される。神から完全に切り放されると、神の愛や恵、希望などあらゆるよいものから切り放されてしまうからだという。神がいない世界とは、絶望の苦しみや孤独に苛まれるなどフニ満ちた世界であるとされる。
 (2) 永遠の苦しみが続く場所
 神への罪に対する刑罰なので、終わりのない刑罰場続くことになる。永遠に燃え続ける「消えない火」と表現されることになる。
 (3) 悪魔(サタン)たちが行く場所
 サタンとは、「神の前で権威をもっていた天使が、神に氾濫を起こした座天使だとされる。人間を惑わし罪に導く、ボスのような存在といえる。しかしサタンは、この世の終わりには、神に滅ぼされ、地獄に落とされる存在」とされている。このサタンを場するために作られたのが地獄であって、もともとは人間を罰するためのものではなかったのである。しかし、神ではなくサタンに従ってしまった人間は、結果的にサタン達と共に、永遠の火の池に投げ込まれてしまうという訳である。
 では、愛に溢れた神が人間を地獄に落とすのはなぜであろうか。それは、
(1) 神が「愛の神」であると同時に、「正義の神」であるからである。つまり、神は人間を愛し、天国に 招こうとするが、罪を犯した人間味対しては厳しい判定を下すからだというのだ。神が正義の神でない なら、人間を誰でも天国に招けば良いが、正義の神としての一面が、それを許さないのである。神は人間を愛すると同時に、公平な裁きをする存在として、罪を犯せば誰であっても容赦なく、同じ罰を与える存在なのである。
(2) 神が人間の自由意思を尊重する存在だからというのが第二の理由である。そもそも、神が人間を地獄に送るのではなく、人間が自分の意思で神を拒み、そのことによって自分で地獄を選ぶのが、正しい見方だというのである。神を選ぶか、拒むかは人間の自由意思による選択に、徹頭徹尾委ねられているというのが正しい見方だという訳である。人間の自由意思を無視して強制してしまうことは、結果的にそれが正しいか間違っているかではなく、その前にその人の人間性を否定してしまうことになるからだという訳である。いくつかの選択肢がある中から、自分の意思で選ぶからこそ、選んだ者に「愛」が宿るのである。
 ここから、地獄に行かない方法は一つだけだという。それは、「自分の罪を悔い改めて、神を信じること」である。自分の口で「神を信じる」と良い、心の底から「イエスの復活を信じる」事によってのみ、地獄に行かずに済む唯一の方法だというのである。
 さらにカトリックの教理では、天国と地獄の中間に、小罪を冒した死者の霊魂が、天国に入る前に火によって罪の浄化を受ける「煉獄」が設けられるとされた。ダンテの「神曲」は「地獄」「煉獄」「天国」の三界遍歴を主題にした作品である。
 「新約聖書」の黙示録には、世界の終末にキリストが再臨し、人類の罪を審判し、それぞれの行く先を天国と地獄に振り分ける「最後の審判」が行われるとされている。
 イスラム教では、この世の週末に、神による審判があるとされる。そこでは生前の信仰や行為がすべて記録されている帳簿が手渡され、秤にかけられる。秤が重く下がった者はイスラム教の天国である「緑園」に導かれ、秤が軽く跳ね上がってしまった者は、地獄に落とされ、それぞれに相応の罰が用意されると説かれている。
 キリスト教においてもイスラム教においても、「地獄」の苦しみとは、肉体的な拷問の恐ろしさとい卯より、神を認めずイエスの福音に従わないことが最大の犯罪とされた結果、精神的な不安や恐怖に「苦しみ」を与えられること傾向が強いと言えそうである。

5.日本の地獄
 日本の仏教においても「地獄」の存在が方伝えられている。浄土真宗においては、死後誰でも例外なく極楽往生できるのであるから、地獄は存在しないと考えるのが自然である。「天国」と対になる「地獄」は「天国」とは垂直な上下関係に想定されるが、西の彼方にあるとされる「極楽」には、「地獄」の位置についても不自然にならざるを得ないと思われる。
 しかし、主として浄土真宗以外の仏教においては、「地獄」が想定されている。本来は、生前に悪いことをした人が「地獄」に堕ちると言われる。しかし実際にはほとんどの人が「地獄」に堕ちるとされている。これは胸に手を当てて反省すれば、人生で何一つ悪いことをしなかった人など、まずいないと言うところから来ているようである。
 仏教では、人は「輪廻転生」を繰り返すとされる。これは、生まれ変わりを繰り返すということである。この生まれ変わる世界は「六道」と呼ばれ、どの世界も「苦しみ」に満ちた世界だとされる。「六道」とは、次の通りである。なお、(1)~(3)が「三悪道」であり、(4)~(6)が「三善道」である。最も「善」といっても安楽な世界とはほど遠いとされる。
(1) 地獄道・・・次の「地獄」の項で記した、八大地獄のこと。
(2) 餓鬼道・・・さまざまな鬼に生まれ変わる世界。鬼として生きることで、地獄よりもじわじわと苦しめられる世界。
(3) 畜生道・・・この世で目的を達成できずに非業の死を遂げた者や恨みを以て死んだ者が堕ちる世界。犬や豚、鶏など3~4億種類の動物のいずれかに生まれ変わるとされる。
(4) 修羅道・・・須弥山の北、巨海の底にあるとされる。常に雷鳴が轟き、戦が絶えない場所で、負傷し、非業の死を遂げ、生まれ変わり、また戦を続け、血を流し続けなくてはならない。
(5) 人間道・・・人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる世界で、まさに欲得にまみれた、納屋に憎しみ恨みの絶えない世界とされる。
(6) 天上界・・・天人が住む世界である。空を飛ぶことが出来、享楽のうちに生涯を過ごすが、死を迎えるにあたって五つの変化と苦しみ(天人五衰)にさいなまれる。体から悪臭を放ち、脇の下から汗が出、頭上の髪飾りが縮み、死後には生前の行いから閻魔によって六道のいずれかに転生させられる。
 どの地獄に落とされるかは、生前の行いに基づいて裁かれるということが、仏教の教えに示されているとされる。悟りを開くまで、六道を行き来し続けることになるとされる。閻魔によって裁定される、その基準は、「五戒」と言われ、次の通りである。
(1) 不殺生・・・生き物を殺さない。
(2) 不妄言・・・嘘をつかない。
(3) 不偸盗・・・盗みをしない。
(4) 不邪淫・・・享楽に溺れない。
(5) 不飲酒・・・酒を飲まない。
 死者の生前の罪を裁くのが閻魔大王である。この際帝によって、「六道」のどの世界に落とされるかが決まる。
 そのうちの「地獄」は、八大地獄と呼ばれ、次のように分けられている。
(1) 等括地獄・・・殺生を犯した者が落ちる地獄で、獄卒(死者を責める悪鬼)の鉄棒や刀で肉体を寸断され、死ぬ。しかし涼風が吹いてくると生き返り、同じ責め苦をその都度繰り返すことになる。
(2) 黒縄地獄・・・殺生や窃盗を犯した者が落ちる地獄。縄状の鉄を体に巻き付けて焼かれたり、刃物で切り刻またり、大釜で煮られる苦しみを味わう。
(3) 衆合地獄・・・殺生・盗み・邪淫(不倫)を犯した者が落ちる地獄。鉄山や、大岩に両側から挟まれ、おしつぶされる地獄を味わう。また、、真っ赤に焼けた鉄の地面を走らされ、溶かした銅を喉に注ぎ込まれることもある。
(4) 叫喚地獄・・・殺生や盗みや邪淫をした人の他に、飲酒をした人が落ちる地獄。ここでは大鍋の中でぐつぐつ煮られたり、皮を剥いで食べられるといった苦痛を受け続けることになる。
(5) 大叫喚地獄・・・殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄言をした者が落ちる地獄。叫喚地獄までの四地獄の苦を十倍にした苦しみを受ける。熱鉄の鋭い針で、口も舌も何度もさし貫かれ、再生した口や舌を貫かれる。この地獄での寿命は8000歳とされ、これは人間界の時間に直すと、6821兆1200億時間に当たるという。
(6) 焦熱地獄・・・殺生、偸盗、淫邪、妄語、飲酒、邪見の罪を犯した者が堕ちる地獄。熱鉄の塊や鉄のかまの上に置かれて身を焼かれる。炎熱地獄とも言われる。
(7) 大焦熱地獄・・・殺生、偸盗、淫邪、妄語、飲酒、邪見などの罪を犯した者が、炎熱で焼かれる地獄で、その苦は他の地獄の十倍と言われる。無量億千歳にわたって苦を受けると言われている。
(8) 阿鼻地獄・・・無間地獄とも呼ばれ、地獄の世界で元も深い場所にある。肉親の殺害など、重い罪を犯した人が落ちる地獄。四方八方火炎に囲まれた、一番苦痛の激しい地獄であり、ここに落ちるのに2000年もかかるとされる。
 日本の地獄についての記述は、西洋の者と比べて、詳細であり、緻密である分、恐怖心を煽るものとなっているかのように思われる。

6.お釈迦様の裁定
 お釈迦様自身は、自分の教えを記録に残しませんでした。教えのすべては、弟子が後年伝え聞いた話しとして記録された者ばかりです。そのため、聞き間違いや誤解があるかもしれません。弟子も優秀な方ばかりでしょうからそれは少ないとしても、お釈迦様の教えの解き方も、相手にふさわしい話し方だったと思われます。極端に言えば、疑い深い人には「渡る世間に鬼はなし」を基調とした説得の仕方をし、騙されやすい人には「人を見たら泥棒と思え」を基調とした話し方をしたと言った具合である。言葉の一字一句よりも、その人の性格や受け取り方を考慮した上での話しをなさったからこそ説得力があったと見るべきではないでしょうか。
 お釈迦様自身は、直接「地獄」のあるなしに触れられたことはないようです。もともとお釈迦様の教えは、この世(此岸)からあの世(彼岸)に脱する方法に関するものだった。つまり、人間はこの世で「生」「老」「病」「死」の四つの苦しみを脱することはできない。そして死んだ人間は、死後あの世で過ごした後にこの世に舞い戻ってくると考えていた。いわゆる「輪廻」である。この輪廻を抜け出し、死後二度と再びこの世に戻ってこないための修業をしていたのである。二度と苦しみを味合わないで済むために「輪廻転生」から抜け出す道を見いだすことを「解脱」と呼んだのである。
 お釈迦様の弟子は、その道を模索し探し当てるために修業を積んだのである。
 そんなお釈迦様の思想に、「地獄」があるかどうかわからないというのは、ありそうなエピソードもあれば、地獄の存在を認めていないかのように受け取れるエピソードもあると云うことである。
 「地獄」の存在を前提にしていたかのようなエピソードとしては、「お釈迦様のあるで死が、別の弟子をさんざん非難した折、お釈迦様が三度も窘めても聞かなかったことから、その弟子が地獄に堕ちたとされた」といった逸話が残っていることだ。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も、「地獄に堕ちた大泥棒が苦しんでいたのを見付けて、救われるチャンスをやるために細い蜘蛛の糸を垂らすのだが、それに大勢の者がぶら下がるのを見て、自分だけ助かろうとしたことで、再び地獄に落とした」というエピソードをもとにしていると思われる。さらに、お釈迦様の十代弟子の一人の目蓮にまつわる逸話は有名である。自分の母は、天国で安樂に過ごしているとばかり思っていた目蓮は、地獄で責め苦に遭っていると知った母親を救うために力を尽くしたが叶わず、困り果ててお釈迦様に助けを求めたという。その結果、お釈迦様の教えの通り、7月15日に修行を終えた僧達に供養することを勧められ、それに従うことで母を助けたというのだ。それが「お盆」の起源だとも伝えられているし、その時の目蓮の喜びが盆踊りの起源だとも云われている。
 これに対して、地獄の存在を認めていないように思える教えも残している。古い経典によると、お釈迦様は「弟子から死んだらどうなるのか、あの世はあるのか」と尋ねられてもお答えにならなかったある。この弟子は難にでも興味を持ち、わからないことを次々に質問してきて、それにいちいち答えを示してくれないお釈迦様に不満を抱いていたと云うことだ。そしてこれに答えを示してくれないなら弟子になることをやめると言ったとかいうのである。するとお釈迦様は、「毒矢を射られた人が、それを抜こうとしている人を制して、この矢を射た者はだれか、この矢、この矢羽はなんで出来ているのか、これが分かるまで矢を抜かないでくれと言われても、そうするわけにはいかない。必要なのは毒矢をいちはやく抜くことだ」と言われたという。これは、地獄があるかどうかなどと云う、誰にもわからないことに長い時間を費やすなら、ほかにもっとしなければいけないこと、するべきことがあるはずだと仰ったというのである。つまり、お釈迦様は合理的な人物で、死後についての地獄も極楽浄土(彼岸)の様子も語ることはなかったというのである。

7.親鸞聖人のお考え
たとえお釈迦様が「地獄」や「浄土」について、誰にも正解だと保証が出来ないことについて、あれこれ考えて時間を費やすことは無駄だとしてしたとしても、修行をして解脱し、悟って彼岸に止まれるというものであったはずだ。確かにお釈迦様自身も、極端に激しい修行をしても自分を痛めつけるだけで、命の危機に瀕してはもともこのないとして中庸であることを大切にされた。大乗仏教が、すべての存在の救済をめざす修行僧として専念することをめざすのに対して、小乗仏教が個人の悟りをめざすように変化することはあっても、修業が不要だとは仰ってはいない。
 ところが、浄土教や浄土真宗の教えでは、「阿弥陀如来を信仰し、念仏を称えることによって極楽浄土に往生できる。」となり、修業も必要なければ、生前に仏教徒でなかった人も、戒名を必要としないというのである。
 親鸞聖人のお考えを、ぼくなりにまとめてみると、次のようになる。
 現実のこの世は、不幸や不平等、よくに満ちあふれており、不幸な人生を送っている人は枚挙にいとまがないほどである。しかし、本来の阿弥陀如来のお力をもってすれば、この世に生きる人々をすべからく幸福な人生が送れるようにすることなど簡単なことなのだという。そうしないのは、阿弥陀如来が敢えてそうしているのだという。
 何故そんなことをするのかというと、それこそが「修業」だからだという。つまり、生まれて間もなく死んでしまう人生を送るものから、体に不自由があるもの、貧困の末に犯罪を起こさずにはいられない人生を送るもの・・・が生まれ、人生を全うする。その本人がこの世で不幸に見舞われ、苦労することは言うまでもないが、その周りに生きるものもまた、不幸に同情して悲しみに暮れたり、犯罪の被害にあって迷惑を蒙り、苦しんだりすることになる。多かれ少なかれ、短所や欠点は、誰しも持ち合わせているが、壮絶な運命をたどる者もある。なかには凶悪犯として、断罪される者さえいる。その被害者として苦しみのどん底に突き落とされる者もいる。生涯を背負ったり、貧困のどん底を這い回らなくてはならない人生を送ることを運命づけられた者達のことを、親鸞聖人は「悪人」と呼んだ。そのうえで、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と仰ったというのである。これは、「善人でさえ死後は救済されて極楽往生を遂げるのだから、悪人はなおさら救われるに決まっている」といった程度の意味である。
 これは耳を疑う発言である。普通に考えたら「善人」が救われることは理解できるとして、「悪人」も救われるというのである。それどころか、「悪人」の方が優先して極楽往生が出来ると仰っているのだ。間違いではないかと、二度見してしまうに違いない。しかし、間違いなく親鸞聖人は、「悪人」こそ優先して救われると仰っているのである。
 これは、親鸞聖人が「絶対他力」という思想の上に立っているからである。「絶対他力」というのは、この世の出来事は本人の意思ではなく、阿弥陀如来が決められたのだというのである。この世での人間は、いわばこの世という舞台の上に立って、阿弥陀如来に割り当てられた「役割」を演じると考えるのだ。つまり「悪人」は、心ならずも不幸な運命、人に恨まれる役を演じ続けて一生を終える人のことを刺しているのである。とすれば、「悪人」こそが阿弥陀如来が与えた重要な役だと云うことになる。短命、不自由な体、恨まれ役の悪党といった役を演じきった者が「悪人」なのであるから、その人が人生を全うして死を迎えた際には、優先的に極楽に迎え入れられるのが当然だというわけである。もちろん「善人」もまた、「悪人」と同じ世界で生きることによって、さまざまな苦難に遭い、それを乗り越えようとするのであるから、死期は極楽に迎えられるのである。「善人」であれ、「悪人」であれ、この世に生まれ、生き抜くことがそのまま解脱のための修業となるのである。
 その結果親鸞の教えは、仏教徒としての修業は一切必要ない。ただ阿弥陀様を信じて「無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽往生できるのだ、ということになったのである。しかも念仏は一度唱えるだけでも構わないというのだ。こうしたことを説いた親鸞は、他の宗派や為政者から、とんでもない危険思想の流布者として、島流しに遭ったり、死罪の危機にさらされたと云うことである。何しろ仏教の信心や修業はしなくとも成仏できると云うだけでなく、悪人が優先して成仏できるというのであるから、犯罪を奨励していることになるとされたのである。実際に、強盗、強姦、殺人を行うことを奨励し、仲間内では淫行を繰り返すといった集団が浄土真宗の名をかたって、あちこちに生まれたようである。しかし、それは親鸞の教えとは全く別物であった。というのも、親鸞の教えは「絶対他力」に裏打ちされたものである。どれほど過酷な犯罪でも、やむにやまれぬ事態に追い詰めた結果に起こされるもので、自分の意思で行うものではないからである。自分の意思で行うことは、善であれ悪であれ、「自力」である。「他力」とは全く別物なのである。たとえ起こった犯罪が全く同じ程度の残虐さを持っていたとしても、「他力」と「自力」では、全く別物なのである。
 親鸞は修行僧の身でありながら、赤山禪院で会った美しい女性に恋をし、修行に打ち込んでも暗い心の解決ができない比叡山(天台宗)の教えに絶望した。法然上人の弟子となり、31歳の時に肉食妻帯を断行しする。和算で聴衆を魅了し、悪人正機説に連なる教えを広める中で、危険思想者、とされ、法然は土佐(高知)へ、親鸞は越後(新潟)に流された。その親鸞も900年ほど前に生きた人である。革命的な人であったとしても、そのことがを今日そのまま受け入れられないことも少なくはないだろう。しかし、一方で今日なお、一般的には死者に対しては特別な手当てをしないと落ち着かない気持ちになりがちである。霊魂の存在を信じているわけでなくとも、死者の亡骸を粗末にはしにくいのが正直なところだ。ところが親鸞聖人は、弟子に対して自分の遺体は、鴨川に流して、魚の餌にしろと命じたと言われている。お弟子さん達も、さすがにそうはできなかったようであるが,ある面では現代人以上に人の死に対してはっきりしたけじめが付けられていたように思われる。同様に釈迦がいかに偉大な人物であったとしても、2000年以上も前のインドの世界観の上に立っていることは否定できない。それは、端的に言えば、「輪廻」や「業」のあることが疑いないものとされていた。そのうえで、煩悩をどのように消すかという修業をしていたのである。とすれば、時として釈迦が「地獄」が存在するかのような前提ではなすことがあることも頷けるように思われる。
 親鸞は、戦後出版された本の中で最も多く語られた人物と言われている。代表的なものに絞っても時代を超え、国を超えた絶賛ぶりは見て取れる。夏目漱石には「肉食妻帯を断行した根底のある思想家」と絶賛され、吉本隆明を「一世紀や二世紀の単位ですごいと言われる程度の思想家とは別格だ」うならせ、司馬遼太郎を「鎌倉時代は、親鸞を産んだというだけで偉大な時代だ」と信奉され、ハイデガーを「10年前に親鸞を知っていたら、日本語を学び、世界に広めるために尽くしたに違いない」と人生を後悔させたほどである。
 ここでは浅学非才のため、誤解や未消化な部分が多々あるに違いないことは承知しつつも、親鸞聖人のお考えに、自分なりの解釈を加えて触れようとしてみた。

8.天国と地獄とは
 大雑把に言って、死後の世界は、西洋においても日本においても、「天国」や「極楽」の存在が認められているようである。それらは、安楽で穏やかな理想郷である。そのに至るには、西洋ではキリストにしろ、アラーにしろ、神を信じることが条件とされ、生前に信仰しなかった者は死後にはどうあがいても地獄に落ちるしかないとされているようである。日本の仏教では、浄土真宗以外は、「極楽」に往生するためには、仏道修行に励み、で脱しなくてはならないとされるようである。もちろん大部分の日本人は、でだつなどしているはずもなく、ほとんどすべての死者が地獄に落ちない訳にはいかないようだ。そのため地獄は何種類にも分かれている。因みに、死後になって「戒名」を付けるのは、生前ちっとも熱心な仏教徒でなかった者をも、仏教徒として送り出すためである。言わば、急ごしらえの仏教とを作り出しているのである。
 西洋はで、生前に信徒になっていないと、原則的には死後に天国の扉は開かれないとされている。まさに「後の祭り」である。これに対して、日本の場合は死後になってからでも戒名を付けられることによって信者になれるということになっており、その意味では寛容に見えないこともない。しかし実際には、ほぼすべての死者が地獄に行かなくてはならず、地獄から抜け出すのも容易なことではなく、さらに地獄を抜け出しても解脱するまで六道輪廻を繰り返すという、気の遠くなるような死後の苦難の連続が描き出される。日本での死は、まさに地獄である。そういう意味では死後の世界は、西洋よりもずっと過酷だといえよう。
 それに対して、浄土教である浄土真宗では、この世を生き抜くことで修行が遂げられるとするため、死出の出発に「戒名」は不要とされる。死んでから急に仏教徒になる必要はないのである。信徒になる誓いを立てようと立てまいと、すべからく人間は阿弥陀様の掌にのっているのである。位牌も不要で、ただ「過去帳」としてその人の来歴が記録されたノート状の物を保管するだけである。西方の彼方にある浄土に対置される「地獄」は、基本的に描き出されないのである。
 個人的には、是非とも浄土真宗の描き出す死後の世界を信じることにしたいと思う。つまり、死は自分の人生を生き抜いた者に平等に与えられる、安楽で平和な永遠の理想郷である。言わば、この世を生き抜いたすべての人に与えられるご褒美のようなものといえるだろう。
 「天国」が誰もが招かれる理想郷であるならば、「地獄」の恐ろしさなど考える必要はなくなる。それでは「天国」についても「地獄」についても、何も考える必要はないし、むしろありもしない者であるかのように見做して良いのだろうか。だとすると、古来さんざん説かれてきた「天国」もしくは「極楽浄土」やそれと対置される「地獄」は、ただの絵空事、無意味な教訓に過ぎなかったのだろうか。それにしてはあまりにもまことしやかに語られつづけてきたのではないだろうか。
 これほど古くから言い伝えられ、おそらく今後も伝承されていくであろうことには、それなりの根拠があったのではないかと思えてくる。そうした根拠となり得るものは二通りあるように思われる。一つは、誰にも分からないことだから、永遠に正解を出すことができない場合である。この場合、一時的に解決したようでありながら、やがて話題として再燃するということが繰り返される。それを誰も決定的に止めることは出来ない場合である。堂々巡りの繰り返しで、進歩も退化もしない、相変わらずの話題でしかない。
 もう一つは、「天国」あるいは「極楽」と「地獄」という者が、何らかの形で実際にあることが実感されてきたからという場合があるのではないかと思われる。たぶん、ぼく自身はこちらが原因なのではないかという気がしてならない。つまり「天国」や「極楽」と「地獄」は、実際に場所として存在する訳ではないが、人の人生に実在したものなのではないかと思うのだ。
 人の感覚は不思議なものである。つまらない話や作業をしなくてはならない時には、時間は遅々として進まない。逆に楽しいことをしていると、いつの間にか長い時間が経過してしまっている。そんな経験は誰にでもあるのではないだろうか。それがもっと極端に凝縮してしまうこともある。例えば事故に遭って、ほんの数秒の間に、それこそ信じられないほどたくさんのことを一瞬のうちに思い描くような経験である。今この危険を避けるのに「どんな風に体を交わしたら良いのか」、家族の一人一人の顔が思い浮かび「伝えたいことが後から後からわき上がってくる」、母に「危ないから止せ」と言われていたのに大丈夫だと意地を張ったことへの後悔、「何時か言おう」と思っていたことを遂に言わないままにしてしまったことへの未練・・・その時に自分を取り巻く一切合切が、瞬時にして自分の頭の中を廻るという状態を、実際に経験したり、想像してみることはできないだろうか。よく、一瞬にして走馬燈のように過去が甦るといった表現がなされることがあるが、それがこうしたことではないだろうか。そして、その最高に凝縮した時間がもたらされるのが、人生の最後の瞬間、つまり「死ぬ瞬間」なのではないかと思うのだ。もちろんそれを証明することはできない。ひたすら想像を逞しくしてみるだけだ。
 そして、そこで思い出す大量の思い出が、一瞬にしてその人の人生の総合評価を味わう時間になることは想像出来ないだろうか。押し寄せるたくさんの思い出の、どれもこれもが後悔や申し訳なさの塊を作り上げ、それが巨大化するばかりだった時には、それに押し殺されるような苦痛を味わうことになるのではないだろうか。しかも、後悔し反省することが、通常であれば、今後の課題として改善するための糧としていかされることもあり得るが、死ぬ瞬間にそうした先のことは絶対に許されない。「後悔」も「反省」も、二度と取り返しの付かない所業として本人にのしかかるばかりなのだ。その時の「苦しみ」や「悔恨」の取り返しが、絶対に出来ない状態を「地獄」と呼んできたのではないだろうか。たとえ社会的に高い地位を得、金銭的にも恵まれた人生であっても、それを築く過程の所業は本人は知り尽くしている。たとえ他人は騙せても、自分自身を欺すことが不可能であるから、その罪はどこへも持って行きようがないのである。そこにこそ「地獄の苦しみ」が生まれるのではないだろうか。反対に、たとえ世間的にうらやましがられるような人生ではなかったとしても、大きく人を傷つけたり、欺したりすることなく、欺されることはあっても欺すことはなかったような人生を送ることができたら、その死の瞬間は安楽なものとなるに違いない。それが「天国」と呼ばれたのではないかという気がする。「天国」「極楽」と「地獄」とは、人の死に臨んで、誰もが味合わなければならないほんの一瞬に過ぎない瞬間のことなのではないかという気がする。もちろん、ほんの一瞬のことであると言っても・・・・。

おわりに
 天国や極楽、そして地獄があるのかどうか、結局それは誰にもわからない。キリスト教では、生前にキリスト教徒にならない者は、死後どう描いても天国には行けないという。ただ、天国に行くのは簡単で、キリスト教徒になれば済むのである。しかし、イスラム教徒も同様だという。キリスト教徒でイスラム教徒でもあると言うことはあり得ない。だとするとキリスト教徒もイスラム教徒も誰も天国には行けないと言うことになる。あるいはどちらかの教えが間違っているということになる。
仏教の世界では、多くの宗派で、死後慌てて仏教徒になるように勧めている。死後戒名を付け、急作りの仏教徒となって、成仏を願うのである。キリスト教やイスラム教徒違って、生前に仏教徒となっていなくても、死後に仏教徒となっても極楽に行くチャンスが残されている事になる。その意味では仏教の方が成仏する道を残しているように見える。ところが、仏教ではほとんど全員が地獄に落とされてしまう。煩悩にまみれた玄生の人間は、誰一人として地獄行きを逃れられないらしい。解脱するまで修業を続けて初めて成仏できるという。それまでは六道を巡らなくてはならないらしい。それを抜け出すことはほとんど不可能に見える道筋が描かれている。キリスト教やイスラム教以上に、仏教での極楽往生は困難であるように見える。それだけまっとうな生き方をしろという教えなのかもしれない。
 そんなところに表れたのが破戒僧親鸞聖人であった。僧侶には禁じられていた、妻帯・女犯、肉食を堂々と行った。そのうえ修業も一切必要なく、「南無阿弥陀佛」と唱えればいい極楽往生できると言い切ったのであった。この世に産み落とされた条件を引き受けて精一杯人生を過ごせば、悪事を働かざるを得ないところに追い詰められ、極悪非道の振る舞いをしてしまったとしても、必ず往生できると言い切ったのだ。実現はしなかったが、親鸞聖人は、死後自分の「遺体は鴨川に流して魚の餌にしろ」と仰ったと言われている。誰にも何が正しいかはわからないとは言え、親鸞聖人こそが心のよりどころとなるではないか。それでこそ安心して、人生を精一杯生きられるというものではないだろうか。自分(だけ)の極楽往生を願って、多額の寄付をしたり、これ見よがしの善行を重ねるのではなく、特別なことなどしなくても極楽往生できることを信じて、自分らしく人生を充実させようではありませんか。