「玉音放送」を読み解く 天皇裕仁 1945年8月15日
ドイツでの第二次大戦後の戦争責任は、日本に比べて徹底したものがあるとされている。ヒットラーは自殺してしまったが、ゲシュタポの政策を遂行した者達に対する追求は、現在も続く徹底したものであるといわれている。それに比べて、日本の戦争責任の追及は極めて不十分なものに終わっている。開戦責任も軍国主義政策についても徹底したものにはならず、A級戦犯とされた者達も大量に政界や経済界に復帰している。東條英機が東京裁判の中で、非公式に「天皇が戦争の責任者である」旨の発言をして、アメリカの検事長が火消しに躍起になったという話は、秘話でも何でも無く、NHKで正式に放送されている。アメリカは日本占領のために天皇の戦争責任を不問に付す政策を採ったのである。
途中で占領政策が、民主的なものから反共的なものに転換したなどといわれているが、アメリカの占領政策は一貫して反共を目的としており、国鉄の初代下山総裁を虐殺したのも、全国に縦横矛盾に張り巡らされた鉄道網を、朝鮮戦争時に自由に利用しようとして、下山総裁が拒否した結果だということが明らかになっている。
今回は、天皇が敗戦の当初から、どのようにして戦争責任を逃れたのかを検証するための最初の一歩として、玉音放送を検証する。
まずは「玉音放送」そのものを文字に書き起こす。
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルニハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々惜カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦既ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所存ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂くク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クベキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲクシ或ハ同胞互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内光政
司法大臣 松坂広政
陸軍大臣 阿南惟幾
軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田忠彦
国務大臣 櫻井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 霜村宏
大蔵大臣 広瀬豊作
文部大臣 太田耕造
農商大臣 石黒忠篤
内務大臣 安倍源基
外務大臣兼大東亜大臣 登場茂徳
国務大臣 安井藤治
運輸大臣 小日山直登
概ねどのような内容かは、わかりやすいと思われるが、多少擬古文的な表現が含まれていろ、正確を期すためにも「現代語訳」を付しておく。
【現代語訳】
私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、非常手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠実なるあなたたち臣民に告げる。
私は帝国政府に、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の四カ国に対して、共同宣言(ポスダム宣言)を受け入れると伝えるように」と指示した。
そもそも帝国臣民が平穏無事に暮らし、世界が共に栄えて喜びを共有することは、歴代天皇が昔からしてきた教えであり、私もおろそかにしなかったものである。
アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、帝国の自立と東アジアの安定を望んだからである。
他国の主権を排除して、領土を侵略するようなことは、もとより私の意思ではない。
しかし、戦争は既に四年も続き、私の陸海軍の将兵は勇敢に戦い、私の多くの役人達も精いっぱい職務に励み、私の一億の臣民も身を捧げて、それぞれ最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もわれわれに不利である。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害が及ぶ範囲は測り知れない。
なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くばかりか、人類の文明をも破戒してしまうだろう。
そんなことになったら、私はどうやって何億何兆もの我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できるだろうか。
これが、私が共同宣言に応じるように政府に指示した理由である。
私は、東アジアの開放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるを得ない。
帝国臣民の中で、戦死したり、職場で殉死したり、悲運にも命を落とした者、その遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。
また、戦争で傷を負い、戦禍を被り、家や仕事を失った者の生活にも、とても心を痛めている。
これから日本帝国が受ける苦難は尋常なものではないだろう。
けれども私は、時の運が向かってしまったところに従い、耐えられないことにも耐え、我慢できないことも我慢して、それによって子孫のために太平の世を開いていきたいと思うところである。
私はここに国体を護ることができ、忠実なあなた方臣民の真心を信じ、常にあなた方臣民と共にある。
もし感情のままに事件を起こしたり、同胞が互いに陥れたり、社会情勢を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うことになれば、それは私が最も戒めたいことである。
国を挙げて一家のように団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を信じ、担うべき責任は重く、道のりは遠いことを思い、総力を将来の建設に傾け、道義を大切にし、志を堅く守り、国の精華(天皇を中心とした日本の国家の優秀さ)を掲げ、世界の進歩・発展から後れないように心がけなければならない。
あなた方臣民は、これが私の意志だとよく理解して行動せよ。
現実には多くの人に「天皇のために死ぬこと」を強要した「教育勅語」は、極悪非道の産物以外の何物でもない。ところがそれでさえ、その直接被害を被った後の世代の人々に向けて、恥知らずにもその復活を企図している向きがある。「ほとぼりが冷めた」と判断したのか、或いは「禊ぎは済んだ」とでも言うのであろうか、「一部の記述を除いては、自然法に則った、ごく当然の真理が書かれている」などと云った居直った解釈が試みられている。もしかすると世界侵略の推進の合い言葉となった「八紘一宇」や玉砕や自爆を正当化するための「葉隠れ」には、見直すべき点があり「誤用」や「悪用」を正さなくてはならないことがあるかもしれないが、「教育勅語」や「玉音放送」にはそうした面は一切ないと思われる。「八紘一宇」や「葉隠れ」に関してはその項を見てもらうとして、ここでは「玉音放送」を見直してみる。
まず、「玉音放送」を直接見る前に、日中戦争から太平洋戦争に至る第二次世界大戦において、天皇裕仁が果たした役割は、客観的に見てどのようなものであっただろうかを見ておこう。本人の自己弁護に満ちた無責任な回顧録や擁護者の言動には、天皇は「内心戦争には反対であったが、軍部に押し切られた」とか、「戦争をやめさせたのは天皇である」とかといったことが主張されることがある。「盗人」でさえ「三分の理」くらいはあるとされるのであるから、見方を変えれば、舌先三寸で事実とは正反対の主張をすることも不可能ではないだろう。この世には、見事としか言いようのない詐欺師やペテン師も存在する。「本当はこうしたかったが、出来なかったために正反対のことをしてしまった」とか「他人がどう思おうとこうすべきであったのだが、それが許される状況ではなかった」などということは、十分にあり得る。それが無責任とばかりは言い切れないのが現実の世の趨勢である。もちろん、世の中にはどんな妨害や弾圧にもめげることなく、敢然と自分の主義主張を貫き通す人が全くいない訳ではない。しかしそれは少数派である。特に戦前・戦中の世にあっては、同調圧力が強く、それを振り切ることが大変だったことは想像に難くない。今となっては戦前、戦中に国民が信じ込まされていたことも、常識として受け入れられていたことも、俄には信じられないことが少なくない。現代は、「自由が認められ過ぎている」と言われ、他人には全く理解できないとんでもなく風変わりな「個性の時代」と言われるとされていても、「場の空気を読む」などといった形で、規制は厳しいのである。時代の流行や常識に目を奪われ、ほかの考え方など夢にも思い浮かばないのが大多数の現実であるとも言える。後になれば明らかに間違っていたことが簡単に分かるようなことでも、「知らなかった」「考えもしなかった」などと云うことはいくらでもあるのだ。だからこそ後になってから、事実を歪曲し、歴史を塗り替えることも出来るのだろう。注意しても注意しても、大きな「時代の潮流」や「常識」という名の疑わざる前提などに引きずられることなく、天皇裕仁が、戦前・戦中に果たした役割とは、どんなものだったのかをみていこう。
1934(昭和9)年、即位から6年目の天皇裕仁は、満州と呼ばれた3つの省を皇軍が武力で奪取した時に、これを「黙認」した。指示・命令する者が「黙認」すれば、それは「了承された」ととらえるのが常識である。取り立てて「よくやった」と誉められた訳ではなかったにしても、そこで満足するのではなく、さらに推進すべきと受け取るのが普通だ。武力奪取が正当であると思っていたものはその遂行に自信を深め、それに懐疑的であった者も、武力奪取が認められたものとして、自分の「反対」の意志は飲み込まれてしまったに違いない。そして勢いを得た武装派とその支持者によって世論は圧倒的な勢いを持ったに違いない。敗戦8年前の1937(昭和12)年には、日本は天皇の名において中国との全面戦争を始めたのであるから、「日中戦争の一部を黙認した」とか、「やむを得ず承認した」といったようないい訳は、後から取って付けたもので、通用するはずがないのである。天皇のお墨付きを得て、武装蜂起、敵の徹底攻略を開始する以外の道はあり得なかったのである。まさに「空気を読め」というわけである。さらに、現在の民主国家においては、極めて理解しにくいものがある。当時の天皇に対する思いである。「玉音放送」一つ取っても明らかなように、「敗軍の将」となった時点においてさえ、あの上から目線が当たり前のように罷り通っているのである。天皇に対しては、絶対君主としての畏敬の念を加味して評価しなければ、全く現実離れしたものとなってしまう。また、満州を武力で奪取して以降、裕仁が人前に出る時は、いつも軍服に勲章を付けた「最高司令官姿」であったのである。「武力奪取」「戦争遂行」を絶対命令として下していることの、何よりの証左であったとみるべきである。言葉なき指示であるからこそ、当時の国民の大多数にとっては、これ以上ない「厳命」に他ならなかったはずである。後になって、「命令」した言葉を発していないことを以て、「命令したつもりはない」などと言うのは、卑怯にも歩だがあるというべきものだ。
そして、1941(昭和16)年12月、ついに天皇裕仁は合衆国と欧州諸国に対する戦闘を開始する旨の詔書を発したのである。完全に戦争の開始・意地・遂行の全責任は、軍部にあるというより、天皇裕仁個人にあるというべきであろう。
それから3年8ヶ月後の1945(昭和25)年8月、発せられたのが「玉音放送」である。これは、本来は戦争に終止符を打つだけのものであり、敗北を認め、降伏の意志を示すものであった。しかしその実態は、日本の占領意図を否定し、日本国家が実行した残虐行為を否認し、この長年に及ぶ侵略について、天皇裕仁自身は、何ら責任を問われないようなやり方で、負け戦の終結を図ろうとするために仕組まれたものであった。
まず、その「詔勅」の内容以前に、その伝え方が、それまでには考えられない方法によるものだった。先例を破って「電波を使って臣民に話しかける」という方法が採られたのだ。天皇が即位して20年経つが、裕仁が自ら臣下に直接語りかけたことは一度もなかった。それまで君主の言葉は、「詔勅」という形で下賜され、詔書は他の者によって代読された。それを裕仁自身が、自らの声で、直接臣民に語り伝えたのである。前例にないというだけでなく、「神」と信じられていた本人の肉声を聞かされた臣民の驚きは、今では理解出来ないが、相当なものだったのである。それまでの価値がひっくり返ったのである。この、天皇が臣民に直接語りかける方法を考えたのは、裕仁自身だったのである。まるで驚きのどさくさに紛れて、その内容の詳細を検討させないかのようではないだろうか。
次に「玉音放送」の内容である。「降伏」とか「敗戦」といった明確な言葉は全く使われず、「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず」と述べている。そのうえで、「堪え難きを堪え忍び難きを忍」ぶように国民に命じている。今後起こる困難は、自分のせいではなく運命ででもあるかのように他人事を装っているということである。
そのうえで、「合衆国に宣戦布告した時に臣民に告げた」ことから、他国の主権を傷つける侵略目的など全くなく、日本の生存とアジアの安定を確保するためにだけ戦争を始めたとしている。そのうえで「東亜の解放」のために日本に協力した国々に対して、深い遺憾の意を表明している。これならウクライナを侵略したプーチンこそ正義だということに等しかろう。ウクライナがNATOに加盟して、東欧の安定を脅かしているから、安定を取り戻すための戦いだというのだ。
そして、広島と長崎に原爆が投下されたことに対しては、極悪非道で凶暴な敵の行為により、大量の犠牲者を出し、日本国民が滅亡してしまい兼ねない事態を回避するために敗戦の決断を下したと言ってのけるのだ。「万世のために太平を開」くことこそ、連合国の戦争終結の要求に応じた真の目的だというのである。つまり、我こそが、世界人類を救うための大英断を下したのだと言っているのである。これはまさに、原爆投下が戦争終結を早めた、正当な手段というアメリカの言い分が正しいと言い切っているのである。日本の平和運動が、決して原爆の投下が戦争をやめるための手段として正当なものでもなければ、やむを得ない手段と認められることもないと主張し続けてきたことと、真正面から対立する主張を、敗戦直後から続けてきたのである。
さらには、臣民達の犠牲は天皇自身の苦しみであるといい、臣民ではなく天皇こそが国家の苦難の体現者に他ならず、天皇を「究極の犠牲者」と位置づけるという、信じがたいほどの自己中心的でナルシストぶりを発揮し、恥知らずにも堂々と主張している。
戦陣に倒れた者、そしてその遺族に対し「五内為に裂く」(死よりも遙かに勝る苦しみ)と叫んでいる。そもそも誰がそうした犠牲者を生む原因を作ったのかについては蓋をしたままだ。「責任」という言葉は、天皇の辞書にはないのだろう。それにもかかわらず、玉音放送を聞いた人達の多くにとって、この言葉が最も感動的で、中には君主の期待に添うことができず、そのために天皇を悲しませた自分を恥じ、その罪深さに圧倒される者もいたというのである。結果的に天皇こそこの敗戦の最大の犠牲者だ主張するという、常人には思いつけない非常識な思考回路の果てに、まんまと自分自身に同情を買うことに成功するのである。結局、天皇の名において実行された戦争によって死亡した日本人は300万人近くにのぼり、傷を受けたり重病担った者はさらに多く、国土は瓦礫となったにもかかわらず、天皇の忠良なる臣民が思いを馳せるべきは、「天皇の苦悩」だというのである。そのうえさらに、初めて聞いた天皇の肉声が語るのは、実はそれまでの残虐行為や無謀な命令も、天皇の本当の意図によるものではなく、君側の奸が無理やりやらせたことなのだと思い込ませることを企図し、これまたまんまと成功するのである。では、「天皇の苦悩」はどうすれば避けられたというのであろうか。それを考えてみれば、すべては一目瞭然になるのではなかろうか。
そうして、自らの責任はきれいさっぱり棚上げして、天皇は、「忠良なる爾臣民」を信頼し、「常に共にあ」るとした上で、現在の敗戦の混乱と悲惨の中、決して自暴自棄になることなく、「神州の不滅」を固く信じ、一つの大きな家族として団結し続け、日本の伝統を維持し続けて祖国の再建を図り、「世界の進運」に遅れを足らないようにしようと呼びかけている。これから続くであろう苦しい事態においても、決して文句を言わずに堪え忍び、もとの天皇中心の大家族のような平穏を取り戻そうというのだ。この大胆且つ細心な言い回しによって、結果的には信じられないほどの厚かましさが罷り通ってしまうのである。あまりの厚かましさに、常識を忘れ、天皇自身が何を言っているのか分からなくなってしまっているのではないかと思うほどの展開である。その結果、敗戦日本で起こっても不思議がなかった天皇の戦争責任追及も、革命蜂起の危機も、見事に事前に回避することに成功したのである。
敗戦を宣言し、指導者としてその責任を引き受けることを宣言しなくてはならないはずの、天皇による玉音放送の直後に政府組織のレベルで起こった目立った行動は、自己保全を目論んだものばかりであったのは当然であった。全国の軍将校や文民官僚達は、書類を焼き捨てたり、軍の貯蔵物資を密かに売却する仕事に没頭したと言われる。最高責任者たる天皇裕仁にさえ責任がないというのであるから、それを支えた部下に責任などあろう筈がない。むしろ戦争中の自分たちの行為を隠し、「あったことをなかったことに」することが、自分自身のためにも必要不可欠であったのだが、それこそが天皇陛下のために他ならなかったのである。うっかり遺しては責任を追及される証拠となりかねないものを出来る限り完璧に隠滅しなくてはならなかったは、自分の保身のためばかりではなく、天皇陛下のためでもあったのだ。だからこそ、隠蔽することに対して後ろめたさなど感じることはなかったのだろう。天皇の玉音放送によってアメリカの空襲は終わったが、彼らが証拠隠蔽のために燃やした焚き火の煙は、東京の空を煙で暗くしたとも言われている。それはアメリカ軍の空襲の激しさに、勝るとも劣らなかったとさえ言われている。それほどたくさんの事実が隠蔽されてしまったのである。
玉音放送の中で最も有名なフレーズは、「堪え難きを耐え、云々」だろう。それに続くのは、
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲクシ或ハ同胞互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨである。
それは「私はここに国体を護ることができ、忠実なあなた方臣民の真心を信じ、常にあなた方臣民と共にある。
もし感情のままに事件を起こしたり、同胞が互いに陥れたり、社会情勢を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うことになれば、それは私が最も戒めたいことである。
国を挙げて一家のように団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を信じ、担うべきっ責任は重く、道のりは遠いことを思い、総力を将来の建設に傾け、道義を大切にし、志を堅く守り、国の精華(天皇を中心とした日本の国家の優秀さ)を掲げ、世界の進歩・発展から後れないように心がけなければならない。
あなた方臣民は、これが私の意志だとよく理解して行動せよ。」というものであった。
まるで、「臣下」や「支持者」が徹底的に裏切りかねないことを十分に予想しているように聞こえてこないだろうか。政府や軍部の中枢を占める者達は、「天皇」を裏切るのではないだろうか。証拠書類を隠滅し、自分の罪は「天皇一人」に押しつけるのではないか。冗談ではない。「今まで通り、私に支配される従順な下部であってくれ、頼む」と叫んでいるようではなかろうか。「ヤケになって真実を話してはならない。」「今まで通りのピラミッド型の順位を守り抜くことで、平和を維持しよう」「平和とは、天皇自身の身の安泰であり、今まで通りの序列遵守に他ならないのだ」「現在苦しい今、それに続く新しい世の中などをよいものであるはずがない、どうなるものやらわかったものではないだろう。そんなものに幻想を抱いて、新たに作ろうなどとしてはいけない」。まさにこう必死で叫んでいるように聞こえてこないだろうか。
東京裁判では、被告の中心人物だった東條英機でさえも、自分たちがしたことは「天皇の指示」に他ならないということを、密かに供述していたことが明らかになっている。それを必死で止め、言い直させたのがアメリカの主席検事であり、日本占領に天皇を政治利用するために必死で工作をしたこともわかっている。
日本の降伏文書調印式は、1945(昭和20)年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上の甲板で行われた。日本側の全権だったのは、重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らであり、これをマッカーサー元帥と他の連合国代表とが迎えた。肝心なことは、この場に天皇も、皇室関係者も宮内省の代表もいなかったことである。極端な皇室擁護者として有名なジョセツ・グルーでさえも、天皇裕仁が正式な降伏文書に署名するのが当然と考えていた。たとえ天皇自身がこの場に直接臨むことを回避されても、代理として皇族の誰かか宮内省の代表が署名することは免れないことと考えていたということだ。ところが天皇がこの場に出席することを免除されたということは、勝者である連合軍側が天皇の不参加を許可したということであり、ひいては戦争責任を問われないということを暗に示していたことになり、勝者と敗者、いずれの側を観察する者にとっても大きな驚きに他ならなかった。それは同時に、「国体護持」(それが出来なければ、自分たちの生きる場所がなくなるということ)を損なわないために、勝者が日本に何をするつもりなのかを必死で手探りを続けていた日本の指導者達にとっては、小さな慰めとなっていた。とはいえ、かつて誇った帝国が灰燼に帰し、国家の野望が終わりを迎えたことは、厳然たる事実であった。1940(昭和15)年、神話に基づいて「皇紀2600年」を祝い、一度も侵略されたことがないことを誇ったこの国は、いまや「白人」達によって完全に支配されようとしていた。
その後数週間に亘って実際に日本の荒廃ぶりが調査されるが、そのすさまじさには驚きの声が上がった。大統領特使としてマッカーサーやその側近らと会談を重ねたエドウィン・ロック・ジュニアは、トルーマン大統領宛の報告書の中で、「今東京にいる米軍将校達は、日本があれだけの抵抗ができたことに驚いている」と述べている。経済的な混乱は酷く、「原爆が敗戦を早めたと言ってもそれはほんの数日のことであり、実は日本人は、戦争から抜け出すために原爆を口実にした」と言っているアメリカ人もいると付け加えた。
そのため、以後数年間は事実上すべてのことが、日本は完膚なきまでに敗北したのだという認識の元に進行した。そうした認識があったために、絶望が、そして冷笑的態度とご都合主義が、根を下ろし広がっていったし、同時に完全な敗北という認識があったから、目前で古い世界が破壊され、新しい世界を想像するほかなくなった人間にだけあり得るような、すばらしい回復力と創造性と理想主義が発揮されることにもなったのである。こうした状況では、天皇の聖戦を遂行する過程で自分たちはいったいどれくらい他人の人生を破壊したのかをじっくり考えてみようという気力や想像力や意欲を持っている日本人がほとんどいなかったのも、驚くには当たらなかった。「敗戦」に対する責任追及が、ドイツと比べてさえも遙かに劣っている日本の戦後は、こうして迎えられたのである。奇跡的な経済回復の是非も、理想を掲げた憲法をはじめとした実体の伴わない張りぼてのような民主主義の建設も、成果と認められる者も非難されるべき実態もひっくるめて、すべてがここから始まったのである。