誕生日の秘密

誕生日とは何か
 年齢の数え方には、「満年齢」と「数え年」があります。満年齢と数え年の違いは、単純です。数え年の場合は生まれた段階で1歳とし、正月が来るたびに年が増えていくというものです。満年齢は、生まれた段階は0歳で、誕生日が来るたびに1歳ずつ増えていきます。
 歴史的に見ると、昔は満年齢ではなく数え年が東アジア諸国で用いられていました。そのことから、英語ではEast Asian age reckoningと呼ばれています。現在日本ではでは満年齢が当たり前になっていますが、それは、「若返ることで気持ちを明るくさせる効果や国際性の向上」などの理由から、1950年に法律によって満年齢を用いることが定められたからです。意外にくだらない理由付けによるものでしょう。

 誕生日の歴史
 中国の古代には誕生日を祝う風習はなかったといわれています。灌仏会やクリスマスと異なり孔子の誕生日を祝う風習はありません。そもそも孔子の誕生日が何月何日かということも、孔子本人が著名人の子ではないこともあって、定説がないのです。誕生日を祝う風習が中国で行われるようになったのは南北朝時代に北魏で皇帝の誕生日が祝われたのが記録に残る最古の例だといわれています。儒教では、自分の誕生日は母親の命が危くなった日という考え方があり、『菜根譚』後集120には「子生まれて母危く」と記し、孝行者は自分の誕生日を祝わないとされているのです。
 その影響で、日本にも誕生日を祝う風習はなく、明治時代以降に西洋から導入された習慣である、と捉えられがちですが、実は日本では、中世から近世においても個人の誕生日を祝う事例がたくさんあります。日本において最も古い誕生日祝賀の記録は、775(宝亀6)年10月13日の光仁天皇の誕生日を祝って殺生を禁断し、群臣に酒宴を賜ったというものがあります。これは天長節の名で呼ばれた天皇の誕生日を祝う儀式の始まりですが、779(宝亀10)年に再度行われて以降、公式な記録では明治時代まで途絶えます。しかし内々では誕生日の祝賀が行われていたことが『御湯殿上日記』などの記述にみられます。また室町幕府の将軍が毎月の誕生日に祈祷をする儀式を行ったことや、織田信長が毎月の誕生日に参拝を行うよう求めたことが記録にあります。江戸幕府将軍の誕生日にも群臣に餅や酒などの下賜が行われる儀礼があり、徳川家光の頃に整備されたとみられています。また将軍の子、生母、大御所の誕生日を祝った記録もあります。家光・吉宗の時代には徳川家康の誕生日を祝う儀礼も行われました。また公家や大名、一般武士でも誕生日祝の儀礼はみられます。公家や大名が当主本人の祝賀を行うのに対して、一般武士は子女、特に長男の誕生日を祝う記録がたくさんあります。また一般庶民でも地域によっては誕生日を毎年祝う風習がありました。1865(慶応元)年には長崎において天皇と将軍の誕生日が祝日とされ、一般においても君主の誕生日が祝われることの始まりとなりました。
 このように個人の誕生日を祝うことも行われていたのですが、それよりずっと前から、日本には、ある伝統的な「誕生日」の風習があります。それが、七五三です。七五三が行われるようになったのは、室町時代頃といわれています。
 当時は、現在ほど医学が発達しておらず、栄養も乏しかったため、乳幼児のうちに亡くなってしまう子どもは少なくありませんでした。そこで、七五三の歳まで無事に育ったことへの感謝を込めて、また、幼い子どもから少年・少女へと成長するひとつの節目を祝う意味を込めて、神様に祈りを捧げるようになったことが、七五三のはじまりです。
 七五三では、男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳にお宮参りをすることがしきたりとなっています。それぞれの年齢には、次のような意味があるのです。
3歳の髪置・・・男の子も女の子も髪を伸ばしはじめる時期
5歳の袴着・・・男の子が大人の男性の衣服である袴を初めてつける時期
7歳の帯解・・・女の子が着物に帯を使いはじめ、大人の女性に近づく時期
 つまり、日本においては誕生日は認識はされていましたが、現在の満年齢方式ではなく数え年方式が取られていたため、生まれた日が年齢を加算する日ではなく、正月に全員が一斉に歳を取ったのです。このため古代日本の戸籍制度では、生年月日の記録などは行われていなかったのです。
 明治時代における戸籍の導入以降、出生届の段階で生年月日が記録され、住民票や運転免許証などの公文書にも記載されるため、自分の誕生日(生年月日)や年齢を認識できる人は多くなりました。

 なぜ正月で歳を取ったのか?
 数え年は「なぜ正月に年を取った」のでしょうか。実は理由はさまざまあり、公的制度や地域行事での処理を簡便化させるためや、太陰太陽暦という暦法による問題のためなどが挙げられています。
 正月を迎えると「おめでとうございます」と挨拶します。いったい正月の何がめでたいのでしょうか。それは「年を取ること」がめでたいのです。東洋では長生きをすることがめでたいこととされましたから、正月が来る度に皆が一斉に年を取ることが「めでたかった」のです。人々に新しい年齢と、一年を生き抜く生命力や幸運を与えてくれる神様である「歳神様」がやって来るのが正月で、古くから日本人は歳神様を盛大に招き、もてなしてきました。
 12月13日の鬼宿日に正月の準備を始めました。古くは門松に使う松や雑煮の調理に使う薪を取りに行き、すす払いを始めたのです。身の回りの汚れを落とし、すがすがしい気持ちで正月を迎え旧年中の災厄を払い、嫌なことを忘れるという「年忘れ」を行いました。「大祓」を行い、「除夜の鐘」を聞いて煩悩を追い払います。邪気を払い、年越蕎麦を食べて、前年の出来事を清算するのです。その後元日に歳神様をお迎えするために、家長が氏神様を祭った神社に籠もって氏神様がやって来るのを待つのが古くからの習わしでした。歳神様をお送りした後、お供えから下ろされた食べ物は、神様から頂いたものとされ、特に米を使った鏡餅は、神様の力が宿るものとされました。これ以外にも、秋に取れた新米は、9月の神嘗祭にまず神様に供えました。私たち人間は、まず11月の新嘗祭で食べて、年末に搗いたお餅で雑煮を食べます。さらに七草粥や小正月の小豆粥で食べます。収穫した稲米のパワーを何度にも分けて体に取り込むのです。それらを集大成して、いよいよ年を取り、新たな自分に生まれ変わるのが「正月」だったのです。一つ年を取るために頂くのが、「お年玉」でした。したがってお年玉は金銭のお小遣いなどではなく、一つ歳を重ねるためのパワーを養う、お供え餅を中心にした「稲米」のパワーのことだったのです。

 正月の意味
 正月とは、基本的には「リセットの時」ということになります。旧年の出来事は一度全部なしにして新しい「芽」の出たことを祝うのです。元旦は、誰もが歳を加える誕生日ですから、家族全員が故郷に帰って、新年の挨拶をします。それが「お芽出とう」なのです。そのとき、年長者から人生相談をしてもらい、供物から下ろされた鏡餅を初めとした稲米に秘められた新年の魂を「お年玉」として頂き、これからの1年をリセットして、大切に生きてゆくのです。それが正月の意味だったのです。正月に行われる行事も、子供達の遊びも、皆そこに起源があるのです。

 数え年の意味
 現在は法律でも満年齢が使われると定めています。しかし数え年が全く使われることがなくなったわけではありません。その代表が死亡時に享年あるいは行年です。享年とは「天から享けた歳の意味」で、「死んだ者がこの世に生きていた年数」であり「死んだときの年齢」なのです。行年は、基本的には「享年と同じ」なのですが、仏教では「修業した年数」や「浄土に行く年齢」を意味すると説かれることもあります。近年では、享年も行年も満年齢で墓石に彫られることも増えてきましたが、伝統的には数え年で刻まれてきました。その結果、死亡時の満年齢よりも1歳、場合によっては2歳多いことがあるのです。
 数え年が実年齢より1歳多くなることは単純です。生後1年経たなくても、正月を迎えると年を取るからです。そうする理由としては、母の胎内にいた十月十日も勘定に入れると言われています。母の胎内にいた1年間を数えるというのは、ただ1歳年を取っているというだけではなく、人としての「命」を大切にした数え方とも言えます。「命」の考え方、「人の人生」についての考え方が違うとも言えます。
 しかし2歳多くなるのはことがあるというのはどういうことでしょうか。それは誕生日の前に死亡した場合、誕生日を迎えたと見なして、数え年にさらに1歳加えるからです。仏教や儒教では長寿を尊ぶ習慣があり、数の多いことを良しとした結果と言えます。

どちらで祝うのが正しいか
 数え年と満年齢の違いは理解できたでしょうが、人生儀礼や長寿の祝いなどには、どちらの年齢を用いるべきなのでしょうか。
 七五三や成人式などの人生儀礼や長寿祝いは、習わしからすると、本来は数え年で祝うものといえますが、現在では満年齢を用いることが多いので迷ったならば満年齢を選択しましょう。ただし、還暦を祝う際は注意しましょう。還暦の場合、満年齢であれば60歳で大丈夫ですが、数え年の場合は61歳で祝うからです。

執筆日 2024年6月(水無月)3日(月)        (June10th Monday・卯月27日)