芥川龍之介 桃太郎を読む


 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢の頃おい、伊弉諾の尊みことは黄最津平阪に八つの雷を却りぞけるため、桃の実を礫てに打ったという、――その神代の桃の実はこの木の枝になっていたのである。
 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅の衣蓋に黄金の流蘇を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核のあるところに美しい赤児を一人ずつ、おのずから孕んでいたことである。
 むかし、むかし、大むかし、この木は山谷にを掩った枝に、累々と実を綴ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄み落した。実は雲霧の立ち昇る中に遥か下の谷川へ落ちた。谷川は勿論もちろん峯々の間に白い水煙をなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
 この赤児を孕はらんだ実は深い山の奥を離れた後のち、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお婆さんが一人、日本中の子供の知っている通り、柴刈りに行ったお爺さんの着物か何かを洗っていたのである。……


 桃から生れた桃太郎は鬼が島の征伐を思い立った。思い立った訣はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白ものに愛想をつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさに旗とか太刀とか陣羽織とか、出陣の支度に入用のものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧には、これも桃太郎の註文通り、黍団子さえこしらえてやったのである。
 桃太郎は意気揚々と鬼が島征伐の途に上った。すると大きい野良犬が一匹、饑えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一の黍団子だ。」
 桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪しかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴ともしましょう。」
 桃太郎は咄嗟に算盤を取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
 犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴をすることになった。
 桃太郎はその後犬のほかにも、やはり黍団子の半分を餌食に、猿や雉を家来にした。しかし彼等は残念ながら、あまり仲の好い間がらではない。丈夫な牙を持った犬は意気地のない猿を莫迦にする。黍団子の勘定に素早い猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の鈍い犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
 その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱え出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠えたけりながら、いきなり猿を噛み殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹かにの仇打ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心させたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の扇を使い使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物は一つも分けてやらないぞ。」
 欲の深い猿は円い眼をした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出の小槌という宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる訣ですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
 桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の途を急いだ。


 鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訣ではない。実は椰子の聳えたり、極楽鳥の囀えずったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を享けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽的に出来上った種族らしい。瘤取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師はの話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、物詣での姫君に見とれていたらしい。なるほど大江山の酒顛童子や羅生門の茨木童子は稀代の悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路を愛する余り、時々そっと羅生門へ姿を露わしたのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋に酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人を奪って行ったというのは――真偽はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光や四天王はいずれも多少気違いじみた女性崇拝家ではなかったであろうか?
 鬼は熱帯的風景の中うちに琴を弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗る安穏に暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も機を織ったり、酒を醸したり、蘭の花束を拵えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙の脱けた鬼の母はいつも孫の守もりをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角の生はえない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ好いのだがね。男でも女でも同じように、譃はいうし、欲は深いし、焼餅は焼くし、己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」


 桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒を忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々と聳えた椰子の間を右往左往に逃げ惑まどった。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
 桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣いままにした。……
 あらゆる罪悪の行われた後、とうとう鬼の酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日のように、極楽鳥の囀えずる楽土ではない。椰子の林は至るところに鬼の死骸を撒き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来を従えたまま、平蜘蛛のようになった鬼の酋長へ厳かにこういい渡した。
「では格別の憐愍により、貴様たちの命は赦してやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
 鬼の酋長はもう一度額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明かし下さる訣には参りますまいか?」
 桃太郎は悠然と頷ずいた。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱かかえた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
 鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後うしろへ飛び下さがると、いよいよまた丁寧にお時儀をした。


 日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋した。――これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣わけではない。鬼の子供は一人前になると番人の雉を噛かみ殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。桃太郎はこういう重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。」
 犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜しそうにいつも唸ったものである。
 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫やかせながら。……


 人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日もなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……
                                     (大正十三年六月)

1.芥川と童話
 芥川龍之介は、鈴木三重吉が主宰する「赤い鳥」という童話雑誌に参加していた。「赤い鳥」の標榜語は、「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純正を保全開発する」を理念にしていた。芥川も賛同していたとみられ、意外に思われるかもしれないが、子供の読みものに関しても深い関心を持っている作家であった。自殺の直前まで自身の童話集『三つの宝』の出版を計画していて、彼の没後に刊行されている。
 なお、桃太郎がお供にした犬、猿、雉には、それぞれ意味があるといわれている。犬は「忠義」、猿は「知恵」、雉は「勇気」を象徴しているとされる。これを結集して、桃太郎は鬼退治をやり遂げるのである。これらの動物が、桃太郎の冒険を支え、鬼退治の物語をより魅力的にしているのである。つまり
犬(忠義): 桃太郎の忠実な仲間として、困難を乗り越えるための力となる。
猿(知恵): 賢くて機転が利く動物として、知恵と戦略で困難を打開する。
雉(勇気): 勇敢で果敢な動物として、困難に立ち向かう勇気を表す。
 また、十二支の方角と結びつけて、鬼門に対抗するとされている。これは、陰陽道の考え方が関わっているのである。鬼門と反対の方角が南西(申・酉・戌)であり、鬼を退治するお供の動物として犬、猿、雉が選ばれたのである。

2.小学校唱歌「桃太郎」の歌詞
 童話「桃太郎」は、犬・猿・雉を従えて鬼ヶ島の鬼を征伐した勇敢な少年というように、桃太郎の鬼退治を肯定的に捉える人が多いだろう。
 童謡「桃太郎」は、「桃太郎さん、桃太郎さん~~♪」で始まる唱歌である。その歌詞は次の通りである。
  一、桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた 黍団子 一つわたしに 下さいな
  二、やりましょう やりましょう これから鬼の 征伐に ついて行くなら やりましょう
  三、行きましょう 行きましょう あなたについて 何処までも 家来になって 行きましょう
  四、そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ 鬼が島
  五、おもしろい おもしろい のこらず鬼を 攻めふせて 分捕物を えんやらや
  六、ばんばんざい ばんばんざい お伴の犬や 猿 雉は 勇んで車を えんやらや
 三番までは、誰もが慣れ親しんでいる歌詞で、まさに鬼退治が肯定的に捕らえられている。しかし、四番以降の歌詞については知らない人が多く、違和感を感じるのではないだろうか。驚く人も少なくないのではないだろうか。
 学校では三番までしか歌われなくなったのは、鬼退治の英雄としての桃太郎のそぐわなかったからであろう。

3.神話と桃
 桃太郎では、おばあさんが川に洗濯に行ったときに桃が流されてくるわけだが、芥川はこの桃がもともとどこにあったかということから書き起こしている。
 「むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢の頃おい、伊弉諾の尊は黄最津平阪に八つの雷を却けるため、桃の実を礫に打ったという、――その神代の桃の実はこの木の枝になっていたのである。」というわけである。
 この桃の木に生った桃が赤ん坊を孕む桃で、このうちの一つが八咫烏につつかれて人間の国の谷川へと流れてきたのだというのである。
 日本の古代神話の内容と関連を持っている。「古事記」の冒頭の有名な下りである。それを鈴木三重吉が「古事記物語」にわかりやすくまとめている。それを参照して、「桃の木」の意味を考えてみよう。

「古事記物語」    鈴木三重吉
  女神の死
       一
 世界ができたそもそものはじめ。まず天と地とができあがりますと、それといっしょにわれわれ日本人のいちばんご先祖の、天御中主神とおっしゃる神さまが、天の上の高天原というところへお生まれになりました。そのつぎには高皇産霊神、神産霊神のお二方がお生まれになりました。
 そのときには、天も地もまだしっかり固まりきらないで、両方とも、ただ油を浮かしたように、とろとろになって、くらげのように、ふわりふわりと浮かんでおりました。その中へ、ちょうどあしの芽がはえ出るように、二人の神さまがお生まれになりました。
 それからまたお二人、そのつぎには男神女神とお二人ずつ、八人の神さまが、つぎつぎにお生まれになった後に、伊弉諾神と伊弉冉神とおっしゃる男神女神がお生まれになりました。
 天御中主神はこのお二方の神さまをお召しになって、
「あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」
とおっしゃって、りっぱな矛を一ふりお授けになりました。
 それでお二人は、さっそく、天の浮橋という、雲の中に浮かんでいる橋の上へお出ましになって、いただいた矛でもって、下のとろとろしているところをかきまわして、さっとお引きあげになりますと、その矛の刃先についた潮水が、ぽたぽたと下へおちて、それが固まって一つの小さな島になりました。
 お二人はその島へおりていらしって、そこへ御殿をたててお住まいになりました。そして、まずいちばんさきに淡路島をおこしらえになり、それから伊予、讃岐、阿波、土佐とつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐の島、それから、そのじぶん筑紫といった今の九州と、壱岐、対島、佐渡の三つの島をお作りになりました。そして、いちばんしまいに、とかげの形をした、いちばん大きな本州をおこしらえになって、それに大日本豊秋津島というお名まえをおつけになりました。
 これで、淡路の島からかぞえて、すっかりで八つの島ができました。ですからいちばんはじめには、日本のことを、大八島国と呼び、またの名を豊葦原水穂国とも称えていました。
 こうして、いよいよ国ができあがったので、お二人は、こんどはおおぜいの神さまをお生みになりました。それといっしょに、風の神や、海の神や、山の神や、野の神、川の神、火の神をもお生みになりました。ところがおいたわしいことには、伊弉冉神は、そのおしまいの火の神をお生みになるときに、おからだにおやけどをなすって、そのためにとうとうおかくれになりました。
 伊弉諾神は、
「ああ、わが妻の神よ、あの一人の子ゆえに、大事なおまえをなくするとは」とおっしゃって、それはそれはたいそうお嘆きになりました。そして、お涙のうちに、やっと、女神のおなきがらを、出雲の国と伯耆の国とのさかいにある比婆の山にお葬りになりました。
 女神は、そこから、黄泉の国という、死んだ人の行くまっくらな国へたっておしまいになりました。 
 伊弉諾神は、そのあとで、さっそく十拳の剣という長い剣を引きぬいて、女神の災のもとになった火の神を、一うちに斬殺してしまいになりました。
 しかし、神のおくやしみは、そんなことではお癒えになるはずもありませんでした。神は、どうかしてもう一度、女神に会いたくおぼしめして、とうとうそのあとを追って、まっくらな黄泉の国までお出かけになりました。

       二
 女神はむろん、もうとっくに、黄泉の神の御殿に着いていらっしゃいました。
 すると、そこへ、夫の神が、はるばるたずねておいでになったので、女神は急いで戸口へお出迎えになりました。
 伊弉諾神は、まっくらな中から、女神をお呼びかけになって、
「いとしきわが妻の女神よ。おまえといっしょに作る国が、まだできあがらないでいる。どうぞもう一度帰ってくれ」とおっしゃいました。すると女神は、残念そうに、
「それならば、もっと早く迎えにいらしってくださいませばよいものを。私はもはや、この国のけがれた火で炊いたものを食べましたから、もう二度とあちらへ帰ることはできますまい。しかし、せっかくおいでくださいましたのですから、ともかくいちおう黄泉の神たちに相談をしてみましょう。どうぞその間は、どんなことがありましても、けっして私の姿をご覧にならないでくださいましな。後生でございますから」と、女神はかたくそう申しあげておいて、御殿の奥へおはいりになりました。
 伊弉諾神は永い間戸口にじっと待っていらっしゃいました。しかし、女神は、それなり、いつまでたっても出ていらっしゃいません。伊弉諾神(いざなぎのかみ)はしまいには、もう待ちどおしくてたまらなくなって、とうとう、左のびんのくしをおぬきになり、その片(かた)はしの、大歯を一本欠き取って、それへ火をともして、わずかにやみの中をてらしながら、足さぐりに、御殿の中深くはいっておいでになりました。
 そうすると、御殿のいちばん奥に、女神は寝ていらっしゃいました。そのお姿をあかりでご覧になりますと、おからだじゅうは、もうすっかりべとべとに腐りくずれていて、臭い臭いいやなにおいが、ぷんぷん鼻へきました。そして、そのべとべとに腐ったからだじゅうには、うじがうようよとたかっておりました。それから、頭と、胸と、お腹と、両ももと、両手両足のところには、そのけがれから生まれた雷神が一人ずつ、すべてで八人で、怖ろしい顔をしてうずくまっておりました。
 伊弉諾神は、そのありさまをご覧になると、びっくりなすって、怖ろしさのあまりに、急いで遁げ出しておしまいになりました。
 女神はむっくりと起きあがって、
「おや、あれほどお止め申しておいたのに、とうとう私のこの姿をご覧になりましたね。まあ、なんという憎いお方でしょう。人にひどい恥をおかかせになった。ああ、くやしい」と、それはそれはひどくお怒りになって、さっそく女の悪鬼たちを呼んで、
「さあ、早く、あの神をつかまえておいで」と歯がみをしながらお言いつけになりました。
 女の悪鬼たちは、
「おのれ、待て」と言いながら、どんどん追っかけて行きました。
 伊弉諾神は、その鬼どもにつかまってはたいへんだとおぼしめして、走りながら髪の飾りにさしてある黒いかつらの葉を抜き取っては、どんどんうしろへお投げつけになりました。
 そうすると、見る見るうちに、そのかつらの葉の落ちたところへ、ぶどうの実がふさふさとなりました。女鬼どもは、いきなりそのぶどうを取って食べはじめました。
 神はその間に、いっしょうけんめいにかけだして、やっと少しばかり遁げのびたとお思いになりますと、女鬼どもは、まもなく、またじきうしろまで追いつめて来ました。
 神は、
「おや、これはいけない」とお思いになって、こんどは、右のびんのくしをぬいて、その歯をひっ欠いては投げつけ、ひっ欠いては投げつけなさいました。そうすると、そのくしの歯が片はしからたけのこになってゆきました。
 女鬼たちは、そのたけのこを見ると、またさっそく引き抜いて、もぐもぐ食べだしました。
 伊弉諾神は、そのすきをねらって、こんどこそは、だいぶ向こうまでお遁げになりました。そしてもうこれならだいじょうぶだろうとおぼしめして、ひょいとうしろをふりむいてご覧になりますと、意外にも、こんどはさっきの女神のまわりにいた八人の雷人どもが、千五百人の鬼の軍勢をひきつれて、死にものぐるいでおっかけて来るではありませんか。
 神はそれをご覧になると、あわてて十拳の剣を抜きはなして、それでもってうしろをぐんぐん切りまわしながら、それこそいっしょうけんめいにお遁げになりました。そして、ようよう、この世界と黄泉の国との境になっている、黄泉比良坂という坂の下まで遁げのびていらっしゃいました。

       三
 すると、その坂の下には、ももの木が一本ありました。
 神はそのももの実を三つ取って、鬼どもが近づいて来るのを待ち受けていらしって、その三つのももを力いっぱいお投げつけになりました。そうすると、雷神たちはびっくりして、みんなちりぢりばらばらに遁げてしまいました。
 神はそのももに向かって、
「おまえは、これから先も、日本じゅうの者がだれでも苦しい目に会っているときには、今わしを助けてくれたとおりに、みんな助けてやってくれ」とおっしゃって、わざわざ大神実命というお名まえをおやりになりました。
 そこへ、女神は、とうとうじれったくおぼしめして、こんどはご自分で追っかけていらっしゃいました。神はそれをご覧になると、急いでそこにあった大きな大岩をひっかかえていらしって、それを押しつけて、坂の口をふさいでおしまいになりました。
 女神は、その岩にさえぎられて、それより先へは一足も踏み出すことができないものですから、恨めしそうに岩をにらみつけながら、
「わが夫の神よ、それではこのしかえしに、日本じゅうの人を一日に千人ずつ絞め殺してゆきますから、そう思っていらっしゃいまし」とおっしゃいました。神は、
「わが妻の神よ、おまえがそんなひどいことをするなら、わしは日本じゅうに一日に千五百人の子供を生ませるから、いっこうかまわない」とおっしゃって、そのまま、どんどんこちらへお帰りになりました。
 神は、
「ああ、きたないところへ行った。急いでからだを洗ってけがれを払おう」とおっしゃって、日向の国の阿波岐原というところへお出かけになりました。
 そこにはきれいな川が流れていました。
 神はその川の岸へつえをお投げすてになり、それからお帯やお下ばかまや、お上衣や、お冠や、右左のお腕にはまった腕輪などを、すっかりお取りはずしになりました。そうすると、それだけの物を一つ一つお取りになるたんびに、ひょいひょいと一人ずつ、すべてで十二人の神さまがお生まれになりました。
 神は、川の流れをご覧になりながら、

  上の瀬は瀬が早い、
  下の瀬は瀬が弱い。

とおっしゃって、ちょうどいいころあいの、中ほどの瀬におおりになり、水をかぶって、おからだじゅうをお洗いになりました。すると、おからだについたけがれのために、二人の禍の神が生まれました。それで伊弉諾神は、その神がつくりだす禍をおとりになるために、こんどは三人のよい神さまをお生みになりました。
 それから水の底へもぐって、おからだをお清めになるときに、また二人の神さまがお生まれになり、そのつぎに、水の中にこごんでお洗いになるときにもお二人、それから水の上へ出ておすすぎになるときにもお二人の神さまがお生まれになりました。そしてしまいに、左の目をお洗いになると、それといっしょに、それはそれは美しい、貴い女神がお生まれになりました。
 伊弉諾神は、この女神さまに天照大神というお名前をおつけになりました。そのつぎに右のお目をお洗いになりますと、月読命という神さまがお生まれになり、いちばんしまいにお鼻をお洗いになるときに、建速須佐之男命という神さまがお生まれになりました。
 伊弉諾神はこのお三方をご覧になって、
「わしもこれまでいくたりも子供を生んだが、とうとうしまいに、一等よい子供を生んだ」と、それはそれは大喜びををなさいまして、さっそく玉の首飾りをおはずしになって、それをさらさらとゆり鳴らしながら、天照大神におあげになりました。そして、
「おまえは天へのぼって高天原を治めよ」とおっしゃいました。それから月読命には、
「おまえは夜の国を治めよ」とお言いつけになり、三ばんめの須佐之男命には、
「おまえは大海の上を治めよ」とお言いわたしになりました。

4.既存のイメージを覆す設定
 桃太郎の鬼ヶ島征伐の目的は童話ではあまり明確に語られない。「鬼は悪い奴に決まっている。それを倒そうとする桃太郎は善人に決まっている」と疑問を感じずに聞いたり読んだりしているのが普通だ。芥川の小説「桃太郎」にはそんな人々のイメージを壊す様々な設定が仕掛けられている。桃太郎が鬼ヶ島へ征伐に行く目的は、「お爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。」とされ、「老人夫婦は内心この腕白ものに愛想をつかしていた」と説明されている。つまり、桃太郎は勇敢な正義の英雄とはかけ離れている。
 犬・猿・雉に黍団子をあげて仲間にする場面にも様々な設定がちりばめられている。たとえば、犬を仲間にする場面は、
「桃太郎は意気揚々と鬼が島征伐の途に上った。すると大きい野良犬が一匹、饑えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
『桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?』
『これは日本一の黍団子だ。』
桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪しかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
『一つ下さい。お伴しましょう。』
桃太郎は咄嗟に算盤を取った。
『一つはやられぬ。半分やろう。』
犬はしばらく強情に、『一つ下さい』を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても『半分やろう』を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴をすることになった。」
といった具合なのである。
 ここで重要なのは、桃太郎が黍団子という餌で犬を家来にしたことの意味についてである。「あらゆる商売のように」という部分から明らかなように、桃太郎と犬の関係は雇用主と被用者の関係となっている。雇用主である桃太郎は、いかに安い報酬で犬を使用するかを考え、自分でも日本一かどうか怪しい黍団子を日本一と持ち上げて「一つはやられぬ。半分やろう。」と言う。それでも「一つ下さい」を繰り返す犬も結局半分の黍団子で労働力を提供することになってしまう。「所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかり」という言葉からも分かる通り、労働力を不当に安く買いたたく社会への風刺になっていると言えるだろう。ここには、悪徳商人に近いイメージの桃太郎と、忠義の象徴とはほど遠い「犬」が描写されているのである。
 他の童話からの設定の引用も、この小説の読みどころの一つおちえる。犬が猿を噛み殺そうとし、「もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹の仇打ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。」と書かれているのは、「猿蟹合戦」からの引用である。また鬼ヶ島に「打出の小槌という宝物さえある」というのは「一寸法師」を連想させる。このほかにも鬼についての説明の中で「瘤取り爺さん」の話、大江山の「酒呑童子」の話、「羅生門の茨木童子」の話が持ち出されている。それぞれの物語の内容を検討し、ここで引用されている意味も深読みできるかもしれない。「宇治拾遺物語」や「御伽草子」の原文(または現代語訳)を参考にしても、関連が読み取れるかもしれない。
《参考》
「猿蟹合戦」のあらすじ
 蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿が、拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、「おにぎりは食べてしまえばそれっきりだが、柿の種を植えれば成長して柿がたくさんなりずっと得する」と猿が言ったので、蟹はおにぎりと柿の種を交換した。
 蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えた。種が成長して柿がたくさんなると、そこへやって来た猿は、木に登れない蟹の代わりに自分が採ってやると言う。しかし、猿は木に登ったまま自分ばかりが柿の実を食べ、蟹が催促すると、まだ熟していない青くて硬い柿の実を蟹に執拗に投げつけた。硬い柿をぶつけられた蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。
 カンカンに怒った子蟹達は親の敵を討つために、猿の意地悪に困っていた栗と臼と蜂と牛糞を家に呼び寄せて敵討ちを計画する。猿の留守中に家へ忍び寄り、栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると、熱々に焼けた栗が体当たりをして猿は火傷を負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと今度は蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとした際に、出入口で待っていた牛の糞に滑り転倒する。最後に屋根から落ちてきた臼に潰されて猿は死に、子蟹達は見事に親の敵を討ったのだった。
というものであった。

「一寸法師」のあらすじ
・現在一般に知られている一寸法師のあらすじは、以下のようなものである。
 子供のない老夫婦が子供を恵んでくださるよう住吉の神に祈ると、老婆に子供ができた。しかし、産まれた子供は身長が一寸(現代のメートル法で3cm)しかなく、何年たっても大きくなることはなかった。子供は一寸法師と名づけられた。
 ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいと言い、(実はおじいさんとおばあさんの話を聞いてしまったという説もある)お椀を船に、箸を櫂(かい)にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘(さや)の代わりに持って旅に出た[1]。京で大きな立派な屋敷を見つけ、そこで働かせてもらうことにした。その家の娘と宮参りの旅をしている時、(一寸法師の米を姫の口につけるという策略で姫が追い出されたという説もある)鬼が娘をさらいに来た。(ある不気味な島についたという説もある。)一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込んだ。一寸法師は鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまった。(一寸法師が口に入れられ、口をふさいでいても目から出てきてしまい、参ったという説もある。)
 一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)になり、娘と結婚した。御飯と、金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたという。(生まれた子供は3人という説もある。)
・御伽草子に掲載されたものは、よく知られている話とは少し異なっている。
・老夫婦が、一寸法師が全く大きくならないので化け物ではないかと気味悪く思っていた。そこで、一寸 法師は自分から家を出ることにした。
・京で一寸法師が住んだのは宰相殿の家
・一寸法師は宰相殿の娘に一目惚れし、妻にしたいと思った。しかし小さな体ではそれは叶わないという ことで一計を案じた。神棚から供えてあった米粒を持ってきて、寝ている娘の口につけ、自分は空の茶 袋を持って泣き真似をした。それを見た宰相殿に、自分が貯えていた米を娘が奪ったのだと嘘をつき、 宰相殿はそれを信じて娘を殺そうとした。一寸法師はその場を取り成し、娘とともに家を出た。
・二人が乗った船は風に乗って薄気味悪い島に着いた。そこで鬼に出会い、鬼は一寸法師を飲み込んだ。 しかし一寸法師は体の小ささを生かして、鬼の目から体の外に出てしまう。それを何度か繰り返してい るうちに、鬼はすっかり一寸法師を恐れ、持っていた打出の小槌を置いて去ってしまった。
・一寸法師の噂は世間に広まり、宮中に呼ばれた。帝は一寸法師の両親である老夫婦が、両者ともに帝に 所縁のあった無実の罪で流罪となった貴族の遺児だと判明したこともあって一寸法師を気に入り、中納 言まで出世した。

「瘤取り爺さん」のあらすじ
 巖谷小波が編纂した「瘤取り」の昭和初期の刊行を底本とすると、次のような粗筋となる。ただし、話のバリエーションはさまざまある。

 ある爺さんが、右の頬に瘤ができて邪魔に思っていたが、医者に診せた甲斐もなく肥大するばかりだった。ある日、山に柴刈りに出たが、夕立に遭ってしまった。木のうろで雨宿り中、大勢の足音がして、他の樵夫たちかと安堵するが、それは恐ろしい鬼共だった。
 鬼共は酒盛りを始め、その頭が、手下の踊りを順に鑑賞したが、もっと面白い舞はできぬものかとぼやく。老人は、鬼の囃子が面白いこともあり、つられて出てきて自分の舞を披露した。鬼たちは、踊りが大そう気に入り、また次の日も戻って舞えと所望し、約束をたがえぬようなにかを「かた」(質)に取ると言い出し、頬のたんこぶを捻り取った。
 この話を聞いた左の頬に瘤がある爺さんは、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ、同じ木のうろで待っていると、日暮れごろに鬼が宴会をはじめ、特に頭の大鬼が待ち焦がれる様子だった。そこで隣の爺さんが姿を現したが、踊りの心得もなく、扇を片手に出鱈目で下手な踊りを披露したので鬼は興ざめてしまい、瘤は返すから立ち去れ、と追い払った。
 こちらの翁は瘤を取ってもらえないばかりか、瘤二つヒョウタンのようになり、ほうほうのていで逃げ帰った。

「酒呑童子」のあらすじ
 「酒呑童子」には、諸本あり、大別すると2種類になる。童子の住処を丹波国大江山とする「大江山系」と、それを近江国伊吹山とする「伊吹山系」に分かれるとされる。ただこの分類法には異論・慎重論もある。
「大江山絵詞」(大江山絵巻)によるあらすじは次のとおりである。
 一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた(あるいは正歴元年(990年)に源頼光に勅宣を出した)。頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼む。酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をする。なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて以来、そこには居られなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなど身の上話を語った。頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」(神便鬼毒酒)という毒酒を振る舞い、笈に背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて首をはねた。生首はなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた。一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院の宝蔵に納められた。
御伽草子版のあらすじ
 京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、討伐に向かった。
 この稿本では、武者たちみずから戦術を練り、山伏姿に扮することも考案し、甲冑・武器(ここではそれらの名前が挙げられる)を笈に隠すことにする。また、一行がまず出会って鬼共の内部事情を教わる洗濯女は、ここでは老婆でなく年齢17、8の女性で、花園の中納言の一人娘である。
 一行は山伏(修行僧)と偽って酒呑童子の饗応を受け、童子は自分の身の上を語りだす。ここでは童子は「本国は越後の者」と明かし、比叡山にいたが伝教大師(既出。最澄)によってそこを追われ、この峰(大江山)に住んだが、今度は弘法大師に追放された。しかし空海が高野山で亡くなった後、舞戻ってきた、と語りだす。
 頼光らは、さらに姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、神よりもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いた。
 酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

「茨木童子」のあらすじ
 茨木童子は、平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子の最も重要な家来であった。
 出生地には、摂津国(大阪府茨木市水尾、または兵庫県尼崎市富松)という説と、越後国(新潟県長岡市の軽井沢集落)という説がある。生まれた頃から歯が生え揃っていた、巨体であったなど周囲から恐れられ、鬼と化した後は酒呑童子と出会い舎弟となり、共に京を目指した。
 酒呑童子一味は大江山(丹波国にあったとされるが、現在の京都市と亀岡市の境にある大枝山という説もある)を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武))によって滅ぼされ、茨木童子はその時逃げ延びたとされる。
 その後、頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦った故事が、後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれているが、そのため本来は別々の鬼である羅城門の鬼と茨木童子がしばしば同一視されている。

5.現代につながるメッセージ性
 小説「桃太郎」では、鬼たちは熱帯的風景の広がる孤島で平和を愛し、踊りを踊ったり詩を歌ったりして生活している。そして、人間は恐ろしいものだと孫に話して聞かせている。そんな中、桃太郎が侵略してきて乱暴狼藉の限りを尽くして「あらゆる罪悪の行われた後、とうとう鬼の酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参」する。
 その時の様子は次のように記されている。
「『では格別の憐愍により、貴様たちの命は赦してやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。』
『はい、献上致します。』
『なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。』
『それも承知致しました。』
鬼の酋長はもう一度額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
『わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明かし下さる訣には参りますまいか?』」
 無論、鬼ヶ島征伐の大義など最初からないのである。だから、桃太郎は明瞭な回答を与えることができない。であるから、やがて生き残った鬼たちは桃太郎への復讐を考えるようになる。
 寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら、である。
 鬼ヶ島をこのように変えたものは、はたして何だったのか。大正時代に書かれた小説であるが、今なお重要な示唆を与えてくれる作品である。