【目次】はじめに
1.「あいさつ」について
2.「あいさつ」と漢字で書けますか?
3.もともとの「挨拶」の意味
4.登山家から学ぶこと
はじめに
皆さん、こんにちは、かばらルームです。
※ 「かばらルーム」というのは、本校の特別支援教室のことです。固定の特別支援学級とは別で、在籍は普通学級です。不登校ではなく、知的にも問題のない生徒が対象です。数名の生徒が、週に一度か二度ずつ、授業時間中に通ってきています。
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。在校生の皆さん、進級おめでとうございます。新たな蒲原中での生活が始まりました。充実した良い一年になるようにがんばりましょう。
「かばらルーム」もそうなるためのお手伝いを、少しばかりしていきたいと思っています。「かばらルーム」は、特別支援支援教室といいます。皆さんの中で、苦手で困っていることがあった場合に、特別な時間を作って、練習したり、応援応援したりする教室です。誰でも人には得意不得意があります。なかでも学校生活で困ることは、
(1) 人と話をすることが苦手で、なかなか言葉が出てこない人。
(2) 机の中や鞄鞄の中を整理することができず、なくしてしまう物が多い人。
(3) 提出期限が過ぎてしまったり、宿題や提出物をすぐに忘れてしまう人。
(4) 話好きで、ついつい授業中にも、先生の話を聞かずに友達に話しかけてしまう人。
(5) 友だちづきあいがうまく行かない人。
といったことです。こうしたことを直そうと思いつつもなかなか直すことができず、友達に迷惑迷惑をかけてしまったり、自分の将来を考えて、このままでは不味不味いと思った場合に、それを直すのを手伝うのが、特別支援室です。
ただし、この教室に通うには手続きが必要です。残念ながら、思いついた時に、いつでも、誰でもその場で通えるというわけではないのです。自分のこういうことを直したいということがあったら、まず担任の先生に相談して下さい。その相談のなかで、かばらルームに通ったらいいかどうかを話し合って、決めていきます。
1. 「あいさつ」について
新入生が入学してきて、在校生はそれぞれ上級学年に進級しました。新入生はもちろんですが、上級生も、新しいクラスがきまり、今まであまり交流がなかった新しい友達との出会いもあったのではないでしょうか。先生も変わり、もしかしたら新たに今年から蒲原中学校に赴任赴任していらっしゃった先生が担任になったかもしれません。新しい出会いがあればもちろんですが、なかったとしても「親しき仲にも礼儀礼儀あり」です。改めて、親しかった友達ともけじめを付けて、新たなスタートを切るべき時です。その時必要になるのが、「あいさつ」です。この「あいさつ」が苦手だという人は少なくないのではありませんか?いや、苦手でもいいのですが、ついつい黙黙ってしまって、結果的に仲間として打ち解けにくくなってしまったり、「またやってしまった」と後悔後悔したりするとしたら、そのままにしておかない方が良いのではないでしょうか。
しかし、「しろ、しろ」と問答無用問答無用に強制強制されると、まずますあいさつは重荷重荷になるばかりでしょう。そこで、あいさつが苦手苦手で「かばらルーム」に通ってくる人には、あいさつをする練習もしますが、それだけではなく、あいさつがどういうものか、あいさつをするとどういう良いことがあるのかといった、あいさつについていろいろなことを知ってもらうこともしていこうと思います。
2. 「あいさつ」を漢字で書けますか?
「あいさつ」を漢字で書けますか?正解は、「挨拶」です。ちょっと難しい漢字だと思いませんか?普通身近にあるものは、易易しい漢字で書かれます。「生きる」「食べる」「走る」「見る」といった具合具合です。それに対して、あまり身近でないものには難しい漢字が使われます。「損損害害賠賠償償」「躊躇躊躇する」「画画竜竜点点睛睛」などといった具合です。ここにはわかりやすくするため、画数画数の多い少ないを挙挙げましたが、実は画数の問題ではなく、身近な言葉は頻繁頻繁に使うので、見慣れて易しく感じ、そうでない言葉は親しみを感じないので難しく感じるのです。
では、挨拶にはなぜこんなに難しい漢字が使われているのでしょうか。それは、挨拶という言葉は漢語で、もともとの日本語にはない言葉だったからです。つまり、昔の日本人は、挨拶などしない民族だったということになります。
これはちょっと意外かもしれません。日本人は礼儀正しいことで知られ、今でもあいさつは大事だと子供の頃から厳厳しくしつけられているのですから。ついでに言うと、以前はハグやキスを気軽にして情交を確かめ合う、西洋風の挨拶を、「はしたないもの」と眉眉をひそめる向きもありましたが、最近は日本人の間にも徐々に受け入れられてきました。それが昨今の新型コロナウイルスの流行よって、ソーシャルディスタンスを保つ「お辞儀辞儀の文化」が再び見直されています。「室内で靴靴を脱脱ぐ文化」、「口に物を含んで食事中に喋喋る」などというのはもってのほかだということを初めとした、清潔感とけじめを重んじるのが日本古来からの伝統であるように思い込んでいたのですが、そうではなかったのでしょうか。
3.もともとの「挨拶」の意味
中国での「挨拶」のもともとの意味はどんなだったのでしょうか。「挨挨」も「拶拶」も、他に使われることはほとんどありません。「挨」は「お(す)」や「ひら(く)」と読み、「拶」は「せま(る)」と読むそうです。つまり、「挨拶」は、「相手を押して近づく」「相手を押し広げて、ギリギリまで近づく」といった意味になるようです。漢字の成り立ちから見ても、どちらも「手偏偏」の文字です。普通に考えると、挨拶は口や言葉が関係しそうなもので、言言偏や口偏が相応相応しいように思われます。そうでないのは、挨拶がもともとは、手でする合図や動作が関係していたからでしょうか。
実は、「挨拶」という言葉は、もともとは禅宗禅宗のお坊さん達の間で問答問答を繰り返すことを表す言葉だったそうです。お坊さん同士同士が出会った時に、相手がどれくらい禅禅の知識を持っているか、探探りを入れながら近づいていくことを挨拶と言ったそうです。つまり相手の気持ちや状態を、「見えない『手』で深く探る」ということだったために手偏の文字なのです。
これが一般の人々の間で使われるようになると、そうした深く細かい探り合いをするとは限らなくなります。むしろ気軽な合図合図程度のことが多くなったようです。一般の人は、そう遠出をすることもなく、いつも会っている人としかすれ違うことが少ない生活だからでしょう。修業で全国を渡り歩くこともあるようなお坊さんの、もともとは相手に対する必死の探り合いであったものが、だんだんと知っている人を見て軽く合図するだけになっていったのです。しかも、どんなことでもありふれたものになると、そうそう大切にはされなくなります。終終いには人が出会っても、挨拶などするもしないも勝手だとばかりに粗末粗末にしてしまうことさえ起こってきたのです。
4.登山家の挨拶から学ぶこと
ふつう挨拶は、顔見知りの間で交交わされます。同じ地域に住んでいたり、同じ学校や職場に通っている人々の間で交わされます。しかし、全く見ず知らずの人に挨拶をしても、本来は構構わないはずです。その場合でも、たいていの人は快快く返してくれるでしょう。しかし、中には驚きが先に立ってしまったり、酷酷い場合には馴馴れ馴れしいと不快感を表す人だっていないとは限りません。誰に挨拶して、誰にはしないかを自然に選んでいるという意味では、相手との距離距離を測る、相手の自分に対する気持ちを推推し量るという、「挨拶の本来」の意味が残っていると言えます。 昔は人口も少なく、村中の人全員が知り合いということもありましたが、現在では、町中で、全く見ず知らずの通りすがりの人に挨拶をする人はほとんどいないでしょう。
しかし、山歩きなどをしていると、全く見ず知らずの人同士が挨拶を交わすのは、当たり前です。登山家が見ず知らずの人と必ず挨拶を交わすのは、誰もが登山仲間であることを確認するためだという話を聞いたことがあります。登山中は、普通の町中にいるよりも危険がいっぱいです。熊や蛇蛇が出ることがあります。土砂崩土砂崩れや雪崩雪崩も起こりがちです。坂道で怪我怪我をすることもあります。ルートを離れてしまい、道に迷うこともあります。日没も早く、外灯外灯もない夜は本当に漆黒漆黒の闇で一寸先一寸先も見えません。携帯携帯だって圏外圏外です。そこで、ほんの一瞬一瞬のすれ違いであっても、お互いを思いやり、万が一遭難者遭難者が出た時には、どこで自分がすれ違ったかを鮮明鮮明にしておくために、まるで旧知の知り合いででもあるかのように挨拶を交わし合うというのです。後で、年齢年齢や人数、服装服装や行く先など少しでもたくさんのことを思い出しやすくするためです。ここにも、相手をよく知るという「挨拶」本来の意味が残っているのかもしれません。
実際には、街中街中で見ず知らずのすべての人に挨拶するというわけにはいきませんが、普段の慣れ親しんだ人であるからこそ、その挨拶には言葉遣遣い、声のトーンや表情など、様々にその人の「今」を知るための材料が詰詰まっています。禅宗のお坊さんのように、相手の力量を探るというほどではなくても、自然と相手の様子がわかります。声の調子や顔つきなどにも、そのときの心情が表れることがあります。「おや?」「いつもと違うぞ!」というのは、本人が申告申告しなくても、あるいはむしろ隠そうとしていたときこそ、伝わってしまうことがあるでしょう。親しければ親しいほど、相手のいつもとは違う異変に気づくことができます。それが非常に大切なこともあります。無言のSOSがでていることもあれば、嫌嫌なことがあってそっとしておいてほしい時もあるでしょう。
挨拶は大切だと言われていても、法律でしなくてはいけないことになっているわけではありません。するもしないもその人の自由です。それこそしたくない日もあるかもしれませんし、相手によっては、いつもしたくない人もいるのかもしれません。挨拶をどうするかは、その人の、そのときの自由です。決して強制されるものではありません。しかし、返ってそれだけに大切なもの、価値あるものなのではないでしょうか。そして挨拶本来の意義は、隠隠しようもなくそこに表れているのです。
次回は、普段よく使う挨拶にどんな意味が込められているのかを紹介します。
執筆日 2023年4月(卯月)10日(月) (Aprir10th・閏如月19日)