厄年

          【目次】はじめに

              1.厄年に災いに見舞われる根拠

              2.厄年には何をすれば良いのか

              3.厄年に起こること

              4.もともと「厄年」は「役年」だった

              5.経験値を超えて

はじめに

 厄年は、昔から、日本などで厄災が多く降りかかるとされる年齢のことを言ってきた。既に平安時代の書物には見られ、旧来から根強く信じられている風習だが、科学的な根拠は不確かである。陰陽道由来とされるているが、出典は曖昧である。
 厄年は数え年で、男性が前厄(23歳・41歳・60歳)、本厄(25歳・42歳・61歳)、後厄(26歳・43歳、62
歳)、女性が前厄(18歳・32歳・60歳)、本厄(19歳・33歳・61歳)、後厄(20歳・34歳、62歳)とされ ている。特に男性の42歳、女性の33歳は大厄と呼ばれ、凶事や災難に遭う率が非常に高く十分な警戒を要するとされる。この年齢前後での進学・就職・転職・昇進・退職・結婚・出産など、いろいろな人生の節目となる出来事が起こることも確かで、その影響で体調を崩したり、落ち着かなくなることもありがちなのは確かである。
 極端な話として、父親が42歳の時に数え歳2歳の男児は四二に二を加えると「四四(死死)」になることから、「四十二の二つ子」として親を食い殺すと迷信にされて忌み嫌われ、仮に一度捨てて他人に拾わせて育てるなどの風習があったとも言われているほどである。
 前厄というのは、厄の前兆が現れるとされる1年間で、後厄とは厄の恐れが薄らいでいく1年間のことである。本厄と同様に注意を要する年だとされる。本厄の年に「厄祓い」や「厄除け」を受け、神仏の
加護を得て凶事や災難を未然に防ごうとする慣習がある。
 なお、厄年である「数え年」の数え方は、実は単純ではない。加算日が神社により異なり、グレゴリオ暦(新暦)1月1日とするもの、立春の日(通常は2月4日)とするものがある。
 数え年の加算日をグレゴリオ暦1月1日とする場合は、誕生日から大晦日までの期間は「満年齢+1」、ほかの期間は「満年齢+2」で計算することになる。
 数え年の加算日を立春の日とする場合は、元日から立春前日までの誕生日は、立春の日から大晦日ま で数え年に1を加える。立春の日から大晦日までの誕生日は、元日から立春の日前日までの数え年から1を引く。こうして見出した歳に厄払いを行うのである。

1.厄年に災いに見舞われる根拠
 厄年は根拠が無く、全くの迷信とされている。もっともらしい解説なども見られるが、証明する統計などはみられない。陰陽道に起源があるとも言われるが、確かな出典や根拠も見出せない。そのため、有力な説明としては次のようなものがある。文化人類学者の小松和彦氏は、「平安時代は貴族は毎年厄払いをしていた。江戸時代に入って暦の普及とともに厄年も普及し、神社仏閣での厄除けが流行した。現代は成人儀礼として行われている」と述べている。神道学者の三橋健氏は、経験則的にこの時期に人生の節目になるとされている年だと述べている。井上円了氏は生理上身体の一変する時期を経験的に測ったものだ ったのが、縁起を担いだ忌み数や言葉遊び(19は「重苦」に通じ、49は「始終苦」に通じ、42は「死 に」に通じ、33は「惨々」に通じる)が流入したと推測している 。いずれも体力的な不調や衰え、環境的な立場などの変化から、経験的に異変が起こりやすい時期を示したものという程度に解釈しているようだ。
 確たる証拠がないにもかかわらず、正体不明で、時として的中してしまうこともあったため、お化け同様に恐れられてきた。それが様々な文献に残されている。平安時代の『色葉字類抄』に、「厄 十三 廿五 卅七 (四十)九 六十一 七十三 八十五 九十七 謂元事」、鎌倉時代に成立した『拾芥抄』下末八卦では清原枝賢等筆永正7年(1510年)写本では「厄年 十三 廿五 卅七 四十九 六十一 七十三 九十九」、寛永9年(1632年)の刊本では「厄年 十三 二十五 三十七 四十九 六十一 八十五 九十九」とある。
 『宇津保物語』楼上巻上に「左大臣どのの厄年におはするとて大饗せられぬは」とあり、文献上で厄年の初見とされる。37歳の厄年は『源氏物語』薄雲巻に「三十七にぞおはしける[中略]つつしませたまふべき御年なるに」、若菜巻に見え、33歳の厄年は『水鏡』序に見える。
 『仏説灌頂菩薩経』に「七、十三、三十三、三十七、四十二、四十九、五十二、六十一、七十三、八十五、九十七、百五」とある。
 江戸時代の『和漢三才図会』に、「厄歲 按素問陰陽二十五人篇云 件歳皆人之大忌 不可不自安也 考之初七歳以後皆加九年 今俗別男女厄男二十五、四十二、六十一、女十九、三十三、三十七男以四十二女三十三為大厄 未知其拠」とあり「厄年は『素問』陰陽二十五人篇の大忌で9歳から9年毎にあるとし、いまは俗に男25、42、61、女19、33、37、男は42をもって女は33をもって大厄となす。其のよってくる所を知らず、男42の前年を前厄、翌年を挑厄(はねやく)といい、前後3年を忌む」としている。
 黄帝内経の『素問』に該当はないが、『霊枢』陰陽二十五人第64に「黄帝曰 其形色相勝之時 年加可知乎 岐伯曰 凡年忌 下上之人 大忌常加 七歳 十六歳 二十五歳 三十四歳 四十三歳 五十二歳 六十一歳 皆人之太忌 不可不自安也 感則病行 失則憂矣 當此之時 無爲姦事 是謂年忌」と大忌の記述がある。
 天野信景『塩尻』に、巻12に「我国男四十二、女三十三、異邦七歳、十六歳、三十四歳、四十三歳、二十五歳、五十二歳、六十一歳」、巻14に「四十二は四二なり。死に通ず。四十二の二ツ子は、父子の年にて四十四。中略して四四なり。死に通ずること。まことに愚なること也」とある。
 『燕石雑志』は、「男性の25歳、42歳、女性の19歳、33歳が厄年」「2は陰数で5は陽数、つまり 陰が上に陽が下にあるから25歳を恐れ、42歳は4も2も陰数で読んで「死」、男性は最もこれを恐れる。19歳は、10は陰数で9は陽数、陰が上に陽が下にあり、したがって女性はこれを恐れ、33は陽数が重なり、事の敗続するのを「散々」といい、いずれも「サンザン」と同訓であるから最も恐れる」としている。
 田宮仲宣『橘庵漫筆』四に、「四十二は死と云訓にて三十三は散々と云音なり」とある。
 林自見『雑説嚢話』に、「俗の厄年ということ、旧記にこれなきこと也。俗に女は三十三を厄という。女は産を大厄とすれば、三十三の産の声を重ねるが故、厄年とす」とある。
 現代では、平凡社『大辞典』は「厄年」の項で、「19は重苦、25は5×5=25、後後二重後ととりな して死後のこととし、33は3・3と重なるから散々ととりなし、42は4・2と続くから死(しに)にとりなして忌むという」としている。
 なお、反対に厄年とは本来は還暦などの「年祝い」などと同様に「おめでたい」年だと認識されてい ることもあった。例えば「男性の25歳」は厄年に当たるが、平均寿命が短い江戸時代などでは男性の25歳というと家庭を持ちだす年齢で「一人前」と認められる年齢であった。
「女性の19歳」も厄年に当たっているが、こちらも江戸時代の感覚で言うと結婚や出産をする方が多く「おめでたい年」だとして把握されているイメージが伝わるであろう。
 このように「厄年」に当たる年齢は、就職や結婚などといったライフステージや健康の変化が起きやす い年である。そのため、思わぬトラブルが起きやすく、普段よりも慎重な判断が必要となる場面が出てくることがあるのだ。
 現在の「厄年」に関する考え方は、以前とは少し違った意味となっており「大切な時期を平穏に過ご すために注意を払った方がいい」という先人たちの教えから生まれたものとなっている。
 さらに、色々な説がある「厄年」だが「災難が降りかかる年」というのはあくまでも迷信で、「厄年=役年」という説もあるくらいだ。
 女性の30代の厄年、男性の42歳の大厄は仕事でも実力がついて自分の将来像や方向性が見えてくる時期と重なる。そのタイミングで迎える厄年を「人の役に立てる年齢に達した」と考える説もある。
 今までの経験や積み重ねてきた実績をベースとして、会社員であれば部下のため、家庭であれば家族のためなど「誰かの役に立つことができる年になった」という考え方である。この考え方からすると、厄 年を迎えるということは一人前の人間になった証ともいえる。

2.厄年には何をすればいいのか
 日本各地の神社やお寺には、厄年の人を対象に「厄除け」「厄払い」「厄払い」などのお祓いや祈祷をしているところがたくさんある。その神社やお寺ごとに多少の違いがあっても、日本の人は、「厄年になると厄払いの祈祷をしてもらう」という方がかなりたくさんいるようだ。「厄年」は迷信に過ぎないと言い切ってよいようである。そのため、完全に無視をしても構わないはずである。しかし、逆に自分の気に入る方法で好きな神社やお寺で厄払いや祈祷などをしてもらうことによって気が楽になるのであれば、厄払いをせずに気に病み続けるよりは「まし」だと言えるのではないだろうか。

3.厄年に起こること
 「厄年」に災難に遭う人がいることは確かである。しかし、「厄年」ではないのに災難に見舞われる人 も少なくはないのである。そこでは、「厄年」に幸運に恵まれた例を挙げてみよう。
 1964年のオリンピックで金メダルを取った種目の中に女子のバレーボールがある。バレーボールとしては、初めての金メダルで、「東洋の魔女」と呼ばれたのだが、そのときの監督は43歳の大松博文氏だった。彼は41歳の時に世界選手権で金メダルを取っている。1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを取った男子バレーボールの松平監督が、金メダルを獲得したのは、42歳の時だった。
 さらに1976年のモントリオールオリンピックの女子バレーボールチームが金メダルを獲得したときは、
山田重雄監督が45歳の時でしたが、彼は2年前の43歳の時に世界選手権で金メダルを獲得している。
松平監督はあるところに「”厄年”というのは最高の年だと、私は思っています。」と書いているほどだ。

4.もともと「厄年」は「役年」だった
 例えば、42歳の年に神輿かつぎをする事例がみられます。この年齢のころ、”若者” から ”壮年”という中堅となる、地域共同体の中での一つの境目で、その境を通過する際、神事の役を務めるものとされる事例である。今の青年会議所や商工会議所 青年部などで、40歳頃の年齢を卒業の年としているのは、その名残りかもしれない。また41歳になると、お祭りの「頭屋」(神事を主催したり、神社のお祭りの際に神職を助け働く人、もしくは家のこと)を務めるという習わしがある事例もみられる。
 古くは、40歳ないし41歳を超えると、老齢とみられるようになり、その段階に入る際「神役」を担った。「役回りの歳」という意味で「役年」といった。つまり本来、厄年を迎えることは、地域社会においては“一定の責任を伴う立場”となることを意味し、古希(70歳)や傘寿(80歳)などの長寿を祝う「年祝い」と同様、“ハレの年齢”と考えられていたのである。この年齢に達した者は、地域共同体にとって重要な、神性な任務を担う特別な時であったのである。だからこそ、滞りなくその役目を果たすために、病気や事故に会わないよう慎重な行動が求められたのだ。「役年」は「神様にお仕えする大事な役目を任される年」という意味もあったのである。節目の年を迎えたことを喜びつつも、無事に大切なお役目を果たすためにも心身を清浄に保ち、慎みの心をもって自己を律しながら日々良い積み重ねを行っていかなくてはならなかったのである。その責務を一年間無事に務めを果たすため、その年はもちろん、前の年から、けがや病気をしないよう気を配る必要があったのである。そしてその翌年は後見人として、次の人を支える役割があり、やはり気をつけないといけなかったのである。経験を積んだ者であると同時に「もう若いとは言えない年齢」になっており、自分の身に降りかかる様々なトラブルを避けながら、課せられた役目・役割に耐えうる壮健な心身を作っていくことが求められたのである。つまり、大事な役割を果たす本番の年と、その前後の年、3年にわたって、「役」を滞りなく果たすために戒慎が求められたのが、「前厄」「本厄」「後厄」と表現されることにつながっているのである。「厄年」とは、神さまに仕える神役の「役年」でもあったのである。これで厄年の正体と、厄年にしなければならないことが、納得出来るのではないだろうか。
 昔から、日本人は、大切なことを伝えるに当たって、神仏や災難をうまく利用する傾向があった。「夜中に爪を切ると、親の死に目に会えない」などといった類いの、脅しとも取れる教訓がたくさん残されている。「つめをきること」と「親の死に目」とは、どう考えても結びつかない。何のことはない。照明が今のように整っていない江戸時代には、夜になると、どこもかしこも薄暗くなってしまう。薄暗い中で爪など切ると、切り損ねてけがをしがちだから、やめろと言うだけのことである。親孝行者にはてきめんな教訓であったに違いない。そうした思わず躊躇してしまうような教訓を、うまく用いた知恵が使われたのである。

5.経験値を超えて
 日本で言われている「厄年」は、経験の積み重ねによって、大まかに定められたものに過ぎず、当たるも八卦あたらぬ面八卦と言われる占いと共通する様なものに過ぎない面が強かった。ところがここに来て、アメリカのスタンフォード大学(SU)で行われた研究により、人間の老化は厄年に近い44歳と60歳の2つの段階で急速に進むことが、科学的に示された。これも近年の日本ブームがもたらしたものの一つなのかもしれない。
 研究によって追跡された13万5000種類の生体因子の実に81%が両方あるいはどちらかの年齢で大きく変化しており、年齢に応じて徐々に変化するのは全体の6.6%に過ぎなかったと云うことである。
この結果によると、古来日本で言われてきた厄年という年回りとの不思議なほどの一致と、他方で人間の老化は徐々に進むとされたこれまでの常識が正しくなく、そもそも老化というものは一気に進む性質を持っていることを示している。奇妙な一致と童子に、常識をひっくり返され利という二重の驚きをもたらすものであった。この研究内容の詳細は2024年8月14日に『Nature Aging』にて公開された。

目次

老化は「徐々に」ではなく「一気に」?
老化は44歳と60歳で一気に進む
老化は「徐々に」ではなく「一気に」?

 鏡をみて自分が思ったよりも老け込んでいることに気付くことがある。これは、脳内で抱いている自分のイメージと、実世界の肉体の若さに大きな乖離が生まれているためである。ここで興味深いことは、「ここ最近で一気に老け込んでしまった」というような感想は、ごくまれにしか鏡を見ない人だけでなく、毎日鏡で身だしなみをチェックしている人からも聞こえてくる。もし老化が年をとるにつれて徐々に進むなら、少なくとも毎日鏡を見る人から「ここ最近で一気に」という印象は得られにくいはずだ。
この結果から予想できることは、容姿の老化がある時期に集中して起こることを示していそうである。

 一方で、日本には古くから厄年が伝えられてきている。厄年の元々の語源は「役年」から来ており、これは一定の年齢に達した人々に公的な役職を与える制度を意味していた。重要な役回りを引き受ける年という意味である。それが現在では、厄年は「特定の年になると災いが降りかかる」というものに変わってしまっている。また近年の生物学の進歩により、健康寿命が重視されるようになると、厄年は老化が露わになる年と、とらえる人々も増えてきた。ただ伝統的な生物学では老化は徐々に進むと考えられていたため、急激な老化や厄年との関連性はネガティブな思い込みと考えられがちだった。たまたま悪い巡り合わせが、厄年と重なっただけと考えられたということである。これは、安定した状況にある化学物質の反応速度が一定であるように、環境が大きく変わらない限り生物の老化も一定に進むのが当たり前の姿と思い込まれていたからだ。
 しかしここ十数年ほどで生体分子の測定技術が急速に進んだ結果、少しずつ状況が変わってきた。たとえば個人の血液成分に含まれる生体分子の比率を調べると、特に病気がない人でも、特定の年齢を境に大きな変動を起こしていることが明らかになったことなどが挙げられる。
 こうした変化の仕方が事実なら、伝統的生物学の老化のとらえ方よりも、生物学的年齢の概念を取り入れ進化した厄年の概念のほうが、より実情に近くなってくる。ただこれまでの研究では、調査対象となった生体分子の種類が少なく、包括性に欠けていた。血中にある数種類の生体分子がある年齢で大きく比率が変化していたとしても、それと老化現象を全体を結びつけるのは、科学的にみてもあまりにも乱暴であった。
 そこで今回、スタンフォード大学の研究者たちは、108人の健康な成人を対象に、RNAやタンパク質をはじめとした各種の生体分子、さらに腸内細菌叢の変化など、合計で13万5239種類の生物学的因子が、年齢に応じてどう変化するかを調べることにしたということだ。
 さらに得られた測定値から2460億個を超えるデータポイントが生成され、生体分子の増減に他との連携パターンがあるかどうかが分析された。
(a)参加した被験者の情報と
(b)調査対象になった血液および腸内細菌の分類
  (※測定した生物学的因子よりもデータポイントが多い理由:ある1種類の生体分子について毎月   1回、12カ月に渡って測定したとすると、得られるデータポイントは12個になる。また複数の   因子の組み合わせによる分析も新たなデータポイントを生む)
この研究の結果得られる情報量は、既存の生体分子研究と比較しても、桁違いと言える。もしこの規模の分析により、特定の年齢に生体分子や腸内細菌叢の数値に一致して大きな変化があれば、それを「老化」と解釈して「そもそも老化は一気に進む場合もある」と結論することができると考えたわけである。
 つまり「人間の老化は一気に進むのか?」に対する答えを得るため、研究者たちは得られたデータを分析した。
 すると研究対象となった生体分子の実に81%が、44歳と60歳の2つの段階のいずれか、あるいは両方で明確な変化を遂げていることが判明したという。逆に年齢に伴って徐々に変化していった分子は全体の6.6%に過ぎないこともわかったということである。
 それだけでなく、44歳と60歳を比べると、変化した分子の内容がわずかに違っていることも明らかになったという。たとえば44歳の段階では、脂肪・カフェイン・アルコール代謝に関連する分子の変化が起こり、心臓血管疾患、皮膚や筋肉の機能障害が多くみられた。これに対して、60歳の段階では炭水化物やカフェインの代謝、心臓血管疾患、皮膚と筋肉、免疫、腎臓機能の変化が多くみられたという。
 最初の老化ピークである40代は女性にとっては閉経前後の時期にあたるが、研究者たちは「閉経」を老化の主因からは除外している。というのも、男性も同じ年齢で生体分子の大きな変化を経験しており、40代での急激な老化は性別を超えた男女共通の現象であると考えられたからだという。

 以上の結果は、老化は44歳と60歳という2つの段階で急激に進行することを示している。
Credit: 東京都江東区鎮座 亀戸浅間神社
男性の本厄は数えで25歳(実年齢26歳)、42歳(実年齢で43歳)、61歳(実年齢で62歳)であり、女性の本厄は数えで19歳(実年齢20歳)、33歳(実年齢34歳)、37歳(実年齢38歳)、61歳(実年齢62歳)とされています。

特に男性においては数えで42歳(実年齢43歳)は大厄として最も注意すべき年であることが知られています。

厄年がこれらの年齢になっている背景には散々な年(33)や死に年(42)のような語呂合わせもあると言われており、必ずしも体調を基準に決定されたとは言えません。

 今回の研究において被験者となった人々はアメリカのカリフォルニア州に住んでいる人々であり、日本人と遺伝的なプロフィールが異なっている。それでも日本で言われる厄年に含まれる男性の42歳と62歳、女性の62歳は、今回の研究で発見された2つの老化のピークが44歳と60歳と非常に似通っていることは注目に値すると思われる。
 ただ厄年の意味や概念、考え方は長い歴史のなかで変化しており、厄年とされる年齢そのものも時代によって変化してきた。実際、奈良時代に伝来した仏教書物には厄年は7歳、13歳、33歳、37歳、42歳、49歳、52歳、61歳、73歳、85歳、97歳、105歳と書かれていたとされている。そういう意味では、古来からの厄年には生物学的な根拠はもともと希薄であるとも言える。
 しかし現代に至るまで40代や60代が、変わらぬ厄年の主役とされている背景には、急速な老化に伴う体調の変化を、経験的な知識に基づいて取り入れている面があるのかもしれない。実際、40代や60代は若さの維持という点において経験的にも、微妙な年齢なのは事実だからである。
 一方、医学的な面からみて今回の研究成果の重要性は計り知れない。老化が平均して44歳と60歳という2つの時期で急速な進行をするならば、その時期にあわせて老化対策を集中的に行うという戦略がとれるからである。
 もし、どちらかあるいは両方の年齢において老化の進行を止めることができれば、効率的に老化全体を大きく遅らせることができることになる。現段階では、抗老化作用のある化学物質がいくつか知られている段階に止まっているが、44歳と60歳の誕生日の前後の年に体調の変化に気を付け、抗老化作用が確実にある化学物質を処方できれば、老化防止に効果が大きいことは間違いなさそうである。