フローレンス=ナイチンゲール

           【目次】1.ナイチンゲールとは

               2.意外な数学との関係

               3.安易な二分法

1.ナイチンゲールとは

 ナイチンゲールを全く知らないという人はいないだろう。「近代看護教育の生みの親」と呼ばれるイギリスの看護師フローレンス=ナイチンゲール(1820~1910)は、まさに「白衣の天使」である。献身的な戦場での看護師のイメージが強烈である。そのせいか一方では、敵味方なく看病したクリミヤの天使と言われ、自己犠牲の権化として、一生を看護師として身を捧げた優しい人と言われてる。まさに完璧な看護師として、無上の絶賛を浴びせても足りないという思いが、ナイチンゲールの印象を増幅した結果であろう。
 しかし、ナイチンゲールが戦場で敵味方なく看病したという記録はどこにもない。また看護師は誰でも自己犠牲を惜しまぬ白衣の天使であるべきだなどと強要した人ではなかった。それどころか、看護師として働いたのはたったの2年だったのである。
 1856年にクリミア戦争の終結によりイギリスに帰国したナイチンゲールは、翌1857年には過労により倒れ、看護の現場ではなく本の執筆や交渉などが主な活躍場所となるのである。1910年8月13日 ロンドンにて90年の生涯を閉じるまで、ほとんどの時間をベッドの中で過ごすことを余儀なくされたからである。
 実際看護師として現場で活躍したのがたった2年とはいっても、もちろん、ナイチンゲールが果たした役割はとてつもなく偉大なものであった。クリミアの野戦病院でも、帰国してからも、病院の改革を行ったのである。ただしそれは、看護の現場を離れたうえでの活動であった。現場を離れたとはいえ、多数の書籍を執筆し、軍の医療体制の改革を進める活動が精力的に続けられた。
クリミア戦争は、歴史上初の「世論」が戦局を左右した戦争と言われている。遠く離れた本国の人が新聞報道で戦地の状況を知り、それに対する意見を述べ、それが大きな世論となって政局を動かすこともあったのである。ナイチンゲールがヒロインとなったのも、この世論が大きく関係している。悲惨極まりない戦地の病院で負傷兵の看護に邁進したナイチンゲールを、人々は「クリミアの天使」と崇めた。換気、衛生の大切さ(清潔なリネンや寝間着)、栄養を考えた食事やきれいな水など、二次感染を防ぐための手段を講じた。ナースコール、水とお湯の出る蛇口の病室内への設置、ナースステーションの設置などもナイチンゲールの考案によるものである。また、看護の仕事だけでなく、負傷兵のために母国に残された家族に手紙を書いたり、死亡した兵の家族に死亡報告と一緒に僅かでも義援金を添えたりと心理的な面でも力になるために奔走したのである。それでも本人は、多くの兵士を死なせてしまったことに深い自責の念を抱いていたのだった。兵士の死因の多くは衛生管理不足による感染症であったことが分かっており、夜回りを怠らず行ったことで死亡率を数十%減らし、最終的に2%まで抑えることに成功したとされる。この夜間に問題がないか怠らずランタンを持って夜回りを行っていたことから「ランプの貴婦人」とも言われ他のだということである。
 戦地から戻った後も、ナイチンゲールは生涯にわたり医療・看護分野の改革に貢献した。たとえば、陸軍病院への改善提案や、看護・福祉・病院に関する書籍の執筆などが挙げらる。ただし、衛生状態の改善のためには、まず実態を把握しなければならないのは当然のことである。しかし実態を解明することは、軍部批判につながりかねず、容易な仕事ではなかった。それをやり遂げ、さらに世界初の看護師訓練学校を設立し、教育者としても優れた能力を発揮したナイチンゲールは、「近代看護教育の母」とも呼ばれている。
 「白衣の天使」には違いないが、ナイチンゲールは、必ずしも不幸に耐えた献身的で犠牲になってしまった女性ではなく、看護の仕事を、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事とし、犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性であり、イメージはずいぶんと違ったものと言えそうなのである。そうした看護師、女性としてのイメージ以上にナイチンゲールの意外な姿がある。

2.意外な数学との関係
 それは彼女が、統計学とも深い関係を持っていたということである。
 1820年5月12日、両親の旅行先だったイタリアのフィレンツェで誕生したナイチンゲールは、出生地にちなんでフローレンスと名付けられたという。彼女は、上流階級の家庭で、哲学、数学、経済学、心理学、歴史学、フランス語、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、イタリア語、などなど幅広く当時の女性としては珍しい高いレベルの高等教育を受けたと言われている。20歳の時には、数学の勉強に打ち込もうとするが、周囲の理解が得られずに挫折してしまう。しかし数学に対する興味は尽きることなく、その後「近代統計学の父」と呼ばれるベルギー人アドルフ=ケトレー(1796~1847)を尊敬し、数学や統計に強い興味を持ち、すぐれた家庭教師について勉強していたことが分かっている。看護師の仕事に興味を持ったのはその後のことである。
 彼女が一念発起して看護婦になりたいと決意したのは1849年のことである。この頃イギリスでは飢餓が蔓延しており、貧困層の酷い暮らしぶりにナイチンゲールは心打ちひしがれ、慈善奉仕活動をしたいと確固たる思いがあったという。この時代は医者が家へ行き往診するのが普通で、病院は形態を成さない下層階級の病人が集う不潔な場所であり、看護師は専門知識のいらないただの御手伝い・お世話係の様なもので下層階級の無教養な女性がする仕事というのが常識であった。そのため、彼女の家族は看護師になることにショックを受け猛反対たが、今度は数学の時とは違って、自分の意志を貫き通すことになる。
 1851年、今度は家族の反対を押し切り、ドイツのカイザースヴェルト学園で看護の訓練を受ける。そして、1853年にはロンドンの病院に就職した。そこでは1年も経たないうちに婦長に抜擢されている。
 1854年には、イギリス政府によって看護師団のリーダーとして、クリミア戦争(ロシアとトルコの戦争、イギリスはフランスと共にトルコに味方した)に派遣され、野戦病院で骨身を削って看護活動に励み、病院内の衛生状態を改善することで傷病兵の死亡率を劇的に引き下げたことで有名である。
 献身的な看護もさることながら、実はこの時ナイチンゲールは、統計に関する知識を存分に使って、イギリス軍の戦死者・傷病者に関する莫大なデータを分析していた。野戦病院の環境は劣悪であった。伝染病も蔓延していた。そんな中でも献身的に看護に盡彼女の様子が母異国イギリスの新聞に報道され、国民から熱狂的な人気を博すことになる。基金が集まり、自らの名を冠した看護学校を作り、看護師教育のシステムを整備していった。現在でも看護学校や看護大学では、ナイチンゲールが蝋燭を持って回ったことにちなんだ「灯火の儀」戴帽式に受け継がれている。その一方で野戦病院での傷病兵の多くが戦いで受けた傷そのものではなく、治療や病院の衛生状態が十分でないことが原因で死亡したことを明らかにしたのである。
 衛生状態の改善は、誰もが望むことで、誰一人として反対などしようがないことのように思える。しかし、実態を把握し、解明することは、軍部批判につながりかねず、現実においては容易な仕事ではなかったのである。
 しかし、ナイチンゲールはその報告をとりまとめた。その鍵となったのが、彼女が身につけていた数学の知識だったのである。報告書は、「英国陸軍の健康、能率および病院管理に関する諸問題についての覚え書き」(1859年)と題するものであり、1000ページにも及ぶものであったという。当時統計に馴染みの薄い国会議員や役人にもわかりやすいように、当時としては珍しかったグラフを用いて、見てわかりやすいプレゼンテーションに工夫されていたそうである。用いられたのは円グラフで、12分割して月ごとの志望者数をまとめ死亡原因事に色分けされたものであったという。その結果伝染病による志望者が多く、介入によって改善できることが、わかりやすく、明確に示されるものだったという。報告書に平衡して、看護システムの改善にも取り組んでいた。ナースコール、水とお湯の出る蛇口の病室内への設置、ナースステーションの設置などもナイチンゲールの考案によるものである。
 また、1860年には、ケトレーが立ち上げた国際統計会議のロンドン大会に出席し、衛生統計の統一した基準を提案している。統計の取り方がバラバラでは、分析に支障を来し、医療技術の向上にもつながらないからである。提案は会議の分科会で討議され、各国政府に送付する決議として取り上げられたのである。彼女の統計学は極めて高い評価を得ていたのである。
現在でもなお、国を跨いでの統計調査の形式や集計方法を反り得ることは容易ではないのが実情である。ナイチンゲールの提案は、現場での経験と統計の知識に裏付けられた揺るぎない信念に裏付けられたものであった。その結果、「英国陸軍の衛生改革への統計的手法の活用」という業績が認められ、1858年に女性として初めて王立統計協会のフェローに推薦され、1874年には米穀統計学会の名誉会員にも撰ばれた。
 「白衣の天使」ナイチンゲールは、献身的な看護師であると共に、祖国では統計学の草分けとして、国民の記憶に深く刻まれているのである。日本ではこのことはあまり知られていない。
 その偏り方に、如何にも現在の日本を映し出す鏡が備わっているように思えてならない。

安易な二分法
 事実を知れば意外なことは多少なりとも出てくる。事実は小説より奇なりである。であは、ナイチンゲールの上の話しが意外に感じるのはどの点だろうか。看護師であるはずのナイチンゲールが、数学も堪能であったという点ではないだろうか。考えてみれば医学は典型的な理系である。ならば看護が理系であることは少しもおかしなことではないはずだが、どこかで看護は人間を繋ぐことが中心で、それは理系とは離れたものという意識があるからではないだろうか。極論すれば、看護の仕事に就く人は、たいてい理科系が苦手であると思い込んでしまっているからではないだろうか。
 現在の日本には、「理系」と「文系」に二分する分類法が罷り通っている。元を正せば、大学入試に辿り着くのであろう。その準備の必要上、高等学校時代に使われた分類であるというのが実情だろう。もちろん、その分類が実質的なものであれば何の問題もない。人間に得意不得意、好き嫌いがあることは、建前上はなくすのが望ましいとしても、あっても特別大きな問題とはならないはぜだ。
 しかし、多くの場合「文系」は、数学が嫌いか、できないかという一点だけが分かれ目になってしまうことが多いと云うことだ。つまり、「文系」は文系の学問が好きだったり得意だったりするわけではなく、ひとえに数学が出来ないというだけの理由によるものだ。「文系」は「エセ文系」あるいは「反理系」に過ぎないのである。「文系」とされた人間にとっても、文系は面白くないことが多いのである。
 この二分法は、科学的に考えることから来ているようだ。それは、論理的合理的に考えるということを突き詰めた結果である。それをさらに遡ると、西洋の合理主義にたどり着く。
 もともと東洋では、二分法を嫌い、すべてを統一する立場を求める傾向があった。不合理を恐れず、曖昧さを残したまま中庸を選ぶという考え方が大切にされてきた。ここには内向的で、表面的な力強さには欠けるものであった。
 これに対して西洋では、天と地、彼と我、正義と悪といったように、二分法に基づく分析が行われ、対立構図をはっきりと抜き出す思考方法が採られる。これは外向的で、強力なものである。
 明治以来西洋を手本とし、脱登用をめざすことによって奇蹟の高度成長をはじめ、西洋化を実現した日本においては、科学的に考えるとは、西洋的論理性を持つことに他ならず、二分法こそその典型に他ならない。
 与えられた才能を二つに分けるのではなく、全体を丸ごと包み込む大きな視野を持ち、中庸を是とすべきなのである。ほとんど意味のない二分法に惑わされ、それが科学的で論理的であるかのように思い込み、○○的とか△△型などといった型に当てはめて、それで何かがわかったように振る舞うことの愚かさに気づくべき、できる限り早く改めるべきである。それこそこうした発想法のなれの果てが、星占いや血液型による正確判断と大差ないものなのである。高々12、3の星座やたった4つの血液型で、全人類を判断するなど、ばかばかしいことこの上ないであろう。
 どの職業であれ何であれ、それを「完成したもの」と捉え、、その中に埋没するのであれば、目新しい勉強は不要であり、専門外として他を排除することが出来る。しかし、一端それを革新し、自らの手で大いに発展させようとするならば、そこに不要なものなどあるはずがないのである。ましてや数学や物理学などといった基礎科学を忌み嫌い、逃げ回って、新しい視野を見いだすことなどあり得ないのである。「情」をより普遍的なものにするには、「理」が必要不可欠であることは、火を見るより明らかなことである。人類全体に広めるべき「情」を産むためには、より洗練された「理」が要求されることも当然のことである。理系・文系などといった無意味な区別によって自己規制することで開ける道などないのである。
 ナイチンゲールは、看護が必要なすべての人に、手厚い看護が施され、よりよい条件で療養出来るために、無意味な自己規制など取っ払ったからこそ偉大な成果を残せたのである。