【目次】(1) 結婚を考える前提
(2) 結婚の現状
(3) 結婚のあるべき姿
(4) 反結婚とは
(5) 今後の婚姻について
(1) 結婚を考える前提
結婚とは、法律上夫婦として認められた関係のことである。基本的には男女の間で取り結ばれるものという時代が、割合と長くあった。しかし、個人が優先される思想傾向が強くなった昨今、これまで、割合に長い間、暗黙のうちに了解されてきたものごとに疑問が提出され、価値の転換がさまざまな場所で起こっている。結婚もその一つである。さまざまな考えの内のどれが正しいかを決めるのは非常に困難である。今の時点ではこれくらいが穏当だとか、今迄タブー視されてきたが明らかに間違っている、といったようなことが、あちこちで起こり、それぞれに説得力があったり、未消化であったりしている。しかもすべてが今の時点でのことであり、今後解釈の仕方は大きく変わっていくことも予想される。
実際に、結婚は永続的であるべきか、一夫一婦制であるべきか、男女間でのみ成立するものなのか、等々疑問として提出されていることは数限りない。
それに対して、「昔からの習わし」であるということは通用しがたい。「昔」というのはいつのことで、さらにそれ以前はどうだったのかを考えると、実は全く逆だったという結論さえ出てきてしまうかもしれない。一夫一婦制があるべき姿とされたのはそう遠い「昔」のことでもなく、それ以前は一夫多妻制であったり、一妻多夫制であったりしたようであるし、妾という名の複数の妻を持つ男性が当たり前のように存在したり、フリーセックスの如く誰とでも一夜を共にする開放的な人妻が非難されない時代もあったかもしれないのである。また、さらに遡れば、決まった相手と交流しなければならないなどという道徳はなかった時代の方が長かったのかもしれない。女系家族が当たり前であった時代も長いし、男系家族に変わってからも相当な年月が経過している。
では、結婚についてどのように考えるのが良いのだろうか。時代的な制約はあり、やがてどんな考え方も古くなり、否定されていくものだろうが、とりあえず現時点で基本的に結婚がどのようなものと考えられ、そういう意味からすれば許される範囲はどこまでなのか、逆に許されるべきでないことはどういうことなのかという風に見ていくしかないであろう。民主主義は、意見の調整に手間取り、独裁政権に比べて極めて非効率であるという欠点があるが、その分間違いが少なく、一部の者だけが優遇される不公平な社会の建設を避けることが出来るという点に優位性がある。しかし、実際の社会では、結局の所民主主義も多数の力には押し切られてしまい、数の暴力が罷り通ってしまっている。そこで強調されるのが、少数意見の尊重である。しかしこの少数意見の尊重も、お題目、目標と化し、実現からはほど遠いことが少なくないのが現状である。もちろん、少数意見が常に多数意見を逆転したのでは、民主主義でも何でもなくなってしまうことは言うまでもない。そんな中で、価値観の多様化、わがままな程の自己主張の保証が為される社会は、面倒であると同時に、民主主義本来の姿を体現するものだと言えるかもしれない。多数決原理に基づく古い民主主義とは一線を画した、新しい民主主義の萌芽があると言えるかもしれない。
(2) 結婚の現状
結婚とは、辞書では「夫婦になること」と説明されている。あまり大きく間違っていない範囲でお茶を濁しているとしか思えない記述である。夫婦を規定しているのは法律である。そこで法律を見ると「近親同士でない18歳以上の男女が、お互いに結婚の意思を持ち、婚姻届を役所に提出すること」とされている。大雑把な規定でしかないがこの限りではっきりしていることは、まず、
① 「近親」ではダメだということである。
いわゆる「近親相姦」からは異常児が生まれやすいといわれ、実際にそうした調査結果があり、これはかなり古くから禁止されていたようである。時として三文小説に、愛し合った男女の結婚を親に反対され、結ばれない悲劇がテーマとなり、最終的には、二人が異母兄弟や異父兄弟であった結果だとされるものがある。その場合には、多くの場合仕方がないものと受けとめられるであろう。人間に限らず、近親相姦による繁殖がうまくいかない例は他の動物実験によっても確かめられているようである。
② 結婚をしようとする者は18歳以上でなければならないという年齢制限がある。
これについては女子は16歳以上ではなかったかと思うのだが、いずれにしろ一定の年齢を超えなくては結婚出来ないことになっている。ただしその年齢の下限がどんな根拠に基づいているかは、納得がいく説明はされていない。人間には個人差はかなり大きいが、中でも若年世代にはより大きな違いが認められる。にもかかわらず年齢で区切ることの妥当性も確かではないに違いない。大雑把な区分の目安でしかないであろう。
③ 「役所」に届けなければならないことになっている。
もともと恋愛は、本人の最も基本的なプライバシーであるはずだが、公の役所に届け出なければならないとされている。考えてみればおかしな話ではある。警察は民事不介入なので、家族や夫婦ないでの出来事、恋人関係にあるもしくはかつて宋だった者の間に起こることには、介入しないことが原則とされている。例えばストーカー事件では、実際に殺人事件に発展してしまったような訴えにも耳を貸さないことがあるのに、役所は民事に全面的に介入するのだろうか。「夫婦」であることに権利や義務が発生し、親しい他人同士とは違って、社会的にそれなりに認められるものがあるからであろうか。かつては、商人を中心として、結婚していることが信用を増すとされる時代もあった。しかし、今はそうとも言えない。
権利や義務を網羅することは、法律の専門家ではないため不可能だが、法務省のホームページによると、
① 夫婦は互いに協力して生活する義務があるという。生活費も子供の養育費も夫婦で協力しなくて はならない。(必要に応じて別居中相手の生活を補助したり、子供の養育費を負担する必要がある)
② 原則夫婦は同居する義務を負うが、事情によってはこの限りではない。
③ 夫婦の財産は結婚しても、原則それぞれが保有するものとされ共有とはならない。しかし、生活 や養育に関わる費用は分担して負担する。
④ どちらかが死亡すると、財産は相続される。現金や不動さんなどとともに、負債や借金なども含 まれる
具体的に相続の問題に直面したりすると意外なことも起こってくるかもしれないが、権利や義務が発生するといっても、一通り見る限り、特別なことはあまり感じられない。
ここにあることがすべてではないのだろうが、次のようなことが言えるのかどうかはよく確かめてみる必要がある。
① 結婚は男同士、女同士では成り立たないという規定はなさそうだ。
② 年齢の下限は示されているが、上限や互いの年齢差は制限されていない。
③ 結婚後の改姓の要否は規定されていない。
④ 夫婦同居が望ましいとはされても、必ず同居しなくてはならないということはなさそうだ。
⑤ 結婚式を挙げるかどうか、披露宴を行うかどうかといったことについては何の規定もなさそうだ。
夫婦が男女間でなければならないかについては現在問題になっている最中であり、これはひとまず置くとして、年の大きく離れた二人が、別姓を用いて生活していて、結婚式も行わず、披露宴も行わず、住まいも全く別のところで生活しているとすると、役所に婚姻届を出したかどうかというだけが夫婦であるかどうかを見極める方法ということになる。たいていの場合は役所に婚姻届が出ているかどうかを知る術はない。夫婦かを確かめる必要があれば調べることもあろうが、先のような二人を一々夫婦かどうかなど調べようともしないのが普通だ。
若い世代においては、恋愛に陥った者同士が同棲生活を送り、本当に相性が良いかどうかを、お試し期間を設けるようにして確認するということもはやっているということだ。この伝で行くと、次々と違う相手とのお試し期間を設けてもいいことになるように思うが、それで構わないと云うことだろうか。かつては就職した会社は終身雇用が基本的で、転職などせずに、生涯その会社に盡というのが日本的経営の在り方だった。給料や待遇も、年々良くなるのが原則で、途中入社の別人に抜かれてしまうと云うことは、原則としてなかった。年間の収入も生涯賃金も計算しやすく、計画も立てやすかった。ところが現在では途中転職が普通のこととなり、新入社員の方が高給取りなことも珍しくない。ヘッドハンティングなどと呼ばれて途中から役職も高給も横取りされかねない危機が日常的に起こっている。就職という生き方の問題が指し示しているのは、結婚という生き方と同じ根を持っているということはないのだろうか。昨今の就職事情を結婚に当てはめるとどういうことになるのだろうか。
さらに結婚式ビジネスの高騰化も結婚への疑問に一役買っている面も感じられる。
(3) 結婚のあるべき姿
結婚したあとの夫婦の姿は、それぞれの夫婦間で自由であり、千差万別が当たり前である。ところが世の中には、夫婦についてもあるべき姿が示されることがある。どうにもお節介なことで、対岸の火事で、何の影響ももたらさないのであれば、これまたどうでも良いことなのだが、少なからぬ影響を及ぼすことがあるから、困ったものである。
キリスト教のカトリックは、特に厳格な教えを持っており、宗教上離婚を認めていないと云われている。カトリックの教えでは、婚姻は神の前での契約であり、その契約は互いの幸福と子をなすことである。これは夫婦のどちらか一方が欠けても達成できないから、離婚は認められないということになる。二人の都合で、神に対する契約を破るなどとんでもないということであり、同時に中絶も一切禁止されている。ただし、絶対に離婚が認められないわけではなく、国や地方にも寄るが、相当程度大変な過程を経ずに離婚は成立しないということである。
なお、カトリック教会で神父や牧師が読み上げる誓いの言葉は、概ね次のようなものとされている。
「新郎○○、あなたは△△を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びの時も、悲しみの時も、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命のある限り真心を尽くすことを誓いますか」というものであり、これが新婦に対しても読み上げられる。もちろん結婚当初から生涯を共にするつもりがない結婚は、詐欺に近いというべきかもしれない。誰もが生涯添い遂げるつもりで始まるのだろう。しかし、病めるとき、悲しみの時、貧しいときといった不幸なときには、何かと夫婦関係に溝ができやすくなる。DVや不倫などと云った、婚姻生活を続けがたい事態に陥ってしまうこともある。我が子を挟んで煩悶することにもなりかねず、そこに大きな悲劇が生まれることは少なくなかった。
結婚生活もまた、すばらしいものから続けるべきでない事態まで、時期により、それぞれの夫婦によりさまざまであり、こうすべきといった一律の答えを出すことなど不可能なものである。兎角人間は易きに流れがちであるということもあるが、その時々で善処するという柔軟性を失ったところに幸福はないであろう。
日本を代表する文豪の一人である夏目漱石は、その主要作品のテーマに「三角関係」をおいている。漱石が「結婚」にこだわっていたかどうかはわからないが、男女関係がうまくいかないことは天下の文豪を以てしても答えの出ない問題であった。漱石は「同性婚」や「不倫」「妾の存在」などには触れていないが、それなくしても恋愛は永遠の問題と言えるものと認めたのではないだろうか。制度としてではなく、男女間を中心とした恋人同士の関係は、それぞれの人間の生き方の問題として、疎かにはできない問題に違いない。
(4) 反結婚とは
他方で、結婚制度が女性を男性中心社会に従属させる装置に他ならないとする主張がある。フェミニズムの視点から主張されている傾向が強い。そこでは、少なくとも資本主義社会においては、女性の大部分は、経済的な必要性から結婚を必要とすることになる。男女の賃金格差は大きく、管理職の割合にも大きな差がある。そうした差は徐々に解消されてきたとしても、女性は歳を取るほど資本主義市場から安く見られ、排除されていくという傾向は強い。若いうちはちやほやされても、「結婚」「出産」で仕事を辞める方向に流されていくことになる。折角身につけたスキルも、長期に渡る休業開けには役に立たなくなっているかもしれない。家事労働や子育ての大部分も、事実上女性の役割とされている。仕事より子育てや家事労働が中心となると、経済的には夫の収入に頼った生活を強いられざるを得なくなる。資本主義市場では、女性の弱さを正当化しているのが結婚制度ということになる。これは同時に男性の責任を重くし、家庭を守り家族を養うなどと云った使命感を持たせることによって、男性を社会が管理していることにつながっている。
だが、その性差は徐々に解消されつつある。まだまだ完全に平等というにはほど遠いが、家事労働や子育てを分担する夫も増えてきている。育休を取る夫も増えてきている。その結果、「定年までばりばり働く」という女性が目に見えて増えているとは言えないが、性差が縮小していることは事実である。まだそうした傾向が見え始めたという段階に過ぎないが、結果的に、結婚する人がどんどん減少している。
女性の場合、結婚より仕事を選ぶと云うことが顕著に表れているとは、まだ言い切れない状態ではあるが、結婚する意味が見いだせないとして、婚姻率も出産数も減少し続けている。
こうした中でパートナーシップに関する条約によって、同性婚を認める自治体が増えてきた。このことが「婚姻率」を上昇させるほどの影響力を持つとは思えない。それでなくても、同性愛者が社会的に認められることは、婚姻制度の持つ意味を曖昧にし、出生率の低下に歯止めをかけることとは反対の傾向を生み出さないとも限らない状態を招いていると云える。
結婚に失望したり、物足りない者を感じた揚げ句に、反結婚の意思を持つ人が増えてきても不思議はない。その時孤独に生きるか、ひとりの異性を選ぶか、はたまた同性か、さらには複数での同居や期限を切っての同性を選ぶのか、止めどなく広がる個人の生き方を包括できる生き方を構想する必要が生まれてこないとも限らない。
(5) 今後の婚姻について
今後婚姻はどうなっていくのであろうか。従来通りの習慣に従う人々も少なくないであろう。そうした人たちの中には、従来以上に婚姻に重きをおく人もいるに違いない。結婚式場を提供する事業所もますます豪華絢爛な行事を提供している。婚姻という制度は取らずに、同棲生活を始める人も少なくないかもしれない。そこでは夫婦別姓は当たり前であり、いつでも二人の中を解消することが出来るものであるだろう。他方で、婚姻制度を否定し、結婚を拒否した生活を送る人も増える可能性がある。さらには、同性婚と呼ばれる、同性同士のカップルを形成して生活を送る人々も増えてきている。
結婚が届け出によって法律で認められたものであるために、夫婦であることで初めて認められて権利が存在している。その解消のためには法改正をして、事実上の夫婦関係にある者に同等の権利を認めれば済むことのようではあるが、その際、詐欺などの犯罪を見抜けるかどうかも、小さな問題ではなくなる可能性もある。子殿の以内夫婦は珍しくないが、もともと子供のできない同性婚者にとっては、跡取りならずとも子供の問題はすべて解決できるのかといった問題も生まれてくる。
もちろん解決できない問題が残っているからといって始めることが禁止されるわけでもなければ、現状でも犯罪も不都合もたくさん発生しているのは事実である。しかし今後はさらに叮嚀で慎重な対策を立てることが必死になってくるのではないかという気がする。と同時に、自分の身は自分で守り、自分の進みたい方向に大胆に突き進むという覚悟が一番必要となるのかもしれない。もともとそれが人生なのだろう。