えびす(ゑびす)

えびすは日本の神で、現在では七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインドまたは中国由来)の福の神であるとされる。今日では、狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱えてえびす顔でほほえむ姿が一般的である。どちらかというと関西地方で商売の神様として、派手で賑やかに祀られることが定着している感がある。

 しかし、実は「えびす」は、一通りではなく複数の神として信仰されてきた。その元となるのは大きく二つの源を持つようだ。一つは、日本の神話に登場する「ヒルコ神(蛭子尊)」であり、もう一つは「国譲り神話に登場する「事代主神(ことしろぬしのおおかみ)」である。

(1) 蛭子がえびす神であるとする説。

①「えびす」が日本神話に登場する「蛭子神」だというのは次のような話である。

 これは、伊弉諾尊と伊弉冉尊によるk「国産み」「神産み」の話が元になっている。

 国の始まりが描かれた様子は、神話として「古事記」と「日本書紀」に記されているが、多少の食い違いがある。ただ大雑把に言って次のようなストーリーである。

 その昔、「高天原(たかまがはら)」と呼ばれる天上の世界に多くの神々が住んでいた。イザナギとイザナミは高天原の神々から「アメノヌボコ」という矛を授かり、二人(二柱)で協力して世界を作ることになる。

 まず初めに、二人は地上と高天原の架け橋である天の浮橋に立ち、大海原にアメノヌボコを突き立てる。アメノヌボコを引き上げたときに矛から滴り落ちた雫が島となり、これが最初に造られた島「オノゴロジマ」である。

 イザナギとイザナミは、オノゴロジマに降り立ち、太い柱を立てて宮殿を造った。そして、イザナギは左回りに、イザナミは右回りにその柱を周り、お互いの魅力を褒め合うという結婚の儀式をとり行なった。それはお互いを褒め称えると共に、互いの過不足をも補おうとするものだった。つまり、二人ともほぼ完璧なのに、女である伊弉冉には一カ所掛けた所があり、男である伊弉諾には一カ所余分なところがあるというのである。そこで互いの過不足を埋め合うことで完璧になろうというのである。それが結婚するということである。その結果、二人は「蛭子」と「淡島」という2人の子を授かるのである。ところがどうも丈夫な子どもができない。いや、丈夫でないどころか障害のある子なのである。「蛭子」に至っては三歳になっても歩くことさえできなかったという。

 そこで、イザナギとイザナミは一旦高天原に戻り、神々にこのことを相談した。すると神々から、結婚の儀式の際に女性であるイザナミが最初に声をかけたのが良くなかったのであろうと助言された。そのため、2人はオノゴロジマで儀式をやり直すことにした。

 結婚式が正しく仕切り直されてからは、淡道之穂之狭別島(淡路島)、伊予之二名島(四国)、隠岐の三つ子島(隠岐島)、筑紫の島(九州)、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(本州)を次々に産み出すことができた。この8つの島を「大八島国(おおやしまのくに)」と言う。それが終わると、夫婦はさらに、吉備児島(児島半島)、小豆島、大島(周坊大島)、姫島、知訶島(五島列島)、両児島(男女群島)の6つの島を造った。これが「国産み」である。

 こうして国の基礎ができあがると、次は神々を産み始めた。石、土、海、風、山などの森羅万象の支配神を産んでいったのである。しかし、火の神であるカグツチを産む際に、イザナミは女陰に火傷を負って、て命を落としてしまう。これに怒ったイザナギは、剣でカグツチの首をはねてしまう。そのときに流れた血からも、石折神や根折神など様々な神が産まれたと言われている。

 その後、妻を失い悲しみにくれたイザナギは、妻に会いたい一心で黄泉の国へ行った。真っ暗な洞窟を降りていき、黄泉の国の扉の前に着いた。イザナギがイザナミに向かって「帰って来て欲しい」と声をかけると、扉の向こうから「黄泉の国の神に頼んでみますので、決して中を覗かずに待っていて下さい」と言うイザナミの返事があった。イザナギはしばらくの間待ち続けたのだが、なかなかイザナミが出てこない。しびれを切らしたイザナギは約束を破り扉を開き、暗闇を照らし出すために、髪にさしていた櫛の歯を一本折って火を灯した。

 するとそこには、蛆がわく醜い姿に変わり果てたイザナミがいたのである。その恐ろしい容貌を見てイザナギは思わず逃げ出してしまう。イザナミは、約束を破ったために姿を見られたことに怒り、黄泉の国の醜女や雷神たちと共にイザナギを追いかける。

 イザナギは無我夢中で地上へと続く洞窟を駆け上がり、ようやく黄泉の国との境目「黄泉比良坂(よもつひらさか)」に辿り着く。そこには桃の木が生えており、それを目にしたイザナギは追ってきた黄泉の国の住人たちに桃を投げつけた。すると桃が持つ魔除けの効果によって皆散り散りに逃げていったので、イザナギはその隙に黄泉の国へと続く洞窟の入り口を大きな岩で塞いでしまった。

 すると岩の向こうから、怒りに燃えたイザナミの「あなたの国の人を毎日千人ずつ殺すこととしましょう」と言う声が聞こえてきた。これに対し、イザナギは「では私はこの国に毎日千五百人の人が産まれるようにしよう」と答えたのだった。これが、人間の生と死の始まりだということである。

 地上に戻ったイザナギは、穢れた身体を清めるために水の中で禊(みそぎ)をした。そのとき、左目を洗うと天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、右目を洗うと月読尊(ツクヨミノミコト)が、そして鼻を洗うと素盞鳴尊(スサノオノミコト)が次々に産まれたという。こうして誕生した子どもたちは「三貴子」とされ、イザナギの跡を継いで国を治める神々となったのだった。

② 不虞の子として生まれた「えびす」の誕生後

「蛭子神」というのは、日本神話のイザナギとイザナミの間に最初に生まれた子であり、「蛭のような見た目をした」手足がない不具の子であるであったため「ヒルコ(蛭子)」と呼ばれたということである。このような「蛭子(ヒルコ)」が生まれたのは、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が夫妻となり、性交の前の愛の告白を、先に女性である伊邪那美命からイザナギノミコトに声をかけた事に原因があったと言うのである。確かに、やり直して男神である伊弉諾尊が先に伊弉冉尊を誘うことから初めた性交では、正常な子が生まれたということになっている。おころが、このヒルコは3歳になっても足が歩くことができなかったという。そのため、葦船に乗せられて海に流されてしまうのであった。いわば捨てられたのである。その後の詳しいことははっきりしない。ただ、流された蛭子神が漂着した土地の漁民に拾われ、成長して福の神となったとされ、これ以降、恵比寿信仰と結びついて尊崇されるようになるのである。恨み事の一つも言いたくなるのではないかと思うのだが、そうではなく、海の彼方から幸運を運んでくるというのである。海から恵みをもたらす神として信仰されるようになったのである。

 流れ着いたのは、全国各地に伝説があるが、全国に約3500軒ある恵比寿神社の総本社(えびす宮総本社)である西宮神社の社伝には、流された蛭子神は和田岬(神戸市)に漂着し、後にこの西宮に鎮座して蛭子神となったとされている。

③ 福神としての「えびす」の誕生

 えびす神は、聴きの中に直接は登場しない。そのため、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきた。蛭子、事代主神、少名比古那神、火々出見命(山幸彦)等の諸説があるが、えびすを祀る全国の神社では蛭子説と事代主神説が圧倒的に多いのである。

 こうしてえびすの本来の神格は、人々の前にときたま現れる外来物に対する信仰であり、海の向こうからやってくる海神とみなされた。そこから、古くから漁業の神でもあり、神格化された漁業の神としてのクジラのことを指すこともある。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。

 実際日本各地の漁村ではイルカやクジラ、ジンベエザメなど(これらをまとめてクジラの意味である「いさな」と呼ぶ)を「えびす」とも呼んで、現在でも漁業神として祀る地域が多数ある。クジラやジンベイザメなどの海洋生物が出現すると豊漁をもたらすという考えから「えびす」と呼ばれ、漁業神とされる。実際にクジラなどが出現するとカツオなどの漁獲対象魚も一緒に出現する相関関係があるといわれている。現実的な利益があったからこそ祀られ続けたといえるだろう。

 それが商売繁盛の神とされていくのである。特に、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れたとされる。同時に福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱とされる福神としてのえびすは、ふくよかな笑顔(えびす顔)で描写されるようになったのである。

(2) 「国譲り神話に登場する「事代主神(ことしろぬしのおおかみ)」であるとする説

①もう一つは、「えびす神」が、大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)とされるものである。かつて出雲の支配者であった大国主命が、現在の天皇家の皇祖神である天照大御神の孫にその支配地を戦争することなしに譲り受けたという話である。

 出雲の「国譲り」の概略は、出雲の国を治めていた大国主大神が、天照大御神の子孫である天津神の御子(迩々芸命)に国の支配権を譲ったという日本神話である。この出来事は「古事記」や「日本書紀」に記されており、大国主大神が国譲りの条件として、自身の住むために「天つ神の御殿と同じくらい大きな神殿を造る」ことを願い、その結果として出雲大社が造営されたというものである。

 天照大御神は、自分の孫である迩々芸命を地上に降ろし、葦原水穂国を治めさせようと考えた。実質的には支配地の拡大であり、領地侵略に他ならないであろう。

 その実現のため、具体的には天照大御神は、大国主命の子供たちである兄の建御雷神(タケミカヅチ)と弟である建御雷神(タケミナカタ)を通して、大国主大神に国の譲りを迫ったということになっている。つまり武力闘争によるのではなく、領地の放棄を説得にかかったというのである。

 これに対して、驚いたことに大国主大神の息子である事代主神(コトシロヌシ)は、天孫に国を譲ることに同意したというのである。いったい何があったというのだろうか。両者の間に圧倒的な軍事力の差があったとは思えない。では、どんな脅し材料を持っていたというのだろうか。その詳細は不明である。

 一方で、もう一人のもう一人の交渉相手である弟の建御名方神(タケミナカタ)の方は、力比べを挑んだという。この「力比べ」というのが、実質的な武力戦争のことを指しており、不当侵略の印象を払拭するために、遠回しの言い方をしているのだろうか。

 「力を比べ」の結果、建御名方神は敗れて逃げ出し、最終的に信濃の諏訪湖で降参し、国を譲ることを誓ったということになっている。対象の命までは取らなかった者の、これは明らかに戦の勝敗を示してはいないだろうか。いくら取り繕っても領地の略奪以外の何物でもなかろう。

 こうして息子が二人とも国を譲る決断をしたことを知った大国主大神は、自身の住む場所として立派な宮殿(出雲大社)を建てることを条件に、国譲りを承諾したといわれてきた。長い間そこで要求された神殿のスケールは、あまりに広壮な神殿で、実現不可能な伝説に過ぎないと思われてきたが、実在するものであり、柱の跡なども発掘されている。さらにその予想完成図も、間違いなく存在したものとしてゼネコンによって描き出されている。

 この神話は、天皇の日本列島支配の正当性を伝えるものとして、勝者の側から記録された歴史の典型として、日本神話の中で大きな役割を果たしている。

 それにしても、あまりにも不自然な「国譲り」が、どのようにして実現したのであろうか。ほぼあり得ない事実の歪曲ではないかという疑いが強いが、無血クーデターのようなこともあり得ないわけでもない。残酷な血生臭を可能な限り払拭しようという意図の産物であるかどうかは別にしても、「無血開城」ならぬ「無血譲渡」は、出雲國「国譲り神話」の謎として、今なお納得できる解釈は成立していない。ただし、いずれにしても古代の出雲勢力と大和王権による支配権をめぐる交代が起こったことは間違いないのである。

 この神話は、出雲勢力の強大な力が、後の大和王権にどのように統合されていったのかを、勝者である大和王権側が「流血のない禅譲」として物語を再構築したと推測されるのだが、大和王権が圧倒的な武力で出雲を支配したことにしなかった理由も、出雲が征伐されるべき悪質な政権であったとも描き出さなかった理由はどこにあるのかは、謎のままである。

あくまでも平和裏に禅譲されたと主張する大和政権であるが、そうではなかったという敗者の痕跡が残されている。それは参拝方法としめ縄に顕著に残されているようである。参拝作法は伊勢神宮形の一般の神社が「二礼二拍手一礼」であるのに対して、出雲大社は「二礼四拍手一礼」とされている。またしめ縄の向きは逆になっている。一般の神社が神様に向かって右側が上位で、右側にしめ縄の太い部分が来るように飾るのに対して、出雲大社では反対に左側が上位とされて、しめ縄の太い部分は左側に飾られている。なお伊勢神宮が式年遷宮によって清新さを保つのに対して、出雲大社は部分的な修理によって更新されている。さらに年に一度出雲大社には全国の神々が集まるため、旧暦の10月は「神無月」と呼ばれ、出雲地方だけ、「神有月」と称していると云うことだ。こうした微妙な違いを大切にしている所に、出雲大社が支配し尽くされたわけではないという小さな、しかし絶対に譲らないという維持が現れているような気がする。

 それでも、勝者である大和政権からすると、あくまでも「恵比寿」は異端であり、服従した者という意識はなくならなかったのだろう。「えびす」を「戎」や「夷」と書くことは、中央政府が地方の民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様で、えびすが外来の神であり、異邦の者を意味するとされている。しかし、天照大神を皇祖神とする現在の天皇家の支配に対して、国譲りをした敵対者という意味で部外者とみなした結果ではないかとみることもできる。

②この大国主命とえびす神が親子であるとされる説である。

 大国主命と大黒天は、どちらも「ダイコク」と音が同じであることから、同神と見なされるようになっていく。

 大黒天は、もともとはインドの仏教の神であった。日本では日本独自の神々と外来の仏教の神とを融合させて信仰する「神仏習合」という思想が長く認められてきた。この考え方の元で、名前の共通性だけでなく、豊かな福をもたらすとされる大国主命と、豊穣の神である大黒天とが結びついて、本来は同一神だと見なされていったのである。

 大黒天は日本に渡来して大国主命と同一視されて以来、事代主とは兄弟と見なされてきた。

③事代神とえびす神との同一視

 事代神がえびす神と同一視されるようになったのは、出雲国譲りの神話に始まっている。国譲りの際に、事代神は釣りをしていた神として登場する。豊漁をもたらして国を支える神とされたのである。それが、釣り竿を持ち鯛を抱えたえびす神の姿と豊漁をもたらす神である恵比寿神とが結びつけられるきっかけとなったのである。この結果、多くの恵比寿神社で、事代主の神が、祭神として祀られるようになったのである。

 事代主は大国主命であり、国作りに貢献した豊漁の神であることから、恵比寿神と同一視されたのだが、そうなると恵比寿神は大国主命の息子であるということになる。

 その結果大無荷主と同一視された大黒天と、恵比寿神は、「蛭子大黒」として。一緒に祀られる事になったのである。恵比寿の大漁満足や商売繁盛と大黒天の五穀豊穣とが、御利益の類似性も伴って、長く一緒に祀られているのである。

(3) 障害と蛭子神

 恵比寿神は、地方によって異なった様々な障害を持つ神として描き出されている。それは「脳性麻痺」で、手足はぐにゃぐにゃで、言語障害もあったというのが広く普及した姿である。そのほかには、両性具有、隻眼(片目)、聾、などといった症状を持っていたとされることもある。

 足が不自由な原因は、ワニか魚に食われたとされることがあるとされることもあり、  聾は「聾」の字が龍と耳からできており、恵比寿神が「蛭」から「蛇」となり、さらに「龍」と同一視された結果で花井かとされることもある。

 こうみてくると、恵比寿神は、障害児として生まれ、親に捨てられたにもかかわらず、舞い戻って、恨みの一言も発することなく、豊穣や商売繁盛をもたらし、国や民衆を守り、長く祀られている存在となっているとみることができそうである。

 また恵比寿神は、七福神の一人として、海の彼方から宝船に乗って、幸福をもたらしになってくる。ほかの六柱の神々が、中国やインドの神々であるから、海の彼方からやってくるのが当然であっても、生粋の日本生まれであるはずの恵比寿が、海の彼方から舟でやってくるのは、捨てられたからこその結果である。

 障害を持って生まれ、庶民によって助けられ、後に豊かさをもたらす神として再生するというのは、破壊と創造・再生のサイクルをモチーフにしているといえそうである。

 日本では、古来から地震・洪水・津波などといった自然災害が多発してきた。そうした被害に対して対立して堅固な守りを構築するのではなく、共存し、復興・再生を模索する道を模索してきた例は、枚挙にいとまがない。身近な所では洪水に対して、堅固な橋を建築するのではなく、いったんは破壊されて押し流されつつも、散乱してしまわないようにつなぎ止め、沈静化した後に、組み立て直すといった「流れ橋」がその代表だろう。それに類した工夫は至る所に見受けられる。また、川の氾濫による洪水も、防波堤などで防ぐのではなく、洪水がもたらした上流の土砂が、下流の生産地の肥料として再利用できるするサイクルを築き上げていくのである。まさに破壊と再生のサイクルに他ならない。古くは、災害を神の怒りとして受け入れ、寄り添い、再生に励むといった人生観であり、社会のあり方を規定したことと、まさに重なる考え方ではないだろうか。

 言い古されてきたことでもあるが、「異端」を排除することによって効率化を図る世の中が加速している。教育基本法の「能力」によって、ふさわしい教育を受ける権利を有するという趣旨の規定の負の側面が重大な問題として曖昧にされることが限界を迎えているようである。

 能力に応じたふさわしい教育を用意して、「個にふさわしい」環境作りという名の下に、実質的には差別と選別を推し進めるしかない時代に終止符を打ち込まなくてはならない時代が、これ以上待ったなしの時期を迎えているのである。

 日本では、江戸時代以前からの「日本的なもの」をことごとく否定して、明治期から、欧米列強に肩を並べるべく、「富国強兵」という名の管理強化と選別主義を推進してきた。それをさらに先鋭化して、資源もなければ小国に過ぎない日本が世界制覇をもくろんで、あらゆる場面で我慢を強いて、無謀を重ねた戦前の天皇主義、帝国主義の元で切り捨てられてきたことが戦争直後にははっきりととらえられ、全否定された。それが平等主義であり、教育で言えば単線化の教育制度であった。それが進歩と発展の名の下に、牧歌的で悠長なことはもう通用しない、個によりふさわしい場を与えるとして、社会全体においても教育の場においても、細分化がまるで当然のことであるかのように採用されてきている。教育の場であれば、それまではエリート選抜を第一としてきた結果、特に障害児に対する教育はないがしろにされてきた。それが昨今は手厚い「特別支援教育」が準備され、かつてに比べてはるかに手厚い施策が施されているかのように見える。しかし、別路線に乗った瞬間から、「再生・復興」のチャンスを徹底的につぶされてしまうのが現実である。

 障害児として親からも見捨てられた「蛭子」の再生物語は、今なお原因と結果の間があまりにも何の検証もない状態のままに放置されてしまっている。この再生物語は、無意識のうちに前提にしてしまっている学校制度の整備・改良ではなく、全く別の発想を持たなくてはならないかもしれない。洪水の後、一面の土砂に覆われ尽くした土地の再生を復興するのも、自然災害の壊滅的な被害からの復興も、制度としての学校から、少なくとも一時的には離れなくてはならないように、もっと別の新しい発想が必要とされているのかもしれない。かといって、イバンイリイチのように、社会全体が「学校化」していることを非難してみても、共感できる所があったとしても、さほど生産的な者が生み出せなかったことにも注意する必要がありそうである。

 どうすれば、恵比寿神のように再生できるのであろうか。障害を持って生まれて差別されながら、恨みもなく再生して、社会にも人々にも貢献できるようになる道筋は見つかるのだろうか。恵比寿神にすがって御利益を求めるのではなく、恵比寿神がたどったであろう道筋は、どうやったら見いだすことができるのだろうか。