ひな祭り

  ひな祭り

 ひな祭りは、ひな人形を飾り、女の子の健やかな成長を祈る節句の行事です。ひな人形を飾るために、「ひな祭り」と呼ばれますが、もともとは五節供のうちの二番目、「上巳(旧暦の3月3日)の節句」や「桃の節供」とも呼ばれました。今年で言えば旧暦の2023年の3月3日は、4月22日(土)に当たります。ちょうど桃の花が咲く時期にぴったりです。暖かく春らしくなるこの時期に、子供が野遊びに出かけて「草花雛」を作ったり、野外料理を食べたりする地方もありました。「こどもの日」が制定されるときに、3月3日ではなく5月5日が選ばれた理由の一つに、新暦の3月3日では寒さの厳しい地域もあり、全国的に温暖な気候となる5月5日が選ばれたとも言われています。「男の子の祭り」である端午の節句のみがこどもの日とされ、「女の子の祭り」であるひな祭りが祝日にはされなかったという結果になりました。

  ひな祭りの歴史

 もともと節句には男女の区別などないのですが、「ひな祭り」がどのようにして生まれたのかということと、女の子の祭りとされるようになったことには関係があります。

 ひな祭りの起源は、人形人形(ひとがた)の風習、「天児天児(あまがつ)、這子這子(ほうこ)」などによる祓(はら)いの信仰、「ひいな遊び」などが融合したものだとされています。

 古代の中国には、上巳の日(3月最初の巳の日)に川で身を清める風習があり、これが日本に伝わって草や藁などで作った人形に、汚れや災いを写して、海や川に流す「流し雛」の風習となりました。当時の乳幼児の死亡率は、現代とは比較にならないほど高く、赤ん坊のうちに亡くなることは珍しくありませんでした。そのため親としては必死の思いで子の成長を見守り、枕元に形代を置き、魔除けとしたのです。そして1年の災いを、春の雛流しで払ったのです。他方で、上流階級の子女の間には「ひいな遊び」という遊びがあり、これらが融合して「ひな祭り」ができあがったものと思われます。

  江戸時代には、庶民の間にも定着しました。初期には形代形代(かたしろ)(紙に霊が降臨するものとして、人形が娘に襲いかかろうとする病や穢れ、災いなどを人形に写すこと)の名残を残した「立ち雛」や座った形の「坐り雛」が、男女一対の内裏雛として作られていました。その後祭礼的な意味が強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具となると華美で贅沢なものとなっていきました。製作技術の発展により、様々な人形が作られるようになり、ひな人形は鑑賞するものに変わっていきました。十二単衣の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などは金箔張りの屏風の前に内裏人形を並べた立派なものでした。江戸幕府が倹約令を出した折には、大型のひな人形は一時禁止されましたが、この規制を逆手にとって「芥雛」と呼ばれる精巧を極めた小さなひな人形が流行したりしました。その一方で、「ひな人形は、祭りが終わったらすぐに片付けること」とされました。俗に娘の婚期が遅れると言われましたが、これは穢れ払いの儀式の名残で、「娘の災厄を受けとめてひな人形を、いつまでも家の中に飾っておかないようにするためだったと思われます。

  ひな人形の飾り方

 もともと形代としてのひな人形は紙や土などで作られた原始的で簡単なもので、川や海に流されるもの(流し雛)でした。平安時代の貴族の子供の間ではやった「ひいな遊び」の人形も、子供の持ち物でした。

 それが江戸時代に、宮中の殿上人殿上人(てんじようびと)の装束を模したものとして発展していきます。現在のひな人形の冠も髪型も江戸時代以降に新たなものとされたところが多く、平安時代からの伝統的なものとは違ってきています。

(1) ひな人形の作られ方

  ひな人形の作られ方には、大きく分けて次の二種類があります。

 ① 衣装着人形・・・衣装を胴体に着せ着けて作る人形

 ② 木目込人形・・・木や粘土で型を作り、型の溝に合わせて布地を入れ込 んで作る人形

(2) ひな人形の並べ方

   ひな人形の並べ方にも次の二種類があります。

 ① 京雛・・・左側(向かって右)に男雛、右側に女雛が座っている。かつての宮廷では、左側が高い位と

     された(左大臣が右大臣より暗いが上)ことに習った並び方。

 ② 関東雛・・・右側(向かって左側)に男雛、左側に女雛が座っている。現代では「右上位」が国際基準

       となっている。浸透したのは大正時代以降のことです。

(3) ひな人形の飾り方

   ひな人形の飾り方には、次の4種類があります。

 ① 七段飾り・・・一段目(男雛と女雛)、二段目(三人官女)、三段目(五人囃子囃子(はやし))、四段目(随身)、五段       目(仕丁)、六段目・七段目(お化粧箱や御所車、花後などの嫁入り道具)を並べます。

 ② 五段飾り・・・三段目までは七段飾りと同じで、四段目に推進と仕丁、五段目に嫁入り道具を並べます。

 ③ 三段飾り・・・三段目の五人囃子までのタイプです。嫁入り道具は、五人囃子の周辺に並べられます。

 ④ 親王飾り・・・男雛と女雛一対だけのもので、室町時代まではこれが普通だったとされます。

  なおそれぞれのひな人形は次の通りです。男雛と女雛は、天皇・皇后をもしています。官女は、中央が三方(関東)か、島台(松竹梅;関西)、向かって右は長柄、左には提子提子(ひさげ)を手に持っています。五人囃子は能のお囃子を奏でる五人の楽人です。向かって右から謡(うたい)(扇を持つ)、増え、小鼓、大鼓、太鼓と楽器の小さい順に並んでいます。随身とは、右大臣と左大臣のことです。向かって右が年配の左大臣です。いずれも武官の姿をしています。仕丁とは、従者や護衛、雑役のことです。怒り・泣き・笑いの三上戸の別称もあります。

  ひな祭りに用意される食べ物

  ひな祭りのお祝いに提供される食べ物には次のような願いが込められています。

(1) ハマグリのお吸い物

  ハマグリの貝殻は、もともと対だったものがぴったりと合い、会あわせ

 などの遊びで使われました。一生添い遂げる仲の良い夫婦にちなんでいま

 す。

(2) 菱餅

  上巳節が中国から伝わると、厄除けを願って母子草をを入れた緑色の草

 餅を食べる習わしとなりました。しかし、母子草を撞くのは「母と子を撞

 くようで縁起が悪い」とされ、日本ではヨモギを使うようになりました。江

 戸時代になって菱の実を入れた白い餅が加わり、菱餅は2色になりました

 植物の菱は、水面に広がって繁ることから、菱形は成長が早く、繁栄緑芽。

 強いので、子孫繁栄や長寿の願いを込めたものとして古くから親しまれてき

 ました。他に、菱形は神像を表しているともいわれ、健康や長寿を願う気持

 ちも込められていると言います。更に明治時代にはクチナシの実を入れた桃

 色の餅がが加わり、菱餅は「桃・白・緑」の三色となりました。それぞれの色

 には次のような意味が込められています。

 ・桃色;魔除け、先祖を尊ぶ。

 ・白色;子孫繁栄、健康、厄除け。

 ・緑色;魔除け、健康。

 更に、色の順番にも意味があります。下から「緑・白・桃」とします。これは白い雪の下から緑の新芽が芽吹き、桃の花が咲く春が訪れた様子を表しているのです。このようにして、桃の節供では、女の子の健やかな成長と豊かな人生への願いがたくされています。

(3) ひなあられ

 ひなあられの起源ははっきりとはしません。貴族が行っていた「ひいな遊び 」で食べていた、菱餅を砕いていったお書きが元になっているとも、菱餅を、外 でも食べやすくするために砕いて焼いたのが始まりとされます。また、米を煎 った縁起物だとか、お釈迦様の命日のお供えのお菓子が元になったとも言われ ています。

(4) ちらし寿司

  日本ではお祝い事に「寿司」を食べる習慣があります。「寿」を「司る」と書かれているところからも、おめでたい席での食べ物の代表でした。

  古くは、お祝い事に提供されていた「なれ寿司」が、「ばら寿司」に変化し、彩りの良い「ちらし寿司」が好まれるようになったということです。代表的な具に込められた願いは次のようなものです。

  エビ・・・腰が曲がるまで長生きできるように。

  蓮根・・・遠くまで見通せるように。

  豆・・・健康でまめに働けるように。

  おまじない、飾り物、食べ物とあらゆる手段を通じて、女の子の健やかな成長を願っているのでした。

  

執筆日          2024年2月9日(金)                   (Feburary9th・師走30日)