卒業式
学校はその成立当社から始業は4月1日で、終了は3月31日とされました。その終業の直前に卒業式が行われます。今年度は3月19日の火曜日に行われます。この卒業式は、いつからどんな形で始まり、どのように変化してきたのでしょうか。
卒業式は、学校における教育課程をすべて修了したことを認定し、卒業証書を授与することで、門出を祝う式典です。欧米にも大学の学位授与の式典はありますが、中学校卒業、高等学校卒業など、各学校段階ごとに祝う日本のような式典は見られません。教育課程の修了が公的試験によって認定される国では、卒業という概念がなく、卒業式は行われません。こうした式典があるのは、日本以外では、韓国だけのようです。
日本では、1872(明治5)年の学制施行に伴い、試験終了者に対して卒業証書を授与したことが起源となっています。学校が創設された当初は、現在のように1年生、2年生・・・というような学年学級ではなく、就学を希望する子供達は、年齢に関係なく「下等小学第八級」に入り、試験に合格してその級を卒業するというものです。試験は半年ごとに行われました。その後1870(明治10)年代頃に現在のような独立した儀式として定着しました。最も古い記録は、1876年6月29日に陸軍と山学校で行われた「生徒卒業式」だろうと言われています。近代国家の威信を示すものとして大々的に行われたと言います。さらに東大でも1877年に「第一回卒業式」が行われています。
小学校で卒業式が行われ始めたのは、師範学校で始められた儀式がもたらされる形で始まりました。師範学校の卒業式は1879年3月13日に行われた東京女子師範学校です。これが現在の卒業式の原型となりました。1895年には文部省(当時)から「1等級の標準修学期間が半年間から1年間へと変更」され、学級編成も行われるようになり、、卒業式は年に一回行われるものとなりました。
もともと学びたいときに随時入学し、半年ごとに進級試験で「卒業」する仕組みだった学校は、入学式も卒業式もできませんでした。それが大学ができはじめると、海外の大学をまねて、一斉入学、一斉進級という形が取られるようになりました。当初は海外に合わせて9月に入学し、8月に卒業していました。明治19年度に会計年度を7月始まりから4月始まりとしました。この法改正により、明治18年度は、7月から翌年の3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄を合わせて、赤字を削減したのです。学校の新年度も「会計年度」が成立したことにより、3月に卒業、4月に入学という形が定着しました。
厳かな中学校の卒業式
中学校の卒業式は、小学校や高等学校に比べて練習を重ね、厳かな雰囲気の中で行われることが多いようです。本格的な儀式として実施されるのは中学校だけではないかとも言われています。
中学校の卒業式の位置づけは、学習指導要領には儀式的行事の一つとして規定されています。しかし、実際には、卒業後の自律的な言動を再確認する場として行われています。
中学校の3年間、一人一人の生徒は様々な場面で学習します。学校内での学習はもちろん、校外に出かけていく社会科学習やいわゆる遠足(昨今は校外学習と呼ぶことが多いようですが)がのほかに、宿泊を伴った行事が行われます。各学年にそれぞれ1回から2回ほど実施されることが多いようです。その宿泊行事を系統的に結びつけ、1年時に「全員が無事に行動すること」、2年時には「誘惑に負けずに規律を守った言動をすること」3年時の修学旅行で言動に加えて、他人に役立つ善行を行うこと」といったような到達目標を掲げ、たった数日であっても、卒業後に立派な大人としての行動を取ることができるかどうかを確かめる場と位置づけられています。修学旅行は、日常の校内、校外での生活、得て自主的な活動をする校外学習・宿泊学習の集大成として、卒業プレテストの意味を持たせています。そこまでの学習で不十分充てんがあれば、本当の卒業式までに補習をして、合格に充分な力量を付ける必要があります。そうして「立派な大人」になる可能性をこれ以上ないと言うほど高め、確認して、それを発揮するのが「卒業式」です。素早く適切な行動をし、協調して皆に合わせた行動を取ることができ、幼子とは違って成長した結果の忍耐力や胆力を示す場として、厳粛な卒業式を、みんなで作り上げます。
卒業式の中で一人一人が感謝の言葉を述べたりすることもありますが、原則として黙ってその成長ぶりを示すことが大切だと思います。3年間の生活や思い出を振り返り、感激のあまり、何か自分の存在した印を残したいという欲求に駆られて、机に落書きを残したという人がいました。いつまでも自分の存在した証拠を残したかったのでしょう。しかし、その机は、落書きがあり、平らな筆記面を十分に確保できないものとして、いの一番に廃棄されてしまいました。安易な言動が返ってしっぺ返しを受けてしまう例です。独りよがりの思い入れは、必ずしも思い通りの結果を残さないことが多いこともまた人生勉強の一つです。
制服の歴史
儀式には制服がつきものです。普段制服を着ない学校でも、儀式の際には着用が義務づけられていることが多いようです。制服は、個性を奪い、自分らしさを演出する練習の機会を奪ってしまう面があります。本当はあまり似合うとは言えない服装を、流行を追うことに夢中になって身につけて得意になっていたりすることも、学生であれば恥が少なくて済むということもあります。学習することと失敗することは切っても切れない関係にあり、制服を強制されることはその学習の機会を奪われてしまうかもしれません。
もともと義務教育においては「制服」は存在せず、「標準服」なのです。全く同じものである必要はないのです。しかし、現実には寸分違わぬものしか認められていません。しかし、同時に「標準服」は、最も体型に左右されにくい形をするように、長い歴史の中で作り上げられてきました。誰でも似合うというわけにはいかなくても、最も無難な格好の一つです。同時に、自由な服装にすると、他人との比較が思わぬ競争を生みかねません。一般に各自の家庭の影響を断ち切るために同じような服装をする意義があるとも言われてきました。
第二釦釦物語
今や「制服」も様変わりしつつあり、男子の詰め襟は少数派となってブレザーにネクタイが主流となっています。女子も男子と同等の服装に近づきつつあり、リボンではなくネクタイ、スカートで花屑本といった複層が増えてきています。
そんな昨今、「第二釦伝説」などは廃れてしまっているのかもしれません。ブレザーには第二釦などありません。また、もともとは、普段は女子が積極的に告白することができかねる常識がはびこっている中で、「バレンタインデー」と並んで、数少ない女子からの告白が許され、期待されていたのが「卒業式」でした。
詰め襟というのは、首元まで釦やホックで締めて着用するタイプの襟のことで、かつては男子の学生服の主流を占めていました。その学生服には5つの釦があって、金色に光っているものが一般的でした。子の釦の上から二番目の釦は、もうこの制服を着なくなる卒業式の後で、最も大切に思う人にあげるものとされていました。女子から要求され、それに応えて渡すことが承諾の印だったのです。
なぜ、第二釦が大切な人に与える元とされたのかには、
(1) 戦時中が由来という説
第二次世界大戦の終わり頃には、日本は物資が不足し、戦地に赴く少年達に軍服を準備することが
できませんでした。そのため少年達は軍服ではなく詰め襟の制服のまま入隊しました。そして、戦地
に行けばそのまま戦死して二度と戻れなくなるかもしれないという旅立ちのときに、「自分の分身と
思ってください」と、自分の形見として、密かに思っていた相手に第二釦を渡したのです。
第一釦だと、首元まで釦を閉めることができず、だらしなく見えて上官から取ってもあまり目立た
ない第二釦が選ばれたといわれています。
(2) 映画が由来という説
1960(昭和35)年に公開された「予科練物語 紺碧の空遠く」という映画の中に、恋心を抱いた男
性と女性がいました。しかし、思いを告げる前に男性は特攻隊として戦争に行くこととなり、別れの
ときに男性が軍服の第二釦を女性に渡し、男性はその後命を落としてしまいます。
子の映画の公開後から、卒業式という別れのときに女性に第二釦を渡す習慣が広まったといわれて
います。
(3) 「ハートをつかむ」が由来という説
「第二釦」は心臓に一番近い場所にあるため、「好きな人のハートをつかむ」ために、あげたりもらったりするようになったという説があります。
(4) 「一番大切な人になりたい」が由来という説
「第二釦」は一番大切な人を表しているとされました(下の釦の意味参照)。「この人にとって一番
大切な人になりたい」という気持ちから、あげたりもらったりするようになったという説があります。
ちなみに、第二釦以外の釦にはどんな意味があるのでしょうか。
《学生服や軍服の釦の意味》
・第一釦・・・自分自身を表している
・第二釦・・・一番大切な人を表している
・第三釦・・・友人であることを表している
・第四釦・・・家族を表している
・第五釦・・・他人を表している
男女同権も、ジェンダーレスも、もちろん重要なテーマですし、今後もさらに徹底しなくてはならないものであることは間違いないでしょう。しかし、不幸であり、抑圧されており、貧困であるからこそあり得たことというのもまた、この世にはあったのではないでしょうか。
執筆日 2024年2月16日(金) (Feburary16th・睦月7日)