「やっと終わったぜ。」「なげーなあ」。今日初めて隣り合わせたに過ぎない間柄でも、そんな声が自然に漏れてしまう程、長い儀式が続いていた。そんな声はあちこちから聞こえてくる。やっと会場の体育館を出て、長い渡り廊下を通って、校舎に入り、階段を上っている。自分の教室に行けばやっと一休み出来る、と思っていた。
ところが、階段は渋滞していた。大勢が一度に移動する時、しかも初対面の者ばかりで統制も取れていない時には、起こりがちなことである。しかしそれにしても要領が悪すぎるのか、ひどい渋滞でしばらく経っても全く前に進まない。終いにはイライラしてくる。押し合いへし合いして、やっと4階まで上がると、前方は満員電車の中のように人だかりでぎゅうぎゅう詰めになっている。これではまだ10mほども先にある自分たちの教室に入るのは当分無理である。当分一休みはお預けである。しかも前方の集団はいっこうに室内に入ろうとしていない。廊下に立ち止まったままであるかのようである。さっさと入れば良いのに、いったい何をやっているのだ。よほど要領が悪い奴ばかりなのだろうか。かつての名門校を自負してはいるが、やはりもはやそんなものは幻想に過ぎなくなってしまったのだろうか。
今日は高等学校の入学式である。この当時の都立高校には「学校群制度」というのが敷かれていて、近所にある複数の都立高校がセットにされていた。受験は希望の高校そのものではなく、希望校が含まれている「学群」を受けるのである。合格してもそのグループ内のどこかの高校に合格出来るというだけで、自分で学校を直接選べない仕組みになっていた。志望校を受験することは出来ず、当然の結果として、たとえ合格しても希望校へ入学出来るとは限らなかったのである。運良く、ぼくは希望していた高校に入学することができた。これは都立高校の中での格差を是正し、極端なエリート校をなくしてしまおうという、平等主義がもたらした政策である。後になってはっきりしてくるのは、この制度によって都立離れが加速した。それまでは都立高校の滑り止めに過ぎなかった私立高校が躍進することになったのである。都立と私立の逆転現象は、すさまじい早さで進行した。しかもその流れは、一度動き出すともはや誰にも止めることはできなかった。関係者にとっては夢にも思わなかったことなのだろう。授業料が安く、設備がしっかりしており、伝統も揺るぎないものを持つ都立高校が、後発の私立高校などに立場を危うくされているのであった。偏差値的な難易度でいえば、かつてはいわゆる「滑り止め」であった私立高校の多くが、都立高校を追い抜いてしまい、年配者には大きな混乱をもたらしたのである。「あんな高校」と馬鹿にして見下していた私立高校が躍進し、「すばらしい」と認識していた都立高校が、誰でも入れる格下の高校と変わってしまうのである。本来なら、「公立」高校はそれでも良いはずだが、官尊民卑の伝統を継ぐ日本社会では、都立高校の栄光にすがりつきたくなるノスタルジックな感情も厳然と残っていたのである。
この高校は、東京府立の旧制中学・高校として出発した。創立当初は、東京市立高校とは別格のエリート校の一端を担っていた。創設地は、当時はそれほどでもなかったかもしれないが、今になってみれば東京の一等地で、放送その局や流行の最先端を担っているような商業施設が建ち並ぶ場所となっている。それが現在の東京の外れの地に移転してきたのは地元の強い要望があり、国鉄(現在のJR)もその移転を後押しするため、近所にこの高校生専用といってもいいような駅を設置したほどであった。公共交通機関と地方自治体挙げての活動の結果、地元悲願の名門校の誘致が、やっとの思いで叶ったのである。それが、ただ入学式場である自校の体育館から自分たちの教室へ戻るというただそれだけのために、大渋滞を引き起こしてしまったのである。明日から毎時間のように行き来する場所である。それがまるでたむろする観光客の一団のようににっちもさっちもいかなくなってしまっているのである。
我が家の近所の一年先輩の医者の息子は、この学校群を受験し、合格はしたのだが、希望していた本校ではなく、同じグループに属していた、元高等女学校に振り分けられ、半年後にはそれを苦にしたらしく、自殺してしまっている。たぶん責めたり冷遇したであろう家族にしてみれば、取り返しの付かないショックであったに違いない。程なく医院も閉鎖されてしまった。
もはや都立高校にかつての格差などありはしない。実際合格者が、成績順などではなくグループ内の学校に振り分けられているだけのことである。しかし、当人にとってはどうしても納得出来ないものだったのだろう。入学してしばらくしてからわかったことだが、「かつての名門」の意識は意外に根強く、先生方もこの高校の卒業生が多く、ことある毎に「名門復活」を口にしていたし、態度からにじみ出ていた。しかしその象徴である大学への進学状況は、名門復活は遠く及ばず、悲惨を極めているのだった。プライドに実質が伴わないのは、まさに悲劇でしかない。後に水道橋にあった、建物からしていかにも由緒ある学習塾で出会った友人の学校名を聞かれ、「知らない」と言われた。彼はわざわざ「三高」と刻まれた校章を付けた帽子を被り、制服を着て塾に通ってきていた。
2
入学式も、今にして思えばかつての名門を担う意欲を植え付けられ、その気になった先輩達が、名門意識のかけらもない新入生に向かって差を見せつけようという意識があふれ出ているものだった。
式次第には、特別に変わったところがあるわけでもなかった。しかし、式が終わった後に、小柄ではあるががっしりした体格の、色の浅黒い教師が登壇した。その教師の登場に、後ろで式に参加していた先輩達による大きな拍手と盛大な歓声が沸き起こった。新入生は「何事か」と思い、戸惑うしかなかった。叩いてみたり、「あ」と声を出してみたりと、もったいぶってマイクの調整をしたかと思うと、腹の底から出てくるような声で、新入生に向かって号令を掛け始めた。折角念入りに調整したが、マイクは不要だ。何ということはない、「気をつけ」「礼」といった単純な号令を数回繰り返しただけのことだ。とりあえず、ぼくら新入生はその号令にしたがった。とはいっても戸惑いながらのことであり、統制の取れた状態とはかけ離れている。すると突然「1年坊主は、なってねえなあ」と絶叫した。ここでまた上級生の歓声と拍手が体育館重に轟いた。そしてその教師は、新入生を後ろに向かせた。そして先輩達に向かって号令を掛けた。確かに練習のあとが窺えるような、統制の取れた所作には違いなかった。そしてこう付け加えた。「これが本校の真の姿だ。お前達は入学したとは言え、本当に本校の生徒になれたわけではない。先輩達を見習って、一日も早く我が校の生徒となれるように努力しろ」そう言い捨てて降壇すると、その後を追うように後ろから先輩達の拍手喝采と、叫声がしばらくの間続くのだった。確かに新入生と先輩の所作には、大きな差があることは誰の目にも明らかだった。やはり先輩には見習うだけのものが備わっていると認めない訳にはいかないのだろうか。そう思った矢先のことだ。「一週間も掛けて練習して、あの程度かよ。」とつぶやく声が、ほんの数人、前に並ぶ男子生徒から聞こえてきた。「あの中にうちの兄貴がいるんだよ。」というのである。一見見事に見えた手品も、種を明かされてみれば何のことはない、単純きわまりない誤魔化しであることが多い。ここにもまた、形ばかりで中味のない見栄があったのである。
こうなると、今見聞きしたことは、すっかり気持ちの良いものではなくなった。「先輩を見習え」ということそのものは、それほど悪いことではないのだろうが、練習をした挙げ句に出来るようになったらしいことを、ぶっつけ本番で、今日初めて顔を合わせたばかりの新入生の集団行動と比べて、優越感に浸っているかのような姿は、全く尊敬に値するどころではなかった。確かに先輩の所作が、我々新入生より多少はまともであったにしても、種明かしされたあとでは、見事とは思えないばかりか、ましてや感動するどころではなかった。強いて言葉にすれば「下品」という言葉がぴったりだ。これが復活すべき「名門」の内実であることは、最初の日から明らかにされていたのである。その後はこれが日々確信に変わっていくのであった。
その時微かに感じられたのは、我々もこうしたことを来年の新入生に向けてやらされる立場になるのだろうか、ということだった。だとすれば、愚かな見栄っ張り集団の一角を担わされることになり、将来に希望が持てなくなり、入学の喜びは深い霞に覆われてしまった観があった。
3
随分時間がかかったものの、ともかく廊下の渋滞はやがて解消し、自分の教室に入ることができた。この渋滞の原因が何であったのかは、すぐに明らかになった。
あのときたくさんの生徒が廊下に集まっていたのは、実は新入生ではなく、そのほとんどが先輩達だったのである。なぜ先輩が新入生の教室前に集まってきたのか。それは野次馬精神がもたらしたのである。B組のひとりの女子生徒が稀に見る美形だというのだ。これは大きな驚きであった。時間は一時間以上もかかったとはいえ、入学式を後ろから見ていただけで、そんな「美形」を見出すことができたことになる。相当な観察眼を持っているとしか思えない。常に目を皿のようにして、飢えた目で女子を漁っていたとしても、入学式直後に、大勢の男子生徒が、その美少女情報を、短時間のうちに情報を共有し、拡散して、数百人もの男子生徒が集まるような事態を生み出したのである。対したものというべきだろう。
旧制の府立中学・高校だった本校はもともと男子校であり、新制高校となってからも、9クラスのうち4クラスが男女半々で、残りの5クラスは男子のみのクラス構成となっていた。人数でいえば、女子が80人に対して、男子は280人いたのである。さらに人数だけではなく、伝統的に本校には美人が少なく、男勝りの女生徒ばかりが集まる傾向があるといわれていた。ただでさえ女性に興味が強い年代の男子高校生が、こうした環境に押し込められているのであるから、女子に異常なほどの興味があったとしても無理はないのかもしれない。それにしても見事な探索力、観察力であり、情報の拡散力にもある意味尊敬してしまった。これほどの情報網が出来上がっているということは、受験を頂点にした、高校生活に関するさまざまな情報が提供され、拡散される素地が出来上がっているとみるべきだろう。それは大きな価値を持つに違いないと思われた。
先輩達にはやや遅れて、新入生の中にもその「情報」を得て、その女子の顔を拝みに行く者がひっきりなしに出現した。噂はその女子で持ちきりである。顔を見ただけであるはずなのに、まるでその女子をよく知っているかのような話がまことしやかに流布していた。声や仕草のすばらしさはもとより、考えていること、好み、性格など、枚挙にいとまがなかった。理解力、観察力の披瀝競争が始まったかのようであった。それはまるで、ついつい自分が知っていることを、誇張しまくってしまう井戸端会議そのものであった。
そうした同級生達の様子を見ているうちに、情報網の確かさに対する信頼は、どうにも胡散臭いものに見えてきた。陳腐なエリート意識を植え付けようとしている教師達のお先棒担ぎをしている浅はかな先輩達と既に同類として、重なって見えてくる様に思われた。獲物を見つけ、噂を広め、仲間意識を醸成して、無内容な虚無的なコミューンでも作り出して満足するといったような一連の能力を素早く身につけていたのだろう。「校風」に染まるとは、まさにこういうことなのだろう。学校群の中で希望者が多いと思われる方の学校に、見事に入学出来たはずだが、それもただの「運」に過ぎず、そこに集まった生徒は、噂に乗せられるだけのでくの坊、お調子者の集団でしかないかのような嫌悪感に包まれはじめた。全く期待しなかったという訳ではない旧制府立中学・高校の後進という誇りは、すっかり色褪せてしまった。
そうした予感通りに、せめてもの取り柄かとおもわれたことも、たちまちのうちに粉砕されてしまった。入学式という短時間のうちに、後ろからしか見られないというハンデを持ちながらも、非常に優れた観察力を発揮し、素早く仲間に情報を伝達するという能力を発揮出来るというのは、才能もまたありもしない幻想だったのである。優れた才能や伝統かと思われた情報網の存在にも、絡繰りがあったのである。すべての発見や情報の拡散が、入学式の場で行われたわけではなかったのだ。何と言うことはない、その女子の出身中学校を先に卒業した在校生達が、中学時代から評判だった彼女が入学してくることを、事前に広めていただけのことだったのだ。中学時代にあこがれていながら、遠目に見ているだけしかできなかったのであろう烏合の衆が、「先に知っている」ということを唯一の優越感にして触れ回っただけのことだったのだ。特殊能力でも何でもなかったのである。自分の彼女でも何でもない赤の他人を、まるで親しくつきあって知っている人であり、寧ろ自分のものででもあるかのように吹聴し、自慢した結果に過ぎなかったのである。まさにただのお調子者に過ぎなかったのである。わかってみると、先輩にも、新入生にも、何一つとしてみるべきものなどない連中だったのである。見事な手品の絡繰りや種というものは、明らかになってみれば、がっかりさせられてしまうものでしかなく、何の感動も沸かないものである。
4
先輩たちだけではなく、同級生たちの間でも彼女の噂で持ちきりだった。ほとんど誰もが、彼女がいかにすばらしいかを、まるで自分の自慢話のように続けていた。
ぼく自身は、格好をつけるわけでもないが、・・・いや格好をつけていたことも十分あるが、彼女を褒め称える者が迫ってくる度に、「ちやほやされる女は、性格が良いはずがない」と、その輪に加わらなかった。話の調子を合わせることなく、いわば仲間外れになることを自ら好んでいるかのような、つきあいにくい、鬱陶しい存在だったに違いない。しかし実際、そう思っていた。それで、自分の自慢のように彼女のすばらしさ、かわいらしさを語り、当然のように同意を求めてくる奴らを、一切相手にしなかった。彼女がすばらしいのか、性格が悪いのかについて、真剣に言い争いをする必要などあるはずがなかった。というより、できるはずがなかったのである。そもそも誰が彼女のことを詳しく知っていたのであろうか。分からない話を自分好みに無理やりねじ曲げてして、何になるというのか。中には向きに成って言い争いに来る者もいたが、こちらも向きに成って無視を決め込んだ。何しろ「彼女」というのを見たこともなかったので、いったい誰のことを言っているのか知らなかったのだから。全くまともに相手にしないために、自分の言い分に同意するのが当たり前だと思い込んで近づいてくる者達は、大いに反発し、その揚げ句に気が抜け、つまらなそうに退散していった。
「究極の選択」と言われる質問が流行っていた時期もあった。通常ではあり得ないような極限状態に陥った時に、ましな方を選択するという問題だ。その中に「美人だが性格が悪い女子と、ブスだが性格がよい女子ならどちらを選ぶか」というのがあった。多くの場合、かなり迷うようであったが、僕の答えは考えるまでもなく決まっていた。応えは、一貫して「ブスを選ぶ」だった。「美人で性格が悪い」というのは、きれいにラッピングされた化粧箱に入っている「うんこ」か「ゲロ」のようなものだ。そのうえ、入れ物がきれいであればあるほど、中味を知ったあとでがっかりする落差は大きいはずだ。そもそも、包み紙が美しければ、自然と中身に期待してしまうのが自然の流れだ。開けた中身がっかりするようなものだとしたら、その落差は普通以上に大きくなって当然だろう。その反対に「ブス」は、いずれ気にならなくなるものだ。テレビタレントの中にも、最初のうちは正直のところ、たとえ見るに堪えない顔をしていても、段々と見慣れていくものではないだろうか。化粧の仕方も関係しているかもしれないが、少なくとも異様な感じはしなくなる。それは、見ず知らずだった時と比べて、その人の内心や性格が理解されてきた結果だろう。顔が「仮面」ではなく、「馴染み」になるということだろう。ましてや性格の良さはつきあっているうちに、馴れるにしたがって、つきあいやすさに変わっていくに違いない。そうであれば、評判の女子を見に行こうと誘われても行くことはなかった。見に行きたいと思わないばかりか、「美形」の中にある種の気を引きたがるようなあざとさのようなものを垣間見てしまいそうな気がしていた。もちろんすべて予断に過ぎないが、周りの環境との加減で、信念だと思っていたのだろう。意地を張っていた部分もないことはない。
評判の美人が誰を指しているのかを、実は知ることもなかった。たぶん、意図的に避けていたのだろう。それでも、性格ブスに違いないと決めつけていた当人を知らなかったのだから、無責任きわまりない話だ。ただ、降りかかってくる美人伝説を支えるには、押し返すほかなかったということだ。そのうえ、「美人だ」などと言ってもたかがしれているという気持ちもあった。「美人」を外から眺めるだけなら、アイドルタレントがいくらでもいる。それで充分だとしか思えなかった。そもそも人を好きになるということは、皆に宣伝することではなく、もっと密かなものでなければ、偽物に違いないという気がしていた。騒ぎたいだけなのだという気がして仕方がなかった。自分が彼女を美人と持ち上げて話題にすることで、まるで自分と並べることができているかのような気になっているのだ。それこそまさに「恋愛ごっこ」ではないのだろうか。「恋愛ごっこ」がお望みなら、勝手にいくらでもしてくれという思いだった。「ごっこ」はあくまでも偽物に過ぎないのだ。だから、自分が彼女を好きだということを、彼女本人より先に周囲に公言するというのは、初めから諦めているということに違いないと思った。なにもわざわざ、「俺は彼女をあきらめているぞ」などと吹聴してまわることもないだろう。本気ならいくらでもつきあう価値があるにしても、「ごっこ」遊びにつきあうのはご免だ。ただもマスターベーションではないかという気持ちがあった。タレントを追いかけ回すのは、たとえ本当に好きだったとしても、実際につきあうなどということはあり得ないからこそ、どうどうと吹聴するのだろう。
いろいろと理由をつけては、意図的に避けていたのは、ある意味では意地になっていたと言える部分もあったかもしれなかった。それは、ちやほやされていい気になっているであろう女子に、勝手に嫌悪感を感じていたということも原因になっていた。それでもそれほどムキになり、意地になって忌避しているという訳ではなく、近づかないようにしていたというのがぴったりではないだろうか。そのことと果たして関係があるかどうかはわからないが、中学校の二年生の時に、密かに好きだった女子が、とんでもない不幸な目に遭ってしまい、その結果二度と会えなくなってしまう原因を作ってしまったということがあったためだ。その子のことが忘れられなかったことは確かで、その子以上の女子がいるはずはないと信じようとしていたのだ。もしかしたら「評判の美人」には、見た目に限れば、負けてしまうという虞もなかったとは言えない。それでも最も大切な人は彼女しかないと思っていたのだ。思っていたかったのかもしれない。
5
しばらくすると、高校生活は淡々とした落ち着きを取り戻していった。相変わらず「伝説の美少女」「本校始まって以来の美少女」の噂はくすぶっていたが、それも随分下火になっていった。と言うより、彼女が見た目どころか性格についてもすばらしいことは、誰もが疑うことのない「常識」であるかのようになっており、ことさら話題にすることもなくなっていた。ともかく、狂想曲は収まって、疑う余地のない常識として認識され、特別に騒ぐ者などいなくなったのだ。
僕のように彼女のすばらしさを認めようとしない者は、その件においては、完全に蚊帳の外に置かれていた。賛同しない異端者は友達を失うと言われ、実際僕に対して安心して彼女の良さを話すことによっている者はいなくなった。しかし、それ以外については特に村八分という訳でもなく、平穏な毎日が続いていた。女の話がすべてであろうはずもなく、友達は減りもしなかったが、伝説の美少女を一向に認めず、売り言葉に買い言葉で、彼女を悪く言う僕の前では、彼女の話をする者はいなくなった。無駄な言い争いをする必要も無くなり、それはむしろありがたかった。知りもしない彼女の悪口を言い立てるのは、行きがかり上とはいえ気持ちのいいものではなかった。
部活動では、秋を迎えると、3年生は引退し、受験勉強が本格的になってくる。新人戦の時期になり、2年生が中心だが、1年の中からもメンバーに選抜される者が出てくる。実力主義を貫くか、在籍期間や貢献度を加味するかは、どこの部でも微妙な関係を生みがちである。
中学時代から、どちらかというと、少しばかり名の知れた選手となっていた。今では珍しくも何ともないが、各企業の抱えるトップチームの下部組織に所属していたぼくは、全国優勝を何度もしている私立高校に進学するものと思っている人も少なくなかったようだ。そのため都立高校に入学してきたぼくへの対応は、かなり風当たりの強いものだった。π立ちのやっかみからか、先輩としての威厳を保つためか、練習からは排除される形での待遇が目立った。その分補修作業や後片付けやグランド整備などは、何かと理由を付けてひとりでやらされた。いわゆる「いじめ」に属する待遇だったのだろうが、本当にそうした作業は苦にならなかったために、何でもなかった。ただ一人きりでもグランド整備が遅れて、定時制の授業に食い込んで文句を言われるのは多少気になった。また、ふと彼女のことを認めないことも含まれた嫌がらせなのかと思うこともないとは言えなかった。もしかするとぼくの彼女に対する、「ちやほやされていい気になっているに違いない」という、性格ブスと決めつけるかのような評価は、こうした先輩たちからの嫌がらせからの思い込みだったのかもしれない。確かに、本人を全く知らないにも拘わらず、彼女を「性格ブス」と決めつける勢いは、知らず知らずに増していったかもしれない。ぼくもまた彼女に対する、言われなき誤解をもっていたもかもしれない。
6
台風の季節がやってきて、試合が近いというのに、朝の練習が中止になってしまった日のことである。台風ぐらいで練習が中止になるから我が校は弱いのだ、とひとりでぶつぶつ文句を言いながら、教室で時間をつぶしていた。実際サッカーというのは戦争が元になっており、天候によって中止になるなどと云うことはなかった。雪が積もってボールの行方が分からなくなっても、台風の強風で、ボールが前に飛ばず、へたをするとゴールキックとコーナーキックの繰り返しになってしまっても、ゲームは中止されないのが当たり前だったのだ。雷が鳴っても中止になることなどなかった。お蔭でほんの数メートル離れた位置で雷に直撃された経験もある。地響きがして、もんどり打ってひっくり返り、起き上がった時には、ほんの数メートル先に、黒焦げになった死体が転がっていたという訳だ。その時は、状況が把握できずに、あとから恐怖が湧き起こってきた。そうなってはたいへんだが、それでもたいていの天候では、試合は中止にならないというのに、練習はさっさと中止してしまうというのだから、到底勝てっこないチームを抜け出せないのだ。
そんな言っても仕方がない文句をぶつぶつ言っていると、隣の教室から物音がして来ることに気づいた。「こんな早い時間から、誰かいるのだろうか」と思い覗いてみた。女子生徒が一人だけいて、床を掃いたり、全員の机を水拭きしたりしている。机を拭く度に起こるガタガタという音がさっきから聞こえてきていたのだ。「そういえば、罰当番はよくやらされたな」などと振り返ってみた。今も部活の準備も後片付けも、ひとりに押しつけられている。そんな境遇であるために、微かにわかり合える可能性を感じたのかもしれなかった。しかし、どうも罰当番をやらされているようには見えない。それにたった一人というのもピンとこない。「きっとだれかにやらされているか、あるいはたまたまその辺を汚したとか、何かを壊したということもありうるかな」と考えてみたが、それ以上に深刻には考えなかった。それから数日して、また朝練が中止になる機会があった。文句タラタラで早朝の無駄になった時間を嘆いていると、またしても隣の教室から物音が聞こえてくる。この前と同じである。そっと覗いてみると、またあの女子が机を拭いている。最初は、「今日もやっているのか」と思っただけだったが、「あれ、もしかすると毎日やっているのか」と思い直した。不思議に思い始めると気になって仕方がなくなる。いつものことなのか、何のためなのか、誰かにやらされているのか・・・、疑問が数珠つなぎに湧いてくる。それで次の日から、朝練で登校したら、直接部室には行かずにまず教室に来てみることにした。
すると・・・何と彼女は毎日教室内の掃除をしていたのである。しかも掃除をしているということがわかるような痕跡も残していないようだ。誰かにやらされているのなら、確かにやったという証拠が必要だろう。そうでないから、痕跡も残さないのだろう。ひょっとすると、そのクラスの生徒でさえも、誰も知らないのではないだろうか、という気がしてくる。男だけのわがクラスは、ろくに掃除もしていないので、それこそ机の上には埃がたまり、室内を走り回ると砂煙が舞い上がる状態であった。それに比べて隣はものすごくきれいなのだが、それが当たり前となっていて誰も疑いもしないのだろう。「すごい女子生徒だ」と感動してしまった。朝練が中止になる、その結果試合に負けるなどといったことで不平を言いながら朝の時間をだらだら過ごしていた自分が、彼女とは比較にならない程ちっぽけな者に思えてきた。どうやら彼女は、密かに、誰に認められようというのでもなく、こつこつと毎日続けているらしかった。そこでぼくも彼女のやっていることは秘密にすることにした。誰かに知らせれば大いに誉められるに違いないが、そうなると彼女はそこでやめてしまうのではないか、という気がした。ぼくだけが知っているという秘密に満足する思いもあった。まるで品行方正な彼女と、秘密を共有したかのような気に、勝手になってしまっていた。「伝説の美少女がなんだというのか。見てくれが少しばかりいいだけで、みんなにちやほやされることになれている嫌な奴に違いない。本当に美しいというのはこういう子のことを言うのだ。」と確信した。自分の見つけた秘密に大満足で、独り悦に入ってしまった。
その後時々、顔を合わせる様になった。というよりぼくが確かめに行ったのだ。それでも言葉を交わす事はなかった。眼だけで挨拶したようなしないようなといった状態だった。その後終いには「おはよう」という挨拶だけはする様になったが、それ以上の事はないままだった。「元気?」でもなければ「綺麗になったね」でもないというのは、考えてみればそれこそ不自然きわまりなかったに違いないが、それで精いっぱいだった。
7
年が明けた。部活での世代交代も顕著になってきた。それに伴うかのように、学校生活でもいつまでも「最下級生」ではいられなくなった。先輩になるというだけではなく、2年に進級する時には、文系と理系に別れることになり、はっきり希望を決めなくてはならなくなった。そんな時期になってもぼくの友達の中には、まだ「伝説の美少女」の噂話、自慢話が絶えない者が少なくなかった。自分の彼女でもないのに自慢してどうなるのか不思議でさえあったが、熱心に語る者がまだまだ結構な人数にのぼっていた。彼女のことを、自分が自慢することが、いつの間にかまるで自分を自慢しているかのように錯覚してしまって、満足していたのだろう。だからこそまともに話を聞くことは、まずなかった。彼女について、ありとあらゆる賛辞を述べ尽くすと、満足してそれでいつもは何となく話がフェードアウトしてしまうのだった。ところが今日に限って、どうしたわけか、いつまで経ってもしつこく彼女の話が続いた。いつも通り鼻先であしらって、まともに相手にしていなかったのだが、まるで今日こそはぼくに同意させよう、認めるまで後には引かないぞといった意気込みのように感じられた。あまりのしつこさについつい、「自分の彼女でもない女子を自慢してどうなるっていうんだ。自慢の女はオマエの彼女になりそうなのか。」いつもならせいぜいそこまでなのだが、今日はついつい「だいたいもっともとすばらしい女子がいることに気づいていないお前達はかわいそうなもんだ。」と言ってしまったのだ。そうなるとどちらも後には引けなくなってしまう。終いには、おまえの言う美少女などが足元にも及ばないような、本当の美少女を教えてやろうという悪戯心が起こってしまった。彼女のすばらしさを言葉で伝えるのは物足りない。いかにすばらしいかは伝えるには朝の彼女の掃除の様子を見せるのが一番だ。打ち合わせをしたわけでもなく、本当の姿を見せれば、感動しない奴はいないはずだ。しかしそれはそうなのだが、彼女のすばらしさをぼくだけの秘密にしておけなくなってしまうのは、ちょっと残念な気もした。ストーカーではないけれど、こっそり彼女のすばらしさを、毎朝覗き込むようにして垣間見る楽しみはなくなってしまうかもしれなかった。きっと彼女は、周りに知られたとなったら、その日を限りにやめてしまうだろう。それでもその友人達に、黙って明日の朝早く来るように約束させた。意地の張り合いが、勇み足を生み出してしまったのだ。後悔は先に立たないのだが、思わず口走ってしまって後に引けなくなってから、「しまった」と思ったのだった。
次の日の早朝、やってきた友人3人に、絶対に他では口外しないようにときつく申し渡して、こっそり彼女の様子をのぞき見た。いつもなら自分の秘密は、本当に蜜の味で、楽しみであること100%だったのだが、正直のところ今日はあまり良い気持ちがしなかった。それこそ悪事を働いているような気がしてならなかった。それでも「どうだ」という気持ちが強くあって、自慢げな調子で感想を聞いた。自分だけの秘密を開示して、相手を完全に屈服させて、大満足することになるはずだった・・・のだが・・・。
友人達は、あきれたような顔をして、ため息をつき、こう言った。「バカじゃないのオマエ。おちょくってんのか。」と3人で顔を見交わしたあと、「あれがすばらしい彼女だって。何言ってんだ。あれが我等が伝説の美少女だよ。知らねえのか。」言われてその瞬間に、頭の中が真っ白になった。次には、さまざまな思いに駆られた。ともかく「教えるんじゃなかった。」
8
それからは、早朝に教室へ行くことはなくなった。朝練の時は、直接部室に向かった。当然彼女と顔を合わせる機会もなくなった。もともと授業中にも、休み時間にも、顔を合わせることはなかった。友人の多くは、彼女が校庭で体育の授業を受けていると、こそこそ眺めて、目配せしながら密かにいやらしい喜びを共有しているようだった。ともかく朝練の時間にも、昼間の時間帯にも、放課後の部活動の時間にも、帰り道でも、彼女に会わないように慎重に行動した。まるで何かを恐れ、逃げ回っているかのようであった。もちろん意識して逃げ回っていたわけではない。当然のようにそうしていたのだ。何しろ、知りもしないのに、彼女がちやほやされて図に乗ってお高くとまっている嫌な女と決めつけて、友人達と繰り返し言い争った身としては、彼女に合わせる顔などなかった。ただ、そのうち自分が、実は彼女を強く意識していることに気づき始めていた。
彼女と顔を合わせなくなって随分たち、さほど意識しないでも彼女と顔を合わせない行動するのが、次第にごく自然になっていた。当たり前になって意識せずに行動する様になって、油断したというわけではないのだが、彼女と「再会」する時が訪れた。帰り道の途中で彼女の姿を目にしてしまった時には、どきりとした。考えてみれば同じ学校で生活して、隣の隣のクラスで、教室は同じ階にあるので、それまで出遭わなかったことの方が不思議な位なのだが、今はそれどころではなかった。両手で鞄を膝の前に提げて、ややうつむき加減で立っている彼女の前を通り過ぎる事になる。もちろん知らん顔をする事も出来るかも知れないが、わざとらしすぎる様な気がする。かといって親しげに挨拶することなどで来そうもない。平静になろうとすればする程、動作がぎこちなくなっているのが、自分でもわかった。何とかして少しでも自然に振る舞いたい。あまりにも不自然にならないように、できればごく自然に見えるように振る舞わなくてはならないと、心底緊張しながら、表向きは何でもない顔をしようと無理した。自然に見えるためにはどうしたらいいんだろうか。素知らぬ顔を装いながら、心の中はフル回転していた。しかしわずかな距離は、たちまちのうちに埋まってしまった。考えがまとまらないうちに、彼女と目が合ってしまう。反射的に「やあ、久しぶりだね。最近会わなくなっちゃたね」と歩みを緩めつつも、立ち止まらずに話しかけた。彼女はにっこり笑っただけだった。そうか、いかにも自然に会わなくなってしばらく経つことを、わざとではなくたまたまだと繕おうと必死だったが、彼女からしたら会わない事は何でもなかったたのかもしれないではないか。「最近会わないね」などと言われる事こそ不自然で、驚いてしまったかも知れなかった。もともと会う約束もなければ、予定したことでもなかったのだから。そう気がつくと、更に恥ずかしくなって、急いで彼女から離れるしかなかった。かなり離れた場所まで早歩きをして、落ち着くと恥ずかしさが更にこみ上げ、何も無理して余計な事を言わなければ良かったと激しく後悔した。ただ、すれ違った時の彼女の笑顔がすてきだったことに救われた。まるで褒められてでもいるかのような気がした。彼女から褒められることなどあるはずがなかった。ただ一つ、毎朝の掃除を誰にも言いふらさなかったことが、彼女を安心させていたのかもしれなかった。だとすれば、朝の掃除を覗き見た連中には、もう一度口外無用と釘を刺さなくてはならないような気もしたが、それが返って知っていることをひけらかす原因にならないとも限らず、やぶ蛇は避けたいと思う気持ちとの間で呻吟せざるを得なかった。
9
再び彼女とは顔を合わせない日が続いた。
もともとこの高校には、旧国鉄(今のJR東日本)が、この高校に通う生徒のために駅を創設していたのだが、高校を挟んで反対側のちょうど同じくらい離れたところには私鉄の駅があった。彼女の家はその私鉄の下り線に乗って二駅目が最寄りの駅だった。ぼくの家は、同じ私鉄の上り線で二駅目が最寄りの駅だった。ただ、ぼくは通学には電車は使わず、最初のうちはバイクを使っていた。今、高校生がバイクで通学する事は出来ない様だが、当時は免許も取れたし、通学も可能で、自転車とはべつにバイクの駐車場も準備されていた。
それまで電車で通っていた彼女とは行き帰りに出会ってしまう心配はほぼなかった。ところがある日、彼女が自転車通学を始め、駐輪場で出会ってしまった。特別な関係というわけではないのだから、何て声を掛けようかなどと悩む必要はなかったのに、この前は余計な事をしてしまったと恥じていたぼくは、黙ってバイクを引き出してきて、エンジンをかけ、そのままやり過ごす気でいた。すると走り出した途端に、彼女から「サヨナラ」と声を掛けられた。已に走り出しており、慌てて振り返ったが、彼女はもう遙か後に遠ざかってしまっていた。挨拶ぐらいきちんとすれば良かった、とまたしても後悔するばかりだった。何をどうしても、後悔しか残らないのだ。
挨拶ぐらいはする様にしよう。でもそれ以外はどうしたらいいのだろうか。挨拶したからと言って親しげにしたら、うぬぼれていると思われるんじゃないか、などと考えは堂々巡りするばかりだった。どうすれば良いのか決められないまま、翌日を迎えてしまった。
ともかく帰りがけにあった時には、はっきりと挨拶することにした。もちろん毎日駐輪場で会うはずもなかったが、毎日どきどきしながら、それでいて彼女がいないかどうか、内心きょろきょろ慎重にくまなく探していた。出会わないように用心しながら、その実「偶然」出会える事を期待しているのだ。
しかし出会えない日の方が圧倒的に多かった。お互い部活があり、終わる時間も違うし、部員同士のやりとりもあるのだから、点と点での出会いなど、それこそ奇跡に近い合流だった。それでも内心物足りなくなってきた。まずはバイクをやめて、自転車に変えた。駐輪場をゆっくり出られるようになり、ほんのわずかな時間でも会うチャンスを増やすことが出来たことになる。もちろん実際にはこんなことぐらいではほとんどチャンスは増えなかった。出来る事ならもっと頻繁に会いたい。もちろん、嫌がられたら仕方がない。避けられてしまえばそれまでのことだ。それでも差し当たりもっと頻繁に会えるようにしたいという思いが募ってきた。考えてみれば出会ったのは早朝の教室であった。また毎朝早朝の教室に行けば、毎日でも会えるはずだ。もし会いたくなければ、彼女の方が来なくなるかもしれない。そうなってしまっては早朝の掃除が出来なくなってしまい、彼女にとっては不本意なことで申し訳ないことをしてしまうことになる。しかしそうなったらなったで、ぼくの方が「もう来ない」と宣言するなり、実際に行かない日が続けば彼女が再び続ける日が戻ってくるに違いないだろう。結果がどうなれ、彼女の邪魔にはならないと信じれば事足りるような気もしてくる。
翌日から早速早朝の教室で挨拶することが復活した。日を重ねて、軽い言葉を添えるようにもなってきた。そうしただけだったはずなのだが、なぜか帰りの駐輪場で出会うことが格段に多くなっていった。
挨拶だけ交わして、そのまま別の方向に帰るのが当然だったものが、遠回りをして途中まで一緒に帰ることが増えてきた。一緒に帰る距離も、駅までだったものがその先まで、終いには自分の家とは正反対であるにもかかわらず、彼女の家の近所までといったぐあいに徐々に伸びていった。
もちろん、部活帰りには仲間とラーメンなどを食べて帰る事もあった。ばかげたことだが、誰が一番水分を取れるかといった、大食いの競争の飲料版のような争いもしていた。牛乳を何リットルも飲んだ挙げ句に、最後はヤクルトでの勝負だった。何のためにそんなことをしていたのか、今考えるとばかばかしい限りだが、当時は真剣勝負そのものだった。毎日のように飲み食いして帰っていた時期もあった。彼女の方も同じ部活仲間と帰ることが少なくはなかった。誘うなどという大胆なことをする勇気などなかったが、もし勇気を奮ったとしても、彼女を困らせる結果にしかならないのではないかと自分をなだめて、自重していた。
彼女と示し合わせたことはなかった。それでも段々と彼女が1人で帰りそうな日がわかるようになっていった。いつの間にか、密かにその日を狙うようになっていた。何となく彼女が1人で自転車置き場やその周辺に立っている時には、ぼくは一緒に帰るはずだった友達に「忘れ物をした」ことにして、友達を先に行かせ、自分たちが向かうのとは反対方向になる彼女の家に向かうのだった。
不思議と誰かに見とがめられ、噂になることはなかった。彼女は「伝説の美少女」で、みなのあこがれの的であったので、誰もが、いつでも注目していて当たり前だった。しかし、みんなのアイドルが、誰かとつきあうなどということ、ましてやぼくが相手になるなどということは誰も予想していなかったのかもしれない。もちろん、自転車に乗って並んで同じ方向に向かって走っているだけなのだから、考えてみれば、どこからどう見たところで、つきあっているなどとは言えないといえばその通りだった。
早朝の教室で、挨拶と共にひと言ふたこと言葉を交わし、帰りに週に一二度、自転車に乗って同じ方向に走って行く、というだけのことがぼくにとっての彼女との「交際」であったのだが、それはとてもつきあっていると言える代物ではなかった。ただ、ぼくにとってはそれで十分であり、何の不満もなかった。彼女と並んでいるというだけで十分すぎる程十分で、満足であった。そのうち、どんなきっかけがあったのか忘れてしまったのだが、自転車には乗らずに、並んで押して歩くようになった。駅で別れるにしても、その方が時間がかかった。さらに暫くすると、駅で別れずに、彼女の家まで一緒に並んで歩くようになった。彼女の家までは、私鉄で2駅、歩けば30分弱かかった。そこからぼくの自宅まで、今度は自転車を必至で漕いでやはり30分近くかかった。つまり、彼女と会えれば、ぼくの帰り道は1時間近くかかっていたことになる。言うまでもないことだが、それは苦でも何でもなく、寧ろそう出来ないとがっかりしてしまって、心の中にぽっかりと穴が空いてしまったようで、早めに家に帰り着いても、何もする気になれなかった。時間を取られた方がよほど充実していたということだ。
充実した彼女との下校といっても、本当にひたすら並んで歩くだけだった。特に何かを喋った訳でもない。手を繋ぐなどということも、一度もない。ただただ一緒にいられるということだけで十分満足だった。しかし、考えてみれば、いったい何をしていたのだろうかと思えてくる。いや、何もしていなかったのだ。ぼくはそれで満足だったのだが、そんなことだけで彼女もよかったのだろうか。清純な彼女はそれでいいに違いないと思っていた。というより、何らかのアクションを起こして嫌われてしまうことの方が大きかったかもしれない。このままの状態を崩したくなかった。一緒にいられるだけで十分満足だったのだ。しかし、「男」としては、もう少しは何らかのアクションを起こすべきだったのではないだろうか、あとになってそう思うようになった。
並んで歩くこと30分。ほとんど何かを話したという記憶もない。本当に黙っているだけだったような気がする。笑ったことさえなかったように思う。じっと黙って、ひたすら歩いて、彼女はどう思っていたのだろうか。
確かにそんな思い出しかないのだが、どういういきさつがあったのか、一度だけ、駅までの途中にある喫茶店に、彼女と入ったことがあった。彼女から誘ってくるはずもないのだから、ぼくが誘ったに違いない。でも、どうやって誘ったのかも、何がしたかったのかも、全く覚えていない。そこで何を注文し、どんな話をして、どんな時間を過ごしたのだろうか。何もかも覚えていないことばかりだと、終いには本当に喫茶店に入ったのかどうかさえ、怪しくなってくる。それでも入ったことだけは夢ではなく現実なのだ。どうしてそんなことが言えるかといえば、その喫茶店に入って座った途端に、硝子張りの外の通りを、たくさんの生徒達が通っていったことを覚えているからだ。はっきりと知った顔を見た訳ではないが、女子生徒が多かったように覚えている。そして、こんなところに入ってしまって、彼女が友達にぼくなどと一緒にいるところを見られては申し訳が立たないと、そんなことばかりを気にして、入ってしまったことを後悔し、いたたまれなかったことははっきりと、まるで昨日のことのように生々しく覚えているからだ。そのせいか、通学路を遠く離れてからでも、どこかの店に立ち寄るなどということは、二度となかった。
そんな態度は彼女にも通じたに違いない。まるで彼女と一緒にいるところを見られるのを怖れているかのようだっただろう。そんな態度のぼくを、彼女はどう思っていたのだろうか。それでもその後も、彼女は一緒に帰ってくれた。どんな思いをもっていたかは分からないし、聞くこともできなかったが、それだけは事実だった。
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そんな彼女との、それこそ何もない「デート」を繰り返していたといっているが、実は一度だけ大きなチャンスに恵まれかけたことがあった。もう薄暗かったような気がするので晩秋か冬前の時期だったのだろうか。彼女の家のすぐ近くまで並んで歩いていた。例によってたいした話をしていた訳ではない。いつもの別れの場所に着いた。その先の角を曲がれば、すぐに彼女の家の玄関が見えてくる。いつもならそこで「じゃあ」と短い挨拶をして、さっさと自転車に乗って走り出して終わりだ。振り返って手を振るなどと云うこともほとんどなかったように記憶している。
ところが今日は、なかなか足が動かなかった。いつもとは何かが違っていた。何ということはない。いつもとは並び方が逆だったのだ。いつもは道路の中央側をぼくが、道路の端側を彼女が歩いていた。小さい子供は道路の外側の安全なところを歩かせるようにするのが常識とされた。彼女を子供扱いする訳ではないし、安全をことさら意識していた訳ではないのだが、自然とこの位置を取るのがいつものことだった。それが今日は逆だったのだ。気づいてみれば、たったそれだけのことに過ぎなかった。他に何か理由があったのかどうか・・・、はっきりとは思い出せない。ともかく今日はその場でじっと立ち止まってしまって動けなかった。金縛りにあったわけでもないのに、その場を離れがたくなってしまったのだ。まるで磁石のN極とS極が引きつけ合うように、離れがたくなってしまった。いつもより彼女との距離が狭まっていた。手を伸ばせばそこに彼女の肩があった。どれほど時間が経ったのか、思い切ってぼくは彼女の肩に手を触れようとした。その時道路の向かい側を、中年の女性が歩いて来た。いつもは人通りが割合多いのだが、そういえば今日はほとんど人影が見えなかった。はっとして、手を止めた。早く通り過ぎないかとしばらく待った。そのおばさんは、特にこちらを気にする風でもなかったが、じりじりするほどゆっくりした歩みだった。注目していないからといって、気づいていないはずはなかった。見えてはいるだろう。ぼくにとっては、全く見知らぬおばさんに過ぎないが、ここは彼女の家のすぐ近くである。おばさんは遠くからやって来た旅人には見えない。近所のスーパーで買い物でもした帰りであることが、レジ袋を提げているところから見て取れた。とすれば、彼女にとってはご近所さんである可能性が高い。彼女はおばさんに背を向けている。後ろ向きでも誰だか分かる程度の親しさを持っていても不思議はない。まさか「知り合い?」と確かめる訳にもいかない。ひたすらおばさんが通り過ぎてくれるのを、ただ待つしかできないのだが、それが果てしなく長い時間に感じられた。それでも待つしかなかった。このあとあのおばさんが、こんなところで見かけた彼女を見かけたことを、あちこちに吹聴して回るようなことになったら、彼女に申し訳ない。いや、もしそんなことをして回っていることが分かれば、おばさんにとことん抗議しに行く。しかしそれでは後の祭りだ。そんなことをしても、吹聴された彼女に対する噂が消えてなくなるわけではない。いやいやそれ以上に心配なのは、そんな噂を広められてしまったことを、彼女がぼくには隠してしまうような気がする。彼女はそれをひとりで抱え込んでしまいそうな気がするのだ。巡り巡って、尾ひれが付いて、彼女のお母さんやお父さんに知られれば、取り返しが付かないことになってしまう。そんなことにならないうちに、これは今すぐにやめるべきだ。何としても思いとどまらねばならない。そこでふっと、電磁石のスイッチが切れたように、引きつけあって離れがたかった磁気が消え去ってしまったようだった。
いつも通りの距離を取り直したぼくは、いつも通りに「じゃ」と言って自転車に乗った。彼女はその時いつも通り「うん」と頷いてくれたんだったか、にっこり笑ってくれたんだったか、黙ったままだったのか、全く思い出すことができない。彼女の顔を見られなかったのだ。何時も彼女の一挙手一投足には、素知らぬふりをしながらも、全神経を集中しているというのに・・・。後悔と、不甲斐なさと・・・、さまざまな思いが一気に吹き出して、それでも自分がどうしたいのかは纏まらないままだった。
自宅に向かって自転車をこぎ始めて
徐々に自分の気持ちの整理がつき始めた。何であそこでやめてしまったのか。もうこんなチャンスは、二度とないのではないだろう。一度やめてしまっておいて、あとでやり直すなどということはあり得ないのだ。家に着いてからも、僕は悶々としていた。夢にも彼女が登場した。夢の中では現実とは違って存分に思いを果たした。
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そんな不甲斐ないことがあったというのに、相変わらずたいしたおしゃべりもせず、どこかに立ち寄るでもない、自転車を押して並んで歩くだけの「デート」が、その後も続いた。不思議なことだった。「デート」というのは、一緒にいるだけで十分満足で、それ以上のことなど全く望まないぼくにしてみればだ。彼女にしてみれば、少しも楽しくなどなく、退屈なだけに過ぎなかったのではないかということは、後から考えれば、当たり前すぎるほど当たり前のことだった。それでもそうした関係が3年の夏休み前まで続いたのである。不思議としかいいようがなかった。
夏休み前までというのは、学校が休みになれば当然のことのように、彼女と帰る機会はなくなってしまうということだ。もし本物の「デート」であれば、学校のあるなしなどとは関係なく、一緒にいられる時間を確保しそうなものだが、そうしなかったということだ。
もっとも3年の夏休みは受験生にとってはかき入れ時であっ
た。他のことにうつつを抜かすなと言われる時期ではある。しかし、本当なら、受験という将来を左右しかねない大問題をもってしても食い止められないのが恋愛なのではないだろうか。普通ならそうに違いない。ところが「学校」の帰り道以外に、彼女と共にする時間を作ろうなどと言う考えは、当時のぼくにはなかった。帰り道一緒に歩くということだけでも贅沢きわまりないものに感じられたからだ。それだけで奇跡の出来事に思えたのだ。作ろうとしてできるものだなどとは思えなかったのだ。だから、下手に欲を掻いてしまうと、すべてが崩壊して、消えてなくなってしまうのではないかと怖れたのだ。なくさないように、壊れてしまわないようにしたという意味では大切にしたと言えるのだが、それが本当に大切にするということだったのだろうか・・・。
それでも夏休みに、ぼくは1週間だけ受験勉強を一切しない時期を作った。バイクで北海道旅行を計画したのだ。旅行というのは、普通は受験勉強の息抜き期間であるか、受験が終わってから、ご褒美などとして計画するものだろう。旅行そのものが第一の目標とされはしないということだ。しかしこの旅行は、旅行そのものが目的だった。しかもどうしてもこの夏休みに実現したかったのだ。それは、当時話題になっていた国鉄広尾線の幸福駅の切符を手に入れるためだった。愛国駅から幸福駅行きの切符が、「愛の国から幸福になる」として、爆発的に売れたのだ。今のようにSNSなどがなかった当時は、マスメディアのニュースだけが情報源だったはずだが、たちまちのうちに日本中に広まった。しかも、通信販売とかネット通販などといったものはなかった当時は、直接現地に行かない限り手に入れることはできなかった。せいぜい誰か知り合いに頼んで手に入れてもらい、それを譲り受ける以外、自分の手で直接手に入れるしかないのだ。そういう意味では欲しいものを手に入れるということが、今より困難な分だけ貴重であったかもしれない。これを手に入れて、彼女にプレゼントしようというわけである。しかもそれがこの夏休みでなくてはならないのは、幸福駅も愛国駅も、間もなくなくなってしまうという噂が流れていたからである。赤字を抱えたローカル線が次々と廃止され、駅も当然なくなってしまっていた。廃止時期が決まっていた訳ではないが、この夏休みを逃すと、もう永遠に手に入らないのではないかと思われた。そこには彼女との関係を、今のままではなく、より親密な関係にしたいという思いが込められていたのは間違いない。もっとも本来ならさまざまな関係やいろいろな段階があり得るのだろうが、そんな駆け引きも知識も持ち合わせておらず、「思い切って本気で告白してみよう」というだけのことあったろう。
不思議なことだが、学校は休みの夏休み中には、3年は部活動もなかったから、彼女と会えないのは当たり前のことと思っていた。彼女と会う機会をつくれば、むしろ普段以上に彼女と会える機会が増えそうなものだ。手をこまねいていれば、40日間以上彼女に会えないことになる。ところがそれは当たり前だと思っていたのだ。去年までも、夏休みはほぼ毎日部活動はあって、ほとんどが学校以外の会場でおこなわれたため、彼女と会えないのはむしろ当たり前の状態だったのだ。会えない期間は、むしろ乗り越えるべき試練の機会と考えていた節さえあった。
今なら、携帯電話やメールで、直接相手に連絡を取るなど簡単なことかもしれない。しかし当時はそんなものはなく、連絡を取る手段は手紙か家に備え付けられた電話しかない。手紙は大抵本人の元に届くだろうが、やや時間がかかるし、そのうえ少し頼りないところがある。まさか途中でなくなることはないにしても、家の中で紛れてしまわないとも限らない。差出人を見て、家族、特に父親が彼女にすぐには渡さないということもあるかもしれない。間違いなく本人と直接連絡出来るのは電話だが、これも家の電話だから最初に誰が出るかが問題だ。最初に本人が出てくれれば問題ないが、大抵は母親が出ることが多い。そこでは、名乗ってもどういう関係かくらいは聞かれるだろう。別に悪いことをしている訳ではないのだから、本当ならそんなことは何でもないことだ。しかし、いざとなるとどぎまぎしてしまって、不自然になり、慌てれば慌てる程怪しげな電話になってしまう。ましてや最初に父親が出てしまうと大変だ。簡単には繋いで貰えない。堂々としたやりとりが出来れば良いのだが、何とも言えない後ろめたさを感じてしまうのが常だった。たいていの場合は、父親が出た途端に、まちがい電話の振りをして切ってしまうことの方が多かったのだ。父親が率先して電話を取るというのは、普通であれば珍しいことなのだが、夕刻以降となると頻度が増してしまうのだ。受験生は、昼間はお互い図書館や予備校に通っていて家にはいないことが多い。確実に家にいるのは、夕刻以降となる、すると先に父親が電話に出る可能性が高まってしまうのだ。息子や娘の長電話が社会問題化し、電話を子供が独占するなどというのは、ずっと後になってからのことで、テレビが茶の間に高級家具の如く居座り、電話が特別な連絡手段として安易には使えないものとされた時期のことだったのである。
この夏休みにしか手に入らないものをもって、彼女への「告白」を覚悟したと言ったが、それも具体的に、いつ、どこで、どうするかなどは全く決めていなかった。後から考えてみれば、「愛国から幸福」へという切符をプレゼントに選んだという所に腰が引けている感が否めないように思えてくる。「愛」や「幸福」の文字は入っているが、あくまでも相手の幸せを願うといった代物である。それはあたかも告白がうまくいかなくても、自分が傷つかずに済むように予防線を張っているかのようである。とは言え、それまでの時々家まで並んで帰るという友達とさえも言えないような関係から一歩踏み出そうという気持ちには熱いものがあったことは間違いない。そのときのぼくには、それで精いっぱいだったのだ。
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観光を兼ねて北海道をほぼ一周したはずなのだが、幸福駅への思いが募り、見て回った有名な観光地の印象は薄く、ほとんど印象には残っていない。わざわざ時間を掛けて出かけていって、無駄をしているようなものだった。どこにいても、心ここにあらずといった状態だったのだ。おかげさまでというべきか、テントを張って野宿した時の大変さも、自炊した食事の苦労も、うまいまずいといった感想も、あまり思い出せない。とはいえ記憶をひもとけば、それなりに大変なこともあった。ある時は、バケツをひっくり返したような雨に見舞われ、どのクルマも路肩に非難しているような中でも、先へ先へとひたすら前進した。もともときちんとした予定時刻も、計画ルートも、何一つ確かなものはなかった。宿の予約さえも一件もない。だから、いつどこをどう走ろうが「予定変更」などと大げさにいうこともなく、自由気ままに走り回っても不都合などどこにも生じない。それにも拘わらず、まるで縁起を担ぐかのように、思いつきのポイントを滞りなく走破することに、頑なにこだわり続けていた。ほとんど見られないといわれていた霧の摩周湖を訪れた時にも、辿り着いた時には、案の定霧が立ちこめて何も見えない状態だった。しばらく経っても周囲の木々しか見えずに、諦めて帰路に就いた。しかし間もなく霧が晴れてきた。とたんに踵を返して、晴れ渡った鮮やかな摩周湖を拝むことができて満足した。もっともこれも摩周湖が見たかったというより、ひとつひとつすべての目的が着実に達成できていることに満足したのだった。まるで、最終的な告白が成功する予兆ででもあるかのように思われ、満足していたのだった。もちろん、何の保証も得たわけではないのだが、不安を支えるよりどころとしていたのだろう。
ただ、無人の幸福駅が見えてきた時の感動は非常に強いものがあり、バイクを止め、何人もの観光客が切符を求めて並んでいる様子は、写真の一コマのように、そこに存在した何から何までもがはっきりと記憶に残っている。その鮮やかな景色の中に、突然、思わぬ人物が現れたのである。彼女が、美しい北海道の景色の中から飛び出してきたのである。普段の清楚な制服姿の彼女とは別の、華やかな姿の彼女がいた。全く信じられない出来事が、今目の前に現れたのである。信じられない偶然がもたらされ、瞬間的に運命を感じた。摩周湖の全貌が奇跡的に見られた快挙が思い起こされた。彼女とは見えない赤い糸でつながれているかのような不思議な縁で結ばれていることを確信した。たとえようもないのだが、きっと宝くじの一等に当選するとは、こんな夢のような、地に足が着かない感じなのではないかという気分を味わった。ところが次の瞬間、その浮かれた気分は奈落の底に突き落とされるのである。
天にも昇る気持ちで、偶然の奇跡的な巡り合わせに感謝して、声を掛けようとしたその瞬間、そばに見慣れた顔をもう一つ見つけて、一瞬戸惑い、すぐに凍り付いた。同じ高校に通うAという男子生徒が寄り添ってきたのである。Aは彼女に親しげに近付き、まるで肩を抱かんばかりに馴れ馴れしく話しかけていた。それは、かつて一度だけ彼女に近づこうとし、果たせずに断念したことより遙かに親しげで、何より自然な振る舞いだった。絶妙な距離感にも見えた。平静を装って辛うじて口をついて出せた言葉は、「一緒に来たの?」だけだった。震えそうになる声を押さえつけ、ついさっき「偶然出会った」といってくれることを願った。ところが「うん」という屈託のない彼女の返事に、衝撃は更に深まった。彼女のどこにも悪びれる様子はかけらもなかった。男と旅行に来たことが、いかにも当然のことのように告げられたわけである。
その後、「当然のこと」という言葉が、頭の中で何度も反芻された。そうなのだ。彼女に恋人がいるのは、不思議でも何でもないことではないか。彼女にしてみれば、相手はいつだってよりどりみどりの状態だった。それは彼女が思い上がっているとか、お高く止まっているとかいった難癖を付けるとか誹謗嘲笑するなどといったこととは関係なく、周りが彼女に与え続けた彼女の当たり前すぎる常識なのだ。いつの間にか彼女にとってごくごく当たり前のこととされてしまった結果に過ぎない。住む世界が違うということだ。飢えに苦しむアフリカの人と、アメリカの一般的な人とを比べて、常識の差に驚くことも不平を言うことも空しいことに過ぎない。
そもそも彼女がぼくとつきあうなどという奇蹟は、最初から万に一つもあり得ないことだったのだ。内心気をもむことはあっても、素知らぬ顔で何もできずにいるぼくに不満などないのも、当たり前すぎることだったのだ。つきあっているつもりになっていたのはぼくの勝手な思い込みで、ただの片思いに過ぎなかったのだ。恋人であって欲しい訳ではないのだから、一緒にいるだけで十分だったのも当たり前だ。彼氏が他にいるから、ぼくに対して一緒に帰るときに楽しみを求める必要などなかったのだ。もしぼくとの間に少しはやりとりがあったとしたら、それは彼女が秘密にしておきたかったことをぼくが知ってしまい、それを黙っていたからなのだろう。もちろん彼女の「秘密」は、悪いことでも、恥ずべきことでもない。本来なら自慢しても好いくらいなことだ。しかし彼女は秘密にしていた。気恥ずかしかったのかもしれない。「秘密」を公にされてしまうことの口止めが、ぼくとの交流の正体だったのかもしれない。うがった見方をすれば、伝説の美少女ともてはやされてしまっている以上、そこで更に早朝に掃除をしていることが評判になってしまっては、あまりにもできすぎで、評価は更に上がるのが、同時にねたみや嫌がらせを買ってしまう可能性もあるかもしれない。全くいわれなき非難だが、彼女は嫌というほどそんないわれなき中傷を経験してきたのかもしれない。
かつて、世の中には「サユリスト」と呼ばれる奇妙な人種が存在した。彼等の中には有名人も多数おり、どうやら本気で「小百合ちゃんがうんこやおしっこをするはずがない」と信じていたらしい。テレビに出演して、「吉永小百合だってうんこもすればおしっこもする」といった著名な映画監督を、思い切りぶん殴ってメガネを飛ばした有名な小説家もいた程だ。本人がそんなことをいっていたはずもないが、それでも「吉永小百合は生涯吉永小百合として、誰からも非難される隙のない人生を送ったから、今日なお吉永小百合でいられたのだ」ということを聞いて、なるほど美人には常人には考えられないような苦労があるものなのだなと納得したことがあったが、まさにそういうことだったんじゃないだろうかと思った。
怒りに打ち震えるというわけでもなく、案外冷静にその場の状況分析が出きているつもりになっていた。そして何よりはっきりしていることは、今買い求めたばかりの愛国から幸福への切符は、永久に、完全に不要になったということだ。その場で破り捨ててしまうほかなかった。
13
その場からまっすぐに東京に帰る気にはならなかった。この旅行中に初めてホテルに泊まった。札幌の薄野にある、さほど大きくもない安宿だった。そのホテルで悶々としたぼくは、繰り返し彼女を犯す妄想に耽った。それでも思いは納まらず、夜の町に繰り出し、当時「トルコ風呂」と呼ばれていた性サービス施設に入った。ぼくの初めての体験は、あっけなく、不本意な形で終わってしまった。
東京に帰ってからは、何より自分の間抜けぶりが恥ずかしく、今までそんなことに気づきさえしなかった自分の愚かさにあきれかえった。そして更に、北海道で会わなければ、きっと彼女へのプレゼントを堂々と渡していただろうこと、受け取ることは出来ないが冷たく断ることもできない彼女を困らせただろうこと、そして彼女が困っていることに微塵も気づかずにいたのだろうとことなどを思うと今更ながらいたたまれなかった。しばらくすると、奇跡的に北海道で出会えたことは、まさに奇跡的に運が良かったのかも知れないと思えるようになってきた。「これ以上あり得ない恥をかくな」「これ鵜以上彼女を困らせるな」という神様の思し召しだったに違いないと思えてきた。神様もさすがに見るに見かねてしまったのだろう。
正直に言って彼女はすばらしい魅力的な女性だった。だからこそ彼氏もいたのだろう。もちろん、騙された訳でもなく、ぼくの側に悔しい思いなどない。むしろ、もともとぼくなどとは釣り合わない女性だった。少しでも親しげに出来た時期があっただけでもできすぎだったかもしれない。神様の手違いが起きた結果なのかもしれない。それでも、少しでも早く恥をかく時間を打ち切ることが出来、彼女に負担を掛ける時間を短く出来たことは、不幸中の幸いに違いなかった。そうとはわかっていても、一度みかけた夢は、覚醒してからも忘れられなかった。正直、深く傷ついていることは間違いなかった。そして諦めきれない自分の惨めさにも嫌気が差してくる。彼女に対する恨みやねたみなど、もちろん持ちようがなかった。ひどい仕打ちを受けた方が、却って恨みが持てて良かったぐらいかもしれなかった。何もかも、どこをどうとっても、彼女のしたことは当然であり、ああするよりほかの方法などないとしか思えなかった。逆恨みすることさえ出来なかった。
そもそも彼女とは恋人だったのだろうか。
知り合ったのは始業前の教室だったが、なぜ自転車置き場で会えるようになったのだろうか。もともと彼女は、電車での徒歩通学で、自転車置き場には用事はないはず。ぼくもバイクで通っていたのだから、自転車置き場とは離れていた。そんな僕が彼女と出会えたのは、やはり偶然か守様のお導きかなのだろうか。
電車通学だった彼女が自転車通学に変えたのは、いつから、どんな理由があってのことなのだろうか。それに釣られるようにして僕も自転車に変えたんだっただろうか。毎日ではなくても、何度も彼女と自転車で併走し、終いには二人で並んで押して歩くようになった。かなり長い距離だが、朗らかに笑い合うことなど一度もなかったようになかった。なぜそんな、楽しいとはほど遠いに違いない下校を彼女は断らなかったのだろうか。一緒にいるものがあることによって、やたらに話しかけ、近づいてくる男共を露払いするための存在だったのだろうか。ほかに本命がいたとしたら、利用するにはちょうど良かったと云うことなのだろうか。もしそうだとすれば極めて失礼な話だが、少しも頭にこないのはどうしてだろうか。それどころか、楽しかった日々に感謝したい気にさえなってしまう自分が、間違いなくここにいる。
考えてみれば、出会いも、その後の「付き合い」(そう言えるかどうかも怪しい)も、何もかもが不思議でしかない。
9月になり新学期が始まったが、その後彼女と会うことはなかった。実は、ほんの数回、ある朝、また昼休みに、あるいは帰りのバイク置き場の傍で、彼女を見かけることはあったのだが、めざとく見つけて、ぼくの方から彼女を避けた。避け切れさなそうな時には、友達と談笑している振りをして彼女を振り切った。当時の高校は3年生になるとほとんど授業もなく、受験勉強を各自で進める様になっていた。登校日はかなり少なかった。幸か不幸か当然彼女と顔を合わす機会も激減した。
14
ほとんど登校することはなかったのだが、正式に冬休みになると、大学受験のために予備校に通った。志望先は医学部であった。医者になりたいと思ったのは、腎臓病で小学4年生の時に入院した大学病院での体験がきっかけになっていた。半年程入院していた間にたくさんの人と出会った。なかでも向かいのベットにいた幼い男の子と、隣のベットにいた高校生のお姉さんに特に強い印象が残っている。
向かいのベットの男の子は、山形から来ていて、間もなく退院することになっていた。母親は大喜びで、まだ暫く入院しなければならないぼくはうらやましくて仕方なかった。そんなある日、その男の子が寝ているベットで、天上まで届くかというような血を噴水のように吹き上げた。大慌てで治療がされた。治まったかに思われたのだが、その夜母親が、それまでと打って変わって悲嘆に暮れていた。我が子の症状が重くなり、楽観できなくなった気持ちは分かるが、それにしても母親の様子は尋常ではなかった。あとで聞いた話では、退院に際して医師から田舎に帰ってから父親に渡すようにと託されていた手紙を、母親がこっそり読んでしまったのだ。そこには男の子が白血病で、既に手の施しようがないということが書かれていたらしい。家族の待つ自宅で死を迎えさせようという医者の配慮だったらしいのだ。しかしそうした思いも届かず、退院する前日、男の子は息を引き取ったということだ。ぼくに配慮があったのだろう、知らないうちに遺体は片付けられ、気づいた時には真新しい白いシーツが敷かれた持ち主のいないベットが、次の患者を待っていた。虚しい後継だった。
隣のお姉さんは、何年前から慢性の腎臓病で入院していた。これからの何年も入院を余儀なくされているとことだった。僕の方があとから入院してきて、先に退院してしまうことになった。確かなことはわからないが、生涯寝たきりという訳ではないにしても、運動ができないだけではなく、日常生活もままならないらしかった。ぼくの退院が決まった日には、本当に淋しそうに「良いなあ」と繰り返していた。その後お姉さんがどうなったのか、僕は知らない。
そうした人たちに対して少しでも手助けがしたいと、医者になることを望んでいた。今はどうなのかわからないが、当時の医学部には色盲や色弱の者は入学で出来ないということがわかり、進路は受験前から完全に閉ざされた。それだけでも相当にショックで、絶望的な出来事であったはずだ。しかし、果たして進路の断念と失恋とのどちらが重かったのかは、はっきりしない。進路についての断念などいくらでもやり直しが効くことに過ぎない。たいしたショックを受けていないということは、失恋の痛手の方が遙かに強烈だったせいではなかったのかという気もしてくる。しかし、正直に言って分からないのだ。それどころかそれらをどのように乗り越えたのかを、ほとんど全くといって良い程思い出せないのだ。こんな事ってあるのだろうか。我ながら不思議でならない。どちらも相当に重いものに違いなかったのだが、嘘のように忘れてしまっている。もしかすると、耐えきれない絶望に見舞われたからこそ、過酷すぎる負荷を回避できるように、無意識のうちに不思議な「安全装置」が働き、自己防衛したのだろうか。まるで都合の良い記憶喪失に陥ってしまったかのようなのだ。
実は、夏休み語にも、冬休みになってからも、何度か彼女から電話があった。本当に家にいない時もあったが、居ても居留守を使って、話をする事もないまま卒業した。卒業式にも行かなかった。
15
卒業して、大学生となった。新しい生活が始まった。周りの環境はすべて変わった。高校時代の友達とのつきあいも、ほとんどきれいさっぱりと断った。高校のクラス会や同窓会も行われたが、返事さえ出さなかった。つきあう人も、大学で出会った新しい友人だけに絞った。ともかく人も物も全く変わった。それでやっていけるはずだった。
それでも、本当は彼女のことは忘れられずにいた。もちろんそんなことを相談したこともなければ、相談できる様な相手もいなかった。それどころか、彼女のことは思い出さないように努めていた。彼女の魅力や未練ももちろんあったには違いないが、それ以上に心に刺さっていたのは「のぼせるな」「出しゃばるな」「うぬぼれるな」という気持ちであり、何をするにもついて回っていた。
その結果自分自身の行動もすっかり様変わりした。中学校では生徒会長を務めたが、そんな表舞台には一切立たないようにした。赤い羽根の共同募金を禁止されて、募金の代用に、縁日の所場代をテキ屋から徴収するチンピラやくざを襲撃したり、沖縄の本土復帰前年に、復帰前の沖縄をこの目で見ようと密航して強制送還されたり、根津にある叔母の家から東大紛争を多少なりとも支援するつもりで見物に行ったり、内申書裁判を表立って応援したりといったような行動からは一切身を引いた。おとなしく、平穏で安全な学生生活を送っていた。友人との交流も必要以上に深くならない様にしていた。華の大学生などといった華やいだ学生生活とも無縁だった。特に女性には意識的に誰とも距離を保つ様にして過ごすことで安心感を得ていた。
そんな今までの生活とは隔絶した、平凡ではあるが、安全な日が続いていたのだが、そんなある日のことだった。いつもとは違って、なぜかたまたま早く帰った日のことだった。いつも窓の外は真っ暗な中に明かりがともっている風景が当たり前だったのに、今日はまだ明るさが色濃く残り、ほとんど日中の景色が窓の外を流れていた。電車内の客層も、いつもとはかなり違っている様に見えた。そんなとき、不意に声を掛けられた。
「おい、久しぶりだな。」
最初は、まさか自分に声を掛けられておいるとは思わなかったが、声に聞き覚えがあった。振り返ると、懐かしい顔がにこにこして近づいてきた。高校時代、部活は違ったが、ごく親しくしていた奴だ。理系と文系に別れたので、3年になってクラスが違った。かれこれ3年ぶりの再会になる。
「おー、誰かと思ったよ。ひさしぶり。」
「ほんとだな。もう3年ぶりになるかな。元気か。」
「おー、ぼちぼちやってるよ。そっちも元気そうだな。」
「久しぶりだし、まだ早いから、途中でいっぱいやっていかないか?。」
ふと、用事をでっち上げてでも断ろうかと思ったのだが、ついつい了承してしまった。
「ああ、大丈夫だ。久しぶりに行くか。」
途中下車して、チェーン店の飲み屋に入った。しばらくは、互いに近況報告をしあった。そのうち、酔いも回ってきて思い出話にも花が咲いた。
「ところで、お前まだつきあっているのか?」
「何だよ、いきなり。つきあってる奴なんていないよ。」
とっさにそう答えた。「彼女」とぼくがつきあっていたことが知られているはずもない。まさか鎌をかけて、予想外の恋愛話でもしようというのだろうか。
「嘘つけ、彼女がいたろ。知らなかったと思ってるのか?」
「いないよ、彼女なんて。誰かと勘違いしてんじゃないのか。」
「バカいうなよ。みんなうらやましがってたんだぜ。間違うわけないだろ。」
「おれにつきあってた彼女なんていなかったよ、ほんとに。」
「何言ってんだよ、みんなのあこがれの的を独り占めしやがって。」
とぼけようとしたのだが、どうも間違いなく「彼女」のことをいっているようだ。本当に知っていたんだろうか。
「つきあってなんかないよ。確かに挨拶ぐらいはしたし、ごくまれに途中まで一緒に帰ったことがあるだけだよ。」
「ほんとかよ、信じられないなあ。・・・で、今はつきあってんだろ。」
「もともとつきあったことなんてないよ。高校を卒業してから、一度も会ってないし。」
本当は卒業前からだけどな、と思いながら答えた。
「えっ。そうなの、別れたの?もったいなあ。」
「別れたんじゃなくて、だから、もともとつきあって何ていなかったんだって。」
「えっ。そうなの、じゃ今はつきあってないの?」
「だから、そうだよ。」
「えっ。何で、何で別れちゃったの?」
「別れたんじゃなくて、もともとつきあってないんだから、今つきあってるわけないだろ。」
「いくらなんだってあんな娘が近くいて何とかしようと思わないなんてことあるか?可笑しいんじゃねえの、おまえ。」
「可笑しくたってなんだって、手もつないだこともないよ。」
「嘘だろう。・・・今ほんとにつきあってないの?」
「そう言ってるだろ、しつこいぞ。」
「いやあ・・・。何かあったんだろ、・・・何があってつきあうのやめたんだよ。」
しつこいなこいつ。酔ってるのか。矢っ張り飲みに来るんじゃなかったな。それにしても、別の男と旅行に来てたなんて言えるわけないだろ、と思いながら。
「彼女にはつきあってる人がいたんじゃないのか?」
「えっ。じゃ二股掛けてたってこと?」
「二股なんかじゃなくて、もともとそいつ一筋だったんじゃないの?」
「誰だよ、それ。・・・そんな噂なかったぞ。」
「そんなこと知らねえよ。知りたきゃ、彼女に聞きゃいいだろ。」
「誰だかわからないのに、つきあってる奴がいたっていうのか、・・・そんなことあるわけないだろ。」
「彼女が誰とつきあおうと、おれには関係ねえだろ。」
「・・・そんなはずはない!・・・・お前、知ってんだろ、知ってるよな。だれだよ、教えろよ。」
「彼女に聞けよ。たとえ知ってたって、人がつきあってる相手をべらべらしゃべれねえだろ。」
「矢っ張り知ってるってことじゃねえか。教えろよ。」
それから、知ってる、知らない、教えろ、教えないという押し問答が続いた。今更そんなことを聞いて、どうしようって言うんだ。もしかして、いまさら彼女とつきあうチャンスでも探ろうとでも言うのか、と侮辱したことさえ言ったのだが、それのどこが悪いと居直られてしまった程だった。手段を選ばずに聞き出そうという彼の意地に、ぼくの方が根負けしてしまった。
「誰とつきあってるのか、想像ぐらいは付いてんだろ。」
「仕方ねえな、俺から聞いたっていうなよ。・・・Aみたいだよ。」
暫く沈黙が続いた。やはり思い当たるのだろうか。
「・・・はあ、何言ってんの。彼女がAとつきあうわけないだろ。」
「なんでそんなこと言えるんだよ。」
「当たり前だろ。・・・あれ、お前まさか彼女がAとつきあってると思って別れたんじゃねえだろうな。」
「だから、しつこいよ。もともとおれとはつきあってなかったの」
「そんなことはねえって。みんな言ってるよ。でも、・・・少なくともお前は今はつきあってねえんだな。ってことは、今は彼女はフリーかもしれねえ。チャンスだ。」
「お前じゃ無理だろ。彼女は今でもAとつきあってるんじゃないの?」
「そんなことはあり得ないんだよ。知らねえのかお前、有名な話しだぜ。彼女とAは、いとこ同士なんだよ。母親同士が姉妹だったかな。」
瞬間、何を言っているのかわからなかった。徐々に意味がわかってくると、正直に言って、一筋の光明が見えた様な気がした。瞬間的には、彼女との復縁の可能性を感じたというのが本当の気持ちだ。目の前に張り巡らされていた煉瓦のような頑丈で高い壁が、ぼろぼろと崩れ始めたような気がした。向こう側には鮮やかな緑の草原か、華やかな花畑が広がっていそうな気がした。身を乗り出しそうに前掛かりになった時、遮る様に、豊かな胸をした女性が横切ろうとした。顔は見えない。豊かな胸は大きく揺れている。ノーブラなのだろうか。彼女ではない。どちらかというと彼女の胸は小ぶりだった。こんな巨乳とは全然違う。その女性がぼくの正面で止まり、不意にこちらに向き直った。大きく揺れていた胸が無残にも崩れ落ちた。それに合わせるかの様に、まだ取り残されていた煉瓦の塀がさらに崩れ去った。するとその向こうにあったのは、屹立する土の壁だった。雲就く様な崖に、今まで以上に視界は遮られた。絶えず少しずつぼろぼろと土が崩れ続けている。今にも土砂崩れが起こって、生き埋めにされそうである。しかし見えないおりに閉じ込められ、後ずさりも出来ない。
一瞬期待してしまったことは事実だが、考えるまでもなく、復縁などあり得ないのだ。後ろめたいことなどとは全く無縁の彼女の口を、泥まみれ、糞まみれの手で押さえつけ、彼女を汚してしまったのは誰だったのか。誠実で明るく無邪気な彼女が、男と旅行していることを隠そうともしない、恥知らずな淫乱ででもあるかのように決めつけて、傷つけたのは、ほかならぬぼくだ。今更許されることもなければ、復縁などもってのほかだ。いや、そうではない。もしかしたら、慈母観音の様な彼女のことだ。ぼくでも許してくれるかもしれない。しかしたとえそうなったとしたら、まるで喉に刺さった魚の骨の痛みを抱え続け、その痛みを常に抱えて生きなければならないことになってしまうだろう。さらにことあるごとに、強烈な痛みに呻吟し、時には血を吐かなくてならないだろう。
「後悔先に立たず」と云うのは、当たり前すぎるほど当たり前だと思っていたが、こういうことなのかと、改めて思い知らされた。もともと何の非もなかった彼女をおとしめてしまった以上、謝罪など何の意味もなく、時は戻らないのだ。せめて失礼で分からず屋で、恨むべき相手であることを、黙って引き受けるのが、せめてもの自分のあり方なのではないだろうか。その後何を話したのかは、全く覚えていない。それどころか、どうやって家まで帰ったのかもわからない。
彼の方が先に電車を降りたのは覚えている。一人車内に取り残されると、不意にある詩が頭に浮かんできた。特に好きだったという訳でもない詩で、暗誦している訳でもないばかりか、題名さえもおぼろげだ。確か中学校の教科書に載っていた詩で、「夕焼け」という題名だったかもしれないし、違っているかもしれない。
電車の座席に少女が座っていた。その前に押し出されるように老人がやって来た。少女は迷った末に老人に座席を譲った。座席を譲るのは正しいことだが、それを実行するには勇気が要ったようだった。他の人にこれ見よがしに正義の押し売りをしているかのように感じてしまったのだろう。良いことをするのに躊躇してしまう少女だったのだ。その老人が少女に礼を言って降りるとまた少女は席に座る。するとまた別の老人が彼女の前に押し出されてくる。彼女はさっきよりもさらに迷った挙げ句に、また席を立って老人に席を譲る。老人が降りるとまた彼女は座った。そんなことが何度か繰り返され、ついに老人が前に押し出されてきても、彼女は席を立たなくなってしまう。「良い子ぶるな」とでも言うような、周りの無言の圧力を、少女は感じ続け、ついにそれに耐えきれなくなってしまうのだ。本心では席を譲るべきだと思っている少女は、席を譲らないことにじっと堪え忍んである。老人の方を見ないようにしてうつむき、唇を噛んで、耐えているというのだ。少女を観察していた「私」は、少女より先に電車を降りてしまうが、その少女が気にかかっている。じっと我慢しながら、少女がどこまで電車に乗っていくのかを気に掛けている。窓の外はきれいな夕焼けなのに、俯いて耐えている少女には、きっと見えないだろうというのだ。美しいものに気づかないで耐えている少女の姿を歌っている詩だった。
なぜそんな詩を不意に思い出したのだろうか。「美しいもの」についに気づかずに過ごす少女、その理不尽さに自分を重ねてしまったのだろうか。そうだったのかもしれない。「美しいもの」を誤解し、取り逃してしまった自分が、今その喪失感にさいなまれ、耐えようとしている・・・。そんなところだろうか。しかし、残念ながらそんな鑑賞は即座に否定されずにはいなかった。彼女を一度として口汚く罵ったことはなかったはずだ。恨み辛みをくどくどと繰り返したこともなかったはずだ。では、ぼくは「きれい」だったか。密かに、彼女が平気で二股掛けている人のように思い込んだのは誰か。そんなことを微塵もしていない彼女をそんな人間に見なしたのは、ぼくの思いだ。一度でも、微かにでも、彼女をそんな人間だと決めつけたのは、自分の思い込みだ。自分自身にそうした気持ちがあるからこそ、そうした目を持ってしまったのだろう。薄汚いのは、ぼくの内面に他ならない。美しいものに気づかず、自分の中に閉じ込めているのではなく、薄汚い考えを、まるで他人事のように発揮して相手を貶めてしまったのがぼく自身だ。詩の中の少女が美しい心を秘めたまま自分で気づかないのとは正反対で、相手を平気で貶める薄汚さを抱えているのだ。そのことに気づかないばかりか、まるで被害者面をしていたのではないのか。またしても打ちのめされながら、どこをどう歩いて家路についたのか、はっきり覚えてはいない。
気づいたらベットに入っていた。そして繰り返し同じ言葉が頭の中で反響していた。「あのときの旅行は、家族旅行だったってことか。」というのと「ぼくは彼女を、男と旅行する様な女だと思い込んで決めつけていたということか。」ということだった。本当のことなど知らなければよかった、とも思った。しかし、それはぼくの方は楽だが、知らないまま彼女に侮蔑し続けることに他ならない、ということもわかっていた。「いとこ同士の旅行」ということがわかれば、誤解であったと即座に謝罪できればよかった。それなら、嫉妬深い男と云うだけで、案外簡単に許されたかもしれなかった。しかし誤解を解いて謝罪するためには、もう一度会うなり、連絡を取ることがどうしても必要である。しかしそれだけは今更望むべくもないことだ。電車の中の俯いた少女が、美しい夕焼けに気付いたらどうしたであろうか。ぼくにとっての夕焼けは何なのだろうか。考えても思いつかなかった。解けてしまった誤解によて思い知らされた自分の愚かさと、彼女に対するこの上ない侮辱をし続けてしまったこととは、二つともこのまま生涯抱えていくしかないのだろう。
16
どうやら従兄弟を彼氏と勘違いして、連絡を絶ったぼくの家に、彼女はどんな気持ちで電話してきたのだろう。
彼女は、ぼくの家の近所までやって来たこともあったのだろうか。
「いとこ」を彼氏と勘違いしていると気づいた時、彼女は何をどうしたのだろう。
北海道で出遭った時に従兄弟と一緒にいて、突然ぼくと出遭った時、彼女はどんな気持ちで何を思ったのだろう。
ほんの週に一二度だったかもしれないが、30分近くもたいした話もせずにただただ歩き続けた時、彼女は何を感じ、どう思っていたのだろう。
喫茶店で彼女といるところを同級生達に見られて、居心地悪そうにしていたぼくに、彼女は何をどう感じていたのだろう。
自転車置き場で、時々独り佇んで、まるでぼくを待っていてくれたかのような彼女は、本当は何をしながら、何を思っていたのだろう。
朝の教室を、こっそり掃除しているところをぼくに見られて、彼女はどう感じていたのだろう。
たぶん中学校でも、伝説の美少女扱いをされ、誰からもちやほやされ続けてきたことを、彼女はどう思っていたのだろう。
きれいに包装された箱の中味が、これ以上ない程の宝物であった時に、ぼくには何が出来たのだろう。
僕の方は何から何まで、後悔することばかりだ。それに比べて彼女には間違ったことなど何一つない。しかし、それでも彼女の心の中に、後悔の念となるようなことは一つもなかったのだろうか。
17
ふと、あり得ないことが太脳裏をかすめた。もし、時間を戻すことが出来たら、ぼくはいったいどこへ戻りたいだろうか。どのみちあり得ないことなのだから真剣になっても仕方がない。既に忘れ去った過去の思い出とけじめを付けたつもりで居ても、どこかに未練がましい思いは残っているのだろうか。
彼女と一緒に居るのが従兄弟だと分かった今、北海道での偶然の出会いの場所に戻れたらどうだろうか。もはや誤解は解けて、落ち着いて彼女との「その後」があり得るのだろうか。どうもピンとこない。なぜかそれでも進展などないのではなかろうかという気がしてくる。
もっと前の、彼女と連れだって歩いた行き帰りのある日に戻れたらどうだろうか。もっと早いうちから、恋人同士らしいことが始められるだろうか。何となくそうはならないような気がしてしまう。
朝の教室を掃除していた時期に戻ったらどうであろうか。それなら最初からやり直せるだろうか。もしかしたら彼女と出会うことさえない人生が始まってしまうかもしれないという気がしてくる。もし出会えても、意気込みすぎてすれ違ってしまうのではないだろうか。
それならもっとずっと前の、高校に入る前に戻ったらどうであろうか。それでも結局うまく行くことはないように思えてくる。
もしかすると運命というのは変わらないのかもしれない。どこかで破局を迎えることは避けようがないのではないだろうか。すれ違いが起きてしまった北海道での出来事を避けることが出来たとしても、今度は別の機会に、全く別の出来事ですれ違うようになっているのではないかという気がしてくる。もしも神様がいるなら、いつか、何らかの方法で結果が同じことになるように導くのではないだろうか。それが「失敗」ということであり、それが一度しかない、かけがえのない人生というものなのではないだろうか。「後悔先に立たず」という、根本って変えることができない、単純きわまりない運命に導かれるのが人生なのだろうか。
そもそも命でさえもその終末を迎える機会は、決められているのではないだろうか。例えば、車を運転していて交通事故に遭うか逢わないかは、ほんの紙一重だという経験は、誰でもしているのではないだろうか。普通なら大事故を起こして命が失われても不思議はなかったのに、生き延びたという経験だ。真夜中に走っていて、居眠りをしたわけでもないがぼーっとしてしまい、はっと気が付いてバックミラーを確かめると、通過した交差点の信号は赤だったといったような経験だ。それこそ衝突事故を起こして即死していてもおかしくはなかったのだから背筋が寒くなってしまう。また高速道路の追い越し車線を走行中に、待ち合わせしていたサービスエリアを通り越してしまいそうになったこともある。通り過ぎても、連絡を取り合って待ち合わせ場所を変更しても良さそうなものだが、急ハンドルを切ってサービスエリアに辛うじて入り込んだというような経験もある。その時隣車線を十分に確かめたとは言えない。後になってから冷や汗をかいたこともある。
それでも重大な事故を引き起こさずに済んだのは、単に運が良かっただけの話だ。逆に自分は何も悪くないのに追突されることもある。追突された衝撃で車が大破し、乗っていた人がことごとく亡くなるようなニュースも流れている。運が悪いとしか言いようがないではないか。
明暗の分かれ目がひとえに「運」だけであるとするなら、運命は避けられないものであり、たとえ時間を戻してその瞬間だけ回避できたとしても、定められた「運」からは逃れようがないのではないだろうか。
18
今、「愛の国から幸福行き」の切符は、捨て去られ跡形もなく失われてしまった。愛国駅と幸福駅をつないで走った、旧国鉄広尾線の線路も、今や影も形も残っていない。ただ、愛国駅も幸福駅も、どちらも記念碑的存在として残されているという。幸福駅は、交通公園となり、駅舎と共にトイレや駅名表示が、当時とほとんど変わらない姿で残されているということだ。たださすがに長い年月を経過しているため、駅舎は2013年に解体され旧駅舎の外壁の半分を流用したレプリカに建て替えられているという。愛国駅も、交通記念館として保存されているという。こちらは手入れはされているものの開業時からの木造旧駅舎が当時の雰囲気を残したまま保存されており、乗車券や記念スタンプ、写真パネルなどが保管されているということだ。また「愛国から幸福ゆき」の乗車券をモチーフにした石碑や同切符の販売1,000万枚を記念した石碑も設置されているという。ただし、駅横にあったヨ3500形車掌車を再利用した売店は廃棄されているということだ。
致し方ないことだが、保存しやすいところ、いいとこ取りで都合の良いところのみが保存されているということだろう。
もともと辺鄙な北の外れに位置する「幸福」や「愛国」に込められ思いなどとは関係なくブームは生まれた。この過酷な地だからこそ込められた名に、遠方から単なる興味本位で、当て字にかこつけて楽しんだだけのブームにすぎなかったのだ。長い風雪に耐えたあとに残されたものは、表面的な補完しやすい部分だけであった。形ばかりの思い出に浸るものとしてのみ、無理矢理残され続けているかのように見えては来る。虚構の栄光を刻んだ幻の残骸がそこに、今もなお忘れられずに消滅できないでいるのだろう。
人もまた、自分に都合の良い部分だけを、自分に都合良く切り取って、さもそれが真実であるかのように思い込んで、しまい込むのかもしれない。