はじめに
遙か以前に既に定年退職をして、未だに働いているぼくには、将来などということばは無縁なのですが、自分なりに学校を卒業して「新社会人」として出発する時期が誰にでもあるものです。上級学校に進学するときよりも遙かに大きな期待と不安の入り交じった生活が始まります。そんな時期には、夢が大きく膨らむものです。夢は大いに持つべきですが、「将来に対する期待」に味噌と糞が混在してしまうことが少なくないのです。では、そこに紛れ込んでいる「味噌」と似て非なるものである「糞」というのは、どんなものなのでしょうか。
昔から、「故郷に錦を飾る」と言い、「末は博士か大臣か」というのが、将来への好ましい「抱負」とされてきました。優秀な人の代表が「博士」であり、出世した人の代表が「大臣」というわけでしょう。しかし、現実には本当に尊敬すべき「博士」や「大臣」がどれほどいるでしょうか。「博士」の代表が誰かは決めかねますが、例えばiPS細胞の研究でノーベル賞を取ったことが記憶に新しい山中伸弥教授は、人柄においてはたいへんに人格者でもあるようですが、臨床医としては高い評価をされずに、「邪魔中」先生と陰口をきかれているそうです。もちろん現存する方々ばかりでなく、歴史に残る人物でも大差はないようです。たとえば紙幣にもなった野口英世博士も、その研究熱心ぶりや勝ち得た立派な業績とは裏腹に、その金銭感覚やそれに伴う行いには、大きな問題があったと言われています。まさに借金の踏み倒しや結婚詐欺まがいのことまであったそうです。こうしたエピソードを集めた「残念な偉人達」などという書籍まであります。「大臣」となればもっとひどいことは言うまでもないでしょう。昨今の盗人まがいの裏金議員を上げるまでもなく、出世して偉くなったことは間違いありませんが、むしろただの1人でも尊敬できる人物を挙げることさえ難しいのではないでしょうか。後にこの国の総理大臣にまで上り詰める人物が、造船疑獄の大悪党であったにも拘わらず、法務大臣の指揮権発動によって無罪となるなどというのは、歴史上最低の悪党以外の何物でもないでしょう。
幸いにして、「末は博士か大臣か」などということばは、既に死語となっているかのようで、ほとんど使われません。若い人には意味不明なものでしかないかもしれません。しかし今なおその業界で出世することをめざす人がいないわけでもないようです。若い時には全く関心のなかった出世競争も、年齢を重ねてくると、考え始める人も少なくないようです。家族や肉親をはじめ、周囲の目も圧力となってくるようです。
それはある意味当然の成り行きかもしれません。いつまでも出世しないということは、後輩に追い越され、後輩の部下になってしまうと云うことですから。それはいくら何でもいたたまれなくなるでしょうし、後輩の方でもやりにくいでしょう。それならば年相応に出世するのがふさわしいと云うことになりそうです。しかし、ここで言いたいのは、「出世するのは駄目なんだ」と云うことです。これからその理由を挙げ体来ます。ただ、あらかじめ断っておきますが、ここで述べているのは、決して「無能であれ」と云うことではありません。当然経験を重ねれば、さまざまなスキルを身につけます。有効な技術や知識、さらに考え方を出来る限りたくさん身につけるということを禁止しているというわけではないと云うことです。寧ろスペシャリストとして、職人的な磨き上げられたものを身につけるべきだと思っています。なお、ほかの業種においても似たり寄ったりではないかと思うのですが、ここでは教師に限って述べていきます。
偉くなってはいけない理由
(1) 偉くなるということは、あるがままの子どもから目をそらすことになるから
なぜ「偉くなってはいけない」のでしょうか。それは、
① 特に何も考えていなくても、時期が来ると、主任、主幹、管理職と向こうからお誘いがやって来 ます。考えていない人程周囲に影響されます。いつの間にか逃れられない風潮として、流れに載せ られてしまうということです。
② また、決めつけることは出来ませんが、地方の人の方が、周囲の目がきついというか、「出世」 を期待されてしまうように思います。夫婦、親兄弟、息子や娘と云った肉親の目は、常に身の回り にあって、実際に声に出さなくても、圧力を感じることもあります。それこそ当たり前のことのよ うに出世コースをめざすことになります。それはそれでいけないことはありません。誰も出世しな かったら、学校は成り立ちません。誰かが校長や主観をやらないわけにはいかないのですから。た だ、教師である以上時期が来たら出世するしかないとは思わないでほしいということです。
③ 「管理職は体育教師が圧倒的に多い」ということも挙げられます。歳を取ってから、中学生の子 供達と一緒になって授業をするのは、体育が一番大変でしょう。今はだいぶ緩んできたのかもしれ ませんが、生徒には真冬でも半袖短パンを強要しながら、自分はウインドブレーカーや酷い時には ダウンを着込んで、座って指示を出すなどということも時々見かけるでしょう。子供達の生活から 遙かに離れてしまったところにいることに、自分では気づかなくなってしまっているのです。「こ れで十分指導できている」と、感性を摩滅させてしまっているのです。直接生徒の不満の声など聞 こえてこなくても、この状態をどう思うかという感性を摩滅させてしまってはダメなのです。
ここで「いい先生」というのはどんな先生だか考えてみましょう。さまざまな「いい先生」があるでしょうが、最も基本的なことは、子供達一人一人についてよく知っている先生、子ども一人一人に対する第一の理解者だということです。もちろん何も駄目な生徒のフォローをしますが、それは決して甘やかすことではありません。例えば、いくら言っても提出物が遅れ、宿題をやってこないばかりか、プリント自体をなくしてしまう生徒がいたとします。当然教師としては、繰り返し厳しく指導するはずです。あまりにも改善が見られなければ、とびっきり厳しい指導をすることになったり、過酷な罰を与えることになるかもしれません。ところが子供の家庭を訪問してみたら、それなりの理由が見つかることがあります。5人家族で6畳一間に住んでいたり、幼い兄弟が走り回っていたりすることがあるのです。これでは宿題のプリントも提出物やお知らせの手紙も、たちまちめちゃくちゃにされてしまい、提出などできないのも、寧ろ当たり前です。そのことを知らないでひたすら「きちんとしろ」と繰り返し怒っても、全然変わりようがないのです。中学校の生活に合わせて生徒自身の生活環境が変わりはしないのです。何も知らずに「整理整頓の能力が劣っている」などと決めつけるのは、お門違いもいいところです。その子が提出できない原因を突き止め、解消するように工夫することが大切なのです。特別支援学級などというものがなかった時代にも、そうしたことに対処した教育は行われていました。もちろんそれが十分でなかったからこそ、今、特別支援教育が必要とされているのでしょう。しかし、教師の側にそうしたことを見抜く力が弱くなったり、そうしたことに気づく機会が減ってしまっているからこそ、特別支援教育の必要性が訴えられているという側面はないでしょうか。
特別支援学級などなくても、みんな違っているのは当然です。家庭訪問があった時代には、こうした子どもを取り巻くごく表面的な環境程度のことは、大抵の先生はすぐにも気づきました。それこそどれほど鈍感で駄目な先生でも、家庭訪問のあった時代には簡単に気づけたことさえ、それに気づくことは容易ではないのです。相当優秀とされる先生が、かつての駄目教師に遙かに及ばないという面があるのです。
時代は大きく変わってきましたから、今や困難の種類も変わってきているかもしれません。ならばその原因を見付け、気づいて対策を立てる方法を築かなくてはならないはずです。たとえ種類は違っても子供を取り巻く環境の困難さの程度は、今も昔もちっとも変わっていないと思います。かつても、幼い弟妹の多さや家の狭さは、子ども自身にはどうにもならないことだったのです。今や確かに昭和のような雑然とした貧困時代ではないのかもしれません。しかし、「子供食堂」があちこちにできており、まともな食事が出来ていないのが日本の現実だと云うことが、教師の目にはまるで見えていないということはないでしょうか。今や一見こぎれいな住宅ばかりが建ち並んでいるようにみえるかもしれません。昭和のような長屋もどきのぼろ屋は見かけなくなったかもしれません。しかし、見かけに簡単に欺されてしまい安くなっているとは言えないでしょうか。見る必要も感じられず、見ようということさえ思いつかないほどなのではないでしょうか。それを探さずに、言い換えると子供の姿を見ようとしないで、いい先生などあり得ないのです。偉くなったら、なおさら見付けることは出来ません。現状を、基本的に肯定した上でなければ、この世界での出世街道は歩めないからです。
失礼ながら、今「いい先生」と言われている方を見ても、昔ならちっともいい先生ではないといわれていた程度にしか、ぼくには見えません。今の方が、子供に対する理解の程度が格段に低いように感じます。そもそも「個人情報」を安易にひもとけない状態であり、ちょっと踏み込むと何とかハラスメントなどといわれてるという状況が止めどなくはびこる状態で、真に他人を理解するなどということは不可能なのかもしれません。今から見たら昔は、担任した生徒の個人情報など、平気で土足で踏み込んだとみられるような状態だったように思います。正当だと思われる子供の要求を踏みにじる親には、家庭に乗り込んで担任が直談判するなどということは、決して珍しいことではありませんでした。そうしたことは今後は通用しないのかもしれません。生徒と雖も確固たる「他人」である以上、「生活者」としての内面まで理解するなどということはできなくなるのかもしれません。部活は地域に、精神面は専門家に、学習の指導は塾に・・・と分業化されてしまい、ずっと手前で、生徒を理解することなど諦めなくてはならなくなるのでしょうか。ただ、それは担任する子どもさえも「一人の人格」として尊重するという名の下に、「疎遠な他人」、「町中で行き交った見ず知らずの人」と同じように扱うと云うことになっていくのではないかという気がします。「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」という言葉があります。前者が「遅延」「血縁」などをもとに自然発祥的に出来上がる、利害関係を抜きにした社会集団なのに対して、後者は利害関係をもとに、明確な目的を持って集まった社会集団である。学校は基本的には「ゲゼルシャフト」ではあっても、成人に向けて育てる以上、「ゲマインシャフト」的な影響力を色濃く発揮しない訳にはいかない社会なのだが、そうではなくなってしまっているということだろう。
「慣れ」によっても、「体力の衰え」によっても「生徒を見抜く目」においても、教師は誰みな、年齢と共に感性が磨り減っていかざるを得ません。その摩滅を、少しでも少なくするには、惰性に流れ、楽をしようと思わないことが肝心です。ぼくはそれを「偉くなろうとしないこと」と言い換えられると思っているのです。「現状を認めないこと」だと言い換えてもいいかもしれません。年と共に新鮮さを失い、新たな発見や感動に関心を寄せなくなり、手抜きをしている現実から目を背けること、というのが誰しも避けられずに陥ってしまう「現状」です。今ある問題に蓋をして、目隠しとしての暗渠を完成させ、問題を覆い隠して見えなくしたときにのみ、その上に出世街道ができあがるのだろうと思います。
もちろん、どんなにアンテナを高く掲げて情報収集に長けた先生であっても、自分のクラスの生徒だけでさえ、全員をそれほど深く細かく知ることなど難しいでしょう。というより、完全に知ることなど不可能です。しかし、5人でも6人でも、特に特別な事情が深刻な生徒の情報を周知している先生には、生徒は期待を持ちます。「あいつらのあんなことまで理解してくれている先生は、きっと自分が困った時にも、相談に乗ってくれるに違いない」といった具合に。本当は理解が及んでいない生徒からも信頼されやすくなるのです。さらに、不思議なことに情報は、欲しがっているところに集まってくるものです。日本蕎麦が食べたくて「日本そば屋」を探していると、やたらに「ラーメン屋」の看板が目に附いてしまったりします。探しているものがあると、普段なら目の前にあっても気づかないで見過ごしてしまうことに気が付くものです。それと同じように、自分から欲しがらなくては、ないのと同じことになってしまうのです。見過ごしてしまうからです。
そのうえさらに、「この先生なら理解してくれる」と判断した生徒が「ねえ、ねえ、これ知ってる」と教えに来てくれるようになります。ほかの先生には決してしないような話が、向こうから集まってくるのです。ここまでで常人には相当に難しいことでしょう。ですからどれほど優秀な先生であっても、こうした生徒に目を向ける作業をしながら、偉くなることにも神経を使うといったことを両立させることなど無可能に決まっているからです。
(2) 自分なりの判断を棚上げしてしまうことが偉くなるということだから
偉くなるということは、人の上に立って、後輩を指導するということです。その場合どちらを向いて指導するかといえば、教育界で言えば、文部科学省、都や県の教育委員会、町や区の教育委員会、先輩校長等の方を向くということが圧倒的に多くなります。上の意向に従うということに他なりません。上に向かおうというのですから、当然で、それ以外にはあり得ません。ただ極端にまっすぐか、多少曲がりくねっているか、あるいは平坦でスムーズか多少でこぼこがあって速度を上げにくいかなどといった差があったとしても、出世街道は、すべて同じ方向に向かうほかないものなのです。「いや、そんな上の人の言いなりにばかりなってはいない」と、時にはそうした圧力に異を唱えて、良心に従って反旗を翻すという人もいるでしょう。たとえそういうことをすることがあったとしても、その人でさえ圧倒的に多いのは「上意下達」です。でなければ、出世街道に立ちながら、目的地とは正反対の方向に進んでしまうことになるのですから。「いつまでも青臭いことをいっているな」というのも「角を立てるな」「長いものには巻かれろ」と言っているのも、みんな「感性の摩滅」の姿そのものです。
若い時代の考え方が全部正しい訳ではないでしょうが、それでも純真でピュアな姿勢で考えて、その結果「おかしい」と思ったことに対して、今や疑問を押し殺し続けて「鈍感」になるのが当たり前となってしまうのが「偉くなる」ということです。そこにできあがるのは、子どもにとって「自分たちを理解してくれる『良い先生』」とはほど遠いものにならざるを得ないでしょう。
(3) 偉くなってこそ改革が出来るというのは真っ赤な嘘だから。
しかしそれでも、「下っ端にいては何も改革など出来ない」。「権力を手にしてこそ改革が出来るのだ」という、勇ましい意見もあります。確かに「権力」を握れば、自分の思い通りのことが出来そうに思えます。しかしこれは真っ赤な嘘です。偉くなった人の自己弁護に過ぎません。アリバイ抹消という大罪に他なりません。
主任になったら、平教師を指導せざるを得ません。それでも、主任のうちはまだ「たとえおかしいと思ったとしても、言われたことの中の一つか二つは我慢して受け入れよう」と、平教師を説得するくらいで済むことが多いかもしれません。そのうえで、全部達成できなかったことを上司に、申し訳なさそうに、しかし厚かましく報告することも出来るでしょう。いわば「やった振り」です。こうすると、「ましな上司」といわれるかもしれません。それでも、そういう人は少ないのではないでしょうか。そして、肝心なことは、ゆっくりであれ「出世街道」を目的地めざして進んでいることには違いないのです。寧ろ、部下に出世街道を進むことを容認させた分だけ、共犯者造りに貢献しているとも言えるかもしれません。
それが、主幹に出世すると、それだけでは済まなくなります。ほとんどすべての指示や命令を達成させなくてはならない立場に追い込まれます。もう多少の譲歩に慣れ親しんで、感性は摩滅済みですから、より大胆に出世街道を進んでも気が引けるなどということはなくなっています。ひょっとすると、意に沿わない部下を無能呼ばわりして叱責することもさえ平気になってくるかもしれません。さらに副校長や校長になると、指示されたことだけではなく、さらに意向を忖度して、必要以上の成果を上げることに精を出すことになるでしょう。他人と比べられて成果を問われ、そのできばえや忠誠心を評価されることになります。上に行けば行く程、上意下達の傾向は強く、数多くなるのです。もちろん、多少露骨であるかどうかの差はあるでしょうが。
しかし、かつては「これではまずい」と憤っていた上からの指示に対しても、「それほど悪くはない」ぐらいに感じられるようにならなくては、そもそも偉くなれないのです。かつての「感性」を摩滅させることが「偉くなる」ということだからです。
そのことは、トランプ政権になった今のアメリカがはっきりと示しています。たとえば、ザッカーバックのほかアマゾンだとかマクドナルドのCEOやワシントンポストの編集長といった人々の言動です。これ以上偉く成りようがないというほどの各界のトップです。彼らはほんの少し前まで、みんな揃って反トランプ勢力で、なかには「トランプを乗せたロケットを宇宙の彼方へ飛ばせ」とさえ言っていた人もいます。それが、大統領就任式に参加するという異例な事態を引き起こしている(普通は民間人は参加しないらしい)そうですし、みんながみんな巨額の寄付を申し出て、トランプの顔色をうかがっているのです。かつて例がないほどの忠誠を誓っているのが、アメリカンドリームの体現者、経済界で上り詰めた人々の行動です。偉くなるとはこういうことです。偉くなればなるほど忠誠を尽くさなくてはならなくなるのです。まるで良心的な改革をめざしているかのように見えた時期もありましたが、それどころの騒ぎではありません。
それに対して、そうした様子を風刺したマンガを投稿しようとした有名なジャーナリストは、その掲載をワシントンポストの編集長に断られ、同社を辞職したそうです。これが「偉くならない」ということです。考えようによっては偉くならずに意志を貫くことは、損をしてしまうことのように見えます。必ず「損」しなければならないというわけではありませんが、偉くなることと偉くならないことの違いがはっきりと現れていると言えるのではないでしょうか。どんどん恥知らずの言動が出来るようになることに、出世することの本質が現れていると思います。
(4) そもそも授業をしない人を「先生」とは呼ばないから。
体育の先生以外で校長になった人たちはどんな人でしょうか。大抵の教科は、体育のように、高齢になっても子供と一緒になって体を動かす大変さはあまりありません。それでも授業をすることより、「出世」の道を選ぶのはどんな「先生」なのでしょうか。
授業というは、基本的に感動的なものでなければなりません。50分のドラマなのです。それは授業を終えた後に、それまで想像もしていなかった結果を導き出すものだということです。基本的に、生徒にとっても教師にとっても、楽しくて仕方がないものです。授業が始まる前には「知らなかった」と思ったり「まさかそんなはずはない」と思っていたことが、授業が終わった後では「なるほどそうなんだ」「まさかこんな事になるとは思わなかった」といった驚きや感動がなくてはならないのです。本当は、毎時間それが目標ですから、それこそ「地球は平らだと思っていたが、丸いのか」とか「宇宙が回っているのではなく、地球が自転しているのか」といったような、天地がひっくり返るような驚きを提供できるのが一番良いのです。本来度肝を抜くような驚きを共有できるのが良いのですが、地球の自転や地球が丸いことは、今や小さい子でも知っています。返って驚きにはならないかもしれません。ただ、耳年増で言葉での知識はあっても、実際に証明するのは至難の業ですから、子供の持つ常識を疑わせ、驚かし、ひっくり返すことが出来ないわけではないでしょう。
毎日毎時間、そう極端な大どんでん返しが用意できるわけではないかもしれません。しかし目標は大どんでん返しです。そうはいかなくてもせめて、「へえ、知らなかった」「本当だ、気がつかなかった」程度の驚きがみんなになくては、教材研究をしたなどとは言えないはずです。
ほんの一部を例示すれば、次のようなものです。
① 「遣唐使が廃止されたのはなぜなのか」という授業が考えられます。随から唐の時代に、日本は中国からたくさんのことを学びました。先進国からの貴重な文化・技術の流入です。それを辞めたのはなぜなのでしょうか。ただ単に中国に学ぶものがなくなったのではありません。当時の中国は、まだまだ日本が逆立ちしても叶わない程の先進国でした。それなのになぜ「遣唐使廃止」に踏み切ったのでしょうか。
② 「奈良の大仏はなぜあんなに大きいのか」と云うテーマの授業も考えられます。大仏の置きさを写真や図、他のものとの比較で確認し、どうやって作ったのかを考えさせます。そして、これを完成するにはどれほどの材料が必要で、それをどこからどうやって運んだのかという大変さも確かめます。機材のない運搬はたいへん過酷です。エジプトのピラミッドほどではないかもしれませんが、普通に考えたら不可能な作業でしょう。そのうえでそんな困難を乗り越えてまで大仏を作った理由を考えさせるという授業があります。
③ 「三世一身法」や「墾田永世私財法」をテーマに取り上げてもいいでしょう。それぞれどんな法律かを確認し、土地の所有について考えさせます。その結果社会主義や共産主義の公地公民制度が必ずしも良くないことを確かめます。どんなに働いてもさぼっても、「平等」なのですから、やる気は失われていきます。奈良時代以前の日本もそうであったし、ソビエトや東欧諸国が破綻した原因にも触れられます。しかし、公地公民制度が崩れた最も大きな影響は何なのかを考えさせるという授業です。
④ 江戸時代にお台場沖にやってきた「黒船」を追い返す、尊皇攘夷思想がはびこった原因を考えさせる授業も同じです。鉄は沈むものなのに、黒船は鉄の大きな塊が浮いていて、しかも猛スピードで走り回るのです。まさに想定外の技術を持った国が、開国を迫ってきたのに対して、打ち払って追い返そうというのです。とてもかなう相手でないのは誰の目にも明らかです。大砲一つとっても、その威力は段違いで、お台場を作っても、全く太刀打ちできません。従わなければ何をされるかわかったものではありません。それにもかかわらず攘夷が叫ばれた理由を考えさせる授業です。
⑤ 「桜田門外の変」についても、なぜ大老が殺されたのかを考えさせる授業も考えられます。
実はこれらの歴史は、すべて流行性の病気が蔓延したことが原因なのです。チフスだったようですが、当時はその蔓延力は絶大で「コロリ」と呼ばれたそうです。これは数年前の新型コロナとよく似ています。遣唐使で苦労して中国に渡った結果、日本にも「コロナ」が持ち込まれ、蔓延してしまったのです。当時は原因は分かりませんし、中国に渡ることがどれほど魅力的であったとしても、ともかく病気の広まりを止めなくてはならなかったのです。「コロナ」の収束の願いを込めて無理して大仏が作られたのです。祇園祭も疫病退治のお祭りです。それでも伝染病の勢いは納まらず、たくさんの百姓が死んでしまいます。すると耕作者を失った農地がことごとく荒れ地に代わってしまいます。このままにしておくわけにはいかないと、苦肉の策として私有財産を認めるから開墾しろとしたのです。チフスはヨーロッパからも伝搬してきました。黒船がチフスを蔓延させ、何万人もの庶民がほんの数日のうちに死んだのです。それが黒船を何としても追い返せという運動となりました。その黒船を追い返すのはとうてい無理だとした江戸幕府要人に対してテロが起きた内の一つが桜田門外の変です。
ほんの数年前のコロナの恐ろしさを十分に思い知った今こそ、過去の出来事を暗記物するだけの味気ないものではない歴史を学べるチャンスだったのですが、十分うまく生かされた授業はあまり行われなかったようです。とんでもない損失です。しかもこのチャンスも、数年後にはぴんとこなくなってしまい、たとえ教科書に載ってもまたもただの味気ない暗記物となってしまうのです。
教科書に書かれていることは「古い」ことです。評価が安定したものであるからこそ信頼できるという面があるのは確かなことです。そのうえ数年に一度しか改訂されません。しかし授業研究、教材作りはほんの数週間先のことです。説明にちょうど良い事件が前日に起きたとしても、あるいは極端な場合は授業中でさえも、内容を変更しようと思えば出来るのです。新鮮さが自前の教材の命であり、そうでないものは古くさい古本の中の死んだ知識です。生徒の関心を捉え、意欲を沸き立たせることは、流行のゲームや漫画に迎合することだけによってもたらされるわけではないのです。それらで盛り上げた関心は、たちまちのうちに色褪せてしまい、刺激は麻痺してすぐに物足りなくなってしまいます。本筋から外れた脇道から戻れなくなってしまいがちです。
一例に過ぎませんが、コロナの時機にタイムリーに語られた歴史は、子ども達をかなりビックリさせられるし、同時に理解が格段に深まるのではないでしょうか。この程度の授業なら毎時間だって出来ます。ひとつひとつは確かに「天地がひっくり返るほどの驚き」ではありません。それでもたった50分で、授業を受ける前と後では、子どもの頭や心の中で、何かが変わるのではないでしょうか。次の授業では何が起こるのかと、生徒が授業を興味を持って迎えられれば、チャイム着席コンクールなどで無理して着席させることが、いかにくだらない取り組みであるかがわかるのではないでしょうか。強制して坐らせても、実質的な頭の中味は、学習の準備など出来ていない生徒が大多数なのです。これでいい学習が成立などする訳がありません。しーんとしているのはほぼ聞いていないという証拠でしかないのかもしれません。テストで正解を書くため、その後の成績向上のために多少は覚えるでしょうが、それが本当の勉強とはほど遠いことは言うまでもないでしょう。関心も興味も、受験がらみでの自重を巡り巡った結果でしかないものを従順に受け入れる生徒が、「いい生徒」なのでしょうか。
ここでは「コロナ」を利用した授業に絞ったのですが、例えば子ども達に意外性を喚起し、揺さぶりを掛ける授業など、それこそ星の数ほどあります。なかでも国語は意外性の宝庫です。「面白いのとつまらない」のは、上を向くか下を向くかの違いだ」としたうえで詩の授業を始めても納得いく結果に導けます。顔(面)を上に向けて、日差しをいっぱいに浴びている、前向きな姿勢が「面白い」のであって、顔(面)を俯けた姿が、暗く陰ってしまった姿で、それを「面倒」といったのです。興味関心と意欲とのつながりは、いくらでも話を広げることができます。こうした「道徳的」に何の問題もないものから、日本を代表する大文豪の夏目漱石の小説のテーマは「不倫問題だ」と聞かされたら子ども達がどよめくでしょう。そもそも文学は、健全性からはみ出したところで成立しているものです。また、美空ひばりは演歌歌手なのに楽譜が全く読めず、ジャズを歌うとアメリカ人の誰もがネイティブが歌っていると聞こえ、まさか日本人が歌っているとは信じないそうです。演歌歌手として有名な美空ひばりは、五歳のころから米軍の駐留地で歌っていたのですから、考えてみれば当たり前のことなのです。漱石もまた幼い頃から漢文に親しみ、作った漢詩は誰もが中国人の作品だと思うようですし、大学は東大の英文科を二番で卒業していて、英語の論文は日本人が書いたものとは思えないものだそうです。さらに「I love you」を、「月がきれいですね」と訳しているのです。身近な英語に日本語としてより相応しく自然な和訳を付けることも、面白い試みかもしれません。それでもイギリスに留学した漱石は、イギリス嫌いになって帰国します。その理由もまた一興です。向こうから来る二人連れの内の片方をちびで不格好だと思ってみていた。すれ違ったら、そのちびより自分の方がずっとちびだったので、自分はあんなに不格好なのかと頭に来たというのです。
またいったい「幾たびも雪の深さを尋ねけり」などという俳句のどこがどういいというのでしょうか。
ここには雪が積もることへの「期待」、雪で遊んだ「懐かしい思い出」、交通機関が止まることへの「心配」、今は自由に動き回れないことへの「嫉妬」など、ありとあらゆる感情がうごめいているのです。たったの17文字に、それこそありとあらゆる感情が読み取れるのが俳句です。決して「嬉しいな・・・」「暑いな・・・」などといったものは俳句にはならないのです。
「はたらけど はたらけど
猶わが生活 楽にならざり
ぢつと手を見る」
という短歌が、いったいどうしていいと言われるのでしょうか。「貧乏から抜け出せない」という思いなど誰にでもありふれたものです。ありふれないことを言っただけで、共感は得られても、それのどこが歴史に残る名作だというのか。ここで気をつけたいのが、啄木が見ているのは「手」だということです。普通なら貧しさは、家具や食事や着物など「物」に現れます。ましてや詩人啄木の「手」は、労働者の「手」のように汚れてぼろぼろではなく、まるで女性のような「手」だったのではないかと思われます。そこに「苦労」や「過酷」な姿は全く見られません。それでも貧しさの象徴として「手」を選んだのはなぜなのでしょうか。考えさせられます。
この程度の授業ならいくらでも例示できます。文法なんて何のために必要なんだろうか。古文や漢文なんてもう要らないんじゃないか。(論破王などと言われるヒロユキ氏は、古典など不要で学校教育から除外しろといっている)という意見に対してどう答えるのか。「論破王との対決」などという架空の論争でも、子供を引きつけられ、子供が喜ばせられるかもしれません。
子供達が「そんなバカな」と思うようなことを立て続けに提起して、子供に揺さぶりをかけ、翻弄した末に、今日の授業の一番大きな驚きに到達すれば、「授業がつまらない」などということにはならないのではないでしょうか。
国語や歴史に限らず、理科も数学も英語も、そうした「不思議の宝庫」です。ちょっと勉強すれば不思議なことは山程あります。教科書には取り上げられていないだけのことです。それでも教科によっては、こうしたことを毎日、毎時間続けるのは至難の業ということがあるのかもしれません。本当は、ほんのちょっと専門的に勉強すれば、どんな教科でも、子供を翻弄する企画など、いつでもどこでも実現可能だと思居ますから、本当のところ授業研究をサボっただけのことなのでしょうが、時として停滞してしまうこともありえます。
もしそんな「停滞」という名の教材研究不足が実際に起こると、子供達から「今日の授業はつまらないな」と言われてしまいます。そうならないように努力をするのですが、懲りずにそれが続いてしまえば、チャイム着席コンクールが必要になるかもしれません。しかし、それでも子どもをがっかりさせてしまったということが、逆に「このままではいけない」という励みになります。さらに居直る訳ではありませんが、「今日の授業がつまらないと感じるのは、いつもの授業が今日よりましで、面白いということだ」と子供達に保証してもらったということになります。つまり、「今日はがっかりさせてしまったが、常につまらなくて退屈な授業ではない」と自分の授業に自信を持って構わないということになります。これが「励み」でなくて何でしょうか。逆に、そうした子ども達の期待や努力、あるいは失望の声を無視して、主幹試験や管理職試験対策に時間を割くのが出世するということなのだろうと思います。
おわりに
東井義雄という先生がいました。晩年は校長を歴任した方です。つまり偉くなった人の仲間と言えるかもしれません。この人がどんな人かは、著作もたくさんありますし、評価した論文もたくさんあります。このブログ「江戸黄門」にも評価をしていますので、そちらを参照して下さい。東井先生は、貧しい寺の跡取りとして生まれます。貧乏で進学は思うに任せなかったのですが、成績は優秀であったために、費用のかからない師範学校に進学します。ひたすら上昇傾向が強かったのでしょう。めざしたのはエリートを教育する旧制中学の指導者となり、故郷に錦を飾ることでした。しかしことは思い通りに進まず、尋常小学校の教師にしか馴れませんでした。彼にとっては面白くも何ともない教師生活が続いたのです。そこでの生活は、適当な指導の繰り返しの退屈極まるもので、児童と本気で向き合うのは、児童をしかりつける時だけだったということでした。そのうちさらに尋常小学校から今でいう特別支援学級に回されます。
そんな時期に長女が入院することになります。長女は重病で、医者からも不治の病で、そう長くは生きられないことを宣告されます。東井先生は必死で看病しますが、掻爬いってもできることは何もありません。命が限られてしまった娘を、ただ励まし、見つめることしかできなかったのです。その長女が奇跡的に一命を取り留め復活します。その時思い知らされたのが、親であれ、医者であれ、本人以外は何もできないということでした。父親である自分は、ただおろおろと見つめる意外なにもできなかった。長女が生還したのはひとえに長女自身の力によるものであった。その経験から、東井は自らが考え、行ってきた教育の決定的な間違いに気づくのです。他人の大人が生徒に対して働きかけて、生徒を矯正しようとか、思い通りに作り直そうなどというのは、とんでもない思い上がりだったと思い知るのです。
そこで、東井は、この世のあるがままの風潮に任せて、子供に寄り添いながら、自らの成長する力を徹底的に補佐しようと考え直すのです。ちょうど浄土真宗の阿弥陀仏の意思でこの世ができていることに素直に従って、あるがままに成長する子供に、徹底して寄り添う決意をしたのです。
世は戦時中で、軍国主義がはびこり、臣民教育が徹底していた時期でした。あるがままに任せた東井の実践は、まさに少国民を育てる教育に他なりませんでした。そうした臣民の育成に全力を傾け、本人も充実感を感じて過ごしたのでした。
しかし、日本が敗戦を迎え、東井は自身が注力してきた教育に、改めて慄然とすることになります。一時は責任を取って氏を考えたり、教育界から完全に身を引くことを考えたりしますが、戦後急撃にもたらされるアメリカの経験主義に立つ新教育に対して密かな闘志を燃やすのです。敗戦国の片田舎の村に生きるものとして、徹底的に自信を失い、それまで価値あるものと信じてきた思想に欺されたことを刻み込み、もう新しい思想などに欺されてたまるかと決意を新たにするのです。新教育などに目もくれず、一億総懺悔の思想に汲みせずに、誤りは賛成しても決して誇りを失うなと周囲を鼓舞して、表舞台から身を引いた場所で地道な活動を続けるのです。
戦後しばらく経って、東井は、学校内だけではなく、村や生徒の保護者との、本音を出し合った関係造りに奔走して、「村を育てる学力」を構想します。それは学力を付けて進学するために村を出ていく物とは別物の、村に根付く、村に必要とされる學問の創造をめざしたのでした。これはしばらくはうまくいったように見えていました。しかし、ある時学校や教師と、村の保護者や生徒自身との、深い心のつながりの手応えがあったものが、一気に崩壊することになってしまいます。それは、ある家で、出稼ぎで村を出ていた長男が、工事現場で事故死したことに端を発しました。貧困なこの家族にとって、兄の死は悲しむべきものではなく、保証金でそれまでの借金の大部分を返すことができた、喜びに満ちたものだったということが分かるのである。そこから、学校からの発信に同調していたと思われた村人達の本心は、表面に現れないところにあって、「村を育てる学力」は建前だけの幻想に過ぎなかったことが、次々に明らかになっていくのである。
その後断り切れなかった校長職をいくつか果たして、定年退職後は、全国を公演して回るという生活をし、自己教育の意味を考え直したのであった。
人が人を作り替えるなどということは幻想に過ぎない。できることはひたすら本人に寄り添うことだけである。ではそれを現実社会の中でどうやって実現していくのか。東井先生が、全身全霊をとして、繰り返し挫折しながら残した遺産を、どうやって引き継ぐことができるのかを考え、伝えていくのは、もう手遅れなのだろうか。