はじめに
案外気づかずに、常識のように罷り通ってしまっている誤解というのは、結構あるものだ。かつて「マンション」が話題になったことがあった。大学の入試問題にもなったと聞いたことがある。「マンション」の意味を説明しろという問題だ。普通は「高級な集合住宅」といった程度の意味で使われている。付け加えるなら、「かなり設備が良い」とか「分譲にしろ賃貸にしろ、「かなり高額な物件」といったところだろうか。
ところが、それが誤解も良いところなのだ。マンションの本来の意味は、「大邸宅・豪邸」を意味するのだそうだ。豪華な作りの屋敷に、広い庭にプールなどがあることも多い邸宅といったところになる。たとえ高級であっても、決して「集合住宅」ではないのである。しかし、「マンション」の正しい意味を知らなかったからといって、日本に住んでいる以上は何も困ることはない。むしろ、正しい意味を知ってしまって正しい意味で使おうとすると、返って混乱を起こしかねない。
そうしたことはかなりたくさんあるように思われる。身のまわりの、よく使う漢字の読みだけでもたくさんある。例えば「十」については、音読みでは「ジュウ」か「ジッ」のどちらかである。そのため「10回」は「ジッカイ」と読まなくてはならず、「ジュッカイ」とは読むのは間違いなのである。しかし、むしろ「ジュッカイ」が一般に広まっていて、正しいからといって、この言葉が出る度に「ジッカイ」に訂正したのではうるさがられてしまうだろう。それどころか正しいはずの「ジッカイ」という読み方が、訛っているような、返ってそちらが間違いのように扱われかねない。しかし、まだ今のところ放送などでアナウンサーが話す時には、「ジッカイ」と、正しい発音が頑なに守られている。しかし、解説者や、テレビ業界にはびこっているお笑い芸人などは、たいてい「ジュッカイ」である。つまり、出演者のごく一部を占めるだけのアナウンサー以外は「ジュッカイ」が「ジッカイ」を駆逐しようとしているというのが現状だろう。この分でいくと、そう遠くない時期に、「ジッカイ」は「ジュッカイ」に完全に駆逐されて、絶滅する運命にあるのかもしれないなどと思えてくる。同じような例に「明日」のよみがある。これはそのまま読めば「ミョウニチ」ということになる。しかし「ミョウニチ」は、改まった場合などに使われることが多く、日常会話では多用されない。そこで慣用的な使い方として、「アス」という読み方が、常用漢字の別表に認められている。ところがここには「アシタ」という読み方はないのである。「明日」と書いて「アシタ」と読ませる場合には、実はふりがなを付けなくてはならないのだ。集計も統計も取ったことはないが、日常生活では「アス」より「アシタ」の方が使われることが多いような気がする。少なくても「アシタ」が圧倒的に少ないということはなさそうだ。ここで「アシタ」という読み方がされる度に、「アス」に訂正して回るというのも現実的ではなさそうだ。尤もこれはかつての文部科学省と改名する前の文部省が、当用漢字、常用漢字といった使用漢字数に制限を加える際に作った制限表に載っているというだけであるから、正しいかどうかをあまり深刻に考える必要はないかもしれない。特に「当用」などというのは、「さしあたって」「適当」に選んだ漢字といったほどの意味でもあるのだから。
このようにたくさんの人が勘違いして、間違った使い方をしている言葉というのは案外たくさんあるようだ。言葉を使うのは生きた人間なので、使われる言葉が時代と共に変化していくのは、言葉の宿命であるかもしてない。「この世」を表す「うきよ」は、時代によっては「浮世」と書き表され、別の時代には「憂き世」と書き表される方が受け入れやすくなり、対照的な意味を持っている。「犬も歩けば棒に当たる」ということわざも、何か行動を起こせば「良いこと」に出会うのか、いつでもどこでも「被害に遭いやすい」のか、時代によって解釈が違い、「棒」の意味が正反対に近い解釈がなされる結果を招いたりもするようだ。
こうなってくると、果たして言葉は正しい使い方を頑なに守るべきものなのか、時代と共に移り変わることを容認すべきなのか、どうしたら良いのかなかなか決めにくいところがあるように思われる。しかし、言葉というのは何ごとかの意味を伝えるものであってみれば、その意味するところが正確でなくてはならないのはもちろんだが、言い方(読み方)も定まっていなくては伝わり方に微妙な差をもたらしかねないのではないだろうか。一方で、言葉は生きていると考えて、幅があることについては寛容であるべきではないかと思われるが、他方で言葉が曖昧に使われてしまえば、結局曖昧にしか伝わらないことになり、時には正反対に近い誤解を生み出しかねないのではないかという危惧も生まれてくる。はたしてどうするのが望ましいのだろうか。
1.「情けは人の為ならず」の本当の意味
「情けは人の為ならず」の、高校の入試問題に出題されたことがある。使い方の例と意味を書かせる小論文だったのではなかったかと記憶している。この言葉が誤解されることが多いことは、1960年代より指摘されていた。しかし、改めて2001(平成13)年に文化庁が実施した「国語に関する世論調査」によって、この言葉を誤解している者(48.2%)が、正しく理解している者(47.2%)を上回ったという調査結果が大きな話題となった。さらに翌年の調査では、誤解している人が50%を上回ったとされた。こうした結果を踏まえて入試にも出題されたということだろう。
「情けは人の為ならず」というのはどういう意味なのであろうか。先にそれをまとめてしまおう。
この言葉には、「良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」という仏教の「因果応報」の考え方が根底にある。そのうえで、この言葉の意味は、「他人に親切にすること」「困っている人を助けること」など、他人に対して慈悲の心や親切心を持ち、それに沿って行動することは、巡り巡ってその恩恵が自分に返ってくるという意味である。「困っている人を助け」たり、「相手の立場に立って物事を考え」たりすることによって苦しんだり、努力したりすることは、結局は自分自身の人間性を磨くことに連なり、相手のためになるのではなく自分自身のためになるものなのだ、と言っているのである。
2.「情けは人の為ならず」の出典
古くは、鎌倉時代の軍記物語である「曽我物語」の中に「情けは人の為ならず、巡り巡って己がため」という表現が登場する。これが最も古い出典ではないかとされているが、同じ鎌倉時代の仏教説話である「沙石集」にも、同じく「情けは人の為ならず」という表現が見られるといわれている。曽我物語にあるように、「巡り巡って己がため」と続いているので、前半だけを切り取らなければ間違った解釈がこれほど広まってしまうことはなかったのではないかと思えてくる。尤も、何でも省略し、短いフレーズにすることが好きな民族には無理な話で、誤解は生まれるべくして生まれたといっても良いかもしれません。
なお、出典としてはこれらはかなり古いものになり、「曽我物語」以降にこの言葉が頻繁に用いられるようになったことは確かのようだが、それ以上にこの言葉が広まったきっかけを作ったものは別にある。それが「武士道」を著した新渡戸稲造の詩「一日一言;武士道の貫いて生きるための366の格言集」の中の詩の一節である。詩の全文は次のようになっている。
「施せし情けは人の為ならず、おのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても 人の恩をば長く忘るな」
現代語訳にするまでもないだろうが、
「情けは他人のためではなく、自分自身のためにかけるものである。
だから、自分自身が他人にした良いことは忘れてしまっても構わない。しかし、他人から良くしてもらったことは、決して忘れないようにしなくてはならない。」
といったほどの意味である。
これに多少の肉付けをすると、先のような本来の意味となるだろう。
3.情けは人の為ならず」の間違った解釈
では、この「情けは人の為ならず」の間違った解釈というのはどういうものなのだろうか。
それは、「人に情けを掛けて、手伝ったり協力したりしてしまうと、結局ちっとも実力がつかず、結局はその人のためにはならないのである。大変でも厳しく育てて、苦労を乗り越えさせるのが望ましい人間関係である。だから、親切なように見えても、結局甘やかしてしまうことになるような接し方は、やめた方がその人の為なのである。
結局のところ「他人には厳しく接しろ」と言っているのであり、本人の実力要請のためを思って説諭しているように見えなくもないが、「助け合い」よりも「競い合い」の気持ちが強いのではないかという気がする。相手を「追い落とせ」といってはいないものの、「冷たく突き放す」傾向が強いのではないだろうか。
4.「情けは人の為ならず」の誤解が大勢を占めるまでになった由来
さて、ではなぜ本来の意味を離れた別の意味に取る人が過半数となるように事態を招いたのであろうか。
これには二つの理由が大きく関わった結果ではないかと思われる。一つは、日本語という言語の歴史の特殊性に由来するものである。
まず、まるで外国語のようになってしまったかつての日本語に対する読解力の欠如の結果が理由として挙げられる。これは、日本語が江戸時代と明治時代、さらには言文一致の結果の文語と口語の断絶、さらには戦後のGHQに先導された日本語改革により、完全に古典と縁を切り、ほんの100年前の日本語が、ほとんどの日本人にとって理解不能なものとされてしまった結果だと言える。漢文の白文はいうまでもなく、純粋な日本語であったはずの古文も満足に読みこなせない自体に、こんなにも早く到達してしまったのである。
ほんの100年ほど前といえば、日本では江戸時代である。その当時の日本簿は「古文」と呼ばれ、現代日本語とは明確に区別され、大方の日本人には読みこなせないものとなっている。その影響を受けた尾崎紅葉や樋口一葉といった、明治という近代になってからの作品も、満足に読みこなせないのである。外国語のことはほとんど何もわからないが、イギリスではシェイクスピアの時代といえば、今から500年近く前の時代で、日本でいえば江戸時代より遙か昔の織田信長や豊臣秀吉の時代だろう。どうやらイギリス人にとっては、シェイクスピアの作品は、現代語との違いは、日本語より遙かに小さいように聞く。もしそうだとすると、500年近く以前の遺産を、かなり自由に読みこなせるということになる。しかし日本ではほんの初歩的な文言さえ誤解するのが態勢になりかねないのである。
「情けは人の為ならず」が読み違えられてしまうのは次のような事情である。「ならず」は断定の助動詞「なり」の未然形に、打ち消しの助動詞「ず」が連なったもので、「~でない」という意味になる。
誤解してしまったのは、「ならず」を動詞の「なる」の未然形に、打ち消しの助動詞「ず」が続いたと考え見做した結果である。そうすると確かに「~にならない」という意味になりそうに見える。しかし動詞「なる」の未然形に否定の助動詞「ず」が続くと「ならず」ではなく「ならざる」とならなければならないのである。「ならざる」なら「ならない」という意味になるのである。「人の為にならない」という意味になるには、「情けは人の為ならざる」なのである。日本語として、かつては何の問題もなく、日常的に使われていた言葉が、分析しなければ理解出来なくなってしまっているということなのだ。これが「誤解」が生まれてしまう第一の理由だ。
因みに、日本語では「夏は来ぬ」と漢字で表記されても、「夏はきぬ」では、「夏が来た」という完了の意味になり、「夏はこぬ」なら「夏はまだ来ていない」という未完の意味になる。こんな単純で日常いつでもどこでも使うような言葉さえ伝わらなくなってしまったのが日本語の実態なのである。
これに加えて世相を反映するという要素が加わるのではないだろうか。たとえば、「犬も歩けば棒に当たる」が、大した努力をしないでも、いいことに巡り会えるという意味であると解釈された時期もある。そこでの「棒」は程度の差はあっても好ましいものに出会うチャンスに満ちていることが示されているだろう。それは人生も世の中も、恵まれていて親切や温情に満ちあふれているので、手持ちぶさたで歩いていても、特別な努力をしている訳ではなくても、大概いいことに巡り会うという時代である。ひと言で言えばいい時代ということになる。これは皆が浮かれた世の中で「浮き世」に近いだろう。
それに対して「棒」が良くない出来事に出会うこと、危険であることという意味に用いられることがある。ぼんやり油断していた日には、どんな危険に巻き込まれたり、見舞われたりするかわかったものではないと云うことである。もたもたしたりうっかりしていると、何時危険な目に遭うか分からない時代である。せいぜい用心しなければといったような意味になる。これは世知辛い世の中である。こちらは「憂き世」とみるべきかもしれない。
「情け」は巡り巡って自分のためになるのだから、どんどん人に尽くそうというのは、ボランティア精神の発揮であり、「浮き世」に近かったのかもしれない。それに対して、「甘やかすな」という教訓が浮かんで気安い現在は、必ずしも慈愛に満ちた世界ではなく「憂き世」の方が近いのではないかと思えてしまう。
いずれにしても、言葉の意味がはっきり理解出来ないから、だいたいの意味を理解して分かったつもりになりきってしまい、そのうえでその時の気分で勝手に解釈を加えることで分かったつもりになってしまっているところに、誤解が発生する理由があるのではないだろうか。
まだ、相手に「情け」をかけるべきかどうかなどといった、対人関係のあり方を問うといった問題なら、返ってさまざまな意見があっても構わないという面もあるかもしれないが、夏が「来た」のか「まだ来ない」のかと云ったことでさえ誤解が生まれそうだとなると、放ってはおけない緊急課題のようにも思われる。正しいことを徹底して追求するのか、その時代の大多数に寄り添うのか、積極的に新しい意味や読み方を推奨していくのか、それとも時代や状況に合わせて対応を切り替える、新たな基準を模索するのか、応えは出しにくいが、のんびり対策を先延ばし巣湯余裕はなさそうである。
5.本来の意味が理解できたら、従うだけか?
「情けは人の為ならず」という言葉が示す本来の意味は理解出来た。間違った解釈についても、内容もそれが起きてしまう原因についても理解出来た。すると、後は本来の意味を尊重し、絶対にそれに従わなくてはならないものだろうか。
もちろん短い言葉にすべてが完璧に表現出来るはずもない。強調したい一部分が突出して強調されるのは当然のことである。つまり、あれが足りない、ここが不十分だなどという指摘はいくらでもできて当然だということだ。そうした指摘が出来たからといって、もともとの言葉の価値が減らされるとは限らない。むしろ、そうした難癖に負けないだけのものがあるところに価値があるというべきだろう。
では、「情けは人の為ならず」の本来の意味に対してどう思うだろうか。もともと「一日一言;武士道の貫いて生きるための366の格言集」の一つとして記されたものである。「武士道」は、立派な心意気であるという面と、精神論として必ずしも好ましいものではない方向に導かれかねないものという印象も持っているといえるだろう。特に昨今は、「侍ジャパン」などとして、世界と戦うスポーツ競技の応援に、大々的に使われ、活躍している。いろいろな人が使うようになれば、そこに意味の拡大解釈が、どうしても生まれてしまう。
「侍ジャパン」という合い言葉が、人によっても、競技によっても、随分違った意味で使われているのようだということである。それどころか、たとえ同じ人が使っても、時と場所に応じて、かなり違った意味が込められているのではないかという違和感を感じることが少なくない。極端に言えば、その場に応じてご都合主義に使われているのではないか、という気がしてならないのである。その時その時の都合のよい切り取り方がなされていると言ってもいい。ある時には「勝つことこそ至上命令」であったかと思うと「参加することに意義がある」という意味で使われたり、「最後の最後まで絶対に諦めるな」であったかと思うと「潔く諦めることこそ美学」であったりと、まるで正反対ではないかとさえ思われる価値が込められている。もちろん逐次その意味を詳細に説明したり、検討したりすると、矛盾していることが明らかになるので、一つの「侍精神」といった言葉にくるまんで、都合のいいように使われてはいないだろうかということである。
「情け」とは、他人を思いやったり、手助けすることであろう。それをどんどんやるべきだという。どうしてかというと、それが、助けられた相手のためになるのではなく、努力して力を付けたり、思いやって強い気持ちを持ったりすることを通して、自分自身を鍛えたり磨いたりすることにつながるからだという。見事なボランティア精神の発言であり、心意気としては、文句の付けようがない。しかし、助けた自分は、心も体も磨きを掛けて成長することができるだろうが、相手はどうなのだろうか。確かに助けてもらわなくてはどうにもならないこともある。そんなときに手を差し伸べてもらえるのは、この上なくありがたいに決まっている。しかし、相手が自分を成長させるチャンスを失うことについてはどう考えているのだろうか。もちろん、先ほど述べたように、短い言葉であらゆる場面や状況を網羅できるはずがないにしても、である。
さらに、自分が相手に尽くしてあげたことを、恩を受けた相手は忘れてしまって構わないのだと続くのである。もちろんこれも、相手の記憶を奪って忘れさせようという訳ではないだろう。むしろ相手がたとえ感謝の気持ちを持たなくても恨んだりしない無償の愛を持つことをいっているに違いない。無償の愛とは、見返りを一切望まないと云うことである。感謝の気持ちを教えるなどというのはおこがましいことだというのも分からなくはない。しかし、それが非常識な相手を生むかもしれないことに関しては、どう思ったら良いのだろうか。他方で、相手からしてもらった「思いやり」や「手助け」は一切忘れるなと続くのである。たとえ相手が、さんざん手助けしてやったことを鼻にも掛けないにも拘わらず、相手からしてもらったことに対しては、たとえ些細なことであっても決して忘れるなというのである。どんなに図々しい相手に対しても、誠実さを貫けという意味であろう。それは立派な心がけ以外の何物でもない。しかし、現実の場では、こちらが相手の些細な思いやりに礼を言った時に、相手はその何倍もの恩をこちらから受けていたことに改めて気づいたとしたら、恥を掻かせたことにはならないのだろうか。無言の教訓として、あるべき姿や感謝の表し方を相手に教えたということになるのであろうか。それこそ最大の、無言の教訓であると言えばそうに違いないのだが・・・。
概して、手助けされた相手には武士道精神というより人間としての常識さえ欠片もないことを前提にしているのではなかろうか。相手が、一方的に助けられてしまって自分を磨くチャンスを奪われてしまいかねないということに対する配慮はないのだろうか。
もちろん、ないものねだりのいちゃもんに近いことはわきまえているつもりである。しかし、もしこの言葉の根底に「良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」という仏教の「因果応報」の考え方があるとするなら、言外に、究極的にははじめから見返りを待ち望んでいたということにはならないのだろうか。それは、極端に言えば、普段から人助けをたくさんしておけば、いざ自分が本当に困った時には、手助けする手が差し伸べられることは間違いないという思いが言外に滲み出ていないだろうか。
「武士道」というと、正々堂々と潔さばかりが強調され、武士と無縁のぼくなどはその潔さだけに一方的に見せられてしまう傾向がある。しかし、常に堂々と潔いばかりでは、戦国の世など、いのちが幾つあっても足りないことは火を見るより明らかだ。作戦もあればしたたかな思いもあるに違いない。驚くほど合理的な考えをしていたともいわれる。血筋を絶やさぬ為には、親子兄弟が敵味方に分かれ、どちらかが生き延びるというような、今では信じられないことも平気でなされていたとも聞く。徹底して合理的な面も持っているのだ。
ただし、武士がやったと記録に残っていることのすべてが、褒められる武士道という訳ではなかろう。さまざまにある出来事や考え方のうち、どれが立派な武士道で、どれが取り上げられ、どれが否定されるべきかの仕分けは必要なのではなかろうか。
正反対のことわざが一対となって、人生の教訓となることも視野に入れるべきだろう。常に「弘法も筆を選ばず」ではなく、「河童の川流れ」もあり得るのが人生であり、不完全な人間の現実だ。「渡る世間に鬼はない」と思っていても「人を見たら泥棒と思え」という教訓が身に染みることもある。もちろんその逆もある。「あつものに懲りて、なますを吹いて」損をしたり、恥を掻くこともある。それが人生なのであろう。その有効性と限界とをきちんと分けることなく「馬鹿の一つ覚え」では人生を乗り切れないのである。