はじめに
かつて、「日本のペスタロッチ」と呼ばれ、「村を育てる学力」の大切さを訴え、日本の教育に大きな影響を与えた人物が、東井義雄だ。生涯、子供の側により沿った教育を続け、地域の人々に愛され、慕われ、敬われた教師といって間違いはない。兵庫県の生まれ故郷には、「東井義雄記念館」が建てられている。
しかし、無着成恭が、綴り方など何も知らない教師として郷里の中学校に着任したのと同じように、東井義雄もまた初めからすぐれた教師であった訳ではない。それどころか、エリート校で教鞭を執ること希望し、それを諦めざるを得ない所に追い詰められた末に、天皇を崇拝して皇国民を育て、本気になって戦争に協力して戦前を過ごしたという過去を持つというのである。
東井義雄は、1912(大正元)年、兵庫県富岡市の東光寺という寺に生まれた。教師でありながら僧侶としての仕事にも勤めていた。東井の教育観として「命を輝かせる」というものがあるが、僧侶としての生活に影響されたものかもしれない。
幼い頃の生活は貧しかったという。師範学校に進学した理由は、「一番安く学べるから」ということだ。卒業後、富岡市の高等師範学校に着任し、小学校の教師として働き始める。その後実践を続け、校長となる。その頃から徐々に東井の実践が世に知られ始めた。「ペスタロッチ賞」を初めとする数々の賞を受賞して定年を迎える。
「村を育てる学力」への道
東井の数々の出版物の中で最も有名なのが「村を育てる学力」である。「村を育てる学力」とはどんなもので、さまざまな「村」での学習活動・教育活動とどう違うのかをみていくことにしたい。
戦後の貧しい地域で教師をしていたという東井が体験したエピソードの一つに次のようなものがある。「うちの長男には勉強を教えないで欲しい」と言われたというのだ。
当時、農家の家に生まれた長男は、農家の後継ぎとなるのが一般的だった。勉強を教えられると進学したくなる。進学するためには村を出て行ってしまうと言うのだ。何としてもそれを止めたいと云うことだ。それだけでなく、長男以外は反対なのだ。貧しい農家で何人も養うことは出来ない。だから後継ぎ以外は、村を出て就職して欲しいのだ。これが当時の切実な願いであることを知った東井は強い衝撃を受ける。「学ぶ」とは、村を「捨てる」ことであり、「学ばない者だけが村を作っている」ということになるからだ。
学ばない結果、犠牲になっていく才能があるのも問題だが、それ以上に進学し村を出るために身につける学力を、東井は「村を捨てる学力」と呼んで、そうした現実が認められてしまうことに大いに疑問を持った。大切なのは、その地域を豊にする「村を育てる学力」でなければならないはずである。もちろん「言うは安く、行うは難し」である。では、東井はどのようにして「村を育てる学力」を育てたのだろうか。
東井が取り入れたのは、生活綴り方である。生活綴り方は、子供自身が見たもの、感じたこと、考えたことを文章にして表現することに始まる。それ自体はどこででも行われていることに過ぎない。特筆すべきなのは、東井の授業展開だ。それは「一人調べ→分け合い・磨きあい・大勢調べ→一人学習」という段階を設定していることにある。初めは個人で計画を立て学習に取り組む。それを話し合ったり、協力したり、批判し合ったりして学習を進めたり深化させる。そして最後に個人の学習に戻り、成果をまとめるというものだ。これは現代の学校でも、個別学習と共同学習を組み合わせ、最終的には個人でまとめると流れは重要なこととされている。この源流に東井の実践があると言える。
また、東井は学習の際に「学習帳」を積極的に使っていた。そこでは、学習の機能が二つに分類されていた。「練習的機能」と「備忘的機能」である。「練習的機能」とは、学習帳を練習のために使うことで、現在作文のための構成や下書きを書くことがこれに当たる。一方、「備忘的機能」とは、板書を書き写すなど必要と思われることをメモしておくことである。これらの機能を考えて、学習帳を使いこなすことが大切にされている。
しかし、これだけのことであれば、いったい「村を育てる学力」とか「村を捨てる学力」がどんなものであり、それらにどう立ち向かったのかは全く分からない。
朝早くから夕方まで、働いても働いても豊かにならない農家の現状に直面しながらも、東井が辿り着いたのは次のような学習の在り方だった。それは、最新の新学習要領がめざそうとしていて、父として実現しない施策の先取りに他ならないように思われる。
一つは、学ぶ姿勢に関することである。「村の貧困も、この調子でいけば、絶対にどうにもならないというものではないと思われはじめた。そして、今の日本のみじめさだって、教育によって、打開できるものだ、と思われはじめた。でも、そのためには、学校は、各教科の在り方を、全面的に考え直さなければならないだろう。ものしりをつくりあげる教育体系ではなしに、身のまわりの物事を、算数は算数の立場で、はてな?と不思議がり、こうかもしれないぞと考え、こうしてみたらどうか、と実際にやってみる、なるほどとうなずき、でも、いつでもどこでもそうなるか、と試してみるというような行き方を、もっともっとだいじにしなければならないし、理科は、理科の立場から、はてな、おやおや、なぜだろう、こうかもしれないぞ、こうしてみたらどうなるか、なるほど、でも・・・・・、と考え、考えやってみる、というような在り方をだいじにしなければならぬ。国語も、社会も、そういうふうな、生きて働いていくものに育て上げることで、宿命にさえ見える現実の壁をつき破ることができるのだ。学習は、そういう学習にならねばならぬ。そうすることで、村の子どもが学力が低いという非難もふきとばすことができる。私はそう信じる。しかし、学習がこのようなものになるためには、学校がどんなにがんばってもむだだ。親たち、いや村の人たちみんなが、こういう学習を、ほんとうにほしがってくれるようになり、自分でも、頭を働かせる働き方を展開してくれるようにならなければならない。」
これは、新学習指導要領が教科特有の見方・考え方を働かせる学習を実現するために訴えている「社会に開かれた教育課程」の必要性にあたるであろう。
が遙か昔に捉えられていたのである。
もう一つが、学ぶ内容に関する考え方である。「近代産業の興る条件のほとんどを欠いているデンマークが、今日の繁栄を築き得たのはなぜであったか。すぐれた指導者によって、『愛』が育てられたからではなかったろうか。『愛』とは何か。『わたしのもの』という意識のことだ。わたしはそう思う。・・・(中略)・・・『こと』が『人ごと』ではなくて『自分のこと』になると、無い力まで出てくる。・・・(中略)・・・主体的な『愛』は、ものを、自分のものとしてかわいがり、しらべていく、行動的な学習を通してのみ、育て得るものだと私は信じている。それは身のまわりの物事を、自分のこととして考え、処理していくような算数の形によっても育て得るだろうし、かわいがる理科、育てる理科、製作する理科というような形でも、育てられなければならない。・・・(中略)・・・『村を育てる学力』は、何よりも、その底に、このような『愛』の支えを持っていなければならない。そこが単なる『進学用の学力』あるいは『就職用の学力』とちがうところであり、『村を捨てる学力』と本質的に違う点だと、私は思っている。そして、こういう学力こそ、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても『しあわせを築く力』となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じる。」
この部分は、新学習指導要領が示している主体的・対話的で深い学びと同じことを言っているように思われる。そうだとすると、60年以上も前に書かれた教師の実践の方向に、2020年から段階的に実施されている新学習要領が、やっと追いつき始めたということになる。新学習指導要領の先取りをしているというのだ。それだけでも確かに対したものではある。日本の最優秀の頭脳を集めた文部科学省が、やっと辿り着いた学習観・教育観を、ずっと以前に先取りしていたという評価にもつながる。
果たしてそうであろうか。東井の言う「村を育てる学力」の本当のすごさはこんなところにはない。「村を育てる学力」が試行錯誤しながら辿り着いた地点は、こんなものではないのである。
戦前の東井が目ざしたもの
東井義雄は、もともと皇国民として育ち、故郷の田島にエリート校で教鞭を執るという形で錦を飾るという野望をもっていたが、それが思うに任せなくなり、師範学校上がりの教師として、1932(昭和7)年に豊岡尋常小学校に赴任する。
生徒を叱っている時にしか生徒に寄り添っているという実感が持てなくなっていた東井は、着任2年目より、「遅進児」や「高等科」(能力や経済状態が理由となって、旧制中学に進学できなかった者が進む学校)の児童を担任することになった。「普通児の下積み」にされ続け、精気を失っていた子供達との格闘を通して、東井は、生徒との本気での関わりを実感するようになっていく。それまでケチな仕事と見ていた教師の仕事に没頭していき、今や大きな業績を携えて、戦後教育しに聳え立つようになった東井義雄の出発点がここにあったのである。「煙草も飲まず、遊びも知らず、下宿に帰ってすることは本を読むことぐらいしかなかった」という知識人であり、上昇志向の塊であった東井が、「文検の参考書を売り払い」、上の学校の教師を目ざすという立身出世の野望を捨て去るきっかけが、ここにできたのである。
東井が「遅進児」や「高等科」の生徒に対する熱心な取り組みの中から見出したのは、「教育界には『不必要なもの』「役立たぬもの』『にせもの』『有閑なもの』が多すぎる」ということだった。例えばそれは、「毎日子どもの叱り賃として俸給を得る教師」がおり、「自分の名前さえ書けない子どもに、片仮名の『モ』を三ヶ月も教え続ける」といったことであった。東井は、子どもの生活の根底を揺り動かすことを欲し、知識や技能の習得を越えて、子どもの存在全体に働きかけることを探っていた。野村芳兵衛に私淑し、兵庫県綴り方連盟に関わり、南方の生活綴り方運動の有能な担い手になっていった。
それでも彼に満足は訪れなかった。一方で浄土真宗の寺の息子であった東井は、父の代わりに読経する聖職者であった。その読経の最中に感じるのは、「坊主、偽坊主、汝は飯を盗むか糞坊主」と自嘲的な思いであった。貧困に苦しむ但馬の村人達から、何の生産もすることなく、村民の苦汁の結晶である「飯」を「盗んでいる」という自覚に苛まれたのである。実際に働く者から搾取しているという、後ろめたい思いから逃れられなかったのである。その思いは、同時に教師としての東井が、同じような「盗み」をしているという思いに駆られていたのである。
庶民の生活圏から切り放されて浮遊する(僧侶・教師という)知識人東井が、かろうじて獲得したのが、自ら「二つの停留所」と呼ぶものであった。
一つ目は、「子供達も自分自身も、天皇の赤子として、徹底した皇国民を育てる」という決意であった。こうした決意に辿り着いたのは、病に倒れた長女の看病の経験が大きく関係していた。かつて叱っている時以外「子どもと一体になれない」と感じていた東井の長女が重病にかかってしまう。医者からは十中八九死を逃れられないと言い渡される。「死を言い渡された我が子」の絶え絶えの脈を取りながら、東井は自分の無力さを痛感する。「お前のいのちは、とうちゃんなどの力で、どうにかなるようなものではなかった」と思い知らされる。その長女が奇跡的に一命を取り留めた。生死の境をさまよいながら必死に病と闘い、それに打ち勝ったのは長女自身であり、まさに彼女自身に授けられた力によって生き延びたのだ。父はもとより、医者でさえも、看病しただけであり、、彼女に生きる力を授けたのは、人知を越えた大いなる力に他ならないと感じられた。それは、浄土真宗の他力の教えと重なり、本来「弥陀の本願」とされるべき「他力」が、戦時下にあって「皇国無窮の御本願」と結び付き、「天皇制」への協賛に全霊を打ち込む結果を招いていく。いわば本気になって戦争協力者の道を進むのである。子どもの命に触れられたと感じた途端に「子どもと素直に遊べるようになり」、戦勝祈願の神社参拝路の柏手も「素直に打てる」教師となっていくのである。
(参) 親鸞に取る浄土真宗の教え
東井義雄が、浄土真宗のお寺に生まれながら、戦争協力者の道に進んでしまったのは、「絶対他力」を説く親鸞上人の教えと無縁ではなかったのである。もちろん、浄土真宗が戦争協力の教えであった訳ではないのだが、そう曲解してしまったということだ。その絡繰りは次のようなものである。
親鸞上人が説く浄土真宗では、人は死後一切の区別なく、誰もが平等に阿弥陀様によって極楽浄土に導かれるとされている。阿弥陀如来はその約束を守るために修行を続けており、必ず守って下さるというのである。だから人は安心して過ごしてよいとするのである。
「安心して暮らす」とはいうものの、人の世はさまざまな困難に満ちている。本来なら阿弥陀様の力をもってすれば、すべての人間が安楽に、幸福に暮らせる世の中を作り出すことなど簡単だという。ではなぜそうしないかというと、「この世に生きること自体が修行であるからだ」というのである。
普通、ほかの宗派では、死後に戒名を授ける。実態としては、僧侶に高い金銭を支払って授けてもらうのである。金額によって上下の区別もあるとされる。この戒名というのは、それまで仏教の修行をしたこともなければ、信心さえしていなかった者が、死後の世界で極楽浄土に導かれるために、修行を始めるために、現世での死と同時に戒名を得て、仏道の修行を始めるためのものである。言わば俄作りの仏道修行者を作ることになる。これに対して、浄土真宗では、一切修行もすることなく、死と同時に全員が、無条件で極楽浄土に導かれるという。だから戒名は不要である。ついでに位牌も要らないとされている。親鸞上人は、一度でも「南無阿弥陀仏(一切を阿弥陀様にお任せしておすがりします)」を唱えれば、それだけで良いというのである。
それだけではない。親鸞上人によれば、「悪人」ほど成仏するというのである。「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや。」(悪人正機説)という言い方をされている。「善人」であっても極楽浄土に行けるというのだから、「悪人」が往生出来ないはずがなかろう、といった意味だ。うっかりすると逆のことを言っているように思われるが、親鸞上人はそう仰ったと伝えられている。
なぜ「悪人」の方が優先して極楽浄土に往生出来るのか。それは「絶対他力」だからである。「絶対他力」というのは、すべて阿弥陀様のお心のまま、人は生きていると考えるのである。全員を幸福で恵まれたままにしなかった阿弥陀様の御心である。つまり、不幸な境遇に生まれた者は、阿弥陀様の指示で、恵まれない不幸な人生を歩むのである。ある者は身体に障害を持ち、ある者は貧困の果てに犯罪に手を染めねばならない立場になる。その結果当然他人に激しい恨みを買うことになるといった具合である。つまり「悪人」とは、阿弥陀様に与えられた嫌な役を、生涯に渡って演じる俳優のようなものとでも言ったらいいのだろうか。それを生涯を通じて演じきった者は、その死に臨んでお釈迦様から、最優先で極楽浄土に導かれる権利を与えられる。それは当たり前のことだというのである。「悪人」ではなく、「善人」としてこの世を過ごせた者は、特別に不幸に見舞われた訳ではない以上、特別に優遇されることはな猪野が当然だ。それでも極楽往生できるのだから、務めを果たし終えた「悪人」が極楽往生できないはずはないではないか、というわけである。
このように、今目の前にある物事が自分に与えられた役割であり使命であるならば、それに全身全霊取り組むことが阿弥陀如来の命に答えることである。そう思った東井は、目の前で行われている軍国主義教育に没頭していくことになり、それこそが生きがいとなっていったのである。これが東井が戦前に軍国教育に生きがいを感じた絡繰りということになるだろう。
ところで、親鸞上人の同時代にも、「悪人こそが優先して往生出来るというのであれば、悪事を 重ねよう」という集団が多々生まれたようである。そこでは、強盗、殺人、強姦が繰り返し奨励さ れ、実際に横行したという。そして親鸞こそがそれを先導する危険人物として、遠島やあわや死 罪というところまで追い込まれたようである。いつの時代でも愚か者はいるものである。親鸞上 人は、繰り返している。「悪人」は、あくまでも阿弥陀如来の意思で生み出されるものである。 決して個人の意思で行うものではないのだ、と。自分の意思で悪事に手を染めるのは阿弥陀様の 意思による「他力」ではなく、あくまでも「自力」であり、たとえ同じ「悪行」を果たしたとしても、 それは全く別物なのだ、と。勘違いとはいえ、東井義雄は、目の前の「悪行」に、自らの意思で、 全身全霊で取り組んでしまったのである。
もう一つは、坊主でも教師でもある「聖職者」の自分に、貧しい村人達が「飯」を与えてくれる優しい心根に共感し、どこまでも寄り添っていこうとする心情である。村人のために、子供達のために、全身全霊をかけて尽くそうとする決意が生まれたのである。
こうして戦前の東井は、天皇制信奉という、運命的に与えられた世界の、越えられない現実と思われた世界の中で、本当に役立つ臣民を育て、臣民が真に望む力と精神を育てることを通じて、本気で取り組むことができる自己の使命に没頭したのであった。
戦後の東井が目ざしたもの
戦時中を、本気になって戦争に協力した転向体験を持つ東井が、戦後になって「村を育てる学力」に辿り着くのは容易なことではなかった。
まず、戦中の自らの言動の責任を取って教師を辞めるというのが最初の選択肢があった。というより、このまま生きていくことはできないという思いが強かったかもしれない。ところがそうはしなかった。それは、戦争責任に自覚的に向き合った結果、どれほど「辛くてもやはり生きて、祖国再建のために、命をかけるべきだ」と覚悟したことによるという。何時の時代、どのような立場にあっても、教師にとって「子供のために」という合い言葉は、すべてを免罪してしまう力がある。それは、自己の思想的自立を切り開く機会を失わせるものに他ならない。天皇制家父長国家による世界制覇の夢が、あまりにも悲惨な結果をもたらす以外に道がなかったことがはっきりした戦後には、まず、「もう二度と再び思想などにたぶらかされるものか」という強い言葉と決意を表明する結果をもたらす。その決意は正真正銘本物にほかならなかった。ただし、それでは世界統一による平和国家建設の夢が、浄土真宗の説く他力本願の具現ではなくなり、どのようにして民族のエゴに変質してしまったのか、それは何をきっかけに、いつから始まったのかといったことに対する深い検証はみられなかった。その結果ただひたすら、戦前に欺されたことに対する、燃え上がる怒りと熱い思い秘めて、彼を教壇に立たせ続けるために尽力し、奔走してくれた村の人々の厚意に報い、子供の幸せのために残りの人生を捧げようという思いに駆られたのが戦後の東井だった。つまり、過去の実践に対する、呵責なき内在的批判の成果として導かれたのではなく、ひとえに心情的なものでしかなかった。
もともと社会主義に傾倒していた者が、浄土真宗の他力本願に影響され、現実には何一つできない無力な自分の姿を、仏と同一視した天皇に付き従う結果を招き、本気で戦争協力者となっていくメカニズムの解明をこそ、本来は果たさなければならなかったはずである。他力本願が、天皇制国家主義というエセ全世界主義に絡め取られ、民族エゴに捉えられて、なお気づくこともなかった経緯を明らかにしなくてはならなかったのである。にも拘わらず、残念ながら東井は、そうした方向に進むことはなかった。したがって、戦争責任の自覚と戦後の出直し決意とは、「思想なんかにたぶらかされない」という、いかに力強そうで、潔さそうであっても、ひとえに心情的な決意でしかなく、危うい産物に過ぎないものに終始してしまったのである。それは、外的状況の変化に合わせて、過去の自分を引っ込めたり、逆に押し出したりできることに過ぎなかった。転向体験の歴史的意義の解明を、決意と改心の問題に矮小化してしまったとも言えた。
理論的な基盤を持たない精神的な反発にすぎないものではあったが、それでも戦後のアメリカの支配によってもたらされる「民主主義」と否定される「日本」に対して、東井は繰り返し「卑屈になるな」「堂々と胸を張れ」「性根を入れろ」と呼びかけている。欺された戦前に反発して、戦後の新思想や新教育などに欺されてたまるかという、強い思いの表れであった。それは子供達に向けていると同時に、自分自身に向け、叱咤激励するギリギリの言葉であったはずだ。本当は清算して白紙にしてはいけないことであるにも拘わらず、そうせざるを得なかった東井は、必死で自分を鼓舞していたのである。実は、良くも悪くもその結果生み出されたのが「村を育てる学力」だったのである。
とかく「子どものために」などと云う言葉は、弱者保護のためにすべてを免罪する魔法の装置として利用されることがある。ここでも、東井は、本来は「理知で確かめなければならない部分さえも、一挙に感覚で飛び越えてぐんぐん妙な方向に行ってしまうことになった」と、戦前の自分の姿を「もう二度と再び思想になんかは騙されない」と覚悟を表明している。しかし、これ自体が感覚(感情)的な反発でしかない。長女が生きながらえた経験から学んだことは正しかったのかどうか、なぜ「他力本願」が「天皇制国家の絶対者」と同一視されることになってしまったのか、八紘一宇といった思想が民族エゴの世界侵略と化してしまうはなぜなのか、等々といったことを「理知」で厳密に顕彰されるべきであっが、残念ながらそれは達成されてはいない。それが無い限りは、「戦争責任の自覚」と「出直しの決意」との間が、結果的には連続してしまい、外的な条件によって「過去の自分」を引っ込めたり、前に押し出してきたりするという、ご都合主義にしかならない。それは、言葉でいくら厳しく、過激な内容を用いたとしても、ほとぼりが冷めたら繰り返されるという、懲りない「無駄な経験」の積み重ねでしかない。
不十分さは否めない面もあるが、それでもそこから東井の「村を育てる学力」が生まれてくるのである。
ほんの十年程前に、立身出世の野望を打ち砕かれ、それこそ「デモ、シカ」教師として出発した東井の後ろめたいさびしさを一掃したのは、天皇制国家主義によって、一心不乱に祖国の世界制覇に荷担することであった。そこで東井は、叱るときだけ子供と寄り添っていた自分とは別の、心から寄り添える自分を発見した。児童生徒を生活の根底から把握できるすぐれた教師に飛躍することができたと、自他共に認めている。ところが戦後を迎えた今、過去の自分の行いや考えに対し、生涯最大の危機を迎えた。思想的な深まりを欠いていたとはいえ、返ってそれだけに「子供のために」「子供の幸せのために生涯を捧げよう」「もう二度と再び思想になどにたぶらかされない」という思いの丈は、単純だが強烈なものを持っていた。
戦後10年ほど、東井の姿は、所謂ジャーナリズムから消える。そこに「二度と再び・・・」という思いの強さが見て取れる。この間にあった「現象」から我が身を遠ざけたのである。例えばそれは、
(1) アメリカから導入された、さまざまな明るく進歩的物事と共に、花開いた「新教育」がある。それは 東京を中心とした都市部に相応しいものであり、徒花の如くに花開いてはたちまちのうちに散ってい った。地方を拠点にしたはずの「山びこ学校」の無着成恭が、故郷を出て東京に向かい、寺山修司が青 森から上京して行き詰まり、「東京に行くな」と訴えた谷川雁が、故郷に帰る時期であった。
(2) スターリン批判や六全協が起こり、村の本当の現実に、ついに入り込むことができなかった啓蒙主 義的マルクス主義が、戦後の表舞台から引きずり下ろされた。
(3) 当初は解放軍と見なされたアメリカは、ゼネストが中止され、三鷹事件・下山謀殺事件が起こって、 戦後の「混乱」は収束に向かっていく。それは、民主主義の殻を被った占領軍の本当の姿が露見する ことがもたらした結果であった。
(4) こうした中においても、ちゃらちゃらした日本の進歩的知識人の言動は、戦前とは百八十度違うことになっても、恥ずかしげもなく前面に登場する。
(5) 資本主義が成長し、「戦後は終わった」と宣言され、都市部での生産力の拡大とそれに続く高度成長、集団就職に伴う農村の疲弊・崩壊が決定的になっていく。「金の卵」と呼ばれる、農村の後継ぎ以外の子女を乗せた集団就職列車が走り、後に「ああ上野駅」がヒットする社会状況が生まれる。低学歴、長時間低賃金労働で、それでも土曜日の深夜しか自由にならない若者のストレスが発散される場として暴走族が生まれる。
「高度成長」の結果、夢がばらまかれると同時に、「故郷」「自然」「共同体」といった、古き良きものを感傷的に懐かしむ事態が生まれてくる中に、「村を育てる学力」を携えた東井義雄が表舞台に再登場するのである。
私たちの夢
私たちはいつも考える。
もうちょっと広い道がほしいな、
すぐいたんでしまう土の橋のかわりに
鉄きんの橋がかけたいなあ、
部落に一つずつくらい
電話もほしいし、
できたら山にトンネルをぶちあけて
村に
いつも新しい風が通りぬけるようにしたいなあ。
そのためには
もっともっと農業のやり方も考え、
村を豊かにする方法を考えねばならぬなあ。
また
もっともっと勉強して
しっかりした考えをもつようにも
ならなければならぬだろう。
だけど
それといっしょに
みんなが手をつなぎ
みんなが助けあい
一人の喜びをみんなも喜び
一人の悲しみをみんなも悲しみ
わけあい
力になりあい
うらみやねたみや我利々々をふきとばし
いばったりいばられたりすることをなくし
ばかにしたり、ばかにされたりすることをなくし、
男も女も
としよりもこどもも
どんなしごとをする人も
思うぞんぶん生きられるような
そんな村にすることは
もっともっと大事だなあ
私たちは
いつもそう思う。
この詩は、「村を育てる学力」の冒頭に載せられている。東井の教え子達による合作詩である。この詩には、村の子供達による夢に託して、東井の思想と教育実践が、二つ象徴的に示されている。
一つは、農業経営や技術の改善を図り、「村を豊かにする」というのである。その象徴が「広い道」「鉄きんの橋」「トンネル」「電話」である。いわば、農村の近代化、農業経営の合理化、作業の機械化に結び付くものと言える。
二つ目には、一つ目より大切なものとして、共同体を支える「助け合い」、喜びも悲しみも「みんな」のものにし、「うらみやねたみや我利々々」は吹き飛ばし、老若男女誰もが「思うぞんぶん生きられる」ような村を目ざしている。これは、一つ目をもたらすための資本主義的生産力の向上が、結果としてもたらすことが避けられないものを、否定しようとする心情と言える。つまり、この詩に表現されているのは、現実の農村にある、両義性である。豊かになることと同時並行して成立が避けられない「共同体」の破壊を示していると言える。
実際に、戦後の民主化は、農村地域においては、何よりも「遅れた農村」の民主化が掲げられた。というのも、敗戦直後の農村には、戦前から長く続いた、封建的家族関係、百姓特有の閉鎖的エゴイズム、貧困の中での長時間に渡る重労働と現金収入の少なさとうとうといったものが蔓延しており、「暗く、不健康で、貧しい」というのが農村のイメージとして色濃かった。そのため農村の子供達には、農村も農業も、好ましいものとは認識されず、都会こそがあこがれの地となっていた。「いつかは農村を出ていきたい」とその機会を窺っていたのである。
こうした農村地帯にあっては、教師と子供と親それぞれにとって、教育を通して目ざすものに矛盾と相克が避けられなかった。それは例えば、親と子の間においては、学校教育が行う合理精神が問題にされた。すぐに「なぜ」と考え「素直に言うことを聞かなくなった」とか、自己表現の活発化の結果として「口答えするようになった」といった類いである。また、長男以外の子女に対する教育は、村にも家にも全員を扶養する経済力がないため、学力をつけて上級学校への進学をさせて欲しいと願われた。しかしそれは学校にとっては、排他的競争原理の導入であり、それに拍車をかけることにもなり、ひいては「村を捨てる教育」に繋がるものとして、受け入れがたいものであった。
現実には、「村を捨てる学力」の養成に荷担せざるを得ないことが多かったが、東井にとっては村の「貧しさからの脱却」が、村人の精神的流民化、子供達の故郷(祖国)に繋がることは断じて認めがたかった。村の貧しさからの脱却は、「村の建設」「村の生きがい」に繋がるものでなければならなかった。村の庶民とその子供達を閉じ込めている生活の狭さ、貧しさと、それに基づく「主体性の貧困」とを打ち破り、自分の住む村を、「人々の命のふれあいの場」「生きがいを作り出す場」へと変革しなければならないと考えた。そうした場を作り出すために、合理的・実証的近代精神と、豊かで緻密な知識と技術を活用する道を模索しようとしたのである。「知恵」が、村を育て、国を作らねばならないと考えたのである。
村を豊かにするためには、生産性の向上を図らなくてはならない。それは、早朝から暗くなるまで、毎日働き続けるという身体を酷使しての労働から、頭を使う労働に変えていかなくてはならない。そのために、品種の改良、作物の生育条件の調査・分析、肥料・農薬の知識といったものを身につけなくてはならない。それが「学校」で学ばれるべきことである。
ただし、そうした知識を身につけることが、「村を育てる学力」とならなくてはならない。というのも、単なる物知りに留まるだけでないのはもちろん、たとえ極めて優秀であっても、研究所などで村を離れての活動になるのでは、「村を捨てる学力」になってしまうからである。
では、どのような「賢さ」が求められるのであろうか。それは「ふるさとのあるかしこさ」と名付けられた。その内容は、基本的には親と子の間にある自然発生的な無限の愛情にあるものと考えられた。これは単に、核家族化が進みすぎた結果、親子の情の希薄化が生じ、親子間の対話の復活やスキンシップの大切さが協調されるのとは別次元のものとされる。例えば、お年玉として雑巾を二枚渡し、これで学校と自分の心をきれいにするということが喜びを伴って受け入れられるような関係であったり、一つの仕事を、親子で一緒になって、それぞれの能力に応じて背負い合い、思いやりや察しの心を育て、生きることの喜びや悲しみを共有できるようになることだと説明されている。表面的な親子の交流とは次元の違う、自然発生的に持っている「命のふれあい」基づいた親子関係を作り出さなければならないのである。より深い根源的な関わりを求めていたことはわかるにしても、表面的な親子関係と、より根源的な親子関係とがどう違うものなのかという区別は、確かに違うようにも思われるが、もう一つすっきりしないものが残るようだ。しかし、東井はそうした「命のふれあい」という根源的な作用を、学校の教室の中に導入し、組織しようと考えた。それによって教師と子供の間に、全人格的に磨き合い、育ち合う関係を生み出そうというのである。東井はこれを「本物の関係」と呼んでいる。そしてその結果、「子供の成長と幸福」を目ざすことこそが「子供の味方」であると述べている。
言いたいことはわかりそうな気もするし、基本的には賛成出来そうにも思われるのだが、それでもやはり「思い込み」「きれい事」といった印象が完全にはぬぐえない部分がある。ただ、やがて高度経済成長のもたらした「豊かさ」が、反面「子供を蝕む」ことが明確となっていき、現代教育に対する警鐘となって、東井の主張は、大衆的な共鳴を得るのである。それは、理論的な共鳴というより、感覚的な賛同とでも呼べるものであった。
東井は、親と教師が共同し、相互に磨き合うコミュニケーションの場として学校を位置づけて活動する。それは、親は教師の指導と実践に触発され、啓蒙されて成長し、教師も親の願いや生活実感を受け入れることによって学びを深めることを目ざした。まさに相互批判と相互学習が営まれる「存在の組織化」(鶴見俊輔)に他ならなかった。その実践は、学校文集「土生が丘」として結集された。娯楽の乏しい山村の夜に、身のまわりのニュースを提供する単なる小規模なメディアという役割を越えて、村人の子育てを啓発し、「村に生きる喜び」を確かなものとして実感させる役割を担ったのである。
「私たちは、村の人々に気に入るようなことばかり言っていないどころか、ずい分手痛いことも言っているつもりだが、しかもそれが、許され、待望されるというのは、この『子供の味方の立場』によるのではないかと思う。とにかく、私たちは、この文集を通じ親が親同士をつなぎあい、磨きあい、育ちあうというその姿勢で、子供達の磨きあい育ちあいを見守り、協力し、私たち教師の磨きあい育ちあいを助けてくれるという。結びつきを念じている。」と記しているところには、その成果をはっきりと実感している様子が窺われる。
「村を育てる学力」の敗北
しかし、こうした活動は、その最中においては充実感や達成感を十分に実感することができたはずなのに、ある時ひょんなきっかけでそうした実感がもろくも崩れ去ってしまうことがある。
子供、親、村、教師、学校・・・それらすべてが「味方」の関係にあると信じていたのだが、現実に生きる上では、必ずしも常に「手を携えて人間関係を育てる」というわけにはいかなかった。
例えば、このような作文がある。河川工事で事故死した兄について書かれた作文(国分一太郎「はだかの子ども」)である。
「お母さんは『源一郎のおかげでたすかった。屋根はきれいになるし、借金もすこし返せるていうし・・・』とにこにこした。そして、すこしたってから、
『こだこと、大っけ声で、言わんないけんど、源一郎死んでよがったやな、お父つぁ。』
こそこそ声で、お母さんはいった。
お父さんは『うん』とひと言つぶやいた。」
というものだ。この作文を書いた子どもの心情を思いやると非常に切ないものがあるが、それ以上に自然発生的に親子の間には根源的な愛情があることを前提にした東井の思想は、足元から揺るがされたといってもいいだろう。ここまでの本音は、親が東井に向けることは決してなかったのである。
では、東井が目ざした思想や実現しようとしたこと、その成果が確実に上がっていると実感していたはずの実践に、いったいどんな問題があり、何が欠けていたというのだろうか。それは、村で実際に生活し、貧困をはじめとした現実にうめき苦しんでいた人々が、学校や東井達教師に向かって、本音を打ち明けることはなく、十分に交流していると思い込んでいた相互批判のうち、少なくとも学校に対する批判は、本当の抜き差しならぬ部分は蓋をされたままだったということである。言うなれば、「いのちのふるさと」を呼び戻すという「村を育てる学力」の取り組みは、心情的な甘さ、観念的な緊張感の欠如のために、村人の心の底に秘められた、言うなれば本当の「本音」、装飾いないままの「現実」に立ち入り、そこに立脚することは、ついにできなかったということである。これでは、あくまでも見せかけの姿でしかなかったことになる。その結果、
(1) 忌憚なく本音できついことも遠慮せずに指摘することができたつもりでいたのは、村で現実の生活を営んでいるのではなく、「学校の中」という安全地帯を出ることのなかった教師達との村人の付き合い、連携に過ぎなかったということである。
(2) 長女の大病の克服が、ひとえに本人の生命力がもたらしたものであり、父親である自分には何もできなかったことを痛感したことから、教師が生徒を矯正するなどということは、実は不可能だと思い知ったはずであった。しかし、いつの間にか「子どもの味方」である自分には、親を教育し、子供達を育てることが可能であり、それらを通して村を作り替えることさえできると思い込んでしまっていたのである。それが幻想に過ぎなかったということである。
他方で、1961年代の高度経済成長は、東井の教え子達の合作詩である「私たちの夢」の前半に詠われた、物質的な豊かさは、完全に、あるいは望み以上に完璧な形で、日本中のほぼあらゆる村にもたらされた。そこでは、兄の事故死を喜ぶようなことは亡くなったかもしれない。しかし、その豊かさは、村の青少年達を「労働力商品」として都市への流出に拍車をかけ、歯止めを効かなくさせることと不可分であった。戦後の農業政策が、農業の大規模化を推進し、中小農家の離村を促したことも大きな原因となった。政府による減反政策は、金にならない田畑を荒廃させ、農民を手っ取り早い現金収入に駆り立てた。その結果過疎化が進むばかりか、廃村の危機を迎えるに至った。「村を育てる学力」が試みられた相田小学校も但馬から姿を消して、「畜舎」に変わったという。
終生子どもと共にありたいと願った東井であったが、病気休職のあとを継いで、1959年46歳で、小学校長に押し上げられる。2年後の1961年、48歳で但馬町立高橋中学校の校長となり、さらに3年後の八鹿町立八鹿小学校の校長に着任する。ここでの8年間が、全国から学校参観者が毎日訪れる、教師として名実ともに充実した時代と言えた。ただしこの時期は既に「村を育てる学力」が敗北した後であり、後に「培其根」としてまとめられた、校長として職員を個人指導した記録集である、戦後公教育へのラディカルな批判を示した記録集を刊行し続けた時期である。
高度成長がもたらした経済的「豊かさ」は、「村を育てる学力」の有効性を物質的側面から次第に狭め、変容させ、ついには完全に消滅させた。村に残る者は極めて少数者となり、多くの者が村を出ていくために学力と技術を身につけ、農業を離れていくことが恒常化する中で、村の共同性も連帯意識も奪い去られていったのである。こうして「村を育てる学力」の実践は、完膚なきまでに敗北を喫する結果となった。しかし、わかいきょうしをそだてるためのほうほうろんは、ここのきょうしにそくしてかたられる「培其根」として結晶しているのである。
教育の目的としての自己教育
では、その後の東井義雄についてみていこう。言わば彼の到達点をさぐることである。
エリート学校の教師をめざすが果たせず、児童との間に隔たりを感じながら、熱心に取り組めないことを感じながら教師を続ける。当初は三木清やプロレタリア文学を読みあさり、戦争とは無縁の教師としてスタートした。
児童との隙間を感じ、自分の無力さを感じていたある時期から、天皇を崇拝する軍国少年の育成に充実感を感じ、全霊を付くすようになる。その当時の様子を著したのが「学童の臣民感覚」であり、1944年のことであった。
敗戦後、失意と反省の中でしばらくの沈黙を経、教育界で熱心に指導を再開した様子を描いたのが、「村を育てる学力」(1957年)であった。1954年7月から1960年6月まで、ほぼ毎月発行され、60号に及んだ学校文集「はぶが丘」で、児童と教師、教師同士、教師と保護者、村の人々とも結びつきを模索しつつ、「村を育てる学力」が「完全に敗れた」(1975年)と語るに至る。校長時代には、若い教師に対する指導助言(ガリ版刷り発行物「培其根」)を行い、定年後は全国諸地域を廻る講演活動に取り組む中で、「生活の論理」の実現のために奔走した。
「生活の論理」は、東井の中で古くから暖められていたが、その内容にも説明の仕方にも、幅があり、やや曖昧さを含み、若干の軌道修正もされてきたようである。しかしその到達点として、自己教育にたどり着くのである。
「教育は子どもを変えるいとなみだ、などと言いますが、ほんとうは,人間が人間を変えるなどということは,思いあがった考えではないかと思います。教師が子どもをかえたように見える場合も、あるにはありますが、そういう時にも、ほんとうは子どもと子ども自身を変えようと身構えるようになった、ということではないかと思ったりします。そうすると教育は自己教育を育てる仕事ということになります。そしてまた、そうだとすると、教師自身「自己教育者」でなければならぬということになります。」(倍其根40号、昭和45年9月)というのが到達点だといっても良さそうである。ここでは、
(1) 子どもは教師に指導され、知識を与えられ、評価されることによって育つのではなく、長女が死の淵を自力で乗り越えたのと同様に、あくまでも自己を自主的かつ共同的に作り上げていく主体ととらえている。
(2) 教師の仕事は、子どもが「自己教育を成し遂げる」力を援助するものとなる。子どもに対して周到な配慮を持って教育すれば、思い通りに子どもを作り替えられるという発想を徹底的に疑っている。丁度、死の淵をさまよう我が子を、ただ見守ることしか出来なかったのと同じように。つまり、授業プランや教材の科学的緻密さが保証され、その内容が巧みな教師の授業技術によって教育されたとしても、子どもに理想的な形で移し替えられるようなものではないということである。
学習に躓きが起きたとき、それは科学的な正しさの前に強制されるべき認知のゆがみとして、理解力のなさや理解する道筋の誤りとされて、訂正すべきこととされるのが常である。その結果、あるべき姿とされる「正解」をたどることで学習が完了したとされてしまう。子どもが正解にたどり着けるようになったことを、子どもを、理解できるように成長させたと、指導の成果が認められることになる。これを「教える教育」と呼ぶなら、その限界は、子どもを実際の生活現実から切り離し、抽象化して、専ら科学や技術といった、客観的な知識を提示され、受け入れるべき存在としている点にある。
そうした子どもの姿を、教師が安直に描き出す「あるべき姿」にとらわれることを徹底的に避け、子ども一人一人の姿をあるがままに捕らえ、子どもの思考と行動のすべてを、子ども自身の応答として、そのまま受け取ろうとし、そこに生活者である子ども自身の独自性や自立性を発見し、それを鍛え、強化していくことが教師の役割としているのである。死の淵をさまよう我が子に寄り添い、必死で生き延びることを願ったとしても、何も出来ずに寄り添うことしか出来なかったように、である。医者とても、命の限りを宣告し、見放した患者に、たいした治療など出来ずに、手をこまねくばかりで、ただただ本人の生命力に任せるしかなかったのである。
つまり、親であっても教師であっても、周囲で見守ることしか出来ず、自己を教育し、変革し、形成していくのかは、子ども自身に他ならないのである。そうだとすると、教育において、教師は何も出来ないのであり,必要とされることもないと云うことになってしまう。
これに対して東井の出した答えは、「ほんものになること」であった。
教師が「ほんもの」になるとはどういうことか
では、教師が「ほんもの」になるというのはどういうことであろうか。
十中八,九恢復の見込みがないと、死を宣告された長女を前にして、「生きていることはただ事ではない」と思い知らされた。寄り添って看病しながら、「お前の命は、父ちゃんの力で、どうにかなるものではなかった」という呟きは、親子関係でさえ言えることであってみれば、他人に過ぎない教師と教え子の間での無力さは当然言うまでもないことは明白であった。生死の境をさまよって病に打ち勝ったのは本人であって、看病しつつも何一つ自体を変えられなかったのは、父親である自分であった。その自分が、他人の子である教え子を相手にして、「指図し、しかり、教える」ことで、あるべき人間に作り替えるなどと云うことが出来るであろうか。子どもを教育して作り替えるなどと云うことが出来ると思い込んできたのはとんでもない思い上がりであり、それが今日まで続いてしまっているのである。
子どもは先ず、生きて生活している存在であり、そのあるがままの姿で、独自の光を放っており、自分自身を変え、成長させていくのは徹頭徹尾、子ども自身に授けられた力によってのみ可能なのである。教育とは、子の力を、子ども自身に自覚させ、顕在化させること以外にはあり得ないのであり、外から力を加えて矯正するようなものではないのである。
そうした自己教育の働きかけは、具体的には次のようになる。
例えば、「成績をよくつけようと悪くつけようと、一応その権限を握っている受け持ちの先生に対して、いやなことはいやだといい、できないことはできないと言い切れる」子どもや、教師の期待や指図を「見事に裏切る」子どもが、教師に与える抵抗感を、子どもの存在の独自性、自立性の発言、確証として積極的に承認する姿勢を持つことが必要である。そうした抵抗感を与えてくれる子どもを「偉い」と評価し、それを子どもの「いのち」として触れようとするとき、子どもを指図し、教えようとする教師の態度を控え、謹んで、子どもの独自なあり方を、実態に即してみていこうとする態度の始まりである。
さらに、緘黙の子どももいる。教師が配慮を巡らして懸命に働きかけても、全く「ものを言わない子ども」に対して、「Aちゃんはものを言わない。しかし、することの中でAちゃんはいつもものを言っている。Aちゃんの動作は、一つ一つ美しいことばではないか」と見つめ直し、「子どものつぶやきが聞こえる」と感じようになることこそが大切だとするところに、どこまでも子どものあるがままの姿に寄り添おうとする姿勢がよく表れている。
そのうえで、東井は「世間の人は、子どもを教えるのが先生だと思っている。わたしのような先生は、子どもによって、まがりなりに先生しょうばいをつとめさせてもらう」のだと、繰り返し述べている。これは、単に「子どもを大切にする」謙虚な教師などといったものではなく、教えることを一度棚上げして、子どもの疑問やつまずきや要求などの本当の姿を見抜き、寄り添おうとしている姿だと見なくてはならない。子どもたちの「いのち」にふれあうと言ってもいいだろう。
東井は「教える教育」の限界を打ち破ろうと悪銭「ニンゲンガニンゲンヲキョウイクデキル」トサッカクシタケっかの工夫し、最終的にたどり着いたのが、自分自身が「本物になるのだ、ということであった。それは、普通教育とか、教師と呼ばれるものが「人を本物」に子葉として、「教える」と考えられるが、それとは全く別物であった。
それは、子どもの「声なき声「を聞き取り、沈黙の意味を読み解き、「つまずき」を世界に対する子ども自身の応答の一つと見なせるように、教師自身が自分のあり方を作り替えていく姿勢を持たなくてはならないと考えている。
東井は、「『ほんもの』だけが人の命に触れることができ、『ほんもの』だけがまわりを育てていく。子どものいのちにふれ得ない教師は子どもに何もしてやることができない」と繰り返している。死の淵をさまよった長女に、看病として寄り添うことしか出来なかったように、教え子の一人一人に対しても、徹底して寄り添う以上に出来ることはない。どこまでも本人の状態に付き添うことだけが出来ることなのである。そこだけに、かろうじて「いのち」に触れる可能性が開けてくるのである。ソウできる道を見いだしたものだけが「ほんもの」となれるのである。
自己教育の基盤になる「生活の論理」
東井は、「人間が人間を教育できる」と錯覚した結果の産物である教育では、生命を枯渇させる結果に至る以外にないと喝破していた。
戦後の新教育は、旧来の権威主義的注入教育を批判し、教師の支持より児童の興味を中心に据えたものに転換した。
その新教育運動が経験主義あるいは実用主義の欠陥を露呈するに伴い、系統学習やマルクス主義者の批判を浴びて後退していく。教科指導と生活指導に分化していく。それは「新教育」が「教科」と「生活経験」との未分化的融合を孕むものであった結果であり、教科指導と生活指導の分業化によって解体されるのは、ある意味では当然の帰結であったともいえる。
しかし、この両者の専門分化は、「学問と人間の分裂の進行の結果、教科指導の領域においては生活者としての子どもの姿が消し去られ、生活指導においては、子どもを集団的に操作し、管理する対象と見なす発想が、無自覚・無批判に蔓延している。その結果、教育の科学科と呼ばれる現代教育においては、子どもの個々の違いや姿は、興味や性癖、発達段階といった程度の抽象的なものとしてひとまとまりに出来るものとされてしまう。また、教師の側は、科学的な教授法として、指導内容の段階化・序列化により、効率的に教授をはかれるものという立場を固めていった。これこそが、東井が指摘する「生命の枯渇」に他ならないのである。
こうした教育実践の細分化の進行がもたらす「生命の枯渇」に対して、東井が打ち出したのが「生活の論理」であった。これは、実はかなり古くから提唱されていたものではあった。その特徴は、あくまでも子供の全体像に迫ろうとするものであったのだが、さまざまな學者や研究者から、心情主義、科学の軽視等々の非難を浴びせられることが多かった。もともと東井の説明には「いのち」とか「愛」などという言葉が多用される傾向が強く、大西忠治などの実践者からも、宗教的な姿勢を指摘され、ついて行けないとされてしまうこともあった。その都度さまざまな機会に軌道修正が図られたり、説明の仕方を変えたりしながら、東井独特の考え方として、重要視され、温められてきたものであった。「村を育てる学力」から10年を経た1969年の時点で、「『生活の論理』そのものを、教育の〈目的〉として鍛えるべきではないか」と強調されることになる。
東井は次のように説明している。「子供独自のものの感じ方、思い方、考え方、とらえ方、生き方を貫く、その子独自の筋道を、子供の生活の論理と呼んできた。」「戦後、わたしたちは、『子供の学習興味』に即するとか、『経験』に即し、『経験』させることによって学習を主体化するとか、わたしのいう『生活の倫理』に関わるものをいちおうは問題にしながら、それを『手段』『手立て』としてだけしか問題にしなかったために、学力を伸ばす目的のためなら、こんな『手立て』もある、こういう『やり方』もあると、単元学習が問題にされたり、プログラム学習が問題にされたりして、『生活の論理』自体が目的とされなかった」と。
ここで東井が言う「子供独自のものの感じ方、思い方」とか「その子独自の筋道」とは、その子の「発達の程度」がもたらすものではない点が注目に値する点である。「発達の未熟さ」による「独自でい」であるなら、教育することによって是正され、やがて解消されるものとなる。しかし、ここで東井が強調しているのは、客観的知識や技能を身につけようとする「学習者一般」という時に想定される、無個性な個人とは別のものである。
東井の言う「子供の独自性」は、「子供の生き方の論理、考え方の論理、生活の論理の底には、大人の生き方の論理、考え方の論理があるし、村の歴史があるし、経済があるし、風俗・習慣があり、それらが、スギナの地下茎のように、予想もしなかったところでつながっている」ものだというのである。「客観的な知識・技術」を身につけるというのは、誰に対しても共通で同様の結果をもたらすのではない。例えば農漁村の子供の学力が劣っている原因ひとつとっても、村に残る封建制や生活習慣や風習と無関係ではないのである。村に限ったことではないが、学び身につけるべき学習内容が、子供達にとって、自分自身の問題として引き受けることができず、どこか別世界の話としてしか引き受けられないものとなってしまっている。それを学ぶことだと思い込まされているということが問題なのである。それを「スギナの地下茎のように、予想もしなかったところでつながっている」と表現したのである。教師はとかく、教えるべき内容を 、安易に「善」と「悪」、「正」と「邪」などに分けてしまう。しかしそこでは、貧しい者や弱い者、幼い者達の声にならない声が無視されてしまいがちである。そこにある無視されたものこそが「生活の論理」だというのである。「われわれにとって、『結論』を与えることよりも、もっともっと、いろいろな質の生活の論理を掘り起こし、引き出し、論理と論理をぶつからせて、ああでもないこれでもないという迷いの中に子供を追い込むことの方が、もっと大切なことではないだろうか。」というのである。田だし、「その迷いの中に子供を溺れさせてしまわない配慮」こそが大事だというのである。科学的客観性を備えたわかりやすい教科指導は、「生活の論理」を通すことで始めて「学力」となるものである。村をはじめ、子供達が生活する地域の生活習慣や風習、さらには地域文化や経済の問題にもつながっていき、そこにこそ「村を育てる学力」が成立すると考えているのである。
このように見てくると、「村を育てる学力」が求めていたのは、「生活の論理」であり、ここではあまり触れなかったがそれを支えるものとしての「教科の論理」である。十分に説得力のある説明ができずに、かなりもどかしい思いをし続けたのは、ぼく自身の理解が中途半端な結果である。それでも、新学習指導要領の「社会に開かれた教育課程」の必要性や、「主体的、対話的で深い学び」などといったものが、色褪せ、薄っぺらなものに見えてくる程度の説明はできたのではないかと思っている。
おわりに
東井義雄は、戦前に間違った方向とは言え、本気の教育を実践していた。それに感情的に反発した結果、十分な総括の上に立つとは言えないままに、戦後の新教育とは一線を画した「村を育てる学力」に取り組んだ。一時期は、学校を地域の中心に据えて、子供に寄り添って子供の味方となり、保護者とも良好な関係を結んだように見えていた。その時点では、北方の綴り方が、貧困という現実東北の山村の真実を暴き出すことによって、その代表とも言える無着成恭が、村を追われてしまったのに対して、夢を語り合う、希望に満ちた南方の綴り方の優位性が垣間見られたかのようでもあった。しかし、ここでもまた東井の実戦は、願いとはかけ離れたものとして終わってしまった。良好を保ったと思われて地域や保護者との関係は、薄っぺらな表面上の交流、建前の交流に過ぎなかったことが明らかになってしまうのだ。「村を育てる学力」の敗北であった。しかし、不十分なままであったからこそ、東井義雄が残したものは、貴重な遺産として、目の前に残されている。
東井は、「村を育てる学力」の敗北以降も、文明批判を続け、様々な場面で警鐘を鳴らした。その成果の一端は「培其根」(著作集別巻1~3巻)にまとめられている。東井義雄は、数々の見習うべき実践とその挫折を残し、1991年4月18日に亡くなった。残されたものは、「現代公教育へのきわめてラディカルな批判となっている」し、「自己教育と『生活の論理』を獲得した」と玉田勝郎に評価されている。
東井の試みは、今や最新の「学習指導要領」がめざす「主体的・対話的で深い学び」を実現するために「社会に開かれた教育課程」を創造うなどといったものを遙かに超えている。それはちょうど、標準や他人との比較を果てに身につけるべきものを想定したピアジェの発達心理学に対して、終始根底から批判し続け、他人や標準自体を排して、あくまでも個人の感性を目的としたワロンのように、教育の目的を個人の能力の伸張におく視点を提供してくれたというべきであろう。
東井が、医者に余命宣告された長女の病からの復活の過程で学んだこと、浄土真宗の教えがもたらすものといった東井の思索や彼が強調している「生活の論理」と「教科の論理」から、玉田は「教師が押しつけない教育」として「自己教育の思想」を提唱している。これが現代の公教育を鋭くラディカルに批判するものとなり得るとしている。東井義雄も時代に翻弄されて、紆余曲折しながら生きた人であった。それぞれの時に精いっぱい考えを尽くし、行き詰まるとだれかの業績に飛びつくなどといったことをせずに、自分の考えにこだわり続けた人だからこそ、その業績は、今日なお生き続けているのである。それどころか今後の可能性を大きく開いたといえるようである。まさに「自己教育」を我が身で具現して見せた人だったのではないだろうか。
東井は、教育者や学者の評価を深刻には問題にしなかったのではないだろうか。「こんな事を言っては、アカだと言われるのではないか。」「こんな事を言っては、抹香臭い坊主だと言われはしまいか」などと言ったこととは関係なく、目の前の生徒の姿を真剣に捕らえようとし続けたのだろう。その結果、何度も「転向」を繰り返さずにはいられなかったのかもしれない。しかし、常にその底には東井自身の、実現されていない強烈な思いが一貫して流れていたように感じられる。そして最終的にたどり着いたのが、「自己教育」だったのである。もちろん、ここにもまた軌道修正の修正やや説明不足の解消が必要とされるかもしれない。しかし、評判や評価ではなく、全身で目の前の子どもに必要なことを探り出そうとする冷徹な目を持ち続ける限り、きっと真実への道は開けるに違いない。その最も根底にあるのが、自分の長女が死の淵をさまよった末に、自力で恢復を果たしたとき、心底自分の無力さを思い知らされたと同時に、自分自身の呆れるばかりの思い上がりの強さと、一見頼りなく見える人間に対すると信頼は、絶対に変わらないものとして東井の中に流れるようになったのであろう。これこそが本物の「思想」と呼べるものであろう。