戦後教育を掘る 河内 紀著 晶文社刊
筆者の河内紀氏は、本書の奥付には、「1940年生まれ。1962年株式会社東京放送へ入社。1974年退社。」とだけ記されている。本書の発行は、1976年4月である。ここにも最低限の事実だけを書き留めて、読者の想像をかき立てる手法が用いられていることを感じる。
本書の構成は、
・ベニヤの中から
・にわちり日記
・天下おとし
・日光写真機
・三角たべ
・ずんたった
・リットルちゃん
・ふくろぐも
・皇紀二千六百三十五年
・あとがき
からなっている。
本書の書き出しは、朝鮮料理のセンマイを食べた思い出から、子ども時代の思い出に遡り、「朝鮮のチューインガム」を自分で作って食べた思い出話から始まるという、何とも奇妙なものである。最初は、まだ熟していない青い米粒のトゲトゲの表皮を向いて噛みしめて作ったものであり、その次には、どぶ川にかかった橋桁のコールタールを丸めたものに変わった。友人の中には、粘土や鼻糞を噛む奴、キャラメルの蝋の包み紙を何枚も重ねて噛む者などがいたという。
セルロイドの下敷きや防弾ガラスを強くこすりつけて臭いをかいだり、紅梅キャラメルのおまけのカードを真剣勝負でやりとりしたりした遊びが流行っていた。また床屋や学校の縁の下には不思議な世界が広がり、汚い奴らが集まる場所で、「えんがちょ」と呼ばれていた。その「えんがちょ」たちは、自分たちの頭上である学校で始まっている勉強には関係なく、真鍮でできた小銃の薬莢を石の上に乗せて、自分たちの「えんが」(汚さが魔力となって他人を寄せ付けない力)を念じて祈っていた。誰もが、この薬莢や防弾ガラスのかけらや紅梅キャラメルのカードのようなものを、自分の「シンショウガン」(宝物だが、魔力を持つものとされていた)をもっていたという。「東北のオシラサマの桑の木と、ネッキという釘刺し遊び、ベロベロという鍵型をした木の枝をしゃぶる子供達の習慣との関係を柳田国男が書いているのを読んだとき、一本の桑の枝が、神様になっていく過程を、私は自分自身の体験で確かめることができた」と言っている。
そうした混沌とした世界で子ども時代を過ごした筆者にとっての学校の思い出は、
「何時間かかってもいいから描けるまで写生してみろ」と言い残し、次の時間の教師に「カワチは今、絵を描いているから、描かせて欲しい」と頼みに行った中学3年時の美術の教師、「バラさん」こと榊原先生との関わりから広がっていく。
バラック作りで総体ベニヤ張りの校舎では、二階で掃除していた女の子の足が床を突き破って、下で授業中の教室の雨漏りで染みだらけの天井からニューと突き出た騒ぎもあったという。
筆者は、マスコミに就職し、そこでさまざまな番組を制作する。プロ野球選手堀内恒夫やジャズドラマー富樫雅彦のドキュメント番組のあと、自閉症児のドキュメント番組を作り、大きな影響を受けたが、その後はクイズ番組の製作に携わることになり、その後放送局を退職している。
この退職をきっかけに、友人と二人で、自分たちの受けた教育を記録する作業を始める。そこには、自分たちには、「観念」としてではなく、当たり前のことのように民主主義が入り込んでいる。それは「戦後民主主義は間違いだった」「ポツダム民主主義ナンセンス」などと唱える世代が、頭で戦後民主主義を捉えていることとの間に、決定的な違いを感じたからだという。自分たちは、戦後民主主義を学んだのではなく、そこに生きていたのである。だから、自分たちの本当に個人的な体験と記録を、もう一度現在の自分の目で読み直すことを始めたいというのである。
そこでは、「学校の中だけではなかった教育を、細部にわたって点検すること」と共に「自己の形成過程を明確にすること」が重視された。
筆者が中三の年というのは、1954(昭和29)年であり、その年にあったことを並べると、
3月:第五福竜丸ビキニ被爆 MSA協定調印
4月:法性、指揮権を発動し、造船疑獄への捜査を食い止める
5月:教育に方、防衛秘密保護法成立
6月:防衛庁設置 自衛隊法成立 改正警察法強行採決
7月:アメリカ「ジュネーブ協定」に調印せず
9月:久保山愛吉死亡 吉田首相欧米七カ国訪問
12月:吉田内閣総辞職
こうした社会情勢の中でスタートした戦後教育、新制中学は、「ベニヤ作り」の学校に他ならなかった。舞台は、杉並区立天沼中学校である。まさしく、教育基本法、学校教育法の公布により生まれた新制中学校だが、実際には独立した校舎はなかった。杉並区立杉並第五小学校に間借りして授業をし、自ら「ジャマ中」と自嘲していたという。三省堂新書にある「六・三校長ドロンコ記」などにも、こうした新制中学の実態は、日本全国で似たようなものであることが記されているという。
開校から5年間、天沼中学校の校長を務めた田中卓治氏は、生徒会誌「あまぬま」(第5号)に次のような一文を寄稿している。
「『光陰矢の如し』とか、古い言葉がありますが、まったくこの5年間はゆめの間に過ぎてしまった。
今頃こんなことを云っても、おそらくは『まさか』といわれるであろうが、天中が杉五小学校の中に併設されて、開校式並びに入学式を行った時(昭和22年5月2日)の挙式費用が何と金100円也である。また消耗品費として、金1000円余りをいただいたのであるが、これで明日から学校として(280名余りの生徒と、11名の職員とで)兎にも角にも店開きをするわけだが、本当に学校とは名のみで、どう教育し、どう整備し、経営していくかは全く当面の大問題であった。
当時はまだ占領下という条件にしばられて、国民の気分の上にも、また生活の面にも、生気と明朗さが極めて欠けていたし、教育の新制度もあちらの直訳で出発したのであるから、其の形式内容共に、各々の身についていない。全く暗中模索という状態であった。だからといって、なおざりにしておくことは勿論出来ない。ほんとに無が有を生む努力を、来る日も来る日もつづけてきたのであった。
廿三年の春がやって来て、新入生を迎える時が来た。独立校舎も持たない学校には、何の魅力もない生徒達、前途に不安を持つ父兄の気持ちは、率直に表れて、自由募集校へ、多数の生徒が流れていくこの有様をみている私たち職員の気持ちは、暗くならざるをえなかった。」
そして、その後二代目の校長冨田義雄氏によると、
「本校は昭和23年度の第一期工事ができあがってから、続いて24年度に第二校舎を増築したが、生徒の激増には追いつかず、毎年教室不足になやんできた。しかし、昭和27年度二教室、翌28年度二教室合計四教室増築のわくを持ったので急いで増築に取りかかり、本年度の初めにできあがった。坪数は141.34坪で四教室の他に書庫1室、それに便所をつけてもらって、幾分ゆとりが出来たことは、本年度の卒業生諸君に対しては、せめてもの贈り物になったと思う。」(1954年度生徒会誌より)
として、「ジャマ中」であることはかろうじて解消したが、筆者の中学入学時(1952年度)の一年のクラスの人数は、男子が36名、女子が26名、合計62名であったという。これは、「公立学校施設国庫負担法」や「学校教育法施行規則」の基準も標準も遙かに下回っていたのだが、それでも1948年から56年まで勤務された宮本信子先生からは、「あなた達のころは、まだずいぶん良くなっていたのよ。その一,二年前だったら、先生が廊下にいて授業することがあったぐらい」だったと言われたということである。またその宮本先生が勤務し始めた頃の話しとして、次のようなものがある。
「ひどい道だ。雨は容赦なく降っている。寄宿舎生活に慣れて、今まで雨靴などには縁のなかった私は、ともするとぬかるみに足を取られそうになる。文字通り足元の泥を見つめて一歩一歩。もう駅を出て30分は歩いているだろう。『変だ』『来すぎたかな』と気づいた時は、既に人家もまばらな畠であった。心細くなってあたりを眺めると、はるか後方に校舎らしい新築の屋根が見える。あれが天沼中学に違いない。
『新築だなんて、畠の真ん中にぽつねんとたった一つ校舎があるだけじゃないか』
『安っぽいベニヤバラックだな』」(「就職の日」1954年度生徒会誌より)
と思ったそうである。それが同時に、
「学校が面白くてたまらない。私は日曜日も学校へ出かけた。ある時は平日と同じくらいの人の顔が職員室に揃っていた。又あるときは全く私一人の日もあった。昼過ぎに田中先生(校長)がふらりと見廻っておいでになる。」(「日曜日」1954年度生徒会誌より)
といった具合であり、さらにはこんな「住宅難」ぶりも聞かされたという。
「・・・オケラさん(本名は石井という理科の先生)ていえば、彼、家がなくて、学校に住んでたのよ。」
「宿直室にいたんでしたっけ?」
「そうじゃなくて、学校のスミの方に、物置みたいのがあったでしょ。あそこに、お母さんと二人で住んでいたわ。」
という、今なら、非常識、私物化、公私混同等といった形で非難され、到底あり得ない話も実際にあったのである。先生の宿直がなくなり、警備員に取って代わる以前は、学校は、先生にとっても生徒にとっても、ただ知識を伝達し、受け取るだけの場ではなく、生活の場、それもかなり命がけの場でもあり得たのではないだろうか。さらに、この「オケラ」先生は、筆者が高校2年生の時に結核で亡くなったのだが、生徒にはとても人気のある先生で、亡くなった際には筆者を中心に卒業生が追悼文集「生きんとて」を編んだということである。本職の理科も、得意な生徒に教わりつつの授業であり、顧問をしていた演劇クラブのために書き下ろした台本は、どうひいき目にみてもどうしようもない駄作だったという。追悼文集には、
「司会:本日はお天気も良く、気持ちの良い日曜日をつぶして頂いて雑談してもらいたいと思います。まず教師としてのオケラさんを・・・。
B:ほとんど理科は覚えていないな。
E:そうね、授業より雑談が多かったんじゃない。
司会:劇なんていうとはりきってたけど、どんなふうだった?
E:いろいろな面に於いてもバラさんとは対照的だったわ。演出一つを例に取ったって、バラさんは演技者が中学生であろうとその限界線まで引き出そうとケンメイになって、私たちにむずかしい演劇論的なものなんかもおっしゃったけど、オケラさんは一緒になって楽しんでやろうという面があったんじゃない?」(「石井先生追悼集」より)といったものと同時に、次のような回想もある。
「・・・僕が始めて聞いた石井先生の講義というのが、実にこの西部劇なるものだったんです。先生は、駅馬車かなにかのメロディーを口ずさみながら身振り手振りもおかしく西部劇を一席語り、さてその後で、その背景をなす、アメリカの移民社会、開拓者精神、白人の横暴とインディアンの抵抗などについての説明を加えて楽のあるところを見せました。
笑うことが罪悪のような気がし、今は笑っている時世じゃないんだ、といった顔をして妙に深刻ぶっていたのが、映画を見るにも、初めは遠慮深く、徐々に大いに笑い出し、しまいには微苦笑タイムなる天中放送局にしてはなかなか粋な番組の製作を手伝うまでになったのは、先生に、笑いが信頼できるということを教えられたからでした。(略)『七人の侍』を観た後で、『あの侍達が田舎道を歩いてくる裏に流れていた音楽の皮肉な調子が分からなくちゃあ』と言われるのを聞いて、このことを再認識しました。
皮肉な音楽を聞き取って、同じように皮肉な笑いを口に浮かべながら、農民に雇われていく失業武士をみることが出来ないで、この映画は普通の時代劇と違って社会性をもっているなんてぶってみても意味のないことなんです。冗談の中の批判力や知識を見分けられないのも、批判や知識を冗談に包んで人に与えることが出来ないのも、ともにあまりほめられたことではありません。最初の西部劇の講義の時、ひょうきんな先生、などという印象しか受けられなかったのに、ともかくも半分ぐらいは授業の冗談の意味をくみとれるようにしてくれたのが、先生から教わった歳台の徳だったようです。」(「信頼できる笑い」「石井先生追悼集」より)
こうした中で育った筆者達は、自ら「稚拙なアジテーター」として、生徒会誌に、次のような作品を残している。
恐り(「怒り」の誤記) 河内 紀
ガマンズヨイ
それは今迄日本人の持つ美点の一つといわれてきた
しかしガマンズヨイ国民でさえもが本当に恐らねばならない出来事がだんだんふえてきている
は これは これはどういうわけなんだ
見ろ
穴だらけの地図を
アメリカの軍服で武装されたものどもを
海外出兵に賛成したやつを
見よ
歴史始まって以来のバカな事
変則国会を
汚職政府を
見よ
計画経済は赤のやる事だといったやつらを 又赤字だらけの通商白書を
見よ
町々にあふれる失業者の群れ
デフレ政策にあえぐ中小企業者を
聞け
町々にあふれるこの恐りを
村々にあふれる国民の恐りを
山々にあふれる
そして
ガマンズヨイ人の恐った時のすごさqを
我々にこのような恐りをいだかせたやつは だれだ
我々をこのような苦しみにおとしいれたのは だれだ
又将来我々を苦しめる結果になる水爆実験に協力するといったやつら
憲法を改正しようとしているやつら
国民が苦しんでいる時に旅行にいってしまうようなやつ
こんなやつ やつらのやることを我等はだまっていて いいのだろうか
こんなやつ
こんなやつらをこのままにほおといていいのだろうか
という詩を残している。
いい加減であったのか、深いところで人間性思想性を持っていたのか、はっきりとはしない教師と共に過ごした「戦後」の学校は、設備にも環境にも恵まれてはいなかったが楽しかったという思い出が残ったという。そして、今の子供達以上に社会に向けた確かな目を持っているように思われるが、親からは「紀元2600年」にちなんだ「紀」という名をつけられており、自分の名を説明する度に屈辱感を背負い込みながら生きてきたのだという。そうしたさまざまなことがらが複雑に混ざり合ったのが「戦後」の正体であり、そこには後の世代が「戦後教育は間違いだった」といった総括をする様子とはかけ離れた現実があったことが間違いなくあったことが実感できる。
それは、見る人の立場や事情によって見えてくるものが大きく異なってくると云うことだ。ちょうど金に困っている人には、電柱に貼られた質屋やサラ金の広告ばかりが目につくように、子供の眼の位置と興味からは全然別のものが見えてくるのが当然である。「戦後教育」とレッテルを貼った教育を受けたのではなく、戦後の混乱の中で、権利や自由を主張しても、はっきりとそれを押しとどめる潮流が余り強くなかった時代に、教える側ではなく、教えられる側として過ごした筆者自身が見た物を描き出そうとしている。それこそが筆者にとっての戦後教育であり、それこそが「戦後教育」の実際に一番近いものだったはずである。
この時期(戦後)の日本では、教師も親も大人達も、子どもの自由さをしかりつけたものの、自分の歩んできた道が間違いだったことは反論のしようもなかった。空襲警報が鳴れば、何を差し置いても、お上への義務を果たしつつ、自らの身を守る以外なかった。「まず自営すること、自分だけで自分と子どもを護ること、公は常に義務を強制するものであること」、当時の親世代が体得していたのはそういうことに他ならないのに、敗戦後は「主権在民」だと、お上自身が言うのである。何だかよくわからないが、小学校も国民学校ではなくなり、ともかく学校に行けば先生が教えてくれるのだろうと思ったはずだ。その教師はアメリカ直輸入のコア・カリキュラムの翻訳に振り回されていたのだ。
いろいろな決まりが崩されてしまったため、子どもの意見もそれなりに尊重された。それどころか、親も教師も、自分自身と家族の食糧と住居を確保するのに四苦八苦だった。その隙間をこどもたちは楽しんですり抜けたというのが実際のところだろう。とすれば、「戦後教育」などというものは、幻影だったと言えばそれまでのことで、それこそ「間違いだ」の「失敗だ」のなどと云うことは、お門違いも甚だしいのだ。むしろ、教えた側には「主権在民」などという意識はほとんど理解されずに、たとえ口先で「民主主義」を唱えていようと、空襲同様に、生活苦を必死で自らの力で乗り越えなくてはならなかったというのが現実なのだ。さらに複雑なのは、「戦後民主主義」は教えた側だけでなく、教えられた側にもあったのであり、今や過去の遺物としてきちんとまとめられた訳でもない当時の教育状況は、改めて遺物を寄せ集めたところにしか存在しないのである。
1946年4月から55年3月まで(六・三制の開始当時から教育二法の成立まで)過ごした小学校と中学校での体験は、筆者特有のものではなく、むしろ誰もが持っている学校体験と重なることが多い。決して他にはない「特異な体験」ではなく、事実として受けた教育を拾い上げ、バラバラに壊れた陶器をつぎはぎするように組み立て直そうとしたものだった。それにも拘わらず、当時起こっていたことは、明治期の学制開始以来、生前として乱れることのなかった教育体制が始めて根こそぎ浮き足立った時期だったのであった。教える方法も中味も点でバラバラでまとまりがなかった。それは、例えばコア・カリキュラムで育ったのかと聞かれれば「そうではない」としかこたえられないし、「偏向教育を受けたのか」と聞かれても「そればかりではない」と答えるほかないものだった。
そこにある「戦後教育」は、確固とした学ぶべき内容を備えたものとは言えないが、「これこそが正しい在り方だ」と主張することに常に伴う胡散臭さとは無縁の、牧歌的でおっとりとしながらも、見るべきものを内に秘めたものといった印象であった。
9章にわたる各章の「どの章もいつも何か書きたらないような気分で終わった」と筆者は、あとがきで述べているが、それぞれに、味のあるノスタルジーを感じさせる一冊であり、それにも拘わらずこうした時代が二度とは訪れないだろうということだけははっきりと突きつけられた思いが残る一冊であった。
「ベニヤの学校」を読む
