【目次】はじめに
1.どんな時代に育ったか
2.高度成長とそれを支えたもの
(1) 敗戦からの復興
(2) 高度経済成長黎明期
(3) 所得倍増計画で東京オリンピックに
(4) 昭和40年証券不況
(5) いざなぎ景気で大阪万博
3.「暴走族のバイブル」と呼ばれた本書の内容
(1) 暴走ぶりはヤクザ顔負け
(2) 警察を者とのしない犯行ぶり
(3) 犯行の底を流れる被差別意識
(4) 近親者(母や恋人、暴走仲間)にたいする深い愛情と結びつき
はじめに
著者は、瓜田吉寿
1955(昭和30)年4月、新宿に生まれる。大久保中学を卒業し、東海汽船に入社。一年で退社し、銀座の倶楽部などでボーイなどの職を転々とする。暴走族ブラックエンペラーの総長。
この本は、東映の映画監督であった石井照男が、「爆走!暴走族」という映画を撮るために、大勢の暴走族と呼ばれる若者達との交流の中から生み出されたのだった。
1975(昭和50)年9月10日に初版が発行されている。筆者が二十歳になった歳に出版されたことになる。書き始めた時期はもちろん、書き上げた時期も、もっとずっと前ではあろうが、出版の時期はちょうど二十歳の時期に当たる。ちょうど暴走族を卒業するきっかけが生まれだした、微妙な時期だったのかもしれない。この書物はこう締めくくられている。
「たしかに俺は誰でもが歩んでいる道から外れてきた。・・・大半は、暴走するエネルギーを半端に身体にくすぶらせながら大学へ、あるいは企業へともぐり込んでいく。俺たちのようにとことんエネルギーを使い切るまで走り抜くなどという馬鹿げたまねはしない。ケロッとしたものだ。
大学を受ける、そう聞いただけで小躍りして喜ぶ親たち。どっちもどっち。俺と一緒についこの間まで走っていた後輩達も。こうして親孝行に励むようになる。同時に彼自身のアテのない暮らしをゴマかしていくのだ。二輪から四輪へ、そして少年から青年へ、チャッカリとやり過ごしていく。・・・
アパートに帰ると、恭子が唐突にこんなことをいった。
『人間ってつまらないわね。いつまでも無邪気なままで生きていけるといいのに・・・』
今度こそきちんと式を挙げよう・・・・。それでも胸のなかにポッカリと穴が開いているような虚ろな思いは消えない。その穴をスーッと風が通り抜けていく。
暴走している時の好戦的な風とは違っていた。逆らおうとしても、そいつはスイスイと俺の身体を通り抜けていくのだった・・・。」
暴走中の好戦的な風とは違う風が、否応なく体の中を駆け抜けて、体全体に染み渡りはじめたのではないだろうか。
1.どんな時代に育ったのか
1955年とはいったいどんな時代だったのだろうか。筆者とブログ管理者とは、同学年である。同じ時代を見ながら育ったことになる。とはいえ、新宿と千住ではずいぶんと違っているだろうが、それでも同じ風や臭いをかいで育ったことになる。
関東大震災で、東京が壊滅的な被害を被ったのは、1923(大正12)年のことであった。30年前である。第二次世界大戦も、日中戦争すら始まる前の、いわゆる平和な時代に起きた突然の悲劇だが、それでも30年も経てば、相当程度復興を果たすことができたことは、神戸や東日本、さらには能登半島の大震災を見ても、想像がつく。直接の影響があるとすれば、防災都市としての都市計画が、多少なりとも実現して、充分とは言えないまでも整備されたということだろう。
自由を謳歌したかのように見える大正自由主義の時代の後には、暗い軍靴の音が近づいてくることになる。日中戦争に始まり太平洋戦争に至る、第二次世界大戦である。沖縄をはじめ、広島・長崎での原爆投下に負けず劣らず、日本各地で悲惨な結末を迎えることになるのだが、東京が最も大規模な空襲被害を被ることになるのは、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲であった。10年前の出来事である。10年一昔といわれるものの、10年前の出来事の爪痕は、かなりはっきりと残っていることが、他での経験からも想像出来る。この年に誕生した芸能人の代表に、絶世の美女吉永小百合がいる。東京大空襲の3日後に生まれたのである。
戦後の10年間には、歴史上かつてないような出来事が凝縮している。誰もが一度は目にしているであろう焼け野原が広がっていた。焼夷弾の投下による大火災の最中を記録することは流石に不可能だった。そのさなかの悲劇が、地獄絵図として後に体験者が語り、描き出すのが精いっぱいだった。戦争直後の大混乱が続いた。大量の帰還兵による、戦時中に勝るとも劣らない食糧不足の苦しみの中でも、人々は逞しく生き延びた。つい昨日まで「鬼畜米英」であり、殺すべき相手であった進駐軍に、こどもたちはチョコレートを求めて群がり、女達は売春によって生きる術を確保し、男達は、闇市に生きる糧を求めた。いつの間にかそうした混乱が収束に向かい、秩序が整備されていくようになる。それは、主として本来徹底されるべき天皇制がなぜか温存される進駐軍による極東裁判の不透明さと、断罪されるべきA級・、B級の戦犯達の闇に覆われた復活劇が繰り返された結果であった。日本の支配層は、戦前のラベルを「平和と民主主義」に貼り替えただけの同一人物とその親類縁者とによって担われたのである。敗戦直後に説かれていた理想主義は、反共のために先祖返りし、それに伴って復興が実現された。オリンピックや万国博覧会を開催することにより先進国であることの承認を全世界に求め、明治時代の富国強兵政策の再現の如く、犠牲を厭わない猛烈な労働による奇跡と呼ばれる経済成長を成し遂げるのである。夢の超特急と呼ばれた新幹線が走り、高速道路が手塚治虫の描く未来国家を実現するかのように縦横無尽に建設されていった。未来都市の実現が夢ではなく現実の東京タワーのが着工されるのは、1957年と2年後に迫り、家電の三種の神器と呼ばれた「電気洗濯機」「電気冷蔵庫」「白黒テレビ」が普及し、やがてなくてはならない生活となるのはがまもなくに迫っていた時代である。
こうした華やかな面に対して、実はそれを支えたのは、若年の低賃金労働者であった。その姿をロマンチックに描いたのが「三丁目の夕日」である。それに対して対極に位置するのが、本書「俺たちは土曜日しかない」ということになる。この中間に、南の農村から関西の都市へ、東北の農村から東京の下町へ、たくさんの集団就職の若者達がやって来たのである。「金の卵」と呼ばれた彼らは、無着成恭の「山びこ学校」の教え子や東井義雄「村を育てる学力」を学んだにも拘わらず、村を捨てるしかなかった若者達であった。集団就職の実態については別の所で詳しい記事を書こうと思っているが、彼らの中で、最も恵まれなかった部類に属する者達の実態を読み取ることができる書物と言える。
上野の地下道などにに蔓延していたギャングと呼ばれた戦争孤児の姿も傷痍軍人の弾くアコーディオンの音もいつの間にかなくなった。傷痍軍人は別として、消えていった戦争居士達と暴走族との関係は、果たしてあるのかどうか、それに関して行われた調査も聞き書きのようなものも、今のところは見たことがない。関係があるのかないのか、いずれ確かめてみたいと思っている。
翌年の1965(昭和31)には、政府の経済白書が、「もはや戦後ではない」と宣言した。復興は果たされたという意味であり、敗戦国としての負い目を払拭しようということであり、戦後の禊ぎは終わったと言うことを締めそうとしたのであろう。しかし、朝鮮戦争への便乗やベトナム戦争の激化を支えることに代表されるように、自らの手を汚すことなく金儲けにひた走る姿は、エコノミックアニマルとさげすまれた。
戦前の、天皇を中心にした世界制覇を目論む選民主義に取って代わられた徹底した拝金主義が無節操に広まり続けるその裏で、ないがしろにされざるを得ない戦争体験の継承が声高に叫ばれ、野坂昭如らが、自らを「焼け跡闇市派」と公言しなければならないほどに「戦後」は遠くなったのである。恥知らずにも、戦前の反省など全くの他人事と言わんばかりにやり過ごそうという国家的な規模での宣言が実施されたのである。
そうはさせじと国内外からの反響があった。戦後秩序への犯行・氾濫である。それが一方では学生の反乱を呼び起こし、他方では暴走族を中心とした反抗となって現れたのである。しかし、今のところ圧倒的な国家による暴力の前に、どちらの圧倒されてしまっているといううのが現状だろう。
因みに、この1955年(1956年3月までを含む)に生まれた有名人には次のような人たちがいる。それぞれの道で、相当な努力の結果成果を発揮した人もいるが、どちらかというと「時代の寵児」であり、「売れっ子」に留まっていて、後世に大きな痕跡を残したり、世の中を変えるきっかけを作った人は見当たらないように見える。
・プロスポーツ
佐藤直子(テニス)、渡辺次郎(ボクサー)、西野朗(サッカー)、掛布雅之(野球)、江川卓(野球)、 千代の富士(相撲)、佐野稔(スケート)、具志堅用高(ボクシング)、達川光男(野球)、
倉本昌弘(ゴルフ)、中野浩一(競輪)、朝潮太郎(相撲)、
・俳優・タレント
渡辺えり子、高橋恵子、所ジョージ、佐野史郎、池波志乃、島崎俊郎、山口良一、上沼恵美子、
田中裕子、内藤剛志、村上ショージ、三波豊和、ラサール石井、坂口良子、志穂美悦子、
渡辺裕之、中村梅雀、役所広司、小堺一機、榎木孝明、渡辺正行、大地真央、浅田美代子、
太平サブロー、小宮孝泰、竹中直人、島田紳助、小堺一機
・歌手
伊藤蘭、矢野顕子、竹内まりや、西城秀樹、麻丘めぐみ、郷ひろみ、世良公則、松山千春、
大友康平、野口五郎、ブラザー・トム、桑田佳祐、新沼謙治、佐野元春、
・歌舞伎役者・落語家
春風亭小朝(落語家)、桂小枝(落語家)、中村勘三郎(歌舞伎)、坂東三津五郎(歌舞伎)、
・作家・漫画家
鳥山彰(漫画家)、野田秀樹(作家)、百田尚樹(作家)、
・その他
米村でんじろう(サイエンスプロデューサー)、湯浅卓(弁護士)、陳建一(料理人)、北村晴男(弁護士)、
因みに、ザッカーバックやビルゲイツもこの年の生まれである。
2.高度成長とそれを支えたもの
高度成長とは何なのか。それは何時の、どういったことを指しているのか。そうした成果が上がったのは、実際には誰のどんな努力が作りだしたものなのだろうか。
(1) 敗戦からの復興(1946~1956年)
第二次世界大戦において、イギリス・アメリカ・中国・オランダの連合国に敗北し、朝鮮半島や台湾などの領地を喪失した上に、敗北と占領下による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は敗北から急速に復興した。
1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化し、以後経済が不安定な状況が続くが、朝鮮特需を追い風に復興が続き復興特需とインフラの再整備、内需転換が続き占領下を脱して1年半の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年10月には戦後11年で経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した。
(2) 高度経済成長黎明期(1957~1960年)
1957年から1973年の16年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実上の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。
この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。
また、戦後首相の座についた吉田茂が行った、『憲法9条の下で本格的な再軍備を慎重に避けながら、日米安全保障条約に日本の安全を委ねることで、自国の経済成長を優先させる方針』についても、上記の要因の一つとして考えられる。
(3) 所得倍増計画で東京オリンピックへ(1961~1964年)
1960年、池田勇人内閣は、翌1961年4月からの10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表した。
所得倍増計画は1964年秋に開催される東京オリンピックへの特需を迎えた。
名神高速道路(1963年7月開業)や東海道新幹線(1964年10月開業)といった大都市間の高速交通網、首都高速道路や阪神高速道路も整備され、都内では東京都交通局の地下鉄1号線(現・都営地下鉄浅草線)、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄〈東京メトロ〉)の日比谷線といった地下鉄新線の整備が進められた。
第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と言われた。この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れ始める(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。
現在では、「戦後」の代名詞として1960年代の映像資料が使われる事が多い。
この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は「三種の神器」と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら便利な家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=和の文化)」等が要因として挙げられた時期もあった。
(4) 昭和40年証券不況(1965年)
順調な経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。
しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した[注釈 3]。さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。
こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。
(5) いざなぎ景気で大阪万博へ(1966~1970年)
1965年10月からいざなぎ景気が始まり、1966年から再び年10%以上の成長期となった。
1967年10月には所得倍増計画を達成。
1968年には日本の国民総生産(GNP)が、同じく敗戦国の西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。
終戦25周年記念として大阪万国博覧会が大阪府吹田市で1970年3月から半年間開催されることになり、いざなぎ景気は大阪万博への特需を迎えた。
大阪万博特需として、大阪中央環状線開通(1968年3月)、東名高速道路開通(1969年5月)、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)の新線整備等が行われた。
日本が債権国となった1960年代後半には、外国人の日本株投資が活発化した。このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した[4]。
石油危機と高度経済成長の終わり (1971~1973年)
1971年(昭和46年)8月のニクソン・ショック(ドル・ショック)による実質的な円の切り上げ、変動相場制移行は国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。
1972年は3月に山陽新幹線岡山開業、5月に沖縄復帰を実現した。
1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥った。政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。
3.「暴走族のバイブル」と呼ばれた本書の内容
では、本書にはどんなことが書かれているのか。もくじをひもといてみると、
第一章 燃える季節
第二章 すばらしき仲間たち
第三章 極悪へのレクイエム
第四章 ブラック・エンペラー
第五章 夜明けを求めて突っ走れ
第六章 風になるんだ
第七章 固く厚い壁
第八章 駆け抜ける青春
という構成となっている。
全編英雄的な自分たちの暴走や喧嘩、その勇猛果敢な振る舞いを自画自賛し、相手の卑怯な振る舞いをあげつらうといった自慢話が溢れている。
(1) 暴走ぶりは、ヤクザ顔負けに見える
暴走族と名付けられた若者達による深夜の町の暴走は、一般市民にとっては迷惑きわまりない暴挙に他ならなかった。それはこんな有様であった。
「新聞は、雷属、サーキット属などといった名前を生み出していたが、スピード強から集団同士の抗 争に明け暮れるようになったバイク乗りを「暴走族」と呼ぶようになったのが1974年からであった。
「都内周辺でも約200グループ、4000人が爆音け立てて走り回り、全国ともなれば773グループ、14218 人が警視庁にリスト・アップされている」という状態であるから、あちこちでぶつかり合い、抗争に 発展するのが当然の帰結だという訳である。「道路上でちょいと接触しただけ」で喧嘩の理由には充 分で、『ケンカ抜きには満足に走れない有様』になっているのだという。
グループ同士の抗争となれば、相手のアタマ(リーダー)を潰すのが効果的だから、『アタマをさら って監禁し、オドシをかけることが多発』する。それが行きすぎると、自分たちで自滅の道を避ける 方法を模索し、『東京の105のチームが駒沢公園に集結、名前はやくざみたいだが〈関東連合〉の結 成式をやって』手打ちを図ろうとしたりしている。しかし、もともとが協調性より自分たちが目立つ ことが優先する連中のこと。暴走族と言ってもまとまりなど何もない。見かけ上似たような違法改造 バイクに乗っているという共通点があるように見えるが、それこそ軟派から硬派までさまざまで、暴 走族同士でも憎しみ合いも半端ではなかった。」という。
そうした連中が、夜の町を暴走する。暴走する者同士がすれ違えば、獣のようにぶつかり合うこと が避けられない。もはや狂気の沙汰である。事前に宣言し合った喧嘩ももちろんあるが、行きがかり 上避けられなくなり、何の準備もしないまま始まってしまう喧嘩もある。不利な喧嘩に勝利することこそ自慢のネタに他ならない。そんな自慢が満載である。
「横浜をアッという間に走り去った保土ケ谷トール・ゲート。オーバーフェンダーにぶっといタイ ヤを穿かせた四ツ輪が、トール・ゲートの照明の真下に鈍い光りを乱反射させて群れていた。グング ンと俺たちはその群れに迫っていった。200台は下らない。GOHST、ROUTE20そしてOKERの集団 だった。全員、車から降りておれたちとぶつかり合う態勢を取っているのが見える。俺たちはたった の4台。功成ったらヤケクソだ、いちかばちか突っ込む以外に手はない。これまでだって、こういう 修羅場は何度となく極悪はくぐってきた。それでこそ、極悪の看板は一目置かれるようになってきた のだ。ここで引き下がったのでは元も子もなくなってしまう。
急ブレーキでスピンさせた四輪から飛び出し、手にチェーンを巻き付けて殴り込んでいった。それ にしても多勢に無勢。まともにやり合って勝てる喧嘩ではない。先制パンチ、そしてリターン。取る べき作戦はこれひとつしかない。ドライバーはエンジンを吹かしたまま、唐宋のスタンバイ態勢。先 制攻撃を仕掛ける場合、最初の突っ張りがすべてだ。相手がひるんだところを思う存分、たたきのめ す。相手に戦うスキを与えずにあとはとんずらあるのみ。極悪の作戦はまんまと成功した。」
このような、大げさすぎるようにも見える自慢話は枚挙にいとまがない。壮絶な喧嘩と、不可能に見える勝ち誇った話が、この本にはてんこ盛りである。これだけ読んでいると、痛快である同時に、悪逆極まりないとように思えてくる。ところがそうではないのである。全く違うのである。
(2) 警察をものともしない反抗ぶり
暴走族同士の喧嘩ばかりではなく、自慢話は警察とのカ-チェイスにも及ぶ。時には捕まることを極度に怖れているからこその暴挙が行われ、運良く生き残ってしまったことが勲章のように語られている。一般道や高速道路での通常走行車が少なくない中、危険を察知した警察が、追跡を諦めたかもしれないなどということは、おくびにも出さないのである。
「いつものように第三京浜を200キロぐらいのスピードで飛ばしていたら、運悪くパトカーに見つか ってしまった。違反に次ぐ違反で点数はほとんど残っていなかった。・・・スピードをさらに上げつと 必至になって逃げ回り、とうとう追跡するパトカーを振りきった。・・・ところが、第三京浜の出口近 くになって、はっと気づいたのが出口にある料金所のこと。いくらパトカーから逃れることができて も、第三京浜の場合、料金所に連絡されていて、そこで必ずつかまっちまうのだ。第三京浜は上り車 線と下り車線が完全に別々になっていて、Uターンして引き返すこともできない。もうどうあがいて もダメ、万事休すというわけ。
が、クックは到底信じられないようなことをやってのけた。猛然とダッシュすると、三車線の幅ギ リギリでスピンターンし、今来たばかりの上り車線を逆方向に突っ走ったのだ。同じ車線を正面から 100キロのスピードで次々にすっ飛んでくる対向車を、かろうじてよけながら、クラクションを鳴ら しっぱなしで保土ケ谷料金所まで走り抜けた。」ということになる。」
そして、自分も自分の周囲にいる友達も、勇敢であるだけではなく、度を超した不死身さを持っていると信じているかのようである。
「ヨシキは不死身のタフマンでもある。あるとき、猛スピードでクルマを突っ込んで、車のボディに 身体がのめり込むほど叩きつけられた、しかし、かすり傷ひとつなく、ムクッと立ち上がると、事故 で仲間に迷惑がかかること考えて、極悪のステッカーをはがして、そのばからとんずらしてしまった。 頼もしいというか何というか、頭以外はスーパーマン並みの男だ。」
こんな話は珍しくない。その無軌道ぶりは、恐れを知らぬ気違い沙汰に見えてくる。確かに常人には真似できない所業である。本当にあったのだろうから、それこそ奇跡の連続とも思えてくる。あり得ない世界の中に生きてきたのだろう。それだけに、仲間に対する信頼は、この世のものとは思えないほど深かったのだろう。
(3) 犯行の底を流れる被差別の歴史
こうした反抗心は、生まれつきの性格であるはずがなかった。幼少期から少年期に至るまでの生活の中で培われてしまった者である。深刻な差別と偏見にまみれた中で育った結果である。差別をする側にもそれなりの被差別や劣等感の中で生きてきたのであろうが、そこに連帯感や同情が生まれる余地はなかった。社会の底辺に生きる者同士の、言わば「内ゲバ」であった。各地の百姓の不満を百姓同士の利権争いに見せかけた武士階級も、労働者間に不信感を生み出し、互いに争わせて高みの見物を決め込んだ資本家階級も、洋の東西を問わず、遙か昔から支配者が巧妙に張り巡らしてきた戦術に見事に引っかかった結果だった。
「少年時代に、片親だからというそれだけのことで俺を補導したお巡り、不良少年とは交際するなと 強引に泰子の両親に吹き込んだ教師」
という記述が見られる。不幸な境遇を、補ってやるべき対象から、危害を加える元兇と見做してしまうような道徳観が横行していたのだ。
「俺は警官が憎かった。ガキの頃、ただ片親で、母がホステスというだけで、止めに入った祭りのケ ンカで挙げられ」た
とも述べている。ケンカ相手はほかの暴走族のグループよりも、警察官、果てはいわゆる一般人にも広まっていくのだった。
警官の「ガキのくせしてそんなクルマに乗りやがって。手前エで稼いで買ったんじゃねえだろう。 ひとりじゃオマンマ食えねえガキが生意気いうんじゃねえッ」と口汚く罵ってくる言葉には、警官自身の生い立ちから来る都会の若者へのひがみが色濃く込められていることが多かった。その多くが恵まれない東北の貧農で、食い扶持を減らすために都会に追いやられた農家の二男坊、三男坊であった。学歴もなく、よそ者の少年が、安定した生活ができるようになるには、肉体労働しかなかった。エリートとは全く別種の警察官もその中の一つに数えられた職業だった。実際、警察官に対しては、学生運動に対しても、暴走族の取り締まりにおいても、相手は贅沢者として、敵意をむき出しにさせる指導が繰り返されていたという。「大学生」という恵まれた身分にふんぞり返って勝手な理屈を並べて、普段は遊び歩いている連中というような者だった。「暴走族」についても、親の臑をかじって高いバイクを買い与えられながら、我が儘放題の甘ったれ」といった具合である。「本当の貧乏を経験し、そこから這い上がるのに苦労を重ねている警察官のお前達とは、根本から違う連中なのだ」とたたき込まれたのである。つまり、双方が相手を憎むように仕向けられていたのである。真実の姿はどうかなのということを検討する暇も機会も与えられないように、尻を叩いていたのだ。
(4) 近親者(母や恋人、暴走仲間)に対する深い愛情と結びつき
その一方で、自分の母親、愛する女性、そして暴走仲間に対する信頼と結びつきは、極めて強い者が感じられる。
警官や教師に対しては、片親だからと昔から差別され続け、何かというと確かめることもなく犯人扱いされてきたという思いはかたぬなであった。何もなくても、顔を見るだけで、かみつきかねない勢いであった。
「片親だからというそれだけのことで俺を補導したお巡り、不良少年とは交際するなと強引に恭子の両親に吹き込んだ教師」の顔は、生涯忘れられないようである。
それに対して、近親者や仲間との関係は、他人との決裂によってできた溝を埋めるかのように、熱い関係が続いていた。まるでそれは作ってしまった深い溝を代わりに埋めるかのように見えた。まず、母親との関係が、一見熊内悪いほどに濃密である。中高生のこの時期の子供は、いわゆる反抗期・思春期で、母親とは険悪で薄っぺらい関係を作っていることの方が多い。何を聞かれても応えるのが面倒くさそうに、「別に」などと応えるのが普通でさえある。ところが彼の母親t歩の関係は全く違っていた。
「赤坂署にブチ込まれているとき、『そんなにいつも面会に来られたんじゃ、留置している意味がなくなりますよ』
警察官の損な制止も聞かず、毎日面会にやって来ていたおふくろだ。ありとあらゆる手段を使って審判の日を探ったのだろう。」
といった具合で、拘留中の自分の身を案じて面会に来る母親を、鬱陶しいどころか、まるで自慢げに、臆すことなく紹介している。
練鑑(練馬鑑別所)行きを免れて、晴れて釈放されたときにも、
「『今、いちばんおまえがやりたいことはなんだい?』
家裁を出ると、俺の肩に手を置いておふくろははずむ声でいってくれる。ふたたびゴクッと咽喉が鳴った。うまいものが食いたい。鮨屋に連れて行ってくれるよう頼んだ。タクシーで銀座の鮨屋へ行く。プーンと甘酸っぱい香りが飢えた胃袋を強烈に刺激する。トロ、青柳、イクラ、白身、新鮮なネタの色が目に痛いほど。
『さあ、好きなだけお食べ。』
おふくろの言葉を待つまでもなく、板前に次々に注文、俺は食べ狂った。お袋が注いでくれるビールを左手に、ひとこともしゃべらず右手はひたすら鮨をつまむ。体が壊れるのではないかと思うほど、両手をフルに動かして動けなくなるまで食べまくった。満腹になるとやっと釈放された実感が湧いてくる。これがシャバか・・・・。
鮨屋を出るとおふくろは勤めに出て行った。」
という具合である。やんちゃで親不孝者の息子がやっと釈放されたとき、母親は怒るでも説教するでもなく、一番したいことをさせ、黙ってみていた。まるで悪ガキを黙って包み込む慈母観音を思わせるようでもある。が同時に、姉さん女房か年の離れたヒモと内縁の妻とでもいうような関係に見えなくもないのではないだろうか。都合の良い部分だけでの親密すぎるほどの母子関係ではなかったのだろうか。母親が世話してくれている間は、それこそ普通の親子とは比べものにならないほどの親密さに溢れていることは確かである。
不良で、警官や教師を初めとした一般の周囲の人々から爪弾き者にされていると感じている若者の多くは、妻にするつもりの恋人を唯一の理解者であるかのように大切にし、濃厚な親密さを抱いているものは珍しくない。多くの場合、それは一方的な甘えで、自分の都合が良いときには極めて優しいが、思い通りにならないと裏切られたと一方的に恨み辛みを重ねるものとなった。彼の場合も同じかどうか、少なくとも恋人を大切にしていることは間違いなさそうだ。
「恭子の待つアパートに飛んで帰ったものの、この夜はセックスどころではない。疲れがどっと出て、眠りたかった。額のところに軽くキスして、布団に入るなりものの一分もしないうちに深い眠りに入っていった。」というときもあるが、
「『起きてたの?』
頭だけを持ち上げてキッチンの方へ顔を向けると、体を反らせて首だけドアの隙間から出した恭子の顔は明るく幸せそうに微笑んでいた。
『恭子!』
たっぷり12日間いたぶられてきた俺の神経にヤスコの音の響きは優しかった。もう一度声を出して、恭子の名を呼んでみる。
作りかけの料理をそのままにして、恭子は俺をめがけて飛んできた。濡れた手のまま俺の首にしがみつくと顔中にキスの雨を降らせ、喜びにあふれんばかりの顔で目からは涙を流していた。柔らかい恭子の唇の感触にたまりかねて、俺の抑えられていた欲望は堰を切ってあふれた。恭子の体を布団の中に引きずり込み、服を脱がせると、俺は恭子に挑みかかった。いとおしさと凶暴な欲望は俺の体に疲労を忘れさせて、むさぼるように何度も体を重ねていった・・・・。」という激しい欲望のままに体を求め合うこともあったという。暫くぶりに会った恋人同士の間では、特別に珍しいことでも何でもない。
「他人には見せられないが、裸の体を互いに触ったり突っついたり、ふざけながらの食事は疲れ切っていた俺の神経を優しく解きほぐしてくれた。」ともある。毎回ではなくとも、「優しく解きほぐしてくれ」るのは、お互いなのであろうか、それとも常に一方的なのであろうか。常に一方的であれば、一方的な満足と、献身による満足との合流ということになるが、果たして献身的な満足が生涯続くものなのか、人にも寄るだろうが、あるときぽっきりと折れてしまうということはないのだろうか。
「家を出てアパートを借り、俺と一緒に暮らすようになった恭子は、諦めたとはいうものの時たま普通の女のように新婚生活の気分を味わってみたくて、俺のために料理を作ろうとするが、何時も惨めな失敗に終わってしまう」というのである。果たして本心から諦めたのか、実はそうは言うものの諦めきれずにいるから何度もチャレンジしているのかは、分からない。ただ、普通の女のような生活ができないのは、料理が下手だという恭子の側の責任なのかというと、決してそうではないことに「俺」自身も気づいているに違いない。これがやがて大きな亀裂の原因になるかどうかは、今のところ誰にも分からないだろう。
「『ねエ。ちょっとそこに坐ってよ。』
俺がバスタオルを腰に巻き付けて、恭子のいうとおりにすると、マジメな顔になって、
『お帰りなさい。おつとめご苦労さんでした。』
と三つ指ついて頭を深々と下げた。俺ももっともらしく頭を下げて調子を合わせたものの、おかしくなって、上目づかいで窺うと、恭子もこちらを悪戯っぽい眼で見ながら笑いをこらえている。
『おまえ、ヤクザ映画の見過ぎだぞ』
恭子はとうとう堪えきれなくなって大声で笑い出した。」というのである。実にたわいないじゃれ合いが楽しくて仕方ないのであろう。完全に世の中を舐めているともとれる。この楽しさが、若いときには楽しくて仕方がないのだろうが・・・。
暴走仲間に対しては、その無敵な頑強さを示すことがちりばめられている。いわゆる伝説的な凶暴ぶりである。まさに伝説的で、見てきたように描かれているが、本当か?と思わず疑いを挟みたくなるようなエピソードも少なくない。
「ヨシキは不死身のタフマンでもある。あるとき、猛スピードで車に突っ込んで、車のボディに身体がめり込むほど叩きつけられた。しかし、かすり傷ひとつなく、ムクッと立ち上がると、事故で仲間に迷惑がかかることを考えて、極悪のステッカーを剥がして、その場からとんずらしてしまった。頼もしいというかなんというか、頭以外はスーパーマン並みの男だ。しかしこの男の最大の欠点は、ぐっすり眠り込んでいるときに起こされると、猛烈に腹を立てること。」といった具合である。タフガイとしては常人の域を超えているのである。それでいながら仲間思いであることが強調される。最もかすり傷ひとつなければ、後処理ぐらいしても、さほど仲間思いというほどのことはないような気がするのだが・・・。そしてだめ押しに付け加えられるのが、ちょっと抜けている人間らしさ、親しみらしさである。それらのすべてを以て、友としての仲間の良さが語られるのである。
しかし仲間に対するシンパシーはそうした冒険談だけから生まれてくるものではない。たとえば、
「暮れにアルバイトで稼いだ金が入ったとき、
『なんでも、食いたいものを食わしてやるよ』
とニヤニヤしていうものだから、俺も冗談のつもりで、冬であるわけがない西瓜を食いたいとヨシキに言ったことがある。すると奴は次の日、俺のアパートまで西瓜をちゃんと持って来たのだ。その日、朝から西瓜を探し回って東京中をかけずりまわって、やっと銀座のデパートで見つけてきたという。そのうえ、丸ごと一個だと、とてもじゃないが高いので、ダメだという店員に粘りに粘って、半分に切らせて買ってきたというから驚きだ。」この、バカ正直な無鉄砲さが、仲間内に向けられるときには「誠実」に写り、仲間を裏切らない絆の強さとして語られているのである。店員の側から見たら迷惑千万なことは一目瞭然なのだが、そちらには目をつぶるのである。
いずれにあっても共通しているのは、他人の迷惑考えずに、親しい間柄の相手に対して、全幅の信頼を置いていることである。まさに全幅の信頼であって、決して疑うことはない。ここには描き出されてはいないが、多分裏切られたと感じた暁には、その憎悪の度合いは並大抵のものではないだろうということは想像に難くない。多かれ少なかれ、仲間内の絆の強さが、外部の人々の迷惑や犠牲の上に成り立つことはあり得る。他方で、時として内部の者の犠牲や、内部に向けた厳しさが他者に対する存在感や信頼を生むものであるのも事実なのだが、そうした視点は大きく欠落しているのではないかと思われる。
(5) 意外なほどの少年らしさ
そうした、相矛盾するかのような生き方に垣間見られるのは意外な一面である。まるで暴虐で残虐で、ヤクザ顔負けに思えるボイとが、初々しい少年らしさを持っている
実態は幼さの残る職業少年 見かけによらず
「みんなの罪を被ってブタ箱にぶち込まれたも同然の俺が、12日ぶりに出てきたんだから、仲間の法から挨拶してくるのが当然なのに、それが内ことにいささか腹を立てていた。
自然に向いた仲間達たむろするの喫茶店に顔を出すと、「どうしたんですか」などと言われてカチンときた。
ところが翌朝電話でたたき起こされて、無理やり六本木に連れ出される。肌に合わないてかてかした店が並ぶ六本木でやっと見つけた場所が「ディスコ・ジュニア」で、そこに入ると、極悪(暴走族のチーム舞)の仲間達が30人くらいもいて、フロアの真ん中に立たされた俺の周りをぐるりと囲んで、口々に慰めとも冗談ともつかない言葉を投げかけて、シャバに出てきた祝いのパーティが催された。・・・「さっきまで、誰も挨拶に来ない冷たい野郎達だと思っていた自分が恥ずかしくなる。」
「『逮捕』、始めての経験だった。その辺のヤクザ連中とは俺たちは違う。ただ思いっきり走りたくって土曜の夜、ぶっ飛ばしているだけだ。だが、俺はヤクザ者と同じ扱いをされて、留置場へと連行されてしまった。重い鉄の扉が背中でギーッといやーな音を立てて閉まったとたん、〈チクショウ―、とうとうこんなところに入っちまったのか・・・〉と自責の念にかられてしまった。」
「控え室のような小さな部屋で素っ裸にされたあげく、写真を撮られる。ストロボのバシッという鈍い音が留置所に響いた。服を着て再び取調室に戻された。
一緒にパクられたらしいオサムたちはどこにいるのだろう。みんな俺と同じく今夜は帰れないのだろうか。」
「鉄格子のなかに入るなんざあ7,俺なんかとはくらべものにならないくらいの悪党ばかりと思っていたのに・・・。年がら年じゅう、ケンカに明け暮れてきた俺だが、まさか入っちまうとは思ってもいなかったぜ・・・。」
仮審判控え室は家裁の地下にある。引っ立てられるように湿っぽい陰気そうなその部屋に入れられると、係員から審判についての説明を受けた。「ここに来たからには、まず練り鑑行きは間違いないからな。今から覚悟しておいた方がいいと思うぞ。」
こっちはとっくの昔に覚悟はついている。それでも、仮審判室に入ったとき、そこに意外な顔を見つけてドギマギしてしまった。お袋が俺を待っていた。
練鑑行きを確信していただけに、審判を言い渡されても、家に帰れるんだという実感は湧いてこなかった。
「今、いちばんおまえがやりたいことはなんだい?」
家裁を出ると、俺の肩に手を置いておふくろははずむ声でいってくれる。ふたたびゴクッと咽喉が鳴った。うまいものが食いたい。鮨屋に連れて行ってくれるよう頼んだ。タクシーで銀座の鮨屋に行く。ぷーんと甘酸っぱい香りが飢えた胃袋を強烈に刺激する。トロ、青柳、イクラ、白身、新鮮なネタの色が目に痛いほど。・・・満腹に萎えるとやっと釈放された実感が湧いてくる。これがシャバか・・・。鮨屋を出るとおふくろは勤めに出て行った。
(6) 意外な勤労少年の姿
暴力的で、自己中心的で、自分たちにしか通用しにようなへりくつの飢えに勝手にあぐらを掻いているようにしか見えなかった暴走族を、「集会」や「暴走」の場面を外から見ている分には、確かに無軌道な気違い沙汰の集まりにしか見えない。しかし、彼らが生きているのは暴走の俊かkだけではないのである。当たり前のことだが、彼らの平日は、「労働者」だったのである。そこに注目すると、さらに意外な一面が浮き彫りになってくる。意外なほどの勤労少年ぶりがそこにはあったのである。
「やっと巡ってきた土曜の夜」という表現がある。本書には、暴走と喧嘩が溢れているため、彼らの生活は年中暴走と喧嘩に明け暮れているかのように思い込んでしまいがちである。まるで狂犬のような生活しか経験していないのかと思ったら、案外近親者にはやさしさをもって接していることが垣間見えてきた。しかし、その先に、ほとんど描かれることがなかった日常が垣間見えてくるのである。本書で取り上げられた時間より遙かに長い時間を、彼らは勤労少年として過ごしていたのである。
「大きな抗争は毎週土曜日の夜、かならず繰り返された」とあったように、ここに描かれたことは、 彼らの人生のほんの一部でしかなかったのである。そう、ここに描かれていた喧嘩三昧は、土曜日の 夜のだけのことだったのである。彼らが暮らしていた日曜日の夜から、金曜日の夜までは、ほとんど 描かれてなかったのである。
描かれることのなかった平日の生活。彼らにとっては描く価値がなかったものなのだろうが、そこにおきていたことが気になり始めると、そこにこそ重大な意味が隠れていることに気づかされてしまうのだ。『俺たちには土曜日しかない』というのは、土曜日こそ生きがいだという意味であると同時に、土曜日以外は苦しみ、耐えて生きているのだといった意味であったのだ。
「オサムにしたってシゲにしたって、仕事にありつけなければ食うのに詰まる。いやそれどころか ガソリンも買えなくなってしまう生活なのだ。」と決してかららが親のすねかじりで、働きもせずに多額の小遣いをもらって暮らしているわけではないことがわかる。
「いかにも『私、一般市民です』ってツラさげて新宿にドス黒い欲望のはけ口求めてやって来る連 中こそ、不潔で卑猥、どうしようもない偽善者たちじゃないのか。
警察はそんな連中をあやしながら、そこからちょっとでもハミ出そうものならとたんに血相変えて 凶暴性を帯びてくる。俺たちの存在がどうにも邪魔。社会の壁蝨、無軌道極まる極悪人。」といった恨み節も聞こえてくる。どこでそんな恨みを持つようになったのかといえば、普段の勤労中に体験したことによるのである。そのことが最も典型的に現れているのが次のような場面である。
「去勢されちまった一般市民さまのようには生きられないってことだ。」悪者扱いされている自分たちの正当性を、虚勢を張って精いっぱいぶちまけているのだ。
「ふたたび一週間の始まり。ついさっきまで亭主が浮気したとかでわめき散らしていたホステスが、 ブランデー・グラスを気取ったふうに口に運ぶ銀座のクラブ。客は彼女たちの話では、一流商社の営 業マンだという。どうせ会社のカネで飲んでいるのだ。偉そうに口に煙草をくわえると、ホステスが こっちに向かってぺろりと舌を出して火を付けてやる。満足そうにフーッと吸い込むその客が、俺は ヤケに気にくわなかった。
また一週間、こいつらの面とつきあわなければならないのだ。腹が立った。そんな俺の気持ちが表 情に出ていたのか、その客は軽く片手を挙げると人差し指だけ動かして、俺を呼びつけやがった。こ れが俺の仕事だ。背筋をピンと伸ばしていちおうは礼儀正しくお客の前に出た。
『キミイ、眼つき悪いよ。酒がまずくなるじゃないか。奥の方にでも引っ込んでいたまえ前。ウーン、 どうにも人相が良くないナー』
仕事場なら大概のことには我慢がきく。そうはいかないのが、おふくろをとやかくいう奴と、これ ひとつっきりない俺の顔にガタガタいう奴だ。土曜日の喧嘩の余韻がまだ身体の中にくすぶっていた。 握ったトレイを力いっぱいひん曲げることで、いったんは辛抱しようと努めたのだが、次のお客のセ リフが悪かった。
『なんだその態度は!どうせこんなことをやっているんだ、ロクに学校にも行ってないんだろ。カネ か?ホラ、こいつを取ってさっさと消えたまえ。目ざわりだッ』
こういう奴に俺の気持ちを伝えるにはこれしかない。ひん曲げたトレイをその場に投げ捨てると、 俺は拳を振り上げた。と、グイッとバカ力でその俺の腕をつかんだ奴がいた。同じボーイをやってい る先輩の谷田部さんだった。眼と眼に火花が散った。
『どうも申しわけございません。今後このようなことがないように充分注意致しますので、この場は 気をお静めになって勘弁してやっていただけませんか』
俺の腕を押さえつけながら、その客に向かって頭を下げている。俺の負けだ。シブシブ、その客に 頭を下げて先輩にならった。」
毎日必ずこのようなことがあったわけではないだろう。もし毎日こんな事が続けがば、いくら何でも我慢の限界を超えたに違いない。しかし、こうしたことがまれにしか起こらなかったわけではない。むしろ頻発したに違いない。
銀座や六本木の高級クラブなどとは違って、下町の零細町工場で働いた者には、「家族扱い」という美名ののとに、酷使されることが逃れられないものとしてのしかかったに違いない。深夜に及ぶ操業が労働時間を無視し、定時制高校に通わせるなどという約束は、簡単に反古にされた。それらに「いちいち異議を唱えない」「まともに反論しない」とい術を少年達は身につけたのだ。そうしたその場での反抗が無駄であることを知り、諦めた少年の方がこうした出来事を、うまく回避する術を教えられ、身につけたに違いないのだ。
もちろんその場での衝突は回避されたとしても、問題も恨みも何一つ解消されたわけではない。むしろ心の底に沈んで、ちょっとやそっとの慰めや説教では解消されないほどに凝り固まったであろうことは想像に難くない。周囲への恨み、「一般市民さま」への反発は、このようにして生まれ、決して拭い去れない信念と化していったのだ。
ヘルメットを被って角材を手にして集団で突撃する大学生は、マスコミを初めとする画像法道を中心に舌、たやすく暴力集団に仕立て上げられた。同様に「暴走族」も、土曜日の深夜だけではなく、のべつ幕無し喧嘩という暴力と騒音という迷惑をまき散らし続けている訳ではないことなど、気づいても報道することはなかったのだ。真実を見ようなどという気持ちは一切なかったのだ。
サラリーマンが、風俗で、飲み屋でストレスを解消している様子を横目で見ながら、我慢を重ねた末の週末に、暴走族が存在したのだ。酔っ払いのサラリーマンが大声を上げても、道ばたにゲロを吐いてもちょっと迷惑なだけだが、暴走族は殲滅しなくてはならないというのは、本当は誤解でしかなかったのだ。どちらが多大な迷惑を掛けているのかは、きちんと比べられる機会さえも持たされなかったのである。
おわりに
「三丁目の夕日」という作品がある。高度成長期を下から支えた下町の例祭為企業と、そこで働く「金の卵」達を、ノスタルジックに描いた作品だ。幼くして故郷を捨てた集団就職者達が、使用人はほんの3,4人しかいない、東京下町の極めて小さな会社に就職し、家族同然の愛情たっぷりと注がれながら生きていくさまを描き、そこで起こる問題を、暖かさを基調として描いた作品だった。
それとは逆に、家族的な扱いとは、時間制限無しに、職業以外の「仕事」をも押しつけられてしまうことに他ならないことを訴えた作品も数多く存在した。そうした「家族愛」の押しつけに耐えながらも息抜きのために、自分の生きがいをはみ出したところに見出したのが、本書の若者達だったのだろう。平日はひたすら我慢を重ねて、働き続けた。そして土曜日を迎え、仕事が終わった夜からが自分たちの自由な時間であった。ここしかなかったのである。自分たちがかろうじて確保した、自分たちの時間は、他人の迷惑になるからやめようなどという選択肢は初めからないものだったのである。当然周囲から非難の目を向けられ、嫌がられ、煙たがられることは百も承知の上のことだったのだ。しかし、もしこの土曜日の夜が自分たちの自由にならず、爆発することができなくなったならば、平日に爆発させるしかなくなるのである。社会改革や変革をめざす運動と違って、暴走族は現在の社会を壊さないための運動だったとも言えるのである。
