【目次】はじめに
1.「体罰」厳罰化のきっかけ
(1) 事件の概要
(2) 反響と結果
2.体罰に関する法律
(1) 現在の法体系
(2) 法解釈の経緯
3.「体罰」と「愛の鞭」
(1) 「愛の鞭」が必要だとする意見
(2) 「愛の鞭」こそ「暴力」に他ならないという意見
4.学校教育の対象 児童・生徒
(1) 「学校教育」が扱う子ども達
(2) 子どもの反抗期の正体
(3) 学校の役割とめざすこと
5.教育の原初形態
6.軍隊における「体罰」
(1) 海軍の主な制裁
(2) 陸軍の主な制裁
7.体罰と部活動
はじめに
(1) 軍隊に広まった「体罰」が学校の部活動に引き継がれたとする説
(2) 本当の厳しさや暴力は「軍隊の遺産」なのだろうか
(3) 「しごき」や「体罰」は軍隊にもあったが実は遙か以前からあった
(4) 強豪校の「体罰」は「軍隊」由来のものか
(5) 軍隊に罪をなすりつけると免罪符が得られる
(6) 民度の低さを超越する方法
おわりに
はじめに
「体罰」に対する世間の風当たりが強いにも拘わらず、体罰が原因とされる服務規程違反が絶えない。「体罰」厳罰化のきっかけとなった、大阪での高校生の自殺した事件当時は、明らかに自殺の原因となった、体罰教師を擁護する部員やその保護者も少なくはなかったという。「体罰」は法律上禁止されている。つまりそれを犯せば犯罪となる。にもかかわらず、体罰を擁護する言動が根強く残っているのはなぜなのだろうか。
「体罰」は、相手が絶対に反抗したり、仕返しができないという関係の中で、一方的に振られる暴力であり、卑怯きわまりない行為である。それがどのように発生し、一部では郷愁を持って懐かしがられ、断片的に支持されることさえあるのだろうか。そして、その不当性が十分に周知され、「体罰」が根絶された世界というのはどんなものなのであろうか。
1.「体罰」厳罰化のきっかけ
(1) 事件の概要
桜宮高校バスケットボール部体罰自殺事件は、2012(平成24)年12月23日に、大阪府大阪市の大阪市立桜宮高等学校2年のバスケットボール部主将の男子生徒(当時17歳)が、顧問の体罰を苦に自殺した事件である。
男子バスケットボール部の顧問でJBA(日本バスケットボール協会)公認コーチ資格を持つ保健体育科教諭の男性(日本体育大学卒)は、チーム強化・プレー向上には、対抗試合の勝利へと繋がる有効手段として体罰を伴う指導が効果的という認識であった。
桜宮高校が正課として体育科およびスポーツ健康科学科を設置。運動部活動を奨励し、高い成果を目標に掲げる方針もあり、顧問の赴任当初から始めた学校教育法11条に則さない加害を伴う指導方法は、卒業生や保護者などから高評価を得ており、クラブ活動(部活動)指導上の体罰も是認・推奨していた、とされる。この顧問の手腕で、バスケ部は全国大会の常連チームへ成長、保護者らも熱心に応援し、市内でも有数の強豪チームに育った。
2012(平成24)年12月(自殺の発生4日前)、バスケ部主将の男子部員が指導方法に疑問と私見を書き連ねた文書を顧問に渡そうとするが、他部員から引き止められたため文書が顧問に渡ることは無かった。家族への謝罪と部活動継続が困難な旨をルーズリーフに纏めた遺書が同文書と共に葬儀後に自室で見つかった。
12月22日、同部顧問が当該男子部員に恒常的な怒号と暴行(を伴う指導)を与え続け、当該男子部員の顔面や頭部を数十回程度殴打した。この暴行傷害の現場は一般観覧者によって撮影され動画に収められた。同男子生徒は帰宅前に実母の気分を害さないよう血痕による汚れが無いか確認して帰宅。
翌日(12月23日)早朝、同男子生徒は自宅の自室で、桜宮高校指定のネクタイで首を吊り自殺。心肺停止状態で母親に発見、搬送されたが搬送先病院にて死亡が確認された。
2013(平成25)年1月5日、同部顧問の当該教諭は自殺生徒宅を訪問した後に電話連絡。桜宮高校で指導者として復帰し部活動を継続する旨について、遺族(自殺生徒の両親)から許諾・了承の言質を得ようとするが、顧問の自身の職権維持の確約を促し、さも優先させたいかのような自己保身とも取れる要望に、遺族は悪感情を抱き、同顧問を相手取って刑事告訴へと踏み切る。
同年1月8日、大阪市が桜宮高校の校内外での実態解明調査を実施。
同年1月15日、大阪市教育委員会が、桜宮高校の男子バスケットボール部の無期限活動停止及び、校長の更迭を決定。
同年1月21日、大阪市教育長を本部長とし20人で構成する「体罰・暴力行為等対策本部」を設置。
同日、大阪市教育委員会が、桜宮高校の体育科およびスポーツ健康科学科の入学者選抜(入学試験)中止を決定。2013年度の入試受付は普通科のみに限定された。この決定を受けて父兄や同校同科への入学希望者から驚きと動揺、在籍生徒などから不平不満の声が挙がり、同校で運動部キャプテンを務める在籍生徒らが同日夜に市による入試中止決定の撤廃を求める記者会見を開き、橋下徹大阪市長(当時)に対する反発や批判も出た。
翌日(1月22日)、大阪市教育長が桜宮高校を訪問し、教諭らへ経緯と今後の対応を申し渡し、生徒らから質問を受け付ける場を設けて聞き取り調査。この調査結果により、2つの部を除く全ての部活動で顧問による体罰と称する暴行や暴言が横行していた実態が判明した、と橋下市長が明らかにした。保護者の間では、同顧問を擁護し暴行を伴う指導も容認し、同顧問を“犯罪者扱い”するマスメディアに困惑する声もあったが、この擁護と復帰支援の要請について、橋下市長は「狂っている」と述べ拒絶した。
同年2月12日、顧問への寛大な処分を求める嘆願書を、保護者ら1100人からなる「有志」が大阪市教育委員会に提出。その後、顧問の教諭に懲戒免職処分の決定。この報に橋下市長は、「一線を超えた完全な暴力行為。処分内容は妥当だと思う」と述べた。
同年3月4日、元顧問が『ニュースウオッチ9』(NHK)に出演。
同年6月、日本バスケットボール協会理事会において、元顧問の公認コーチ資格を取り消す処分が下される。
同年7月4日、元顧問は暴行と傷害の罪で大阪地検に在宅起訴された。
同年9月26日、大阪地裁(小野寺健太裁判官)において、生徒の自殺に至った責任を元教諭は自ら認めたが、予見可能性については否定。懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を言い渡され、公判は即日結審した。
2014(平成26)年1月16日、大阪市教育委員会は自殺と体罰事案にかかる外部監察チームからの報告書を受領。
2016(平成28)年2月24日、東京地裁(岩井伸晃裁判長)は「体罰と自殺には因果関係が認められる」とし、体罰と自殺の因果関係を認め、大阪市に計約7,500万円の賠償を命じる判決。
2018(平成30)年2月16日、大阪地裁(長谷部幸弥裁判長)は元顧問に対して、延滞損害金を含む賠償金(約8720万円)の半額(約4360万円)を支払うよう判決。
この自殺・体罰事件を受け、大阪市は市内公立校部活動指針の策定や相談窓口などを設ける。
桜宮高校の後任校長が校長挨拶にて自殺生徒と遺族に対し悔やみを述べ、プレイヤーズファーストの精神に基づいたスポーツモデル校としての学校づくりに邁進すると表明。
指導者の指導対応等について(通知)公益財団法人日本体育協会 2013年1月21日バスケットボール指導者の指導対応について(通知)公益財団法人日本バスケットボール協会 2013年1月24日
ビル・カートライト(当時、大阪エヴェッサ ヘッドコーチ)を招いた同校在籍(当時)生徒らとの交流会を催す。2013年2月14日
大阪市教育委員会顧問・桜宮高等学校改革担当に柳本晶一(元バレーボール全日本女子チーム監督)を招聘 2013年2月18日
体罰等の相談・通報を受け付けます (※市内公立校向け)大阪市 2013年7月26日
当該元顧問の出身大学の日本体育大学が、過去に部活動関連で死亡した生徒の遺族らを招き、部活動における体罰指導問題に関する講義を行った。
「クリーンバスケット、クリーン・ザ・ゲーム~暴力暴言根絶~」日本バスケットボール協会発表 2019年3月11日
「大阪市部活動指針~プレイヤーズファースト~」 大阪市 2019年(令和元年)9月20日
過去に勝利至上主義を掲げて体罰と称する暴行指導が問題となった尼崎市立尼崎高等学校と”体罰根絶””選手第一主義””根性主義脱却”を目指して連携協定を締結。2020年12月22日。
などといったおもな事業が実施された。
(2) 反響と結果
2012年12月、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部顧問の教師から体罰を受けていた男子生徒が自殺した問題が発覚して以降、文部科学省は「体罰根絶」を掲げ、体罰の実態把握、体罰の発生防止に向かっている。
しかし、現実には、新聞紙上等では未だに学校現場での体罰は後を絶たない。どうもお役所仕事というのは、自分たちの保身のために発言しており、本当のところ、真剣な解決など望んではいないのではないかという感触がある。それこそ、根源的な改革などしてしまって失敗したら責任を取らされる。ある程度改革を進めている振りをしながら、総大きな変化をさせないようにして、大きな失敗には、絶対に至らないようにする、というのが最も大切なこととされているのではないだろうか。そのため、結果には、効果が繁栄されたようなされていないような、緩やかな変化しかもたらさない。
文部科学省による平成24度の「体罰の実態把握について(第2次報告)」によれば、全国の小学校から高等学校において、平成24度の1年間に6721件の体罰が報告され、体罰や暴力を受けた児童・生徒が約1万4千人という驚くべき数字が発表された。体罰の発生学枚数は、4152校で、学校全体の10%に及んでいる。 特に、高等学校では、23.7%と、4校中1校で体罰が発生していることになる。
体罰の発生状況としては、小学校においては、「授業中」の発生件数が一番多く922件(59.1%)であるのに対し、中学校、高等学校では、「部活動」中の発生件数が一番多く、中学校で1073件(38.3%)、高等学校で948件(41.7%)となっている。「体罰の態様」については、「素手で殴る」というものが4101件(61.0%)と圧倒的に多く、次いで、「蹴る」617件(9.2%)、「殴る及び蹴る等」410件(6.1%)、「棒などで殴る」353件 (5.3%)、「投げる・転倒させる」179件(2.7%)となっている。 被害状況をみてみると、「傷害なし」が 5605 件と全体の83%を占めている。もっとも、「骨折・捻挫」40件、「鼓膜損傷」65 件、「外傷」207件、 「打撲」478件、「鼻血」93 件、「髪を切られる」13件など、約1000人近くの子どもたちが「体罰」の被害に遭っていることになる。さらに、「傷害なし」という子どもたちの中には、体罰を契機に不登校になったり、精神的ストレスの症状を発生させるなど「傷害」の有無のみで子どもたちへの損害を測ることはできない現実がある。
さらに体罰を行った教職員について文部科学省「公立学校教職員の人事行政の状況調査」(平成24年度)によれば、体罰による懲戒処分を受けた教職員は、176 名(そのうち免職3名)であるが、訓告等を含めると処分を受けた教育職員の数は2253名に上る。平成23年度に訓告等を含めた懲戒処分などを受けた教育職員の数404名(懲戒処分126名)と比較すると、約17倍の大幅な「増加」を示している。もっともこれまでの調査が不十分だった可能性もあり、文科省は実態把握の強化と再発防止に取り組むよう求めている。懲戒処分などを受けた教育職員を都道府県別でみると、山形県のゼロから長崎県の432名と相当な地域格差がみられる。このような格差は、体罰に対する地域差を示すものなのか、調査方法による差だとすれば、体罰件数はさらに上昇する可能性を秘めている。いずれにせよ相当数の教職員が体罰を理由とした処分を受けているということである。
2.体罰に関する法令
(1) 現在の法体系
体罰を禁止する法律は、主に学校教育法と児童福祉法で規定されている。学校教育法では、学校における体罰を禁止しており、児童福祉法では、親権者による体罰を禁止している。また児童虐待防止法においても、児童への体罰は禁止されている。
① 学校教育法
学校教育法第十一条では、校長や教員は教育上必要があると認めるときは、懲戒を加えるこ とはできるものの、体罰を加えることはできないと定めている。.
② 児童福祉法
令和元年に改正された児童福祉法では、児童のしつけに際して、体罰を加えてはならないことが明記された。これは、2020年4月から施行された。.
③ 児童虐待防止法
児童虐待防止法においても、児童への体罰は禁止されており、児童相談所の体制強化なども進められている。
※ 体罰と懲戒の違い:
体罰は、児童生徒の心身に悪影響を与える行為で、身体に苦痛や不快感を与えるものと定義される。.
懲戒は、教育上必要がある場合に、一定の範囲で児童生徒に指導や制裁を加えるもので、体罰と区別される。
体罰には、物理力だけではなく、精神的苦痛も含むとされている。
(2) 法解釈の経緯
① 体罰をめぐる立法及び行政解釈の変遷
(ア) 従来の行政解釈
石堂典秀氏は「『体罰』をめぐる法的解釈の変遷とその時艱」によって、「体罰」の禁止を、「懲戒」との区別を中心に、法的に許される範囲がどのようなものであるかを、歴史的に辿って整理している。
体罰禁止を最初に規定したのは、 1879(明治12)年の教育令第 46 条であった。原案は 「凡学校ニ於テハ生徒ニ体罰ヲ加フルヘカラス」 とされていたが、元老院の議により、 体罰に「殴チ或ハ縛スルノ類」という注が付けられ、「凡学校ニ於テハ生徒ニ体罰 (殴チ或ハ縛スルノ類)ヲ加フルヘカラス」と規定されていた。 同条項は、 1885(明治18)年の改正で削除され、 第2次小学校令 (明治23年勅令第 215号) 63 条において「小学校長及教員ハ児童ニ体罰ヲ加フルコ卜ヲ得ス」 と規定され、 さらに、1900(明治33)年に公布された第3次小学校令 (明治33年勅令第344号)47条は、「小学校長及教員ハ教育上必要ト認メタル卜キハ児童ニ懲成ヲ加フルコ卜ヲ得但体罰ヲ加フルコ卜ヲ得ス」と規定し、その後の国民学校令 (昭和16 年勅令第148 号)20 条 「国民学校職員ハ教育上必要アリ卜認ムルトキハ児童ニ懲成ヲ加フルコ卜ヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ」でも同様の規定がみられ、 既に学校教育法11条の原型が確立されていたといえる。
その後、戦後において、「児童懲戒権の限界について」 (昭和23 年12月22日付け法務庁法務調査意見長官回答) 及び1949(昭和24)年8月2日法務庁発表の 「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得 (通達)」 により行政解釈が示された。
「児童懲戒権の限界について」 (以下「昭和23年回答」)は、体罰についての質問に以下のように回答している。学校教育法第11条にいう 「体罰」 とは、 懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する。 すなわち
一 (a) 身体に対する侵害を内容とする懲戒 なぐる・けるの類 がこれに該当することはいうまでもな いが、 さらに
(b) 被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。 たとえば端坐・直立等、特定 の姿勢を長時間にわたって保持させるというような懲戒は体罰の一種と解せられなければなら ない。
二 しかし、 特定の場合が右の(b)の意味の 「体罰」 に該当するかどうかは、機械的に判定することはできない。 たとえば、 同じ時間直立させるにしても、 教室内の場合と炎天下または寒風中の場合とでは被罰者の身体に対する影響が全くちがうからである。 それ故に、 当該児童の年齢・健康・場所的 および時間的環境等、 種々の条件を考え合わせて肉体的苦痛の有無を制定しなければならない。
三 放課後教室に残留させることは、 前記一の定義からいって、 通常 「体罰」には該当しない。 ただし 、用便のためにも室外に出ることを許さないとか、食事時間を過ぎて長く留めおくとかいうことがあ れば、 肉体的苦痛を生じさせるから、 体罰に該当するであろう。
四 右の、教室に残留させる行為は、肉体的苦痛を生じさせない場合であっても、刑法の監禁罪の構成要 件を充足するが、合理的な限度をこえない範囲内の行為ならば、正当な懲戒権の行使として、刑法第35 条により違法性が阻却され、犯罪は成立しない。合理的な限度をこえてこのような懲戒を行えば、監禁 罪の成立をまぬかれない。
つぎに、 然らば右の合理的な限度とは具体的にどの程度を意味するのか、という問題になると、あら かじめ一般的な標準を立てることは困難である。
個々の具体的な場合に、当該の非行の性質、非行者の性行および年齢、留め置いた時間の長さ等、一切の条件を綜合的に考察して、通常の理性をそなえた者が当該の行為をもって懲戒権の合理的な行使と判断するであろうか否かを標準として決定する外はない。
この「昭和23年回答」 によれば、 体罰には殴打型と (正座・直立を長時間保持させる) 拘束型があり、拘束型について全てが必ずしも違法というわけではなく、「児童の年齢・健康・場所的および時間的環境等、種々の条件を考え合わせて肉体的苦痛の有無」 を判断することになるとしている。ここで興味深いのは、 拘束型においてのみ 「肉体的苦痛の有無」 が判断基準とされていることである。 殴打型体罰については、「なぐる・ける」という外形的行為から明らかであるため、その程度や苦痛という点は考慮される必要はない。だが、裁判所においては殴打型にも拘束型の基準を適用するようになる。
その後、昭和24 年8月2日に法務庁「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得 (通達)」 (以下「昭和24年通達」) が発表された。
(a) 用便に行かせなかったり食事時間が過ぎても教室に留め置くことは肉体的苦痛を伴うから体罰とな り、 学校教育法に違反する。
(b) 遅刻した生徒を教室に入れず、 授業を受けさせないことは例え短時間でも義務教育では許されな い。
(c) 授業時間中怠けた、 騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。 教室内に立たせる ことは体罰にならない限り懲戒権内として認めてよい。
(d) 人の物を盗んだり、 こわしたりした場合など. こらしめる意味で、 体罰にならない程度に、 放課後 残しても差支えない。
(e) 盗みの場合などその生徒や証人を放課後訊問することはよいが自白や供述を強制してはならない。
(f) 遅刻や怠けたことによって掃除当番などの回数を多くするのは差支えないが、 不当な差別待遇や酷 使はいけない。
(g) 遅刻防止のための合同登校は構わないが軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。
「昭和24年通達」 においても、そのほとんどが拘束型に対する具体例が示されており、 殴打型体罰についての言及はみられない。
(イ) 新たな行政解釈の展開
平成18年6月5日に文部科学省初等中等教育局が 「児童生徒の規範意識の醸成に向けた生徒指導の充実について (通知)」 (以下「平成18年通知」) が出され、そこでは 「児童生徒の問題行動等の現状をみると、 暴力行為、 いじめ、 不登校等が相当の規模で推移するとともに、社会の耳目を集めるような重大な問題行動もあとを絶たない」として「生徒指導の一層の充実を図る」ために、「生徒指導上の対応に係る学校内のきまり及びこれに対する指導の基準をあらかじめ明確化」し、「学校内の決まり等を守れない児童生徒の問題行動や非行等に対しては、あらかじめ定められている指導基準に基づき、「してはいけない事はしてはいけない」と、「毅然とした粘り強い指導を行っていくこと」 が求められている。もっとも、同通知では、必ずしも殴打型を推奨するものではなく、「公立の義務教育諸学校では、児童生徒の学習権を保障するとともに、保護者の就学義務の関係から、停学や退学等の懲戒処分は認められていない。しかし、 学校における懲戒としては、注意、叱責、居残り、起立、宿題、清掃、文書指導、別室指導、訓告などがあるので(ただし、これらの懲戒を行うにあたっては、当該児童生徒の発達段階、健康状態、場所や時間的な環境などの諸条件を勘案の上、肉体的な苦痛の有無を判定し、体罰にならないよう気をつけなければならない」としていわゆる「事実上の懲戒」としての拘束型までを認めていた。
この「平成18年通知」の基礎となったのが、平成18年5月に出された国立教育政策研究所生徒指導研究センター「生徒指導体制の在り方についての調査研究-規範意識の醸成を目指して-」(以下、「平成 18 年報告書」)であった。 同報告書よれば、 「懲戒を実施する上での留意点」 として以下のことが挙げられていた。
(a) 教育的な観点から安易な判断のもとで懲戒が行われることがないよう、その必要性を慎重に検 討して行うこと。
(b) 適正な手続きを経て処分を決定すること。 (適正な手続きとは、 例えば、十分な事実関係の調査、 本人等からの事情聴取等弁明の機会の設定、 保護者を含めた必要な連絡や指導、 適切な処分方法等の通知、などが考えられる)。
(c) 体罰に該当するような懲戒は認められないこと。
体罰に該当するような懲戒とは、①殴る、蹴るなどの身体に対する侵害を内容とする懲戒、②特 定の姿勢を長時間にわたって保持させるなど肉体的な苦痛を与えるような懲戒、などが考えら れる)。
(d) 日常の叱責や注意の在り方に留意すること (主な留意点としては、 ①その場の環境や対象とな る児童生徒の発達段階や実態に応じて、 効果が変るので、 的確な判断が必要であること (機械的、 形式的な処置であってはならないこと)、 ②懲戒の理由が児童生徒等に理解されていること、 ③公平であること (不公平、 不当さがあるような処置であってはならないこと)、④感情的であっ たり、 他の子ども達への見せしめであるような処分ではないこと、 ⑤教師間で指導や処分に差や ブレが生じないようにすること、 ⑥処分中又は事後の教育的な指導を適切に行うこと、 などが考 えられる)。
しかし、その後、平成19年1月24日に教育再生会議の第1次報告において、教育再生のための取り 組みの一つとして、「暴力など反社会的行動を繰り返す子供に対する毅然たる指導、静かに学習で 昭和20年代の『体罰の範囲等について』など関連する通知等を、18年度中に見直し、周知徹底の 上、来年度新学期から各学校で取り組めるようにする」ことが求められた。
これを受け、文部科学省は、平成19年2月5日に「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について (通知)」(以下、「平成19年通知」)を出し、「校内暴力をはじめとした児童生徒の問題行動は、依然として 極めて深刻な状況」にあるとの認識の下、「問題行動への対応についてはまず第一に未然防止と早期発見・早期対応の取組が重要」であるとしつつ、「問題行動が実際に起こったときには、十分な教育的配慮のもと」「毅然とした指導」を求めるようになる。
そして、同通知の中で、「3懲戒・体罰について」 と題して、 従来の方向転換を示した。
(a) 校長及び教員は、 教育上必要があると認めるときは、 児童生徒に懲戒を加えることができ、 懲戒を通じて児童生徒の自己教育力や規範意識の育成を期待することができる。 しかし、一時の感情に支配されて、安易な判断のもとで懲戒が行われることがないように留意し、家庭との十分な連携を通じて、日頃から教員等、児童生徒、保護者間での信頼関係を築いておくことが大切である。
(b) 体罰がどのような行為なのか、児童生徒への懲戒がどの程度まで認められるかについては、機械 的に判定することが困難である。また、このことが、ややもすると教員等が自らの指導に自信を持 てない状況を生み、実際の指導において過度の萎縮を招いているとの指摘もなされている。ただし 教員等は、児童生徒への指導に当たり、いかなる場合においても、身体に対する侵害 (殴る、蹴る等 )、肉体的苦痛を与える懲戒 (正座・直立等特定の姿勢を長時間保持させる等)である体罰を行って はならない。体罰による指導により正常な倫理観を養うことはできず、むしろ児童生徒に力による 解決への志向を助長させ、いじめや暴力行為などの土壌を生む恐れがあるからである。
(c) 懲戒権の限界及び体罰の禁止については、これまで 「児童懲戒権の限界について」 (昭和23年 12月22日付け法務庁法務調査意見長官回答) 等が過去に示されており、 教育委員会や学校でも、 こ れらを参考として指導を行ってきた。しかし、児童生徒の問題行動は学校のみならず社会問題となっており、学校がこうした問題行動に適切に対応し、生徒指導の一層の充実を図ることができるよう、 文部科学省としては、懲戒及び体罰に関する裁判例の動向等も踏まえ、今般、「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」を取りまとめた。 懲戒・体罰に関する解釈・運用については、 今後、 この 「考え方」 によることとする。
そして、同通知に添付された「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」 では、「体罰の解釈」について以下のような記述がみられる。
(a) 児童生徒への指導に当たり、 学校教育法第11条ただし書にいう体罰は、いかなる場合においても行ってはならない。教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。
(b) (a)により、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とする懲戒 (殴る、 蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわ たって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。
(c) 個々の懲戒が体罰に当たるか否かは、 単に、 懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動に より判断されるのではなく、上記(a)の諸条件を客観的に考慮して判断されるべきであり、特に児 童生徒1人1人の状況に配慮を尽くした行為であったかどうか等の観点が重要である。
(d) 児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく、 裁判例においても、 「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない」としたもの (昭和56年4月1日東京高裁判決)、 「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」としたもの(昭和60年2月22日浦和地裁判決)などがある。
この「懲戒・体罰に関する考え方」をどのように理解すべきなのであろうか。 上記(a)では、児童生徒への指導に当たり、「学校教育法第11条ただし書にいう体罰は、いかなる場合においても行ってはならない」 とする。 しかし、その一方で、「教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある」として、体罰概念の相対化を示唆する。 さらに、(b)においてはこれまで 「昭和23年回答」で示されたように拘束型にのみ適用されてきた、「諸条件の考慮」といった要件を殴打型にも適用する点で、これまでの行政解釈を大きく転換したといえいる。これは、裁判所の判決の内容に影響を受けたとも言える。 さらに、(c)において「懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動」よりも「児童生徒一人一人の状況に配慮を尽くした」教師側の対応重視すべきとする新たな要件が加えられている。この「教師側の対応」 を判断要素に取り入れ、子どもの状況よりも重視するという視点は、これまでの判例においてもみられなかった新たな点であるといえる。この点は、後の「平成21年判決」 に影響を及ぼし、それ以降の判決にも影響を与えている。また、(d)では、体罰を容認するかのような判決の要旨を紹介し、 裁判所では一定の体罰を許容するかの印象を与えている。 この「平成19年通知」 については、「歯止めのない体罰事件の横行から体罰判例もふたたび厳格な体罰禁止」に固まってきている。このような時期に体罰判例の主要な流れから外れた体罰容認的判決例を教育現場への実力行使の解禁と受け止められかねない解釈の根拠」となり兼ねないと懸念が示されていた 。
しかし、その後、桜ノ宮高校の事件を契機に、文科省では、2013(平成25)年1月23日 「体罰禁止の徹底及び体罰に係る実態把握について(依頼)」(以下「平成25 年1月調査依頼」) と題する調査を国公私立の小学校、 中学校、高等学校 (通信制を除く)、 中等教育学校、 特別支援学校を対象に実施する。 そして、 この調査依頼を皮切りに、 2013(平成25)年3月13日「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)」(以下、「平成 25年3月通知」)、平成25年4月26日 「体罰に係る実態把握の結果 (第1次報告)について」、2013(平成25)年5月27日 「運動部活動の在り方に関する調査研究報告」 (以下、 「平成25年部活動調査報告」)、 平成25年8月9日には 「体罰に係る実態把握(第2次報告) の結果について」 (以下、 「平成 25年体罰調査」) 及び 「体罰根絶に向けた取組の徹底について(通知) 」(以下、「平成25年8月通知」)と矢継ぎ早に「通知」「調査結果」が出されていく。
「平成25年1月調査依頼」では、冒頭から「昨年末、部活動中の体罰が背景にあると考えられる高校生の自殺事案が発生するなど、 教職員による児童生徒への体罰の状況について、 文部科学省としては、大変深刻に受け止めております。体罰は、学校教育法で禁止されている、決して許されない行為です」として大変強い危機意識が窺われる。しかし、その一方では、「平成19年通知……においても示しているとおり」 として「平成19年通知」の考え方を維持する姿勢が示されていた。
その後、「平成25年3月通知」では、次のような表現に変わる。
懲戒、体罰に関する解釈・運用については、平成19年2月に、裁判例の動向等も踏まえ、『問題行動を起こす児童生徒に対する指導について』(18文科初第1019号文部科学省初等中等教育局長通知)別紙『学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方』を取りまとめましたが、懲戒と体罰の区別等についてより一層適切な理解促進を図るとともに、教育現場において、児童生徒理解に基づく指導が行われるよう、改めて本通知において考え方を示し、別紙において参考事例を示しました。 懲戒、体罰に関する解釈・運用については、今後、本通知によるものとします。
として、別途「新たな」考え方を提示することを仄めかしている。 そして、「平成25年3月通知」 では、 以下のように体罰の否定的側面を強調する。
体罰は、学校教育法第11条において禁止されており、校長及び教員は、児童生徒への指導に当たり、いかなる場合も体罰を行ってはならない。体罰は、違法行為であるのみならず、児童生徒の心身に深刻な悪影響を与え、教員等及び学校への信頼を失墜させる行為である。
体罰により正常な倫理観を養うことはできず、むしろ児童生徒に力による解決への志向を助長させ、 いじめや暴力行為などの連鎖を生む恐れがある。
もとより教員等は指導に当たり、児童生徒1人1人をよく理解し、適切な信頼関係を築くことが重要であり、このために日頃から自らの指導の在り方を見直し、指導力の向上に取り組むことが必要である。懲戒が必要と認める状況においても、決して体罰によることなく、児童生徒の規範意識や社会性の育成を図るよう、適切に懲戒を行い、粘り強く指導することが必要である。
懲戒の範囲についても「ここでいう懲戒とは、学校教育法施行規則に定める退学、停学、訓告のほか、 児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為として、注意、叱責、居残り、別室指導、起立、宿題、清掃、学校当番の割当て、 文書指導などがある」として「平成18 年通達」の考えが維持されている。
そして、「体罰の解釈」については、以下のように「平成19年通知」のものをほぼ踏襲しているが、上記体罰容認判決の部分が削除されてる。
(a) 教員等が児童生徒に対して行った懲戒行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、 心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、 個々の事案ごとに判断する必要がある。 この際、 単に、 懲戒行為をした教員等や、 懲戒行為を受け た児童生徒・保護者の主観のみにより判断するのではなく、諸条件を客観的に考慮して判断すべきで ある。
(b) (a)により、その懲戒の内容が身体的性質のもの、すなわち、身体に対する侵害を内容とするもの (殴 る、 蹴る等)、児童生徒に肉体的苦痛を与えるようなもの(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたっ て保持させる等)に当たると判断された場合は、 体罰に該当する。
「平成25年3月通知」に添付された 「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例」では、以下のように体罰の事例を示している。
○身体に対する侵害を内容とするもの
・体育の授業中、 危険な行為をした児童の背中を足で踏みつける。
・帰りの会で足をぶらぶらさせて座り、 前の席の児童に足を当てた児童を、突き飛ばして転倒させる。
・授業態度について指導したが反抗的な言動をした複数の生徒らの頬を平手打ちする。
・立ち歩きの多い生徒を叱ったが聞かず、 席につかないため、 頬をつねって席につかせる。
・生徒指導に応じず、下校しようとしている生徒の腕を引いたところ、生徒が腕を振り払ったため、当該 生徒の頭を平手で叩く。
・給食の時間、ふざけていた生徒に対し、口頭で注意したが聞かなかったため、持っていたボールペンを 投げつけ、生徒に当てる。
・部活動顧問の指示に従わず、ユニフォームの片づけが不十分であったため、当該生徒の頬を殴打する。
○被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの
・放課後に児童を教室に残留させ、児童がトイレに行きたいと訴えたが、一切、室外に出ることを許さな い。
・別室指導のため、給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない。
・宿題を忘れた児童に対して、教室の後方で正座で授業を受けるよう言い、児童が苦痛を訴えたが、その ままの姿勢を保持させた
その後、前述の「体罰の実態把握」調査結果を受けた形での「平成25年8月通知」では、「体罰の件数が 6700件を超え、これまで、体罰の実態把握や報告が不徹底だったのではないかと、重く受け止めています」と体罰の実態が非常に深刻な問題であることを初めて認識する。その上で、「これまでの取組を検証し、体罰を未然に防止する組織的な取組、徹底した実態把握、体罰が起きた場合の早期対応及び再発防止策など、体罰防止に関する取組の抜本的な強化を図る必要があ」るとした上で、「改めて体罰根絶へ向けた取組を点検し、更なる強化」を述べている。同通知は、内容的には「平成25年3月通知」を簡潔にまとめた形となっているが、「体罰根絶」という文言を初めて用いるなど、これまでとは、特に「平成19年通知」とは、明らかに異なる姿勢が伺える。「平成25年8月通知」では、下記のように、体罰を行った教員の処分規定も新たに盛り込まれている。
教育委員会は、体罰を行ったと判断された教員等については、客観的な事実関係に基づき、厳正な処分等を行うこと。特に、以下の場合は、より厳重な処分を行う必要があること。
(a) 教員等が児童生徒に傷害を負わせるような体罰を行った場合
(b) 教員等が児童生徒への体罰を常習的に行っていた場合
(c) 体罰を起こした教員等が体罰を行った事実を隠蔽した場合等
「平成25年8月通知」 では部活動指導における体罰の防止のための取組についても言及がなされ、 「平成25年5月27日に取りまとめられた「運動部活動の在り方に関する調査研究報告書」(以下「平成25 年部活動調査報告」)に掲げる「運動部活動での指導のガイドライン」の趣旨、内容を理解の上、運動部活動の指導者(顧問の教員、外部指導者)による体罰等の根絶及び適切かつ効果的な指導に向けた取組を実施すること」 としている。
この「平成25年部活動調査報告」では「体罰」に該当する事例を次のようなものを挙げている。
体罰等の許されない指導と考えられるものの例①殴る、蹴る等、②社会通念、医・科学に基づいた健康 管理、 安全確保の点から認め難い又は限度を超えたような肉体的、 精神的負荷を課す。
(例)
・長時間にわたっての無意味な正座・直立等特定の姿勢の保持や反復行為をさせる。
・熱中症の発症が予見され得る状況下で水を飲ませずに長時間ランニングをさせる。
・相手の生徒が受け身をできないように投げたり、 まいったと意思表示しているにも関わらず攻 撃を続ける。
・防具で守られていない身体の特定の部位を打突することを繰り返す。
③パワーハラスメントと判断される言葉や態度による脅し、 威圧・威嚇的言や行為、嫌がらせ等を行う。
④セクシャルハラスメントと判断される発言や行為を行う。
⑤身体や容姿に係ること、 人格否定的 (人格等を侮辱したり否定したりするような) な発言を行う。
⑥特定の生徒に対して独善的に執拗かつ過度に肉体的、 精神的負荷を与える。
同報告書では、 「運動部活動での指導において、学校教育法、運動部活動を巡る判例、社会通念等から、指導者による①から⑥のような発言や行為は体罰等として許されないものと考えられます」 というように、 発言も体罰となる点は特筆すべきであろう。
(2) 法令や通達等の変遷
さて、「体罰」の禁止が、時代とともに変化し、厳密になったり、「懲戒」として法律違反ではない部分が強調されたりしていることが見て取れた。ここで何が禁止され、法律違反とされ、何が懲戒として認められるのかを、さらに明瞭に整理することもできそうである。しかし、厳密に「体罰」の範囲を確定することにそれほど重大な意味があるだろうか。
同じ行為や言動、あるいはほとんど似たような言動や行為が、あるときにはぎりぎりセーフとされ、あるときには完全に明日と都判定される。それが世論や社会的に派生している事件、あるいは裁判の判例などに影響されながら、ある程度の範囲内で揺れ動いているということではないだろうか。当然何事に置いても柔軟な対応が必要なことは少なくない。
指導の行き過ぎとして「体罰」がやり玉に挙がることがある。逆に社会問題化した現象に、懲戒が有効に働かなければ、厳罰化が望まれる。そうした中から「これだけはいつでもどこでも禁止しよう」というものがある程度鮮明化してきてはいるが、逸れとても何時また浸食されかねないといった不安定な状況であることも、必ずしも否定しきれない状態と言えるのではないだろうか。たちまちのうちに世界中あちこちで右傾化政党の躍進が止められない。「体罰待望論」などが、今更あり得ないだろうなどと油断していると、いつの間にか、たちまちのうちに世にはびこるようになっていたなどということがないのか心配な状況は続いているのではなかろうか。
3.「体罰」と「愛の鞭」
「体罰」は、すべからく禁止されている。歴史的には、多少揺れ動くことがあった。「体罰」にならない程度の「制裁」が認められるじきがあったり、「愛の鞭」という言葉が生きている時期もあった。しかし、今や身体的な接触を伴うものは言うに及ばず、苦痛に感じる「我慢」を強いることも、「体罰」に含まれると解釈されるようになってきている。
「体罰」と「愛の鞭」は同じものなのか、別のものなのかについては、今でも意見が分かれることがある。
(1) 「愛の鞭」が「必要」だとする意見
「体罰」と「愛の鞭」とは別のものだと考える人々は、「愛の鞭」が「子供達を進歩させることを目的とした力の行使」であ流のに対して、「暴力」は「自分の鬱憤をはらすことを目的とする力の行使」であり、明白に違うものだという。確かに体罰が「暴力」である限り、決して認められるものではない。だが、子供を想い、子供の成長、そして進歩の為に、時に「愛の鞭」は欠かせないものであるとしか見えないというのである。哲学者のキエルケゴールは「子供が受けるべき最初の感謝すべき教訓、それは両親よりの平手打ちだ」と述べ、「子供には大人から叱られる権利がある」といわれるように、「愛の鞭」は子供に取っては受ける権利を持つものであるとも云われる。そうであるなら「愛の鞭」を与える側である親や教師には、子供に与える義務さえある都まで言われる。
歴史的に見ても、メソポタミアの昔から、手がつけられない子供というものはいた。そういう子供に対しては、口でだめなら肉体的苦痛で強制していくしかない。これは、古代から経験に裏付けられた実践的な知恵である。それでなくとも、学校で指導する機関の大部分は反抗期と重なっている。なかなか素直に従わず、常識や大人の言いつけを素直に受け入れない時期である。それは単に生意気だというだけではなく、人間が成長を遂げるのに不可欠な時期でもある。ここに成長する可能性が凝縮されているのである。そうだとすれば、大人に対して反抗することの正当性を認める一方で、時にはそれを強力な力を持ってセイすることも必要なのである。それを「愛の鞭」と呼ぶのであれば、それは大人が義務を果たすために必要不可欠なものと言える。それを認めずに、反抗期の子どもの言いなりになり、コントロールを失った結果の一つが「学級崩壊」なのではないだろうか。報道によると、現在、小学校の学校現場は2割のクラスが学級崩壊状態だという。先生の話を聞かない。勝手に教室を動き回る。給食時間ではパンや牛乳を投げあう。教室や廊下はゴミだらけ。全く授業にならず、教師は自信を喪い、多くの教師が辞め、そして鬱病になったりするという。ここに「愛の鞭」の必要性が示されているとは言えないだろうか。
ただし、「愛の鞭」を行使するにあたっては、経験者であることが重要であることが少なくない。力加減や、慣れした親しんだ者でない限り、やり過ぎによるけがなど思わぬ結果を招くことが多い。その意味でも「体罰」の全面禁止によって「愛のムチ」までも禁止する状態が続くと、「鞭」を使う経験者と共に受け手の経験者も育たなくなり、必要とされる「愛の鞭」の交際が出来なくなってしまう。
(2) 「愛の鞭」こそ「暴力」に他ならないという意見
それに対して、「愛の鞭」と、名前は美しく飾られたとしても、典型的なものは、詰まるところ「過酷なまでの訓練を強いて、たびたび鉄拳制裁を加える」ものにほかならず、最終的には暴力とは切り離せないものでしかない。言うなれば「愛の鞭」とは「愛の無知」に他ならないものだ、ということになる。
子育てをしていると、子どもが言うことを聞いてくれなくて、イライラすることもある。つい、叩いたり怒鳴ったりしたくなることもある。
一見、体罰や暴言には効果があるように見えるが、恐怖により子どもをコントロールしているだけで、なぜ叱られたのか子どもが理解できていないこともある。
最初は「愛の鞭」のつもりでも、いつの間にか「虐待」へとエスカレートしてしまうこともある。体罰や暴言による「愛の鞭」は捨ててしまおう。そして、子どもの気持ちに寄り添いながら、みんなで前向きに育んでいこう。
愛の鞭(ムチ)ゼロ作戦の詳細は、下記の添付資料をご覧ください。
★「愛の鞭(ムチ)ゼロ作戦」5つのポイント
(ア)「子育てに体罰や暴言を使わない」まず親が叩いたり怒鳴ったりしないと決めよう。
(イ)「子どもが親に恐怖を持つとSOSを伝えられない」体罰や暴力によって追い込まれる子どもの気持 ちを知ろう。
(ウ)「爆発寸前のイライラをクールダウン」体罰や暴力を使わないために、イライラの爆発を防ごう。
(エ)「親自身がSOSを出そう」親だって人間。大変なときには親自身が助けを求めよう。
(オ)「子どもの気持ちと行動を分けて考え、育ちを応援」子どもとの向き合い方のポイントを知ろう。
★体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします。
親は「愛の鞭」のつもりだったとしても、子どもには目に見えない大きなダメージを与えているかもしれない。
★体罰は百害あって一利なし。
親による体罰を受けた子どもは、「望ましくない影響」が大きいということが報告されている。特に、脳画像の画像研究によって、子ども時代に辛い経験をした人は、脳にさまざまな変化を生じていると報告されている。親は「愛の鞭」のつもりであっても、子どもには目に見えない大きなダメージを与えている可能性が高いと云われている。特に、厳しい「体罰」のによって前頭前野社会生活に極めて重要な脳の部位)の容積が、19.1%減少することや、言葉の暴力によって、聴覚野(声や音を知覚する脳の部位)が変形することなどが実証されている。
こんな訳で、「体罰」はもちろん、「愛の鞭」もまた、絶対に行使すべきではないとされている。
(3) 二者択一は可能か
いったいどちらが正しいのであろうか。そもそも答えは誰が出すものなのであろうか。どう考えても、どちらか一方のみを正しいと選択するのは難しいように思われる。どうしてそんな迷いが生じるのであろうか。結論から言えば、どちらの言い分にも一理あるように思われためではないだろうか。それは、両者ともに、いつ、いかなる場所で、誰が誰に対して行う場合にもどちらかが正しく、他方が間違っているとは言えないのではないだろうか。
はたしてどちらも正解ではないなどと云うことはありうるのだろうか。結論から言えば、あり得るのではないかと思われる。人の心は移ろいやすいものである。いついかなる時にも、貫かれて、永久に不変な心などあり得ないのではないだろうか。そうした人の心が織りなすこの世の出来事に、いついかなる時にも正しいことなどあり得ないというのが正解かもしれない。
お釈迦様や孔子は、後日で死が見聞きしたことを書き残した書物によると、矛盾した正反対の教えを残していることがあるようである。相手によって教え方はもちろん、時には正反対とも思える教えを残している。絶対普遍の真実が揺るぎなくあって、それを知り得たものとして弟子に特のではなく、その弟子にとって有益な教え方をしていると言うことではないのか。
例えば、先哲とされる釈迦や孔子には、一件矛盾する教えが残されている。釈迦や孔子は、自信がしたためた書物はないとされており、残された著作は、後の時代に弟子達が記憶をたどって記したものと言われている。そのために間違いを犯したと云うことではなさそうである。実際に教えの内容そのものが、ダブルスタンダードではないが、そのまま並べて比較すると、矛盾しているように見えるのである。そもそも釈迦は、徹底した修業の果てに、苦行を重ねすぎることが悟りを開くのではないということを悟ったという。苦行が行きすぎると、悟りを開くどころか、自分の体が持たずに死滅してしまうと悟ったのである。つまり、とことん苦行を重ねるのことが修業の極限と思われがちだが、実は極端に走ることが誤りだと悟ったのである。つまり、過度な苦行も過度な楽も避け、バランスの取れた生き方を実践することで、真の悟りや解脱に至る道であると説いている。これは、日常生活において、物事を一方的に偏らず、中庸を保つことが重要なのである。両極端を避けたところに正しい道が開けているとするのである。この正しい道のことを「中道」と呼び、過度な苦行や過度な享楽を避け、無理なく、適度な範囲でバランスを取ることで開ける道だとされるのである。
釈迦自身は、地獄があるかどうかについては明言しなかったといわれている。しかし、母親が地獄で責め苦に遭っていることを心配していた弟子の目蓮に対しては、たくさんの僧侶に施しのチャンスを与えることによって、実母に対する心配を取り除いている。それが先祖を供養するお盆の行事の始まりとなったとも云われている。しかしマールンクヤプトラという弟子が釈尊に対して、「世界は未来永劫に存在するのでしょうか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」などの疑問をなげかけました。この弟子は向学心に富み、難でも疑問に思ったことは次々に質問せずにはいられなかったという。そして、終いにはこれらの問いに釈迦が答えてくれないならば、自分は還俗すると言いだした。
これに対して、釈尊は次のようにお答えになったという。「あなたの疑問に対する答えを求めるのであれば、あなたはその答えを得る前に命が尽きてしまうでしょう。たとえば、ある人が毒矢で射られたので、みんなが心配して急いで医者を呼んできて、医者がまず矢を抜こうとしたら、その男が叫んだ。『この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい』というのならば、その男の命はなくなってしまうでしょう。あなたの問いはそれと同じなのです。もし世界は永遠に存在するとかしないとか答えることができる人がいたとしても、その人にも生老病死の苦しみがあり、さまざまな憂いや悩みがあるのです。あなたの問いは、人間の本当の苦しみや悩みとは関係のないことです。わたしは説くべきことのみを説きます」地獄のあるなしなどは、誰にも答えようのない問いである。誰にも答えを出せない問いにこだわり続けるよりは、先に考えるべき問いがあるはずだというのだった。弟子によって、地獄のあるなしについての答えが食い違っていると言ってもいいような態度である。
孔子は、弟子の個性に合わせて教えを説いたために、その教えの内容が矛盾しているように見えることがあるという。一番有名なのはこの条だろう。
子路問聞斯行諸子曰有父兄在如之何其聞斯行之
冉有問聞斯行諸子曰聞斯行之
公西華曰由也問聞斯行諸子曰有父兄在
求也問聞斯行諸子曰聞斯行之
赤也惑敢問子曰求也退故進之由也兼人故退之
《現代語訳》
子路が「聞いたことはすぐ行なう」ことを質問した。
孔子は「父兄がいるというのに、なんで聞いたことをすぐ行なっていいものか。(父兄の意向をうかがうべきだ)」と答えた。
冉有が「聞いたことはすぐ行なう」ことを質問した。
孔子は「聞いたことはすぐ行なえ」と答えた。
公西華が「子路には父兄がいるからといい、冉有にはすぐ行なえという。いったいどういうことですか」
と聞くと、「冉有は消極的なところがあるから励ました。子路は積極的すぎるから抑えたのだ」と答えた。
他にも、顔淵第十二を中心として何人かの弟子が「仁」について質問したり、弟子や政治家のえらい人が「政」について質問しているが、それに対する孔子の答えの違いを比較してみるのもいいだろう。
4.学校教育の対象児童・生徒
(1) 「学校教育」が扱う子供達
日本の学校教育は、6歳から15歳までの9年間の義務教育を中心として、その前後3年程度が国民の大多数が経験する期間となっている。保育園や幼稚園と高等学校だが、さらにその期間は延長される傾向にある。この期間は、ほぼ反抗期やギャングエイジといわれる時期と重なる。いわゆる「大人になる準備期間」であり、それだけに成長する時期であると同時に、素直には従わない時期でもある。「教育」によって矯正されずに抵抗が強いほど確固たる成長が望めるのだが、もちろん一筋縄ではいかないことは言うまでもない。
① 反抗期とは
反抗期とは、子どもが親や周囲の大人に対して反発する時期である。それは、おもに第一次反 抗期(1〜3歳頃)、中間反抗期(5〜10歳頃)、第二次反抗期(11〜17歳頃)の3つに分けら れることが多い。反抗期を第一反抗期と第二反抗期の二期とし、中間の反抗期はギャングエイジ と分ける場合もある。これらの時期は、子どもが自立に向けて成長していく過程であり、自我を 確立するための重要な時期である。それぞれの時期の特徴は次のようなものといえる。
(ア) 第一次反抗期
時期:1歳半〜3歳頃、保育園に就学している時期である。
特徴:「イヤイヤ」と駄々をこねるのでイヤイヤ期とも呼ばれる。自己主張が強く、自分の意思を押し通そうとする。子どもの自己表現手段のひとつで、子ども毎の個人差はあるが歩行開始時期から2歳頃の幼児期に出現する反抗期である。子どもが自分で「甘え」が許されると判断した特定の大人に対し反抗することが多い。
親に依存していたことが自身で行えるようになる時期に、自我の芽生えることにより「自分でやる」と主張する行動が生じる。発達の程度により様々なイヤイヤがあり、大人の見解とは逆の主張が行われることもある。なお、第一反抗期の始まる期間の定義は研究者により異なり、2歳よりもイヤイヤ期が遅い子供は先天的にコミュニケーション能力と社会性が高く、逆に自閉症や分裂症では極端に早いイヤイヤ期が見られるといわれている。
(イ) 中間反抗期(ほぼギャングエイジと重なる)
時期:5歳〜10歳頃、小学校の就学年齢と一致する。
特徴:周囲の環境の変化(小学校入学など)に伴い、自立心が育ち、保護者との関係性にも変 化が生じる。もちろんこの間の5~6年間の全期間にわたって、誰もが反抗期であるとは いえず、個人差も大きい。また同じ個人の中でも、時期によって藩校の強弱も一様でない ことはいうまでもない。
(ウ) 第二次反抗期
時期:11歳〜17歳頃にわたる時期で、別名「思春期」とも呼ばれる。小学校の高学年から、中 学生を丸ごと含んで、高等学校の前半の期間に及んでいる。文部科学省では精神的な自 立の手がかりを得るとされる中学2年生の頃と定義している。
特徴:思春期では急激な体の成長や変化に心の成長が付いていくのが難しいとされ、先輩後輩 といった上下関係など学校での生活環境の変化などからも反逆心が芽生え、不安やストレ ス、不満、矛盾、自己主張などといったやり場のない思いから反抗期が生じる。精神的な 自立を成し遂げるために起こり、親からの依存を減らそうとする。自己の価値観を確立す るために自分なりの理屈を練り上げ、賛同者を得ることによって自分なりの価値観を補強 し、自信を持とうとする。
なお、中には反抗期がなかったり、表に見せない子供もいる。反抗期はマイナスイメージが多く、ないことはいいともされることもある。しかし、反抗期は、子どもが自立を目指す中で、矛盾や葛藤を感じる時期である。アイデンティティ確立のためには欠かせないともされ、思春期に反抗期が全くないと一人の人間として自立できないということも懸念されている。
そこでこの時期に「反抗」する理由を考え、そこからどのように対処するのが善いかを導き出すことが出来る。
この時期の子どもに対する親や教師といった身近な大人達は、次のようなことに注意をしたい。
子どもの自立を応援し、信頼する態度を心がける。そのためには、まず子どもの気持ちを理解し、共感する姿勢を持つ。そのうえで子どもとのコミュニケーションを大切にし、努めて話を聞いてあげるようにする。さらに、子どもがストレスを解消できる場や方法を見つけてあげる。子どもの「反抗」に正面から取り上げるのではなく、親自身が心に余裕を持ち、子どもとの関係を良好に保つことを優先するようにする。
反抗期は、子どもにとって必要な成長の過程であり、あくまでも子どもを理解し、サポートすることが大切である。そうした反抗期を乗り越えることで、子どもは自己の価値観を確立し、一人前の人間として成長していくことができるようになるということを忘れないようにしたい。それまでの子ども扱い、保護の対象とした扱いをやめ、子どもを一人前扱いするようにしたい。
② ギャングエイジとは
ギャングエイジは、9歳ごろから見られるようになる。「ギャング」と名付けられ、反抗的な態度を取るために「悪党」の意味に解されることがあるが、もともとはそうした意味ではない。これ以前の就学前から小学校低学年までの友人関係は、不安定で変化しやすく、男女が一緒になって遊ぶことも多い。しかし、小学校中学年ごろからは同性で仲の良い4~5人からなる閉鎖的な仲間集団(ギャング集団)を形成して遊ぶようになる。仲間内にリーダーを置き、集団独自のルールやギャグ、秘密基地などを作ったりすることやあだ名で呼び合ったりすること、共通の秘密を保持することによって仲間意識を持ち、外部に対して排他的で閉鎖的なギャンググループと呼ばれる集団を形成する。男子児童の方がよりに顕著に見られる傾向が強い。また、この時期には保護者との約束よりも仲間との約束を重視するようになる。この時期に所属集団から受ける承認・拒否などが子どもの人格形成、問題行動に影響を及ぼす。
ギャングエイジのおもな特徴として、次の4つが上げられる。
(ア) 仲間意識の向上
友達との関係を重視し、集団に属することで安心感や自己肯定感を得る。その再友達同士での 意見や趣味趣向と対立しがちな大人に反発する傾向が見られる。
(イ) 集団行動の重視
仲間と一緒に行動し、自分たちなりのルールや価値観を共有する。自分たちなりの価値が大人 の教えとは対立するものとなりがちである。多くの場合、大人に十分な説得力を与えることが出 来ずに、大人の意見を門前払い、問答無用として、強く拒絶し、自分たち内部での満足感を得る ことになりがちである。
(ウ) 大人への反抗
①②の理由により、親や先生の言うことを聞かなくなる、言葉遣いが悪くなるなど、反抗的な 態度を取ることが多くなる。
(エ) 自己主張の強化
自分の意見を主張したり、リーダーシップを発揮しようとする。自分なりの理屈と正当性を持 つが、多くの場合狭い見識でできあがったことであり、十分な説得力には欠ける。そのことをあ る程度は自覚し、理屈や説得力では大人にかなわないため、反抗的な態度を取り、聞く耳を立て ないことによって、自分の意見を押し通そうとしがちである。
(オ) 集団への依存
大人の意見と食い違い、自分なりに自信を持ちながらも、どこか独りよがりでしかないという 不安も抱えていることが多い。そのため同調できる仲間との関係を大切にし、集団に属すること で自己を確立し、不安を解消しようとしている。
こうしたギャングエイジの時期に起こりがちな傾向として、次の点には特に注意を要する。
(ア) いじめや仲間はずれ
友達同士で集団に属することで安心感を得ようとする。しかしそこに未熟さや十分な思慮のも とに組み立てられたとは言いがたい行動様式が生まれるため、そこでの食い違いや誤解からいじ めや仲間はずれ、裏切りなどのトラブルが発生する可能性がある。
(イ) 反抗的な行動
大人に素直に従うばかりではなく、自己主張をし始める時期であるため、親や先生への反抗的 な態度が生まれやすくなる。そうした犯行の姿が、幼稚さを抜け出した証拠とも感じられ自己満 足に浸りがちになる。その結果として大人の言動を拒絶し、親子関係や師弟関係を悪化させる可 能性がある。
(ウ) 集団への過度な依存
大人と異なった考えこそが自分なりの正しさだと信じることにより、表面的には同調できてい る仲間との関係を重視しすぎる傾向が生まれる。その結果、いつの間にか自己を失ってしまう可 能性がある。本末転倒な結果だが、本人はそれと気づかないでいることが多い。
そこでギャングエイジに対する教師や保護者など身近な大人のの関わり方としては、次のような配慮が必要とされる。
(ア) 子どもの意見を尊重する:
子どもの意見を尊重し、自己肯定感を高めるようにします。
(イ) 冷静に対応する:
反抗的な態度や言葉遣いに対して、感情的にならず冷静に対応します。
(ウ) トラブル解決をサポートする
いじめや仲間はずれなどのトラブルが発生した場合は、子どもと協力して解決策を見つける。
(エ) 子どもとコミュニケーションをとる
ギャングエイジの子どもは、大人の言葉を聞かない傾向があるが、しっかりとコミュニケーシ ョンをとることが大切である。
高学年になると趣味の多様化や性別などにより、集団は小さくなっていくとされる。それと同時に、言動がより純化され、排他性が強まり、教師への反抗も生じてくる。なお、高学年の時点では個人差が大きく、幼い集団はギャングエイジを続ける傾向がある。
中学生になれば、主な関心の対象は内面の世界に移行し始め、ギャングエイジの特性は徐々に弱くなっていき、やがて終わる。集団での反抗、自立経験をもとに、個人の反抗、個人の自立を始める。しかし不良少年集団は、遅れて生じはじめたギャングエイジとも言える。
ギャングエイジを経ると、友人関係はチャムグループ、ピアグループといった形で形成されるようになり、同性集団、同性個人、異性集団、異性個人という方向で変質する。
今日においては、ビデオゲームの普及や学習塾や習い事、防犯の観点から子どもが放課後に自由に遊ぶ時間・空間の割合が減少し、喪失傾向にある。また、ギャングエイジを経験しないまま中学生となり、チャムグループが生まれると、行動を通じた集団への一体感を経験がないことが災いし、いじめや排斥、嫌がらせなどによって一体感を得る傾向にある。
この時期を「ギャング」と呼ぶのは、「ギャング」が、班や隊、仲間を意味する語句であるところから来ている。古来、出発(to go)や旅行(journey)を示す言葉であり、そこから港湾労働者のチームを示す言葉となった。日本でも心理学以外ではこの意味で使用されている。例えば、自動車輸送船への自動車を積み込みを専門に行う作業において、そのドライバーや作業員はギャングという単位で呼ばれている。したがって、ギャングエイジ(gang age)を直訳・意訳すれば、「仲間時代」あるいは「大人からの旅立ち時代」となる。かつては「徒党時代」と訳されていたが、現在では一般に徒党という言葉自体が使われなくなっている。
本来はマフィアやストリートギャングなど犯罪者集団を指す単語ではないものの、仲間(gang)を悪者(gangster)と混同する場合がある。この混同により、ギャングエイジを悪い行動と捉えたり、青年期の非行グループに見られる排他的集団と誤解される場合もある。
(2) 子供の反抗期の正体
子供は無垢で無邪気で、天使のように罪のない存在だろうか。大人がそう思いたいのはよくわかる。是非とも子供はそうであって欲しいと願うものである。しかし、そんなことが幻想に過ぎないことは、微かとは言え思い出すことができる、自分の子供時代が証明している。欲張りで、嘘つきでスケベであったことに思い当たる人は少なくなうはずだ。少なくとも、駄目な大人に向かって「あいつはいつまで経っても子供だ」という時の「子供」に、「天使のような無垢さ」の意味で使っていると思う人はまずいないに違いない。
欲望があり、虚栄心があり、嫉妬や自己顕示欲があり、嘘をつくなど、さまざまな邪鬼が渦巻いていて、無邪気などという状態とはかけ離れているのが子供の実態である。これは、あってはならない不正などをまくし立てるのではなく、ありのままの事実である。天使などとは似ても似つかない、悪魔のような自己中心的な存在が、子供の実態なのである。
人の子供は、退治として、母親の胎内で10ヶ月以上も過ごす。そこは至れり尽くせりの、快適きわまりない環境であり、飲食から排泄まで、必要なことは母親に任せっきりで、安穏と過ごせる場所であった。出産を迎えると産声を上げる。大きな鳴き声を、赤ん坊の元気さの反映と喜ぶ向きもある。しかし、泣く声はあくまでも泣き声である。言わば不快感に直面した際の悲鳴である。つまり、安住の地で快適この上なかった母の胎内から追い出され、外界という厳しい世界に投げ出された不快感と、今後予想される困難の予感とがない交ぜになった、全身での歎きなのである。
予想通り産み落とされた赤ん坊は、他の動物に比べてはるかに長い被保護期間を過ごさなくてはならない。何もできないか弱い存在だからこそ可塑性に富み、大きな可能性を占めているとも言える。しかし、遠い将来は同あれ、実際の乳幼児は、大人が世話してくれなければ、それこそ一瞬たりとも正を維持することができない存在なのである。
つまり子供は、放置されて正が脅かされてしまわないように、絶えず大人の歓心を買わねばならない運命にあるということだ。生まれたばかりでは、自立して衣食住を我が物にすることなど到底不可能なのである。できるのはせいぜい眠ることだけである。飢えや、暑さ寒さの不快感からでさえも、逃れるためには、親を含めた周囲の人々が、自分に興味を持ち、世話をする気になるように仕向ける必要があるのだ。それに失敗すれば生存が危ぶまれるという、まさに命がけの所業なのである。しかも、この生物として非常に不安定な状態が、他の動物に比べて、はるかに長い期間続くのである。言葉もしゃべれない時期には、ただひたすら泣くことによって、大人の注意関心を集めるしかないのである。まさに大人におもねるのである。それこそが、先に述べた子供の邪気に連なるのである。空腹、大小便の不快感、寒暖による不快など、すべての要求を泣くことによって満たし、自分こそが最も良い環境と満足できる待遇を得られるように努力を重ねた結果身につくのが、先に挙げた数々の邪鬼に他ならない。
こうして子供は悪魔のように邪鬼に満ちた存在になる。この悪魔のような子供に、最も強く反発するのが子供自身である。子供は常に子供扱いされることを嫌う。子供は時々刻々、自分が子供であることを脱しようとしてうごめいているのである。つまり、未熟で、大人におもねることによってしか生存さえも危うい自分の利己心や邪鬼を、一刻も早く乗り越えて、一人前の大人になろうとするのが子供なのである。そのため、自分を子供扱いして、保護しようとする大人の言動には、敏感に反応するのである。それが反抗期の真実である。「かつてはあれをあげたら喜んでいた」「以前はこう言われて喜んでいた」などと子供扱いしようと手を差し伸べてくる大人こそ、反抗の標的である。たちまちのうちに、言動も何もかもが変わってしまうように見えるのは、いち早く大人になろうとする子供の背伸びである。それこそが「反抗期」なのである。見かけ上は、周囲の大人達に向けて反発しているようだが、その実大人に淤母寝てしまう自分を前進で否定しようというのが反抗期なのである。実は、子供、ないしは子供である自分自身に対する反発が「反抗期」の正体なのである。
(3) 学校の役割とめざすこと
学校が教育の対象とするのは、ほぼこの時期と一致する。即ち、反抗的な態度を取り、なかなか素直には従わない時期の子供が相手となる。中学校の三者面談でも、母親達が、「先生はたいしたものだ。親は一人か二人の自分の娘を相手にするだけでも大変なのに、30人も40人も相手にするんだから」と、よくいわれたものだった。時には気心の知れた生徒には「そんなことないよな。お前は先生のこと嫌いだろ」などと混ぜ返すこともあった。そんなとき母親が慌てて、「そんなことありませんよ。毎日先生の言ったことややったことを報告してきてますよ。うちの子は、そんなに先生のこと嫌いじゃないですよ」などといってきた。すかさず生徒が「お母ちゃん、それフォローになってないから」と冷静に反応していることもあった。
それはともかく、純真な目を輝かせて、素直に大人に言われた通りにするといった生徒を相手にするわけではない。それこそ好きあれば揚げ足を取ろうとねらっているのではないか、見えないところで舌を出しながら表面的には従うふりをしているのではないかなどと勘ぐりたくなることも屡々だというのが実際のところだ。
そもそも子供の成長期に当たるのであるから、脱皮し、今までとは違った存在になろうともがいている最中だと言える。成長するためには、無理をして背伸びをし、今までと違った価値観を身につけなくてはならない。生まれ変わるほどの困難を乗り越えなくてはならないのだ。風船などは順調に大きく膨らむ方だろうが、それでも無理して膨張させるには強力な力で空気を吹き込む必要がある。見えない脱皮を繰り返すことが成長であるなら、それこそ死の危険を乗り越えながら、新しい自分を獲得していくことになる。次に述べるように「一度気絶して、過去の自分が死に、新たな自分として生まれ変わる」という、教育の原初形態は、実はそのまま現代でも繰り返されているというべきだろう。新たな自分を獲得するというまさに「産みの苦しみ」をする子供に寄り添うという覚悟がないままに教育に携わろうとすれば、うまくいくはずがなくて当たり前である。
学校とはそうした存在である。だとすれば、子供の成長を促し、手助けするために、徹底して寄り添うことを基本としつつも、いびつな形に膨らまないように方を嵌め、膨らみ方が足りなければ強烈な力で後押しするような作業を、子供の様子を見ながら加減し続け、破裂して台無しにするなどということがないように、絶対に失敗しないように寄り添う必要があるのだ。そこでは、ある程度一定の到達目標を掲げる必要はあるにしても、個々の子供の成長具合や能力の特性に応じた課題を引き寄せることがより重大な使命とされる。自由奔放で喜びに満ちた世界が、同時に有無を言わせぬ強制力と両立している矛盾を止揚した世界を出現させなくてはならないところが学校という場所であるに違いない。その実現に苦しんだ結果が、「体罰」を、問答無用で完全に排除できずに、「懲戒」などという苦し紛れの方便を生かさざるを得なかった理由だろう。
5.教育の原初形態
遙か昔、人間が猿からあまり進化していないかもしれない時代のことである。人間は弱い存在で、一人では生きられないことを悟っており、群れをなして生活していた。この村が社会に発展していくのである。群れが社会に発展していくためには、生まれて自然に身につく能力とは違った力を身につけなくてはならなかった。群れが生きる自然の中で培ってきた知恵や伝統を受け継いでいかなくてはならない。いわゆる文化の継承である。時代と共にそれは複雑多岐になっていくのだが、最も初期には、単純な「勇気と忍耐力」程度のものであったと想像できる。具体的には、今で言うバンジージャンプのようなものである。一定以上の年齢か体の大きさを持った時点で、大人として扱われるようになるチャンスが与えられるのである。イニシエーションと呼ばれ、俺で扶養されるものではなくなるのである。これを通過できないと、いつまでも子ども扱いされ、大人子どもは、多分危機の際に最初に見捨てられる存在になってしまうのである。
一本の紐を身につけて、高い場所から崖下へ飛び降りるのである。今とは違って、弾力のある綱ではなく、津太をより合わせたような者の体に巻き付けて飛び降りる。相当なショックに違いない。ショックで時には死んでしまう者もでたかもしれない。そうでなくても、大抵は痛みで失神したことだろう。それを一度死んで蘇ったと考えた。つまり、子どもの自分が死んで、大人として蘇ったと考えたのである。
やがて、大人になるための試練は、一瞬の苦痛を耐え抜くのでは済まされず、ある程度の期間を掛けて合宿のような共同生活が課せられることになっていく。これが「学校」の始まりと言われている。この「合宿期間」に身につけるべき事柄が充実し、複雑化していくことになる。まさに「学校」であろう。
つまり、学校とそこで行われることは、乗り越えるべき「苦難」とされていたということである。その「苦難」を乗り越えることは矯正されたわけではなく、むしろ挑戦しようという自由意思が基本とされたことだと想像できる。むしろ大人が矯正するよりも、仲間内での「後れを取るまい」という競争心や圧力の方が強かったことは想像に難くない。ただ大人の側もただ傍観しているだけではなかっただろう。それは時代が進むにつれて、「大人」になるために必用不可欠とされるものが増え、それを身につけさせるために、強制力は強まっていく傾向にあったものと思われる。ある課題をクリアーするためには、先にこれができるようになることが必須とされるようなことは次第に増えていったに違いない。そこには、やり始めたのは本人の意思であっても、途中でやめることが危険であるなどの理由で挑戦を中断させるわけにはいかないために生まれてきた強制力もあったに違いない。「希望」と「自由」と「強制力」との合力が、微妙なバランスを保っているところに、かろうじて学校は成り立っていたとみるべきではないだろうか。そのバランスを失ったところに「体罰」問題が浮上しているのではないだろうか。
6.軍隊における「体罰」
「体罰」といえば軍隊と切っても切り離せない関係にある。軍隊は、なぜ軍隊では「体罰」が行われたのであろうか。そして「体罰」が日常化したのはなぜだろうか。そこにどんな変化があったのだろうか。
軍隊とは、複数の人数を組織してで敵と戦う集団である。文字通り「命がけ」の存在に他ならない。統制の取れた行動を見事に成し遂げなければ、まさに命が失われるのである。
体罰はいわゆる「体で覚えさせる」行為であり、どちらかと言えば教育と言うよりは動物の調教に近い。戦場では一々言って聞かせることも議論することもできないので、とりあえず体で覚えさせることによって動ける兵士を作っておく必要がある。立ち止まって考えていたのではやられてしまうからだ。繰り返し訓練することで指揮官の命令にもすぐに反応できるようになり、こうして一人の兵士が出来上がるわけである。
下された命令が、出来るだけ速やかに、正確に伝わり、実行に移されなくては命取りなのである。常に命がけだが、特にいざという時に絶対にうまく行くようにするには、繰り返し練習を欠かさないことが大切なことは言うまでもない。理由の如何にかかわらず、失敗も停滞も誤報も、絶対に許されないのである。命令が円滑に伝達されるためには、日常的に「命令には絶対服従」をする習慣を徹底する必要がある。その結果、たとえ些細なものであっても命令不服従に対しては厳罰が下されるようになっていった。それが突き詰められると逆転現象が起きてくる。つまり、命令違反に対して厳しい罰が下されるのではなく、何ら罰が必要とはされないはずの場面でも罰が横行されるようになっていく。上官が常に恐れられる地位を獲得しておくことが、命令伝達には不可欠とされるようになる。終いには権力を乱用することによって満足感を得るようになっていくのである。ついでにストレスの解消や八つ当たりにも躊躇なく行使されるようになる。「体罰」は日常化するのである。軍隊における「体罰」がすさまじい激しさを持って、絶えず繰り返されるようになった原因はここにあるだろう。その具体的な内容については、さまざまに語られている。中野重治、司馬遼太郎、山口瞳、大岡昇平といった有数な小説家が随筆や小説に書き残している。例えば、中野重治は、二か月ほどの兵隊体験を「第三班長と木島一等兵」において、第三班長島田の姿に託して託して軍隊生活を描いたものがある。
「まっ暗な中で、びしいッという肉を打つ音がしてわたしは目がさめた。
『「むゥ、きさま・・・・』」
押さえた島田の声につづいてまたぴしりと鳴った。
『すみません。勘弁して下さい。すみません。勘弁してください。』
浅岡はうつ伏しになって打たれているらしく、わたしが覚めてからは四回ほど同じことがくりかえされた。」
というものである。
また山本七平は「日本教の社会学」で、旧日本軍の初年兵いじめについて書いている。初年兵に便所掃除をさせる。そのあとでこう質問する。
「(先輩兵)『おまえ、この便器をちゃんと洗ったか』
(初年兵)『はい。ちゃんと洗いました』
(先輩兵)『きれいと思うか』
(初年兵)『はい、きれいと思います』
(先輩兵)『じゃ、なめてみろ』」
といった具合である。
そうした中で行われていた制裁は次のように伝わっている。それがいかにすさまじいものであるかは、それらに詳しい。実際に行われていたことは筆舌に尽くしがたいものがあるにしても、その最たるものは、前線に出る前には、「体罰が停止される」ことに表れているという。いざという時の直前に「体罰」は停止されるのである。その理由は、最前線において敵と対峙している最中に、日頃の体罰の仕返しとして、後から味方に上官が狙撃されてしまう危険を恐れてのことだというのである。自分たちを殺しに来る敵よりも、味方に対する恨みの方が大きくなるほどだというのだ。味方が減ればそれだけ敗戦の可能性が高まるのは自明のことだ。それでもやるかもしれないと思わざるを得ないのだ。これ以上の恨みがあるだろうか。
次に挙げるのは、軍隊での「体罰」に関する解説である。
まず、戦時中の軍隊は、天皇を頭首と仰ぐ一大家族と見なし、上官を父母兄姉と見做して、日常生活の一挙一動に軍人精神を具現してこれを訓練し、立派な軍人を育成するとした。つまり、日常のありとあらゆる場面を通じて、絶対服従と団結心を心身に刻みこんだのである。
では、軍隊で行われた体罰にはどのようなものがあったのだろうか。
陸軍、海軍どちらも猛烈だったという。イジメなんてものではなく、拷問で、陸海軍とも殴る蹴るは普通でしたが、それ以上は物理的には海軍、精神的には陸軍が激しかったという。本来、軍隊においては、上級者が下級者にたいして暴力をふるうことは制度上は禁じられていた。しかしこれほど守られなかった決まりはない。
(1) 海軍のおもな制裁
海軍の制裁は、軍艦という運命共同体を担うものが一体化するための作法として制度化された。海軍制裁法の王者は、「直心棒」または「精神棒」別名「バッタ」である。長さ一米余り、直径二寸位の樫か桜の棒である。この棒で殴るのである。「総員罰直」の時は一人平均5本から6本位、個人の場合は、気を失うまで殴る。そして、水をかけて蘇生させて、更に続くこともある。まさに人間を戦う部品とみなすものであった。海軍に徴兵されたヤクザの男が「世間では懲役、兵役と言うが、これなら懲役の方がよほど楽だ」と悔し泣きをしたとの記録もある。反対に、ある水兵がバッターで無茶苦茶に殴られて入院。入院中に部隊は前線へ出動し全滅。精神棒のお陰で命が助かった、という話もある。
① 軍人精神注入棒(精神棒、バッターと呼ばれた)
野球のバットの親玉の様なごつい棒でケツを殴る。無茶苦茶に殴られ失神した生徒の両手首をしばって天井の梁からぶら下げ、更に殴る。肛門の筋肉が弛緩して汚物が流れ出て床にボトボトを落ちてくる。それでも殴り続ける、ということもあったという。狂気の沙汰だ。
② グランジ・パイプ
消防用の放水ホースの先に付いている金具。それをはずしてバッターの様にケツを殴る。
③ ストッパー
太い麻縄を1mくらいに切って水に浸して固くしてケツを殴る。
④ 前へ支え
腕立て伏せの形で手を床に付けて上体を支え、そのまま何十分もその姿勢を続ける。腕を曲げたり胸を床に付けたりすると上級兵からバッターの嵐だったという。
(2) 陸軍のおもな制裁
陸軍では先輩兵による後輩兵に対する私的制裁が横行し、陸軍大臣(後に総理大臣も経験する)東条英機などが軍内における私的制裁を防止しようと躍起になった。しかし、陸海軍が崩壊するその時まで私的制裁や暴力による体罰は無くなることがなかったという。制裁には直接加わらなかった将校の中には、その場にはその場の文化があると黙認した者もいたという。
① 兵舎内で履くスリッパは厚い革のごついやつで顔を殴る。中央公論の社長の息子は余り毎日殴られるので顔の形が変わってしまい、面会に来た家族にも分らなかったという。
② 上級兵が”包.茎”の兵隊に「おい、ちょっと見せてみろ」とズボンを脱がせ、おチン○ンの先っちょをつまんで、「なーるほど、これが包.茎か」、と。そして別の兵隊にハサミを持ってこさせて、つまんだ先っちょを切ってしまった。「これでお前の包.茎は治ったよ」と大笑い。その兵隊は激痛で悶絶。あとになって気が狂ってしまったそうだが、その上級兵はおとがめなしだったという。
③ 菊の紋章が付いている三八式歩兵銃は天皇陛下からお預かりしたもの。それにホコリでも付いていたら「これは誰の銃だ!出て来い!」と下級兵を引っ張り出し、無茶苦茶に殴る。そして「陛下にお預かりしたものをなんと心得る!三八式歩兵銃にお詫びをしろ!歩兵銃が許してくれるまでお詫びしろ!」と。その下級兵は銃の前で直立不動。血だらけの顔で「三八式歩兵銃殿、私が悪うございました。お許し下さい」と泣きながら叫ぶ。銃が「もうよろしい」と言うわけはないから、兵隊は叫び続ける。上級兵たちは笑って見ている。
④「ミンミンゼミ」
新兵を兵舎内の柱に登らせ、「それ、鳴け!」の号令で新兵は大声で「ミーン、ミンミン!」と鳴く。それを延々と続けるもの。
陰惨な体罰は恐怖を生み出し、その恐怖による統制によって多くの若い兵士たちは感情を消し去り、命令されればなんでもできるようになったという。対抗ビンタと呼ばれる同期の兵士同士でのビンタもできるようになる。命令さえあれば捕虜を暴行することもできる。暴力は自分がされると痛みだが、人がされるのを見るのもある種の痛みを伴う。同年兵が制裁を受ければ、それを見るだけでも恐怖を感じるものである。自分がされた制裁よりも人が私的制裁をされている様子の方をはっきり覚えているとの声もある。
恐怖による支配を受けた人間は、戦地における残虐行為(捕虜の殺害など)も命令されれば実行する。普通の人間なら躊躇するものだが、恐怖が良心を凌駕してしまうのだ。
体罰による統制は文字通り「支配」でありリーダーシップとは真逆の考え方である。確かに体罰による支配は、短期的には成果が出るかもしれないが、長い目で見れば組織の発展や柔軟な発想を阻害する要因になりうるものである。従って例え武力を行使する軍隊であっても、体罰の行使は望ましくないのである。ましてや学校始め会社や家庭などの一般社会においては言うには及ばないのである。
7.「体罰」と部活動
はじめに
学校に限っていうと、「体罰」は、小学校では授業中に行使されることが最も多いのに対して、中学校と高等学校では、部活動中に行使されることが多い。とりわけ熱心に活動する部活動において起こることが多いといわれている。そこで行使される「体罰」を眺めると、確かに表面上、軍隊で行使された「体罰」や「制裁」とよく似ている。まるで延長線上にあるものと見られるように、確かによく似ている。しかし、似ているものがすべて同類とは限らない。味噌と糞をいっしょにするのは、容易く見分けられないだけに、返って深刻な間違いを生みかねない。本来全く別のものを、似ているために同類と土回してしまうと、その対処法も、解決策も、役に立たないばかりか、逆効果で深刻な事態になってしまい兼ねないことは、肝に銘ずるべきだろう。
(1) 軍隊に広まった「体罰」が学校や部活動に引き継がれたとする説
国土も狭く、武器弾薬も工業生産力も足りない日本で期待されたのはそれを補う「精神力」である。それを叩き込もうとした軍隊で体罰が横行するようになった。それが将来の軍人を育てている学校での軍事教練に取り入れられ、過激なしごきとなっていった。その暴力的指導の伝統は,戦後も「持たざる国のあらゆる不足は気力で補うしかない」とされた。それが我が国において,「体格の立派な外国人」と張り合うスポーツの世界に、その精神は見事に引き継がれたように見える。確かにそうした事実があったことは間違いない。しかし、それが中断せずに現在まで引き継がれているかどうか、どんな法律やどんな人々が繋いでいるのかを実証した結果出された結論なのだろうか。きちんと確かめられてはいない。
運動部に見られる「体罰」とその行使の基盤になっているのは監督と選手間や上級生と下級生間の封建的な上下関係である。そのルーツが旧軍隊の行動様式にあるとする考えも、一見大きな説得力を持っている。しかしこれもあくまでも見かけ上、または感覚的に連続しているものと思い込まれてしまい、疑いを挟む機会を失っているようにも思える。というのも、誰がいつ、どうやって軍隊式の上下関係を構築し維持してきたのかは、どこにも実証的に確かめられた形跡がないのである。自明のこととされてしまった結果、いつの間にか世間一般で信じられているといった程度である。しかし「自転しているのは地球の方だった」といった意外な結論に至ることは、必ずしも少なくないのである。
どこで、誰がどんな働きをして、軍隊の遺物を継承したのかについて、多少なりとも実証的に示されているのは、大学の運動部、とりわけ人気のあった六大学野球の部活動の歴史である。それは「戦後、大学のスポーツが復興するとともに、指導に当たった先輩が、母校を早く強くしたいというあせりから、自分たちが軍隊生活で経験したしごきを、そのまま応用したからにちがいない。徴兵制の軍隊では、訓練がしごきそのものだったのだ。しごきといっしょに、軍隊と同じような秩序が、学校の運動部に持ちこまれ、先輩、上級生、下級生の序列を中心とする運動部の特異な体質ができあがった。大学の運動部のなかから、『四年神様,三年天皇,二年平民,一年奴隷』という、いまわしい差別的なたとえが生まれたのも、このためだ」(川本,1981, pp.170-171)ということを元に、旧軍隊の遺物が継承されたとするものもある。
大まかにそうした傾向がなかったわけではないかもしれないにしても、実際に部活がいつ、どのように変化していったのかについては、いつの間にかそうなっていたという、状況証拠からの推測に近いもので終わってしまう。なるほどこういうつながりがあって出来上がっているのかと納得出来るものとはなっていない。
いかも、大学の部活動に旧軍隊の教育方法が継承されたとしても、それが何時、どういう経路でさまざまな学校に広まっていったのかは不明のままである。そもそも、旧教育制度は、戦後と違って多様な学校があり、同一年齢層の生徒・学生に対して中等教育においても高等教育においても,多様な学校種が並存していたのである。そのうちのどの学校種に当てはまるのか、すべての校種に共通化、一部に継承されたのならそれはどこか、ということが明らかにされなければならない。戦前は異なる学校種に学んでいた生徒・学生は出身の社会階層等に相当な違いがあり、そう簡単にほかの校種に影響したとは思えない面もあるのである。
さらに、大学の運動部に旧軍隊の「体罰」が、旧軍隊の上官兵士達によって継承されたといっても、
初年兵の時に暴力を受けた後に昇進によってそれを行使する側に回った経験を持つ下級兵の大半は,小学校ないし高等小学校の段階で学校生活を終えて働いていた時に徴兵された者ばかりである。つまり、学歴の高くない人々がほとんどなのである。そうであるなら、彼らが軍隊から復員後に大学へ戻る立場にはなかったはずである。軍隊での「体罰」を行使した教育指導の経験を大学運動部で再現することなどできなかったはずなのである。
すると、大学の運動部が起点となって戦後の運動部に「体罰」が継承されたというのは無理があることになる。すると、旧軍隊の「体罰」が今日にまで継承されたのはどこが起点になっているのかは、高等教育段階では大学だけでなく,各種の高等専門学校,旧制高等学校,高等師範学校等が考えられるし,中等教育段階でも高等小学校,中学校,女学校 ,師範学校,各種実業学校などがあり,この他に軍隊系の学校もあって実に多種多様の学校を検討しなくてはならないことになる。
(2) 本当に厳しさや暴力は、「軍隊の遺産」なのだろうか
戦前から戦後に欠けて、運動部の記録がしっかりしているのは、大学であり、とりわけ六大学の野球部の記録はしっかりしたものを残している。同じ六大学野球部でも、しごきの激しいところと、自由なフニ記を保っているところと、差は小さくないようである。その中で、太平洋戦争下の 1942 年に,明治大学野球部で行われていた軍隊的なしごきや暴力について,戦後ホームランバッターとなった大下弘選手( 1922—1978 年)が日記に書き残しているといわれる。それが本人が残したものであれば、その記述はそのまま信じることができる。ところがその「日記」は、大下が大学在学時にリアルタイムでつけていた日記そのものではなく,戦後も9年を過ぎた時期に日々書き綴った回想を、第三者であるライターが適宜引用する形でまとめた、言うならば名選手大下の人物伝なのである。そこには、ライター自身の評価が忍び込まざるを得ない。しかも、戦後に改めてまとめられた文章には、戦前批判が拭い去れなくて当然である。
例えば、「虫ケラ同然の扱いにも耐えて」というタイトルが付された部分には次のように記されたとある。その「日記」は、「大学の運動部は先輩、後輩の序列を重んじる。それに軍隊式のスパルタ訓練が加わったのだから、下級生は虫ケラ同然の扱いを受けた」という記述に始まる。大下ら新入生は、「練習が終わると、先輩たちの世話とシゴキに明け暮れた」「ある新入生は,門限に10分遅れたという理由で先輩に殴られ、鼓膜を破った。別の先輩は朝、その痛い耳に水を注いで叩き起こした」「某夜、上級生が『おれの部屋まで来い!』と怒鳴っている。…中略…あわてて駆けつけると、この強打者は酒気を帯びて上機嫌だった。『こっちへ入って、そこに並べ。お前らは一年生のくせに生意気だ!』先輩はそう吠えると、横一列に並んだ新入生の頬に次々とビンタを張った」という。しかし、大下たちは「なぜ殴られるのか、その理由がさっぱりわからなかった」云々、と続き、上級生による暴力的な行為に関するエピソードが延々と続く。まさに理不尽な戦前の軍隊を彷彿とされる記述である。
しかし、そういった所業を「軍隊式のスパルタ訓練」と表現し描写したのはライターである。大下本人が実際に日記の中に書き残した回想は、「高等小使ひ兼風呂の三助の生活が始まる。苦難の連続も後ちに良かったと今にして解る。昭和18年12月15日。生れ月を前にして一日世紀の学徒出陣なる迄歯を食ひしばり練習に耐えぬいて来た。約二ヶ年の間球拾ひと先輩連の世話に明け暮れし小生の生活は灰色につゝまれてゐたと申しても過言ではない。それだけ酷しかった選手生活だった」というようなものにすぎなかったのである。決して大下自身が「軍隊式のスパルタ訓練」とは記していないのである。憂くなくとも「軍隊式のスパルタ訓練」ライターの創作言葉だったのである。
また門限に10分遅れたという理由で先輩に殴られて鼓膜を破かれ,別の先輩にその痛い耳に水を注がれたという思い出についても、どうやら少し大げさな記述に思える節がある。大下以外の部員も、確かに「先輩の中には鉄拳をふるう人もいた」と明確に述べているし,酔っ払った先輩に理由もわからないまま殴られたというエピソードも記されている。
しかしそこには、暗さや陰湿さととは対照的な雰囲気を窺わせるものが覗いているように見える。「先輩の中には鉄拳をふるう人もいたが,その人達も陽気だったので,野球部はいつも明るいムードに包まれていた」という記述も見出せるのである。
大下の人物伝の中でライターが書いた「先輩に殴られ,鼓膜を破った」下級生の、「その痛い耳に水を注いで叩き起こした」先輩がいたというエピソードも,部史の元の記述に当たってみると、正確にはその殴った先輩は、「予科時代は,必ず登校すべしといって寝ている下級生を起こして歩く。それも寝坊していると耳に水を入れるという変った起し方をするので有名だった。僕は鼓膜が破れているので耳に水を入れられるとそれは痛い。どんなに熟睡していても飛び起きたものだ。こんな無茶なこともいまとなっては楽しい思い出としてなつかしく残るものだ」となっている。つまり部史の記述からは陰湿ないじめというよりも、下級生が授業を休まないようにしようとする先輩なりの気遣いが感じられなくもない。少なくとも、試合に負けた腹いせにスパイクについている泥をなめさせなどといったいじめや「体罰」とは、明らかに異なるメンタリティーを見て取ることができると言えないだろうか。もちろん、許されるべきでも、ましてや歓迎されるような行為ではない。しかし、乱暴な荒くれ男達の行為であって、ことさら軍隊式とあげつらうのは、やや誇張した、穿った見方が含まれているのではないだろうか。
別のより民主的且つ家族的であって,上級生下級生の区別なく,非常に和気藹々たる合宿生活ぶりに明け暮れていた六大学のひとつの野球部史の中にも注目すべき記述がある.
この大学も、1941 年 12 月に「大東亜戦争に突入」するや「必然的に野球部の在り方と云うものは急角度に軍国調を採らざるを得な」くなったと部史に書いている。合宿所では、これまでと違って「新舎監指揮の下に,内原訓練所式の軍隊的訓練が始まった」という。それは、「朝の六時起床から始り、舎前集合、宮城遥拝、戦没者に対する黙祷、その他諸々のきまりがあって九時消灯というようなものだった。 …中略…朝は早から点呼をとられ、まるで軍隊のような生活を送った」と説明している。
ただし,この「軍隊のような生活」においても暴力が振るわれたといった回想は見られず、むしろそれはエスカレートしたのではなく、「とても耐えきれるものではない」ので舎監の教師に再三抗議をしたが入れられず、「ついに上級生は合宿を出ることになってしまった」と述べているのである。もちろんそれが暴力には結びつかなかったとしても、社会の軍国主義化の流れを受けてそれまでの在り方から運動部が変容するということが、実際に起こっていたのである。これは大学の運動部に限ったことではなく、社会全体が軍事体制下に組み込まれたのであって、むしろ大学の運動部もまた、軍隊のように変わったというべきである。部活動だけが取り立てて軍隊化したというわけではないのである。
(3) 「しごき」や「体罰」は軍隊にもあったが、実は遙か以前からあったものだ
戦後は価値観がひっくり返って、民主主義のお題目が唱えられた時期である。明治維新の文明開化ではないが、「民主主義」の大安売りがどこにも見られ、戦前の思想は小さくなっていたはずである。それでも大学野球を中心とした運動部の練習は猛烈を極めていたそうだ。練習中に「倒れると上級生が飛んできてバケツで水をかける」等々といった記述が部の歴史や学校史のあちこちに見られる。戦争に負けた直後は、日本中が精神的にも安定していなかったころで、また部員は大半が軍隊経験者で、なかには弾丸の下をくぐりぬけてきた歴戦の勇士もいるのだから、気が荒いのは特別なことではなかった。また、ユニフォームなどとても揃う時期ではなかったので、軍服に軍靴姿で運動するものも珍しくなかった。それに加えて、「軍隊帰り」「兵隊帰り」「戦争帰り」「シベリアに抑留」「予科練から復員」等々の表現が日常的に使われ、あふれかえっていた。さらに実際、軍隊経験者には気迫があり、練習は相当に厳しかったのである。それどころか、殴られ、怒鳴られ、呼び出されて制裁を受けた記録が山ほど残っている。そもそも、頬を平手で打つのを「ビンタ」と呼ぶのは「軍隊用語からの浸透」と考えられる。道具の手入れを怠ったことを理由に暴力が振るわれるのは,戦争中に陸軍の内務班で繰り返されたという、銃器や装備品の手入れの仕方に言いがかりをつけて上官がビンタを行うシーンを彷彿とさせる。道具の手入れでは,「練習が終わって『ボール集め』の声がかかって,一個でも足りないと帰してもらえない。」そこで幾日も前のボールを探し出してきて、それで「員数合わせ」して許してもらったという。この「員数合わせ」も軍隊用語である。合宿生活でも兵隊帰りが多かったせいで、階級で呼び合っていた。「例えば U さんが,“海軍少尉”,O さんは“陸軍少尉”,A さんが“海軍中尉”,T さんが“海軍少尉”,G さんは幹部候補生なので“幹部”。私は予科練だから『トッコウタイ』(特攻隊)と呼ばれていた」というのである。さらに軍隊と似通っているのは、大学野球部の中での序列は、学年で決められていたところにも現れている。当時は学年は同じでも年齢はマチマチ,年上の下級生もたくさんいた。そうした中でチームの秩序を維持していくためには、,先輩・後輩の関係はキチンとしておかなくてはならない。そのため当時の大学運動部では年齢ではなくて、学年が序列を決定する唯一の基準にされたというのである。大学に入学し、野球部に入部してからの経験年数が序列を決めたのである。これは入隊してからの経験年数で序列が作られた軍隊と同じである。こんな具合で、それこそ生活のあらゆる場面で軍隊のような雰囲気が漂っていたのは間違いない。その結果、多くの大学の運動部で軍隊と見紛うような、暴力の横行する世界が共通に形成されていたのは間違いのないところである。
そうだとすると、体罰が軍隊に期限を以て受け継がれてきたのは、戦前か戦後かのある時期に、どこかの学校の運動部に持ち込まれて、それが広まり、今日まで繰り返されてきたというといった単純なストーリーでは説明できないのである。確かに、戦前の軍事的な国家体制によって「体罰」が助長・強化された側面は否定できないにしても、「体罰」が「権威的立場にある者がその従属的立場にある者をしつけ,正し,罰するために身体的懲罰を課」すものであるなら、戦前の軍隊が起源などというわけがない。それは貧富の差が現れ、個人間に階級の差が生まれた古代文明の発生と共に生み出されたものに他ならないのである。いくら戦前の軍隊と似ている点を並べ上げても、それが旧軍隊から受け継がれた者であることを証明することなどできないのである。少数意見ながら、戦前にも戦時中にも、かなり自由で平等な雰囲気を維持した運動部の存在も回顧されており、軍隊式の「制裁」や「体罰」が生み出されたのは、戦後になってからだという節もあるくらいである。
いうまでもなく人間は、軍隊が生まれてから暴力的になったわけではない。はるか遠い昔から、人間は暴力と深く結びついた存在だったのである。過去の社会が、現代よりもはるかに暴力に関しては寛大であったことはよく知られている。人間の本性は暴力的であったと言えるし, 「暴力」が社会の発展に伴って統制されていった例として、フットボールなどの暴力的な身体活動が近代スポーツへ作りかえられた経緯や祭りの変遷などを挙げることができる。祭りもスポーツも、すぐに暴力と結びつく危険性を孕んだ存在でもある。議会政治もまた「短剣や剣を使わないで」戦うようにした「議会での競争」とも言えるのである。
「体罰」は、日本に固有のものでもなければ、日本軍がうみだしたものというわけではない。世界中のあらゆるところで用いられてきたのである。学校は反抗期やギャングエイジに当たる教育の対象者を指導するに当たって、常套手段として用いるようになる。訓練法の基礎となった「体罰」や「懲戒」は、数世紀にわたって学校とともに発展していったのである。
人類が獲得した精神的・道徳的文化が複雑化し、文明が発達して、それらの成果が共同生活の中で重要な役割を演ずるようになると、これらを次世代へ伝達しなければならなくなる。それらは自然に、たやすく身につくものではなくなっていく。そのために教育が必要とされるようになり、特別な訓練が要求されるようになっていく。自然の成り行きに任せたままでは身につけることができなくなり、必然的に何らかの強制的・労役的な性格をもたざるを得なくなる。
教師は、目の前の生徒に、生徒が必要とされることを身につけるための働きかけを担うことになる。明らかに自分より劣った生徒を前にして、教師は熱心に生徒に指導を行う。しかし、生徒はなかなか身につけることができないことが多い。生徒にとっては差し迫った必要性が理解出来ないことも多ければ、ほかの楽しみに惹かれてしまうこともある。ましてや児童・生徒は反抗期にあり、ギャングエイジである。教師に取ってみれば、そこで行われる教授や訓練には、大きな忍耐力が必要とされる。お手上げ状態になることも少なくはないだろう。それでも伝達や教育を中止するわけにはいかない。そこに暴力的訓練を余儀なくされる原因が生まれる。そしてそこで一定の成果を上げられたことで、「体罰」「懲戒」などを用いることの有効性が体得され、結果的にそれらを助長する結果になる。つまり、学校という制度には,元々体罰が内在化されており、その使用を助長するような性格を持つもっていたと見るべきである。それが社会の成熟に伴って、露骨な暴力や生成、体罰問いいったものが、制約を受けるようになっていくということである。戦争や争いが、スポーツや祭り、議会での論争などに取って代わられ、いっそう整然としたものにルール改正が重ねられてきたのである。もし現代の日本が、「体罰」などに置いて目に余るものがあるとしたら、それは軍隊の影響などではなく、民度の低さの問題とみる必要があると思われる。
(4) 強豪校の「体罰」は「軍隊」由来のものなのか
学校の存在がもともと「体罰」や「制裁」とは切っても切り離せないものであるにもかかわらず、現在の日本では、なぜ「学校」そのものではなく、部活動を中心とした「軍隊調」の「暴力」に非難の目が向けられるのであろうか。そこには「学校」そのものは良きものだが、一部に「軍隊」の遺産を継承する者がいて、そこが癌になっている。したがって、癌さえ取り除き、転移を防げば、学校は順調に成長を遂げるはずということが前提にされている。そこにはどんな絡繰りが忍ばされているのだろうか。
その絡繰りを、強豪校といわれる運動部に寄り添ってみてみよう。強豪校では、毎日厳しい練習が積み重ねられている。そこの応援団で会っても、贔屓にしている者であっても、毎日練習の様子を事細かに見学している者は少ない。多くの場合は、大会に出場する段階になって、予選を勝ち抜き、甲子園なり、国立競技場なり、花園なりというところへの出場を決めたあとの「俄ファン」がである。有名校が予選落ちすれば非難を浴びせる人も多い。優勝候補と騒がれてもそうそうに姿を消すと、文句を言われる。「練習が足りない」「いい気になっている」ならまだしも、「女にうつつを抜かして、スター気取りだからだ」などといったひどい、見てきたような非難がされたりもする。それに対して優勝した学校は絶賛される。練習方法も、選手や監督の生活態度も、人間性も、何から何まで絶賛の対象となる。
ところが、一転してその学校が事件を起こすと、評判は地に落ちる。いじめや「体罰」などが発覚しようものなら、奈落の底に落とされる。しかし、その学校がその日までにやって来たことは何一つ変わっていないのである。御恥事実に対する評価や評判が正反対に変わってしまったのである。
何年にも渡って優勝を重ねてきたり、準優勝やベスト4を勝ち取ってきた学校が、実は「体罰」が横行し、日常化していた学校かもしれないのである。その事実が表に出ていない間は、熱狂的な絶賛が続いていたのである。宗教的な賛辞が与えられていたのである。外部の人眼であるファンにとっては、そのような内情など知るよしもなく、仕方がないといえば、その通りである。
しかし、強豪校が強豪校で在り続けるためには、人並み以上の練習を重ねていたことは誰もが感じていたことであろう。期待にそぐわずに早々と負けてしまった学校には、「練習不足」などという意味の罵倒が浴びせられていたのである。「勝てるだけの練習をしていない」というのが練習不足という意味だろう。だとすれば、見てきたわけでも、内容を把握しているわけではなくても、厳しい練習を要求していたことは間違いのないところだろう。もちろん、知らなかったとはいえ、「体罰」を期待していたわけではないし、要求などするつもりは微塵もなかったかもしれない。たとえそうであっても、これほど勝ち続けているのは「どういう練習をしているのだろうか」と確かめるのが当たり前ではないだろうか。それさえせずに、「体罰」発覚後に厳しい非難を浴びせるというのは、いささか自分勝手ではないだろうか。素人であり一ファンに過ぎない者が、詳細を知らないのはやむを得ないとしても、マスコミはだろうなのだろうか。「体罰」が発覚後になって初めて、正義の味方のような顔をして大々的なキャンペーンを張るのも結構だが、それまで専門家を抱えるマスコミが、「体罰」の「た」の字も知らなかったというのは本当だろうか。みんなが絶賛し、期待している強豪校の人気に水を差さず、ブームの尻馬に乗ろうとしてはいなかったのだろうか。本当は素人でさえ、強豪校が相当激しく厳しい無理な練習をしているに違いないことは、とうの昔に知っていて、むしろ「多少の『体罰』ぐらいあって当然」くらいの認識だと踏んでいたのではないだろうか。調べる手段が少ない素人も、専門家を擁したマスコミも、人気者の所業には目をつぶっていたというのが本当のところなのではないのだろうか。陰では密かに、ばれないうちには「体罰」は暗黙のうちに認められていたというところではないだろうか。
事実上、「体罰」は黙認されていたのである。本音のところでは「他人と同じことしかやらずに、毎年勝てるはずがない」くらいのことは承認済みで、ばれない程度の「体罰」は必要悪だ、くらいの認識だったのではないだろうか。
実際「体罰」や「制裁」が用意されていることによって効果が上がることがないわけではない。実際に成果が上がることもあるのである。しかし、効率の面だけからみても、やはり「体罰」や「制裁」を準備して行うことにはげんかいがあるのである。
(5) 軍隊に罪をなすりつけると免罪符が得られる
ある種に作業などにおいては、「体罰」や「恐怖心」を持たせることによって、効率を上げることが出来るものがあるのは確かである。しかしそれは、あくまでも一時的な者であり、長い時間の経過が、それを成し遂げる意味を見いだせずに、効率も完成度も大幅にダウンしてしまうのが常である。
そもそも「体罰」により強制されて行うことが非人間的であり、望ましいものでないことは自明の理である。「体罰」や暴力を肯定してしまうことが、民度の低さを表していることも、今や何ら説明を要しない事はいうまでもない。したがって、堂々と「体罰」を容認巣津人は、まず存在しない。だからこそ「体罰」が行われていた事に対しては、猛烈な非難が起こるのであろう。しかし、その非難は「体罰」を行ったり、容認したりしようとする人物に対してのみ行われるのである。そしてたいていの場合、彼らが「旧日本軍」の影響を引きずった「軍隊の遺物」を抱え込んだ者として断罪されるのである。マスコミもまた、「部活動の厳しい練習には、旧日本軍の軍隊精神が影響している」と信じて揺るがないかのようなのである。つまり、「体罰」はなくすべき悪事だが、まだ「軍隊」の影響を捨てきれない一部の者によって受け継がれている悪弊である。「民主国家に生きる現代の我々とは、無縁の悪しき遺物である」とでも言いたげである。
繰り返すと、本絵の部分では暗黙の諒承として、強豪校で「体罰」や「制裁」が罷り通ってしまっていることは暗黙のうちに諒承しているにもかかわらず、我々とは無関係な「具引退の遺物」のなせる技だとするのである。
確かにいくら勝利のためとはいえ、「体罰」を容認するとは言いにくい。しかし、実際にはそうした気持ちがある事を棚上げしてしまっては真実には近づけない。そしてその責任を押しつける先が「軍隊」であるのはどういう意味があってのことなのだろうか。
まず、「体罰」や「制裁」の行われ方が、「軍隊」で行われていた事と酷似していることが挙げられる。「軍隊」で行われていたことが受け継がれていると言われれば、うっかりそうかもしれないと思い込んでしまう可能性は高い。それほどよく似ているということだ。
しかし、表面的に「体罰」が軍隊で行われていたことにいくら似ていたとしても、「体罰」は軍隊が始めたことでも、広めたことでもない。しかも、受け継ぐも何も、軍隊は既に消滅してしまっている。軍隊を直接経験した者は既にほとんどいなくなり、間接的に話を聞いた者も少なくなってきている。そんな状態の軍隊が、間接的に様子を聞いただけの者により、それほど確実に伝えられるものであろうか。しかも「体罰」は軍隊でも行われていたとはいえ、軍隊の専売特許ではないのである。「軍隊」からしてみたら、まさに「濡れ衣」といいたくなる状況ではないだろうか。
にもかかわらず、我が国では多くの人々が、「体罰」が軍隊由来だと共有することが出来たのだろうか。
それは、結論から言えば、責任転嫁に過ぎないといえる。運動部の中にある理不尽な上下関係とそれを前提に可能となる暴力の行使の根本的な責任を、運動部の内に求めるのではなく、運動部の外にある既に消滅してしまった旧軍隊に押しつけているのである。軍隊は確かにかつて実在したのだが、現在生きているほとんどの日本人にとっては、縁もゆかりもないものである。しかも「悪」の典型として非難し尽くされた存在である。かつての侵略戦争に、国民を引きずり込み、日本人にも周辺国の国民にも多大な被害を与えたからこそ、戦後その在り方のほぼ全てが否定され、徹底的に解体されたのが軍隊である。軍隊は日本のものであったが、かつての侵略戦争は一部の軍国主義者と旧軍隊によって遂行されたものであり、一般国民はその被害者だとされるのである。実際には戦意を高揚させ、残虐行為を行わざるを得なかった国民もたくさんいたにもかかわらず、一方的に被害者の地位を獲得できたのは、直接同時代を生きていなかったからでもある。さらに、日本の旧軍隊は,日本の社会から隔絶された異常な世界であったかのように語られることが少なくない。一般国民にとっては、自分の国の過去の軍隊であるにもかかわらず、それは「敵」以外の何物でもないと考えられているのだ。
その忌むべき存在がもたらす悪しき遺物である「体罰」や「制裁」が生き延びているのが強豪校の部活動であるとすれば、明らかになってしまった「体罰」こそ、我々の敵であり、徹底的に非難できるし、すべき対象となるのである。部活動はおろか、どこの学校にも、会社にも、家庭にも黙認されているものにもかかわらず、そこには目をつぶって、平然と非難できる対象に変わるのが表面化した「体罰」なのである。
私的制裁が禁止されていたにもかかわらず、日本軍隊で「制裁」が盛んに行われたのは、法治国家の体裁を装いながら、日本国が専制主義国家だったということを著している。天皇の名において下されることが方も含めたすべて優先されたのは、天皇が絶対君主だったからに他ならない。そして、鉄拳制裁が、天皇の名において下される上官の行為であると認められ手何者にも阻止されることなく実行されたのである。その「天皇」が、「民族のため」「決まりのため」「秩序維持のため」「勝利のため」「儲けるため」といったものに取って代わっただけのことである。
「体罰」を加えることが、軍隊の遺物であるとみなすことは、民主主義を体得した振りをしながら、その実絶対専制君主化の住民に甘んじているということに他ならないのである。そして、「軍隊」にその罪をなすりつけ続けることが、今なお可能なのは、一つには、「軍隊」が今は完全に廃止されているからである。今はなき軍隊は、一切反論することが出来ず、批判する側の言いたい邦題、やりたい放題だからである。加えて、二つ目に、戦後に否定された「悪」の権化としての「軍隊」を擁護する人はまずいるはずがないからである。
(6) 民度の低さを超越する方法
強豪校を中心とした部活動に「体罰」がなくならないのは、「軍隊」の影響が残っているからではなく、日本人の民度の低さに原因があるのだった。ではその民度の低さはどうやって乗り越えることが出来るのだろうか。
それにはまず、「体罰」の弘化を、感情を抜きにして冷静に見直すことから始めるべきだと思われる。というのも、「体罰」が全く無効で効果がないとは言えないからである。実際、残酷な叱咤激励を加えることで成果を上げている例がある。勝利第一主義の部活動の強豪校ばかりではなく、猛烈社員を抱えた会社の売り上げ、有名校合格をめざす塾などで成果があったことは事実である。
迫り来る恐怖に打ち勝つために、成果を死にものぐるいで上げることはあり得る。しかしそれが長続きすることはない。慣れてくれば、刺激はより強烈になり、強すぎる刺激に立ち直れなくなる可能性がある。そうではなくても、罰を逃れるために中身のない形ばかりの張りぼてでごまかす技術ばかり磨かれるようになるに違いない。「遣る気」に慣れない仕事を矯正されることは、そこから何とかして逃げ出すか、ばれないような手抜きを模索することにしかならないと思われる。恐怖に追い立てられて初めて取り組まれることからはろくな結果がもたらされないことに、早く気づくべきである。これが民度を上げる最低限の条件だろう。
もう一つは、「体罰」によらずに十分な成果を上げる実績を積むことである。
たとえば、元プロ野球選手の桑田は、運動部の体罰に強く反対している。まず「体罰」とは「絶対に仕返しをされないという上下関係」の下で行われている「ひきょうな行為」であり,新たな指導法を学ばない「指導者が怠けている証拠」でもあり,何より自分は「体罰を受けなかった高校時代に一番成長」したというものであった。高校野球で全国大会を複数回制覇したことをはじめとして、並ぶものがないほどの実績を持つ人物の経験談である。これに反論できる人はまずいいないと言っていいだろう。そこでは、優れた選手になる,或いは全国制覇するような強い運動部になるためには厳しい練習が不可欠で、そこには多少のしごきや体罰ぐらいはあるものだと内心思っていた人々の思いを一蹴したのである。逆に、勝てない運動部は練習に厳しさが足りないし、厳しくない練習には「体罰」もないのが当たり前ではないかといった考えを一掃したのである。つまり、我が国の運動部で繰り返される「体罰」を深層で支えてきたのは,暴力の行使と厳しい練習とを、ほとんど同一視することによって、結果的にそれを是認してきたということになる。日本の社会ということである.少なくともその程度の潜在的で間接的な支持があったからこそ、これほど長い期間にわたり体罰が繰り返されたのである。これが民主国家の殻をかぶった専制国家を抜け切れていないという現在の日本の民度だと見るべきである。
しかし、桑田自身の調査によっても、こと運動に関しては、まだまだ「体罰」の容認派が多数派を占めているのが現実だという。そんな中にあっては、桑田の体罰否定、制裁不要論は、説得力を持ちながらも危うさを持ち合わせている。最も単純にいえば、桑田以上の実績を持つ者が表れて、「体罰」を肯定し、そのお陰で自分は成長できたと発言すれば、桑田の主張が崩れ去ってしまわないとも限らないからだ。
民度を高めるのは、微妙なところがある。移民の助け合いも、ジェンダーフリーに対する理解も、トランプ一人で粉々にされてしまいかねない状況を迎えている。民度の高まりも、確たる数値的証明にはなじまない、相対的で曖昧さの残るところがあるのは事実だからだ。
では、その民度はどうすれば向上するのだろうか。
ある人数の集団が他の集団との戦いにおける勝利を目指し,リーダーの統率の下に協働するという点で,戦争と運動競技の間には類似性が見出されやすいことは誰にも理解できる。何より,軍隊の訓練も運動競技の練習も,苦しい身体的負荷を伴う肉体の鍛錬であるという共通性が、両者の違いをしばしば曖昧にするのも事実である。生死を賭けた戦場へ向かう軍隊の過酷な訓練に擬えることにより,運動部における練習は厳しくて苦しいものと考える当然とされがちである。
こうした傾向は、どこの国にも見出される。だが我が国の場合はそこに、公然と暴力を許した軍隊と、強くなるための猛練習と暴力が明確に区別されない運動部という、味噌と糞との、ある意味区別がしにくいものを平然とごちゃ混ぜにしてしまうという社会の成熟度が反映されているのである。
この解消方法を結論から述べてしまえば、煮たところがあるとされる「軍隊」と「部活動」とを、厳密に区別することに尽きる。人殺し装置である「軍隊」と、スポーツを楽しみ、勝敗を競うことを目的としている「運動部」との違いを正確に見極めるのは、当然のことである。戦争ではあっても殺戮を遂行する集団である「軍隊」と結びつけられた「部活動」は、その行為の非人間性を容易に連想させる。特に我が国の場合、戦地の住民に対する残虐行為や捕虜の虐待などもあって、旧軍隊は戦後その在り方の殆ど全てが否定されたのである。「部活動」が、そのような非道な世界に起源があることにすれば、全面的に批判対象とならざるを得ない。「部活動」の起源を「軍隊」に求めた結果、誰もが批判するばかりか忌み嫌うように導かれる。「体罰」は、「軍隊」的だとして非難されるのである。
加えて、「軍隊」は、今やその存在を否定され、現在では影も形も残っていないことを見落とすことはできない。運動部における「体罰」の起源とされた「軍隊」が、敗戦国日本ではとっくの昔に解散してしまったのである。「体罰」批判の根源が現実には存在しないのである。つまり、「体罰」の根源を「軍隊」として、その理不尽さ、非人間性、残酷さなどをいくら展開しても、当の「軍隊」から反論されることは絶対にないのである。「軍隊」が諸悪の根源であるとしておけば、言いたい放題なのである。しかし、それではストレスの解消以外にためになることは一切ないのである。
「軍隊」が否定されるものであったとしても、それはあくまで日本人が生み出し、支えてきたものに他ならないのである。たとえ自分が生まれる前に消滅したものだとしても、おそらく「軍隊」が存在した時期に生きていれば、こぞって支えたに違いないのだ。批判どころではなかったはずである。
運動部が,今は亡き旧軍隊の野蛮な行動様式を、受け継いだ集団だとその表面的な類似性を根拠として決めつけることは、戦争に関わる責任をすべて旧軍隊に押しつけて自分たちを被害者に位置づけるという責任逃れ、責任転嫁に他ならない。旧軍隊とは何ら関わりがないところに現在の自分は立っていると自認して後ろめたさを持たないのだろうか。「騙された」「強制された」結果だと強弁したところで、戦争に無縁でもなければ、たった一人で戦争反対を叫び続けられるはずもないではないか。にもかかわらず、戦争犯罪を多々起こした旧日本軍を、今更ながら徹底的に批判することを以て、あたかも自分が「軍隊」とは無縁な地位に立塚のように振る舞う。だからこそ自分は旧軍隊由来の残虐行為を繰り返すような「運動部」とも何ら通ずるところがないかのように振る舞うことを容易にするのである.
こうして,マスコミを含む我が国の多くの人々が進む方向は,体罰を行う学校「運動部」を批判することには向かっていくものの、そこには繰り返される「体罰」を自分たち自身の問題として自省するという志向は生まれないのである。また批判の根拠の一つとなっている「体罰」が「軍隊」から引き継がれてきたものであり、軍隊にすべての責任があると決めつけている。それ以前にも、それ以後にも、軍隊以外の場所においても「暴力」も「いじめ」も「制裁」もすべてが行われていた事実には頬被りしてしまうのである。救いがたい偽善者ぶりに他ならない。ちょうどそれは、戦争に関わる責任をすべて軍国主義者と旧軍隊に一方的に押しつけて、自分や祖先を含む一般大衆は、全面的に被害者だと考える我が国の多くの人々の姿とそっくり重なっている。軍隊を厳しく批判しながら、自分たちそれぞれの戦争責任を考えることには目が向かないのである。戦後派によって戦中派のご都合主義的な転向が厳しく追及された時期があった。それは戦中派が置かれた状況の中でやむを得ない言動だったという面があったにしても、それを戦後になってなかったことにすることはできない。同様に軍国主義の圧力がなくなった後に生まれた者にとっても、置かれた状況によって言動が絡め取られかねない危険を感じ取らなくてはならない。平和時にもある小さなほころびを見逃すことなく検証できる目や感性を持たなくてはならない。その不断の検証と予防が、民度を挙げていく、唯一の道かもしれない。
おわりに
公然と暴力を許した「軍隊」は、相手の殺害を目的としたものであった。それに対して「運動部」は、相手をたたきのめし勝利するために猛練習を繰り返すものであった。どちらも必死に猛烈な訓練を積み重ねるもので、似た側面があることは否定できない。それでも違いは決定的である。戦争が相手を殺して亡き者とすることをめざすのに対して、運動はその時の勝ち負けだけではなく、生涯のライバルとして、切磋琢磨し合うことで互いの成長を第一とすることもありうるからである。言わば運動競技は、相手を生かし自分の成長につなげることもまた射程に入れているのである。自分も相手も生かすことが目的である。そうした区別ができずに、「味噌」と「糞」を一緒くたにしてしまっているところに、民度の低さが表れているのである。あるいはいざという時に混乱してしまうのも民度の低さである。
民度が上がるためには、すべての構成員が、微妙な違いに惑わされずに、正確に区別できるようになることに他ならない。「厳しさ」と「暴力」とは、似て非なるものなどではなく、全く別物なのである。それが誰の目にも明らかになる状態こそが、民度の上がった社会である。
曖昧なまま、「軍隊」と「部活動」に類似性を感じ取り、多くの人々が戦争責任を考えることへ目が向かないのと同じく、運動部に見られる体罰の問題性がどこにあるのかについて、徹底的に考える道を閉ざしてしまっているのである。そこに「体罰」を「軍隊」並みに忌み嫌うことと、強い「運動部」になるためには厳しい練習が不可欠で,そこには多少の「しごき」や「体罰」ぐらいはあるものだと思い込むという、矛盾が両立してしまうのである。
私たちの心中奥深くにある、「体罰」に対する潜在的支持を先ず自覚しなければならない。そうすると、体罰を批判することのみに終始する訳にはいかなくなる。結果的にせよ、「体罰」を許してきた一人として、自分自身に責任を問うことが、可能となってくる。今なお止むことのない我が国の「運動部」に見られる体罰を、真に根絶するための第一歩は、そこにしかないのである。そうした取り組みの先に「体罰」のない「運動部」を生み出す社会の成熟度の高まるのである。復古的な考え方の復活を不断に否定し続ける永続的な検証が繰り返されるところにのみ、社会の成熟が、初めて期待できるのではないだろうか。
8.体罰の個人的体験
「体罰」を安易に認め、好成績をいちどでも残すと、その後も同等かそれ以上の結果を望まれる。それに応えきれなくなったところに「体罰」が行われる。周りも容認し、期待する。
それとは異質の体罰を経験してきた。
(1) 平然と嘘をつく生徒にどう対処するのか
卒業生を送り出すと、次の年はたいてい新入生を迎えることになる。たかが15歳だが、それでも、12歳で入学してくる新入生とは見違えるほど大人びてくるのが中学生である。たったの3年間でも、さまざまな経験をして、ずいぶんと成長を遂げるのである。
あるとき新入生を迎えるに当たって、事前に特別な配慮が必要な女子生徒が要ることを聞かされた。東京の西の果ての小学校を卒業して、東の果てとも言うべき本校に入学してくると言う。当然知り合いは皆無である。そんなところに異動してきた理由は、父親によるDVから逃げ出してきたというのだ。在籍の問い合わせがあったときには誰からの問い合わせか十分に気をつけて対処する必要があるということなのだ。そうしたことに対する配慮はあまり得意ではなかったが、立場上引き受けるより仕方がなかった。最も長く勤めている上に主任を任されていたからだ。
入学式の日、普通は担任は式の前には教室に行かないことになっている。式の途中で担任を発表するからだ。例年、式の前には、所作や行動については、生徒会役員が、各クラスを分担して説明することになっている。しかし、今年は父親から逃げ出し、誰一人知り合いのいない中におかれて、さぞ不安だろうと判断して、特別に教室に足を運んだ。想像通り、教室の隅に、ぽつんと淋しげに座っている女子生徒がいる。早速近づいて声をかけたが、名前が違っている。その生徒ではなかったのだ。ではどこにいるのかとまわりを探すと、一人元気に騒いでいる生徒がいた。周囲のみんなにサイン町を配り歩いている。たいていは卒業の記念などに交換するものなので、他にそんな物を持ってきている生徒はいなかったが、一人元気に配り歩いて、皆に挨拶していた。少なくともさしあたっては、孤独な寂しさなど、全く配慮する必要はなかった。
そうして彼女の3年間の中学校生活が始まった。特別に大きな問題を起こすことはなかったが、それでもこの地域の生徒とは一風変わっており、髪型やアクセサリーなどの服装やおしゃれに関わることでは、度々注意しなければならなかった。
行きがかり上引き受けた担任ではあったが、腐れ縁か3年間担任することになった。そうしたある日、夏休みを直前に控えた頃であった。突然珍しく深刻な顔をして、いきなり「引っ越しをすることになった」と言い出した。まだ母親からは何も聞いていなかったので、半信半疑だった。初めのうちは「引っ越す」の一点張りで要領を得ず、母親に確認することにした。すると、理由を言い始めた。「昨日、最寄りの駅で父親に出会ってしまい、家の近所まで付けられてしまった」というのだった。家の直前で撒けたので、直接家まではこられなかったが、分かってしまうのも時間の問題だという。母親も引っ越しに賛成しているというのだった。
ただでさえ引っ越しは容易なことではないが、まして中学3年生の夏休み前に転向するのは致命的だった。転校先の中学校に通い始めるのは夏休み明けになるだろうが、そこで進路先の高校を決めることになる。まず知らない高校ばかりの中から選ばなくてはならない。そう急には難しい。さらに成績がある。当時は「相対評価」されていた。これはテストをはじめ成績得点とされるものを合計して、5段階評定された。「5」と「1」は得点合計の7%、「2」と「4」はそれぞれ24%ずつ、「3」が38%ということになる。この割合を在籍生徒数によって振り分け、1人として過不足は許されないことになっていたのである。もともと勉強に関してはあまり優秀とは言えなかった上に、教科書も震度も違う学校で、成績資料も少ない中、良い成績が取れるはずもなかった。進路については絶望的である。東京で決めた進路先も諦めなくてはならない。母親にも電話し、とりあえずどうにもならなくなるまでは天候は保留しようということになった。学校へは担任が送り迎えすることとし、夏休みに入ってからは、定期的に電話で連絡を取り合うことにし、家庭訪問模することにした。部活動がほぼ毎日あるので、訪問はほぼ毎日行われたが、せいぜい朝晩の2回だった。不安な中でも夏休みも無事に終わった。授業が始まれば、休み中よりは少しは安心であった。2学期が始まったばかりのある夜のことだった。
まだ昼間は酷暑が続いていた。例によって帰りは11時を過ぎていた。自転車で学校を出て公園の脇にさしかかったところで、向こうのベンチの裏に移動してすっと隠れるような影が見えた。何だろうと思い、何気なく近づいた。すると、ぼくのクラスの生徒が二人、ベンチの裏側から出てきた。一人は、例の北海道への転校を申し出てきた女子である。ベンチの上には缶ビールの空き缶が数本並んでいる。すぐに「この秋刊は、私たちじゃないから」と言ったのはその少女だった。もちろん深夜の公園で飲酒していたらしいことは大問題だが、それ以上に、父親に家を探されていることが一番の問題であるはずだ。少なくとも深夜にこんなところにいて良いはずがない。そのために送り迎えも連絡も取り合って、無事を確認していたのだ。
ともかくも指導は明日以降にして、空き缶はぼくが集めて、急いで家に帰らせるために、二人を送った。こんな時間だというのに、転校を希望していた生徒の母親は、まだ帰宅していなかった。
翌日放課後、二人を残して、相談室に集めた。学年の二人の教師に立ち会ってもらった。二人が口裏を合わせないように、事情は別々に聞くのが常套手段だが、昨日の出来事であり、口裏合わせならとっくにできているだろうし、直接目撃したことなので、一緒に同時に進めた。明らかすぎるほど明らかで、指導は簡単に決着できると思い込んでいた。
まず最初に、昨日の出来事の概略と思っていることを紙に書かせた。一人は「夕方から公園に行って、遊んでいた。遅くなってしまって帰ろうとしたが、喉が渇いていたので飲み物を買おうとした。深夜でもあってつい、ビールを飲もうということになってしまって、3本ずつ買ってしまった。先生に見つかって、家に送ってもらった。家に帰ってからお母さんにも随分怒られた」といったような内容を書いた。それを確認して、もう一人の方を見た。すると、用紙は白紙のままである。そこで「昨日どこへ行ったのか、そこで何をしたのか、何時頃家に帰ったのか、を書きなさい」と言った。すると、特に欠くことはないという。「書くことがあるかないかじゃなく、まず昨日学校から帰った後で行った場所を書きなさい。」と言うと、「どこへも行っていない」というのだ。「公園には行っただろう」というと、「行っていない」と繰り返す。「そこで先生と会ったじゃないか」というと、「昨日は先生に会っていない」という。狐に包まれた思いというのはこういうことだろうか。もう一人の生徒も、目を見開いて、ビックリした表情をしている。
二人の言い分に食い違いがあることは事実だが、この食い違い方はどちらが性格かを比べるようなものとは違う。両方とも残す必要はなかった。そこで一人はもう一度簡単に事実確認をして家に帰した。後日保護者に来てもらうことを伝えた。
残した方は、いつまであってもらちがあかなかった。「昨日公園には行っていない」「深夜まで外に出ていたなどということはない」「先生にも会っていない」の繰り返しである。押し問答の末、遂に手が出てしまった。「いい加減にしろ」と頭をはたいた。その後臑を蹴った。頭をはたくのも、臑を蹴るのも、2,3回ずつではなかったかと思う。最もこうした場合、殴られたり蹴られたりした方の言い分と、殴る蹴るを下側の言い分とは一致しないことが多いようである。殴った方は少なめに、殴られた方は恐怖もあって多めに申告する傾向があるという。ただ、今回は立ち会った教師の証言も2,3回ずつとなっているのだが、正式な裁判などの場での証言になってはいない。裁判が実施されていれば証言をお願いしたのだが・・・。
結局、終いには、「深夜まで公園にいて、家まで送られた」ということまでは認めた。ただ、あくまでビールは飲んでいないということだった。そんなはずはないのだが、これも裁判になれば空き缶の諮問なり体液なりを調べれば答えははっきりするのではないかと思うが、裁判にはならなかったから分からないままである。さらに、「殴ったり蹴られたりしている間に、『ごめんなさい』と何度も謝ったのに、蹴り続けられた」というのだが、そうした覚えもない。白を切っていることに対して加えた暴力なので、相手の言い分をいちいち確かめたはずで、もし謝ったならその場ですぐに言い分を変えさせたはずだと思う。周りで聞いていた教師達も、謝罪の言葉は聞いていないという。これも正式の証言をしてもらう機会はなかった。
ここまでの事情を話しに家庭訪問をした。母親は家にいた。ビールの件ははっきりしないが、認めた事実関係を話し、何より一番重大なことは、父親に家を知られそうになっているにも関わらず、深夜徘徊していたことだと念押しをして、帰宅した。翌日保護者を呼ぶために連絡した。最初から事実関係を認めていた生徒は母親とともに来校し、今後の約束までさせて帰宅させた。もう一人の、北海道転校希望していた生徒の母親は学校には来なかった。後から考えると、この時に臑の傷の写真を撮り、弁護士に相談に行っていたものらしい。
後日、突然教育委員会から呼び出された。体罰で訴えられているというのだ。「受けて立ちましょう」と返事をしたのだが、「それは困るという」のだ。「こちらの顧問弁護士とも相談して、示談の方向に話を進める。」と言うのである。「それはお断りします。直接裁判でも何でもやります。」と応えたのだが、結局のところ、「何もしないでもらいたい」の一点張りで、任せないわけにはいかなくなってしまった。未だに残念で仕方がない。
警察でも事情聴取を受けた。刑事達は一様に同情的であった。事情をどこまで知っているのか、「さんざん世話になった揚げ句に、後足で素直をかけていくようなものだもの、先生もやってられないよな。警察で扱う事件でも、こういう非常識な親が増えてるんだよ。」とのことであった。尤も同情されようが何しようが、罪が軽くなるわけでも、罰金が減るわけでもなかったのだが・・・。地方検察でも事情を聞かれ調書が取られた。調書は話を聞いた検事が、おおよその粗筋を作って作文したものだった。こちらの話しとは似て非なるものであった。そこで、最後に読み上げたので、相当多くの部分を書き換えてもらった。
校長が謝罪に行くと言い出したこともあった。お断りしたのだが、強引に出かけた。その際菓子折を持参したのだが、それがもらい物を使い回したものだった。それでも構わないのだが、運の悪いことに、PTA 会長のけがが全快した際にお礼として受け取ったものだったために、礼状が添えられていたのだ。「ありがとうございます」を訴訟相手に贈ってしまったのだ。母親からは「許せない」という抗議の電話があった。
数日後に、示談を成立させるには70万円が必要だといわれた。「今からでも裁判に切り替えて欲しい」といったのだが、「示談金額が高すぎるので、今後交渉して25万円ぐらいになるよう交渉するので、任せて欲しい」の一点張りであった。不本意ではあったが、ここでも言いなりになるしかなかった。すると数日後に「70万円で決着した」という連絡があった。「話が違うと思ったが、これは立て替えて払い込む」というのであった。まさか本人が払わなくてもいいわけはないと思ったが、まるでそんな口ぶりであった。これが「任せろ」といった意味なのかと思ったのだが、そんなことはすぐに覆された。数日後に、「国家賠償法によって、立て替えた金額をそっくり本人が支払わなくてはならない」と伝えられた。その際に、交渉もうまくいかずに申し訳なかったということと、70万円は「何度に分割しても良いし、あるとき払いで支給もしない」ということであった。ところが数日後に「今週中に全額支払え」という通知が来た。何から何まで、全く以てふざけた話しであるとしか思えなかった。
その後信じられないほど何ごともなかったかのような態度で卒業を迎えた。その後連絡は取っていないが、父親に遭遇したのか暴漢に襲われたのか、親子共々大怪我をしたという噂を聞いたが、確かめていない。
教育委員会からは、わざわざ呼び出されたうえで、こう伝えられた。「体罰教師」のレッテルを貼った教師に、「迷惑をかけたが、よくやってくれているのは分かっているので、来年度も是非、残って欲しい」というのであった。真意が不明である。嫌みのつもりで、当てつければいたたまれなくなると判断したのだとしたら、相当な策士なのかもしれない。策に載せられたとしても答えは一つしかなかった。「こんなところにいられるか」である。
さて、教育は本来裁判とか警察とは馴染みの薄いものである。生徒が嘘をついて事実を隠し通そうとしても、警察や裁判を通じて証拠を科学的に調べて明らかにするというのは馴染まない気がする。生徒が深夜徘徊をしていたら、時計が映り込む位置で証拠写真を撮っておくべきなのであろうか。ビールを飲んでいたら、空き缶の諮問や体液を証拠として調べるべきなのであろうか。あくまでも嘘を吐き続けたら、最終的にはその嘘を認めなくてはならないのであろうか。そうしたことが度々起こったら、困ったら嘘を突き通すに限るということになり、教育などなり立たなくなるのではないのだろうか。どうするべきなのであろうか。
(2) 荒れた学校での体罰
はじめに
「かつて『体罰』は歓迎されていた」と言ったら信じるだろうか。「体罰」が歓迎されていたなどということがありうるだろうか。いったいどんなところの、何時の時代の話であろうか。あるいはただ「体罰」が歓迎されていると誤解したと言うだけの話なのだろうか。
時は昭和50年代。校内暴力真っ盛りの時代のことである。どうしてそう思うのか。次の事情を読んで考えてみて欲しい。
① 校内暴力の実態
1970年代末期から1980年代にかけて中学校に吹き荒れた校内暴力の嵐は本当にすさまじいものだった。体験した者でなければ、中学生の言動とはにわかに信じられないに違いない。定年までの38年間に、8校を経験した。転任する学校は常にその地域で有数の悪評の立つ学校であることが多かった。そこでの体験を基に、実際に起きたことや近年起きたこととして伝えられていたことをまとめてみる。
(ア) 初任校は、すばらしい学校で、授業も生徒会活動なども、文句の付けようのない学校であった。こ こには一年間(正確には9月採用だったため、その年の学年末までの7ヶ月間)しか在籍しなかったが、 翌年度には、近隣の中学校で「生徒が教師に刺される」という事件(「忠生中学生徒刺傷事件」)が起 きている。学校の荒廃状況に耐えられず、教師が生徒を刺した(逆ではない)事件である。
(イ) 二校目では前日出勤の日(春休み中)に、4階の窓から教卓や爀椅子を落とされ、「帰れや―」とい う罵声を浴び、めがねを掛けた同僚となる予定の教師には「銀縁」という罵声も飛んだ。椅子や机は、 正確を期して狙ったものかどうかはわからないが、はじけ飛んだ破片は、体にかすった。すぐに4階 に駆け上がったが、逃げた後だった。事務処理やクラス分けなどをしている最中だろうが、春休み中 でも生徒の出入りは自由だったということである。
(ウ) 始業式後には、下校せずにどこかに隠れており、しばらくして教室を閉め切り、消火栓のホースを 引き込んで、室内に水をため、「プールだ」とはしゃいでいた。
(エ) 自分のクラスではないクラスに入り込み、勝手なことをしていたり、時には花火に点火するなどと いうこともあった。
(オ) 夏休みには、屋上のプールサイドで焼き肉をしていた。
(カ) 授業中にも休み時間にも、校内の止められた車の上に、2階、3階の窓から飛び降り、車の屋根を 潰す遊びが流行っていた。
(キ) 不純異性交遊が横行していた。修学旅行の宿舎で女子が男子を部屋に呼んで売春行為をし、男子の お土産代を巻き上げた。また近所の女子高生が非常階段にいると誘う声を掛け、男女が乱交状態に至 ることがあった。
(ク) 地元に古くからの暴走族があり、卒業生を中心に構成されていたが、その弟妹が准構成員となって、 常に行動を共にしていた。
(ケ) 時には地方の暴走族とつながり、家出した女子が上層部のやくざと関係を持ってしまい、千葉県の 警察官と共に連れ戻しに行った。
(コ) 暴走バイクの後ろに乗ったり、無免許で運転したりするものが耐えなかった。
(サ) 先輩から強要されて万引や強盗まがいの犯罪に手を染める者が絶えなかった。
(シ) この学校も5年経過して見違えるほど治まったかのように見えたのだが、翌年教師が大量に入れ替 わると、生徒に教師が刺されると言おう事件が突発した。
(ス) 3校目は夜間中学だったが、かつての暴走族仲間につけ回され、門・看板・塀などが絶えず破損し、 爆音が鳴り響く日が続いた。
(セ) 4校目に赴任したのは、後から知ったことだが、前任の女性教師が、生徒にも保護者にも強姦され、 退職したため、その後任として配属されたのだった。
(ソ) 教師が殴られた、蹴りを入れられ骨折したなどは枚挙にいとまがない。暴言やいやがらせ、暴行は 日常茶飯事であった。ついには生活指導主任が、土下座させられた生徒からすると教師との争いに決 着が付いたということであった。
(タ) 毎朝卒業生が15,6人で押しかけてきて、正門で中に入れろ、ダメだの応酬から一日が始まる。保 健室への侵入に成功した者が、ベットの下に隠れていて養護教諭のスカートの中にて手を入れ、其の 日限りでスカートをはかなくなった。
(チ) 連係プレーで教室の破壊を目論んでいた。授業中に廊下の壁を激しく叩く蹴るし、追いかけると逃 げ出す。その後別の生徒が教室に設置されていたテレビを持ち出し、リサイクルショップに売り払い、 得た金銭で弁当を買い食いしていた。
(ツ) 他県の高校生を恐喝することもあった。不良高校として名を馳せている学校であった。事情を確か め、高校の生活指導担当が被害生徒と共に中学校に怒鳴り込んできた。よほどの猛者を想像していた のだろうが、「犯人」である小柄な中学生を見て、「こんな奴に恐喝されていたのか」と真剣にぶちぎ れていた。
(テ) 遊び友達に毎日のように金をせびる。自宅から盗ませる。総額は500万円を超えた。それを問い詰 められると、本人が無理やり一緒に遊んでくれと言って金銭を押しつけてくるのだと言い張る。親 に指導の協力を求めると、担任とは大喧嘩になる。うちの子は被害に遭うことがあっても加害者に成 る事などないという。母親に洋服ダンスを見てもらうと、見知らぬ洋服が100着以上も出てきた。そ れだけでなく中学校での一切のテストにすべてはくし解答させるようにさせていた。自分が学年でビ リにならないためであった。その後家にいられなくなって家出する。大量のトラックの駐車場に、毛 布や食力をいろいろな友人に運ばせて生活を続けた。1ヶ月近く家を空けて、親もやっと「うちのガ キは悪いかもしれない」と認め、担任と一緒に毎日夜中まで探し回る日が続いた。
(ト) 近隣の団地内は、まるでニューヨークのスラム街を連想させるような状態だった。
(ナ) 建設中の都立公園で殺人事件を起こし、金品を強奪する。遺体は園内の池に沈め、犯人として浮上 して捕まりそうになると、近くの駐在所を襲って、警官の家族に危害を加える。
(ニ) 生徒に校長室を占拠され、教頭(今は副校長という)が閉じ込められ、ネクタイで首を絞められ、あ わや窒息しそうになる。以後この学校では誰一人としてネクタイをしない。
(ヌ) 夜間パトロールが欠かせなかったが、直接不良グループと出会うことは少なかった。ある時出会っ て暴力沙汰となり、教師の側がたたきのめした生徒達を裸にして公園の周囲を囲む鉄製のネットに縛 り付け放置する。朝までに全身蚊に刺された死体が発見された。
(ネ) 5校目では、着任式の挨拶で朝礼が行われたが、ほとんど並んでいる生徒はおらず、後ろでキャッ チボールやドッチボールをしている生徒が20人ほどいた。舞台を飛び降りて、次々とその生徒を殴 りつける田。教室に行ってクラス開きをしようとすると、先ほどの生徒のほとんどが、自分のクラス の生徒だった。
(ノ) 禁止されている自転車通学は、堂々と行われ、校庭内に生徒の自転車が数十台並べられていた。注 意すると悪びれずに、逆らうでもなく「気にしないで」のひと言だった。
(ハ) アルチューのタクシー運転者が保護者の一人であった。警察でも有名人物だったようだ。酒気帯び の間は暴れて暴言を吐くが、酒が抜けると小さくなってひたすら謝罪して帰った。ただし、それには 3時間も4時間もかかるのが常だった。半年後に住宅公団の非常階段から転落死した。
(ヒ) 商店街で万引きし、騒いでいる生徒が居ると連絡が入る。出かけると間違いなく本校の生徒、二人 だった。近所中を追いかけ回し、大きな道路に飛び出したところで、二人共トラックにひかれた。
(フ) 隣接する学校の卒業生がいわゆる「コンクリート詰め殺人事件」を起こした。
(ヘ) 隣接する中学校の教師がノイローゼで、地下鉄の駅で飛び込み自殺を下之もこの頃であった。
(ホ) 二人を殺したという容疑で逮捕された者もいる。尤もこれは母と姉が売春行為を繰り返しており、6 畳一間で暮らす彼が、遂に我慢できなくなってしまった結果であった。赤城の少年刑務所で卒業を迎 えた。
(マ) もともと父親が盗みを働かせていたのだが、いつの間にか自分から空き巣ではなく強盗を働くよう になってしまった。味を占めたのか、在宅する女性を襲い、金品の強奪だけでなく、必ず強姦するよ うになった。家庭裁判所の調査では、中学校の3年間で6歳から60歳代までの女性70人以上と関係 を持ち、膣外射精などの知識や技術は恐ろしいほどだったと言われた。
(ミ) 友達に誘われてはじめた売春行為がやみつきになってしまう。金銭抜きでも性交をせずにはいられ なくなり、そうした評判から連日性交の相手をしない日はないほどになってしまった。親を説得し、 教護院での生活を通してやり直すきっかけを掴ませることとした。
(ム) 6校目では、最初に出勤すると、職員室前が異常に騒がしかった。聞くと教護院から脱走してきた 在校生が、暴れているという。こちらに向かってきたところを一本背負いでなげとバスト、拾遺の先 生方が一斉に飛びかかって押しつぶした。警察に連絡し、少年課で常々お世話になっていた警官に引 き渡した。
(メ) なぜか職員が持つ共通の鍵を持っており、深夜に何度も校内に侵入し、さまざまなものを盗み出し ていた。現場を捕まえたり、追いかけ回したりして、親にも協力を求めるが、全然取り合わない。「こ んな夜遅くに何だ」「私は具合が悪くて休んでいる」と言った応対の繰り返しだった。
(モ) 遂に学校だけでは済まず、バイクを盗み、無免許運転で事故を起こした警察に補導されてやっと、 親は「うちの子は悪いかもしれない」と相談してきた。家庭裁判所で審査され、教護院に入れられる こととなった。家庭三番書で親が意見の申し立てをするようにいわれているので、先生がしてほしい といわれ、断ったが、例外的に認められると言うことになったので、「将来ろくなものには成りそう もないので、減雑に書して欲しい」と本人の前で申し立てをした。
(ヤ) 8校目は、赴任する前年まで、地元やくざの親分の息子が入学し、それを裂けるために新入生は5 人しかいなかったという。勝手放題をさせないために、窓一つ取っても鉄板で両側5センチほどしか 開かないように閉ざされていた。目の前の一番被害に遭って仕方がない家というのが、元警察署長の 自宅だったという。翌年、学校がすっかり治まり、雪が積もった日に部活で雪掻きをし、ついでにそ の家の前の雪もどかすと、感激して菓子折を戴き、生徒に分け与えた。
(ユ) 9校目は、始めて登校した日に、帰りがけ自転車置き場を見ると、ほとんど全部の自転車のサドル が抜き去られていた。
(ヨ) 屋上は閉鎖して施錠してあるのだが、屋上へ上がる踊り場が生徒のたまり場となり、窓サッシの敷 井には煙草の吸い殻が数列に渡って詰め込まれていた。
(ラ) 給食は連日盗まれていた。サンプルのおかずは言うに及ばず、牛乳も冷蔵庫を鎖で縛り、南京錠で 施錠してあるのだが、どうやる者かよくわからないままだったが、必ず盗まれていた。
(リ) 廊下の曲がり角にある教室の決まった壁が集中攻撃を受け、補習しても数日後には破戒され続けた。
(ル) シンナーを吸っていたのかどうか不明だが、盗んだ乗用車を無免許で運転し、見通しの良い直線道 路で、信号に激突し、運転者は死亡し、同乗していた4人も大怪我を負った。
以上が大まかに行ってぼくが体験したものである。ここには、悪いことはコソコソとやるべきだという感覚はどこにも見当たらず、白昼、衆目を集めながら、堂々と犯罪行為が繰り返される事態となっていた。
学校が荒れるか治まるかには波のようなものがあり、とても自慢にはならないが、赴任して数年経つと、信じられないくらいに落ち付いてしまっていることが多かった。ただ、一部には離任して間もなくまた大事件が起こったところもある。
それでいながら、一度落ち付いてしまうと、教師と生徒の信頼関係は深まるようであった。近隣の中学校の不良が、つるんで悪さをしようと誘いに来ても、タイマンを張ろうと対決しに来ても、決まって「俺たち今年は先生達と仲良くなったんだ」などと言って追い払うのだった。つい先日までそれこそ目つき・顔つきは、獣のように凶暴であったのが嘘のようなのである。
ぼくは今でもここに「体罰」を待ち望む姿を見ている。
荒れた学校の生徒は、必ず新しく赴任してきた教師に絡んでくる。それはこの新任教師がどれほどの者かを試すためだ。
なぜ試す必要があるのだろうか。それは自分自身を守れるかどうかを試す必要があるからだ。荒れた学校というのは同級生も「ワル」が多いのである。悪さの張り合いをしなければ、嘗められてしまいかねない。そこで虚勢を張る。同級生ばかりではなく、荒廃も背中を見ている。そこでも強がる必要がある。これが先輩となればなおさらである。悪いことを断りでもしたら罰が下される。逆らったらリンチである。忖度してやれと言われた以上のことをやって鼻を明かす訳ではないが、褒められなくては、すぐにでもやりにくくなってくる。さらに卒業生が出てくる。これがまた後輩に「いいところ」を見せようとするから始末に負えない。すぐに「そんなこともできねえのか、びびってんじゃねえよ」とくるのである。そして一番の見せ場は、他校との喧嘩である。舎弟にしたとかされたとかが最大の関心事である。負けて舎弟にされてしまえば、在校生だけでなく先輩も卒業生も危ういのである。実際に喧嘩をしてみれば、偉そうなことを言う奴ほどたいしたことないのが常である。たちまちのうちに惨めな子分にされてしまうのである。子分としての生活は過酷である。嫌な事でも恐ろしいことでも危ないことでも、虚勢を張って、全然平気だという顔をしてこなさなくてはならないのである。お前らには負けたけど、ほかの奴らには負けないんだという虚勢を精いっぱい張るしかないのである。
子分の生活という惨めさは、いやという程知り尽くしている。何しろ自分がそうした仕打ちを、さんざんしてきたからである。まさに「明日は我が身」の危機に常に瀕しているのが「不良生活」なのである。虚勢と恐怖は裏と表の関係なのである。
さて、目の前に今までとは違う新しい教師がやって来た。だいたい教師などというものは、真面目な奴のなれの果てで、口先だけの大したことの内奴だと相場は決まっている。だからあまり当てにはしていないが、とりあえず確かめるだけは確かめてみよう、という訳である。絡んでやっつけてしまえば。子分を増やすだけのことである。しかし、もし教師にやられてしまえば、可能性がある。それを試そうという訳である。
いったい何を試すというのか。それは、自分が全力で脅し、手を出して、勝てるかどうかということである。なぜそんなことを試すのか。それは、自分のまわりの不良の誰かと対決して、万が一やられてしまったら子分にされてしまい、地獄の生活を送ることになる。その時この教師が少なくとも自分より強かったら、自分が負けた相手に活可能性がある。自分より弱ければ相手にする必要はない。しかし自分より強かった時には、いざとなった時に自分を守ってくれる可能性がある。それを試すのである。そこでは、ある意味では暴力を待ち望んでいるとも言える。徹底的にやられてしまえば、それだけいざという時に頼りになるというものだ。つまり、とりあえずは暴力歓迎という訳だ。これは不良だけではなく、それまで不良に大きな態度をされ、いじめられたり、嫌な事をされたりしていたほかの生徒にとっても、不良がやられてしまうのは痛快であり、今後の生活に一條の光明が差した思いであったろう。だからこそ、自分たちが完全に負けたと認めた暁には、「先生達と仲良くなった」という言い方をして、後輩も先輩も、他校の不良も遠ざけるようになるのだ。もちろんしがらみは簡単には解けないだろうが、いじめの問題と同じで、拒否してもしつこくつきまとわれ、口止めされるに決まっている。しかし、やられた度に告げ口し、仕返ししてもらうことによって、徐々に「やっても面白くねえ」「やればやるほど仕返しされる」ということが身に染みて分かるまで繰り返せば、関係は切れていくのだ。むしろ関係を切る道はそれしかないと言っても良いかもしれない。憂くなくとも肥厚性とや不良と呼ばれる生徒は、「体罰」を待望していたと言えるのではないだろうか。
生徒と教師の関係が「正常化」(というのも変な言い方だが)舌暁には、二度と体罰という名の暴力が用いられることはなくなる。「仲良くなった」のだから当然の結果である。もちろんその後も罰せなくてはならないことは必ず起こる。しかし、「罰」に「暴力」は既に不要となっているのである。
②「暴力」以外は通用しないのか
さて、解き放たれて自由にはじけ飛んでいた、荒れた学校の生徒達を鎮圧するのは、果たして「体罰」なのだろうか。生まれたその時から非行も不良もないはずであるから、どこかで何時か「解き放たれて勝手気ままを通すようになった」というわけだろうが、それがどういう事情によるものなのかも確かめてみなくてはならないだろう。「暴力を振るう者は必ず暴力を受けて育っている」ということが言われている。DVなどの調査結果としては相当信頼できるところまで言っているようである。しかし、本当にそれだけなのであろうか。暴力を受け続けたからこそ、暴力には手を染めないということもありそうに思うのだが、どうだろうか。
ところで、荒れた学校の生徒達を、「鎮圧」するまでに「体罰」が歓迎されていると、経験上の大雑把な意見として先に述べた。根拠の薄い体験上の感覚としてはまさにその通りなのであるが、鎮圧するまでに振るった「暴力」が「体罰」であり、「仲良くなって」からは「体罰」も「暴力」も必要ないというのはどうなっているのであろうか。はじけ飛んでいて、収まりの付かない暴動に「罰」を与えたという意味では、「体罰」という言葉が一番ぴったりするように思えるのだが、「仲良くなった」後には、「罰」を与える必要が生まれた時にも「体罰」は不要だったというのは、どこかがすれ違っているようには見えないだろうか。
先に41項目にもわたって記したことの大部分に鉄拳制裁を加えたのは事実だが、果たしてそれは「体罰」だったのだろうか。「体罰」でないとしたら何なのであろうか。殴る蹴るの強弱の加減であろうか、殴る蹴るのタイミング(出来事の直後か、出来事の後十分に理由を説明した跡であるか)、相手との人間関係の濃い薄いの違いであろうか。そうしたところをいくら検討しても、明確な答えは出てきそうもない。肝心なことは、沈静化するための手段として、最も単純かつ表面的な方法の提示として「体罰」という名の「暴力」を示したが、ちょっと考えたら、事態の沈静化に当たっては必ずしも「暴力」でなくても良さそうなのである。というのも、事態を沈静化させるのは、暴力の行使が得意な男性教師だけではないからである。実際に、細身で小柄な女性教師で、極めて強い鎮静力を持っている方もいるのである。もちろん決して卓越した武道家という訳ではない。
では、それは何であろうか。それを見事に言い表す言葉を探してみるのだが、見つからない。というよりそれが何であるのかということ自体がわかっていないというべきだろう。「絶対に譲らない強さ」「決して見捨てないという信頼感」・・・何ともうまく言い表す言葉がない。その結果、当然ではあるがそれがどうしたら身につくのか、どうしたら相手(生徒)に承認させることが出来るのかと言ったことは到底分からないのである。ただ実際に存在することは確かなのである。
例えば、ある学校に「親分」という仇名の家庭科の女性教師がいた。豪快な言動で一目置かれ、酒豪であることも公然の秘密となっていて、生徒からも怖れられながら親しみを持たれていた。その方が、翌年来られる数学の女教師のことを「わたしの師匠」と呼んでいた。ともかく凄い先生で、「てきぱきとしていて、びしびし生徒を鍛える方で、何もかもその先生から教わったのだが、とても今でもその先生には頭が上がらない」ということだった。果たしてどんな凄い方が見えるのかと、誰もが戦々恐々としていた。ところが見えたのは、女性としても非常に小柄で細身の先生だった。誰もが一様に気が抜けてしまったのだが、一緒に生活を始めると、本当にてきぱきことを進め、妥協をせずに徹底しており、まごまごしているとたちまち尻を叩かれ兼ねなかったのである。不良もおちおちしておられず絶えず追い回されているかのようであった。「気合い」と「経験値」と「効率的な計画力」と他には何であろうか。ともかく好きなくことを進められる力をお持ちであった。
③ 学校荒廃の原因
学校の荒廃が、なぜ全国一律に波及していったのか。少なくともそれは原因がある学校の特殊事情ではないことを示している。
戦争直後に、革命前夜といわれた労働運動が盛り上がり、不当解雇をはじめとして、数々の犠牲者が出て、悲惨な目に遭った。初代の国鉄総裁までも虐殺された。
その後の学生運動でも、悲惨な犠牲者は後を絶たなかった。素手で東大に突入して虐殺された女子学生がいた。その場にいなかったのに濡れ衣を着せられて首謀者とされた医学生がいた。次から次に犠牲者が生まれた。最初は後から後から沸き上がった怒りの声も、やがて枯渇し始める。最も誠実であったが故に、最も勇敢に戦った者が犠牲になっていった。正義は勝てなかったのである。当初は、一生懸命戦った者が最も酷い目に遭ったことに対する反発も、やがては失われていった。そのあとに生まれてきたのは、三無主義、四無主義と呼ばれたやる気の無さであった。
まともに取り組んだら、馬鹿を見る。適当に流してしまうのが一番無難だ。余計なことには手も口も出さないに限る。そんな若者が大人になった頃、それを見て育ったこどもたちは、大人を馬鹿にし、名寝て育った。母親からも、「お父さんのようになってはダメだ」と念を押された。しかし、誰もが父親を越えられるわけではないことは、はじめからわかりきっていた。はっきりしているのは、真面目にやる必要などないこと。誠実に取り組めば馬鹿を見るしかないこと。好き放題に勝手なことをやっても、大人はまともに指導などできないし、しようともしないことがわかってくる。大人がそのことを身を以て教えてくれたのである。
無軌道で放縦な行動に見えた、学校を崩壊させた荒れた生徒達は、実は「止めてみろ」「止めてくれ」と叫んでいたのである。だからこそその刃は、他ならぬ学校や、最も近い親と教師に向けられたのである。もちろん、「止められるものなら止めてみろ」であり、「止められてたまるか」であったのだから、止めるのは容易ではなかった。しかし、止められてしまった後には、強い絆が結ばれることが多かったのもまた事実である。
終わりに
暴力ではなく、気迫で毅然と荒れた生徒達に立ち向かった、小さな巨人である女教師は、残念なことに、定年を間近に控えて、癌のために亡くなってしまった。偶然でもないだろうが、先の「コンクリート詰め殺人事件の取材で押し寄せるマスコミの攻勢に立ち向かい、最低限の矜持を死守して学校を守り抜いた当時の生活指導も定年を間近に控えて癌で亡くなっている。もしかするとこのお二人こそが、どんな学校にいても学校の秩序を守り抜ける方だったのではないかと思うと、そこから大したことを学べなかったことを、本心から残念に思う。と同時に、荒れた学校を建て直すなどということは、もう時代の使命を終えたからこそ、お二人も使命を終えたのだろうかとも思えてくる。今の新たな課題は何なのであろうか。そしてそれに有効な教育は始まっているのだろうか。
現実に起こっている事実に、自分の五感をフルに働かせて立ち向かうのではなく、どこかで設定された課題に答えを探すような風潮が強まっているように思えてならないのはぼくだけであろうか。本気で、今目の前にいる生徒達にむけて、何をどう提示し、共に答えを探そうとしているのか。実は自分にとっては、本当はどうでも良いことであるにも拘わらず、解決すべき課題として押しつけられ、それへの対処に汲々としている。過ぎ去ってみたら空しいだけだったなどということはないのだろうか。学校の荒廃が進んだ時期には、誰の目にも課題は目の前にはっきりと見えていた。そんなときにさえ、問題を直視し、正面から取り組むことを避けようとしているかのようにしか見えない人もいた。今や問題は露出しているとは言いがたいように思える。自分は本当にこれの解決を求めているのだろうかと、立ち止まって考える余裕や必要はないのだろうか。そのためにこれで良いのだろうかと疑いを持つ必要はないのだろうか。
9.良い学校の現状
はじめに
今や荒れた学校などほとんど聞かない。良い学校ばかりになっている。そこでは「体罰」など必要とされない。生徒は決まりを守り、反抗的な態度を取ることもない。あまりにも素直で、さまざまなことがすんなり罷り通り、受け入れられてしまっている現状を見ると、生徒が学校に何も期待していないのではないかと思えてしまう。「良い学校」とされる中で実際に起きていることは例えば
(1) 時間厳守のご都合主義
登校時間は5憤前のさらに数分前。何のための予鈴か。予鈴に遅刻しても走らされる。最も早 めの登校は良いこと。道徳教材に遅刻がみんなの時間を人数分だけ無駄にすること。
チャイム着席も、休み時間中に着席を実施させる。
ところが部活の再登校は、決められた時間に1分でも早いと注意を受けて、外に出される。そ れに黙って従うのが、本当に良いことか。何も考えていないのではないか。
(2) 整然とした授業態度
図書館での会話は厳禁。しかし、授業中はそうではないはず。同じことを危機、質問に答えな がら知識や技能を増やす場。興味を持って質疑応答を繰り返す場。活気のある場が普通。ところ が黙って聞いているだけ。ほんの一部の生徒とのやりとりだけで次に進む授業。聞いているのか いないのか、分かっているのかいないのか、定期テストだけで測るのだろうか。分かっていなく ても、生徒も教師も気にしない、何の意味もない空間が、良い授業態度とされる。死んだ授業で はないのか。
(3) 提出期限
夏休み中に設定された提出期限。当日提出しようとしたら、教科担任が休暇中。予定通りの休 日が、提出締め切り日。間違いはあり得る。ただし謝るべき。ところがほかの教師が、提出期限 ギリギリであることが良くないと指導。早めに出さないことが遅れた原因とされる。理不尽きわ まりないが、生徒が謝罪。これが良い学校のジッタだとすると、良い学校とは、教師がご都合主 義を働いても問題にならない学校ということか。そこで「教育」された生徒は、価値あることを 身につけられたのか。
ちなみに、ハーバード大学では締め切り日前にレポートを提出しようとすると、非難されることが多いという。まだ提出期限まで余裕があるのに、先に提出してしまうということは、ぎりぎりまで内容を検討し、よりよいものに仕上げようという気持ちに欠けていると判断されてしまうという。何でもかんでも外国流の考え方が合理的だとはいわないが、この場合は一理あるというべきではないだろうか。少なくとも、こうした考え方があることを知ったうえで、それでも期限前に提出するのがいいと判断したなら、それはそれでひとつの知見である。しかし、知らずにそんなことを指導していたのであれば、狭い知見に安住している愚か者か、ご都合主義で自説がころころ変わってしまう、信頼できない人間かのいずれかになるだろう。前者の方が後者よりは悪質性が少ない分増しだろうか。
おわりに
「体罰」は、どうやら過大な期待に、早急に応えようとした結果生み出されたもののようだ。もともとは文字通り命がけの戦場で、命令をできる限り正確に素早く行き渡らせるために、問答無用で最優先に取り組まなければいけない習慣を身につけるためのものであったのかもしれない。ところがそれを日常的に維持し、優越感を持って命令一過で他人を操ることができてしまうと、それを濫用する習慣が出来上がってしまう。その結果不必要な場面でも「体罰」の濫用が始まる。当然それはとんでもない「卑怯」な振る舞いとして、徹底して排除されなくてはならない。「体罰」などなくても、安定と平穏が維持されれば良いのである。
戦争もなければ、荒れた学校もなくなった今日、「体罰」による命令遂行など不要となった。「体罰」など全くなくとも不都合はなくなり、「決まり」も十分に維持されているのである。
しかし、「体罰」なき世界がもたらした「良い学校」は、本当に望ましい学校だったのであろうか。学校の決まりにも先生のいうことにも、反抗することなく従っている。授業にも大人しく参加している。遅刻も少なく、予鈴前に駆け込んでくるし、チャイム着席はできている。しかし、授業を楽しんでいるのだろうか。授業の内容も、決まりや教師の指示についても自分の頭で考えて判断しているのだろうか。そうしたことがないところで、先生に対する敬意など生まれるのであろうか。「憧れの先生」などというものはとっくの昔に絶滅し、せいぜい関わりのある期間だけ少しばかり親しげに過ごすだけなのではないだろうか。先生が転勤してしまうと、転任先の学校に訪ねる生徒はいないようだ。ぼくでさえ、ほとんどすべての転勤先に生徒は尋ねてきた。自宅を訪ねて生徒もたくさんいた。今は住所も教えないらしい。まるで、クラス替えで別のクラスになると、それまで親しげにしていたのに全く交流がなくなってしまう、児童生徒と同じ程度の関わりしかないということのようだ。
教師の方も、思い通りの指導を細かくはしない傾向があるようだ。面倒だから指導も大雑把になる。生徒の立場に立って考えるなどということはないから、理不尽な指示も辞さなくなる。事細かく指示したら、いずれ「体罰」に至りかねないことを感じているから、遠くにいる家に指導を回避してしまうのだろう。「分からないならそれでいい」ということになる。それでも「成績」や「進路」が影響して、結局は従うとでも思っているのだろうか。「体罰」には当たらなくても、「体罰」以上に陰湿な指導ではないのだろうか。
もう既に定年し、教える立場を退いて何年も経つ身であれば、余計なお世話だろうが、学校は、「義務だから通っているが、問題を起こさずにささと卒業してしまうところ」、「義務ではなくてもみんなが行っているから自分も無事に卒業できるように、大きな問題を起こさないように振る舞うところ」といった程度の関わりしか持たなくなってしまうのではないだろうか。そこにあるのは表面的な平和と、無ないような時間の無駄だけである。「教育」とは似ても似つかないののなのではないだろうか。しかし、「良い学校」を変えようとは、誰もしないであろう。
校舎が次々と建て替えられている。耐震構造がしっかりして、硝子張りの明るい教室に広い廊下が広がっている。自動ドアにエレベーターまで完備している。見かけは立派になったが、如何にも張り子の虎に見えてしまうのは、狭くて汚い校舎しか利用できなかった者のひがみに過ぎないだろうか。