’目次】はじめに
1.塙保己一の生涯
2.群書類従の編纂
3.塙保己一のエピソード
はじめに
世の中には驚くべき偉業を達成する「天才」が数多く存在する。その中に走られざる人物や忘れ去られた人物もいる。そんなひとりに、塙保己一がいる。塙保己一は記憶の天才であった。
塙保己一は江戸時代後期に活躍した全盲の学者である。驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従」の編纂を成し遂げたのだ。その名前の由来は、「五経群書、以類相従」(五経やその他の典籍を、類によって分類する)という言葉からきており、様々な書物を分類整理してまとめたことを意味する。古代から江戸時代初期までの史書、文学作品、その他様々な国書を25の部門に分類して、神祇、帝王、律令、公事など、様々なテーマに関する資料が収録されている。読者は、各書目にふさわしい「部立て(テーマ)」を手がかりに、自分の関心のあるテーマをめくって、目当ての語句を探すという使い方ができる。日本の文化や歴史に関する研究に多大な貢献をしている。こうした膨大な資料の整理を、目が見えない塙保己一が成し遂げたのである。
さらに、48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所」を創設し、多くの弟子を育てた。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのである。そして、1821(文政4)年2月、盲人社会の最高位である総検校につき、同年9月に天命を全うした。
塙保己一は盲目の身で国家的大事業を成し遂げただけでなく目の不自由な仲間のことを忘れず、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために力を注いだ。
保己一の生い立ちとその偉業は、次のようなものである。
1.塙保己一の生涯(年齢は数え年)
塙保己一は、1746(延享3)年5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれた。
生家・母方とも農家であるが、生家はのちに苗字・帯刀を許され、母方の叔父は『孝義録』に「名主」として記載された旧家であった。
幼名は生まれ年の干支にちなんで、寅之助と称した。生まれつき丈夫な方ではなく、1752年(宝暦2年)7歳の時、肝の病がもとで失明、修験者の勧めにより名を辰之助と変えた。
さらに、1757(宝暦7)年12歳の時には母を病気で失い、失意のなかで江戸出府を決意した。
当時、江戸では『太平記』を暗記してそれを読み聞かせて名を成している者がいることを聞き保己一は、「わずか四十巻の本を暗記することで妻子を養えるなら、自分にも不可能なことではない」と言ったという逸話が伝えられている。
1760(宝暦10)年、江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となった。絹商人に連れられて江戸へ出る辰之助(保己一)時に15歳であった。
名を千弥と改め、師匠、兄弟子から鍼・按摩・灸、琴・三味線などの手ほどきを受けたが、いっこうに上達しなかった。
一年たった時、絶望から自殺を決意したが思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を師匠に打ち明けると、「博打と盗みはいけないが、好きな道を目指すのは結構なこと。これから三年間は面倒をみよう。しかし、見込みがなければ故郷に帰すとしよう」というありがたい返事であった。
隣家に住む旗本・松平乗尹からは学問の手ほどきを受け、さらに乗尹はその向学心に感心して萩原宗固、山岡浚明らを紹介し、文学・医学・律令・神道など広い学問を学ばせてくれた。
1772年27歳の時には亀戸天神に参詣して、向こう一万日に毎日般若心経を百巻ずつ読むことを誓い、さらにその半分の50万巻に達するまでに書物を1000冊読んでもらい、百万巻を読み終わるまでにそれまでに読んだ書物を全部出版することを決意した。実際には、一万日で2018690巻を読破したと、彼の妻が記録していたという。
その後師匠は身体の弱い保己一を心配して、旅をすれば丈夫になるだろうと、21歳の春、父と共に関西旅行を勧め、京都の北野天満宮を詣でた時、菅原道真を守護神と決めた。
2ヵ月の旅行を終え戻ると丈夫な体となり、以降学問への集中力が高まった。
それから三年後、最晩年の賀茂真淵に入門、『六国史』などを学んだ。真淵に就いた期間はわずか半年ではあったが、師から得た学問や研究仲間は生涯貴重な財産となった。
2.群書類従編纂をめざす
1775(安永4)年30歳の時、勾当(こうとう;役所や寺院の時務を専門に担当する。別当の下で庶務を司どる。)に進んだのを機に、師匠の雨富須賀一検校の本姓である塙姓を譲り受け、名も保己一と改めた。これは中国の書『文選』に「己を保ち百年を安んず」とあるのを出典としたもので、百歳までも生きて目的を遂げようと、との意味にとれる。
1779(安永8)年、34歳の時、『群書類従』の編纂を始めるが、これは実に40年の歳月をかけての大事業であった。これによってわが国の貴重書が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。
さらに1785(天明5)年40歳の時には水戸藩の彰考館に招かれて『参考源平盛衰記』の校訂にあずかり、続いて44歳の時に『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。
その後、幕府から座中取締役という役に任用されたが、これは乱れた盲人社会の倫理粛清をめざすもので、保己一でなければ果たし得ない大改革であった。
1793(寛政5)年48歳の時に、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕和学講談所跡府に願い出て許され、建設費の借用もかない、番町に土地を賜ることとなった。
和学講談所は、形式的には林大学頭(述斎)の支配下におかれることとなり、講談所は幕府の官学に準ずる機関となった。こののちも幕府から開版費用や新たな版木倉庫建築費の借用を許され、さらに大阪の豪商・鴻池伊助、増本屋安兵衛などからの多額の借用もかない、保己一の編纂事業などは進められた。
1815(文化12)年正月、保己一は長年学問上の御用をつとめた実績によって将軍家にお目見えを願いでて、同4月実現した。当時、総検校職に次ぐ二老に昇進すると将軍家(十一代家斉)にお目見えが許されるのが慣例であったが、保己一はその慣例と関係なく、二老昇進の三年も前にお目見えがかなった。長く学問に従事している門人の励みになるよう、さらに学問の振興を図ろうという個人の名誉ではなく、ひろく学界の発展を考えた念願が達せられた。
生涯をかけた『群書類従』は1819(文政2)年、74歳の時完成した。すでに進行中の『続群書類従』などの編纂事業のゆくすえを心配しながら、同4年9月12日に逝去した。享年76歳。墓所は新宿区若葉の愛染院にある。1911(明治44)年、特旨をもって正四位を贈られた。
同じく盲目で、耳も聞こえないという障害を持った有名任ニヘレン・ケラーがいる。彼女を知らない人はいないだろう。ヘレン:ケラーがサリバン先生との間での激しい葛藤を経て成長していったことはよく知られている。それは、母親が我が子もハンデを抱えてはいるが、必ずそれを乗り越えるに違いないと考えたからにほかならない。なぜヘレン・ケラーの母親がそんなことを考えることができたのか。何の根拠もなければ、ただの独りよがり、不可能を押してけて苦しめるだけの悪魔のような母親でしかないことになる。そうではなかったのは、この母親が、盲目の日本の偉人、塙保己一の存在を知っていたからなのである。アメリカ人が知っている日本人を、同胞の我々が知らないことは非常にもったいない宝の持ち腐れであろう。後日ヘレン・ケラーは来日し「今日の自分があるのは塙先生のお蔭だ」と述べているのである。
1931(昭和12)年には、ヘレン・ケラーが来日。4月26日、「群書類従」の版木や塙保己一の小さなブロンズ像に触れた。
3.塙保己一のエピソード
その1.記憶力
保己一の書庫には6万冊の本があったとされ、そのすべてを記憶していた。
晩年、ある歌会の判者を頼まれ、50首の歌を聞いて自宅に戻った。さて、歌を思い出そうとしたが、どうしても3首だけ思い出せなかった。
「わしも、このようにものを忘れるようになっては、もう死ぬかもしれない」とさびしくつぶやいたという。
また、集中力を高めるため「般若心経」を毎日百巻唱え、生涯に220万巻を超えた。まさに努力の人であった。
その2.集中力
保己一が10代のとき、下手な按摩ながら贔屓にしてくれた人がいた。その中のひとり旗本の高井大隈守実員の奥方は保己一の書物好きを知って、読み聞かせをしてくれた。
ある夏の晩、蚊帳の中で読む奥方は彼が蚊帳の外で両手を紐で縛ってじっと聞いているのに気づいた。奥方がどうしたのかと尋ねると「蚊に気をとられると、せっかく読んでくださった本の内容を聞き忘れてしまうからです」と答えた。
その集中力に感心した奥方は、ご褒美に「栄華物語」を買って与え、保己一は生涯大事にしたという。
その3.無欲
水戸家での講義が終わったあと、徳川治保(文公)から「なにか食べたいものがあるか」と尋ねられたところ、「里芋が食べてみとうございます」と答えた。
そのあと山盛りに出された里芋を満足そうに頬張る保己一を治保は笑いながら見ていた。
また、いつも同じ服装なので訳を聞くと「服はこれよりほかはございません」と言ったので、服を新調して与えたという。
保己一は、衣食代よりも本代にすべてをかけたのである。
その4.健康
保己一は子どものころから身体が弱かった。雨富須賀一検校に弟子入りしたときも体調がすぐれなかった。心配した師匠は、旅をさせれば丈夫になるだろうと旅費を与え、父と一緒に京都・大阪方面に行かせた。そのおかげで身体は強くなり、以後一日も休むことのできない仕事が続けられるようになった。
普段の食事は、一汁一菜という実に質素なものであった。座り仕事が多かったので、この方が理にかなっていたのであろう。
その5.判断力
保己一のところに「さんずい偏に吉」と書かれた手紙を持った者が来て「この町はどこでしょうか?」と尋ねた。
対応した門人はさっぱりわからずにいたが、保己一は「油町だろう」と答えた。
「どうしてですか?」と聞くと「これを書いた人が油という字を忘れて、近くにいた人に聞いた時、さんずいにヨシと教えた。そのとき、さんずいに由と書くべきをさんずいに吉と書いたのだ」と推理した。
本を読んでもらうとき、漢字の偏や旁、ひらがなか、カタカナかすべてを正確に覚えていたから瞬時に判断できたのである。
その6.怒らぬ誓い
保己一16歳のとき、「怒らぬ誓い」を人生観に定めたという。伝記によると「人間は小さなことで、感情的に怒るようでは大業は成就しない。どうか、この1年間絶対にそういう気持ちにならないようにと、年のはじめごとに心に誓い、それを生涯にわたって実行した」と伝えている。
この自覚と努力が保己一を内面から育てたのである。その後この誓いは、よき協力者への感謝の気持ちと誠実につくすという心に発展していったのである。
その7.保己一の死後
保己一が亡くなると、和学講談所の事業は四男・忠宝(ただとみ)が継承することになったが、1862(文久2)年12月に事実無根の風評によって浪士に暗殺されてしまう。
その犯人は、若き日の伊藤博文と山尾庸三であった。後年、両名は明治政府の要職に就いたが、過ぎ日の自身の行動を反省し、障害者福祉の発展に尽力したといわれている。(司馬遼太郎著「幕末」参照)
その8.保己一の蔵書
保己一と同時代の国学者・足代弘訓は、江戸の蔵書化について次のように述べている。
「書物の多きは聖堂なり、次は浅草守村次郎兵衛の10万巻、次は阿波の国・蜂須賀治昭の6万巻、次は塙氏6万巻ばかりあり・・・」
和学講談所の蔵書は厳しく管理され、貸し出しは禁止されていたが保己一は誰でも入門を許し、講義の聴講や史料の閲覧にも快く応じた。
その9.保己一の人柄
『群書類従』(666冊)は日本で最初の本格的な出版事業であった。広告募集をかけ、限定予約出版で購入者に負担がかからないよう、月4冊の配本としたのは画期的であった。
このほかにも盲人一座の綱紀粛正を図ったり、豪商との借入金の交渉、幕府との政治折衝、公家・藩主・知識人との交流など幅広い人脈を構築し庶民からも親しまれ、講談や川柳、逸話などにも名を残している。