「金太一家」の十七条憲法

 1980年4月に入学してきた生徒を、2年間担任した。前年には、赴任初年に3年の担任となった。前年の9月に採用され、教師になって3年目、25歳の年だった。教師4年目で2回目の卒業生を担任して、送り出すことになった。
 この当時のはやりが、命の大切さを教えようということであった。テーマは立派だが、学校でやることは、いつの時代もせこいものである。何をするかといえば、教室に花を飾り、小魚を入れた水槽を置き、せいぜい鳥かごに小鳥を飼うことであった。しかし、小鳥でさえも病気の感染を心配して、あまり推奨されなかった。
 小動物や植物にも、確かに大切な命があることは間違いない。しかし、正直なところ、そうしたものの命には、失われても大きな衝撃など受けないことが多かった。花が枯れ、鉢植えがしぼんでしまっても、心を痛めるというほどのことはなさそうだった。もちろん心優しい生徒もいて、それを悲しむこともあったに違いない。しかし大多数の生徒は、ゴミ箱に投げ捨てて平然としていたのではないだろうか。
 金魚が死んでも、墓を作るということは滅多になかった。枯れた花を投げ捨て、金魚を花壇の炭に投げ捨てるのを繰り返すだけでは、命を大切にするというより、命を粗末にすることになれてしまいかねないように思われた。
 そこで、失われたらかなりのショックを誰もが感じるに違いないような物を飼うことにした。そうした呼びかけにいち早く反応して動物を連れてきた生徒がいた。連れてきたのは、生まれたばかりの子犬だった。牛乳しか与えられない時期には、教室の隅に寝かせ、担任が毎朝毎晩自宅に連れ帰った。
 名前は「金太」とした。子犬は順調に育った。土佐犬との雑種ということで、たちまちのうちに大きくなり、生徒が一人や二人では引きずられて、コントロールできなくなっていた。もう教室で飼うことが出来なくなり、体育館の外階段の下で飼うことにした。
 管理職からは毎日注意された。もし犬に噛まれでもしたら責任問題だというわけだ。忠告は聞き流しながら、毎日犬都共に通勤する日が続いた。ときどき生徒の一存で自宅に連れ帰った生徒が、親に怒られて夜遅くに引き取りに行く羽目になったこともあった。 幸いにして誰かが噛まれると云う事はなかった。管理職も諦めたのか、こっそり体育館脇の犬に、給食の残りを与えていたりした。
 平日運動させ、行き帰りの担任に随伴する生徒も居り、土日にも担任につきあって朝晩の運動につきあう生徒もいた。
 小さなトラブルは幾つもあったが、概ね順調に犬のいるクラスの生活は続いた。一番困ったのは、このクラスでは犬を飼っていると知れ渡ると、何を勘違いしたのか、動物を連れてくるほかのクラスの生徒が続出したことであった。家で飼えなくなったペットを持ち込む生徒。捨て猫を拾ってくる生徒、捕まえた蛙や亀を持ち込む生徒といった具合である。命はどれも大切に違いないが、クラスではたった一匹の命をみんなで大切にするために飼っていると、苦しい言い訳を繰り返して、受け取りを拒否するのが大変だった。幸か不幸か、金太は死ぬこともなく元気に生徒と過ごした。「金太一家」と呼ばれた。
 金太は、彼らが卒業して、担任の家で12年後に息を引き取った。
 そんなクラスの生徒が、卒業を目前に控えて、クラスの憲章とも言える「十七条憲法」を作り上げた。それが以下のものである。

東京都足立区立第十五中学校1982年度卒業三年二組同級会
       十七条憲法
     第一章 名称
第一条 本会の正式名称は、「東京都足立区立第十五中学校1982年度卒業三年二組同級会」であるが、通称を「金太一家」とする。
第二条 本規定の正式名称は「東京都足立区立第十五中学校1982年度卒業三年二組同級会十七条憲法」   であるが、「十七条憲法」「憲法」または「金憲(金太一家の憲法)」と呼んでもかまわないもの とする。
     第二章 目的
第三条 本会の目的は、ひとりひとりが喜びに満ちた、悔いの残らない、すばらしい人生を送るために、   旧友のよしみで、互いに助け合い、励まし合い、慰め合い、利用し合うことにある。
     第三章 組織
第四条 本会は担任を含む三年二組のメンバーによって構成され、、脱退はいかなる理由があっても認められないものとする。またいかなる理由によっても、除名されることはないものとする。なお、金太は名誉会員とする。
第五条 担任の佐々木修一は、平、上田、大掛、加島、三木、結城などをはじめとする本学年きっての悪ガキどもと、辛抱強く一年間つきあい続けた功労により、終生本会の最高位である「会長」の地位に就くことを許される。なお、この地位の後継者はないものとする。
第六条 本会会員の家族(恋人等も含む)は、準会員として、本会のすべての活動において歓迎される。    なお、正会員と準会員は、その権利において何らの差を付けられることなく、単にかっこを付け るために名前を変えただけのことである。
第七条 本会には別表の通りの幹事団をおくものとする。
     第四章 活動
第八条 本会の活動計画、実施運営その他過失に対する尻拭い等の一切は、各年度の幹事団が責任を持って行う。
第九条 会長は終始会の先頭に立って活動し、会員の身の上相談、学力補充等に応じなければならない。    また、会員が家出をしたり、懲罰を受けた際には、その身元保証人として、一時寄宿先を提供す るなど、親身になって世話をしなければならない。
第十条 会員は会長の要請に従い、軽スポーツへの同行、ヤング世代の流行等の情報提供、引っ越しの際の労働提供等に快く応じ、将来的には酒場の友、老後の杖とならなければならない。
第十一条 本会は少なくとも年一回の「クラス会」を開く。その際には会員は万難を排して出席しなければならない。
第十二条 幹事は、本会活動計画の立案のためと称して、デートする権利を有するが、この特権を乱用してはならない。
第十三条 本会において代表を選出する際には、三年二組の伝統を引き継ぎ、すべて有志制とジャンケン制が優先する。なお、選出されたものは、無理をしてでもその任を果たさなければならない。
     第五章 会費
第十四章 何をやるにも金がかかる世の中である。したがって本会の活動にも会費が必要となるが、定期的な徴収は一切行わないものとする。必要に応じて徴収するものとする。なお、どうしても都合が付かない場合には、会員相互の間において借金することができるものとするが、トラブルのもとになるので、借りたものはできる限り速やかに返金すること。なお、貸した方は、決して利子を取ってはならない。
     第六章 解散
第十五条 将来本会会員の天国移住者が増加した場合には「天国支部」を結成することができる。やがて全員の天国移籍が完了した際には、地上本部を解散する。ただしもし一人でも地獄行きの会員があった場合には、全員ためらうことなく同行し、地獄共和国を結成し、地上本部と共に、天国支部も解散する。
     第七章 補則
第十六条 本規定は、一九八三年二月二六日(水)第一校時に全員一致で決定したものであり、一九八三年三月二〇日より発動するものとする。
第十七条 本規定の改定は、全員一致を見ない限り、絶対にできないものとする。

 第五条に実名を挙げられた生徒はさまざまだった。非行傾向の生徒もいたが、中には一年生の途中から不登校になった生徒がいた。二年生からは家庭内で暴れるようになり、家のあちこちが穴だらけになっていた。3年に進級して2組で佐々木が担任となった。彼自身の卒業作文は次のようなものであった。
     ○○太郎物語
 昭和42年10月3日にどっかで○○太郎が生まれた。なんだか知らないが太郎などという犬のような名前をつけられてしまった。その少年は何才にしてか知らないが「カトレヤようちえん」という宗教団体のような幼稚園に入った。今考えるとその時代は幸せだった。そして昭和48年に千寿第一小学校に入った。この6年は平凡に過ごした。そしてそして昭和55年に足立区立第十五中学校に入った。物語はここからはじまる。まず1年担任は安田先生だ。1、2年は知らないから言うけど、今で言う生田目先生だ。先生は結婚してこの名前に変わった時、黒板に「生田目」と書いて、これは何と読むでしょうといってその場をしらけさせた事を私は覚えている。そして2年、○○太郎その存在はない。クラスの友達から手紙をもらったりもしたが、結局2ヶ月弱しか学校へ行かなかった。本当は留年だけど、学校に行きやすくするために、留年じゃなくしてくれた。親も心配してるし、友達も心配してるし、ここらで真面目にやらないとこのままダメになると思って学校に行った。クラスは二組。みんな優しく迎えてくれた。特に上田君、ET三木君、ただのデブの加島君が迎えたと言うより自分を悪の道にひきずりこんでいった(冗談)。時すでに中学最上級の三年生である。現在昭和58年2月12日。高校一つ落ちて都立定時制テスト前の○○太郎15歳だぜ!!

 3年に進級して、本人も「このままでは駄目だ」と思ったということである。心の中で考えていたことはわからない。多分そこに嘘はないだろう。しかし家で暴れ、母親に暴力を繰り返していたことは書かれていない。そして、学校に通うようになるには、毎朝担任が家庭訪問し、寝床からパジャマのまま引っ張って商店街を、学校に向けて走り抜けた。後から制服と鞄を持って母親が追いかけてくるという日が続いた。卒業まで続いたわけではなかったが、いつやめたかは、担任だったぼくの記憶も曖昧である。記憶は御互いに都合の良いことのみを残しているのかもしれない。もしかしたら、知らぬ間に脚色してしまっていることもあるのかもしれない。
定時制高校を卒業した彼は、ラーメン店で働き、数店を傘下に置くラーメンチェーン店の店長となっていた。

 また、卒業して間もない時期に、バイク事故で死亡してしまった生徒もいた。クラス会が続かなかった原因の一つとなったかもしれない。母一人子一人で、母は熱心に美容室を経営していた。息子は、はっきり言って出来は頗る悪かった。人は善かったが、それが唯一の取り柄で、勉強も全然出来なかったし、忘れ物も多く、人に迷惑を掛けてしまうことも度度だった。それでも、「バカな子ほどかわいい」を地で行っているかのように、母親は猫っかわいがりであった。それだけに一人息子を亡くした母親の憔悴ぶりは、誰にもどうしようもなく、近付きがたかった。クラス会を開くと、本人の代わりに母親が参加した。それで良かったのだが、反面いたたまれない思いでもあった。結局数年後に、クラス会は開かれないままになってしまった。