【目次】はじめに
第1章 「命がけ」の文部官僚
第2章 改革派の誕生
第3章 この首と引き換えにしてでも・・・
第4章 国民の皆さんに問いたいこと 加計問題と教育行政のゆくえ
第5章 人間の、人間による、人間のための教育
最終章 読者の皆さんへ
はじめに
本書は2017年1月に文部科学省を辞任した前川喜平氏と、ゆとり教育の主導者として名高い寺脇研氏との対談をまとめたものである。文部科学省の官僚の頂点を実際に務め、しかも中途退官を余儀なくされたお二人は、その内情をよくご存じであろう。ここには意外にか当然の帰結か、どろどろとした現実は柔らかなオブラートに包み込まれ、その生々しさはほとんど洗い流されてしまっている。承久国民のたしなみと云ったところだろうか。下々のようなはしたない露骨さは、決して表に出さないのだろう。それでも時折垣間見える現実を、対談の中から、汲み取ってみたい。日本の文部行政の最高峰の二人が考える今後の日本の学校教育は、どこに向かって、どう進むのだろうか。それを探るために本書を読み進める。
まず前川氏の「はじめに」によるとこの本の出版には次のようなものである。前川氏は、文科省OBへ再就職編を斡旋したことが法律に違反していたのが原因で退官したが、その後の加計学園に対する発言の延長としたいようだ。加計学園に関する発言とは、「加計学園による獣医学部新設は、『総理のご意向』だとする文書は存在したと証言し、『行政が歪められた』と発言したこと」である。本人は否定しているが、これは大変に勇気の要る発言であることは間違いない。それは間違いないにしても、あくまでも現職中に発せられたものではない。現職中は、「多くの場面で自分の良心や思想、信条を押し殺して、組織の論理に従」い、「本心では抵抗があっても・・・・上位の権力に従った」のだという。官僚として最大限の出世を果たした人であれば、当然のことである。思想信条に即して、自由に発言していれば、とっくの昔に失墜していたに違いない。出世し、偉くなることに価値があるかどうかは本人が決めることだ。出世する道を選ぶとしたら、出世を妨げない範囲でしか行動できないのは当たり前だ。偉くなることによって実現出来ることがある。しかし同時に偉くなってしまったから出来なくなることも鮮明にある。そして偉くなったことによって、反対する者を弾圧しなくてはならないこともあることは確かである。小説「プラハの秋」で、チェコを崩壊させたのが、レジスタンスの象徴的な女性を妻に持つ、当局側の最高幹部であったことに感動したこともある。彼が日常的に、共産主義指導者達に信頼を勝ち得るために、レジスタンスに対して取ってきた非常な弾圧は、詳しくは描かれなかったが、チェコスロバキア崩壊を実現するために撰ばれた道であり、結果的に実現出来たことを考え合わせると、それも確かに一つの選択肢であることを否定は出来ないが、成功するとは限らないもので、残したものが弾圧だけに終わることもあるかもしれないとすると、果たして選択肢の一つとして挙げてもいいものであるかどうかに自信は持てない。というより、選択肢のひとつになることは出来ないのではないかと思われる。
とにもかくにも、退官し、自由の身となったお二人は今、以前から個人的には教育勅語を道徳の教材とすることに反対だったことを表明することも可能となり、尊敬する二人の先輩にあやかるように、今後行動していきたいという。しかし、偉くなっていた現役当時には、「教育勅語」そのものではなくとも、それに密接に関わり、本心では「大賛成」というわけではないことにも、反対する者を「処罰」の対象としてきたこともあったはずである。そのことは明らかにされない。どんな処罰を何回してきたのかについては確かめようともしていない。しかし処分された方にとっては、たった一度の処分が致命的であったことが」あり得ることも容易に想像できる。あくまでも自分たちが下した処罰には触れない限りという限定付きではあるが、「本心」が遠慮なく発せられるようになった今日、それを表明することが本書の発行ということになったようである。
前川氏が尊敬する二人とは、どちらも文部省の先輩で、一人は河野愛氏、もう一人は寺脇研氏だという。河野氏は、「厳しい」が「後輩思いで、・・・筋の曲がったことが大嫌いで、誠意や理想を捨てない人だった」という。寺脇氏は、文部官僚時代から「言いたいことをいい、やるべきことをやるという姿勢を崩さない希有な人だった。退官されてからも、誰におもねるでもなく、自分の思うところをいい、議論し、教育への情熱を失っていない」人だという。さらに、前川氏は文科相時代の自分のパソコンの待ち受け画面が、キューバ革命の指導者の一人、チェ・ゲバラであったことを明かし、逆風の中のヨットのように、宮澤賢治の「諸君に寄せる」に鼓舞されながら、少しずつでも前進することをめざしているということだ。確かに「改革派」を辞任する前川氏が歩んできた道は、官僚としては異質な面があったにしても、少なくともゲバラとは比べようがないとしかいいようがない。それでも、自由の身となり、余人が知らないこともたくさん知っている人の活躍には大いに期待したいところだ。ただし、現職中に知り得たことの暴露を,今更ながら期待するのも無益なことだし、ないもの望みをしても仕方がない。今後の活躍に期待するほかない。ただ評価は、評価する場での価値観に左右される。河野愛氏がどのような人物かをよく知らないままに批判を加えるわけではないが、たとえ「筋の曲がったことが大嫌いで、誠意や理想を捨てない人だった」と表されたとしても、それは「官僚を首にならない範囲での所業」だということは間違いのないところなのではなかろうか。この件に限らずだが、言葉での評価や総括が確かにその通りであっても、具体的にはどのようなもので、どんなことをどれくらいしたのかということを明らかにすることを忘れないようにしたい。
では、前川氏に対する支援がどれほどなされ、批判はどのように行われているのだろうか。「後書き」によれば、次の通りである。
前川氏が「加計問題で『あったものを、なかったことにはできない』と立ち上がる決意」をした時に、「文部科学省の現役職員が彼を助けられないのはもちろん、OBだって再就職先などへの遠慮がある」 だろうから、自由に動ける自分が存分に応援すべきだと思ったという。「現場の教師や教育に関心を持つ大学生、高校生」にも、頼めば「時間を忘れ熱く語ってくれ」「誰もが前川ファンにな」り、「天下り問題の時も、加計学園問題の時も『前川さん大丈夫でしょうか』と心配する声がひっきりなしに届いた」というし、若手の文部官僚からは、「歴代事務次官であれほど部下達に慕われた人はいないのではないか」といわれるにもかかわらず、ほとんどすべてが官邸の意向通りに進んでしまうのである。高校生や大学生、若手文部官僚に、前川氏が助けを求めはしないのだろうが、そうした人材はほとんど全くといっていいほど力にはならない、ということだろうか。対等な仲間と呼べるようにはなり得ないとしても、支援者にさえなれず傍観者に徹する以外ないのだろうか。「審議官・部長級で役人生活を終えた」という寺脇氏でさえも、「トップの位置まで上り詰めた」前川氏が「これからは自由に活動するであろう」様子を「横から見ている」のを「楽しみ」にしているということだ。自力本願と云えば聞こえは良いが、心情以外に取り結ぶことができない連帯のひ弱さが露骨すぎるほど露骨に現れ、それで充分と諦めているようにしか見えないのだが、どうなんだろうか。
本書の内容は、目次から概観すると、
第1章 「命がけ」の文部官僚
第2章 改革派の誕生
第3章 この首と引き換えにしてでも・・・
第4章 国民の皆さんに問いたいこと 加計問題と教育行政のゆくえ
第5章 人間の、人間による、人間のための教育
最終章 読者の皆さんへ
第1章 「命がけ」の文部官僚
「第1章 「命がけ」の文部官僚」で語られているのは、過去の政治家の様子と比べて、現在の政治家の自堕落ぶりだ。初代文部大臣の森有礼が、開明的な人物で封建的な日本を改革しようとして頑迷な保守派に憎まれ、暗殺され、まさに「その職に死するの精神覚悟」(自警)を地で行った人物として祭り上げられる。次に、明治30年代に文部次官として活躍した沢柳正太郎が挙げられる。尋常小学校の授業料を廃止し、カリキュラムを整え、修業年限を4年に統一し、更に後年6年に延長した文部官僚であった。更に官を辞して野に下ってからは、成城小学校の校長として、大正自由教育に大きな影響を与えた人物と評されている。その次に挙げられたのは、剱木亨弘である。当時文部省は内務省の属国で「内務省文部局」と呼ばれ、戦時中は「陸軍省文部局」と呼ばれて見下されていたのに、敢えて文部官僚の道を選んだ人物で、さらに、戦争には三度も招集されたという。これは、当時の高級官僚としては異例で、明らかに懲罰招集だったという。学徒出陣と称して兵力不足を補うために若者を戦争に送り出せるように、全国の大学の学籍簿を陸軍省が提出するように求めた際に、学籍簿は文部科学省が「絶対に守らなくてはならないもの」として提出を拒んだことが原因になっているという。確かに中々の人物であることは間違いないようだ。
沢柳正太郎の業績や足跡は飛び抜けて偉大だと言ってもいい。官僚時代も、民間学校の校長としても魂を削る思いで取り組んだに違いない。そういう意味では「命がけ」と言えないこともないが、森有礼や剱木亨弘らこそが実際に言葉通りの「命がけ」である。穿った見方かもしれないが、後者2名で「命がけ」の説明は充分なはずだが、沢柳正太郎は、「命がけ」そのものより、前川氏と寺脇氏の業績を歴代の大物に擬えるために登場させられた感がある。義務教育無償化に、小泉政権下の「騎兵(喜平)隊」による義務教育費の国庫見直しによる有料化を阻止した成果を、退官後の成城学園での自由主義教育を寺脇氏の「ゆとり教育」との関連づけを、また退官後に民間で理想の実現をめざしたことと前川氏の自主夜間中学のボランティア活動を結びつけるといったことを挙げるためだったのではないかという気がする。沢柳正太郎の成果は、もっとほかの所(文部省の指示とは違ったカリキュラムの制定など)に求められるべきではないかと思う。これについては別項参照。
第2章 改革派の誕生
第2章は、「改革派の誕生」である。「守旧派」に対して自分達をそう呼んでいる。
明治以来、教育は国のためにあるという考えが強く残り、それが「生涯教育」が提起された(1971年の中教審答申)ことにより、教育の主役は子どもからお年寄りまで国民すべてにあると考えられるようになった。それに伴って、官僚は何もしないのが一番だという空気の中で、沈滞した雰囲気であったものをがらっと変えたのが、自分たち改革派だということになる。
生涯学習は、環境の異なるすべての家庭で生活するものが、上から「こうでなくてはいけない」と押しつけられる教育ではなく、それぞれが主体性をもった学習者としてとらえられる。初等教育局や中等教育局を典型として、学校教育至上主義が支配的で、生涯教育が打ち出した学習至上主義を、本当に理解できる人は、実はかなり少なかったと言う。職業訓練校は労働省の所轄であり、文科省からすると教育の場ではないと認識されているほどだった。ところが、変化が激しく、将来を見通すのが難しい現代社会では、生涯を通じて学び続けなくてはならず、その中で学校教育は、知識を単に詰め込むのではなく、生涯に亘って学び続けられる力を付けると、その役割を大きく変えたのだった。
この教育に対する考え方の転換の端緒となったのは、臨教審だった。そこでは、時間的にも空間的にも限られた学校だけが学びの場ではないという考えと共に、「教育の自由化」が念頭に置かれた。教育の自由化とは、小中学校に市場原理を導入して、コミュニティーを無視した完全学校選択制を実施するというものだった。これでは離島の子と都会の子では大きな不公平があり、義務教育にはなじまないとして取り下げられ、「教育の自由」が、教育を供給する側の自由(民営化や自由競争など)から、学習する側の個人の自由と読み替えられた。その結果、「生涯学習体系への移行」「変化への対応」と並んで「個性重視の原則」を打ち出し「個人の尊厳」「個性の尊重」「自由・自立」「自己責任の原則」を指すとしている。
ただし、それでも「国立大学の民営化」「農業高校の廃止案」などが生まれてくる。臨時行政調査会に始まる民営化路線により、国鉄、電電公社、日本専売公社は次々と民営化され、その延長線上に、国立大学の民営化が課題となった。農業高校は、普通科にいけない生徒が商業科に回され、そこにも行けない生徒が工業科を受け、どこにも受かりそうもない生徒が農業科を受験するという序列が偏差値によってできあがっていた。今や農業科を希望する生徒はほとんどおらず、全部普通科にしてしまえば、誰もが普通高校に進学できることになると考えられたのだ。あるいは、農業高校があるから渋々進学することになるので、いっそなくしてしまえば進学を考えなくなると考えられたのだ。当時はバブル景気の余韻が残っており、食糧は外国から買って、農業には外国人を雇えば良いと考えられ、日本に農業は必要ないとまでいわれることもあったほどだ。しかし、農業が国にとって不要なはずもなく、かといって今まで通りではよいはずもなく、半年間かけて検討した結果、農業高校の必要性が確認され、それと平衡して「偏差値による輪切りの進路指導」を脱する必要が明らかになる。一方で中学校が行っていた業者テストを取り止めた。これは竹内克好埼玉県教育長と鳩山邦夫文部大臣(当時)の鶴の一声と連係プレーによって、みるみる成果を上げた。同時に国立大学に対して、農業高校や工業高校からの進学枠を拡大することを強く求めた。また農業高校のカリキュラムにも数学や英語の必須科目を減らして、農業科目を増やすように提案し、中途退学者を極力減らすことに注力した。その結果農業高校への不本意入学が減り、農業高校の復活が確かなものに感じられるようになった。
しかし業者テストの廃止に対する反発は強く、寺脇氏は日本中を飛び回って、教育委員会を説得して周り、PTAにも理解を求める一方で、大臣からは早急な対応と成果を求められ、板挟みで苦労したという。
改革派を自称する二人は、確かに先進的な面も持っていた。上からの指令に対しても、がんばって突っぱねた場面は少なくないのかもしれない。しかし、それはあくまでも限定された場面でのことだ。たとえば、「現職中にこの動きを止めること(加計学園が獣医学部を新設することが「総理の意向である」ことや「行政が歪められた」と言って告発することなど)は、おそらく100%できなかっただろう。」という。そして本意ではないことに従わざるを得なかったのだというのである。そうかもしれないが、それは、「正義」を貫くことをやめたというだけではなく、そのことに気づき、指摘し、反対した者達を追い詰め、弾劾したことにほかならない。改革の目を完膚なきまでにたたきのめしたことに他ならないのである。それが言い過ぎであれば、少なくとも大きな権力を携えて、荷担したということである。二人が最も革新的と高く評価していることでもこれが実情である。いみじくも語られていることに「教育行政は、現場から出発して現場に帰着する行政である」と述べているが、自分の成果ではないことについては、「その当時は担当ではなかった」「地方のどこそこに回されていた」といった具合で、高級官僚の地位を確保しつつ、その地位が失われない範囲で、「改革」を試みて、そのうちのいくつかは成功させたというだけのことなのである。かつて、東大の医学部の講師で、「アリナミン、この危険な薬」で武田薬品をあわや倒産に追い込んだ高橋晄正氏は「偉くなったらお終いなのだ」と繰り返し仰っていた。氏自身もエリートなのだが、偉くなるということは、それだけで保身に走らなければならない場面が多くなるということである。その結果、些細な成果を挙げたに過ぎないことを、できなかったことやつぶしてきたことと比較したり、差し引きしたりすることもなく、平然と自慢できるようになってしまうことだと仰っていたのだろうと思う。それがそっくりあてはまるのではないだろうか。
第3章 この首と引き換えにしてでも・・・
第3章は「このクビと引き換えにしてでも・・・」である。先の章で、現職中に加計学園の告発をすることは、「100%できなかった」といわれていたのに、首をかけてでも解決しようとするというのであれば、大いに期待が持てる。偉くなった人は、どのように必要と思う改革に取り組むのだろうか。
「首をかけたこと」の一つ目として、前川氏が小泉内閣時代の三位一体改革に含まれていた義務教育費国庫負担制度を撤廃しようという政策が進められたのに対して、廃止に反対の論陣を張っていたことが挙げられている。喜平氏の名に引っかけて、「騎兵隊、前へ」というブログで廃止反対の論陣を張っていたという。義務教育において国庫負担がなくなれば無償の保障がなくなり、「学習権の保障」が酷く損なわれてしまいかねないと判断したために絶対に譲れなかったという(088p参照)。その中に総務省の役人から、反対すると「首が飛ぶよ」と脅されたことがあったことを明かしている。それに対して、前川氏は「クビと引き換えに義務教育が守れるなら本望だ」とブログに書いていたというのである。ただし、この国庫負担制度には硬直したところがあり、何が何でも今のまま保持することが難しかったために、改革すべきは改革するという姿勢で取り組まざるを得なかったという。それは鳥取県や山形県から指摘されたことをきっかけにして、「総額裁量制」(教師一人一人の給料を下げて、増員する権限を県や市町村が持つ制度)や「さんさんプラン」という独自の学級編成法の提案を認め、国の標準より良くしようとしている自治体の取り組みに、財務課の部下の反対を押し切って、「少人数学級については、自治体が独自に導入しても構わないと、方針転換をした」のだという。これらを「本当に画期的」で「すごい規制緩和」を実施した「大事件」だと評価している。確かに「堅実な変化」と言えるかもしれないが、突然の大変化にならないように、「整合性を持たせ」る努力をしてのうえでのことである。もともと法律の条文にあった「特別な必要があれば、少人数学級も特例的に認めるという法律の条文が存在していた」ことを利用したわけである。もともと標準法が、現在は40人学級としているのは、過密状況を改善するために「何年かおきに法律を改正して、50人学級、45人学級と、学級編成の標準を下げていき、それに応じて国庫負担金を増やすことで、自治体が教員を増員できるよう。国がリードしてきた」結果だという。「知恵を絞って」「法律に反しない範囲で柔軟な処理を」できるようにすることが「役人の仕事」であり、それが「改革」だというのだ。その通りには違いない。しかし、どんな時代でも環境でも、意見の異なる人がいるのは当然のことで、法律に反しない中で解釈を変えたとして、どうしてそれが「クビ」をかけたことになるのだろうか。むしろ、「姑息な手段だ」という思いが拭いきれない。「クビをかけずに整合性を図った」というだけの辻褄合わせに過ぎないだろうというのは、穿った見方だろうか。
「法律に基づく行政という建前を維持しながら、自治体からの要望に応えて、少人数学級はOKですよとか、国庫負担金は総額で見ますから、教員の給料を抑えた分、教員を増やしても大丈夫ですよとか、調査研究という説明があれば、少人数学級のために国庫負担金を使ってもいいですよといった、自治体の自由度をできる限り高める方向に持って行った」のであり、小泉内閣の三位一体改革の中で無理難題を迫られた結果、逆に自治体が喜ぶ制度を作り出すことに成功したというのである。役人としては、画期的なことなのかもしれないが、普通の感覚で見ると、何も誇るようなことのない、当たり前の出来事に見えるといっては失礼だろうか。
もう一つとしてあげられているのは、高校無償化だ。これは、民主党政権の成果で、自民党ではできなかったことと評価している。高校無償化を実現した民主党政権時代も、その見直しをした安倍政権時代も、前川氏が中心に進めたという。これがどれほど画期的なことかは、「いつでも、どこでも、誰でも学べる社会」を唱え続けた寺脇氏でさえ、そんのことができるとは夢想だにしていなかったというのほどである。高校も義務教育化されると、日本の義務教育は12年となるが、メキシコやウルグアイが14年、ドイツは13年、アメリカ・イギリスが12年、フランスが11年と、ちょうど肩を並べることになる。義務教育化が達成される前に、まず希望者全入の実現が必要だが、少子化の影響もあって、「入学先さえ選ばなければ」今日既に実現可能となっているという。前川氏は、中学校の特別支援学級の卒業生の進学先が整備されていない問題を提示するが、寺脇氏は、自分が広島の教育長時代に始めた高校入試改革を全入に有効な方策と紹介し、それが全国に広まりつつあることを示している。それは高校入試を1回目は推薦試験、2回目は一般入試、3回目が欠員募集とし、3回目では希望先を5つ記入することによって、全員が入学できるようにするというのである。どこまで行っても辻褄合わせの域を出ていないのではないだろうか。単純に見て、「不本意進学」を大量に生み出すことにはならないのかが懸念されるが、どうなのだろうか。特別支援学級の卒業者にとっても、高校入試を勝ち抜いた生徒も、不本意ながら3回目の入試で思うような所に進めなかった生徒も、「その子にふさわしい学びの場が、必ずどこかに存在」したということに、本当になるのだろうか。差別の合法的な押しつけに見えるのは誤解だろうか。もちろん誰もが希望したからといって「一流の進学校」に入学できはしないだろうし、一流の芸術や技術を身につけられる高校に入学できるわけでもなかろう。それでも現在高校の全入として、「改革派」が「クビをかけ」て実現しようとしていることは、戦後の学制改革の基本理念であった「高校三原則」にはるかに及ばないものに見えないだろうか。「昭和30年代の後半辺りから」変わってしまった文部科学省の「適格主義」の完成体に見えてしまうのは、ぼくだけだろうか。少なくとも、戦後間もなく義務教育を6年から9年に延長した、日高第四郎氏の成果と現在の高校無償化の実現とを比肩することはできないように見える。
さて、高校無償化を論ずる時、主に次のことが問題とされる。第一に、無償にするのは授業料だけなのか、教科書や教材、文具、行事費用なども含むのかが挙げられ、第二に入学者の家庭所得制限を設けるべきかどうかがあり、第三には、公立高校と私立高校を共に全額無償にすべきか、同額の補助に抑えるべきかなどである。
理念としては、高校も完全に無償化し、所得制限も設けず、公立も私立も全額無性にすべきであるが、財源をどうするかを解決できなければ、実現は難しいということが付け加えられる。実現に灯った黄色信号は、普通に考えたら当たり前すぎるほど当たり前のことに過ぎず、今更何を言っているのかと思わないだろうか。「こうすると良いですよ、ただカネがないからできないんですけどね」などというのは、能なしが描き出す戯言とどれほどの差があるというのだろうか。
第4章 国民の皆さんに問いたいこと 加計問題と教育行政のゆくえ
安倍晋三元総理が射殺され、「テロ行為は許されるべきではない」というのが建前ではあるものの、この元総理自身がやってきたことや今後やるであろうことを見れば殺害されたことは、まさに数の暴力による勝手放題を食い止めたという意味で価値あることだったといえる。テロ行為という暴力によって言動を封じることは、確かに認められてはならないが、民主主義が最終的に行き詰まってしまった時の打開策として、やむを得ぬ措置となることはありうる話ではないかと思う。しかし、そうしたことをいかなる場合にも認めないのが官僚出身のこの二人の言動だ。確かに直接的には暴力行為ではないが、多数決と裏金と隠し持った権力の隠然たる力が、思い通りにことを進め、人命さえ奪うこともあるのは歴史が証明しているだろう。秘書が追い詰められて命を絶つ例など枚挙にいとまがない。責任を押しつけられて追い詰められた下級官僚が自ら命を絶ったり、抗議の意志を死を持って訴えることも何度もあったことではないか。高級官僚であってみれば、思い通りの活動や正義を貫けないことはあっても、命まで奪われることはまずあり得ない。温情豊かで、労働者の要求を簡単には突っ張りきれなかった下山初代国鉄総裁は、間違いなく逆説されたに違いない。そんな中では、忸怩たる思いではあっても、不正を見逃さなくてはならないことに耐えることこそが高級官僚の為すべきことだというわけだ。その程度が良識ある上級官僚なのである。力及ばずにそれを残念な思いで見逃したことを淋しく思い出したり、自分なりの精一杯の努力のあとを自分で慰めつつ懐かしく思い出したりすることが、彼らの最大級の良心なのである。何事もなかったかのように封印しないで告発する自分自身に酔っているとしか思えないことが少なくない。
民主主義だから」国民の皆さん」に問うのだろうが、それでは担当者としての自分の立場や言動はどうなるのであろうか。尊敬する人々は、民意を待つことなく行動した人、困難を乗り越えた人だったのではないだろうか。そのことと帳尻は合っているのだろうか。
国民の皆さんに問いかけるのも結構だが、法に触れつつも立ち上がった国民をねじ伏せるのが、法律遵守の官僚の姿ではないのか。せいぜい引退して、何の強制力もなくなった後で、犠牲者となって処分された国民に同情し、そうした自分に酔っているだけではないのかと言っては酷だろうか。
第5章 人間の、人間による、人間のための教育
本書は5章立てである。つまり、残すところ最終章の一章のみになったということである。
また本書の題名は、「これからの日本 これからの教育」である。第4章までの内容から考えると、題名は「これまでの日本 これまでの教育」の方が遙かにふさわしい。それが、この第5章になると、それまでの内容を踏まえて、まさに「これからの日本 これからの教育」という題名にふさわしいものとなっている。
「これから」を述べるのは、前段として、これまでの経緯を整理して、そのうえで今後を語るというのは常套手段と言ってもいい。しかし、本書は全270ページで、そのうち第4章までで209ページある。さらに「最終章」と「あとがき」を除いてしまうと、240ページとなる。「これから」について書かれているのが30ページだけであるのだから、9割近くが前置きということになる。つまり、「これから」について語っているのは、まるでほんの「付け足し」でしかないように見えてくる。
どうも「これから」については、軽んじられている感があるが、そこではどんなことが書かれているであろうか。
第5章は「人間の、人間による、人間のための教育」である。まず最初に提起されるのが「知的障害のある人でも、その人にふさわしい高等教育が受けられるような仕組み」を作ることである。「生涯教育」が「いつでも、どこでも、誰でも学べる」のが「生涯教育」であるとするなら、「障害者の生涯教育」を考えていかなくてはならないというのである。大変貴重な提言であるが、それを実行に移すのは、自分が「教育長をしていた」ところで細々と実施した実績に限られている。それ以上に拡大を図るには、文部科学省と厚生労働省が、経堂でプロジェクトを組む必要があるということになる。
寺脇氏が広島県の教育庁をしていた時代に、学校が主5日制になるに伴って、障害児も学校に閉じ込めるだけではなく、地域や家庭で健常者と共に過ごすチャンスを作り出したという。そうしたボランティア精神によって支えられた者が、すぐに行政に取って代わられる者になると思っているのだろうか。前川氏も、退官後に夜間中学との関わりを持つことは有名だが、そこでの取り組みが行政機関との葛藤の上に成り立っていると言ってもいいくらいなことには気づかないのだろうか。心ある官僚がひょいと手を伸ばせば、大阪の「みんなの学校」も、かつてあった「トモエ学園」も、まるでやる気さえあればすぐにでもでき上がるかのような話しぶりである。文部省との対立の中でどれほどたくさんの首が飛んだかには無頓着である。理想論をいくら描き出すのも自由だし、現実を無視するからこそ成り立つ理想論もあるには違いない。そうした者が存在してはいけないわけではない。しかし、片手落ちの議論がまことしやかに語られてしまうのは、デマに他ならない。現実を無視した理想論が、たいした抵抗も受けることなく、すぐにでも実現できるかのような話は、聞いていて耳に心地よくても、決してリアリティのある論考とはなりそうもない。
最終章 読者の皆さんへ
最終章は、寺脇氏が、「学びの自由のために」と題して、正義の告発とでも呼ぶべきことを取り上げている。最初に取り上げられたのは前川氏による加計学園に関する内部告発である。「あったことを、なかったことには出来ない」に始まり、14の文書が文部官僚達が、やむにやまれぬ気持ちで、「公務員としてあるまじき行為」と非難されながらも、貫いた勇気ある行動だという。国民が知らないところでこんな事が起こっていると告発した、気骨ある後輩達だと褒め称えている。しかし、複数の文書による明らかな証拠があるにもかかわらず、極めて中途半端な告発に終わっていると言うべきなのではないだろうか。確かに従前の多くの文部官僚に比べたらましであるかもしれないが、たいしたことはないと見るべきではないのだろうか。
前川氏に限らず寺川清水からも内部告発を経験したという。教科書検定に際して、大物政治家の圧力が掛けられ、我慢できずに、大手新聞社に告発の電話をしたことがあるのだという。結果的にその軒は記事にならなかったという。これでは内部告発でも何でもないと言えるのではないだろうか。告発にあたって、それが記事となるまでとことん告発し続けて初めて告発と言えるのであって、中途半端に終わらせてしまえば、単なるアリバイ作り、マスターベーションでしかないと言うべきではないだろうか。たったそれだけのことが、「鬼軍曹」と呼ばれた仕事に厳しい村上智氏の後継者を自認する寺脇氏の経験談とされる。
教科書検定においては政治家が不等に介入した事実がある。加計学園においては「みんながルールを守ってきちんと並んでいるところに、権力を笠に着た人間が自分の友人を強引に割って入らせたようなものだ」という。全くその通りだ。しかし、明らかな不正に対して、わずかばかりの抵抗の姿勢を見せはしたものの、不正はすっかりまかり通ってしまう。その横で、「出来る限りの抵抗はした」と自己弁護して、互いに傷をなめ合って慰め合っているとしか見えなくはないだろうか。
皆がルールを守ればすばらしい世界が開ける。しかし現実には、強引にルールをねじ曲げる人が必ず出現する。それがわかっており、その不正が目の前で起こっても、それを許してしまうのである。せめてそのことが耐えられない後悔として、達成できるまでリベンジを試みるのではなく、せいぜい蔭で歎く程度の抵抗しかしないでいる。その先に獲得される「自由」とは、どれほどのものだろうか。極めてオカされやすい「自由」を守ることなど出来るわけがないのではないだろうか。