【目次】はじめに
(1) 東京都立七生養護学校(現都立七生特別支援学校)の場合
(2) 実名の確認を兼ねて出来事の確認
(3) 足立区立中学校の場合
1.セックスと性行為の違い
(1) 性交(セックス)とは
(2) 性行為とは、
2.性交(セックス)の方法
(1) 初めての性交(セックス)
(2) 特定の相手との(セックス)
(3) 不特定の相手との性交(セックス)
3.性行為の種類
(1) 性行為の種類
(2) いわゆるABCについて
① Aとは
② Bとは
③ Cとは
おわりに
はじめに
性教育において「性交」と「性行為」とは、欠かせないものである。「性教育」どころか人間の発生以来、人間の存在そのものにとって欠かせない行為である。ところが、現在の日本では、中学校段階まで、「性交」を授業で取り上げてはいけないことになっているのである。
それどころか現実の中学校の授業で、性教育は1年間に3時間ほどしか行われていないといわれている。内容に関しても、身体の発達や性感染症などに限定されている傾向が強いとされている。これは「人種の多様性理解」を根底に、人間関係やジェンダー、暴力と安全確保などを広範囲に指導することをめざしている、世界の性教育とはかけ離れてしまっている。そもそもたった3時間でセックスを語れといわれたら、照れくさくて恥ずかしくて真面目に話すことはできないだろう。少し恥ずかしくて気まずい面もあるが、それにマジメに取り組もうとするまでには、相当な時間をかけた準備が必要なはずだ。
子供が成長し、性器が成熟して、男子は射精が行われ、女子には月経が始まる。そこからひとっ飛びに、精子と卵子による受精が行われ、細胞分裂が起こって、やがて人が誕生する。当然それでは理解出来るはずがない。できたらおかしいのである。できたと思い込んでしまったら、その子はどうにもならない能なしかもしれない。精子と卵子は、どうやって受精することができるのか。そんなことも疑問に思わずに、すんなり納得してしまう者がいるとしたら、自分の頭で考えようとしない、将来役立たずの人間になるのではないだろうか。「性交」や「性行為」を抜きにして受精など語れるはずがないのだ。
ところが現実の中学校では、「性交」は教えないことになっている。これは、文部科学省による性教育のガイドラインに原因がある。その中でも「歯止め規定」と呼ばれるものに主たる原因がある。
日本の性教育は、それぞれの学校段階で学ぶべき内容が、学習指導要領に規定されている。それによると概ね
① 小学校・・・思春期における身体や声の変化、また発毛や異性への関心の芽生えなどに加え、初経や 精通が起こることを学ぶ。
② 中学校・・・内分泌の働きによる生殖機能の成熟と、それに伴う適切な行動(射精、月経、性衝動、異 性の尊重、性情報への対処など、性に関する適切な態度や行動の選択の必要性など)。
また受精・妊娠及び後天性免疫不全症候群(エイズ)を含む性感染症に関する知識。
③ 高校・・・生涯を通じた健康の保持増進や回復のための、各段階の健康課題に応じた自己の健康管理 及び環境作り(受精、妊娠、出産とそれに伴う健康課題、また家族計画の意義や人工妊娠中 絶の心身への影響など)。
また感染症予防のための個人の取り組み、及び社会的な対策の必要性。
ということになっている。
現実問題として、子供達は性暴力や感染症、望まない妊娠などのリスクに晒されている。これらを回避するためには、性交に関する正しい知識や考え方を学び、身につける必要性は、男女共に喫緊の課題となっている。にもかかわらず、「寝た子を起こすな」と「お花畑ぼけした頭の持ち主」がピンぼけした純情幻想を振りまき、その延長にあるいわゆる「歯止め規定」が、性教育が「性行為」について踏み込むことを阻んでいる。その「聖人」然とした表面的な言動の裏に、とてつもない卑猥さを隠し持っているのではないだろうかと疑いたくなってしまう。プライベートにどんな趣味趣向があっても本人の自由だが、あまりにも厳重な取り繕いをされると、隠れ持った意外な性癖などをつい疑いたくなってしまう。
それはさておき、具体的にはこうである。中学校1年生の保健体育科の学習指導要領には、性に関する指導について次のように記されている。
「妊娠や出産が可能となるような成熟が始まるという観点から、受精・妊娠を取り扱うものとし、妊娠の経過は取り扱わないものとする。」
この文言により、「性教育では『性交』を取り扱えない」とされているのである。しかしもともと学習指導要領は、「最低限」指導すべきものを記載したものであり、現状に合わせて発展的な内容を教えることは問題ないともされている。それなら、「歯止め」などないようなものである。実際文部科学省中等教育局長は、2020年11月17日の参議院文教科学委員会において、次のように述べている。
「歯止め規定そのものは、決して教えてはならないというものではなくて、すべての子供に共通に指導するべき事項ではない、ただし、学校において必要があると判断する場合に指導したり、あるいは個々の生徒に対応して教えるということはできるものでございます。」
この通りなら確かに「歯止め」などなさそうだ。しかし、これはあくまでも建前に過ぎないのである。その証拠に、現実に「性交」や「性行為」の指導が行われると、東京都や区市町村の教育委員会が一丸となって、阻止にかかるのである。
その代表が「東京都立七生養護学校」と「足立区立中学校」の例である。扱った性教育の内容が批判の対象となった例である。都教委は、これ以外にも17例あると調査結果を報告しているが、具体的にどこの学校かは公表していない。
(1) 東京都立七生養護学校(現都立七生特別支援学校)の場合
2003年、東京都立七生養護学校(当時)が取り組んでいた障害児への性教育を「世間の常識とかけ離れている」と都議会議員らが非難するに及ぶ。その結果、都教委が教材を没収、校長の降格処分などの処分を下したというものである。その後、教員が訴えた裁判で、最高裁は都議会議員らの行為を教育基本法で禁じる「不当な支配」に当たると認められた。つまり、都議会議員らの敗訴である。
七生養護学校には知的障害のある小学生から高校生までが通っており、思春期を迎えて体や心の変化に戸惑う子や、生徒同士での性的関係や性的ないたずらといったトラブルが起きており、保護者も交え、当時の教員によって性器の洗い方や月経、精通、避妊方法、気持ちの変化など、主に成長の過程を伝える教材や授業が開発されていたのだった。
参考「いのちを学ぶ<「七生事件」の日暮かをるさんインタビュー>」
(神戸新聞NEXT,2022年1月6日公開,2022年12月25日参照)より
七生養護学校事件は、2003年に東京都日野市にある東京都立七生養護学校(現在の東京都立七生特別支援学校)で、知的障害を持つ児童に対して行われていた性教育の授業内容が不適切であると非難を受け、東京都教育委員会が当時の校長及び教職員に対し厳重注意処分を行った事件の通称である。元教員やその支援者の間では、中止された授業の名称に由来する「こころとからだの学習」裁判(「ここから」裁判)という通称が使用されている。
本事件は男女共同参画社会に対抗するバックラッシュの一種であり、教員らは保守系議員らによるバッシングに晒された。教員らは、都教委の処分が教育への不当介入に当たるとして都教委及び東京都議会議員3名に対して損害賠償を求める訴訟と、本件を理由とする降格処分の取り消しを都教委に求める2件の訴訟を提起した。
裁判では、いずれも原告側(七生養護学校校長・教員ら)の勝訴となった。2008年に都教委の裁量権の乱用が認められたほか、2009年に都議3名らに対する賠償請求も認められた。
七生養護学校で性教育が始まった事情は次の通りである。1997年、七生養護学校の在校生同士が性的関係を持ったことが発覚した。これを受けて教員と保護者が協議を重ね、知的障害を持つ児童に対する同校独自の性教育プログラムを開発した。「こころとからだの学習」と名付けられたこの授業は男性器と女性器の部位や名称を織り込んだ歌や人形を使った授業方法で注目を集め、同様の悩みを持つ他地域の養護学校からの研修も積極的に受け入れていた。
これに対し、2003年7月2日に都議会で質問した民主党都議会議員・土屋敬之は、授業内容を「世間の常識とかけ離れた教育だ」と批判し、都教委に「毅然とした対処」を要求した。東京都知事・石原慎太郎も「異常な信念を持って、異常な指導をする先生というのは、どこかで大きな勘違いをしている」と答弁した。7月4日に七生養護学校を視察した土屋、自民党の古賀俊昭と田代博嗣、計3名の保守系都議が授業内容につき「常識では考えられない」「不適切」としたうえで、養護教諭に対して「こういう教材を使うのをおかしいと思わないのか」「感覚がまひしている」と強く非難し「こういう教材を使うのをおかしいと思わないのか」などと学校側を強く非難したという。さらに、田代が無断で資料を持ち去ろうとしたのを止められた際に「何を持っていくかは、俺達が責任をもって持って行くんだから、馬鹿なことをいうな!俺たちは国税と同じだ。1円までも暴いてやるからな。生意気なことを言うな!このわけのわからない2人(養護教諭)は(学校から)出て行ってもらってもいいんだ」と発言(訴訟における原告側準備書面より)したという。日暮さんによれば「都議は若い養護教諭を『何をやっている』『君たちは共産主義者か』などと罵倒した」と紹介している。後に、戦いへの支援を求めて、学校外の教育団体などとつながるなかで、性教育攻撃の背景に、右翼団体「日本会議」や統一協会の関連団体「国際勝共連合」などの存在があることを知ったと振り返っている。この視察を受けて、7月23日には土屋が代表、古賀・田代の2名が副代表を務める「日本の家庭を守る地方議員の会」が都議会議事堂において「不適切な性教育教材展示会」を開催した。
こうした七生養護学校側への非難の高まりを受けて、都教委は9月に「授業内容が不適切である」として授業に使用された教材145点を没収すると共に、当時の校長に対しては「教員の定数について虚偽の報告を行った」等の理由で教諭への降格並びに停職1ヶ月の懲戒処分を命じた。また、授業に関わった教員ら31名に対しては厳重注意処分が下されたが、呆れたことに、処分理由はいずれも問題視された授業内容とは直接関係の無いものであった。因縁を付けるための嫌がらせに他ならなかった。
この事件の余波は国政にも及び、自民党は2005年1月、安倍晋三幹事長代理を座長、山谷えり子を事務局長とする「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を発足させた。5月26日には八木秀次らをパネリストに迎え、萩生田光一を責任者とする「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム&展示会」が開催され、古賀が七生養護学校の性教育授業が中止されるまでの経緯について報告した。
さらに、自民党は05年に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を発足させ、〈「ジェンダーフリー」という名のもと、過激な性教育、家族の否定教育が行われている〉として教育現場への圧力を強めた。しかも、座長の安倍首相は自民党本部で開かれた「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」にてジェンダーフリー推進派について「私はカンボジアで大虐殺を行ったポル・ポト派を思い出す」と無茶苦茶な発言をしている。北朝鮮の金正恩やロシアのプーチンのような独裁者は、白を黒と言いくるめることが珍しくはない。アメリカのトランプも、嘘はつき放題で、周囲にはイエスマンだけを並べており、ますます独裁者然とした風格が備わりつつあるという。的外れでわけの分からないことをいってもそれで通ってしまうのが独裁者の独裁者たる所以であろう。お友達内閣、お友達優先を貫き通して射殺された安倍元首相も、まさに周囲が諫め、問いただすことがないために、ますますおかしな方向に走った結果だろう。
さらにとんでもないのが、安倍首相の側近、山谷えり子参院議員だ。「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」の事務局長を務め、オープンな性教育を徹底批判している。訳の分からない者が虎の威を借りると、際限がなくなってしまう。その結果、教育現場は完全に萎縮して性教育を封印してしまうことになった。13年に放送された『ニッポンの性教育』(中京テレビ制作、第51回ギャラクシー賞優秀賞受賞作)の取材で、山谷議員は性教育のあり方について、このような持論を展開していた。
「本当に子ども時代はですねえ、ちょうちょが飛んでいる姿、お花がキレイに咲く姿、昆虫が一生懸命歩いている姿、それで命の尊さというのは私達は十分学んできたんですよね」
昆虫や植物を見て性を学べというのだから、思わず呆然としてしまう回答だ。さすがにたまりかねたのか、ディレクターが「具体的なことは教える必要はないということですか?」と質問した。すると山谷は「本当は結婚してからだと思いますね、はい」と答えたのだ。この珍回答には「ちょうちょが飛んでるのは議員の頭の中」と、ネット上でも失笑を買う事態となった。生かし、信じられないことにそうした発言を恥ずかしいと思わない世界が広がっているのである。
これは、古賀都議も同様である。彼は「家庭と社会の再生の為、今一度、純潔教育(自己抑制教育)の価値観に回帰すべき」と主張している。だが、インターネット普及以降の世界では子どもたちが日常的に大量の性的な情報に晒されていることや、それらの情報のなかには鵜呑みにしては危険なものも多数含まれているといった「現実」を無視している。お花畑以上にあり得ない世界を思い描いているのだ。、正しい知識が得られないことによって不利益を被るのは、他ならぬ子どもたちにほかならない。
こうした経緯を経て、裁判は進行し、次のような判決で終結した。元校長は処分の不当性を主張し、処分取り消しを求めて都教委を提訴した。2008年2月25日、東京地方裁判所は処分理由である教員定数の虚偽報告について「事実とは認められない」とし、その他の処分理由も重すぎるとして裁量権の乱用を認定、請求を認める判決を言い渡した。都教委はこの判決を不服として控訴したが、2009年4月10日の東京高裁判決も一審判決を支持し、都教委側の控訴を棄却した。都教委側はさらに上告したが、2010年2月23日、最高裁判所第三小法廷もこれを受理しない旨を決定し、元校長に対する処分を取り消す高裁判決が確定した。
また、元教員および生徒の保護者は、都教委・土屋ら都議3名と授業内容について、産経新聞紙面で「過激な性教育」等の見出しで報じた産経新聞社に対して教育現場への不当介入により精神的苦痛を受けたとして約2930万円の損害賠償と没収された教材の返還を要求する訴訟を起こした。2009年3月12日に東京地裁で判決が言い渡され、矢尾渉裁判長は「都議らの行為は政治的な信条に基づき、学校の性教育に介入・干渉するもので、教育の自主性をゆがめる危険がある」として土屋ら3名の視察に際しての発言や行動に問題があったと指摘した。また、都教委の処分については「教育内容の適否を短期間で判定するのは容易ではなく、いったん制裁的な取り扱いがされれば教員を萎縮させて性教育の発展が阻害されかねない」として裁量権の乱用を認定し、都議3名と都教委に210万円(うち10万円は古賀・田代・土屋に連帯責任)の支払いを命じたが、教材の返還については認められなかった。なお、産経新聞社への賠償請求は報道の範囲を逸脱しているとはいえないとして棄却された。都教委側は判決を不服として控訴したが、東京高等裁判所(大橋寛明裁判長)も2011年9月16日、一審を支持、控訴を棄却した。さらに、最高裁判所第1小法廷(金築誠志裁判長)は2013年11月28日付けで、原告被告双方の上告を棄却した。都と三人に控訴審判決額の賠償を命じる判決が確定したのである。
裁判は確定したのだが、マスメディアの報道は2つに分かれた。産経新聞は2002年頃から紙面や自社系論壇誌『正論』において「過激な性教育・ジェンダーフリー教育」を糾弾する論調を強めており、2003年2月23日付主張「性教育 児童に過激な内容は慎め」において「都内の公立小中学校や養護学校で計11件の不適切な性教育が行われていた」と指摘し、具体名は挙げていないものの七生養護学校の授業内容を暗に指摘すると共に「事態を重く見た都教育庁は近く調査に乗り出す方針」としており、都議3名の視察に際してもマスメディアとして唯一、記者を帯同させた。
2009年3月の判決後は産経新聞に加え、読売新聞も社説で判決内容に疑問を呈する見解を表明している。これに対し、朝日新聞・毎日新聞・東京新聞の社説は判決内容について一定の評価を下している。
日本では1980年から男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法など男女同権を推進する新法が施行され、自治体でも男女共同参画社会に関する講座が開催されるようになったが、事件が起きた2000年代ごろにはこのような流れに反発する「バックラッシュ」が起きており、教職員がバッシングされたのもこの流れによるものという意見がある。またこの事件以降、日本の性教育が後退したという意見がある。
(2) 実名の確認を兼ねて出来事の確認
3月12日、東京地裁民事第24部は、2003年7月、古賀俊昭、田代博嗣、土屋敬之の三都議、都教育委員会、産経新聞社が一体となって東京都立七生養護学校(現・都立七生特別支援学校)の性教育への不当な介入・支配を強行したことに対し、29人の教員と2人の保護者が原告となった七生養護学校「こころとからだの学習」裁判で都と都議3人に計210万円の賠償を命じた。
この判決は、石原都知事、都教委への大きな痛打を与えた。さらに、石原別働隊であり、「都議会三羽烏」と自慢しジェンダーフリー攻撃と家父長制強化、「日の丸・君が代」強制、天皇制と侵略戦争賛美の「新しい歴史をつくる会」教科書採用圧力、治安弾圧煽動などを先頭になって展開してきた古賀(自民党にも打撃となった。日本の家庭を守る議員連盟会長、日本会議地方議員副会長)、田代(自民党。古賀とのコンビで石原都政のサポート役などと自認)、土屋(民主党。西村修平の主宰する「主権回復をめざす会」と共同での行動にも打撃となった。さらに「教育再生地方議員百人と市民の会」東京支部理事。板橋高校卒業式でっち上げ事件首謀者)に対する大きな打撃を与えた。
判決は、以下のように三都議と都教委を批判している。
第一は、3都議が2007年7月に七生養護学校を訪れ、七生性教育を「不適切」と決め付け、養護教諭らを「感覚がまひしてる」などと非難したことを「政治家である被告都議らがその政治的な主義、信条に基づき、本件養護学校の性教育に介入・干渉するものであり、本件養護学校における教育の自主性を阻害しこれを歪める危険のある行為として、旧教基法10条1項の『不当な支配』に当たる」と認定した。
同校では知的障がいのある子どもたちに向けた「性教育」を保護者も含めた論議、研究、そして子どもたちと真正面から向き合いながら粘り強く授業を積み上げていた。その成果としてさまざまな性教育教材を生みだしてきたのである。また、子どもたちが理解しやすいようにと体の呼び名を歌にして学習を深めていた。
ところが3都議は、教諭たちが「障がいがある子どもは具体的にイメージできる教材でなければ理解できない」との訴えをしていたにもかかわらず、高圧的に「こういう教材を使うのは、おかしいとは思わないのか」などと人格否定と罵倒を繰り返したあげく、100点以上の教材を「没収」と称して強奪してしまった。
都教委は都議らのどう喝が強行される前までは、七生性教育をなんら問題化することはなかった。それよりも七生性教育を共有化するための研究会も行っていた。判決も指摘しているように「授業を評価していた」のである。裁判では被告らの身勝手でいいかげんな教育方針、性教育に関する無知識が明らかとなり、判決で「授業は子どもの発達段階に応じていない」と主張した被告側主張を退けたことは当然であった。
さらに判決は、被告らを諭すがごとく性教育に対する姿勢論を展開している。性教育は、「教授法に関する歴史も浅く、創意工夫を重ねながら、実践実例が蓄積されて教授法が発展していくという面があり、教育内容の適否を短期間のうちに判定するのは、容易ではない。しかも、いったん、性教育の内容が不適切であるとして教員に対する制裁的扱いがされれば、それらの教員を萎縮させ、創意工夫による教育実践の開発がされなくなり、性教育の発展が阻害されることにもなりかねない。性教育の内容の不適切を理由に教員に制裁的取扱をする場合には、このような点についての配慮が求められる」と述べ、三都議、都教委の希薄な性教育理解と人権破壊行為を厳しく批判したのである。
そのうえで原告らに対して行った都教委の「厳重注意」に対して「一種の制裁的行為である」と批判し、「教育内容を理由として制裁的扱いをするには、事前の研修や助言・指導を行うなど慎重な手続きを行うべきもの」と結論づけたのである。
第二は、都教委に対しては、「被告都議らの視察に同行した被告都教委の職員らには、このような被告都議らによる『不当な支配』から本件養護学校の個々の教員を保護する義務があった」。すなわち都議の「不当な支配」から「本件養護学校の個々の教員を保護する義務があった」と認定したのである。それを「保護義務違反」と明記し、「被告都教委の行為は、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権を濫用したものとして、国家賠償法上違法」と断罪したのである。
こうした判決が出たにも拘わらず、古賀、田代、土屋都議は連名で「なんら違法性はないものと、確信している。私たちの視察と指摘によって、東京都の過激性教育が大きく改善された意義は大きい」などと居直っている。大原正行教育長は「原告の一部の主張が認められたのは、大変遺憾なこと。判決内容を確認して、対応を検討していく」などと苦しい官僚答弁で逃げ切ろうとしている。被告らは、判決を真摯に受け止め、猛省していくこと、そして不当な控訴をやめることが教育に関与する者の姿勢ではないだろうか。しかし、判決に対するコメントだけでも、そのような姿勢は全くみられない。
これだけでもうんざりだが、それに留まることなく、次々と応援団が公然と現れだした。
石原慎太郎知事は、七生性教育教材に対して「グロテスク。それを障害者の人たちに教えて何の性教育になるのか。独善だと思う」などとむき出しの差別主義を前面に押し出し地裁判決を批判した。
塩谷立文科相は、「いろいろ不当な行為などと言われているが、もう少し実態を把握していかなければならない。実際にどのような性教育が行われていたか。基本的には保護者や関係者の了解の下に行われることになっているので、そういったこと(了解)があったかどうか。また、都議会側が個人の立場なのか、議会としてそういった意見を踏まえてそういう行為に至ったのか、そのへんはっきり把握してない。控訴するのかどうか、そういったことも含め、実態を踏まえた上で何かすべきことがあれば、そこで検討したい」と中立的ポーズをとりながらも被告らを防衛する本音がみえみえだ。
読売新聞は、「過激な授業は放置できない」(3月16日)という見出しで「性器の付いた人形の使用まで必要なのか、首をかしげる人は多いのではないか」と主張した。
同様に産経新聞も「性教育 過激な内容正すのは当然」(3月14日)などという応援見出しで「同校の当時の性教育には保護者の一部からも批判が寄せられていた。学校の授業は外部の目に触れにくく、独りよがりの授業がなかなか改善されない。保護者や地域の人々が教育内容を知り、不適切な内容に改善を求めるのは『不当介入』ではない」とトーンを高めている。
世界日報は、「性教育判決/過激な授業は一掃すべきだ」(3月18日)という攻撃煽動の見出しを掲げ、以下のように三都議など反動勢力の主張を代弁している。
「大人の男女の裸の人形や注射器付き射精キットなど同校の性教育教材は、一般常識から 言って破廉恥なものである。『こういう教材を使うのはおかしいと思わないのか』、『感覚が麻痺している』といった発言を政治的な主義、信条と判断するのは不自然である」としている。
「『人間と性』教育研究協議会(性教協)など過激な性教育を進める団体は、九〇年代半ば頃から同校でこうした性教育教材を次々に備えてきた。過激な性教育を進める重要拠点校の役割を果たしており、都教委によるそうした指導を聞き入れるような状況になかったと言われる」。
「子供たちは、『からだうた』という身体部位の名称が露骨に使われている歌を歌わせられてきた。保護者からも疑問の声が上がっていた。知的障害児が過激な性教育の実験台となっていたと言える。ちぐはぐな同判決の問題を認識し、過激な性教育一掃の動きを後退させてはならない」。
世界日報は、世界基督教統一神霊教会系列の広報紙だ。家族主義と家父長制の強化、ジェンダーフリー攻撃をキャンペーンしている。
さて、七生事件には、学校側の校長や教員の実名が報道されているが、きっかけを作った視察議員の実名や東京都の教育委員会、都知事、一部批判的なマスコミについては、組織名だけの匿名報道がなされている。「産経新聞社」「正論」などといった筆者についても個人名も確かめたかったが、それは叶わなかった。最低限になってしまうが議員名や知事とその周辺の人物については、できる限り個人名を特定した。
彼らの中には、上司を忖度して、部下としてやむを得ずしたがったという者もいるかもしれない。途中から言動が変化した者もいる。あるいは中心人物と同じように考えていたのかもしれないし、かえってより強烈に性教育の在り方を非難していたのか、それは分からない部分が残っている。しかし、断罪した側に属していたことは間違いのないところである。
ガリレオは、地球の自転を主張して曲げなかったときに、ガリレオを軟禁した者がいる。当時のキリスト教などという匿名ではなく、それほど「あほなこと」を信じていたものとして、個人が特定され、歴史に名を残すべきだと思う。尤も自然科学なら時代の制約があり、未知の領域も広く、科学の進歩が明らかにするまで遅れた知識を持ってもやむを得ない面もあるが、人間がその発生と同時にしてきた性交の事実を口にさせないようにした愚か者は、是非とも信じられない時代錯誤者として、本名で名を歴史に刻むべきだと考えている。
さらに、当時の都知事石原慎太郎に至っては、代表作に「太陽の季節」を持っている。湘南の金持ちの息子達の、無軌道で不道徳な、それこそ乱れきった性を披瀝している。もちろんこれはフィクションである。しかし、少なくともこの「奔放な性を戒めることを意図した作品」でないことは間違いない。これが金持ちのぼんぼんとすれっからし女の青春記であるとするなら、その奔放ぶりを、貧乏人は指をくわえて眺めていろということなのだろうか。小説を読み、映画を見て、うらやましがってオナニーでもしていろということなのだろうか。それだけではなく、数年後には「スパルタ教育」などといった著作をヒットさせている。これは180度ひっくり返った内容である。時代の流行に敏感で、流行り物の時流に乗ってたゆたうのである。その豪快そうな見かけとは違って、強固な芯など微塵もない吹き流しのような、恥知らずの物書きであることを忘れてはならない。
(3) 足立区立中学校の場合
2018年、足立区の中学校3年生を対象に行われた総合学習の授業が、東京都議会から学習指導要領を逸脱した不適切な性教育であると批判を浴びた。
当該の授業は、若年層の望まない妊娠や高校1年生の中絶件数の増加を受け、生徒に性の正しい知識を身につけるために行われたもの。学習指導要領では避妊や人工中絶は高校で扱う内容とされていたが、子どもたちが誤った情報に振り回されているという現場の思いから、踏み込んだ内容まで扱われた。
東京都教育委員会がまとめた事件の経過は次の通りである。
足立区の中学の性教育
① 足立区立中学校において実施された性教育の授業に関する経緯
○第一回都議会定例文教委員会(平成30年3月16日)で、3月5日に足立区立中学校において実施さ れた性教育の授業に関する質問があった。
○東京都教育委員会は、避妊、人工中絶等といった、学習指導要領上、中学校ではなく高等学校で指 導する内容を取り上げたり、保護者の理解を必ずしも十分に得ないまま授業が実施されたりしていた 旨を答弁した。
○この間、足立区教育委員会と、同校で行われた当該の性教育に関する課題について意見交換を行っ てきている。
② 性教育に関する基本的な考え方
(ア) 文部科学省(中学校学習指導要領等)における扱い
○中学校学習指導要領 保健体育(平成20年3月 文部科学省)
・受精・妊娠を扱うものとし、妊娠の経過は取り扱わないものとする。
・指導に当たっては、発達の段階を踏まえること、学校全体で共通理解を図ること、保護者の理解を得ることなどに配慮することが大切である。
(参考)高等学校学習指導要領解説:受精、妊娠、出産とそれに伴う健康課題について理解出来るようにすると共に、家族計画の意義や、人工妊娠中絶の心身への影響などについても理解出来るようにする。(避妊、人工中絶の内容に触れる。)
○「生きる力」をはぐくむ中学校の保健教育の手引き(平成26年3月 文部科学省)
子供達の心身の成長発達には個人差があるから、すべてを集団指導で教えるのではなく、集団指導で教えるべき内容と個別指導で教えるべき内容を明確にし、それらを関連させて指導することが重要となる。
(イ) 東京都教育委員会作成の「性教育の手引き~中学校編~」(平成16年3月)における扱い
○学習指導要領に準拠する。
○発達段階に即した効果的な学習指導を行う。
○個人の発達段階やレディネス等に応じて個別指導の工夫を行う。
○指導内容や方法を十分に説明し、保護者の理解・協力を得て指導計画を立案する。
③ 東京都教育委員会の今後の対応
○足立区教育委員会と、上記「②」の基本的な考え方を確認すると共に、今後の性教育の具体的取 り組み方法について認識を共有化する。
※ 学習指導要領を越える内容を指導する場合には、例えば、事前に学習指導案を保護者全員に説 明し、保護者の理解・了解を得た生地を対象に個別指導(複数同時指導もか)を実施することなど が考えられる。
○学校において性教育が適正に行われるよう、上記「②」の基本的な考え方や学習指導要領を超える内容を指導する際の留意点について、全区市町村教育委員会及び全都立学校に周知していく。
このように、かつて七生事件の前には、東京都教育委員会としても七生高校の性教育に問題はないとしていた面影はなく、確かに性教育が後退していることが確認出来る。
しかも、これらの授業は事前に管理職の協力や区の教育委員会の理解を得て行われたものであり、区教委は「内容に問題はない」と見解を発表したものである。いかに東京都の姿勢が変わったかが示されている。テレビの視聴者投票でも、早期での詳しい性教育を求める声が圧倒的に多数を占めるなど、世論も味方した。
参考「学校の性教育で“性交”を教えられない 「はどめ規定」ってなに?」
(NHK 首都圏ナビ,2021年8月26日公開,2022年12月25日参照)より
ここで注目すべきことは、七生事件で最高裁で判決が確定し、敗訴したにも拘わらず、その同じ人物である都議古賀らによって、同様の事態が起こされているのである。七生事件から13年が経過した折、古賀は2018年に、足立区の区立中学校で行われた性教育の内容を「学習指導要領に沿っておらず不適切だ」と問題視し、都教育委員会に調査させることから事態は古賀は始まっているのである。まさに判決を無視し、勝手に自分たちの言い分に理があると一方的に決めつけた上での行動に他ならない。独裁者のお先棒担ぎを予感させる者達による、ヒットラーユーゲント並みの恫喝が、最高裁の判決などどこ吹く風で、自分たちの主張が罷り通るまで攻撃の手を緩めないとでもいっているかのようである。
東京都足立区の公立中学校で性教育を続けてきた樋上典子さんは、2018年に都議から授業バッシングを受けた。その樋上さんは、「当時性教育を積極的にやっていた私も教育委員会に呼ばれて『指導』を受けました。そのこと自体も悔しかったのですが、わたしの周囲も含めて性教育に取り組んできた多くの先生の気持ちが萎えてしまったことがつらかったです。」としたうえで、後の訴訟では、都議と東京都教育委員会に賠償命令が出ていますが、都議は「勝った」といっています。それは教育現場を萎縮させたからです。」と述べている。東京都教育委員会の姿勢にも、現場の教師達の姿勢にも、性教育の後退ははっきりと表れている。脅迫と恫喝以外の何物でもない。これが暴挙でなくてなんだというのであろう。しかし、それでもなお樋上さんは、「支えてくれたのは子供だった」とし、「はじめはクスクス笑っている生徒が、大切なことだと気づく。」という実践を地道に今なお屈することなく続けている。
つくづく思うのは「民度の低さ」である。「体罰」が、強豪校の部活動では、こっそり黙認されている。「強くなるためには、厳しい練習が必要であり、甘えたことはいっていられなくて当然だ。そこには強制するための厳しさが求められて当然だ。しかし、人間はサボりがちな動物だから、その甘えを許さないためにも、恐怖を伴った強制力が必要で、結果的にはそれは本人のためになるのだ」というのが、大多数の国民の心の底に根付いているために、体罰がなくならないという結果を招いている。これは取りも直さず「民度」の低さを表している。「人は誰でもサボるものだ」という不信感が国民のコンセンサスなのであるから、救いようがない。これと「セックスは、秘め事であり、子供に教える必要はない」というのは、同じセンスなのではないだろうか。「多少のあって当たり前の体罰をことさらあげつらう必要などないのと同じように、セックスなどそのうち自然に知ることだから、子どもが幼いうちに親や教師がことさら説明などすべきではない」といったところなのである。確かにいざ子供を前にして説明するとなれば、大人の側にもテレは生じる。聞かされる子供の側にも、はじめは恥ずかしさや驚きがあるに違いない。しかし、それを乗り越えたところにしか道は開かれない。恥ずかしさを乗り越え、大切なことと本気で気がつかせるところに辿り着く努力をしないままでは、いつまでたっても「民度」は低いままに留まらざるを得ないのだ。子供は無菌室で培養されているわけではない。むしろどんな手段を使ってでも金儲けをしようという詐欺グループが罷り通り、子供を餌食にしようと虎視眈々とねらっている卑猥な大人達が見え隠れしている現実の中に生きているのである。防衛のための武器のひとつとして必要なものが何かを真剣に考える必要がある。強力な武器を与える必要があるのである。
蛇足だが、こうした事態に対して、改革派を自認していた寺脇氏や前川氏に質問してみたらどうするだろうか。実際両氏が2003年や2018年にはどこで何をしていたのか、当時はこの問題に関与しなかったのかどうかも効いてみたい気がする。できれば、このブログに公開する旨をはじめから明記して質問してみたいと思う。
1.セックスと性行為の違い
(1) 性交(セックス)とは
「性交」は、男性器を女性器に挿入することを言う。挿入のためには、男性器が硬く勃起し、女性器が十分に潤わなければかなわない。女性器が十分に潤うのは、快感を得た結果ばかりではなく、女性器を保護し、苦痛や傷つくことを防止する働きを持つという。したがって性交そのものは、男性器を女性器に挿入することであるが、その灌水のためには、少なくとも前戯は不可欠と言える。
なお挿入後には、前後にゆっくりと動くなど、刺激を増す方法も工夫するのが効果的である。また挿入の方法も四十八手などにあるように、正常位ばかりではなく、相性の合う体位を探ることも必要である。
(2) 性行為とは、
性行為という表現は、性に関する行為全般を広範に指すが、文脈に応じて典型的なものを指すことがあれば、稀なことを指すこともある。異性間の性交は、前戯-性交-候儀から成り立つ。前戯は、性交に先立って行われる行為である。一般に、男女のキスから始まり、脱衣、互いの体を愛撫し、膣への指挿入、クンニリングス、フェラチオなどの行為を行って、興奮を高めたのち、男性器を勃起させ、女性器を十分に濡れさせる。陰茎を膣に挿入する膣性交(セックス・性器結合)が可能となるよう準備することである。後戯は、性交の後に行われる行為である。この行動は、コミュニケーション手段の一つとして性交渉を行うヒトに特有の行動であると思われ、他の動物においては、これに類似する行動様式は聞かれない。ヒトと同様、性行為に社会的コミュニケーションの役割が大きいボノボですら、この行為は確認されていないといわれている。人に特有の行為である。女性は快感からなかなか目覚めず、性行為の後も余韻に浸っていることが多い。これは本能的に備わっている感覚であり、性行為後にすぐ動いてしまうことで、妊娠しにくくなるといわれている。そのため、男性よりも余韻が覚めにくく、体も動かずにじっとしている傾向がある。後戯は、大きく2種類に分けられる。1つは性交渉によってどちらかが満足を得られなかった場合のフォローとして行われるものであり、もう1つは双方共に満足した上で、行為の余韻を楽しむために行われるものである。前者の場合は、ペッティングやオーラルセックス等の前戯と同種の愛撫を行うものとされ、後者の場合は、抱擁などの性的刺激を含まないものが主とされる。一般の性交渉において、半数をやや超える女性がオーガズムを感じる前に、男性が射精に至ってしまうとする統計も存在する。その意味で、後戯は主として女性のマンネリや物足りなさを補う意味が大きいことが多いようであり、男性側が主に行うことになる。
同性間性行為の場合には、オーラルセックスのみで完結することもあるなど、人間の性行為は様々な形態を取りうる。生殖器以外(乳房や乳首、尻など)を刺激する行為も含まれる。
性行為は、しばしば「本来、子孫を残すために行うもの」「生殖本能によってするもの」などと言われることもあるが、実際にはそればかりではなく、パートナー間のコミュニケーションの手段や、快楽を伴う行為自体を目的として行われる場合も多い。また、商売として性交を行う場合もある(こうした商売を売春という)。性交後に妊娠することが好ましくない場合は、避妊を行う必要がある。
多くの国家では公衆の面前で性行為に及ぶのは基本的には御法度とされている。通常、人間は性行為を人目に晒すことに羞恥心を感ずる。また、性行為中には外敵に対して無防備になるため、動物的本能として他者の目を避け、通常は隠れて行うものである。また、公の場で性交について語る事もマナー違反である(猥談によるセクハラとなる)。
性行為についての知識の伝授はかつては公教育の場では基本的に行われていなかったが、近年では学校においても早くから性教育が行われる。そこでは性の概念からはじまって、性行為についての概要、性感染症などの注意点、同感染症の予防や避妊の方法などについて教えている。
「性行為」とは、性欲に基づいて、性器や肛門、乳房等の接触などによって、快感を得る行為の近代以降の日本語名称である。古来の日本語では、古語「みとのまぐはひ(御陰の目合)」から転じて「目合(まぐわい)」、動詞形で「まぐわう」といい、今でも稀に用いられる。20世紀末以降はセックスやエッチなどと言ったカタカナ用語が用いられる。表現を和らげた「結ばれる」という表現も存在する。
2.性交(セックス)の方法
(1) 初めての性交(セックス)
セックスの手順や流れに正解はないが、一般的には「前戯→挿入→後戯」の3段階を踏むことが多い。
また、セックスは必ず挿入を伴うとは限らない。前戯のような性的な触れ合いのことも、「セックス」に含まれる。前戯にしろ挿入にしろ、それぞれの時間や内容などの決まりはないので、当事者同士が、最も「心地よい」と感じる方法を選ぶことが大切である。
初めての時だけでなく、セックスをする時に必ず注意しなければならないことは、「望まない妊娠の防止」と「性感染症の予防」である。避妊と性感染症予防には、コンドームなどの避妊具の使用が必須となる。
また、キスやセックスなど性行為をする場合は、お互いの意思が一致し、かつ、その意思をお互いが確認し合ってから始める(性的同意をとる)ことが前提となる。特に、初めての時は分からないことも多いので不安になりがちなので、体調が悪くなることさえ起こりうる。心も体も整った状態でセックスに臨む必要がある。
セックスの基本的な流れ
① 前戯
前戯とは、挿入前の準備を指す。行為としては、いわゆる「愛撫」といわれる、手や口などを使ったお互いの性感帯への刺激である。
身体的には、腟の潤いを促し、男性器をスムーズに挿入出来るようにすることである。また、精神的には、愛情表現や充足感を高めることにある。
前戯が十分でないと、女性は腟の潤いが足りずに挿入時に性交痛を感じることになる。特に初めての場合、緊張などで潤い不足になりやすい。また、男性が十分に勃起できなければ、うまく挿入ができないことになる。恥ずかしがらずに前戯をじっくり行うことが大切である。して欲しいことを露骨に口にしなくても、それとなく知らせる工夫をすると良い。
② 挿入
女性の腟が十分に潤い、男性器も挿入できるほどの硬度になって、お互いの心の準備も整ったら挿入する。妊娠を希望しない場合は、このタイミングに必ずコンドームを装着する。装着に手間取ると雰囲気を壊してしまうので、装着がスムーズに出来るように、事前に練習しておくと良い。
初めてのセックスでは、女性が比較的リラックスしやすい体勢の「正常位」が良いことが多い。女性が仰向けになり、男性が女性の足の間に入って覆いかぶさるように重なって腟に男性器を挿入することになる。
もし、緊張などで潤い不足を感じたり、女性側に痛みが強かったりする時は、我慢をせず、潤滑ジェルを使う。
③ 挿入後
腟に男性器を挿入したら、すぐに動かさない。特に、女性が初めての場合は腟内が狭く、慣れるまで痛みを感じることが多い。肉体的にも精神的にも無理のないよう、少しずつ動かしていく。
男性器で腟の中や奥をマッサージするように腰を動かすことをピストンと呼ぶ。ピストン中もキスをしたり、バストに触れたりといった愛撫をすることで、心身ともに満足感が増すように心がける。
慣れてくれば、セックス中に体位を変えることで幅広い挿入感を楽しめる。挿入角度などが変わるため、性交痛の緩和や快感の増幅につながることもある。
ピストンを繰り返すと男性の快感が高まり、射精を促す。女性の強い快感や骨盤筋のけいれんなどの体の反応(オーガズム)については、初めてのセックスで得ることは稀なので、はじめから無理をしたり、焦ったりしないようにする。
④ 後戯
セックスが終わった後の時間を「後戯」と呼ぶ。前戯のように強い刺激を与えるのではなく、お互いにセックスの余韻を楽しむ時間になる。
決まった手順ややり方はなく、抱きしめ合う、キスをする、いつもより深い会話をするといった2人が精神的に満たされるための行為をしてみると良い。
セックスは男性の射精によって終わる印象が強いが、特に終了のタイミングに決まりはない。お互いが満たされた状態にな流のが理想である。割合すぐに離れてもかまわないし、いつまでも抱き合っていてもかまわないのである。
初めてセックスする時の注意点
① 避妊方法や性感染症について知る
② 性的同意をとる
特に、初めてのセックスは多くの人にとって勇気のいる行為なので、性的な行為中にすることをいちいち確認してから行うようにする。
③ セックス前後に排尿・排便を済ませる
手や舌が性器に触れるということは、ウイルスとも接触するので、デリケートゾーンは清潔にすることが大切。
④ 性器を傷つけないために、手を清潔に保ち、爪を切ることを忘れない。
⑤ また、ラブグッズなどを使用する場合も、優しく無理のない範囲で使用し、使用時には必ずコンドームを装着する。
(2) 特定の相手との(セックス)でマンネリを防ぐために
お付き合いが長くなると起こる「マンネリ」が起こる。マンネリとは、新鮮味がなくなってしまう状態で、飽きてくることを言う。
「マンネリ」の解消のためには、特徴や原因を突き詰め、解消法を工夫する必要がある。
どんなに愛し合っているカップルでも夫婦でも、やがてマンネリに陥るのは避けられない。その主な原因とその解決策の例を挙げる。
① セックスのタイミングや内容がいつも同じ
→セックスするタイミングを変える。朝するセックスにはメリットが3つある。
(ア) 浮気防止になること。朝からスッキリすることで、自分以外の異性へ目移りするリスクを減ら すことができる。
(イ) 朝は睡眠をとった後で心と体が落ち着いている状態でお互いがリラックスして臨める。一日酷 使して疲れ切った体でするセックスより何倍もリラックスしてできる。
(ウ) 身支度で忙しく、会話が少なくなりがちな朝。朝セックスによって愛を感じた状態でスタート できる1日は素晴らしいものになる。
② 今までしたことのないプレイに挑戦する
性に関するさまざまな調査をおこなうTENGAが、20歳~69歳の男女計1000人を対象にアンケート調査を実施して、一般人が楽しんだプレイを集計した。
実際にやったことのあるプレイ
◆カーセックス
男性:27.4%
女性:27.4% ◆明るい部屋でのセックス
男性:30.0%
女性:22.4% ◆着衣プレイ
男性:24.0%
女性:19.2% ◆セクシーな下着を着ける
男性:16.4%
女性:23.8%
◆鏡の前でのセックス
男性:13.2%
女性:16.8% ◆野外プレイ
男性:16.6%
実はやってみたいプレイ
◆複数プレイ
男性:11.4%
女性:7.2%
◆コスプレプレイ
男性:8.6%
女性:4.0%
◆SMプレイ
男性:7.6%
女性:4.4% ◆野外プレイ
男性:8.2%
女性:3.8%
◆アダルトグッズを使用する
男性:7.2%
女性:3.4%
◆言葉責めプレイ
男性:4.4%
女性:4.4%
③ ソフトSMプレイ
最初は抵抗があっても、非日常的なプレイの王道。
(ア) 目隠しプレイ
アイマスクやタオル、服などで目隠しをするだけ。視界がなくなるだけで次に何をされるの かわからないので、興奮度は通常のセックスよりもはるかに高いはず!
(イ) 拘束プレイ
ベルトやネクタイを使って、体の一部を拘束するプレイのこと。自由を奪われ羞恥心がいつ も以上に感じられる。
(ウ) ごっこプレイ
婦人警官や先生の役になりきって、大人のおもちゃを使用し楽しむプレイ。
④ オーガズムに達するまで、とにかく頭を空っぽにしてセックスを楽しむ。男性側には丁寧に優し く、時間をかけて愛撫してもらえるよう、事前にお願いしてみると良い。
(3) 不特定の相手との性交(セックス)
① 男女関係で身を持ち崩すのは不幸か
いつの時代でも男は女で、女は男で身を持ち崩す者がいる。それは人間の生き物としての本能が深く関係しているからではないか。私の仲間でも、そうした男女らがいる。
年齢が親子ほど離れた若い水商売の女性に、仕事で必要だからと援助し続けた結果、借金まみれになった男。
交際している彼女が浮気をしたことを知り激高して、その女性と間男を殴り倒して、逮捕されてしまった男。
既婚者だが、会社の部下や取引先の女性とダブル不倫をしたことが周囲に発覚して、会社を辞めざるを得なくなった男。
親の反対を押し切って彼氏のアパートに押しかけて同棲するが、何年経っても男に結婚する気がなく、婚期を逃してしまった女。
若い時から男性にチヤホヤされ、男遊びを満喫したが、ただ弄ばれただけの、結婚を敬遠され続ける女。
そうした女難、男難に遭遇した仲間が、不運で、不幸であったとは私は思わない。人生で男女が引き起こす問題よりも、もっと酷い目に遭う人間はいくらでもいるのだ。
② 倫理で縛るのが難しいのが不倫である
一夫一婦制のいまの社会ではあるが、不倫は私たちの身近に常に存在している。ある調査によれば、不倫中あるいは不倫を経験した既婚の男性は、全世代平均が約4割にのぼるという。既婚女性も、全世代平均が2割の人が不倫を経験しているとの調査結果がある。
最近では既婚者同士が出会うためのマッチングアプリも盛んで、地域密着型、女子大生など若い女子による中高年をターゲットにしたパパ活型など、多くのマッチングサービスが百花繚乱のようだ。
マッチングにはアポ待ち機能があったり、男性を求めて既婚女性も積極的に投稿したりしていて、日頃の性的欲求不満解消のために、複数の性的関係を求めて利用しているのだろう。
不倫は性的関係をもつことを意味し、セックスのないパートナー以外の異性に好意を抱く心の不倫は、不倫にはあたらない。よって慰謝料請求の対象になることはない。
だが、肉体関係がなくとも、燃えたぎるほど心が盛り上がっていれば、それは、すでに浮気をしているに等しいのではないか。
誰かを好きになるということを倫理で縛るのは難しい。
長期間、不倫を継続できる人の多くは、熱情を燃やして突き進むというより、用心深く、殺人現場から立ち去る犯人のごとく、慎重に行動する傾向にある。
それでも不倫にはリスクが付きものだ。発覚したら、家庭は崩壊、離婚事由として法的に認められる事案であり、相手のパートナーから慰謝料を請求されることもある。
彼女だけ、女房だけとの性愛行為に生きる、それを悪いとは言わない。だが、どんなに静かに生きようとしても、男と女がこの世にある限り、遅かれ早かれ、生きている間に大きな揺さぶりの一つや二つ、必ずやって来るものだ。
倫理や秩序を重んじる傾向にある先進国においても、自分の血が繋がらない子供とは知らずに、育てている父親の割合は、10%前後になっているという。
もし、いま不倫をしていて、ある時、それが発覚して大問題としてわが身にのしかかるとする。しかし、それも生きている証であり、許されない関係のパートナーと恍惚とした悦びに漬っている幸福も、死んでいくことの証なのではないか。
③ 夏目漱石の倫理
さらに、明治時代から不倫の問題は注目されていた。注目していたのは夏目漱石である。「それから」も「門」も「こころ」も「三四郎」も不倫ならぬ三角関係がテーマとなっている作品である。
「それから」は高等遊民の代介が友人の奥さん三千代を奪うという話だ。
漱石の文体は,読者をあおったり刺激するようなものではない。それだからこそ,代助と三千代の感情の高まりが強く感じられる。この2人のその後は「門」に引き継がれます。
未完に終わった最後の作品「明暗」は、奥さんがいる主人公が,昔,恋した女性に会いにいく話である。女性がいる温泉宿を男が訪ねるところで終わっている。そのあと,漱石はどのように展開させようとしていたのだろうか。
「こころ」は、下宿のお嬢さんに対する恋心を打ち明けられた主人公が、協力を約束しながら裏切り抜け駆けをして結婚にこぎ着けてしまうという作品である。抜け駆けされた男は、一切恨み言を残す事なく、自殺してしまうという話だ。それだけに主人公の胸を深くえぐらずにはいないのだ。
国民的な作家といわれる夏目漱石だが,道理や倫理からはずれた男女を描いている。人間の心の奥底には,押しとどめることができないマグマのようなものがあり,それを抱えながらいきているのだということであろう。
④ オックスフォード大学による性行動の研究結果
人間は性行動について「不特定多数」か「一途」かの二つに大きく分かれるとする説を裏付ける初めての証拠を得たとする研究結果が5日、英専門誌バイオロジー・レターズ(Biology Letters)に発表された。
性的関係において、人間以外のほ乳類は種によって完全に一夫多妻制か、一夫一妻制かのどちらかだが、現生人類ホモ・サピエンスは種全体でいずれかに納まることはない。人間は何故、性的関係になるとほ乳類の中で例外なのかは長年の謎だった。
今回、その答えを見つけたとするのは、英オックスフォード大学(University of Oxford)の実験心理学者ラファエル・ブウォダルスキ(Rafael Wlodarski)氏らの研究チームだ。「性的関係において、ひとところに『留まる』型と、『さまよう』型の男女群を比較」した。着目したのは性行動に関する二つの潜在指標だ。
一つのデータは、北米と英国の18~63歳の回答者585人を対象に性的習癖について尋ねたインターネット・アンケートで、もう一つは、英国の男女1314人について行ったいわゆる「2D:4D比」に関する調査だ。
「2D:4D比」とは、薬指の長さで胎児期に影響を受けた男性ホルモン(テストステロン)の量が分かるとする暴露指標で、母体の胎内でさらされた男性ホルモンの濃度が高い多いほど、人差し指に比べて薬指が長くなるとされている。この人差し指に比べて薬指が長い人が、性的関係においては統計的に「不特定多数」傾向が高いとされてきた。
今回、二つの調査のデータを合わせたところ、男性では57%が「不特定多数」型で、43%が「一途」型だった。女性ではこれが逆になり、「不特定多数」型は47%、「一途」型が53%だった。
ただし、純粋に身体的特徴に基づく「2D:4D比」に関するデータだけでみると、男性67%、女性50%と、二つのデータを合わせたよりも男女共に「不特定多数」型の数値が高くなった。
この違いは調査結果の解釈に慎重となる必要性を示していると研究者たちはいう。オックスフォード大のチームのロビン・ダンバー(Robin Dunbar)教授は「人間の行動は環境や人生経験など多くの要因に影響される。母親の胎内にいる間に起きることは、性的関係のような複雑な事柄に対して非常にわずかな影響しかもたらさないのかもしれない」と述べた。
では、性行動の違いはどのように説明できるのだろうか。ダーウィンの進化論的な視点でいえば、複数の相手との性行為は、子孫が生まれる確率を高め、従って遺伝子が引き継がれる確率が高まる。一方、決まった相手とのより長期にわたる関係は、もっと個人的な努力を要するが、性行為の結果として誕生した子孫の生存の可能性が高まる。チームは「今回の研究が示唆しているのは、男女それぞれに二つの異なるタイプの個人がいて、異なる交尾戦略をとっているということだ」と述べている。
3.性行為の種類
(1) 性行為の種類
男性器を女性器に挿入可能になるようにして、実際に挿入するのが「性交」であるのに対して、それ以外の性的接触等が「性行為」である。
合意の上の性行為は、いわゆる「前戯」「性交」「後戯」として行われるものすべてを指す。室内やベットの上で秘密裏に行われるものに限らず、マンネリを解消するために、浴室や玄関先などのふだんと異なる場所をはじめ、屋外や車の中など、他人に見られる危険性のある場所や時間帯を、敢えて選んで行うものも含まれる。口唇や手指、足の指等を用いて性器をはじめとした全身の性感帯を愛撫することに始まり、SMと呼ばれる相手の自由を奪うことにより支配館を充足させたり、服従することに快感がもたらされたりする交流も、もちろん含まれる。さらには、大人のおもちゃと呼ばれる器具を使用したり、ノーパン、ノーブラでの散歩やコートの下に拘束帯を付けたり、全裸であったりすることに羞恥心と快感を増幅する試みも含まれる。その他言葉攻め、コスチュームの工夫などによって新鮮な刺激を受ける工夫も、マンネリ解消には効果的である。他人から見て過激と評されたり、やり過ぎと見做されることがあっても、二人にとって納得済みであれば問題はない。あくまでも二人の間で合意を得る、あるいは多少強引に無理強いすることがあっても、最終的には合意に至ったうえで行わなければならないものである。
これに対して、同意を得ずに無断で、もしくは強制的に行われる「性行為」は、犯罪である。直接性器に触れることがなくても、不快感を与えれば、不同意性行為として訴えられても仕方がない。社内や通勤電車内での接触は、たとえスキンシップのつもりでも、痴漢行為や強制わいせつと取られる可能性もある。はっきりとした拒絶を聞かなかったことで、合意を得たものと誤解することがないようにしなければならない。同時に、曖昧な返事をすることは禁物である。
かつては、女性の「いやよ、いやよも好きのうち」などといった解釈が罷り通ることもあった。実際後に夫婦となったカップルの出会い当初は、一方の強い拒絶が本心からのものであった場合もあり、男女の縁は単純なものではない。しつこく言い寄った結果、ついに相手を陥落させたというような苦心談も世間にはよくある話で、周囲を大いに驚かせることもある。今ならストーカーとして訴えられてしまいかねないような経過を乗り越えて成就した恋もないことはない。「蛋白でなければならない」「しつこく言い寄ってはならない」というわけでは決してないのだが、いずれにしろ「同意を得るまで手を出さない」ことは頑なに守らなくてはならないのである。
(2) いわゆるABCについて
A・B・Cは、昭和期に若者の間で流行った隠語である。Aはキス、Bはペッティング、Cはセックス(性交)を意味している。A、B、Cと段階を踏むごとに異性同士の接触が濃厚になることからも窺えるように、思春期から結婚前の男女間や近親姦において、妊娠・性感染症の危険性や処女を失うことへのためらい、性交同意年齢など心理的に罪悪感や様々な抵抗がある。そのため性交まで至らず、その前段階に留まりつつも身体的に快感を追求している状態こそが、中盤を取り持つペッティングであった。ペッティングは、おもに愛撫することを指している。ただ風俗店などでは、本番行為以外のすべての性行為を総称しているところもある。
また、同性愛ではペッティングが最終的な目的とされることが多いが、異性愛においても性ホルモン(性的興奮)の分泌が少ない年代(思春期前や高齢者)同士のため、ペッティングまでで「性交」には至らないという形態を取ることもある。
ただし、完全に挿入を果たしていなくとも、精子が膣内に入れば妊娠する可能性がある。また、ペッティングの場合は性感染症への確率が性交に比べて低くなるが、オーラルセックスなどでパートナーの体液が自分の体に接触すると感染の可能性がある。
日本性教育協会第4回青少年の性行動調査によると、ペッティングの経験が男性は19歳、女性は20歳で50%を超えるという。
おわりに
ネット上には、無修正ビデオがはびこっている。また、妖しげな情報が溢れている。そこから得られる知識が疑わしいというだけではなく、今や誰であっても容易にアクセスできるようになっている。性格で詳細な調査結果があるわけではないが、年少者でもアクセスはいくらでも出来る状態である。正しい知識がなければ、新たな情報、秘密めいた情報、突飛な情報は、興味を引きやすいことは性情報に限ったものではない。当然誰でも性情報には興味があるが、タブー視されれば密かに熱中しがちなものである。怪しげな情報こそもっともらしく聞こえるに違いない。
それにもかかわらず、子どもは純真であるのに、「寝た子を起こすな」という幻想が、まるで正当な良識であるかのように吹聴されている。たぶんそれは、そうした意見を発する自分自身が清廉潔白であると言いたいのであろう。そのこと自体が、事実がそうではないことを物語っている。見てくれや言動で他人は信じさせることができても、自分は自分自身のことをいやという程知り尽くしている。「他人は騙せても、自分は騙しようがない」のである。高級官僚がノーパンしゃぶしゃぶ、知事や議員が少女買春、起業家や意思が秘密クラブの会員など、犯罪まっただ中であったり、きわどい位置に立つことは枚挙にいとまがなかったはずである。性に関する正確な情報を、性被害に遭う前に与えようとしないということは、性被害に遭っても仕方がないということなのだろうか。まさか無知な少年少女が多い方が自分達の欲望を満たす「裏組織」や「性風俗産業」を維持しやすいと思っているとは思いたくないがどうなのだろう。さらに、性被害をたまたま逃れて成長を遂げた青年達が、まっとうな性知識を持っていない方が、自分たちにとって得になる何ごとかがあるというのだろうか。
かつて「アベノミクス」などという経済対策が施行されたことがあった。景気浮揚にいくらかの有効性を発揮したと評価されている。あの原理は資本主義経済の典型であった。ゼロ金利を敷き、大企業が借金をして設備投資を果たし、売り上げを上げて大もうけする。大企業が儲かれば、中小企業や投資家がおこぼれを頂戴する。そこで世間に流通するお金が増える。流通したお金の一部が、庶民に回ってくるというものだ。言わばシャンパンタワーの溢れたワインのおこぼれが庶民に届くというものだ。「中抜き」を公然と行う仕組みに他ならない。庶民にとっては実に効率の悪い経済政策に他ならない。
これは今でも、ガソリン税の10円値下げ、電気ガス代の補助金として、同じ手法が使われている。庶民が支払う窓口で値下げ分を補助すれば、それが一番公平で正確で単純に済むことを、わざわざ元売り企業を通して補助するというのである。当然企業が必要経費を差し引き、実際の集金業者が経費を差し引いた残りが庶民におこぼれとして支給されることになる。これもシャンパンタワーから、外にこぼしながら効率の悪い補助の仕方を、敢えて選んでいるのである。これが資本(家)主義い他ならないから、この方法は絶対に譲れないのである。言わば要した費用の何分の一しか日宇かを発揮しないのが資本主義経済であり、これこそ「民度」の低さそのものである。
低いのは「民度」である。儲けの効率が信じられないほど低いのは、庶民である。利益が少ないわけではない。それどころか、儲けは実に効率よく巡ってくるのだ。庶民が儲からない分、効率よく大企業が集金しているのである。その儲けの一部が政治家に環流され、官僚の天下り先確保となっているのである。保民が、官僚や政治家などと同等の人間と評価されずにいることが「民度」の低さである。一部に「上級国民」が存在する以上、封建時代同様、庶民は「生かさぬように、殺さぬように」扱われているのである。この低く押しとどめられた「民度」は、人の生きる基本である「衣・食・住」を低く押しとどめることに他ならない。「子供食堂」「貧困女子」として話題に上ったのは、まさにこの影響の結果である。そして、「金」と「性」こそが「民度」を低く抑えるための最強の武器なのである。それぞれについて「清貧」と「清楚」とが庶民のわきまえるべき絶対の「道徳」として押しつけられるのである。
「民度」を上げるのは一朝一夕にいかない。その最大の原因は、「上級国民」から押しつけられるだけでなく庶民自身が「清貧」と「清楚」をこの上ない価値とみなして、それを打ち破ろうとすると、強烈に抵抗するからである。「清貧」も「清楚」も間違いなく価値ある気高い姿には違いない。しかし、「上級国民」のおこぼれを頂くしかない経済制度の中で、汚職や裏金に目をつぶることが「清貧」の現実の姿でいいのだろうか。堂々と「性」を売り物として憚らず、純真な若者を欲望の犠牲に巻き込む危険がいっぱいの現実に対して「清楚」で在り続けることを願うだけで十分なのであろうか。現実とはかけ離れた別の次元にある無風地帯での理想を描くのは、フィクションの世界に止めるべきではないのだろうか。もちろん「民度」を上げるのは一気に実現することはできない。さまざまなしがらみの中でこの世の現実は出来上がっている。たちどころに解決するなどということは無理だろう。しかし、同時に事態は喫緊の必要性に迫られて、手をこまねいている猶予はないのだ。女性:14.6%