生きることについて

【目次】はじめに
         1.映画「生きる」
          (1) あらすじ
          (2) 感動はどこから来るのか
         2.二軒の家族
          はじめに
          (1) 二子山一家の場合
           ① 若貴ブームの前史
           ② 若貴フィーバー
           ③ 若貴フィーバーの終焉
           ④ 一家瓦解の前兆
           ⑤ 一家離散・決別
           ⑥ 泣きっ面に蜂
          (2) 髙嶋ファミリーの場合
           ① 芸能界屈指の仲良しファミリーとして知られた髙嶋家
           ② 髙嶋家の由緒
           ③ 松平家の由緒
           ④ 父親忠夫の軌跡
           ⑤ 母親花代の軌跡
           ⑥ 好青年の二人の息子
           ⑦ 父忠夫の死
           ⑧ 母花代の孤独
           ⑨ 兄弟の確執
           ⑩ 長男の死
           ⑪ 兄政弘のSM好き
           ⑫ 弟政伸の離婚・泥沼裁判
           ⑬ 現在の役柄
         3.テレビドラマ「岸辺のアルバム」
          (1) 概略
          (2) あらすじ
          おわりに
         4.高倉健の生き方
          (1) 生涯-俳優になるまで
          (2) スターへの道のり
          (3) 独立
          (4) 晩年
          (5) 歿後
          (6) 人柄
          (7) 役作り・姿勢
          (8) 交友
          (9) 趣味
          (10)結婚(江利チエミ)
          (11)敬愛している映画人・作品
          (12)高倉ファンの著名人や高倉を尊敬している役者達
          (13)その他
         おわりに

はじめに
 「生きることについて」とはいささか大げさな題名だが、人生を終えるに当たって、「後悔しない生き方」とはどんなものがいいのかを考えてみるといった程度の意味である。それでもまだ大きな課題だが、そもそも既に後期高齢者となった身においては、今更生き方を考え直しても手遅れである。手遅れを明めたところで、後悔するのが関の山である。そこで残りの人生を、できるだけ後悔せずに済むように過ごすためにはどうしたら良いだろうかということを考えてみたいということである。
 もちろん後悔したくないために言い訳をして、自分のしてきたことを無理やり正当化してみても意味はない。うまくいけばそれで他人を納得させることができたとしても、本人は真相を知っている。少なくともそれでは、本人を納得させることはできない。
 テーマがいかに大きくても、実際にできることは限られている。そもそもブログは、更新することに意味があるようだ。このブログの記事は、更新することを前提にしていないものがほとんどで、その場合は本来は投稿ではなく固定ページにするものらしい。表示の順番や種類分けは固定ページでもできるらしいので、本当はそうするのがこのブログには相応しいものだったのかもしれない。しかし今後、読んでくれた人の意見も聞いて、修正したり大幅に意見を変えたりすることが「コメント」という形で導入出来るらしいので、そうした仕組みにすることも、今後は考えていきたい。今更こんなことに気づいた次第だ。
 最初から「生きる」について考えるうえで、過不足ないテーマの整理など不可能なので、今思いつくままに、「生きる」について考える際のポイントを絞ってしまいたい。
 最初に思いついたのが、黒澤明監督の映画「生きる」である。そこに描かれていたものが何を訴え、どんなことを教えてくれるかを、自分なりにまとめてみる。たぶんそこでは、下らない見栄や立場上の制限、世間体といったものから自由に、自分らしく生きようということが導かれそうな気がする。
 するとその先に広がるのは、明るく、元気よく、純情可憐な生き方である。遠慮や「らしさ」などという自重を思い切り取っ払った、ラテン系を思わせる自由で奔放な姿に近いように思われる。そこに広がる典型的な「幸せ」は、家族を犠牲にしてまでも仕事に打ち込む「職業人」とは正反対とも言うべき姿である。いかに自分の職業において「名人」「達人」と呼ばれようとも、退職し、職業人としての生活を終えた先にあるのは、職業を通して得た知識や技術はほとんど無用の長物であり、人間関係も断たれてしまっている。もしかするとそこに残るのは、犠牲にした家族への後悔、最も身近な人々に対するあまりにも無知な自分の姿ではなかろうか。とすれば、めざすべきは、一家団欒の幸福な成功者の姿である。その典型が、若貴フィーバーをもたらした二子山一家であり、芸能一家、おしどり夫婦、兄弟愛の典型と騒がれ、あこがれられた高島ファミリーであるように思われた。多くの人々がそこに理想と憧れを抱いたのではないだろうか。しかし、結果的にそれら二つのファミリーは、恵まれた結末を迎えてはいないように見える。果たしてこの二軒の家族は幸せだったと言えるのだろうか。
 理想的に見えたこの二軒の家庭が、噂通りに虚飾が剥がれ、奈落の底に転落した家庭であるとしたら、何をめざし、どうしたら良いのだろうか。いやそうではない。この二つの家族が、喩え十分に満足のいく家族であったとしても、昭和育ちのぼく自身に、今更真似ができるはずもない。
 そこで思い浮かぶのが、「自分、不器用ですから」という日本生命のコマーシャルや「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルで一世を風靡した、高倉健の生き方である。彼の場合も現実とイメージや伝説には大きな違いもあるに違いないが、実際にはどんな生き方がなされたのだろうか。
 ぼくの目から見ると現在は、ヤケに明るく軽やかな対人関係を求めることが然であるかのように見られている感じがする。まるで初めて近づいてくる詐欺師を思い浮かべてしまう。むやみに自分に正直だという触れ込みで「素」を恥知らずなほどにさらけだし、「どうでも良さそうな話」をことさら持ち出して相手との親和性を図ったかのように思い込むことで、人間関係を滑らかにしていると信じているのが「今」のように思える。高倉健の世界には、それらとは対照的な価値が見いだせないだろうか。そんなものを探し出して、自分の残りの「生きる」時間を考えてみることにしたい。
 ただし、高倉健に対しても、一時期ホモであるという噂がまことしやかに語られ、その結果エイズで死亡したなどという噂が広まったことがあった。「男の中の男」であるはずの健さんに、あろう事かホモ説が流され、偶然出来事を捜査することによって、否定しがたいかのような事態が生み出されたことすらあったのである。噂は次のようなものだった。
 映画の仕事が終わると、ひとりぶらりと海外に出かけるのが健さんの行動パターンだった。台本への詳細なメモ書きに象徴されるように、撮影中の真剣さ、熱の入れようは抜きんでていたので、撮影終了後の気分転換も人並みでは足りなかったはずである。東映時代はスケジュールが空いても、プロデューサーやスタッフと連絡を取り合ったが、独立した後は誰にも行く先を告げずに単独行動を取ることが多かった。そのため海外に出てしまうと、事務所の秘書さえ連絡が取れないことが少なくなかったという。1985(昭和60)年「夜叉」(東宝)の後も、暫く所在不明となった。エイズ騒動は、そうしたいつも通りに過ぎない雲隠れが導火線となった。
 この時健さんは、パリのパスツール研究所かその近辺のどこかを訪れたことが目撃されたのである。志村けんが、スケジュールの合間に宇都宮市のゴルフ場に行ったことが、近所の栃木県立がんセンターに通っていると誤解されて大騒ぎになったのと同じ構造である。パスツール研究所といえば、言わずと知れたHIVの建久の世界的権威である。そこから怪しげな情報が流れ始めたのである。1987(昭和62)年4月15日夕刻のことである。
 今ほどネット環境が普及していたわけではないにも拘わらず、「高倉健がパリで死んだ」というニュースが、またたく間に世界中を駆け巡った。
 かつて「南極物語」でコンビを組んだ映画監督の蔵原惟繕が高倉本人と電話連絡を取って、事実が明らかになるには相当時間がかかった。その間に噂は信憑性を増していった。実は、健さんは「ラスベガスで行われたWBCミドル級タイトルマッチを観戦して、そのまま米国に滞在していた」というものだった。
 一月後に日本でそんな騒動が起きていたことを知った健さんは、映画「砂の冒険者」(公開時は「海へ」に改題)の制作発表会で、300人の芸能記者の前で、珍しく気色ばんだという。「女の噂とかであれば笑って済まされるが、故郷には肉親もいるんだ」という内容だったという。健さんらしさはここにもあった。
 尤も、高倉健のエイズ死亡説を信じて、高倉健の付き人を自認していた映画俳優のタニマチとして有名な人に、吉永小百合や田中邦衛からも、ニューヨークの病院へ急いで行くように電話があったという。電話があったときには、健さんはその他に待ちの家に隠れていて、それらの電話を聞いていたということであった。
 フェイクニュースが話題に上り、AIによる本人の偽物が堂々と登場する世の中で、当時以上に誤報を信じ込まされる危険があることも肝に銘じておくことに使用。尤もどうにもならないだろうが・・・。

1.映画「生きる」
 映画「生きる」は、1952年に公開された日本映画である。監督は黒澤明、主演は志村喬。モノクロ、スタンダード、143分。東宝創立20周年記念映画。
 黒澤作品の中でもそのヒューマニズムが頂点に達したと評価される作品で、題名通り「生きる」という普遍的なテーマを描くとともに、お役所仕事に代表される官僚主義を批判した。劇中で志村の演じる主人公が「ゴンドラの唄」を口ずさみながらブランコをこぐシーンが有名である。国内ではヒットし、第26回キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれた。海外でも黒澤の代表作の一つとして高く評価されており、第4回ベルリン国際映画祭でベルリン市政府特別賞を受賞した。

(1) あらすじ
 市役所で市民課長を務める渡辺勘治(志村喬)は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。
 ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師からは軽い胃潰瘍だと告げられるが、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、貯金から5万円をおろして夜の街へ出かける。飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、キャバレー、ストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、帰宅すると事情を知らない家族から白い目で見られる。
 その翌日、渡辺は市役所を辞めるつもりの部下の小田切とよと偶然に行き合う。市役所を無断欠勤し、とよと何度か食事をともにするようになる。渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。とよは玩具会社の工場内作業員に転職した。自分が胃癌であることを伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」と勧めた。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだ出来ることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。
 それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取った。市の助役ら幹部が渡辺の功績を低く貶める話をしている中、新公園の周辺に住む住民が焼香に訪れ、渡辺の遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった幹部たちが退出すると、同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績を讃え、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。
 通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺を讃えていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の造った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた、というものである。

(2) 感動はどこから来るのか
 「見るからに貧相で、うらぶれた木っ端役人に過ぎない主人公が、死後に偉大な痕跡を残した」というところから感動が沸き上がってくるに違いない。
 もともとは意欲に燃え、理想を描いて仕事に取り組んだ若者だったのだろうが、日々の単調な暮らしと仕事の中で、我が身を磨り減らし、夢破れた出し殻のような老人が、今日も意味のなさそうな仕事で、わずかな給料をもらい続けている。
 そんな主人公が、残された命の時間を限られて、初めて自分の人生を振り返る。夢も希望もなく、単調で世の中に何の役にも立ちそうもないことを繰り返していた自分の人生の終焉を考えたときに、いてもたってもいられなくなったのだろう。
 残り少ない人生で、最初にしたのは放蕩であった。パチンコやダンスホール、キャバレー、ストリップショーなどで散在して回ったのである。たぶんそれまで我慢して手を染めなかったことなのだろう。是非ともそこに溺れたいというほどの欲求があったわけでもないだろうが、「無駄」と決めつけて近寄らなかった世界だ。「食わず嫌い」を体験してみたのだ。当然の如くそこにはやはりはかなさしかなかったのだろう。
 そんな時に現れたのが、若くして自由奔放に見える部下の若い女性だ。年老いた主人公から見ると、無軌道で自由奔放にしか見えないのだろうが、彼女なりに筋が通った生活を送っている。もちろん若気の至りで、無邪気で無鉄砲でもあるのだろうが、主人公がその自由な言動に好感を持てる程度で、言わば許容範囲だったのだろう。だからこそ彼女が潔く役所を辞めて今作っているというちっぽけな玩具が、この後の大きな可能性につながるのだろう。取るに足りない玩具は、自分が時間を無為に過ごすことよりはるかに価値があると見えたのだろう。それどころか、若かりし頃意の自分が成し遂げようとしていてできなかったことより価値のあるものに見えたのかもしれない。役所の役人としてできることなど、この玩具ほどでさえないように思えたのだろう。下らなくても玩具は現に今ここで形あるものとして生み出されている。自分が限界を感じ、手をこまねいて実現不能と決めつけていたことは、こんな小娘に作る玩具ほどでもなかったのではないか。役所を辞めてしまうなどということが大それたことに思えていた主人公にしてみれば、「あんたにはこんな玩具さえも作れないでしょう」と、小娘に冷や水を欠けられた気分だったのかもしれない。
 玩具一つ作るにも、アイディアを考え、材料を用意し、費用を抑え、必ずしも歓迎してはくれない上司や同僚を説得し・・・と、幾つもの困難を乗り越えた上で実現するものなのだ。上司の許可、役所の無責任体質によるたらい回し、予算、地元のボスや利害関係の対立する者による妨害があることなど知り尽くしている。そんなものはあって当たり前だったはずで、諦める理由などにはもともとならないのだ。限られた時間しか残されていない主人公は、まさに「死ぬ気」になれば何でもできる、相当なことができることを地でいったのである。
 彼は、かねてから強い要望のあった公園を完成させた。そこに彼の名が刻まれるわけでもない。すぐに貢献した主人公がいたことも忘れ去られるに違いない。ただそこに、なぜできたかもわからなければ、誰もその存在理由も、成立事情も考えようとさえせずに、公園が残るだけである。
 もちろん彼の名が英雄として残されることなどない。それどころか、役所はそれまでと同様に、縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこったままで、何の進歩も改善の兆しも見えない。ほとんど何も報われなかったというべきだろう。それにもかかわらず主人公は、残された彼の時間を後悔なく生き抜けることになったのではないだろうか。庶民が生きるとは、こういうことなのではないだろうか。

2.二軒の家族
はじめに
 日本を代表する家族として、二子山部屋の若貴兄弟を擁する家族と、幸せな芸能一家の典型とされたこともあるような高島ファミリーを取り上げることが最適なのかどうかは分からない。ただどちらの家族も、少なくとも一時期は、日本中が憧れ、羨望の的で眺めた家族には違いないだろう。そして、なぜか後にその内部での争いにより、その失墜ぶりが極めて醜い様相を呈してしまったという共通点を持っているように思われる。果たしてそれは偶然なのだろうか、それとも必然なのであろうか。
 かつて誰もがうらやましがった健全な家族と、今他人の目からは悲惨にしか見えない没落家族とで、どちらが本当に幸せなのだろうか。それともどちらも不幸なのだろうか。そこに「幸せとは何か」が見えてくるだろうか。

(1) 二子山部屋一家の場合
 ① 若貴ブームの前史
 初代貴ノ花、本名花田満は1970年代の人気力士で、その足腰の柔らかさと強さを武器に大関を50場所つとめた。身長183センチ、体重114キロというのが現役時代の公式記録だが、実際には体重100キロに満たなかった時代が長いそうだ。
 花田家10人兄弟の長男が第45代横綱若乃花勝治で、満はその22歳下の末っ子であった。青森県弘前でリンゴ農家だった花田家は、1934(昭和9)年の室戸台風で果樹全滅、一家をあげて北海道室蘭に移住した。やがて大家族の家計の中心となったのは、室蘭港で荷役労働に従事した勝治であった。
 終戦直後の1946年、18歳の花田勝治は、巡業で室蘭を訪れた大相撲の興行に飛入りして数人の相撲取りに勝った。荷役の仕事で鍛えられたその強靱な筋肉は、二所ノ関部屋の力士、大ノ海(のちの花籠親方)の目を引いた。背は高かったものの当時の体重70キロ、力士としては無理ではないかと周囲は不安視したが、大ノ海はあきらめなかった。自分の内弟子という特例でこの年角界入りさせた。
 同年11月に初土俵を踏んだ花田勝治は、「若ノ花」の四股名で順調に出世し、49年5月には十両、その年のうちに新入幕を果たした。50年2月、満誕生の知らせを聞いた若ノ花は当初姉の子どもと思ったが、自分の弟と聞いて驚いたという。大相撲が年4場所となった52年、大ノ海が二所ノ関部屋から独立して芝田山部屋を開設(翌年花籠を襲名)した。その部屋で部屋頭となった若ノ花は55年秋、大関に昇進した。その年11月、室蘭の父親が亡くなり、若ノ花は母親の懇請で家族6人を引き取った。後年貴ノ花となる末弟はまだ5歳であった。
 57年9月場所より「若乃花」に改名。年6場所開催となった58年1月、若乃花は2回目の優勝をし、場所後第45代横綱に推挙された。29歳であった。3歳上の好敵手栃錦との対戦は51年に始まるが、交互に優勝を分け合う「栃若時代」は58年からで、60年3月には2人とも全勝のまま千秋楽に対決して若乃花が勝った。生涯対戦成績は栃錦19勝、若乃花15勝であった。
 62年5月、若乃花は34歳で引退し、10代二子山を襲名して、円満に花籠部屋から分かれて二子山部屋をおこした。
 末弟の花田満は二子山部屋のある杉並区で育った。満は中学時代に水泳選手となり、100メートルバタフライの中学記録を何度も更新した。そのまま高校、大学と水泳をつづければオリンピック出場は確実、メダルも濃厚と見られていたが、1965年の中学卒業前、本人が二子山部屋入門を希望した。
 二子山が弟の角界入りに強く反対したのは、末弟にはオリンピック選手になってもらいたかったからだという。また、かつて入門した上の弟、若緑(花田陸奥之丞)を肉親の情からつい甘やかし、成功しないままに廃業させてしまったことの原因となっていたに違いない。
 しかし、満の決意の固さから最後には二子山部屋入門を許したのだが、現役時代「土俵の鬼」と異名をとった二子山は、15歳の弟に、「これからは父とも兄とも思うな。縁を切って敵だと思え」と告げた。23年後の88年、初代貴ノ花は、自ら創設した藤島部屋に長男勝(若花田、のち3代若乃花)と次男光司(貴花田、のち貴乃花)が入門を望んだとき、長兄勝治が自分にいったのとそっくりおなじ言葉を兄弟に与えるのだった。
 65年5月に初土俵を踏んだ初代貴ノ花(69年11月までは本名の花田満を名のる)は順調に番付を上げ、68年3月場所、当時史上最年少記録の18歳0ヵ月で十両に昇進した。この時期、二子山部屋の近くにあった日大相撲部合宿所から部員が稽古にきていたのだが、そのひとり、2歳上の輪島に十両の貴ノ花は勝てなかった。二子山は烈火のごとく貴ノ花を怒ったが、これを機に貴ノ花と輪島は親しくなり、友情は輪島の大相撲入り以後も維持された。
 新入幕は68年11月、明治以降初の兄弟幕内力士の誕生であった。しかし貴ノ花の体重は増えない。その食事風景を見た横綱北の富士は、ほとんどベジタリアンのような内容に驚き、あれでは太れないと嘆息した。喫煙の習慣も体重増を妨げた。97キロの体重を、力士としてみっともないからという理由で、106キロとマスコミに伝えたのはこの頃である。
 そのうえ、強靱な筋肉質の体にもかかわらず、貴ノ花は内臓が弱かった。酒が力士の体をつくるという二子山親方の考えから無理に飲まされて胃潰瘍になったり、上気道炎に苦しんだり、肝硬変直前の状態に陥ったりした。また20代半ばには腎臓の不調に苦しんだ。
 71年5月場所5日目、貴ノ花は横綱大鵬を破り、大鵬はこの日を最後に引退した。新旧交代の歴史的な日であった。貴ノ花はその容貌のみならず、「もうひとつの生命がある」と評されたしなやかな足腰、そして決して「かばい手」をせず、顔から土俵に落ちることをいとわない相撲態度ゆえに圧倒的な人気を博した。その結果、大鵬のあまりの強さゆえに沈滞していた大相撲人気の回復に大きく貢献した。さらに72年9月、そろって大関に昇進した輪島とのライバル対決の物語が加わった。輪島は73年7月、横綱に昇進した。
 その輪島に対して強く、19勝24敗の生涯成績を残したのが巨漢力士の高見山であった。貴ノ花の6歳上、64年にハワイから来日して初土俵を踏んだ高見山は、68年1月入幕で、外国出身力士として初めて優勝したのは72年7月であった。身長192センチ、体重205キロの高見山と、体重が半分しかない貴ノ花の勝負は「牛若丸と弁慶」の勝負にたとえられて、本場所ごとに観客を沸かせた。
 貴ノ花の3歳下、北の湖の入幕は72年1月で、2年半後の74年9月には横綱に昇進した。それまでは70年3月、同時に横綱昇進した北の富士と玉の海が土俵の中心で「北玉時代」と呼ばれたが、71年10月11日、玉の海が手遅れになりかけた虫垂炎の手術後の合併症、肺動脈血栓で27歳で急死した。
 その後「貴輪時代」が来るはずであったが、それを飛ばして、左下手投げを必殺の武器とする輪島と「憎らしいほど強い」北の湖、「輪湖時代」へと移ってしまう。二子山部屋からはやはり貴ノ花の3歳下、若三杉が成長し78年5月、2代若乃花として横綱に昇進する。貴ノ花は、毎場所9勝6敗の「クンロク大関」の異名とともに取り残された。
 だが25歳の75年、貴ノ花は心機一転、頸椎・腰椎の引き延ばしや腰の温熱療法を熱心に実行して再び持続力を回復し、3月場所では北の湖との優勝決定戦に臨んだ。貴ノ花は北の湖の上手投げを腰を落としてこらえ、寄り切って勝利した。悲願の初優勝の表彰式で優勝旗を手渡したのは兄・二子山審判部副部長であった。この年9月場所でも貴ノ花は決定戦で北の湖を破り、二度目にして最後の優勝を果たした。
 それ以後貴ノ花は地味な大関に逆戻りしてしまう。その75年9月に幕内に昇進したのが5歳下の千代の富士である。力士としては細身、強くしなやかな筋肉を持つ体型は貴ノ花のそれとよく似ていた。しかし千代の富士には左肩を脱臼する癖があった。そのため相撲をやめるか、困難な道ではあるが肩を守る鎧のように筋肉をつくり上げるかどちらかしかない、と医者にいわれ、千代の富士は筋肉を鍛えながら太る道を選んだ。そんなとき、貴ノ花に禁煙を強く勧められて実行し、その証として50万円のダンヒルのライターを隅田川に投げ捨てたといわれている。禁煙は体重増加と筋肉増強に卓効があり、「横綱になれたのは貴ノ花関のおかげ」、という千代の富士の述懐には真実の響きがあった。
 しかし貴ノ花自身は深刻な病気にかかるまで禁煙できなかった。貴ノ花は80年11月、場所3日目に千代の富士に敗れたことで引退を決意したといわれ、大関在位50場所目となる翌81年1月場所途中で引退した。30歳11ヵ月であった。
 その千代の富士の横綱昇進は8ヵ月後、81年9月である。優勝31回、88年5月から11月まで53連勝の記録を残した千代の富士は、91(平成3)年5月場所限りで引退した。その引導を渡すかたちになったのは、初日に千代の富士を破った元貴ノ花の実子貴花田と、3日目に破った元貴ノ花の弟子、藤島部屋の貴闘力であった。因果はめぐるのである。

 ② 若貴フィーバー
 引退した貴ノ花は年寄鳴門となり、81年末、名跡を藤島に変更して翌年には二子山部屋から独立、藤島部屋を設立した。藤島の指導能力には定評があり、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力らを育てた。88年には長男(若花田)と次男(貴花田)が入門した。大横綱千代の富士が君臨していた大相撲界に、若花田(のちの若乃花)と貴花田(のちの貴乃花)という新時代を担う宿命を背負った兄弟力士が登場したのである。父は元大関貴ノ花で、期待にたがわず番付を駆け上がり、日本中を熱狂させた。若貴時代の始まりである。
 時代は新たなヒーローを求めていた。大横綱千代の富士が長らく頂点に君臨する角界は、人気が停滞していた。そこに登場したのが父に貴ノ花、伯父に元横綱初代若乃花を持つ期待の兄弟である。二人が「藤島部屋」に入門したのは、弟の貴花田が中学を卒業した直後の昭和63年春場所であった。曙や魁皇(浅香山親方)など、同期から実に10人以上の関取が輩出されており、今も相撲界で語り草となっている「花の63年組」と呼ばれた初土俵であった。加えて「弟を守るために入門した」という若花田との兄弟愛まで披瀝された。名門一家の物語は性別、世代を超えて人の心を引きつけるに充分すぎるほど十分だった。91年春場所の貴花田対小錦の瞬間最高視聴率は驚異の52・2%(ビデオリサーチ調べ)だったという。主婦層がターゲットのワイドショーも連日、兄弟を追いかけるほどであった。
 若貴兄弟は88年春場所、初土俵を踏んだ。「プリンス」と呼ばれ、人気者だった元大関貴ノ花の息子であり、伯父(父貴乃花の兄)は土俵の鬼といわれた初代の若乃花である。入門した時点で人気者で、角界の未来を担う宿命だったとも言える。
 実際に、共に順調に番付を駆け上がった。特に貴花田は89年九州場所で17歳2カ月の新十両、90年夏場所で17歳8カ月の新入幕と次々最年少記録を更新していった。甘く精悍な見た目でありながら強い。人気は必然だったといえる。幼い頃から父に憧れ、いずれは力士を目指していた弟貴花田に比べ、兄若花田はプロになる気持ちがそれほど強かったわけではなく、当時まだまだ理不尽の多い相撲界において、無口で不器用な弟を守るための入門だったとも言われている。
 しかし、関取昇進後も、マスコミに多くを語らないマスコミ泣かせの貴花田の分を兄若花田がカバーする姿と、兄の存在を頼もしく慕い共に戦う姿に日本中が羨む、まさに理想の兄弟と映ったのだった。
 1992(平成4)年1月26日午後5時。固唾をのんで土俵に注目していた日本中が、その瞬間に沸き上がった。大相撲初場所千秋楽。東前頭2枚目の貴花田は三杉里を寄り切り、14勝1敗で初優勝を飾った。19歳5カ月、史上最年少の幕内最高優勝だった。この場所、日刊スポーツ(東京版)は15日間、1面をすべて相撲で貫いた。さらに歴史的快挙は号外で報じた。日刊スポーツの号外発行は77年11月22日、江川卓の「クラウンライターが1位指名」以来のことだった。
 社会現象ともいえる若貴フィーバーは貴花田の初優勝後、さらに過熱した。92年春場所前に大阪入りする際は羽田空港でタクシーを機体に横付けし、到着した大阪空港ではVIP出口から脱出するほどであった。東大阪市の宿舎はひと目見ようと連日、ファンが取り巻いていた。狭い道路脇に最高500人が押し寄せた。巻き込まれた高齢女性が転倒し、骨折する事故も起きたほどである。そんな周囲を冷静に見つめた若花田は「昨年(の春場所で)、光司が11連勝してからパニックが始まったんだよな。俺も表に出られないかな」とつぶやいたという。
 不器用で表現が下手な弟と器用で明るい兄の構図も、分かりやすかった。フィーバーの最中、しゃべりが苦手な弟を守るべく若花田は「俺が全部対応する」とマスコミの前に立った。ただ、貴花田は自身の人気に無頓着だった。当時を取材していた記者が述懐する。
「買い物に付き合ったこともあったが、ワーワーされてもまるで気にしない。こっちがひやひやするぐらいだった。プライベートでは付け人をつけなかった。『自分の召し使いじゃない』と。(関取になった)当時は17、18歳だったけど、芯はしっかりしていた」
 順調な出世はただ、天分に恵まれただけではなかった。貴花田の新十両昇進時、「今までで一番後悔していること」の質問に「(明大中野)中学時代、クラスのいじめられっ子を助けられなかったこと」と返した。そんな卓越した精神面を持ち合わせておりながら、見る人が「殺し合いかと思うぐらい」の猛稽古が繰り返された。表の飄々とした姿とは裏腹に、裏側には血へどを吐くほどの壮絶な努力があったのだ。
 新弟子検査に史上最多160人が殺到したのも92年春場所であった。貴花田は同年11月に女優宮沢りえと婚約を発表しながら、年明けには破局した。いずれにしろ貴花田は常に話題の、時代の中心にいた。しかし、そんな立場に置かれた状況を横綱になった貴乃花はこう言っていたという。
「孤独なもんです」
 この言葉の意味がいかに大きなものであったかは、後に改めて注目されることになる。
 
③ 若貴フィーバーの終焉
 89年九州場所11日目から始まった史上最長の大入り満員は97年夏場所2日目、666日でストップした。「兄弟絶縁」や「洗脳騒動」が報道されたからだ。土俵外に注目は移り、貴乃花は孤立感を深めていった。
 平成最後の年、兄弟2人とも日本相撲協会を去っている。賭博、暴力問題に大揺れした国技も今、人気は隆盛を誇る。ただ「若貴」のような強烈な個は現れていない。平成の世に一時代を築いた。「大相撲」を幅広く知らしめたのは、何よりの功績。その土台があって、大相撲は令和の新時代を迎える。
 二人が番付を駆け上がり実力を付ければ付けるほど、相撲ファン達の間で期待が高まったのが「夢の兄弟対決」の実現だった。
 しかし、本場所の土俵で絶対に対戦が組まれない条件である「同部屋対決」と「兄弟対決」を共に満たしている、同部屋の兄弟力士(関取)若貴の真剣勝負を唯一実現させるための方法は、「本場所での優勝決定戦」しかなかった。
 92(平成4)年初場所、一足早く史上最年少優勝を果たした貴花田に続き、93(平成5)年に入ると若花田も初優勝を飾り、若貴共に大関昇進を果たした。
 優勝戦線に残ることも増えた二人に、否が応でも大きな期待が寄せられ、平成5年名古屋場所の「あわや」という瞬間を超え、ついに平成7年九州場所千秋楽でその対戦は実現。12勝3敗同士の横綱貴乃花と、大関若乃花が優勝決定戦を行った。
 初場所に新横綱として優勝をし、直前の秋場所まで3連覇中の横綱貴乃花と、大関昇進は果たしたものの、初優勝から2年半優勝のない若乃花。
 もしも優勝決定戦になったらどうなるのか。下馬評では圧倒的に貴乃花の勝利が予想されていたが、結果は若乃花の勝利で終わった。
 兄弟対決で勝利を収め、自身2度目の優勝を飾った勝者若乃花も「もうやりたくない」と答えるなど「非情で後味の悪い優勝決定戦」であった。そしてこの一番こそが、これまで強い絆で結ばれていた兄弟の絆に、わずかな距離が生まれるきっかけになったとも言われている。
 真実は分からないのだが、師匠から暗に負けるような指示があり、これまで信じていた貴乃花の相撲道に迷いが生じた・・・。一部ではそんな風にも言われている。
 兄弟による優勝決定戦の件に関しては、後に「不仲の要因」と言われるようになるのだが、決定戦後の二人の関係は、特に変化したようにはみられなかった。
 「若貴の不仲」が表ざたになったのは、いわゆる「謎の整体師」による洗脳事件からであり、ちょうど若乃花が第66代横綱に昇進した頃のタイミングだった。
 この事件を一言で言うと、「貴乃花には世話になっている整体師がおり、この頃は周囲の忠告に耳を貸さずその整体師の言う事しか聞かなくなってしまい、堪り兼ねた師匠が『貴乃花は洗脳されている』」と発言した事件のことである。
 平成10年夏。苦労して横綱をつかみ取った兄若乃花と、傍らにいる師匠とおかみさんに向けて、多くの相撲ファンの念願だった兄弟横綱が実現したことが諸手を挙げて祝われていた。そんな祝福のコメントの嵐の中、弟で先輩横綱の貴乃花だけは違ったのだった。
 「若乃花の相撲には基礎がない」「兄弟でも譲れないものがある」という、兄に対する力士としての決定的とも思える厳しい非難であった。祝賀ムードの中での発言だけに、異彩を放ち、いっそう際立つものがあった。
 こうした貴乃花の発言に対して、当時の世論はどちらかと言うと、マスコミ受けの良い若乃花を「善」としたものが多く、 まさに水を差すかのようなコメントや態度を取る貴乃花に対しては、先の親方による「洗脳」発言も手伝い、「今や異常になっている」というような報道がなされていた。
 しかし、今になってみれば分かるように、洗脳されていたというより、これこそが貴乃花だったといえるのである。
 若乃花が横綱昇進した平成10年の頃、貴乃花はスランプに陥っていた時期だった。平成6年九州場所後に横綱昇進を果たし、平成7年~平成9年の18場所(休場1回)で優勝11回、優勝同点4回、準優勝2回とほぼ完璧な内容を残した3年間に比べて、内臓疾患や怪我などに見舞われなかなか結果が伴わない時期だった。
 双葉山の様な理想の横綱を目指していた当時の貴乃花にとって、今までとは違うやり方が必要になってきた中で、手本となる存在がおらず、藁をも掴みたい状況の中現れたのが例の「整体師」だったのかもしれないのである。
 「もっと基礎をしっかりやらないと」に対して若乃花が発した「僕はエンターテナーなんで」 というコメントは、当時は「悪い弟」に対して「善い兄」が大人の対応をしているかのような報道のされ方だった。確かに兄にしてみれば、その真意は弟の発言を笑いにに変えるための優しさだったのかもしれないが、返された貴乃花にしてみれば理解出来ない、許しがたいおふざけに聞こえたのかもしれない。
 その後、何度か歩み寄る姿勢を見せた時期もあったのだが、共に二人で歩んできた相撲道が、別々の横綱道に分かれたこの時こそ、「若貴が決別した瞬間」だったように思える。
 一度は離れた二人だったが、その後は親方の仲裁もあり何とか和解にこぎ着けた。若乃花は2000年春場所、貴乃花は2003年初場所にそれぞれ引退し、これで若貴時代は終わりを告げた。
 若乃花が自身の断髪式で貴乃花が鋏を入れた瞬間に涙したことや、貴乃花引退報道の際、声を詰まらせたことを覚えているファンも多く、それらの光景を見て、再び仲の良い若貴に目を細める相撲ファンもたくさんいた。
 しかし今振り返ってみると、和解した後も貴乃花のコメントや言動はどこかよそよそしく他人行儀であり、当初のわだかまりはずっと残っていたような印象を受ける。再びそれが表ざたになったのは二子山親方急逝の際の一連の出来事である。

④ 一家瓦解への前兆
 93年、兄二子山が相撲協会の定年を迎えるとき、藤島は二子山(11代)を襲名、藤島部屋が二子山部屋に吸収されるかたちをとったため、新二子山部屋は一気に大部屋となった。94年11月に貴乃花が横綱になり、98年5月に若乃花(3代)が横綱となるまでが、2横綱1大関三役2人を含んで力士50人を誇った二子山部屋の全盛期であった。11代二子山自身も96年、協会理事に昇格、巡業部長に就任した。
 93年の二子山部屋と藤島部屋合併の折、兄(10代二子山)に支払った名跡譲渡金3億円の申告漏れを96年に指摘されたときが翳りの始まりであった。
 2000年、若乃花は2年に満たない横綱在位ののち、29歳で引退した。もともと相撲界にさしたる愛着を感じていなかったという若乃花は、引退後に協会を離れ、花田虎上を名のった。一方で、恐らく貴乃花の中では、若乃花が相撲界を去ったことは決定的に大きな出来事だったのではないだろうか。「相撲=人生」・「部屋を守ることが使命」そう信じている貴乃花と、「外の世界を知る必要もある」「相撲だけが全てではない」と考える若乃花との違いがそこには決定的な断絶を生みだしていたのではなかろうか。かつて「孤独」を感じていた貴乃花にとっては、慕い頼りにしていた兄が別の世界に飛び出していく姿は、裏切り以外の何物でもないように感じたのかもしれない。新弟子時代二人で場所に向かった、弟想いの兄と兄が好きな弟だったが、相撲界で様々な経験を積み、頂点まで昇ったにもかかわらず、二人の価値観はいつのまにか全く違ってしまっていたのである。
 以後、二人が育った「二子山部屋」の名前が「貴乃花部屋」に変わった後、再び兄弟が並ぶことは今日まで実現していない。
 また、二子山親方が長年連れ添い、若貴兄弟の母親である憲子夫人と離婚したのは2001年である。親方の主治医と憲子夫人の「不倫」が報道された結果であった。順風満帆に見えた一家に陰りがはっきりしてきたのである。それとも栄光の陰に浮き出すことがなかった溝や陰り、遠目には気にならなかったひび割れや汚れなどが、浮き彫りになって目立ってきたとみるべきなのだろうか。
 二子山親方(初代貴ノ花)の最初の順天堂医院入院は2003年10月であった。脚部に生じた血栓の治療薬の副作用で口内炎を発症、発語も不自由になったため、という理由がつけられたが、実際は口腔底がんであったという。
 口腔底がんは酒やタバコの過剰な摂取が原因のひとつだといわれる。二子山の場合は、千代の富士のように禁煙しなかったことが祟ったのだろう。このがんは全摘すれば予後が必ずしも悪くないとされるが、そのためには顔の下部の切除が必要で、はっきり人相が変る。美男力士として人気を博した二子山としては耐えがたかったのか、患部の部分切除にとどめた。このときの入院は貴乃花夫妻がとりしきり、兄の勝には入院の事実さえ知らせなかったといわれる。二子山は04年1月に職務復帰した。
 理事長再登板の北の湖は、そんな病身の二子山を翌2月1日付けでナンバー2の事業部長に任命した。定年となった佐渡ヶ嶽(元琴桜)の後釜にしたのである。その際、二子山は協会職務に専念するため、部屋運営を貴乃花に任せることにした。
 しかし04年6月上旬、順天堂病院に再入院したのは、すでに吐血症状を呈していたからであった。この再入院では勝が連日見舞ったが、貴乃花夫妻は一転して姿を見せなかった。一説には、部屋の土地と建物の権利書を貴乃花が持ち出したことに二子山が激怒、出入り禁止にしたのだといわれている。「花田家親子、若貴兄弟が見かけと違って仲の悪いこと」は、すでに相撲関係者だけが知る事情ではなくなっていた。
 二子山は04年春と夏は場所を全勤した。しかし口内の不具合から会話は全く不自由であった。同年11月の九州場所は3日まで勤め、4日目に東京へ帰った。しかし12月の理事会、師匠会には出席した。05年1月5日の稽古総見、6日の明治神宮奉納土俵入りにも姿を見せた。
 1月場所は全勤したが、1月30日に催された元大関貴ノ浪の断髪式には、予定時刻より20分遅れて姿を見せた。その間、貴ノ浪は国技館の土俵上で一人着座して待った。貴ノ浪は二子山が藤島時代の87年、自ら勧誘して相撲界入りさせた愛弟子である。
 やがて登場した二子山は、歩行もままならない様子で、土俵に上がるのに呼び出し2人の介助を受けなければならなかった。その顔と体は、病みやつれた老人のものだった。場所後10日しか経っていないというのに、そのあまりの面変わりぶりに招待客達は声もなかった。
 さらに招待客達を驚かせたのは、最後から二番目のはさみを入れて土俵下の席に着いていた二子山の前を、留めばさみを終えた貴乃花が、言葉は無論、全く視線さえ送らずに通り過ぎたことであった。
 2月23日、貴乃花部屋から相撲協会を通じて二子山の病名は口腔底癌であるという文書が関係者に送られた。二子山の看護は再び貴乃花夫妻に任されたかのようであった。
 5月23日には激しく吐血し、終末が近いと思われた。既に体温は低下し、肺炎を併発していた。5月30日、逝去。55歳であった。あの、しなやかないるかのようであった40年前を思い出せば、ただいたましかった。

⑤ 一家離散・決別
 相撲人気の中心にいた二人が、現在は共に相撲協会から距離を置くだけでなく、喧嘩別れのような形になってしまっている。入門当時あんなに仲の良かった兄弟に、なぜここまで大きな亀裂が入ってしまったのか。本当のところは分からないことばかりなのだが、分かるところを追ってみる。絶頂期が頂点であると同時に、以後は下るばかりであることは世の常でもあるのだが、あまりにもあっけなく、不思議な急降下には、まるで作られた嘘の話しのようで、信じられない
 優勝22回の貴乃花の引退は2003年1月である。その圧倒的実績から彼は一代年寄りを許され、また協会から1億3000万円の功労金を受け取った。04年2月には二子山部屋を継承し、貴乃花部屋と名跡を変更した。
 しかし貴乃花は中野新橋には常駐せず、新宿区に新築した豪邸に、1995年に結婚した8歳年上の元フジテレビアナウンサーの夫人と共に住んで、部屋へ通勤した。引退した貴乃花はダイエットに努め、現役時代の体重を半分に落とした。肋骨を鳥かごのように浮き出させたその過剰なやせ方は周囲を驚かせた。
 03年朝稽古に姿を見せない貴乃花への不満を安芸乃島が口にし、それが本人の耳に入った。安芸乃島は貴乃花の5歳上、初代貴乃花にスカウトされて藤島部屋入りした兄弟子である。元来よくはなかった2人の関係は、これを機に修復不能となった。
 同年5月の引退にあたって安芸乃島は、年寄株山響を譲り受ける約束を新二子部屋の親方(初代貴乃花)と交わしていたのだが、これに貴乃花が介入して話は流れた。一時藤島株を二子山親方から借り受けた安芸乃島だが、その後出羽一門の持ち株・千田川を買って二子山部屋と二所の関一門から完全に離れた。それは相撲界では異数のことであった。さらに二子山親方は藤島株を一門外の武双山に譲渡したが、これにも貴乃花は激怒したと言われる。
 2005年頃から協会運営に関する持論を展開、協会中枢との確執を生じた。10年初めに二所ノ関一門を離脱して貴乃花グループをつくった。同調したのは間垣(元2代若乃花)、音羽山(元貴ノ浪)、常盤山(元隆三杉)ら6人の親方であった。同年8月には要職の審判部長に就任、14年、貴乃花グループは貴乃花一門として認知されて協会内の一勢力となった。
 しかし17年11月に起きた、横綱日馬富士の貴乃花部屋・貴ノ岩に対する暴力問題の処理をめぐって、貴乃花は八角(元北勝海)理事長ら協会主流派と対立した。協会内での解決に努力せず、暴行現場を管轄する鳥取県警に被害届を提出したり、内閣府公益認定等委員会に告発状を送ったりした彼の発言と行動に、一時支持した親方たちも離れて行った。
 18年3月、今度は弟子の貴公俊が付け人に暴行する事件を起こした。協会内部では貴乃花の契約解除(馘首)の声も上がったが、結局、平年寄りへの降格処分に落ち着いた。序列3位から83位への極端な降格であった。同年6月、貴乃花は自身が主役たる貴乃花一門からの離脱を表明、自動的に貴乃花一門は消えた。10月1日、貴乃花の退職と共に、貴乃花部屋の力士8人は、千賀の部屋に引き取られた。
 「きまじめ、かたくな、不器用」と評され、何事につけ「過剰」であった貴乃花は、相撲協会のみならず、実兄、実母とも絶縁し、さらに18年10月下旬には23年連れ添った夫人と離婚して、一人の「タレント」となった。家族は解散し、家業は三代で消滅した。

⑥ 泣きっ面に蜂
 全盛期を誇った花田家は、今や家族解散、家業消滅を迎えるという、事実とは信じがたい事態に陥っている。そのうえ、次のような話が、一部ではまことしやかに語られている。
 初代横綱若乃花(花田勝治)が愛人との間に作った子供が今の二子山親方(元大関貴ノ花)だというのである。確かに年が離れ、勝治自身も、一度は弟ではなく姉の子だと思ったと伝えられている。年齢差22歳で、10人兄弟の長男と末っ子だとされている。しかし、それに対して、初代若乃花と、韓国人の愛人との間に生まれたのが初代貴乃花で、若乃花は実の父親だったという噂もまことしやかに伝わっているのである。
 更に大部屋女優だった憲子と二子山(初代貴乃花)は同棲していたが、初代若乃花(当時の二子山親方)はこれに猛反対しており、何度も憲子のもとに通って、別れさせようとしていたという。ところが、あろうことか、初代若乃花と憲子がなんと出来てしまい憲子は妊娠してしまったというのである。その子が花田勝、つまり若花田だというのである。そのため、急遽二子山(当時貴ノ花)は憲子と結婚、勝を我が子としたといわれている。オリンピックの水泳選手を断念した陰にはこんな事情もあったというのだ。兄が子を作ってしまったことを隠すために、弟(息子)が結婚するという、できちゃった結婚ならざる「でき婚」が行われたというのである。この結果、初代若乃花は、初代貴乃花に、大きな借りができたことになる。若乃花はいとも簡単に 相撲界を退き、当時の藤島親方に二子山部屋をタニマチごと破格の安さで譲り渡したのは、このためであるといわれている。また花田家内での発言権も極めて弱かったと伝えられている。さらには、兄若花田と弟貴花田の顔つきが非常に異なっており、兄は初代若乃花似、弟は初代貴乃花に似ているともいわれる。言われてみれば、ややそうした傾向が認められなくもないように見えてしまう。しかし母親の藤田紀子さんはフジテレビに出演した際、二人の父親が違っているという噂話をはっきり否定し、DNA鑑定も辞さない姿勢を見せたという。鑑定は実現せず、ただし同時に、家庭内においても、父親の初代貴乃花も、弟の元貴花田も、噂を信じている節があるとも語っている。
 もちろん、過去の日本では、長子と末子が22歳離れているというようなことは、よくあることだったし、兄弟二人の人相がかなり違っていると云うことも珍しいことではない。しかしそんな勘ぐりが陰でさえ憚られる家族であったものが、半ば公然とそうした指摘がなされるものと変わってしまったことは厳然たる事実である。

(2) 髙嶋ファミリーの場合
 ① 芸能界屈指の仲よしファミリーとして知られた高嶋家。
宝塚の男役トップスターだった寿美は1963年に「歌う映画スター」として人気を博していた高嶋忠夫と結婚した。1965年に高嶋政宏、1966年に高嶋政伸が誕生した。
 人気バイオリニストの高嶋ちさ子はそんな高嶋家の親戚で、忠夫の実弟がちさ子の父という間柄だ。ちさ子の父はレコード会社の元ディレクターで、ビートルズをいち早く日本に紹介した人物として知られる。そして、母はピアニストという音楽一家の3人兄姉の末っ子として生まれた。
 だが、ある芸能関係者によれば、両家の親戚関係は、何年も断絶したままだという。溝が生じた原因について、金銭感覚のズレを指摘する声が複数あった。
「ちさ子さんの父親は音楽業界では有名でも、サラリーマンですからね。兄の忠夫さん一家とは収入も生活のレベルも違います。子供たちが小さい頃は、両家のつきあいも普通で、ちさ子さんも忠夫さんの家に遊びに行ったりしていたんですよ。
 でも子供心に家の大きさとか、おやつは当時高価だったメロンを食べてるとか、そんな生活のレベルの差に、ちさ子さんのほうも、“うちと違う…”という気持ちが大きくなったと聞いたことがあります」(レコード会社関係者)ということだった。
 ちさ子自身も、ある対談でこんなことを語っている。
「あちらは共稼ぎで、奥様は当時の宝塚のスターですからね。よく食事に呼んでもらってすきやきを食べると、肉が違うんですよ。『こんなおいしいお肉、兄にも食べさせたいです』なんて私が言うと、次に兄が呼んでもらえる」
 子供心にぼんやりと“家”の違いを感じていたちさ子だが、6才でバイオリンを始めたとき、両家の溝がさらに深くなるできごとがあったという。
「寿美さんは思ったことをはっきり言ってしまうから、知らず知らず相手を傷つけてしまっていることがあるんですよね…。ちさ子さんがバイオリンをやり始めた時も、“お金がかかるのに大丈夫なの?”と言ったそうです。寿美さんに悪気はないと思うんですけど、ちさ子さん一家にしてみれば、上から目線の余計なお世話だったと思いますよ。それから次第に疎遠になっていったと聞いたことがあります」(テレビ局関係者)ということだ。
 そんな事情が親族内にはあったのだが、もちろん外に漏れてくることではなかった。あくまでも高嶋一家は、明るい人気者の父親と、美人で奔放な母親の間で、何不自由なく育てられた好青年の二人兄弟が、芸能界を席巻しているといった姿であった。非の打ち所がない、うらやましい限りに幸せいっぱいの仲良し家族であった。

 ② 高嶋家の由緒
 父方の髙嶋家は、神戸市御影にある。戸籍で辿れるもっとも古い先祖は、政宏から見て高祖父にあたる髙嶋茂十郎(妻・テイ)である。茂十郎は御影町の町議会議員を務めている。その長男が1870(明治3)年4月3日生まれの曾祖父茂一である。家庭雑貨を扱う「荒物金物」を営んでいた。広い土地を所有していて、現在の阪神御影駅付近から北に国道2号沿いまであり、「父が子供のころには、阪神御影駅から家に帰りつくまで人様の土地を踏むことがなかった」ということであった。茂一は雑貨の商売だけでなく貸家を持ち、家賃収入もあった。更に、学問好きが高じて近所の子供たちを集めて塾も開いていたという。
そんな茂一(妻・みね)の三男として1903(明治36)年7月12日に生まれたのが忠夫の父で政宏の祖父となる信夫である。信夫は、先代までとはかなり毛色の違う人物で、だったようで、政宏・政伸のいとこでバイオリニストの高嶋ちさ子さんによれば、「遊び人だったって言ってた。なんかすごいお坊っちゃまだったらしい」ということだった。長男の忠夫も著書に「なにしろ食べるのに困らないだけのものはありますから、一定の仕事に就く気になれない。祖父に店子さんから家賃をいただいてくるようにと言いつけられてもそのお金を持って競馬に行ってしまうようなひとだったのです。」と書いている。信夫が生涯熱中したのが琵琶で、髙嶋哮水の名で演奏会にも出演したという。大地主で、父・茂一にも溺愛され自由に生きていたため、「薩摩琵琶と尺八吹いて、囲碁打って友達を集めてた」といった生活だったようだ。
 父方の祖母「はる」は、忠夫の母で政宏・政伸の祖母。自由気ままな夫・信夫の分まで髙嶋家を支えた。
この祖母の父親の齋藤三平が、三平汁(北海道の郷土料理)の考案者だという。
 自由人の信夫の長男として1930(昭和5)年に生まれたのが忠夫で、彼が小学生の頃から生活のため土地を切り売りするようになったという。
 忠夫は旧制神戸一中に進学し、水泳部に所属した。神戸一中は現在の兵庫県立神戸高等学校。1896(明治29)年に創立された名門だ。
 太平洋戦争のさなか、十代後半の忠夫も壮絶な体験をする。勤労奉仕として高射砲の陣地作りに駆り出され、軍需工場でも働かされた経験を持つ。

 ③ 松平家の由緒
 節子の父で政宏・政伸の祖父松平八郎は1896(明治29)年7月16日、元士族の莞爾の五男としてこの世に生を受けた。松平家の先祖は徳川の旗本に名を連ね、幕末には徳川慶喜の警護を担当している。髙嶋家以上に由緒正しい家柄と言える。尤も江戸幕府崩壊後には、それ故の困難にも直面したようだが、さまざまな取り組みによってそれを乗り越えている。
 1921(大正10)年飛騨高山出身で銀行家の娘・大坪つゆと結婚。つゆは東京の女学校を出たばかりだった。
 自動車の輸入会社で働く八郎は、仕事の都合で東京から大阪へ。1926(大正15)年現在の西宮市に居を構えた。
 1932(昭和7)年2月6日、八郎とつゆの三女して生まれたのが松平節子。後の寿美花代で、政宏・政伸の母である。
 事業を始めるなど、温厚ながらチャレンジ精神がある父と、「節子任しとき」と明るく励ましてくれる母。そんな両親のもとで節子は育ったのだという。そうした性格が受け継がれているのである。
 しかし思春期を迎える頃太平洋戦争が激化した。それが松平家にも大きな影を落とす。兄・弘が学徒動員により海軍に入ることになる。
 さらに1945(昭和20)年母・つゆと子供たちは、上の姉が嫁いだ岐阜の慈雲寺に疎開した。戦争が終わり西宮に帰った一家に、長男の弘が中国南澳島付近で戦死したという悲しい知らせが届く。乗っていた船が撃沈され、遺骨さえも戻らなかった。
由緒ある松平家の戦後はこうして始まったのである。

 ④ 父親忠夫の軌跡
 1945(昭和20)年になると神戸は度々激しい空襲に見舞われる。6月の空襲では、両親、兄弟と暮らす御影石町の自宅が全焼した。1945(昭和20)年の空襲により神戸の死者は 7000人を超え戦災家屋は14万戸以上に上った。終戦後はまさに焼け野原だった。髙嶋家も急ごしらえのバラックでの生活を余儀なくされた。そんな状況でも忠夫には前を向く明るさがあった。
 戦後すぐに夢中になったのは音楽。琵琶ではなくギターだった。忠夫は神戸一中でバンドを作り体育館で演奏した。戦中の厳しさが残る中、教師の叱責を受けた。すると名門中学を中退して街で演奏活動を始める。1年後に関西学院大学の付属高校に編入し大学に進んだ。
 そして1950(昭和25)年、二十歳の時、神戸元町もとまちにあったぜんざい屋でこんなことがあったという。
 ぜんざい屋のたった1人の娘に、映画俳優になることを勧められたという。映画で見た佐田啓二より、忠夫の方が二枚目だと勧められて、その場で鏡を見て、自信を持って新東宝の映画俳優に応募したというのだ。ただ後年それは娘のお愛想だったことが分かり、みんなが言われていたのに、バカな自分だけが真に受けたと知ったそうだ。明るいがおっちょこちょいな面が現れているエピソードだ。
 それでも、1951(昭和26)年映画会社新東宝のスターレット(ニューフェイス)第1期生に忠夫は見事合格し、映画俳優としての人生をスタートさせた。6000人の応募があって採用されたのは19名、男性は4人だけという狭き門だったという。
 忠夫は持ち前の明るさと歌で、デビューして間もない頃から主演映画が次々と作られた。映画「坊ちゃん」シリーズなどで、二枚目スターとして人気を集めた。63年に日本初演された「マイ・フェア・レディ」ではヒギンズ教授を好演し、日本のミュージカル草創期から活躍した。忠夫には大きな強みがあった。映画仲間たちに良家のボンボンの「ボン」というニックネームで呼ばれ、1955(昭和30)年代に入ると、陰での努力が報われ、舞台俳優としても活躍するようになる。映画に舞台に大活躍する忠夫に父の信夫は大喜びし、大好きな琵琶の稽古もそっちのけで忠夫のブロマイドを片っ端から配っていたという。
 1960(昭和35)年、忠夫は宝塚歌劇の舞台を見に行き一人の俳優に惹きつけられた。寿美花代。本名は松平節子。後の政宏・政伸の母である。
 一方、司会者としてもフジテレビ系「クイズ!ドレミファドン!」や「ゴールデン洋画劇場」などに出演している。明るい人柄で親しまれ、親指を立てて発する決めぜりふ「イエ~イ!」は、自身の代名詞にもなった。
 忠夫が闘病に入って以降も家族の絆は強く、07年には一家の奮闘を描いたドキュメンタリードラマが日本テレビ系で放送された。13年にはフジ系ドキュメンタリー番組でも闘病が特集され、忠夫は5年ぶりにテレビ出演した。しかし、これが最後の出演となった。

 ⑤ 母親花代の軌跡
 1947(昭和22)年、芦屋の女学校に通っていた節子は、新聞を見て、16歳で宝塚歌劇団に入団する。芸名を寿美花代とした。
 ちょうど戦前にデビューされて戦中・終戦直後にスターになった人たちがスターの入れ替え時期になっており、戦後のスターで抜擢されたのが寿美花代だったという。
 1963(昭和38)年、2年間の交際を経て高島忠夫と結婚した。宝塚も退団した。
 それまで寿美は料理などの家事は家族に任せっきりの生活を送っていたという。座ればごはんは出てくるもんだと思ってたそうで、周りにいたファンの奥様たちがお鍋におかずを入れて、それを忠夫さんに出せと持ってきてくれていたということだ。事情を知らない忠夫は、「うちの家内は、ものすごい料理上手で、本当にいい嫁をもらった。」と感激し、すっかりだまされていたということだ。

 ⑥ 好青年の二人の息子
 1965(昭和40)年に政宏(次男)、翌1966(昭和41)年に政伸(三男)が誕生し、髙嶋家は4人家族となった。夫婦共に家では明るく、長男のことは語らなかったという。その後、忠夫も寿美もとりわけ家族のことを大切にし、ロケがある時は、必ず一緒についていったという。
 1971(昭和46)年、高島忠夫・寿美花代夫婦に、平日昼に放送される料理番組「ごちそうさま」(日本テレビ)の司会の仕事が持ち込まれ、引き受けた忠夫は軽妙なトークで進行を務め、司会者として新境地を開くこととなった。
 その後、政宏・政伸は、共に大学在学中両親と同じ俳優の道へと進む。
 1987(昭和62)年、政宏は映画「トットチャンネル」のオーディションに合格しデビューする。司会の仕事が多くなっていた忠夫は息子の夢を全力で応援する。政伸は大学時代映画監督を目指し映画を自主制作するが、そこで大きな借金を作ったことが俳優になるきっかけとなった。映画にかかった請求書280万円は建て替えてもらったが、その代わりに「役者をやりながら地道に返せ」と言われたのだという。政伸もNHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」で俳優デビューした。代表作とも言える「HOTEL」では、誠実で、誰にも好かれ、信用される職員を好演している。
 そのほか髙嶋ファミリーは4人でコンサートを開くなど日本で一番有名な芸能一家となった。誰もがうらやむおしどり夫婦、何不自由なく育った理想の息子達、芸能界屈指の仲良しファミリーとして人気を集めた。

 ⑦ 父忠夫の死
 俳優に司会にマルチで活躍するタレントの草分け的存在だった忠夫が、生涯の幕を閉じた。
 所属事務所や次男の政宏によると、妻の寿美が見守る中、26日に東京都内の自宅で静かに息を引き取ったということだ。政宏と政伸は仕事で立ち会うことはできず、遺体と涙の対面となった。忠夫は約2年前から容体が悪化し、ここ数カ月は寝たきりの状態が多くなっていた。葬儀は寿美が「最期は家族で見送りたい」と希望したことから、27日に自宅で密葬として営まれ、荼毘に付された。お別れの会は行わないという。
 忠夫は糖尿病の持病があり、1998年に鬱病、2000年にパーキンソン病を発症。2010年には不整脈のため心臓にペースメーカーを入れる手術を受け、闘病は20年近くに及んだ。01年にフジテレビ系「ゴールデン洋画劇場」の司会を務めて以降は引退状態。関係者によると、入退院を繰り返していた時期もあったが、ここ数年は寿美が自宅で懸命に看病していたという。会話はでき、孫が自宅を訪れると喜んで話していたそうだ。
 しかし、1998年に68才だった忠夫がうつ病を発症した時から、芸能界きっての仲よし家族として知られるようになった一家の生活は激変していたのだった。
 「うつ病となった忠夫は突如、芸能活動を休止する。映画や舞台、テレビ番組の司会など多方面で活躍していた彼が、病の発症とともに急に白髪が増え、やせて変わり果ててしまった姿は、世の中に衝撃を与えました」と、芸能関係者は言っている。
 忠夫は2003年に芸能界復帰を果たした後もパーキンソン病や不整脈を患い、心臓にペースメーカーをつける大手術を受けた。2013年に放送されたドキュメンタリー番組では、やせ細った忠夫が会話中に眠り込むなど生々しい姿をさらけ出し、大きな反響を呼んだ。しかし、どんなときも夫を支え続けたのが妻だった。
 「忠夫さんは80才を過ぎてから入退院を繰り返し、足元がおぼつかなくなりましたが、寿美さんは『私が面倒を見たいの』と言って、施設に預けることなく自宅で老老介護を続けました。忠夫さんの1つ年下の寿美さんも年齢を重ねて体が思うように動かなくなるなか、ホームヘルパーと協力しながら、長い間頑張っていたんです」と、高島家の知人が語っている。
 2019年、忠夫はこの世を去った。息子2人は臨終に間に合わず、忠夫を看取ったのは、寿美だけだった。翌日、自宅で密葬を行った際、寿美は気丈に振る舞ったが、火葬場には行けなかったという。当時の寿美の様子を、長男政宏は『女性自身』(2019年7月16日号)でこう語った。
「落ち着いていたように見えた母ですが、父を失ったのはつらかったのか、火葬場には来なかったんです。『火葬場には行けない、行きたくない』と。『(亡きがらを)焼くのは、物質的なことにすぎないから。お父さんとは気持ちと気持ち、心と心がつながっているのだから、家でお父さんのことを思っている』、そんなことを言っていました。」
 心がつながる夫と悲痛な別れをした寿美は、その後、大邸宅にひとりで暮らし始めた。
 「がらんとした家にひとりでいると忠夫さんがいなくなった悲しみが日増しに大きくなり、心身ともに老いが進行しないか周囲は心配していました。それでも寿美さんは忠夫さんと一緒に過ごした自宅を終の棲家とすることを望み、通いのお手伝いさんに面倒を見てもらいながらひとりで暮らしていました。
 ここ数年は杖をつきながらでしたが、お手伝いさんと自宅近くを散歩したり、行きつけのお店に顔を出したりしていたみたいですよ」とは、前出の高島家の知人の言である。

 ⑧ 母花代の孤独
 本来ならば、父が亡くなった後、ひとりになった母をサポートするのは息子たちの役割のはずだ。しかし、政宏と政伸が母のために手を取り合うことはなかったようだ。
 「一時はファミリーコンサートを定期的に開催するほど仲がよく、共演する機会も多かった兄弟ですが、2013年に放送された高島一家のドキュメンタリー番組以降、一切共演していないのです。忠夫さんが亡くなる少し前には兄弟が“共演NG”になっていることが報じられ、確執が明らかになりました」と教えてくれたのは、別の芸能関係者である。
 忠夫が逝去した2か月後の2019年8月には政宏が記者会見で兄弟の不仲を認め、「(政伸の)泥沼離婚後、気を使うのが正直なところ。行き来がないわけではないけど、確執はありますよ」と告白したこともあった。
 「忠夫さんの死後、政宏さんは年老いた母を心配し、実家の敷地内にある別邸で夫婦そろって暮らしていましたが、いつの間にか別の場所に引っ越したようです。2021年6月の忠夫さんの三回忌は寿美さんの体調を考慮して自宅で法要が営まれましたが、政宏さんも政伸さんも姿を見せず、この日、兄弟が父親のお墓参りをすることもなかったそうです」というのは、前出の高島家の知人である。
 「遺産」をめぐっても一家の確執があったと囁かれる。忠夫さんが亡くなる直前、世田谷にある豪邸の土地の約200分の1の権利が政宏に生前贈与されていた。
 「高嶋家の場合は、寿美さんがすべての権利を相続すれば、彼女の一存で土地を売れますが、政宏さんが一部を所有することになったので、政宏さんの意向なしに土地を売ることはできなくなりました。
 これは、忠夫さんの介護をするうちに、寿美さんが『息子たちに家を乗っ取られる』という妄想を抱き始め、さらに家を抵当に入れて、忠夫さんの医療費を借金するという計画が発覚したのがきっかけでした。すんでのところで弁護士を立てて協議し、阻止できたようですが、この頃から政宏さんは、“お母さんの面倒をこれ以上見るのは難しいかもしれない”という思いを抱いたといいます。
 実際、政宏さんと寿美さんはここ数年コミュニケーションを取っていないようです。『この3年はコロナがあって高齢の母とは会えなかった』と弁明しているようですが……」と、言外にコロナのせいではないことをほのめかしてくれたのは、前出の芸能関係者である。
 そんななか、寿美自身も夫との思い出が詰まった家を去ることになった。
 「寿美さんは最後まで自宅で暮らすことを望みましたが、90才を超えて体力が限界に近づき、ひとり暮らしを続けるのが難しくなった。そこでついに施設に入居されたそうです。豪邸は昨年末から政宏さんが精力的に整理をしたみたいですよ」と教えてくれたのも、前出の高島家の知人である。
 寿美が自宅を出たことについて所属事務所に尋ねると、言葉少なにこうコメントした。
 「本人は静かに暮らしていますので、どうか温かくお見守りください」
 昭和、平成と多くの話題を振りまいてきた高嶋家。今は別々の場所でそれぞれが家族の思い出を胸に秘めて過ごしているのである。
 神奈川県川崎市にある霊園で、ひときわ目を引く夏らしい鮮やかな花々が供えられた墓がある。曇天に包まれた6月26日、この日は高島忠夫(享年88)の三回忌だ。しかしこの日、忠夫さんの妻・寿美花代をはじめ、息子の高嶋政宏と高嶋政伸が墓に姿を見せることはなかった。少ししおれた花の様子から、命日の数日前に供えられたことがうかがえる。
 さらに、今も寿美が暮らす忠夫の都内の自宅近くに住む住民はこう打ち明ける。
「三回忌当日、花代さんは自宅にいたそうですが、訪ねてきたのは法要のために呼んだお坊さんとヘルパーさんだけだと聞いています。政宏さんと政伸さんは最後まで来なかったそうです」
 忠夫が亡くなって以降の高嶋家は2つの問題を抱えている。
 ひとつは寿美の“介護”である。忠夫が亡くなった際、寿美の体調があまりよくないことを政宏が明かし、寿美を気遣い、忠夫の自宅敷地内にある別邸で夫婦そろって暮らしていることを告白していた。しかし、2年が経過し、“母子同居”に異変が生じているという。近隣住民によると、
「忠夫さんの四十九日法要の際、花代さんは体調が悪く参加できなかったのですが、政宏さんが代わりに切り盛りするなど、そばで支えているようでした。しかし最近は別邸で生活している様子はなく、ここ半年ほどは姿も見かけず、ヘルパーさんが花代さんの面倒を見ている状況です」
 そしてもうひとつの問題が、政宏と政伸の確執だ。芸能関係者によると、
「かつてはよく家族4人で共演していましたが、13年を境に政宏さんと政伸さんの共演はゼロになった。兄弟共演のオファーがあっても2人ともかたくなに断り、事務所の懇親会で同席しても会話すらしなかったそうです」
 忠夫が亡くなる少し前、政宏は「兄弟って本当にいろいろ難しい」と周囲に打ち明け、逝去後のイベントでも「確執はあります」と“公認”している。
 忠夫という大黒柱を失ったことで、高島ファミリーは散り散りになってしまったのだろうか。
真相を確かめるべく、三回忌から数日後の7月初旬に、政宏に話を聞いた。すると、十三回忌に出席しなかったことについては、26日は仕事でどうしても無理だったので、事前の23日にお墓参りをし、お墓を奇麗にして、僧侶にお経も上げていただいた。そのうえで、当日にも実家でお経を上げてもらったということであった。
 “母子同居”については、母とはコロナのせいで泣く泣く離れている状態だという。母も高齢なので、万が一のことを思うと心配なので離れて暮らし、もう半年以上も会っていないという。家には介護スタッフさんに来てもらい、電話でしょっちゅう話して、元気でいることは確認しているということであった。
 弟の政伸との仲については、連絡は取ってないという。こちらについても尋ねると、頭を抱えながら、語り始めた。
「うーん。政伸も仕事が忙しいし、我が家は元々、昔からそれぞれが“個別”っていう考え方で、今はお互い家庭の生活をメインに考えている。うまくスケジュールが合えば会うという感覚で、母とも政伸の話は一切していないという。ただ、今はお坊さんのことで集まったりするようにはなり、返って父の生前よりは集まることが増えているほどだ」という。だから、兄弟家族、気持ちはわかっているつもりだというのであったが、本当にそうなのであろうか。

 ⑨ 兄弟の確執
 仲良しだった「高嶋高島ファミリー」も、最後は“兄弟は他人の始まり”となってしまうのだろうか。
 週刊誌「女性自身」は、兄・高嶋政宏と、弟・高嶋政伸の関係が悪化していると報じている。記事によれば、ふたりは、2013年6月放送の「独占密着! 真実の高島ファミリー」(フジテレビ系)で共演して以来、揃って出演することはなく、昨年春の事務所の懇親会で会話を交わすこともなかったという。
 同誌は「老親の介護問題が兄弟間の距離を広げたのでしょうか……」という関係者の証言をもとにふたりを直撃しているが、兄弟の確執に関しては共に否定。所属事務所の担当者も不仲説を否定している。介護に関しては不慣れながらも家族間で相談しながら進めている状態という。
 ただ、介護となると、政宏の妻のシルビア・グラブや政伸が15年に再婚した14歳年下の医師なども関係してくるはず。兄弟がそろって「イエーイ!」と言える日は来るのか同化は非常に怪しい感じがする。
 「高嶋ファミリー」といえば、忠夫の闘病、政伸の泥沼離婚など、次々と災厄が襲った印象だが、もともとは朗らかな芸能一家だった。芸能評論家の肥留間正明氏はこう話す。
 「忠夫さんは、芸能マスコミあっての芸能界だという考え方を持っていた方で、そうした考え方を兄弟にも伝えていたようです。“高嶋家の教え”というのがあって、子供たちにも、あいさつの仕方や関係者との付き合い方などを、厳しくしつけたと聞いています。それで子供たちも何か問題が起こるたびに真摯に取材に応じてきたのです。11年に弟の政伸が美元との泥沼の離婚訴訟となったときもそうでした」
今回の件でも、確かに直撃に対し、ふたりはそれぞれキチンと答えている。しかも共に否定しているのだが、それでも消えない「不仲説」の根底には何があるのか。芸能リポーターの城下尊之氏はこう解説する。
 「もともと、デビュー当初からふたりは役者としての接点は少ないんです。お父さんの関係でバラエティー番組などで共演することはありましたが、それもお父さんの健康問題がおこってからは途絶えています。政宏さんと政伸さんは、デビュー当時からおのおの二枚目で売っていましたが、お互いカラーが違うので一緒に出ない方がいいという判断だと思います。お笑いコンビなどでも楽屋が別々で本番だけ一緒にやって、本番が終わると別々に帰っていくというのに似ています。介護や家庭の問題はあったとしても、決定的な不仲、確執ということはないと思います」ということである。
 しかし、兄の政宏は「確執はあります。正直、気を使うというか。(政伸には)泥沼離婚とかありましたから」と淡々とした口調で話すこともあった。「小学生のとき、政伸を階段から突き落としたら、頭を鉛筆で刺されたことも」あったと子どものころからの背景を振り返った。また「昔、僕が階段から突き落としたら、仕返しに頭に鉛筆を刺されて、その復讐で箸を刺そうとしたら、隣の人の腿に刺さって…」と壮絶エピソードも披露した。さらに青年期には、政宏が政伸に避妊具を渡し、兄として“応援”したつもりが、破れており、「俺を嵌める気か」とひどく怒られたこともあったという。そういうのが積み重なって、今になっているのかも」とユーモラスに笑わせた。
 さらに、「家族は(昔の話を)蒸し返すから」と政伸の離婚時の話にも及んだ。遠慮があるのか、セーブしているのか、すべてを出し尽くさないが故に、沈殿物のように消えてなくならず、時に蒸し返すことにならざるを得ないのだろう。
 どこまで本気で冗談か分からない内容だが、何か決定的な理由があるわけでない様子。昔から積もり重なって現状になってしまった、というのが原因との見方だ。「でも父(高嶋忠夫)が(今年6月に)亡くなったとき、協力していろいろやったりしていますので」と政伸とやりとりはしており、断絶状態ではないことを強調していた。結局のところ「確執があるかどうか」と言われれば、どこの兄弟にもあるようなケンカはいくらでもある。しかし、それが週刊誌で取りざたされるような深刻な絶縁状態ではないということなのではないだろうか。同じ職業とは言え、大人になれば幼児期のような密着はしなくなっても不思議はないとも言える。

 ⑩ 長男の死
 高島忠夫・寿美花代夫妻には、結婚の翌年、1964(昭和39)年(1964年)8月24日に、長男・道夫みちおが誕生していた。しかし突然の不幸に襲われた。生後5か月だった道夫が、家に出入りしていた未成年の女性によって殺害されてしまったのだ。加害者は家政婦で「道夫ちゃんがいなければ私だけを大事にしてくれると思い、風呂に投げ込んだ」と供述している。それだけではなく彼女には、来客の金品を盗むなど問題行動も多かったといい、ゆがんだファン心理からの嫉妬心が生んだ凶行だった。長男は自宅風呂で風呂桶の中に沈められていた。その後忠夫と寿美は、事件の傷をいたわりあって生きていくことになる。生前、忠夫は「その悲しみで夫婦の結束が固くなった」と明かしている。実際には事件から49年が経過して、2013年になってもTV出演した花代は「いまだに、お風呂っていうとシャワーしか浴びれない…」と苦しみ続けていることを語っていた。これほどの事件であるにも拘わらず、夫妻が出演した番組でも、その他の場面でも、ほとんど語られることはなかった。それどころか、親子の間でも、兄弟の間でも、家庭の中でも長男について語られることは、まずなかったという。華やかで幸福な高嶋ファミリーには似合わない話しとして、タブー化されていたのだろうか。兄弟の確執として、後になって開かされたエピソードには、普通の兄弟の間以上に辛辣なものも含まれており、長男の死が表だって語られなかったことと裏返しなのではないかという気がしてくる。

 ⑪ 兄政宏のSM好き
 一方で、バラエティー番組でSM好きを公言し、著書「変態紳士」で一躍脚光を浴びた政宏が、お笑い芸人顔負けのトークで魅せている。
 「変態紳士」というのはエッセイ集で、知り合いの女王様から借りたという首輪をつけた裸の高嶋が表紙になっている。この本で高嶋は愛する「SM」「ロック」「スピリチュアル」「グルメ」、そして「妻・シルビア」に「役者業」などを語っている。だが、そのバランスは偏っている。第1章から2章までたっぷりSMについて、とりこになったきっかけから魅力まで語り、「緊縛講座」に通ってるとかあけすけにつづっている。第3章でやっとSMから離れ、子供時代の話になったかと思えば、その頃からエログロが好きで筒井康隆の小説に「勃ちまくって」いたと、やっぱりその手の話になっていく。第4章でも「サディスティックサーカス」などのアングライベントを語り、5章でようやくグルメ、6章で健康マニアの話になるも、第7章ではフェチの話に回帰してしまう。「女の子のマスカラを舐めとるのが好きだった」とか、「僕は普通の挿入には興味がない」などとつづっている。そして「ただひとつ興味があるのは、クスコ(膣鏡)という医療器具を肛門や膣に差し入れて、開いて中を見ること。(略)お尻や肛門は外じゃなくて中に興味があるんです」(同書)と記されている。
 さらに、父・高島忠夫がうつ病になったとき、「あんなに陽気で元気でパワフルだった人が、病気になるとこんなにも別人のようになってしまうのか。人は永遠ではない」と実感した。
 そして東日本大震災で「人はいつか死ぬ」と改めて思った(同書)。だったら、今を楽しく過ごさなければ生きている意味はない。高嶋政宏はプライドや美学を捨て、人の目を気にせず「変態」をありのままにさらすことにした。「人にバカにされたから、なんだって言うんですか。大したことないですよ、そんなこと!」と。自分の嗜好を隠しても仕方がない。そして彼は言う。「安心してください、あなただけじゃないんです」(同書)それが高嶋政宏流の変態の「たしなみ」なのだ。
 さらに、本書をもとにした映画「愛してる!」が公開された。SMを題材にした作品で、企画監督が高嶋政宏である。かつては好青年役を演じることが多く、健全な仲良し芸能一家の息子として一世を風靡していた彼が、自分の性癖を率直に表したことで大きな話題を呼んでいた。日活ロマンポルノ50周年を記念して作られた「ロマンポルノ・ナウ」3作の内の一つである。「性」を見せ場とした作品群が1971年から17年間に亘って制作された。「性」を通して当時の若者達の鬱屈した感情や社会への反発を描き出した作品として、大学の講座にもなっている。「愛してる!」は、高嶋政宏によって、縛られているM女と、鞭を振るう女王様だけではない、愛好家の本当の世界を表現するために、監督や脚本家に本物の愛好家が集まる場所を見てもらって、リアリティのある作品に仕上げたという。本人は満足しているようだが、同伴された妻のシルビアは、SMバーの様子にも夫である政宏に対しても「吐き気がする」と言っているそうである。
 しかし本人は、さまざまな番組で熱く語って、大いに受けている。それが素の自分をさらけ出すことであり、それに満足を覚えているように見える。「SMに出会って自分を解放することができた。他人の目など気にせず、人に迷惑をかけないことであれば、みんなもと自由にやろう。」といった趣旨のことである。
 個人の趣味や嗜好がどのようなものであっても驚くには値しない。しかし、かつての好青年役を演じ続けた役者であり、健全な仲良しファミリーとしてテレビに出演し続けた俳優が、密かにではなくおおっぴらにテレビに出演して公言しているところに、意外性と落差があることは間違いない。それまで被っていた殻を破り捨てて、素のままの自分でありたいと思っているのかもしれないが、現実には、変貌を遂げた誠実な青年や、隠しきれなくなった本性に対して、視聴者が加虐的な満足感を得ている部分が大きいように思われる。

 ⑫ 弟政伸の離婚泥沼裁判
 「おしどり夫婦」と言われた高島忠夫・寿美花代夫妻の三男・高嶋政伸はかねてから、スキャンダルからほど遠い存在とされてきた。そんな「好感度俳優」に、元準ミスユニバース日本代表である妻・美元とのスキャンダルが勃発したのは、2011年夏のことだった。
 2人は2007年のドラマ共演で知り合い、翌年、交際スタートからわずか6日後に高嶋が電話でプロポーズし、同年8月末に永田町の日枝神社で挙式後、帝国ホテルで盛大な披露宴を行った。しかし、すぐに価値観の違いが露見することになる。
 すったもんだの末、2010年8月には高嶋が恵比寿の高級賃貸マンションを出て、夫婦は別居した。その後、高嶋が離婚調停の申し立てを行うも不成立に終わったことで、2011年3月、高嶋が東京家庭裁判所に提訴したのである。
 6月1日、裁判は原告・高嶋の本人尋問からスタートしたが、次のように不満をブチまける。まさに泥沼である。
「マンションの家賃、光熱費、外食費、私が料理を作る時も100%、私が出していた」
「結婚後、機嫌がよかったのは10日だけ。自分の思い通りにならないと、手が付けられなくなります」
「怒りのスイッチを押さないように、いつもビクビクして生活していた」
 そんな毎日のストレスから不眠や頭痛を訴えるようになった、と心情を吐露したのだった。しかし、5分間の休憩をはさんで始まった尋問で、美元は高嶋の発言に真っ向から反論する。
「(お金を)もらったこともありません。(高嶋名義の)のカードも持っていませんでした」
 裁判の過程では寝室の引き出しの中身までブチまけ合うほどの泥沼離婚劇を展開した。芸能界のブランド一家の醜聞は女性誌、ワイドショーをはじめ芸能マスコミの好餌となった。
 そして高嶋の愛情が綴られた手紙や、酒に酔って暴力を振るわれたとする際の音声データなどを、証拠品として提出した。裁判を傍聴した司法記者が言う。
「それでも『私には離婚する理由が見つからない』という美元に対し、裁判長は半ば呆れた様子でしたが、『夫』という言葉を使う彼女に対し、高嶋は最後まで彼女を『被告』と呼んだ。最後には『被告は恐怖の対象でしかありません。25年間の俳優人生をなげうっても離婚したいと思い、裁判を起こしました。愛情はもう一切ありません』と断言していましたからね」
 その後シンガポールに住んで実業家の男性と再婚し、モデルや女優として活動している美元が、突如として日本の芸能界への復帰を宣言した。スポーツニッポンのwebサイト、スポニチアネックスの4月25日付記事で、今後の活動に向けた意気込みを語っている。日本の芸能事務所と業務提携し、現在復帰の準備を進めているのだという。
 美元は2014年にシンガポールに渡って以降もモデル、ウォーキング講師として活動していた。シンガポールはもちろん台湾などでモデル起用されたり、2019年にはミセス・シンガポールのグランプリに選ばれたのだという。日本で芸能活動を再開させることに踏み切った理由は、「娘と母娘でモデルの仕事がしたい、日本語でお芝居がしたい」とのことであった。
 泥沼離婚騒動も風化したかけた2022年に突如としてブログで高嶋サイドの主張に対する反論を書き込んだ。その内容は、「ハイブランド物を買ってもらったことはない」「生活費はもちろんコンビニの支払いも別」など、自分は浪費などしておらず、高嶋は金に細かかったというもの。極めつきは「家で使用するwifiも高嶋から別のものを契約させられた」との話だが、料金の折半ではなく回線を余分に契約するという節約なのかすら疑われるエピだ。どうやら協議離婚時に口外禁止などの「約束」は交わされなかったらしい。
通常は、離婚時には条件のすり合わせなどを行い、夫婦生活について第三者に口外しないように念押しすることが多いのだが、そうでなかったとすると、日本復帰後のバラエティなどでの“離婚ネタ”に否が応でも注目が集まってしまうことになる。
 もっともかつての好青年役なら大打撃を受けることになり大変なことであっても、すでに、悪役・怪演が大好評の高嶋政伸に取っては、それほどのことはないのかもしれない。

 ⑬ 現在の役柄
 いかにも何不自由なく育った良家のお坊ちゃんといった風情の高嶋兄弟は、まさにはまり役として、善良で謙虚な人柄を演じ続けていた。それが弟の方を中心に大きく役柄が変化している。それぞれの代表作を挙げると、兄政宏は、次の通りで、役柄にあまり大きな変化は感じられない。ただ、口を開けば下ネタ披露といったキャラの面で大きな変化が起こっている。
1988~NHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」(俳優デビュー作)
     野球大好きなヒロイン小野純子の弟昭と養子雄太の幼なじみ役で出演。
1987~大河ドラマ「独眼竜正宗」
2025.6~隠微指令
     金融界や政界を舞台に、信じていたすべてが崩れても、人間は未来を思い続けられるのか。
2024.5~テレビ朝日ドラマプレミアム「霊験お初~震える岩~」
2023.11~特集ドラマ「ガラパゴス」
2023.6~刑事七人
 弟政伸は、おもなテレビドラマ出演作は次の通りである。総じて、「さわやかで誠実な好青年」から、「悪徳な企みを腹に持つ憎まれ役」へと変わったと言えそうである。
1988~NHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」(俳優デビュー作)
     野球大好きなヒロイン小野純子の夫役で出演。弟政伸を誘って共演する。
1990~TBSドラマ「HOTEL」
     高嶋が演じる新人ホテルマンが、誰に対しても謙虚な姿勢で臨み、困難を次々に解決していく    ドラマ。
2002~大河ドラマ「太平記」
2025.4~金曜ドラマ「イグナイト 法の無法者」
    パワハラ市長の音部役で出演。
2025.2~ドラマ「いきなり婚」
     地味なOL小柴真央と職場のエリート上司安藤創の恋の最大の障壁となるラスボスとして登場    する。
2024.3~テレビ朝日ドラマプレミアム「黄金の時~服部金太郎物語」
     国産初の腕時計を創った服部金太郎に、輸入腕時計の販売を託す吉邨英恭役で出演
2024.1~テレビ朝日開局65周年記念 松本清張「硝子の城」
2023.1~ドラマ10「大奥」
     男女逆転の世界で、娘の祥子を溺愛する、第12代将軍徳川家慶を演じる。
2023.4~合理的にあり得ない
     金のためなら人殺しも厭わない、悪徳ブローカー神崎恭一郎役で出演。
 些細な中傷や欲望でさえも大きく傷つけられてしまいかねない「好青年役」に対して、ちょっとやそっとでは傷つかない「汚れ役」。この両者を比べたとき、尊敬され、うらやましがられることを放棄した方がより自然に生きられ、その分「幸せ」になれるということはありうるのだろうか。「正義のヒーロー」を演じ続けた役者が、途中で行き詰まることがよくあるように感じられるのは気のせいだろうか。「悪役」「敵役」を演じる役者が、本人の性格を誤解されることはあっても、行き詰まり、苦しむことが少ないように感じるのは、気のせいに過ぎないのだろうか。


 3.テレビドラマ「岸辺のアルバム」

 人は誰しも、安穏で平穏な生活を続けていれば、他人に対しても寛容で優しくなれる。しかしひとたび自分の命にかぎりが設けられたり、今までの自分の生き方を否定するような価値観の全く違った生き方に出会い、それをうらやましく思い始めると、その先には後悔と焦りで満ちあふれ、投げやりな生き方に突き進んでしまうことがあるのかもしれない。たとえ「後悔と焦り」の結果であったとしても、そうした生き方が絶対に認められないのかどうかも問題である。貴乃花の迷走とそれへの失望、高嶋兄弟の泥沼離婚とSMへの執着といったものが、かつてあこがれの的であった家族愛に対して、周囲からは幸せからの脱落にしか見えないのは、真実を射ているのだろうか。かつて輝いて見えた分、余計にその闇は深いように感じられ、やりきれない不幸のどん底にしか見えないのは正しい見方なのだろうか。表面上の見かけはどうあれ、本当の姿を赤の他人がおいそれと断言できるものではないのかもしれない。例えば、山田太一の名作「岸辺のアルバム」に描かれた家族の運命がある。

(1) 概略

 山田太一は、テレビの脚本家の第一人者といってもいいだろう。もともとはもちろん映画界の人間である。時代の趨勢と共に、映画界からテレビ界に進出したひとりである。映画とテレビドラマは、似て非なる者である。その共通点と異なった点を正確に見つけられた者が成功するのであろう。

 違いがあったとしても、映画界には歴史と実績が残されている。歴代の巨匠達が蓄積した輝かしい成果が厳然と輝いている。それに対して初期のテレビ界には見るべき者などあるはずがない。とすれば、映画界の成果を、テレビに取り入れるのは当然すぎることである。映画の中でさえ、全くのオリジナル作品を創り上げることは、皆無ではなくとも非常に稀なのが実情だという。ましてや歴史の浅いテレビ界では、映画界の資産に学び、援用することから始めるのが当然と言えば当然である。例えば山田自身の作品である「高原へいらっしゃい」は、潰れそうなホテルを建て直すために必要な人間をスカウトしてくる映画だが、それは黒澤明監督の「七人の侍」が、野武士の襲撃から身を守るために武士をスカウトしてくるという発想から生まれたものだとしている。もちろんそうだとしても「高原へいらっしゃい」が「七人の侍」の盗作だという人はいないだろう。それは、山田が映画とテレビの違いをよく理解していたからでもある。例えば映画は、鑑賞料を払って、集中して最初から最後まで見るのが当然だが、テレビは途中でトイレに立ったり、別の作業をしたり話をしたりしながら見るのが普通だという。さらに映画は完結するのが常識だが、テレビでは「続く」として完結しないことが珍しくないという。そうした違いをわきまえ、生かしたからこそ、テレビドラマの名作が生まれてくるのだろう。

 「岸辺のアルバム」は、1974年の多摩川水害が背景にあるドラマである。この水害で多摩川の堤防が決壊して19棟の家屋が崩壊・流出したが、家を失ったことはもちろんだが、家族のアルバムを失ったことも大変ショックであったという被災者の話を脚本家の山田太一が聞き、そこから作品の構想が生まれたということである。ラストの水害で家が流されるシーンは、実際の報道映像が使用されている。1977(昭和52)年6月24日から9月30日まで、TBS系列で放送されたテレビドラマである。

 主演の八千草薫は、和泉多摩川駅の向かいのホームに佇む美しさに惹かれたといって電話をかけてきた竹脇無我と家族に隠れて不倫する主婦を演じた。彼女にとっては、それまでの良妻賢母的なイメージを打ち破り、新たな役どころを開拓した作品となった。「永遠の処女」といわれ、「貞淑を絵にかいたような八千草とラブホテルの組み合わせ」は、多くの視聴者にとてつもない衝撃を与えられた。八千草はこの作品によって「テレビ大賞主演女優賞」を受賞した。また、この作品でデビューした国広富之は「ゴールデン・アロー賞放送新人賞」等を受賞した。

 当時の平均視聴率は14.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)とそれほどでもなかったが、その後評価が高まり、今ではテレビドラマ史に残る名作という評価が定着している。

 このドラマは、実際に東京都狛江市で起こった水害を題材に、平凡な中流家庭の崩壊を描いた作品である。それまでの「家族で食卓を囲んで最後はハッピーエンド」というホームドラマの殻を打ち破り、辛口ホームドラマというジャンルを確立した点で、革命的な作品であり、日本のテレビドラマ界に与えた衝撃は大きかった。

 この「岸辺のアルバム」が、それまでの予定調和のホームドラマに対する挑戦作であったことは間違いない。不倫、レイプによる妊娠などといったそれまでのホームドラマではタブーとされていたことが登場する。かつてのホームドラマではタブー視されていたエピソードが次々と展開され、「家庭とは何か」「親子の関係はどうあるべきか」といった、普遍的な問題に真正面から取り組むものとなっている。しかし、実は山田自身は1975年3月30日に放送された日曜劇場「秘密」(HBC制作、出演:中村玉緒・三浦友和、演出:甫喜本宏、プロデューサー:守分寿男)で、既に「不倫」を取り上げていた。一見平和そうな家庭の裏に隠された妻の孤独を描いた作品である「岸辺のアルバム」は、この「秘密」が原型となっていたといえるだろう。

(2) あらすじ

 そのストーリーと共に特筆すべきは、オープニングの映像である。平穏に見える川がある日突然濁流に変わり、堤防が決壊し、家屋が川に流されてしまうのである。まさに平凡な家庭を飲み込んでいくという、この作品のテーマを見事に象徴している。さらにジャニス・イアンの甘く気だるい歌声と、マイホームが濁流に飲み込まれていく実際のニュース映像が鮮烈に印象に残る。このオープニングの趣向は、堀川敦厚プロデューサーのアイディアによるものだという。

 「岸辺のアルバム」というタイトルにも含蓄がある。一見穏やかなタイトルにしか見えないが、実は衝撃的な家族のドラマが隠されているのである。アルバムには写し出されているものとその陰に隠されたものとが映り込んでいたはずなのである。途中の回で、それぞれに秘密を抱える主人公の家族が偽りの笑顔をつくって多摩川の岸辺で家族写真を撮るシーンがある。アルバムは偽りの家族平和の象徴なのであった。そして家族はそれぞれ「秘密」を隠し持っていたのである。父親の謙作は、有名大学出の商社マンなのだが、実は会社は倒産寸前の状態だった。そのためか彼の秘密は東南アジアから風俗業の女性を「輸入」していることだった。妻の秘密は不倫である。姉の秘密は白人留学生にレイプされ、妊娠していることであり、弟のは両親と姉の秘密を知ってしまったことである。最終回で家を失う家族が必死で持ち出したものはアルバムであることから「岸辺のアルバム」は家族写真が大事だと訴えていると評されたこともあったが、脚本の山田はそのような見方を否定している。

 当初、主演の田島則子役には岸恵子を予定していたが、プロデューサー堀川敦厚の反対により八千草薫が起用された。また北川徹と堀先生の配役は、当初は逆(津川雅彦が北川、竹脇が堀)であった。

 典型的な良妻賢母にしか見えない専業主婦の田島則子は、夫の謙作、大学生の長女律子、高校生の長男繁の4人暮らしをしている。則子が1人でいる昼間に、無言電話が立て続けにかかってくるようになる。「偶然にホームに佇む彼女の美しさに惹かれた」といって電話をかけてきたのである。則子が�りつけると、電話の主である男は「人妻の70%は浮気している」「駅のホームで見かけてから話がしたいと思っていた」と語り始める。はじめは嫌悪感さえもっていたが、やがて則子は男との会話を楽しむようになり、喫茶店で待ち合わせて電話の男北川徹と対面する。息子の繁は友人から則子が男と歩いていたと聞かされ動揺する。調べてみると、則子は毎週金曜日の午後2時に北川と喫茶店で密会していた。北川からの浮気の申し出を、お互いの家庭は壊さない、一方が辞めたくなったらすぐにやめることといった条件にすることのよって、則子は受け入れてしまうのだった。

 則子はついに北川とホテルに行き、一線を越えてしまう。時を同じくして、繁はハンバーガー店の雅江に誘惑され、家族と打ち解けられない律子は帰国子女の丘敏子の家に入り浸る。謙作は部下の秋山絢子に思いをよせられる。家族がそれぞれ家に寄りつかなくなり、則子は解放された気分になる。だがある日、繁はホテルに入る則子を目撃する。繁は則子の外出が気になり毎日学校から家に電話する。則子は北川と会うのをやめ、繁は安堵する。

 律子は、なかなか優秀で、大学にも簡単に合格したが、ここ一年は家族に対して心を閉ざしていた。外出がちな律子は、敏子に紹介された留学生のチャーリーと交際していた。そのチャーリーに騙され別の留学生にレイプされ、妊娠してしまう。そのことを打ち明けられた繁は一人苦悩する。

 母の浮気、姉の妊娠を知った繁は、結局大学受験にことごとく失敗し浪人生となる。さらに父に言い寄る絢子から繁は父謙作が東南アジア女性の人身売買に関わっていると聞かされる。則子は偶然北川と再会するが、今度こそときっぱり別れる。繁は北川と直談判するが別れたと言われる。

 繁は家族が信じられなくなり、雅江に会いに行く。雅江は田島家が住んでいる家は本当は雅江一家が住むはずだったが、父親の工場が倒産して買えなくなったことを告げる。その復讐のため繁を受験に失敗させようとして近づいたと告白する。雅江の母親は2年前不倫して家を出ており、父親は働かず閉じこもっていた。

 繁は荒れて部屋にこもるようになり、家族は心配する。繁は謙作に則子が浮気していると打ち明けるが、謙作は相手にせず、アルバム用の家族写真を撮影する。ついに繁は家族の秘密を暴露して謙作を殴り家を飛び出す。謙作はようやく律子と則子を問いただすが、終わったことと言われるとそれ以上踏み込まず、不問に付して仕事に逃げる。

 繁は雅江に紹介されたラーメン屋で住み込みで働きだす。謙作は部下の絢子に浮気を持ち掛けるが、魅力がなくなったと断られる。絢子は部下の中田敏雄と婚約。泥酔した謙作は坐骨神経痛で倒れ、しばらく自宅療養となる。友人から話を聞いた繁は自宅に戻るが謙作は中途半端にするなと追い返す。律子は大人しく家事を手伝っていたが、37歳の堀を結婚相手として紹介し、謙作を激怒させたあと、山中湖に住み込みのアルバイトに行ってしまう。

 8月31日深夜、多摩川に大雨が降り、小堤防が決壊。謙作と則子は荷物を二階に移す。翌日の9月1日、雨はやみ夫婦は安堵するが、再び雨が降り始める。繁と雅江が田島家に大堤防が決壊して避難命令が出たと知らせに来て荷物を運び出し、則子と謙作と揃って中学校に避難する。

 謙作は雅江を連れてきた繁に文句を言う。避難所に山中湖から帰った律子も合流。避難所に来た謙作の同僚は会社が倒産寸前と知らせる。避難住民と役所の話し合いは紛糾する。謙作は則子を連れて避難所を出て貴重品を取りに行きたいと交渉した。5分以内という条件で帰宅する。謙作は鍵をかけこの家に残る、これだけが成果だと叫ぶ。則子は子供のことを私のせいにしたいのか、あなたは逃げていたと口論になる。ついに本堤防が決壊。謙作と則子は現場を見守る。繁と律子も駆けつける。則子はアルバムを取りに行きたいと頼む。一家は揺れる家からアルバムを持ち出し、それぞれが家にさよならを告げて避難する。4人が見守るなか、家が濁流に流される。

 一見平穏で幸せそうな中流家族が、実はそれぞれに裏の顔をももっていた。その事実が次々に明らかになっていき、家族の絆がためされ、壊れていく。

 翌日から避難所に救援物資が届き、堤防爆破でようやく濁流も収まる。一家は福祉会館に移る。堀や雅江も見舞いにくる。河川敷を見に行った一家は流された家の屋根を見つける。屋根にのぼった一家。謙作は希望退職に応じて新しい道を探すと打ち明ける。一家はお金を出し合い中華料理を食べにいく。謙作はもう一度堀に会うと決め、繁に仕事に戻れと言う。笑顔で川沿いを歩く4人。これは3年前の田島家の姿を彷彿とさせた。家族はまさにゼロからのスタートに立ち戻ったということだ。その後、この家族が再生していくのかどうかは描かれておらず、視聴者の想像に任されている。

おわりに

 虚飾に覆われて見えなかったその裏に、それぞれの思いと秘密が隠されていた。そうではあっても家族は幸せそのものに見えた。仮面夫婦などという言葉もあるが、誰もがペルソナを持っていることは間違いない。自分自身がこういう人間と見られたいという思いがあり、それが成功しているうちは、自分にとっても周囲からの評判としても、満足いくものであるに違いない。

 花田一家も高嶋一家も、当初は他人の目を気にしていたに違いない。「真相」などというものがそう簡単に他人の知るところになるものではないだろうが、花田一家についても高嶋一家についても、噂されているところを信じれば、今やかつての幸せいっぱいであった状態からは大きく転落してしまったようだ。

 花田一家にしてみれば、兄弟の不和は顕著であり、母親は不倫の末に離婚して去っていた。兄弟共に絶頂を極めたにもかかわらず、相撲界に留まることはなかった。それだけではなく、家族関係、親子関係についても、侮辱的な噂が、罷り通っている。その真偽の程など全くわからないが、世間が幸せの証と見ていたことは、ことごとく崩壊してしまったかのようである。家族がバラバラになったうえに、相撲界で横綱を張って絶頂を極めた男は神として扱われたにも拘わらず、テレビのコマーシャルで演技をうまくこなすこともできないような滑稽な姿をさらしている。これらは決して本人が望むところでなかったであろう。世間は大横綱の行く末として惨めで不幸せな結果以外の何物でもない、と決めつけている感がある。しかし本当にそうなのか、疑ってかかるべきかもしれない。確かに記録ずくめの立派な横綱は、皆から尊敬され、憧れの的だったことは間違いない。しかし、実は孤独で誰にも頼れず、愛する宮沢りえとも思いを遂げられずに終わらなくてはならない存在だったとしたら、実は仮面の裏で苛まれるしかない存在だったとは言えないだろうか。

 高嶋一家にしても、おしどり夫婦の元で育った、二枚目俳優の兄弟は、とことん好青年を演じきるほかなかった。長男が幼くして殺されたという悲しみを、おくびに出すことも許されず、常に颯爽とした幸せ一家を演じ続けなければならないとしたら、そのプレッシャーも内面では並大抵ではなかったかもしれない。離婚の泥沼裁判も、傍目には見にくいこときわまりないが、本心を素直に表したものだったのかもしれない。個人的な志向としてのSMプレイも、好青年としてはおくびにも出さないのが本当であったからこそ、それを打ち破りたくてなったのかもしれない。内なる秘め事を正直に表出した結果が、想定内の思い通りのものとなったか、裏目に出たのかは本人にしか分からないのだろうが、少なくとも仮面を被り続けることからは抜け出せたというべきではないだろうか。

 黒澤映画「生きる」の主人公であった木っ端役人は、無為で役に立たない日常を繰り返していたが、命の区切りを知らされて、紆余曲折を経て一念発起した。そういえば格好良いが、完成させた公園のブランコに揺られる渡邊勘治の姿は、お世辞にもスマートではない。むしろホームレスか浮浪者に見えるかもしれない。だとすれば、十分に満足な生き方を遂げた人の姿は、「才能に満ちあふれた好青年」などとは対極にある姿をしているのかもしれない。

 才能にも環境にも恵まれすぎるほど恵まれ、何不自由ない生活なのではないかと思えたにもかかわらず、不幸の波は押し寄せ、無防備なうちに丸ごと飲み込まれてしまった。一家は離散し、二度とふたたび浮き上がれなくなってしまっているかのように見るのが世間の目である。かつて全盛を誇り、我が身を満月に喩えて、「欠けるところがない」と言い切った藤原道長や、「平氏にあらざれば人にあらず」といわせた平清盛なども、あっという間にこのような転落の運命に巻き込まれたのであろうか。盛者必衰と言ってしまえばそれまでだが、上り詰めた高見からの急転落であるだけに、激しく惨めさも哀れさも増すように思われる。自分自身とはかけ離れた、立派な虚像を身にまとって、正統派を演じ続けることを拒否したことに始まる世界は、世間の目に写る姿と、果たして同じなのであろうか。花田光治も高嶋政伸も、過去の栄光の一切合切を流され、奪われてしまった後に残されるのが「生きる」姿であるのかもしれない。事実彼ら自身は、評判に押し潰される様子は微塵も窺えず、意外に堂々としているようには見えないだろうか。これで良かったとは言えないのだろうか。あるいはそうであって欲しいという願望が、彼らと彼らを取り巻く環境を見る眼を曇らせているだけなのであろうか。

4.高倉健の生き方

 高倉 健は、1931(昭和6)年2月16日に生まれ、2014(平成26)年11月10日に亡くなった日本の俳優・歌手。本名は小田 剛一(または小田敏政)、だが晩年は親族に剛一郎と名乗った。

 福岡県中間市出身。1998年に紫綬褒、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。

(1) 生涯・・・俳優になるまで

 1931年2月16日(月)、筑豊炭田にある福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。4人兄弟の次男で、上2人は息子、下2人が娘であった。父の小田敏郎は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」乗り組みなどを経て炭鉱夫の取りまとめ役(労務管理者)などをしていた。母の小田タカノは教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。太平洋戦争の終戦を迎えた中学生の時、アメリカ合衆国の文化に触れ、その中でボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指し1949年明治大学商学部商学科へ進学した。在学中は相撲と縁の深かった父親の勧めもあり、相撲部のマネージャーを1年間務めた。

 大学卒業後の1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社した。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している。同期には今井健二、丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。高倉は東映に入社してしばらくの間、東日貿易の社長・久保正雄の家に居候していた。

(2) スターへの道のり

 ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所でエキストラ出演など6か月の修行を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画「電光空手打ち」で主役デビューした。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。

 アクション映画、喜劇、刑事物、青春物、戦争映画、文芸作品、ミステリ映画など、幅広く現代劇映画に主演・助演して、東映の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった。片岡千恵蔵、中村錦之助、美空ひばりの映画などにも助演していた。当時の東映の看板スターである美空の主演シリーズ「べらんめえ芸者」の2作目から出演するが、芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、派手さや洗練さに欠ける地味で暗い雰囲気が漂った。粋さが求められるひばりの相手役には違和感があり、ひばりも高倉と組まされ続けることに納得していなかった。日活出身の井上梅次が監督した「暗黒街最後の日」などのギャング映画にも出演しだした。

 1963年の「人生劇場 飛車角」で、高倉は準主役で出演した。高倉は本作で任侠映画スターとしての足掛かりをつかむが、1964年の「日本侠客伝」では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる。高倉の寡黙な立ち姿と眼力が東映任侠路線でその威力を発揮した。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていたという。

 これ以降、仁侠映画を中心に活躍する。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。1964年から始まる「日本侠客伝シリーズ」、1965年から始まる「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝シリーズ」などに出演し東映の看板スターとなった。

 「網走番外地」シリーズの主題歌は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、1966年には「昭和残侠伝」シリーズの主題歌「唐獅子牡丹」も大ヒットし、今なお、カラオケなどで歌い継がれている。

 70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマンや学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている。当時の風貌は、劇画「ゴルゴ13」の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという。

 60年代半ばの東映による任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになったにもかかわらず、高倉が「定番」を演じ続けたのは、ひとえに劇場で目の当たりにした観客の反応があったからだといわれている。

(3) 独立

 映画「カミカゼ野郎 真昼の決斗」(1966年、にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに、ハリウッド映画や東映以外の作品に出演する一方、1970年「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する。しかし翌1971年8月17日(火)に大川が死去。社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと約束は反故にされた。

 この間、1970年1月21日(水)に自宅が全焼する。

 1972年11月、高倉の海外旅行が「高倉健 蒸発」「仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た」と報道された。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの、1973年には「仁義なき戦い」がヒットすると、東映は実録路線に変更したため、「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり、東映作品の出演を拒みだすようになってしまう。そんな矢先に当時海外で流行中だったパニック映画に触発され東映が企画していた大作「新幹線大爆破」の台本を手にする。本作の企画の面白さに高倉は新幹線に爆弾を取り付ける犯人グループの主犯・沖田哲男役を希望し、本作の主演を務めることとなる。高倉がこれまで演じてきた役柄とは大きく異なるキャラクターではあったが、従来のイメージを一新するステップアップ作となり、また海外にも輸出され本作はヨーロッパで空前の大ヒット作となる。その後、高倉は1976年に東映を退社し、本数契約となった。出たら俳優を続けることはできないかもしれないと引退覚悟の決断であったという。

 フリー転向後、同年の映画「君よ憤怒の河を渉れ」(永田プロ / 大映)にて主演。10年以上、出演し続けて仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」の2作品に出演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作「あにき」をはじめ、5作品である。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは「幸福の黄色いハンカチ」で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。1989年7月19日に母親の小田タカノが死去するが、「あ・うん」の撮影中だった高倉は、スタッフの葬儀参加の勧めを断り、そのまま映画撮影に参加し続けたという。

 1994年前後にハリウッド映画「ブラック・レイン」で一緒に仕事をしていたヤン・デ・ボンがハリウッド版「GODZILLA」の監督に就任した際に劇中に登場する日本人科学者役を高倉にオファーし快諾、ハリウッドに渡米してスクリーンテスト撮影を行い日本のメディアでも報じられるなど出演する準備を整えていた。しかし当時の制作会社だったトライスター ピクチャーズが制作予算の懸念からヤン・デ・ボンを監督から降ろしたため、高倉も出演を取りやめている。

 2000年に発表された「キネマ旬報」の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の4位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第2位になった。

 2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

(4) 晩年

 2006年4月19日(水曜日)に北京電影学院の客員教授に就任。同年11月6日(月曜日)に行われた天皇・皇后主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席した。

 2012年8月、前作「単騎、千里を走る。」から6年ぶり、205本目の主演作品となる映画「あなたへ」で銀幕復帰する。11月27日、本作により「第37回報知映画賞」主演男優賞を受賞した。高倉の同映画賞での受賞は1977年に「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」で主演男優賞を受賞して以来、35年ぶりである。本作では12月6日に発表された「第25回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞」でも主演男優賞を受賞。作品は石原裕次郎賞を受賞した。2013年1月22日に発表された日本アカデミー賞優秀主演男優賞にも選出されたが、「若い人に譲りたい」との理由で、辞退した。受賞辞退は2002年の「ホタル」以来2度目となる。10月10日には「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優としての存在感」により、第60回 菊池寛賞に選出された。授賞式は欠席し、代理人を通じて「思いがけない受賞で驚いています。非常に光栄です。ありがとうございます」とのコメントを寄せた。

 2013年10月25日(金曜日)、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定した。11月3日、皇居で親授式が行われた。親授式後の記者会見で高倉は、「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している。

 主演となる次回作の映画「風に吹かれて」の準備をしていたが、2014年11月10日(月)午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。5年ほど前に前立腺癌で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた。満83歳であった。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われ、終わった同月18日に高倉プロモーションから「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉が添えられたFAXでその死が発表された。

(5) 没後

 高倉の訃報を受け、各界から追悼が寄せられた。

 芸能界では東映ニューフェイスの後輩で長年交遊し、共演してきた千葉真一が「日本の映画界にとって、そしてわたくしにとって大変大事な方の訃報に今でも信じられない気持ちです。人生においても俳優としても唯一尊敬し続けた方でした」と話し絶句した。高倉が出演した「あゝ同期の桜」(1967年)でメガホンをとった中島貞夫は「役作りに執念を持ち、役と一体になりきる人だった。存在をすべてかけて映画を撮っていた希有な俳優だった」と振り返り、「あにき」の脚本を手がけた倉本聰は「あれだけ健康に留意していた健さんが私より先に亡くなるなんて。自分より年下でも、相手が板前さんでもタクシー運転手でも駅員さんでも、きちんと立ち止まって礼をする人だった」と沈痛な様子で語り惜しんだ。「南極物語」で共演した渡瀬恒彦は「東映に入社して45年、私にとってずっと『親方』の様な存在でした。突然のことで、只々言葉もありません」と偉大なる先輩の死を悼んだ。遺作となった「あなたへ」(2012年)で共演した浅野忠信はTwitterで「ご冥福をお祈りします。本当に悲しいです。ありがとうございました」、「あ・うん」(1989年)で共演以来、公私ともに付き合いがあった板東英二は「つい一週間前に健さんの事務所に直接お伺いし、お手紙を預けてきた所でした。いつもご丁寧な方がお返事が来ずに不思議だと思っていましたが、驚きで声も出ません」と突然の訃報を驚いた。高倉の新たなイメージを作った「新幹線大爆破」(1975年)をはじめ、複数の高倉主演映画の演出を担当した佐藤純彌は「時代を背負ったスターと共に仕事が出来たことは幸せでした。決して死なないような気がして訃報を聞いた時は、ひとつの時代が終わったことを実感しました」と希代のスターをしのんだ。「捨て身のならず者」など高倉の数々の出演作のメガホンを執り、遺作となった「あなたへ」を演出、幻となった次回作もタッグを組む予定だった降旗康男は「残念の一語に尽きる」とそのひと言に万感の思いを込めた。

 スポーツ界からは親交のあった長嶋茂雄が「彼から教わったことは多かった」と追悼の辞を発表した。政界では石原慎太郎が「最後のビッグスターだった。名声が長くもった希有な人だった」と悼んだ。

 文化大革命直後の1979年に「君よ憤怒の河を渉れ」が公開された中華人民共和国では、日本で高倉の死去が報じられると、中国中央電視台「新聞聯播」を始め、地方テレビ局もニュース番組で一斉に報じたほか、同日夜には、中国中央電視台は25分に渡り特集を組んだ。中華人民共和国外交部報道局の洪磊報道官は18日の定例記者会見で「高倉健先生は中国人民だれもが良く知る日本の芸術家であり、中日の文化交流の促進に重要かつ積極的に貢献した。われわれは哀悼の意を表す」と談話を出した。

 11月19日には、歌手として「唐獅子牡丹」などのヒット曲を放った功績が評価され、高倉に2014年度の第56回日本レコード大賞特別栄誉賞が贈られることが発表されたが、所属事務所の意向により辞退したことが、12月17日に発表された。

 12月発表の「キネマ旬報」による「オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優」では日本男優4位となった。

 2016年、高倉の記録映画「健さん」が第40回モントリオール世界映画祭ワールドドキュメンタリー部門で最優秀作品賞を受賞した。

 2017年3月18日(土)、光明寺(鎌倉市)境内に墓碑が建立される。墓碑の高さは180cmと高倉の身長と同じにしており、墓碑にある段状の意匠は高倉の映画人生の節目となる年、映画作品数などを表している。

(6) 人柄

 礼儀正しい人物であり、全ての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払ったという。

 千葉真一は高倉を「一生あこがれの存在で永遠の師匠」と公言しており、「デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった」、「役者として少し売れてきた後でも撮影がない時には、健さんの付き人をしていた」、「離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった」、「東映の労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった」と自著で述べ、春日太一のインタビュー本でも高倉との思い出を語りつつ、「僕は健さんの足元にも及ばない」と答えている。

 気持ちの通じ合った共演者には「高倉健」という名前を彫った高級ブランドの腕時計をプレゼントしており、千葉真一、田中邦衛、ビートたけしが貰っているという。

 「ブラック・レイン」で共演したマイケル・ダグラスは大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃した。その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた。「君よ憤怒の河を渉れ」が中華人民共和国に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。高倉のファンである映画監督・張芸謀は「単騎、千里を走る。」の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している。

 「夜叉」で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井県ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉が激励をしにロケ現場へ現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」と高倉が焚き火に当たり、やっと皆で焚火にあたることができたということである。

 漫才師から役者業に進出してきたビートたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケしたということである。

 第23回日本アカデミー賞に出席した岡村隆史は、高倉に長年のファンであることを伝えた。この時、主演作「無問題」で話題賞を受賞し、「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」との受賞スピーチで会場から笑いが巻き起こる中、高倉は独りにこやかに立ち上がって拍手を送った。2010年、岡村が病気で半年にわたり療養した際にも電話や手紙で激励しており、岡村は高倉の遺作となった「あなたへ」で共演を果たしている。

(7) 役作り・姿勢

 余計なテクニックを排し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る。

 「俳優は肉体労働」というのが信条で筋力トレーニング・ジョギングを欠かさなかったが、2012年時点ではウォーキングやストレッチを日課としており、起床するとマウスピースを噛み、脳へ刺激を与えていた。酒は飲まず、煙草は1日に80本も吸うヘビースモーカーであったが、映画「八甲田山」が3年がかりの長期ロケとなったため、完成の願掛けに正月の成田山の初詣の際、禁煙して以来、30年以上絶ったという。都内に居る時には毎日、血糖値測定や健康チェックを行い、朝食ではミューズリーやグラノーラなどのシリアルにプレーンヨーグルトをかけたものを常食とし、毎日しっかり摂ることで体のリズムを整えた。体型を維持するため、大好きな甘い物も我慢し、夕食までほとんど食べない生活を続け、ウオーキングも欠かさず、何十年もウエストも体重も維持し続け、細心の注意を払ったということだ。

 常に感性に磨きをかけ、「感じやすい心」を保っておくために、読書や刀剣・美術品鑑賞、映画、音楽など、常に気に入ったものに触れる機会を作り、海外旅行へも出かけた。撮影に際して、台本のカバーや裏表紙には有名、無名に関係なく、気に入った「心を震わせる」フレーズや詩歌などを貼りつけたり、忍ばせて持ち歩いていた。「あなたへ」の撮影では、相田みつをの詩、会津八一の短歌、山下達郎の「希望という名の光」の歌詞カードなどと一緒に、雑誌に掲載されていたという東日本大震災の被災地での1コマを撮影した写真も一緒に貼りつけて持ち歩いていた。山本周五郎の著作のフレーズや、主人公の生き方について書かれた木村久邇典の「男としての人生 – 山本周五郎のヒーローたち」もお気に入りの1冊として持ち歩いている。長期間の撮影の中では、ベテランの高倉でも感情のコントロールが出来ない時があり、そうしたときは持っているこうした物にすがっているという。また台本だけでなく、自宅の洗面所などにもこうしたものが貼られており、気持ちを盛り上げている。この事について「俳優ってそれほど頼りないものなんですよ」と語っている。

 初めての時代劇「宮本武蔵 二刀流開眼」(1963年)で、佐々木小次郎を演じるにあたり、宮内省皇宮警察の道場・済寧館で、羽賀準一から居合を学んだ。

 「網走番外地」ではヒロインもラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の映画となって売り上げが見込めないと予算をカットされた。添え物映画でモノクロ作品にすると社長の大川博に言われ、意見すると「嫌なら主演を梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまう。仕方なくロケ地の北海道で撮影に入ったが、監督の石井輝男がなかなかやって来ない。スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井が窓の隙間から雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていた。高倉は「この映画をヒットさせるためなら…。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもするぞ」とスタッフに漏らし、「網走番外地」シリーズは計18作の大ヒットシリーズとなったのであった。

 初の松竹出演となった「幸福の黄色いハンカチ」の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせたという。

 1983年に「居酒屋兆治」の準備をしていた矢先、黒澤明から「鉄修理(くろがねしゅり)」役で「乱」への出演を打診されている。「でも僕が『乱』に出ちゃうと、『居酒屋兆治』がいつ撮影できるかわからなくなる。僕がとても悪くて、計算高い奴になると追い込まれて、僕は黒澤さんのところへ謝りに行きました」と述懐している。黒澤は当初から高倉を想定してこの役をつくり、自ら高倉宅へ足繁く4回通った。「困ったよ、高倉君。僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗康男君(『居酒屋兆治』の監督)のところへ謝りに行きます」と口説いたが、高倉は「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが、僕には出来ない。本当に申し訳ない」と丁重に断った。黒澤から「あなたは難しい」と言われたが、その後に偶然「乱」のロケ地を通る機会があり、「畜生、やっていればな……」と後悔の念があったと語っている。結局、この役は井川比佐志が演じている。

 東映を離れ、フリーに転じてから、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れ、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としている。それは、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、“深い喪失感”に関係しているという。特に「あなたへ」に主演する前には、自身最長となる6年間の空白期間が生じた。前回主演した日中合作の映画「単騎、千里を走る。」の後、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと「あなたへ」の出演を決めたことについて、「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ。」と、その心情を初めて漏らしている。

 高岩淡は「(高倉は)東映の俳優の中で、自分は芝居が下手と信じていた、岡田茂に『高倉は一本気だけど、それしかない』と指摘され、それが悔しく『芝居なんかどうでもいい、必死になってやれば、意志は通じるんだ』という信念は、人の何倍も強かった」と証言している。

(8) 交友

 東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は外国人の友人・知人が多い。千葉真一は高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に、千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を目の当たりにしている。

 かつて東映内には千葉真一、梅宮辰夫、山本麟一、山城新伍など、高倉を慕う人達で集まって遊ぶ「野郎会」というものがあった。名の由来は「野郎(=男)ばかり」なのと「何でもやろう」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の幹事が決めた遊びをしていた。高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が幹事の時には遊廓に行って、お大尽遊びの真似事をしたりしていた。明治大学の先輩で東映ニューフェイスでも1期上である山本も高倉と仲が良く、この集まりに参加していた。「網走番外地シリーズ」「昭和残侠伝シリーズ」で共演した潮健児は自伝「星を喰った男」の中で、「面倒見がよく、周囲に気を遣い、傍に誰か話し相手が居ないとしょげてしまう程の寂しがり屋」「大勢役者が揃って『何かやる』という時、その言いだしっぺは大抵、健さんだった」と回想している。

 長嶋茂雄とは若い時分から付き合っており、一緒に成田山新勝寺へ初詣に行っていたこともある。長嶋の長男・長嶋一茂の名付け親は、東日貿易社長・久保正雄とされており、一茂が1999年12月3日に箱根神社で結婚式を挙げた時、冠婚葬祭の類にはめったに現れない高倉が出席したので、結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。長嶋とは久保を通じて知り合い、高倉にとって久保は親代わりともいうべき人で、江利チエミの後見人でもあり、江利は久保を「パパ」と呼んでいたということである。久保はインドネシアの戦後補償を巡り、瀬島龍三とタッグを組み、デヴィ・スカルノを使って、池田勇人とスカルノを繋いだ政商だったといわれている。

 村田兆治の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある。仰木彬は高校の後輩、ビートたけしは大学の後輩で1985年の「夜叉」で共演以来、互いに「たけちゃん」「健さん」と呼び合う仲であった。

 田岡一雄を江利チエミとの結婚披露宴へ招待したり、江利と共に清川虹子の自宅で田岡や美空ひばり・小林旭夫妻とも親交した。酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり「受け取れ」と強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めてもらったこともあったという。田岡が1965(昭和40)年に心筋梗塞で危篤に陥り、面会謝絶だったが高倉は江利を伴い、見舞いに訪れた。田岡の自伝映画、1973年の「山口組三代目」、1974年の「三代目襲名」は、田岡が「健ちゃんに俺の役をやってもらえへんかな」と田岡が高倉を指名したものである。撮影現場を訪ねてきた田岡に激励されている。

 「週刊平凡」1966年10月13日号の高倉の取材記事では、高倉ほど友人の少ないスターはいない、スターで付き合いがあるのは尊敬する三國連太郎と萬屋錦之介、北大路欣也の三人ぐらいと書かれている。

 2005年8月12日午前9時43分、「現代任侠史」の石井輝男が死去。石井の遺志により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建立され、2006年8月5日、納骨の儀が執り行われた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである。

 2009年11月、同年8月に亡くなった大原麗子の墓参に訪れ掃除をし、30分以上語りかけていたことが2010年8月4日に報じられた。

 草彅剛へ自ら手紙を書いて以降、草彅とは文通や電話のやり取りをしており、二人で食事をしていたり、草彅を自宅へ招き入れるなどの親交があった。遺作「あなたへ」で共演もしている。同作に関する授賞式では、自身の代理出席を草彅に頼んだ。

 2012年10月2日午後3時17分、「あなたへ」で共演した大滝秀治が肺扁平上皮がんのため、87歳で死去した。訃報を受け、公式に「大滝さんの最後のお仕事の相手を務めさせていただき、感謝しております。本当に素晴らしい先輩でした。静かなお別れができました。」とのコメントを発表した。

 2013年6月5日、横浜市のロイヤルホールヨコハマで行われた勝新太郎の「17回忌を偲ぶ会」では渡哲也・藤村志保らとともに発起人に名を連ね、会場にも足を運んでいる。

 2014年8月26日午後9時33分に亡くなった米倉斉加年のお別れの会が同年10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発した。

 旧友の小林稔侍は中学生の頃から高倉健のファンであった。東映に入って以後大部屋時代からの恩人であり、何度も小遣いをもらったり、小林が家を建てた時や結婚する際に保証人になってもらったという。高倉に対する恩や思い入れは強く、長男に「恩を一生忘れないこととありがとうの思いを込めて」、高倉と同じ「健」と名付けたり、「健さんのためなら腎臓を一つ提供しても構わない」と思っているほどである。そういうこともあって「端役でなく、ちゃんとした役で健さんと共演し、恩返しがしたい」との思いがあり、1999年の映画「鉄道員(ぽっぽや)」でその願いが叶うこととなった。その「鉄道員」で、第23回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞した。「鉄道員」の中で高倉と小林が抱きしめ合うシーンがあり、これについてある映画評論家が講演会で「あれはホモじゃなきゃできない」と発言したのが元で、ある女性週刊誌に「高倉健と小林稔侍はホモ」と大見出しにされて掲載されたこともあった。また、高倉健が亡くなる3年前から体調が悪い事を高倉自身からあかされていたが、小林がそれを伏せていた事を「徹子の部屋」で語っている。

 山村聡とも映画で何度か共演しており、親密である。

(9) 趣味

 趣味は旅、乗馬、ライフル射撃、車、刀剣の収集など。コーヒーと夜更かしが好きで、若い頃はよく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。自身も「自分は遅刻魔だった(笑)」と告白している。

 大塚博堂を聞いて、「自分にない何かがある」と感銘を受け、「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」をはじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた藤公之介に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。しかし、その後間もなく大塚が急死したため、「夢のコラボ」は幻に終わった。大塚の曲では「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「旅でもしようか」「ふるさとでもないのに」を特に気に入っている。直接対面することは無かったが、大塚のメモリアルイベントなどでは、一ファンとして何度かメッセージを贈っていた。千葉真一と野際陽子の結婚10周年記念には「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」をBGMにして、自ら祝辞をカセットテープに録音してプレゼントしており、とても喜ばれている。

 キリン「生茶」のCMで共演した宇野薫によると、高倉は格闘技にかなり詳しく「休憩中に健さんから『UFCの試合をよく観ていますよ。応援しています』と話しかけられ驚きました」と語っている。

 世界で一番好きな場所はハワイ。このことについて沢木耕太郎に「ドスを片手に敵地に乗り込む高倉健とハワイの取り合わせは意外なようだが、それは何故か」と問われて、高倉は「人が温かい」ことと、東映時代に過酷なスケジュールをこなしている中で、たまの休みにハワイの海岸で寝て過ごす解放感がたまらなかった、と述懐している。

(10) 結婚(江利チエミ)

 1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)、1956年の映画「恐怖の空中殺人」での共演が縁で江利チエミと結婚した。3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ、その後子宝には恵まれなかった。江利の異父姉が様々なトラブルを起こし、結婚に悪影響を及ぼしたとされる。江利側からの申し入れで1971年9月3日に離婚した。離婚原因は江利の親族にまつわるトラブルからである。その後、高倉は女性との交際の噂はあったものの、再婚はしなかった。但し高倉プロモーション代表の小田貴月は高倉のパートナーとして、亡くなるまで17年の時を共にし、養女になって全財産を相続している。一方、離婚から11年後の1982年2月13日に、江利は脳卒中と吐瀉物誤嚥による窒息のため、45歳の若さで不慮の急死を遂げている。葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた。

 1962年の主演映画「三百六十五夜」は、岡田茂がなかなか芽の出ない高倉をスターにするため、江利・美空ひばり・雪村いづみの三人娘と鶴田浩二の共演で企画された作品だった。岡田は江利に「亭主の高倉主演で「三百六十五夜」を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」とオファーしたが、「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。高倉は岡田から「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて、勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけられ、奮起を促されたという。

(11) 敬愛している映画人や作品

 高倉は、「レイジング・ブル」のロバート・デ・ニーロを「あんな芝居はもう二度とできない。非常に大きな衝撃を受けた」と語っている。デニーロ以外ではヘンリー・フォンダやマーロン・ブランド、クリント・イーストウッド、ジャン・ギャバンを好きな俳優に挙げている。フォンダは特にジョン・フォードの監督作品が好きで、ブランドは「波止場」や著書「旅の途中で」によれば「ゴッドファーザー」も絶賛している。イーストウッドとは会ったことがあり、会話もしている。食事の芝居が絶品と言われているギャバンの作品を見て勉強したと語っている。京都のいきつけのカフェに「いつも迷惑を掛けているので」とギャバンの特大ポスターをプレゼントしており、そのポスターは今も店のカウンターに貼られている。

 「運動靴と赤い金魚」「初恋のきた道」「L.A.コンフィデンシャル」ではヒロインのキム・ベイシンガーの目の芝居、「モンタナの風に抱かれて」「プライベート・ライアン」を気に入っており、インタビューで「映画は残る!」として「『ローマの休日』とか『アラビアのロレンス』みたいな強烈な作品に、みんながもう一回しびれるときが来るんじゃないですかね。」と発言した。谷充代の著書『「高倉健」という生き方』によれば『モロッコ』『哀愁』『世界残酷物語』も評価している。高平哲郎のインタビューで「ワイルドバンチ」や「ゲッタウェイ」で知られるサム・ペキンパー作品のファンであり、子供のころから映画が好きで特に洋画を見ていた、高校時代に見たジョン・ウェインの思い出に、「ロッキー」は3回見た、「スラップ・ショット」が面白い、ニューマンやスティーブ・マックイーン、ヘンリー・フォンダは好きな役者と発言。「キラー・エリート」への出演オファーがあったという。マーロン・ブランド主演ベルナルド・ベルトルッチ監督によるイタリア映画の問題作「ラストタンゴ・イン・パリ」のような作品にでてもいいと発言している。山田宏一の高倉追悼記事によれば、「狼は天使の匂い」が大好きであり、ロバート・ライアンが演じた老ギャングのような役を演じてみたいと語っていた。高倉が主演した「冬の華」には高倉が好きなアラン・ドロン主演のフランスの犯罪映画の名作「サムライ」の影響があるという。

 中村努の前述の「冬の華」には「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の影響も見られるという。沢木耕太郎の発言によれば高倉はジョン・フォードの「長い灰色の線」やリチャード・ギア主演の「愛と青春の旅立ち」も好きで、NHKのインタビュー番組によれば笠智衆を尊敬しており、リドリー・スコットの「グラディエーター」が好きだという。「網走番外地」シリーズでは、共演した由利徹と高倉のコミカルなアドリブ演技がシリーズの見せ場の一つとなった。一部のマスコミからは、「高倉は“最も信頼を置く俳優”として由利を終生敬愛した」とも言われている。

(12) 高倉ファンの著名人や高倉を尊敬している役者たち

 黒澤明は自身の「映画ベスト100」的な企画で「遙かなる山の呼び声」と「あ・うん」の2本を入れている。

 三島由紀夫は、高倉や鶴田浩二主演の任侠映画を好み、特に「昭和残侠伝 死んで貰います」を高評価していた。三島事件当日も、事件現場となった市ヶ谷駐屯地へ向かう車内で他の「楯の会」メンバーと「唐獅子牡丹」を歌ったという。

 美輪明宏は「スポーツニッポン」の連載で高倉を尊敬しているという記事を書いた。

 鈴木敏夫は幼少のころから映画ファンであり、父と母の影響もあり邦画から洋画まで何でも見ていて、著書で高倉も好きな俳優にあげている。

 ジョン・ウーは、「映画秘宝」2004年6月号と7月号のインタビューで高倉を憧れの映画スターの一人に挙げている。また「男たちの挽歌」のユンファの衣装やキャラは「網走番外地」や「ならず者」の影響があり、「駅 STATION」はリメイクしたい作品だと語っている。

 文春ムック「高倉健 KenTakakura 1956-2014」によれば、鴨下信一は「初心者はまず『網走番外地』から初めよ」と発言している。鈴木敏夫は「日本侠客伝 昇り龍」を「仁侠映画の最高傑作」としている。また同書を書評した七つ森書館の編集者・上原昌弘は同評で「わたしにとって高倉健は『幸福の黄色いハンカチ』のヒト。号泣しましたねえ。」と発言している。

 野沢尚は1999年にキネマ旬報が行ったアンケートで「駅 STATION」を選んでいる。同企画で石井克人は「幸福の黄色いハンカチ」をベスト作品に選んでいる。

 春日太一のインタビュー本で仲代達矢は、かつて「雲の上の存在」といわれ神秘性を持っていた映画俳優たちだが、インターネットなどの影響で神秘性がなくなり「役者」という重い響きが似合う俳優がいなくなった現在においても、神秘性を持つ数少ない役者として高倉の名を挙げている。

 前田敦子は映画に関する自身の著書で、「幸福の黄色いハンカチ」を好きな映画に挙げている 。

 仕事への真摯な姿勢に北大路欣也も影響を受けたと述べている。

(13) その他

 映画関係者や旧友から、本名を「おだ ごういち」と呼ばれることが多く、高倉もそう呼ばれることを否定しなかったが、親族が呼ぶ本名は「おだ たけいち」であり、高倉の姪もそう証言している。先祖の一人に北条篤時(金沢文庫の創設者・実時の子)がいる。篤時の子孫は九州で北条の名を捨て「小松屋」の屋号で両替商を営み、後に福岡藩主黒田家から名字帯刀を許されてて小田姓を名乗るようになった。江戸時代末期に「東路日記」を記した、筑前国の庄屋内儀である江戸後期の歌人・小田宅子(おだ いえこ)も先祖にあたる。また高倉は生前、33歳年下の元女優、小田貴月を養女にしており、17年近く同棲していた事が死後に判明した。2023年にNHKにて放送された番組にて「最後の17年をともに過ごした『パートナー』」として紹介された。

 バラエティ番組やトーク番組への出演は「スター千一夜」「ズバリ!当てましょう」(フジテレビ)、「土曜大好き!830」(関西テレビ)、「徹子の部屋」(テレビ朝日)や、親交のある田中邦衛・北大路欣也と3人で出演した1980年の「すばらしき仲間」(中部日本放送)程度であったが、平成になってからは、新作映画のプロモーションを兼ねて「SMAP×SMAP」(1997年9月15日、関西テレビ・フジテレビ)や、2001年5月17日には「クローズアップ現代」「第1424回 高倉健 素顔のメッセージ」(NHK)で国谷裕子からのインタビューを受けている。ちなみに「SMAP×SMAP」(BISTRO SMAP)にゲスト出演したこの回は、2005年12月26日に放送された同番組の特番「SMAP×SMAP 歴史的瞬間全部見せます!! 史上最強の4時間半SP!!」で視聴者から寄せられた「BISTRO SMAP名場面リクエスト」第1位に輝いている。

 草彅剛にサプライズで出演したいという高倉自らの希望が実現し、2012年8月18日に放送された生放送のテレビ番組に生で出演した。同番組の放送内容は主演映画「あなたへ」の公開に際しての高倉健特集で、当映画に出演し高倉と共演した草彅が生出演することは告知され、前述の理由から高倉が生出演することは草彅のみならず視聴者にも事前に知らされなかった。同番組には、草彅が撮影外のことで、高倉に呼ばれてホテルで二人で朝食をとったときのエピソードを話している最中に登場した。高倉にとって15年ぶりのテレビ番組のゲスト出演で、高倉が生放送の番組に出演するのは初、かつ、生涯で一度きりのこととなった。翌月8日と「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル」と10日に放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健インタビュースペシャル」(NHK)では「あなたへ」の撮影現場への長期密着取材に応じ、俳優生活56年にして初めて自身のプライベートに関することや本音、俳優としての信条などの一部を明らかにしている。

 「オレたちひょうきん族」に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがあるが、それを聞いた高田文夫は「『タケちゃんマン』に弟子の“ケンちゃんマン”を出そう」と提案している。

 1972年、東映の先輩である萬屋錦之介(年は高倉の方が1歳上)の勧めで神奈川県の鎌倉霊園に生前墓を建立している。この墓所内には上述にある、「この世に生を受けなかった我が子」のために、水子地蔵も建てられている。

 TBSラジオの人気番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」のファンであり、同番組からゲスト出演のオファーがあったが、映画撮影のため出演は叶わなかった。後日、同番組宛に、その旨を伝える手紙を送っている。

 高倉と親しかった横尾忠則によると、高倉は1970(昭和45)年11月25日に起こった三島事件に触発され、三島由紀夫の映画を製作する予定だったという。具体的プランも煮詰まり、ロスアンゼルスへ何度も渡航していた高倉について横尾は、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんの霊が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と述懐している。ところが土壇場で三島の妻である平岡瑤子の了解が得られず、映画製作を断念せざるを得なくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、多磨霊園に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「カメラを持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという。

 羽田空港で高倉がジャイアント馬場に声をかけた際には、馬場は高倉健が誰かわからず「俳優? 水戸黄門には出てねえだろ」と付き人に答え軽くあしらったといったエピソードがある。

 ドキュメンタリー映画「健さん」での山下義明 (東映の演技事務担当)の証言によると、高倉は朝が弱く、東映時代は毎日20分ほど必ず遅刻して現れた。また、西村泰治(元・付き人)の証言によると、映画の中で多くの人を殺した罪への対処として、長寿院(滋賀県大津市)の滝に参っていたという。

おわりに

 高倉健の生き方をさまざまな証言を通して聞いていると、実際の高倉健と自分の中のイメージとしてある高倉健との違いに気づかされる。

 意外な点を上げると、まず裕福な家の生まれだという。いわゆる「お坊ちゃん」とはかけ離れたイメージだが。少年期にボクシングに熱中したのはイメージに近いとして、「英語が堪能」だったらしいというのは意外だ。酒も飲まなかったという。そして何よりも驚いたのは、「本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かった」という点だ。いわゆる「健さんらしさ」を演じている最中に、本人の心の中は、嫌気が差していたのである。さらには中国にもファンが多いのはまだ理解出来なくもないが、「『オレたちひょうきん族』に出演したかった」とか「大沢悠里のゆうゆうワイド」のファンであったなどというのはかなり意外である。

  もちろんストイックな演技に対する姿勢や、礼儀正しさ、なかなかブレイクしなかったことや三島由紀夫の映画作りのように自分の思い通り行かなかった折にも墓参りを提案するなどといったところには、実に健さんらしさが見て取れるが、それらを総合すると、自分らしさを大切にしてきた生き方が浮き彫りとなってくるような気がする。虚勢を張ることなく自然体で過ごしたのではないだろうか。

 もちろん、見栄も欲もなかったはずはない。むしろ見栄を一切張らずに頑なに拒否するより、無理しない程度に見栄さえ張ってみるというところだったのではないだろうか。無理をせずに自分らしさを貫いているように見える。そのことと、食事をうまく見せるために、二日前から何も口にせずに演技に臨むなどというのは、基本1テイクしか撮らないということと相まって、映画人としてのすごみさえ感じる。壮絶なことを当たり前のように成し遂げるといえばいいのだろうか。

 さて、「この世の終わりが迫ったときに、最後にどうしたいか」などといったことが聞かれることがある。あるいは自分が不治の病に冒されて、「命が限られたときに、残りの期間に何をするか」といったことを考えることもある。言わば究極の選択だ。そんな時、まずはパニックになることが多いそうだ。今までできなかった何かをすぐに初めて終わらせようとするのだ。あるいは、理性をかなぐり捨てて犯罪を犯すのも選択肢の一つになるかもしれない。しかし、そんなことができるはずがないし、たとえやり遂げても空しいだけだということはすぐに思い知らされる。当然であろう。急に力が倍増するはずもないのだ。そもそも普通に生きていても、いずれは死ぬのである。早いか遅いかの違いに過ぎない。健常な普段は、いつ終末を迎えるのかを気にしていないだけなのである。そう気がついたとき、パニック状態は治まり、自分を取り戻すそうだ。結局は今まで通りに、何ら変わったところもなく残された時間を生き続けることになるのだそうだ。そうありたいと思う。