1.右傾化の現在
日本の国内においても、諸外国においても、右傾化の流れが非常に強まっていることが懸念されるようになって久しい。世界各国において、極右政党が大躍進をとげ、日本国内においても、高市政権が国会議員選出選挙で体躍進を遂げている。大人気なのだ。参政党などという、訳のわからない政党の大躍進も見られた。危険な一国独善主義、見覚えのある周囲の光景の中をひた走っている、もはやこの流れを止めることができないかのようにさえ見える。
2026年4月、高市内閣は、防衛装備移転3原則の運用方針を改定した。この結果、防衛装備品の輸出は「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の非戦闘目的に限定されていた「五類型」が撤廃され、殺傷能力のある武器の輸出が解禁されたのである。つまり、戦闘当事国に、影ながら加担する結果となったのである。
もちろん、露骨な参戦を当初から推奨する形では、いくら何でも通りにくい。そのため、殺傷能力のある武器(戦闘機、護衛艦、ミサイル等)が輸出可能になったのではあるが、移転はどの国に対しても可能というわけではないという条件付きである。防衛装備・技術移転を結んだ相手国に限定され、国家安全保障会議が審査を行った上で、国際紛争の助長に繋がらないように管理するとされている。
誰でも彼でも金を出せば殺傷兵器を売り渡すというわけではないというのである。かつて自民党が「武器を売り渡すことで金儲けをするような国には成り下がらない」と答弁したことが彷彿とされる。しかし、「相手国を選ぶ」といえば、何だか正義を貫くかのような印象を与えないではないが、米中対立が益々激しくなっている今日、味方と成り得る陣営にのみ殺傷能力を持つ兵器を輸出するというのであれば、事実上の敵国視をイとしていることは、誰の目にも明らかである。殺傷能力のある武器を持って対峙すると、一歩踏み込んだことと何ら変わらないだろう。そして、「正義」が当てにならないのである。かの侵略戦争である「大東亜戦争」もまた、「正義」の名の下に繰り広げられたのである。言い換えれば、「正義」の名の下に、再び大東亜戦争は起こせると云う事である。いつか見た光景が見えてくるのは、こんなところからだろう。
それでも、殺傷能力のある武器を輸出しても、「国際紛争の助長に繋がらないように管理する」のだという。殺傷能力のある武器を投入しても、紛争の助長には繋がらないのだろうか。もし繋がらないとするならば、圧倒的な力で相手をねじ伏せることができた時だけではないのだろうか。10年掛けて100万人殺すのではなく、ほんの数ヶ月で100万人殺害することができれば、紛争は長期化しないということなのではないだろうか。ちょうど、原子爆弾の投下が、、戦争終結に寄与したとアメリカ人が信じていることと対応している。
これが高市首相の言う、「憲法改正の時期が来た」なのである。
2.右傾化の醸造
自民党は結党以来、自主憲法の制定を党是としてきた。まさに「憲法改正の時を待ち続けてきた」のである。
常に憲法を改正しよう遠い得たくらみは信仰し続けてきたが、表面化する度に、うまくいかずにきた。それが大きく動いたのは、安倍政権時代だろう。その中でも最も象徴的な施策は、いわゆる「集団的自衛権」の行使を可能にする件である。「集団的自演件」というのは、「密接な関係にある外国への武力攻撃を、自国への攻撃と見なして実力で阻止する権利」だということだ。自国が攻撃された時に反撃するのは、憲法でも認められ、「個別的自演件」であり、「専守防衛」というかたちで、従来武力行使の歯止めとなってきた。これに対して、長年にわたって「行使できない」としてきた憲法解釈を、2014年7月の閣議決定で、「行使可能」に変更したのである。その時の安倍首相による説明と、隣同士で併走している他国の軍艦に対して、どこかの国による攻撃が仕掛けられたとする。その時、わが国の艦船は、すぐ隣にいて、友好国の軍艦が攻撃を受けても、何ら手出しをすることができずに、傍観するしかない。こんな理不尽なことがあるか、というのだ。隣の友好国の選管が攻撃を受けた場合には、むしろ攻撃を受けた国に変わって、わが国が攻撃をして、友好国を守るというのである。
もちろん、この「集団的自衛権」の行使に当たっては、歯止めが掛けられている。それが次の3つである。
(1) 日本の存立が脅かされ、国民の生命・自由が根底から覆される明白な危険がある。
(2) 日本を防衛するために他に適切な手段がない。
(3) 必要最小限度の実力行使に留まる。
というのである。しかし、「国民の生命・自由が根底から覆される明白な危険」が合ったとは、いつ誰が、どんな責任で判断するのであろうか。それどころか、このような「危険」は、今現在も、それこそいつでもどこでもあるのではないだろうか。他国が攻撃されているにもかかわらず、「日本を防衛するために他に適切な手段がない」などということがあり得るだろうか。むしろ、他国の攻撃をカバーするために自ら進んで攻撃を開始するというのは、自分が売られたわけでもない喧嘩を横取りするということに他ならないのではなかろうか。さらに、「必要最小限度の実力行使」とはどれほどのものであろうか。相手が反撃してくる以上は、最低限の行使は完了していないというべきではないだろうか。だとすれば、相手を再起不能にするまで、攻撃の手は弛められないとみるべきなのではないだろうか。
そもそもどんな場合でもかまわない。喧嘩状態を想起してみよう。隣を歩く友人が喧嘩をふっかけられた時に、割って入って友人を守るために、自ら実力を行使したとしたらどうなるであろうか。「関係ない奴がなんなんだ」として、攻撃の刃はこちらに向かってくるに違いない。決して仲裁などとはならず、「関係ないはずのものからの攻撃」として、相手は烈火の如く怒りを持って反撃してくるに違いない。喧嘩のいろはも知らないお坊ちゃん政治家の寝言に過ぎないのである。
しかし、こうして喧嘩の心構えを作り、やる気満々となった果てに設けられたのが、殺傷力のある武器の輸出なのである。「正義」「仁義」の名の下に、いつか来た道を再び歩もうとしている以外の何物でもない。
3.右傾化社会の正体
それにもかかわらず高市内閣の支持率は、信じられないほど高い。これはいったいどうなっているのだろうか。結論から言うと、日本の右傾化は、国民の誰もが日本社会の支配者、管理者になってしまったかのような誤解にとらわれた結果だと言っていいだろう。
たとえば京都で小学生が継父に殺害されるという事件が起こった。本来なら一般国民は、警察の捜査状況を監視し、行き過ぎや思い込みが内科を監視すべき立場だ。ところがマスコミも素人も、こぞって名探偵気取りなのだ。「どうも俺は初めから父親が怪しいと思っていた」といった類いの名探偵ぶりの発揮だ。
そんなことをいっても、一般人には何の調査権もない。事件現場には棋聖戦が張られ、家族には直接話を聞くことなど全く出来ない。つまり調べることなど全く出来ないのだ。それがまるで正当な調査を果たしたかのような満身ぶりを発揮して、名探偵気取りなのだ。マスコミにしてからが、何の調査権もなく、規制線の張られた現場には近づくことさえ出来ず、ヘリコプターで上空から遠巻きにのぞき込むのが関の山だ。詰まるところ「捜査関係者の取材によると・・・」などと格好をつけながら、その実警察発表を鵜呑みにしているというだけの話に過ぎない。尻馬に乗るばかりでは、えん罪などなくなりはしない。むしろえん罪を広める役割を果たしている。と言うのも、本来捜査権のない一般人は、捜査権を持つ物が正しい操作をしているかどうかを、徹底的に監視しなくてはならないはずだ。
つまり、やるべきことは犯人捜しや警察発表をいかに早く、より沢山の情報を聞き出すことに力を尽くすこととは正反対のことであるべきだということだ。それは、「捜査権を持つ者が正当な捜査を尽くしているのかどうか」「犯人が自白したと発表されたが、なぜ自白などしたのか」といった具合に、徹底的に捜査状況に不当な者がないかどうかを検証することが第一でなくてはならない。そこでは基本的に捜査機関が調べたことや方法、また発表された捜査結果について、とことん疑いを持つことになる。それは一見批判のための批判に見えるかもしれない。しかし捜査権を持って、時には人権を踏みにじって真相究明を図ろうとする以上、捜査に対しては徹底的に検証し、批判しなくてはならないはずだ。捜査権を持つ側は、それらの批判に十分に答える義務があり、正面切って答えられるまで厳密な調査ゑ御する義務がある。それが捜査権もない野次馬捜査官など不要だという意味だ。
ところが、期を一にしているかどうか確かめてはいないが、丁度野党が「批判のための批判」をすることが悪いことであるかのようにいわれる時代が到来した。「批判のための批判」は無責任だというのである。そんなことはないはずである。政権を持つ政府与党は、どのような批判にも答えきるだけの政策を打ち出さなくてはならない責任を持っているはずだ。
「憲法は古くなった」「アメリカに軍備がおんぶにだっこでは立ちゆかない」「同盟国の紛争を黙って見過ごすことは仁義にも取る」「殺傷能力のある武器を生産する力を培うためには実際に使われてその優秀さを誇示する必要がある」などといったことに対して、一定程度の理解を示すことが責任ある態度であろか。本当に責任ある態度というのは、えせ支配者のまねごとをすることではなく、徹底的な検証者として立ち居振る舞いを貫くことでなくてはならないはずだ。
捜査権など全くないにも拘わらず名探偵にでもなったような気になること、決定権もなければ為政者でもないのに、まるで責任者ででもあるかのように振る舞う無能力者、それが今日の日本を支えている右傾化の正体である。
4.フィクションの世界にまで及ぶ右傾化の現状
現実社会での右傾化は、夢を語るフィクションの世界までむしばんでしまっている。最近のドラマにはびこっているのが、想像力さえも枯渇させられ、物わかりの良い人を装って、自称権力者面をすることが正当な生き方であるかのように描かれるに至っているのである。
たかがドラマである。寝言の類いに過ぎないと思われるかも知れない。しかし、夢にまで想像力の枯渇が浸透してしまっているとしたら、これは再生不可能だということになりはしないだろうか。これこそが右傾化の極みではないかと思っている。そんな例をいくつか拾ってみる。
(1) 「相棒」というドラマである。
刑事ドラマにはいくつかの種類がある。活劇のように主人公が破天荒な活躍を遂げる正義感に富んだドラマである。一方で地味な老練の刑事が、その経験を生かして聊か無理がありそうな感を頼りに、馬鹿にされながらも事件を解決に導くという物語である。これはあるべき警察組織の姿を描き、警察組織に対する、柔らかい批判を籠めたドラマと云うことになる。それに対して「相棒」というドラマは、出世路線は外れているものの縦社会の警察組織で地位が高く、官房長官などとも懇意にしている、いわば体制側直結の刑事ドラマと云う事になる。確かに出世路線を外れているように見えながらも、裏から警察組織を補完しているドラマと言える。
かつて無実の人間を有罪にしてしまった検事が、祭神の門が開かれることを邪魔しなかったという物語である。検事と雖も間違いがないとは言えないだろう。その間違いを正したというなら、それなりに評価できる話だ。しかしそうではないのである。
かつて間違いを犯した検事は、今や検察トップの地位を占める検事総長となっている。そして、無実の罪で投獄された「犯人」は、無実を訴えて獄中で自殺してしまった。いつからなのかは明確にされていないが、かなり早い時期から、その検事正にも自分が投獄した「犯人」が無実であったことには気づいていたようである。ところが検察組織が、検察の名誉にかけて新しい証拠の採用を妨害し、祭神の道を閉ざし続けたというのである。
それに対して、余命僅かな病に冒された検事総長は、「犯人死亡」の後であるにもかかわらず、閉ざされ続けていた再審請求の扉を、無理に閉めることをしなかったというのである。このことが検事総長の人格者ぶりを示しているというのだ。亡くなった検事総長の死後、再診の扉が開くことに抵抗しなかった検事総長の人柄を尊敬すべきものとして描いているのである。
こんなばかげた話があるだろうか。検事総長は、いわば無実の人を殺した張本人であり、長きにわたって再審請求を握りつぶしてきた張本人である。それのどこが人格者だというのであろうか。
たとえ真実は間違っていたとしても、誤謬を一切認めない独善的な組織として権威を守ってきた検察庁を率いる人物は、自分の非を認めるだけで、人格者などとされるのだろうか。この検事総長は人でなしとして徹底的に糾弾されるべき人物なのではないだろうか。そうでないとしたら、これこそが「右傾化、ここに極まれり」というべきではないだろうか。
(2) 「元科捜研の主婦」
現在科捜研の長を務めている人物が、かつて科学的検証データを改ざんし、それによって罪となった人の死後も、その秘密を守り通している。その改ざんを立証すべく、さまざまに取り組むのだが、ことごとく初潮に邪魔されて、なかなか真実を暴くことができない。散々苦労を重ねた結果、やっと正しい科学的なデータを復元することができ、捏造を暴き、無実の罪に陥れられた人物の復権を果たすのである。
さて、こうしたストーリーであれば、普通に考えて、科捜研の初潮が、極悪非道の人殺しとして断罪されてしかるべきではないかと思う。ところが物語では、「科学こそが最終的には真実を暴き出す、正義の使者」と奉られるのである。
そんなバカな話があるだろうか。科学が真実を暴き出したのではなく、科学が無実の人間を陥れる道具として利用され、それに抗う力も持たなかった、いわば科学の欠陥、弱さをこそ強調されてしかるべきではないのだろうか。科学は意志を持たず、使う人間の奴隷となって、全容もできれば悪用もできるもの、せめてその程度の科学に対する批判は視野に入れないわけにはいかないはずである。科学に対する手放しの賛美はいったいいつの時代の話なのだろうか。これこそが右傾化の極みではないのだろうか。
(3) 「対決」
大学の医学部で、長年にわたって女子の受験生の得点を間引きし、男子を優先的に合格させてきたという、現実にあった問題をテーマとして扱った物語である。
ある女性記者が、有力者の視程の裏口入学という不正を追及しているうちに、別件であるより深刻な差別問題を聞き出すことになる。特定の有力者に限ったことではなく、男女差別が常識としてはびこっていたのだ。医学部の入試において、女子学生の特典を、一律に引いて低く評価することが従来から行われてきたというのだ。そうするにもそれなりの理由があった。女子学生は不足する外科を嫌がり、研修医を経て一人前になりつつあるところで、結婚や出産で医者を辞めていくことが多いという。結果的に医者が育たないのであれば、将来的にも医者を務める可能性の高い男子に医師の道を歩む機会を広げるのが相当ではないのか、というのだ。
それを告発しようとする女性記者に対して、同じ汽車からも、医学部の教授を初めとする重鎮達からも圧力がかかる。その結果、女性記者自身が、男女の平等を訴えることが医者不足を生み出す原因に成り得るのではないかと、告発を躊躇してしまうのである。
なお理事の中に女性理事がおり、努力の人で、入試の男女差を容認する以外には尊敬すべき人として描かれている。彼女自身が躍起となって女性の入学時の不利な扱いの告発を躍起になって止めようとする。その彼女に対して、告発を躊躇している女性記者が、極めて同情的なのである。つまり、まだまだ男女差別が激しい実社会において、その改善に力を尽くしている十分に女性理事は、十分に尊敬に値する存在である。しかし、何もかもが全て正しいように解決を図ることはできないのが現実である。そんな中で頑張っている女性理事に、医学部を受験する女学生の信じられないような差別を黙認してきたことを告発すべ木ではないのではないかという迷いが色濃く描かれているのである。折角の成果を、事実であるとはいえ、台無しにしてしまう真実の告白は控えるべきではないかというのである。
こんなばかげた話があるだろうか。慈善事業に熱心であったのだから、強姦や暴力行為などには目をつぶれというのとどこが違うというのだろうか。こんなことが「迷い」として堂々と描かれるような状態こそが右傾化以外の何者でもないだろう。何の力も持たない庶民が、いっぱしに支配者気取りで為政者に思いを馳せるなどということが、そもそも思い上がり以外の何者でもない。せめて批判者として、不正に対して真っ向から立ち向かうぐらいの気概がなくてはならないはずだ。もちろん、そうした権力を持たない庶民の正義が実際には通用せずに、誰もが苦しい思いをしてきたことは、歴史が証明している。批判精神を堅持し、強烈にそれを発揮したからといって、それで世の中の改革に直結する訳ではないことはわかりきっている。しかし、だからといって批判の手を弛め、思い通りの結論に至らなかった時に、批判者自身が傷つくことを怖れていたのでは、戦う前から腰が退けている臆病者に過ぎないということだ。それは決してバランスの取れた理解者になったなどということではないのである。批判ばかりの野党を無責任とすることの正体は、日和見そのものなのだ。自分自身が責任者であり、権力者でなければ、バランスなど考えても実現はできないであろうし、バランスや中庸を旨とするものは権力者の座から簡単に引きずり下ろされてしまうのだ。権力を持たないものは、事実に対して全身全霊で批判者に徹するのが正しいあり方なのである。
こんな具合に、フィクションの世界に対しても右傾化の波は押し寄せてきて、想像力を枯渇させてしまっている。想像の世界でさえまっとうな世界の実現、正義の実現ができなくなってしまっているのが右傾化した日本の現状なのである。
